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山本太郎著 「感染症と文明ー共生への道

 岩波新書 (2011年6月)

感染症との闘いは人類に勝利をもたらすかー人類と感染症との生態関係

著者山本太郎氏は1990年長崎大学医学部卒業、京都大学医学研究科所助教授、外務省国際協力局をへて、現在は長崎大学熱帯医学研究所教授である。専門は国際保健学、熱帯感染症学である。アフリカやハイチで国際感染症対策を担当した。野口英世のような職歴である。本書の内容に類似した著書には「国際保健学講座」(学会センター)、訳書には「感染症疫学ー感染症の計測・数学モデル・流行の構造」(昭和堂)などがある。感染症といえば一番耳新しい事項として2009年の新型インフルエンザ騒動がある。通常の季節性インフルエンザより弱毒性の豚由来のインフルエンザと分った時点でも、鳥由来インフルエンザと間違ったのかなぜあのような大騒ぎをしたのかさっぱり分らない。しかしあの騒動でタミフルという抗ウイルス剤がある事を知り、かえって安心したという記憶がある。本書が問題とすることは感染症疫学で、流行の顛末を問題とする。ウイルス学や遺伝子学というサイエンスではない。国内での流行であれば厚労省が扱うが、国際間の伝染となると外務省が扱うことも面白い。

本論に入る前に、感染症疫学を考察する格好の例として感染処女地の島における麻疹の流行について歴史的な事実を紹介している。それは1846年ノルウエーとアイスランドに挟まれたデンマーク領のフェロー諸島での麻疹流行のことである。ダーウインのガラパゴス島の独自進化の例のような話と思えばいい。この流行の知らせを受けてデンマーク政府は医師を派遣した。島に麻疹を持ち込んだのは6月4日ベストマンハウン村に立ち寄った捕鯨船の10名の男だった。6月18日には10名全員に麻疹の症状が現れた。その約2週間後からベストマンハウン村住民に発疹が現れた。42の村での調査で、接触から症状が出るまでの潜伏期間はは10−12日で、発疹が出る2日前には患者が感染性を持つことがわかった。65歳以上に発疹が出た人はいなかったことから、最新の麻疹流行は1781年のことで、そのときは死亡者も出たそうだ。今回の流行による死者はそれほど多くはなかったが、住民7800人中のおよそ6100人が感染した。流行開始後約30日の時点で感染者数は900人を超えピークに達した。流行は約60日で終息し、感染者比率はどの時点でも全人口の13%を超さなかった。約900名は最後まで感染を免れた。どうして感染を免れたかというと、疫学数理モデルがこれを証明することが出来る。流行の進展とともに感染性を持つ人が接触する人のうち、既に感染した人が含まれてくるので、感受性をもつ人の割合が減ってくる。そのことが流行終息の主な理由である。言葉を変えていうと最後まで感染しなかった人は,既に感染した人々を楯にして守られたのである。これを「集団免疫」と呼ぶ。麻疹の場合93%が免疫を獲得すれば新たな患者は発生しない。麻疹が最後まで流行したのは北極圏の島々であった。アイスランドは1904年まで周期的に流行があった。1951年にグリーンランドで起こった麻疹の流行は、処女地における最後の大規模な流行だった。

麻疹は犬または牛に起源を持つウイルスが人に適応した結果であるといわれる。家畜化した動物との接触が感染適応機会の増大となった。それも人口が稀薄な状態では流行とはならない。メソポタミア地方が人類最初の麻疹の持続的流行を維持するほど人口が増えたということに本質がある。麻疹の場合最低でも数十万規模の人口密集度が必要だという。つまりメソポタミア都市文明が麻疹流行を生んだ。島では流行を維持するだけの人口がないから、流行は一時的で散発的である。ウイルスが伝染力や凶暴性を獲得したというよりも、流行の主因は人間社会の変化にあるのだ。麻疹、おたふくかぜ、風疹、水疱瘡、百日咳、猩紅熱は「小児感染症」といわれるが、誰にでも感染するが成人の免疫獲得者が多いために小児に感染するだけのことである。ワクチン接種により小児のときに感染する環境が少ないと、思秋期や成人でも感染発症の機会は多くなる。これらの小児感染症が小児だけの感染症になっていない社会では、何十年かの間隔を置いて社会全体に破壊的な影響を与えることがある。「小さな悲劇」を「大きな悲劇」としないためにも、急性感染症を「小児疾病化」に抑えておく必要があるだろう。

