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斉藤貴男著 「民意のつくられかた」

 岩波書店 (2011年7月)

国策を遂行するための、民意偽装・調達・操作のテクニックー原子力安全神話の結末

この半世紀、原子力発電をめぐる世論は移り変わってきた。原爆の洗礼を2回も受けたにも拘らず、無定見な「日本人」は「夢のエネルギー」として導入された原子力発電には、無抵抗どころか歓迎の意向さえ示したという。原爆と原発は違うわけでもないのに、奇妙にこの2つの技術を違うものとして「日本人」は扱った。1970年代の石油ショック後には脱石油戦略=原発という図式が日本を支配し、原発推進にアクセルがかかった。しかしスリーマイルズ島やチェルノブイリの大事故では失速したが、1997年京都議定書以来地球温暖化の隠された切り札として、原発は盛り返した。そして今ではこの地震列島日本の上に、米国、フランスに次ぐ世界第三位の54基の原発が存在している。2011年3月11日までは、日本の「民意」は「クリーンで安全な原子力」を信じているようであった。「原子力ルネッサンス」、「原子立国」、「世界一稼働率の高い安全な原発」という景気のいい言葉が横行していた。そして3月11日に「原子力安全神話」は無残に粉砕された。菅首相は「原子力に依存しないエネルギー政策への転換」を呼びかけている。180度の転換が行なわれた日本の世論とは、そもそもリアリティがあったのか、偽装の作り物に過ぎなかったのかという反省がなされなければいけない。本書はそういう意味合いで、2009年ー2010年に岩波書店の雑誌「世界」に掲載された8つの論文をかき集めて急遽刊行されたと理解する。著者は紹介するまでもないジャーナリストである。斎藤 貴男(1958年生まれ)は東京都立北園高等学校、早稲田大学商学部卒業、英国・バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。「日本工業新聞」、「プレジデント」編集部、「週刊文春」の記者を経てフリーとなった。主に時事、社会、経済、教育問題を取り上げる。格差社会や政府による情報統制などへの激しい批判で知られている。主な著書には、「カルト資本主義――オカルトが支配する日本の企業社会」(1997年、文藝春秋) 、「機会不平等」(2000年、文藝春秋)、「サラリーマン税制に異議あり!」(2001年、NTT出版)、「小泉改革と監視社会」(2002年、岩波書店) 、「空疎な小皇帝――石原慎太郎」という問題」(2003年、岩波書店)、「安心のファシズム――支配されたがる人びと」(2004年、岩波新書)、「ルポ改憲潮流」(2006年、岩波新書) 、「住基ネットの〈真実〉を暴く――管理・監視社会に抗して」(2006年、岩波ブックレット) 、「強いられる死 自殺者三万人超の実相」(2009年、角川学芸出版) など面白い話題が一杯の著作活動を展開されている。

本書「民意のつくられかた」は、誰かが目論んで誰かに筋書きを書かせ、優秀なプロパガンダに実行させた世論誘導策のことである。しかし結論からいうと本書は「誰か」に対する追及が未完で終っている。恐らく権力中枢のいわゆる奥の院の事であろう。権力は明治から戦前にいたる天皇制国家なら、反対勢力にはむき出しの警察権力で圧殺することをと常としたので、権力の実態は分りやすかった。しかし戦後の「民主社会」ではむき出しの権力は使われない。いまの民主党政権の首相や閣僚のあわれな姿を見ていると、政治家=権力者とはいえない。では本当の権力とは検察や経産省・財務省の官僚であろうか。しかし東大を出ているだけの共通項では使い走りの丁稚とそう変わりは無い。この容易に姿を現さない権力の奥の院の虎の尾を踏む事を恐れたのか、著者は「権力陰謀説」には流れずに抑制の効いた展開をし、さすがジャーナリストといえるインタビューの手法で読者を面白く誘導している。ただし、本書のメインテーマを民意の操作とか、世論形成、マスメディア論、PR、コミュニケーション論、社会心理学などといったアカデミックな捉え方だと、技術的な話となる。そういったテクニックを駆使して何かを目論む権力がいるということが本書のメインテーマであるはずだ。むき出しの暴力機構を使わないで、それと分らず反対勢力を無力にして唯々諾々と従わせるやり方は、いかにもアメリカ的ではないか。アメリカの業界が良くやるロビー活動という議員対策もその直接的表現であろうか。政府のやる国策のプロパガンダには圧倒的に有利な面がある。それは資金が税金から出ているという点である。予算化された資金をふんだんに使って政策を広報する。新聞全面広告も使う。そんな相手に抵抗し反対する方は次第に少数派となる。新聞に書いてある事は正しい事実だと誤解している人々が多いので、次第に彼らの常識に刷り込まれてゆくのである。本書はそんな権力の宣伝政策に屈しないで、「原子力神話」の虚構を暴くということが目的である。それなのに8つのテーマをバラバラに追いかけても追求が散漫になるだけで、読者は面白さに走ってメインテーマを忘れてしまうのではないか。私はやはりこの「誰か」を追い詰めてほしかった。本書の内容からして、中心となるのは1) 作られた原子力神話、2) 国策PRと京都議定書ではないかと思うので、そこを詳しく述べて3)-7)は簡単にしておこう。

