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保坂正康著 「田中角栄の昭和」

 朝日新書 (2010年7月)

物質追求・高度経済成長の昭和は私たちに何を残したのか、今こそ問う

筆者保坂正康氏はノンフィクション作家で「昭和を語り継ぐ会」を主宰する。「昭和史講座」などの昭和史研究で第52回菊池寛賞を受賞した。昭和という時代には32人が首相のポストに就いたが、なかでも戦争中の軍事主導体制下での軍人出身の東条英機首相と、戦後被占領期の外交官出身の吉田茂首相、そして高度成長期の土建屋出身の田中角栄首相の3人が昭和を代表する首相であったという。性格はあまりにも異なっているが、それはそのときどきの日本社会の性格を反映している。著者はこの3人の首相の評伝を書くことを自らに課してきたが、東条英機首相を昭和57年に、吉田茂首相を平成13年に、2010年に本書でようやく最後の田中角栄を書いたという。この本の性格であるが、立花隆氏の田中金脈批判のようなロッキード事件を扱うアップツーデイトな田中角栄告発の書ではない。なにせ1993年に田中角栄がなくなってから、既に18年がたっている。といっても田中角栄という人物の政治学上の客観的な位置づけ、意味づけが出来るほど時間がたっていない。関係者及び自民党がまだ存在するからである。クレームが入るかもしれないからだ。また著者が政治的な話題を追うジャーナリストであり、自身の立場を明確にしえない制約が有るからだ。すなわち本書は角栄礼賛本でもないし、角栄罵倒本でもない。政治を語らずして政局を語るジャーナルやメディアの体質からして、本書に日本近現代政治史を期待するのは多少むりがあるが、政治話題史としては面白い。田中角栄氏の金脈つくりを一貫して追求してきた立花隆氏の労作である「田中角栄研究」、「淋しき越山会の女王」(1974)などの著作を、本書は最大限に採用している。本書の半分くらいは立花隆氏の成果の引用である。その上に立って本書は田中氏には「犠牲者」の側面があると指摘する。時代の寵児は絶対権力者ではなく、あるときは「学歴のない宰相」、「今太閤」という成功者としてもてはやされたが、時代が変わると「成金日本を体現」とかいわれて悪の権現のような評価をされた。しかし田中角栄氏は戦前は軍国主義体制の資材調達業者として、戦後は経済・物質中心主義のブルドーザーとなって華々しい活躍をした。もちろん彼には政治改革の理想はなく、現状を肯定したうえで最大の個人的利益をあげることに邁進した。高度経済成長が終り諸問題が噴出し、戦後日本社会の構造が解体されてゆくと、その責任を負って最初の犠牲者として葬られたという意味で、著者は角栄氏の歴史的意味つけをしている。若干センチメンタルな見解であるが、「当たらずとも遠からじ」という感がする。

昭和58年(1983)10月12日、東京地裁でロッキード事件の丸紅ルートの第1審判決が言い渡された。その頃の空気を思い出せば、世論(メディアの事だが)は田中弾劾一色に染まっていた。そして裁判が進行するにつれ昭和56年ごろから田中角栄氏について書かれた書物がうなぎのぼりに増加し、累計106冊の角栄本が発行されている。その書物の性格は次の4つに類型化されるという。@評伝あるいはその政治的歩み、Aロッキード事件への批判と告発、田中金脈批判、B田中角栄を軸とした評論、C田中角栄礼賛、或いは復権を期待するものである。田中角栄氏は昭和46年までは政治家として検証される対象ではなかったが、昭和47年、48年は「日本列島改造論」を田中政治のプラスとして評価する書が多かった。しかし田中氏が首相時代に金脈問題で批判された昭和48年(1973)年以来、政権から追われると同時に田中をプラス評価する書は消えていった。昭和48年から59年までの田中を論じた書は、少なくともロッキード事件までは金脈問題は田中の政治的力と評価され、ロッキード事件後は「角栄が鐘で権力を買い拡大してゆくシステムを暴く書であった。ロッキード事件を分水嶺としてかくもメディアの態度は豹変するのである。田中政治は何も変わっていないが、変わったのはメデイアの評価である。ところで本書は@の評伝と政治的歩みの記述を目指すのであるが、事実関係の大半をAのロッキード事件批判と金脈批判の書に負っている。評伝部分は果たして実証性があるのかというと極めて怪しい。田中は兵士から逃げるために仮病を使ったというのは貶めるためのデマかもしれないし、証拠があるのだろうか。このあたりが変にセンチメンタルで、個人的心象の世界で終っている。天皇に対する態度についても見てきたような話を述べているが、証拠のない推測に過ぎない。したがって仮病説や天皇への態度に関する記述は無視しよう。受け売り的に紹介してもどうも迫力がないのである。