1) 歴史の中の感染症

人類が登場する前の人類の祖先は、今から1000万年前東アフリカの乾燥したサバンナに進出した。森に暮らしていた人類の祖先は多くの野生動物がすむ草原で、野生動物との接触機会を一気に増やした。小規模の集団では急性感染症は流行を維持できない。そんな状態でも流行を維持できる感染症もある。それは病原体が宿主体内で長期間生存できるか、あるいはヒト以外に宿主を持つ感染病原体である。ヒトと野生動物の間に感染症病原体を交換しながら、片方が滅亡されるような一方的な優勢関係はなく適度な適応関係を維持していたようだ。人口が小規模で狩猟採集生活では移動社会であるため、野生動物の糞便などからの感染は意外と少なかったようだ。アメリカ大陸の先史時代の住民の糞化石から意外とヒトは寄生虫を持っていなかったことが分った。これは2万5000年前に始まる古モンゴロイドのシベリアからベーリング海を渡ってアラスカを南下する間の寒冷地の通過が寄生虫の再生産を途絶させ、そして先史住民らがアカザという寄生虫駆虫植物を食用していたためではないかと考えられる。先史時代の重要な感染症として、炭疽症とボツリヌス症の2つのヒト獣共通感染症があげられる。肺炭疽症による死亡率は高く、肉食による食中毒であるボツリヌス症の危険性は高い。人類と感染症との関係において転換期となったのは、農耕の開始、定住、野生動物の家畜化であった。温暖な時代が続く「奇跡の1万年」と呼ばれ、農耕の開始は人口の飛躍的な増大を可能とした。農耕が開始された1万1000年前頃の人口は500万人となり、紀元前5世紀には1億人、紀元前後には約3億人となったという。定住と野生動物の家畜化は寄生虫病を増加せしめ、ヒト社会に寄生する鼠などの小動物が介在するペストなどの感染症、および動物に起源を持つ天然痘などのウイルス感染症がヒト社会にもたらされた。ヒトから家畜に感染した結核菌などの病原体もある。こうしてヒトと家畜の雑居によって、病原体は新たな「生態的地位(ニッツ)」を獲得した。あらたな生態的地位の出現は生物に適応放散のような進化的変化(多様化)を与える。マラリア原虫の多様化は哺乳類の適応拡散の時期に一致する。ヒトにとっても「健康と病気」は、ヒトの環境適応の尺度である。環境は常に変化するので、一時的な不適応も生じるが、人類は科学・医学という、自らの健康や病気に大きな影響を与える環境を自らの力で改変する能力を手に入れた。

紀元前3500年ごろメソポタミアで都市国家が生まれた。シュメール人の文明である。以来21世紀にいたるまで多くの帝国が興亡を繰り返した。「ギルガメッシュ叙事詩」に疫病のことが記されているが、急性感染症が定期的に流行するだけの人口密度を持つ都市国家が現れたということである。森が切り開かれ土地の砂漠化をもたらし文明の衰退を招いたとされる。中国の乾燥した黄河流域では麦耕作と牧畜を主として、紀元前1000年前に帝国が出現した。しかし湿潤な揚子江流域は南方の風土病が進出を阻み、黄河より1000年ほど後れて稲作地として開発された。揚子江流域には住血吸虫や鉤虫病、マラリア、天狗熱など文明の保有する疾病レパートリーが成長していった。インドのインダス流域に紀元前3000年ごろインダス文明が興った。紀元前1500年ごろアーリア民族が南下しインド北西部に都市国家が成立した。高温多湿な気候はまさに感染症の濃厚な流行地であった。インドのカースト制度は社会内での階層化と相互接触を避ける制度であるため、選別的な交流を特徴とする社会では感染症はより早く拡大するが終息は早いという特徴を持ったという意見がある。文明と感染症を巡る幾つかの基本的な構造が存在するという。
@ 文明が感染症の「ゆりかご」になる。人口増加をつうじて麻疹などの感染症はヒト社会に定着することに成功した。
A 文明の中の感染症は免疫によって生物的障壁を作り,文明を保護する役割を担った。
B 文明は拡大によって様々な感染症を取り込み、自らのレパートリーを増大してきた。
C 疾病の存在が社会のあり方に影響を与えてきた。社会や宗教もこれなしには理解ができない。