1) 作られた原子力神話

こんな事件を覚えている人も少なくなっていることだろう。2006年10月福島県知事佐藤栄佐久氏がダム工事を巡る贈収賄事件で逮捕され起訴された。ことは2000年の木戸ダム工事の入札で前田建設が受注されるよう天の声を発し、見返りに1億7300万円相当の土地収益を上げたという疑いである。前田建設の下請けである水谷建設に知事の弟の衣料会社が有する土地を売り、売却金と購入金の差額が贈収賄にあたるという。ところが2008年8月の東京地裁判決や2009年10月の東京高裁判決では、佐藤氏は実質利益を受けていないこと、収賄にあたる土地収益金の試算法が杜撰で専門家のあいだでは「実質無罪」ではないかといわれた。佐藤氏は2009年「知事抹殺ーつくられた福島県汚職事件」(平凡社)を著わし、この事件が国策捜査にあたるとして「私が闘ってきた霞ヶ関の官僚の行動原理は基本的には自己保身で、自らの責任では行動しない。それに対して特捜検察は行動が最初から自己目的化している。最初の見込みは外れてもストーリーをごり押し、無理やり虚偽の自白を取り、人間を押し潰してゆく。メデイァも人間を葬り去る意味で共犯である。」と語る。同じようなことは佐藤優著「国家の罠」(新潮社 2005年)に外務省が仕組んだ鈴木宗男衆議院議員のロシアへのディーゼル発電機汚職事件のことがのべられている。では知事佐藤氏はなぜ国家の怒りを買ったのか。それはひとつは道州制反対論、大型ショッピングモール出店規制、そして原子力発電に対する異議申し立てであっという。本書では国策としての原子力発電所政策を取り上げる。

2004年12月原子力委員会の「新しい原子力政策大綱の策定会議」に佐藤知事は出席した。そして「この原子力委員会が策定した長期計画は閣議に報告するだけで、国会はこれを審議しない。したがって国家百年の計であるから、慎重に審議したい」として、高速増殖炉がもんじゅで事故を起こし頓挫し、次善の技術として一般の軽水炉でMOX(プルトニウムとウランの混合燃料)を燃やすプルサーマル方式の実施が急がれていた。この方式にも問題が山積みしており、核燃料サイクルの是非が議論されなければならなかった。にもかかわらず委員会は数回の会議を開いただけで、問題なしの結論としたのである。そして各種の審議会には電力会社役員とか原子力村を代表する委員が任命されており、最初から「ゴー」しか出さない委員会構成であった。佐藤氏が噛み付いたのは、美浜原発事故を起こした電力会社がどうして賛成意見を述べるのか理解に苦しむとし、規制を審議する原子力安全・保安院を推進部署の経産省から独立させ、中立的第3者を入れた政策検討会にしなければいけないと結んだ。もちろん経産省側も自分の意のままになるタレント委員を入れてはいるが、結論はイエスマンである。佐藤知事はもとは保守系自民党の代議士であったが、1988年に福島県知事に転じた。2000年2月プルサーマルを実施する事前了解にも踏み切った経緯がある。福島第2原発事故にもかかわらず、地元財政のために原発増設の要望を議決せざるを得ないという「麻薬中毒患者症候群」である事も自覚していた。その彼が核燃料サイクルの慎重論者に変わった。1999年のMOXデータ改ざん事件、茨城県東海村でのJOC臨界事故を見て、2000年1月佐藤知事はプルサーマル実施の延期を申し入れた。原子力行政側にはもはや佐藤知事は障害物となって、特捜検事が佐藤氏の弟に言った「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」ということになった。佐藤知事に辞職から3年経った2009年8月に、プルサーマル実施を話し合う「エネルギー政策検討会」が行なわれ、新福島県知事佐藤平知事は実施に同意した。そしてプルサーマルは翌2010年福島第1原発3号炉で営業運転を開始した。この炉は東日本大震災で冷却不能となって3月14日に水素爆発を起こし、プルトニウムが大気に撒き散らされた。