1) 戦後政治への登場

田中角栄は大正7年(1918),新潟県刈谷郡二田村(現在は柏崎市、苅谷原発がある)に生まれた。高等小学校を経てすぐに土木作業に従事したが、昭和9年東京に出て土木会社に就職した。そして4つの会社を移って、昭和12年には若干19歳で1人で共栄建築事務所を旗揚げしたという。この共栄建築事務所は、昭和11−13年と理科学研究所が各種産業に進出しコンツェルン化しつつあった時期に理科学研究所の仕事を貰って発足した。理化学研究所はとくに新潟県内に新築工場を相次いで建設した。順風の内に田中角栄の会社はスタートしたのだが、会社は1年しか存続しなかった。それは角栄が20歳で徴兵されたからだ。昭和14年には満州に派遣されたが、要領よく本部付きとなり糧秣担当となったが、昭和16年病を得て内地送還そして除隊されたという。除隊されるとまた理化学研究所コンツェルンの仕事に没頭した。角栄の会社は大政翼賛会の大物政治家を顧問にして拡大を続け、戦争末期に空襲を避けるため軍需産業の中枢を占めた理化学研究所を満州などの外地へ移す事業に乗り出して巨利を得たという。こうして終戦を迎える。占領下大物政治家の追放と政界の再編成が進んだ。鳩山一郎、河野一郎らは自由党を結成、自由党の資金源は海軍の御用商人だった児玉誉士夫から出ていた。戦後の政界の動きは石川真澄・山口二郎著 「戦後政治史 第3版」 (岩波新書)にまとめたので、そちらを参照して欲しい。昭和20年田中土建工業の顧問だった大政翼賛会の大物代議士大麻の勧めを受けて保守系の民主党から立候補した。田中は大麻の政治資金を寄付したのである。昭和21年1月の軍国主義者の公職追放、国家主義団体の解散命令を受けて、昭和21年4月の第1回総選挙が行なわれた。田中角栄の第1回目のチャレンジは落選であった、第1次吉田内閣のもとで翌年4月の第2回総選挙には田中角栄は当選した。ここから田中角栄の政治家生活が始まった。

昭和22年6月、社会党、民主党、国協党の三党連立により社会党片山内閣が成立した。この内閣は炭鉱国営化法案を提出したが、炭鉱業界の猛反発を食い業界のロビー活動により議員に金がばら撒かれて「炭管汚職」が摘発され、昭和23年12月社会主義的国営化政策だとして反対の先頭に立った田中角栄らも収賄罪で逮捕された。炭管法案は政権内部の分裂をもたらし片山内閣は昭和23年3月に潰れている。次の芦田連立政権には民主自由党は参画し、29歳の若さで田中角栄は民主自由党の選挙部長に就任した。この時期吉田茂は田中を評して「いつも刑務所の塀の上を歩いているような危ない男だ」と洩らしたという。ところが芦田内閣は、占領軍GHQの民生局による自由党の資金の流れ調査によって昭和電工疑獄事件に発達し、発足後僅か7ヶ月で倒壊した。芦田内閣の後民自党代表の吉田茂が首相となり、佐藤栄作が官房長官に、田中角栄は法務政務次官に就いた。昭和23年11月田中は法務政務次官を辞任し炭管汚職容疑で逮捕された。そして吉田は衆議院を解散した。(この裁判は昭和26年田中の無罪が確定している) 田中は炭管汚職事件を契機に政治資金は自前で調達し、献金には頼らないことに徹した。そして選挙民との実利的な関係を深め、絶対に選挙で落ちない事を誓ったという。資金つくりのメカニズムは立花隆氏の「田中角栄研究」が明らかにしたが、田中土建工業から長岡鉄道などのファミリー会社を固めることでここが政治資金つくりの拠点となった。そのためには政治と事業の結合に意を用い、官庁の活用と利益誘導という自民党の常套手段が角栄に始まった。特に有名な資金つくりである「道路三法」(道路法、ガソリン税法、有料道路法)などは自らの利益に合致する法案を議員立法でつくった。道路整備・国土開発長期計画などは公共工事依存の体質を作った。そういう意味で戦後の公共工事は田中角栄の作った法律というメカニズムに始まるのである。