それぞれの文明は,風土や歴史に応じた固有の疾病(原始疾病)を有してきた。ペスト菌の遺伝子系統分析から中国に起源を持つ可能性が高い結果が得られたという。後漢帝国時代の「絹の道」による通商交易や、13世紀のモンゴル大帝国のユーラシア大陸の征服、明時代永楽帝の命による鄭和のアフリカ大航海などで世界中に広まったようである。ペストは542年東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに大流行した(ユスティアヌスのペスト)。地中海世界ヨーロッパの人口は紀元初期に3300万人がいたが、中世の600年間におよそ1500万人減少し1800万人となり東ローマ帝国の衰退を招いたとされる。しかし不思議なことに750年から約300年間欧州ではペストは姿を消した。この安定期を疫学的均衡という。中世の温暖期から小氷河期への変化のせいだとする説がある。疫学的均衡が破れ欧州で再度ペストが流行するのは11世紀から13世紀の事である。均衡が破れた要因のひとつはユーラシア大陸の両側(中国と欧州)で人口が急増したことである。13世紀中国の人口は1億を超えた。欧州では7000万人まで増加した。征服活動(交通の発達)と人口の爆発がいつの時代においても疫学的平衡の最大のかく乱要因であった。15世紀の大航海時代とそれに続く植民地時代、20世紀の航空機時代の到来も同じような要因である。欧州中世のペスト大流行は2500−3000万人の人がなくなり、欧州全人口の1/3から1/4が失われた。それが欧州の労働人口の急激な減少が農奴制の崩壊をもたらし、社会の回復には封建的身分制を打ち破って、人知の回復を促しルネッサンスが到来した。ペスト以前と以降では欧州社会は全く異質な世界へ変貌したといえる。また疾病構造も変化した。中世に多かったハンセン病は感染力は弱い。ペスト以降ではハンセン病が減り結核が増えたのである。2つの感染症の抑制関係を指摘する意見がある。これを交差免疫と呼ぶ。ブランベジアと新性梅毒の関係でも知られている。1720年マルセイユで見られたペストの流行を最後に欧州ではペストは姿を消した。征服されたのか一時隠れているだけなのかそれは分らない。1894年中国のホンコンでペストが流行し、日本、アメリカまで広がった。船舶による伝播である。日本では昭和4年を最後として、以降ペストの発生は無い。

2) 近代文明・近代医学と感染症

ペスト流行の終焉と同時に欧州の近代化が幕を開けた。交通や通信の発達により、諸地域の分業体制が形成され固定され「世界の一体化」が始まった。分業体制は中央と周辺、南北関係、東西関係というように、原材料や食糧が周辺から中央へ流れ、中央では集権化され、周辺では「低開発」のまま固定される。(格差固定)世界の最貧国として中南米のハイチやバングラディシュ、北朝鮮、アフリカ諸国などがある。新世界と旧世界の遭遇により、東インド諸島に天然痘が持ち込まれ、人口は1/3まで減少したという。ハイチの原住民アラクワ族は全滅した。現在はハイチに住んでいるのは三角貿易によって労働力として輸入されたアフリカ奴隷の子孫である。アフリカの風土病であるマラリア、黄熱、デング熱、エイズ、結核などが持ち込まれた。これらを「ハイチの貧困の病」と呼ぶ。一方的な疾病洪水は中南米(アステカ、インカ)といった中南米の文明を滅ぼし、人口は1/10以下に激減させた。これには疫病だけではなく、ポルトガル人やスペイン人による原住民虐殺という歴史がさらに覆い被さるのである。欧州から奴隷貿易によって新大陸に持ち込まれた感染症であるマラリア、黄熱などが逆に征服者の白人の進出を阻む要因となり、兵隊や宣教師、移民の壊滅的減少を防ぐ意味でも、本国で熱帯病を研究する必要性が高まった。決して博愛精神から研究が始まったのではなく、征服者の健康を守るため、兵隊の磨耗を防ぐための必要から研究が始まったのである。森鴎外の脚気研究も、野口英夫の熱病研究もその一環で説明されるべきで、野口英夫の英傑物語はその辺をどう説明しているのだろうか。