原発使用済み核燃料から、プルトニウムとウランをリサイクルしたとしても、液状の核廃棄物が残され、きわめて寿命の長い(何十万年)「高レベル放射性廃棄物」(死の灰)の安定保管が最大の問題として残る。日本ではガラス状に固め、キャニスターと呼ばれるステンレス容器(40Φ×1.3mH)にいれ、30−40年ほど貯蔵して冷却し、オーバーバックという炭素鋼容器に入れ地下300m以深に埋設することが「特定放射性廃棄物の最終処分法」に定められている。これを「地層処分」といい、一番容易だとされているのである。世界で唯一建設中の最終処分場はフィンランドの「オルキルオト」のみで2020年から稼動といわれる。日本では最終処分地候補自治体には交付金の優遇措置で酬いることとし、「原子力発電環境整備機構」(NUMO)が2002年より公募を始めた。2007年高知県東洋町が応募を表明したが、町長リコールで新町長は撤回を表明し、いままで応募してきた自治体は無い。このNUMOが2009年10月より「電気の廃棄物」問題を考える大々的なキャンぺーンを始めた。NUMOの広報活動費は2000年より2011年度まで合計310億円という凄まじさで、2008年度よりは毎年40億円以上の広報費を使っている。この金の出所は最終的には税金である。動員されたタレント・知識人も数多い。読売新聞とテレビの協力も大きなバックアップとなった。原発や核燃料リサイクルとマスメディア・ジャーナリストの関係も手が込んでいる。公平な議論を装ったイベントの宣伝費をNUMOが負担している。こうして市民の意識を変え受け入れをスムーズにしたい一念である。2009年東京ビッグサイトで「エコプロダクト2009」が開催された。なんとそこに日本電源開発(Jパワー)、NUMO、日本原子力研究開発機構が出品している。「グリーン電力」とは、風力・太陽光・バイオマス・地熱・水力の5つしか認めないはずなのに、原子力がちゃっかり顔を入れている。原子力はいうからエコになったのか。それは京都議定書の地球温暖化防止からである。枠組み機構では原発を取り組みには含めないとしているのも係らず、日本だけは炭酸ガス排出削減にカウントしようとしている。原発問題における民意を司る論理の本質は、「もう眼をそらす訳には行かない現実があります」というキャッチコピーにみるように、既成事実の積み重ねで押し付けられた側への恫喝と責任転嫁を目論んでいる。

高レベル放射性廃棄物の最終処分地は深刻な未解決問題で「トイレのないマンション」といわれ、地層処分を行なうNUMOのキャンペーンだけでなく、経産賞資源エネルギー庁の「全国エネキャラバン」の方がもっと強烈であった。2008年から2010年度にかけて全国を2順する念の入れようであった。東洋町のいきさつがトラウマとなって経産省の怨念さえ感じられる。御用学者はもちろんのこと、タレント・スポーツ選手の豪華キャストで、各地で講演会を地方新聞社と共催で催した。「エネキャラバン」は国策PRであり、疑問や反対意見は地方新聞ではしっかり削られていた。このキャラバンは広告の雄である「電通」と契約し、さらに地方新聞社が広告をおこなうのである。地方新聞にとってまさにふって降りたような広告収入となった。電通との契約金額は2008年度で3億4000万円であった。同じような構図は「裁判員制度」タウンミーティングキャンペーンでも組まれた。共同通信と電通が組んだ「パックニュース」である。ここでは最高裁と電通と共同通信と全国地方紙が密かに進めた大規模な世論誘導プロジェクトを「四位一体」と揶揄する人がいる。現代のジャーナリズムは、自らが政府の宣伝機関であり続けることに疑いさえ抱いていない。国がスポンサーとなる広告には、掲載する媒体側の責任は問われないという理解で進んでいる。広告料が入るのだからこれはおいしい仕事だと、節操を忘れてメディアは政府広告に群がるのである。原子力学会(電力会社と原発製造メーカで構成)は2009年1月「原子力教育に関する学習指導要綱への提言」をまとめ文部科学省に提出した。中学校を主体として核燃料リサイクル・放射線利用・原発安全性・原子力利用拡大といったかなり踏み込んだ内容を教えろというものである。脱原発の動きや原発を疑問とする記述を削除し、「原発は安全であり、自然エネルギーには課題が多い」と教科書検定で修正を求めた。戦争や天皇記述と同様に恐るべき介入である。