2) 権力の座への権謀術数

田中角栄が政治家として頭角を現すスプリングボードは、昭和32年7月の岸改造内閣での郵政相としての入閣にあった。鳩山一郎内閣総辞職のあと、自民党総裁選で勝った石橋湛山は僅か40日足らずで病に倒れて、岸が首相の座に就いた。田中は郵政省内の官僚の派閥と労働組合組織を処断して、悪しき官僚組織の改革をこない「田中は実行力の伴った政治家だ」という評判を生んだ。郵政大臣は特に利権に結びつかない「伴食大臣」であったが、職にあった1年間でテレビ事業の免許制度の大改革をおこなった。当時のテレビ普及台数は13万台になりテレビ価格も急速に下がりつつあり、洗濯機と冷蔵庫とあわせて「三種の神器」と称され、大量消費時代が始まろうとしていた。電波監理審議会が答申していた6局を12局とする官僚案に耳を貸さず、NHK7局、民放34社へ36局を許可することになった。将来のテレビ時代を見据えた英断であり、日本の高度成長を支える土台となり、家電メーカーの大躍進の場を提供した。こうして田中はNHK会長人事からテレビ放送事業を操る手法を獲得したのだ。昭和30年代は日本保守政治が最も金権化してゆく時代であった。昭和33年第2次岸内閣では田中は郵政大臣を退き、中央政界が安保改定で揺れ動いて時、ひたすら地元新潟に自己の利益構造を追及した。安保闘争で岸内閣が倒れて登場したのが池田勇人の「所得倍増内閣」であった。政治課題で世論を紛糾させた岸内閣のアンチテーゼとして、高度経済成長による国民の取り分向上を謳って、国民の関心を変える作戦でもあった。戦後の保守政党内閣の本流は吉田、岸、池田、佐藤らの官僚グループにあった。田中は党人派の大野伴睦、三木武夫、松村謙造らの動きには批判的で、田中自身は党人派でありどう見ても官僚派には属していなかったが、官僚派の保守本流に始終属していた。党人派では権力は取れないと見て、権力の中枢に居るには官僚派だという認識があった。田中は昭和36年自民党の政調会長につき、武見太郎日本医師会長の要求を呑んで医師優遇税などの相応の経済的利益を保証する政策で日本医師会と妥協するという離れ業で、日本医師会との緊張関係を修正した。

田中にとって権力の座が決して遠くないという計算ができたのは、昭和30年代半ば頃から始まった池田を支える大平との盟友関係が出来てからである。無論大平も官僚派であったが、昭和38年7月池田改造内閣において、大平が外務大臣、田中が大蔵大臣となってその盟友関係と利益共有関係が明確になった。この池田改造内閣には、佐藤栄作が北海道開発長長官としてはいり、三木武夫氏が政調会長、河野一郎氏が建設大臣となり、田中は佐藤派の一員であったので、佐藤派と池田派の協力体制が整い、田中はその調整役として一躍重きをなした。大蔵大臣としての田中氏には財務理論などはなかったが、恫喝と甘言という官僚操縦術に長けていた。池田内閣の経済政策は「インフレなき経済成長」であったが、その柱は公共投資と社会保障にあった。昭和36年から道路建設5カ年計画が始まった。田中が大蔵大臣であった2年間には、ケネディ暴落、部分的格実験停止条約などがあり難しい舵取りが要求されたが、田中はひたすら1国経済膨張主義をとり「精神なき物量社会」に邁進したといえる。昭和39年東京オリンピックと新幹線、高速道路網の整備という、外国人の眼を意識して物質文明の繁栄を謳歌する姿を見せつけることに主眼が置かれた。その一方田中は昭和35年越後交通を立ち上げた。これは越山会の強化と金脈つくりの拠点となった。昭和39年池田氏がガンで退陣し、翌年佐藤栄作内閣は大幅な内閣改造をおこない、大蔵大臣は田中から福田に替わった。山一證券への日銀特融、OECD加盟、IMF加盟など、高度経済成長から安定期に向かっての舵取りに、政策理論をもって財界との協調ができる福田赳夫に替えたのである。田中氏は自民党幹事長に就いた。昭和40年代初めは国内経済は一時期停滞したが、佐藤内閣は福田大蔵大臣の均衡財政に期待した。公共事業の拡大により財政のバランスを立て直すため国債の発行に踏み切った。