1816年から1837年にかけて西アフリカのシェラレオーネに駐留したイギリス軍の死亡者は、1000人当たり400人を超えたといわれる。その最大病因は熱病であった。これがヨーロッパ人のアフリカ進出に対する生物学的障壁となった。そのためアフリカは長く「暗黒大陸」、「白人の墓場」と呼ばれたのである。1830年ついにイギリスは西アフリカへ兵隊を送る事を停止した。マラリアの原因解明が進められ、南米の先住民が解熱剤として用いていたキナの皮に抗マラリア効果がある事が発見され、そしてキニーネが精製された。キニーネが導入されてから死亡率は5%にまで低下した。1874年より、イギリス軍はガーナ、黄金海岸に進出し、キニーネが欧州のアフリカ植民地化の完成を後押しした。サハラ砂漠とカラハリ砂漠に挟まれた広大な地域は「ツェツェベルト」と呼ばれ、ツェツェバエが媒介するアフリカ眠り病の地帯であった。14世紀アフリカに渡ったイスラム王国がサハラ砂漠以南を征服できなかった理由のひとつにこのアフリカ眠り病があったとされる。20世紀になって病原体は牛や馬の眠り病の虫トリパノソーマではないかという研究が進み、有機砒素系の薬剤が開発されたが、副作用が大きいのでエーリッヒは特効薬サルバルサンを合成した。これらの病気の研究や薬剤開発は「帝国医療・植民地医学」と呼ばれ、「植民地の経営を守りその存続を図る重要な統治ツールとして、宗主国によって導入され実践された近代医療」であると定義される。人道主義は植民地支配批判をかわす宣伝である。植民地支配という実益のため膨大な金と努力が傾注され、多くの伝染病の治療と薬剤開発が進んだことは近代医学の発展の副産物である。

20世紀初期のノーベル生理学・医学賞受賞者と理由を見ると、西洋近代医学が熱帯病関係医療から多くの発見と知見を得ていたことがわかる。
@ 1902 ロナルド・ロス マラリア原虫の生活環の研究
A 1905 ロベルト・コッホ 結核の研究
B 1907 ルイ・アンフォンス・ラブラン マラリア原虫の発見
C 1928 ジュール・アンリ・ニコル 発疹チフスの研究
D 1929 クリスチャン・エイクマン 脚気の原因となるビタミンの発見
E 1951 マックス・タイラー 黄熱ワクチン開発
こうした研究は、当時の植民地を舞台に行なわれ、彼らの多くは軍医か現地派遣の植民地医務官であった。1894年香港で起こったペスト流行とそれに対する国際的防疫体制の確立は、帝国医療・植民地医学と近代西洋医学との結びつきの好例となった。 国際調査団が組織され、現地に派遣された。そのなかで北里柴三郎とスイス人アレクサンドル・イェルサンがペスト菌を発見した。1911年清朝末期満州で肺ペストの流行があったときも、国際調査団が派遣された。この調査団の構成において清朝は日露両国の介入を防ぐ事を目的に、すみやかに英・仏・独・伊・蘭・米・墨らの参加を要請した。感染症とその対策が近代国際政治の表舞台に登場した。現在においても重症急性呼吸症候群(SARS)や新型インフルエンザ対策には国際社会のパワーポリティクスが働いた。多民族国家である中国ではいつも感染症の発生が周辺民族の騒乱につながる恐れがある場合、情報を隠蔽し外国が介入する事を避ける傾向がある。国際的防疫体制の確立が帝国医療・植民地医学の功績だとすると、1918年の新型インフルエンザ(スペイン風邪)は負の遺産といえる。世界全体で5000万人から1億人がなくなり、最も大きな被害を受けたのがインドとアフリカであった。第1次世界大戦は欧州がその舞台であったが、欧州諸国が持つ植民地であるアフリカ、インド、アジアでの物資と労働力・軍隊の移動がインフルエンザ感染を拡大した。猛威を振るったスペイン風邪も、第1次世界大戦がなかったなら、これほどの被害はもたらさなかったであろう。急速な流行(増殖)は毒性の高い株を生みやすいという病原体進化の考え方がある。