2) 国策PRと京都議定書

国策PRとして、1997年の「京都議定書」にもとづいて閣議決定した「達成計画」の国民運動「チーム・マイナス6%」が最も有名である。企業活動による温暖化ガス寄与率は80%で、家庭生活のそれは20%である。企業と家庭が一体となって温暖化ガス排出削減を進めようという趣旨である。炭酸ガスの削減は原発推進体制にとって神風となる。そこで国は怒涛のような普及啓発活動を進めることとなり、2005年度予算は約30億円の広報予算を取った。「チームマイナス6%」の推進係となったのが、広告代理店「博報堂」である。「国にとって政策は商品である。だから広告費をかけるべきだ。メディアは行動喚起のためのてこである。」と小島敏郎元環境省地球環境局長は語る。雑誌「宣伝会議は2009年2月号で「国策に広告界のビジネスチャンス」という特集を出した。2008年の日本の総広告費は約6兆7000億円といわれるが、約5%の減少でマスコミは苦しい。大手広告代理店の電通と博報堂は2009年に赤字を出した。広告とPRの概念は違い後者は意図した情報発信であるが、広告業の規模が年約7兆円で、PR業界の規模は700億円である。広告とは一線を画するジャーナリズム業界までもが、情報を加工するPRに近い領域まで手を出してしまうのが「戦略PR]である。記事とも広告ともつかない戦略PRが拡大してきている。「チーム・マイナス6%」は「国民総動員体制」とどう違うのだろうか。スイッチの切り方や生活の仕方まで細かに指導するのである。3月11日以降、広告辞退が相次いだため、テレビでは変なコマーシャルが流れていた。「ACジャパン」(公共広告機構)の「ありがとうウサギ」とか、「がんばろう日本」、「日本は強い国、日本の力を信じている」といった、大震災の復興を願ったことばであろうが、何か戦争中の「ほしがりません勝つまでは」に近い嫌なイメージを思い出すのは高齢者なのだろうか。「ACジャパン」は何時の間に国家権力機構になったのだろうか。NHKと同じ権力性の匂いがする。

3) 事業仕分けの思想「新しい公共」−費用対効果と地方の切り捨て

2009年秋に始まった事業仕分けは民主党政権の目玉として、華々しく成功したほうであった。廃止事業は44事業で、予算の減額・見送り、基金の国庫への返納などを入れると2010年度予算案の一般会計は約1兆円の歳出を削減することが出来た。2010年度春は独立行政法人・公益法人を、2010年秋には特別会計の事業仕分けが行われた。財務省が各省庁を呼んで密室で行なってきた概括予算調整作業を、国民の前で開かれた状態でおこなったのである。事業仕分けの狙い・構成などについては、事業仕分け総括者枝野行政刷新大臣が書いた枝野幸男著 「事業仕分けの力」(集英社新書)に詳しい。本書の趣旨に関係するキーワードでいうと、民主党が2010年6月に公表した「新しい公共宣言」(支え合いと活気がある社会)という概念である。「新しい公共」NPMの原理は、実は小泉元首相による新自由主義に導かれた構造改革路線と奇妙につながっていることに気がつく人は少ない。その原理とは@結果主義、A市場メカニズム、B顧客中心主義ということである。民主党政権交代に期待し有力なブレーンを務めてきた北大の山口二郎教授は、この事業仕分けは「費用対効果と地方の切り捨て」の考え方が甚だしすぎるという。事業仕分けがミクロ財政規律の確立にあるなら、限られた目的に特化したテクニカルな領域にとどめるべきであったとする。

4) 道路とNPOー国策NPOの動員

この章は「全国道つく炉女性団体交流会議」が、国交省と自民党道路族にさんざん利用されて、2008年突然はしごを外され解散したという話題である。道路行政は田中角栄元首相が、膨大な国費が流れ込む仕組みと戦後日本の特徴である公共事業の骨幹をつくった。その後自民党歴代政権の集票と財源の中心となってきたが、20001年以降、小泉政権によって根幹が破壊され、自民党の終焉につながった。道路公団の民営化については、猪瀬直樹著 「 道路の決着」(小学館)、 猪瀬直樹著 「 道路の権力」(文春文庫)に詳しい。国交省は各種NPO法人と「道に関する情報提供業務」なる随意契約を結び、毎年NPOに金をばら撒き(1NPOに年200万円ほど)国交省の応援団をお願いしてきた。1998年成立した「特定非営利活動促進法」(NPO)は公益に係る領域の新しい担い手として期待されたのだが、2011年には認証NPOは4万2556団体を超え、公共部門の官から民へのアウトソーシングが進んでゆく過程で、相当数のNPOが行政の下請け機関となってしまった。NPOの事業収入の80%は行政からの受託であり、NPO全収入の60%は業務委託で行政から貰う金で賄われている。また11%は「補助金・助成金」収入である。寄付金は7%に過ぎない。アメリカの寄付文化と著しい相違を示し、NPOは殆ど行政の別働隊で税金で養われている。また残念ながら現在のNPOは政策提言機能は弱く、行政の下請けにすぎない。国交省は「草の根的に公共事業は本当にみんなのものだいう認識を浸透させ、誤った世論調査結果が出ないようにしてゆく」と道路局企画課長は露骨にもNPOの利用法を説くのである。