昭和41年、サンフランシスコ単独講和とおなじ構図で、日本は韓国と単独国交正常化交渉を行い、田中幹事長は難しい国会運営を強引な手法で乗越え、日韓条約と関連3法案を可決した。ここで「政治とは数である」との確信を深めたようだ。田中氏の政治力が評価され、昭和40年代初めにかけて順調に権力の階段を上り詰めようとしていた。立花隆氏の「田中角栄研究」でも指摘しているように、昭和35年「越後交通」発足に尽力した小佐野賢次氏、東急電鉄の五島慶太氏との事業上の盟友関係、そして昭和36年「日本電建」の買取りで田中氏は田中金脈は決定的なスプリングボードを踏むことになった。日本電建は住宅建設販売を専門とする企業であったが、経営が悪化して田中に経営権が移った。日本電建には月賦で住宅を買うための預託金46億円が眠っており、購入した土地1億円相当も有していた。田中氏は新日本電建、新星産業、室町産業、田盛不動産などのファミリー企業を形成し(殆どがペーパーカンパニーだが)、主に土地や河川敷きの買占めをはかり(それが柏崎原発用地に転売された)、「土地ころがし」によって巨利を挙げたのである。これが田中氏の集金マシーンとなった。中央政界で権力の基盤を確立しつつ、地元企業を軸にしつつペーパカンパニーで土地をころがし巨利を貪ったのである。この接点が「越山会」という権力機構であった。田中は地元秘書グループに市町村を回らせて要望の御用聞きを行い、それらに予算をつけることで集票マシーンを構築した。家の月賦販売会社を極めて合法的に一種の金融資産運用会社にかえた。新潟の土地を転がすだけでなく、大蔵大臣であった時期を利用して国有地の払い下げを集中的におこない、小佐野賢次氏の国際興業が買い取るという構図である。当時の保守政治は、産業界、政界、それに官界の間に相互扶助の了解があって、田中氏の手法は法的に問題視されなかったのである。その事を追求すると体制の根幹が崩壊する危険性があったからだ。代議士田中彰治氏は国会で国有地払い下げを追及し、小佐野氏を脅迫して手形割引を強要するという、火付けと火消しを同時にやるマッチポンプ代議士であった。結局彼は恐喝と詐欺の疑いで逮捕された。

3) 首相への道

自民党代議士の金権体質が問われ、共和精糖事件が佐藤内閣を揺るがしたが、田中氏は沈黙を守った。昭和42年3月田中氏は自民党の都市政策調査会長に就任した。昭和43年5月「都市政策大綱」がまとまり、世論は好意的に受けた。この大綱は公害問題を克服し、生活者重視をうたって政策ベースにのせることで画期的であった。農村と都市を対立的に捉えるのではなく、農村も都市の恩恵を享受することであった。全国に道路網を敷いて、新幹線を走らせ、全国を均質な都市空間にすることである。田中氏が昭和47年自民党総裁選に臨むために著わした「日本列島改造論」はこの大綱が基になっている。昭和43年11月第2次佐藤内閣のとき再び自民党幹事長に就いた。ほぼ3年半幹事長を続け、磐石な佐藤政権下の幹事長として、福田氏と並んで佐藤の後継者に育った。昭和44年12月の総選挙は自民党は300議席の大勝利(保守系無所属を含め)となっって、田中氏は「選挙の神様」と讃えられた。池田首相以来の高度経済成長路線は10年目を迎え、「総中流化」が実現しそうな社会における自民党票を解析し次の選挙作戦を練った報告書が秘密裏に出された。この時期自民党はまだ経済拡大路線の方向をめざしていたので、富の配分に重きを置いた選挙戦を戦ったのである。佐藤栄作氏は4度の再選を果たしたが、昭和46年7月のニクソン大統領訪中によって、佐藤内閣は対応を失った。昭和46年6月の統一地方選挙はいわば「地方革新勢力の勃興」となり、田中氏は責任を取った形で幹事長を辞任した。田中氏は佐藤内閣の官房長官就任を断り、いわばフリーハンド権を有して次期総裁を狙う存在となった。この辺りの政治的臭覚がすばらしいといわれる。そして通産大臣に就いた。