1969年アメリカ政府は議会で「感染症の教科書を閉じ、疫病に対する戦いに勝利した」と宣言した。ペニシリンをはじめとする抗生物質が開発され、ポリオワクチンの開発が成功し、天然痘根絶計画もあと1歩というところまで来ていた。1929年フレミングの抗生物質ペニシリンの発見にはじまり、1942年フローリーによりペニシリンが実用化された。それ以降戦後には様々な抗生物質が開発され感染症による死亡者は急減した。1954年ソークが開発した不活性化ポリオワクチンの40万人の児童に対する大規模投与実験が開始された。jこの成功体験その後のアメリカ社会の医療医学に対する考え方に大きな影響を与えた。現在でもインフルエンザに対するアメリカの対応はワクチンが主体である。1958年WHOは「天然痘根絶計画」を開始した。1965年米国ジョンソン大統領は「天然痘根絶計画」に本腰をいれて取り組むと宣言し、冷戦下での米ソ共同事業となった。アフリカの天然痘撲滅が進みついに、1977年10月に天然痘患者は地上から消えた。先進国で感染症制圧の夢を見ている頃、地球の裏側では開発という名の環境激変による新たな感染症流行が始まっていた。ナイル川流域では古代から膀胱炎を起こすビルハイツ住血吸虫症が存在していたが、アスワンダムの建設とナセル湖を契機としてナイル川上流地域に広がった。住民の感染率はダム完成により20%から80%にはね上がった。ダムにより水流がよどみ、原虫の中間宿主である巻貝の大量発生となった。西アフリカで蚋によって媒介される「オンコセルカ症」は視神経を侵し盲目となる「河川盲目症」である。ダム建設でこの「オンコセルカ症」が流行し,住民は高台への移住を余儀なくされた。20世紀はじめ南アフリカの鉱山開発は数十万人規模の鉱山都市を出現させ、劣悪な労働環境と家庭環境で結核が蔓延した。明治初期の日本の製糸工場での結核の流行は「女工哀史」に描かれている。こうした疾病対策自身が費用対効果の高い開発計画である事が認識されて、1993年世銀は「世界開発計画」は「健康への投資」を掲げた。

3) 感染症と人類の生態学(共生への道)

歴史を見ると、突然流行し、そして消えていった感染症がある。15世紀イギリスで流行した「粟粒熱」、1950年代中欧と東欧で流行した「新生児致死性肺炎」、1950年代後半に東アフリカで流行した「オニョンニョン熱」、第2次世界大戦後日本で見られた「疫痢(えきり)」もそういう感染症であった。「新生児致死性肺炎」は全身性サイトメガロウイルス感染を合併するカリニ肺炎が、1939年バルト海の港町ダンツィヒにおこり東欧・北欧へ拡がった。1955年アランダのハーレンでも発生した。感染小児は高グロブリン血症を示すため、なんらかの免疫不全が関係しているようだ。「オニョンニョン熱」はトガウイルス科のウイルスによって引き起こされる。1959年に第1回の流行がウガンダで見られ東アフリカ諸国に広がり、200万人が感染した。第2回目の流行は1996年にウガンダで始まり、400万人が感染した。姿を消しそうなウイルスとして、日本の成人T細胞白血病ウイルス(HTLV-1 レトロウイルス)がある。感染者は生涯5%で白血病を発症するが、潜伏期間は50年以上である。母子感染が主なルートである。感染は南九州と沖縄・四国・紀伊半島南部、五島列島・壱岐対馬・隠岐、山県・秋田に分布する。これは南島から来た古代倭人の進出ルートであり、このウイルスを持った倭人と、新たに渡来したウイルスを持たない集団(大陸モンゴル系)との混合によって現在の日本人が形成されたという日本人形成の歴史を物語っている。長崎の調査では、1987年に抗体保有者が7%いたが、2005年には1.5%に低下した。あと少しで消えそうである。