5) 五輪招致という宣伝戦略

2016年夏期オリンピック招致活動が膨大な金を食う事は、2009年度都議会での石原都知事への質問で明らかにされた。IOC総会で破れた東京都は懲りずに、2011年6月に都知事は2020年夏期オリンピック招致を目指すと発表した。オリンピックの数兆円の経済効果はお題目に過ぎず、この強引なオリンピック招致運動の本当の狙いは、東京臨海都市開発と公共事業にある事は明らかである。それも国から税金をふんだくってやるというのだから論外である。しかしそのための数百億円にものぼる招致運動の活動費は潤沢な東京の財源から出ていた。タレント、運動選手、さらに子供まで動員して宣伝に努めたが、IOC総会ではブラジルのリオに敗れた。その敗因を分析して、国民と都民の支持率が低かった事(国民の59%の支持)を挙げ、2020年オリンピック招致活動では開催への支持率向上に邁進するという方針である。そのための手段はもちろんメデイア戦略による世論誘導である。石原都知事の親友である読売新聞の渡辺オーナーの協力は明白である。東日本大震災復興をさえ味方につけ、東京一極主義の露骨なエゴをむき出しに、「大震災天罰発言」という嘘と不誠実と暴力という石原都知事の稀に見る専制君主振りには許せないものを感じる人は多い。

6) 仕組まれる選挙

この章は、千葉県知事森田健作氏と、鹿児島県阿久根市長竹原信一氏のポピュリズム選挙戦術について述べている。特に本書の趣旨とは関係は薄いが簡単にまとめる。森田健作氏の無内容ぶりについて述べることも空しい限りである。元気だけがとりえの頭空っぽ人間であろう。やった政策は国交省にお願いして「海ボタル」通行料金の減額だけである。竹原信一氏は「ブログ市長」として有名になったが、ドタバタは2009年6月職員組合を市庁舎から追い出す通告から始まった。議員定数の削減・職員給与の削減・市長反対派が多数を占める市議会の解散発言などで議会と対立を深め、2009年2月市長不信任を突きつけられ、2009年5月出直し選挙で再選を果たした。竹原市長の政治手法は小泉元首相と同じく分りやすい敵(抵抗勢力)を明確にして、「公務員は敵だ」ということである。氏長リコール請求が成立し、2011年1月の選挙で敗れ市長は敗退した。4月の鹿児島議会選挙にも立候補したが落選した。森田健作千葉県知事選、石原慎太郎東京都知事選、松沢成文神奈川知事選で有名となった選挙プランナーの三浦博史によると「選挙戦略とはプロパガンダに他ならない。候補者を売るための宣伝です。選挙民をその気にさせる宗教の布教活動に似ている。」という。

7) 捕鯨とナショナリズム

2010年6月ガンジールで行なわれた国際捕鯨会議では、商業捕鯨を一部容認するマキエラ議長の斡旋は実らず流会した。実質日本人は鯨を食う習慣は戦後の一時期だけであって、いまでは誰も鯨などは食わない。私も牛肉がふんだんに食える時代にあんなまずく臭い鯨肉は食いたくは無い。そして捕鯨船団も乗り組み員もいない状況で、調査捕鯨は殆ど水産庁だけの国家業務になっている。水産庁はもはやナショナリズムと捕鯨を結びつける点で動いているに過ぎない。鯨を乱獲し資源枯渇を招いた日本の捕鯨がいまや、もっともらしく「科学的な天然資源の管理」を叫んで適切な捕鯨再開を主張しても、圧倒的多数国の捕鯨反対国の環境派や文化的差異の壁を切り崩すことは出来なかった。グリーンピースの「英雄的売名行為」の前に調査捕鯨の実施も出来ない状態である。アメリカの200海里から漁船を締め出すという脅しに捕鯨中止に追い込まれた日本に援助を示す国はいない。政府の得意な世論調査でも鯨を食いたいという人は少ない。これでは盛り上がらないのは当然で、今では捕鯨問題は「海の靖国神社問題」となっている。

 
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