新たに出現した感染症もある。1976年スーダン、ザイールで流行した「エボラ出血熱」、1980年代世界中で発生した「エイズ」、2003年春中国に発生した重症急性呼吸器症候群(SARS)、1967年ドイツで流行した「マールグルグ熱」、1969年ナイジェリアで流行した「ラッサ熱」、1975年アメリカコネティカット州で流行した「ライム病」、1976年フィラデルフィアで流行した「在郷軍人病」などである。「エボラ出血熱」はゴリラやサルでは致命的であるが、1976年ウガンダの流行では1800人がj感染し1200人が死亡した。重症急性呼吸器症候群(SARS)はWHOの国際機関協力によってコロナウイルスが発見され隔離対策が採られ、約8000人の感染者と700人以上の死亡者を出して終息した。ウイルスのヒトへの適応段階は、次の5段階に分けられる。
@ 適応準備段階 動物の引っかき傷から感染するがヒトからヒトへの感染は見られない  猫引掻き病、レプトスピラ症
A 適応初期段階 ヒトからヒトへの感染が見られるが、感染効率は低くすぐに終息する  粟粒熱、オニョンニョン熱、新生児致死性肺炎、SARS
B 適応後期段階 ヒトへの感染が確立し定期的な流行を引き起こす   ライム病、ラッサ熱、エボラ出血熱
C 適応段階 ヒトの中でしか存在できない  天然痘、麻疹、エイズ
D 適応過剰段階 ヒトから消えてゆく  成人T細胞白血病

麻疹の死亡率や結核の死亡率は減少している。結核は過去1000年にわたって減少してきている。特にBCGワクチンと抗生物質の出現により急速に減少してきた。 日本では第2次世界大戦後の抗生物質の導入により急激に死亡率は減少したが、2000年段階では先進国のなかでは一番死亡率が高いいわゆる「結核後進国」のままである。アメリカでは人口10万人に対して結核死亡者は0.5人であるが、日本では3人もいる。多少日本の結核対策に問題が残っているようだ。感染症の病原性は病原体に固有のものと考えられてきたが、社会の変化や人々の暮らし(栄養状態、環境など)によって変わることも多い。人々の行動が選択圧となって、病原体が進化することがある。環境への適応によって病原体の性質が変化するのである。短期的に流行する感染症には強毒性のものがあるが、宿主を殺してしまっては自分も生きられない。長い眼(数百年のオーダー)で見るとどの集団でも弱毒性が優位になるのである。感染者が死亡すると、感染者と非感染者の接触頻度が減少し、強毒性ウイルスは強毒性という性格のために消滅するのである。ウイルスは宿主と安定した関係を築いてゆくことが生存にとって有利なのである。そしてウイルスは宿主の利益になるように作用せざるを得ない(ウイン・ウインの関係)。ヒトにおいてもウイルスを完全に消滅(殺菌)させることは、次の世代の免疫力を無にすることであり、次の流行で壊滅的打撃を受けることになる。大惨事を起こさないためには「共生」 の考え方が必要となる。災害において堤防の高さを高くするほど、それを越えた災害時の被害は事例の無いほどの災害を招くのである。「例年程度の洪水」という考え方は「心地よいとはいえない」妥協の産物かもしれない。それも人類の知恵である。東日本大震災の原発事故を見ると、事故は絶対に起きない起こさないという信念?でやってきたから、最悪時の対応をとってこなかった。事故との共存で運転することも必要な対応なのかもしれない。事故との関係を根本から考え直す必要がある。


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