昭和46年は日米関係が新たな時代にはいった年である。ニクソン大統領訪中によって共産中国の承認は世界的潮流となっていたが、佐藤内閣は敢えて反中国の態度を取り続け、国連理事会において「逆重要事項指定決議案」の提案国となった。これには沖縄の「核抜き本土並み返還」という秘密交渉の只中にあったからだ。田中氏は通産大臣として日米貿易摩擦問題である「日米繊維交渉」にあたった。佐藤首相の胸には沖縄返還のためなら繊維問題は犠牲になってもいいという考えがあった。田中氏は繊維問題の政治的解決を図ったのである。この問題には農業問題と繊維問題という二重の課題があり、縦割り行政しか出来ない官僚には解決不能の問題であった。結局は織機2000億円分を政府が買い取った形で決着した。昭和47年4月の国会で、沖縄返還密約問題で国会運営はギクシャクし、佐藤首相の政治力は限界に近づいた。佐藤氏は同じ官僚派の福田氏への禅譲を考えていたが、佐藤派内では田中氏待望論者が多数を占める状態であった。裏では宏池会の大平氏との連携が進んでいた。「三角大福」のにらみ合いとなったが、昭和47年7月の自民党総裁選は第1次投票で田中が僅差でトップとなったが、上位二人の決選投票では田中氏が福田氏を大差で破って総裁に指名された。

4) 田中内閣の歴史的功罪

昭和47年7月6日田中内閣が成立した。田中派、大平派、三木派、中曽根派の「四派実力者内閣」であった。官房長官に二階堂、大平は外務大臣、中曽根は通産大臣、三木は無任所大臣、党幹事長は橋本登美三郎、総務会長に鈴木善幸、政調会長に桜井義雄らとなった。この組閣に参加しなかった福田氏との溝が深まり、昭和50年にかけて「角福戦争」という党内抗争が激しくなった。田中内閣の施政方針は外には「中国との国交回復」であり、内には「列島改造」であった。中華人民共和国の周恩来首相が示した国交回復の三条件とは、@中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府であること、A台湾は中国の一部であること、B日本台湾条約の破棄であった。日中外交交渉は社会党の佐々木委員長、公明党の竹入委員長、自民党の古井氏と田川氏の訪中により地ならしがなされ、9月29日には「日中共同声明」が出される(首相就任後84日)というスピーディな展開であった。大平外相と姫鵬飛外相会談、田中首相と周恩来首相との首脳会談をへて、毛沢東首席との会談で合意に達した。頑迷な東西冷戦で利益を得た保守勢力の権力構造を打ち破り、近代日本以来の対中国への清算を果たした田中首相の政治力は歴史に名が残ることに違いない。自民党内の官僚出身の政治家や党人派といわれる政治家達と比べても、田中角栄氏の政治手法は大きく抜きん出ていることが分る。慣例にとらわれず機を見て敏に自ら前面に出て采配し具体的な結果を自らの手で確認することである。政治的行動力が正しい意味で桁が違っていたというべきであろうか。

日本列島改造論は田中氏の内政の柱であったが、国民に好感を持って迎えられ支持率の高まりを生んだ。田中氏は新25万都市を全国のいたるところにつくり、工場をおかず快適な居住空間を実現すると説いた。しかし工場を作らないというところは産業界の反発を受けて引っ込めた。その代りに出現したのは土地価格の上昇を招いた。企業の過剰流動資本は投機の対象として土地に向けられたのだ。昭和47年度の市街地価格は16%(昭和48年度は24%)も高騰した。過剰流動資本を吸い上げる新税には財界はいい顔をしなかった。物価上昇の不満のなかで昭和47年12月の総選挙が戦われ、田中氏の予想に反して自民党単独の議席は271であった。保守系無所属を入れたやっと過半数を維持した。社会党・共産党が躍進する結果となった。なぜ自民党は敗れたのだろうか。列島改造・地価高騰・物価高騰・公害拡散という意識に変わっていたのである。第2次田中内閣は福田氏を入れて一応挙党内閣とした。第2次田中内閣の昭和48年度予算方針は「福祉拡充」、「インフレ抑制」、「円切り上げ防止」の3つの課題であるとした。1ドル360円の時代は終り、アメリカの貿易赤字のため日本は内需拡大に迫られ大型予算となった。それがまたインフレを助長してゆくのである。現実は田中首相の思惑とは別な方向に動いた。田中内閣の支持率も低迷した。内政の低迷に較べて外交には見るべきものがある。昭和48年9月欧州各国とソ連を訪問し、ブレジネフ会談では「第2次世界大戦のときからの未解決の諸問題」という表現で領土問題の存在を確認させた。田中氏外交面では、日中と日ソという2つの懸案課題を軌道に乗せたという成果は隠せない。

5) ロッキード事件

昭和48年第4次中東戦争が起き、それを機にオイルショックが発生した。これは英米のイスラエル保護政策にたいするイスラム社会の反発であり、石油の生産を渋ることで揺さぶりを変えてきたのである。日本1国では対処は難しいことであったが、戦後の日本経済繁栄を根本から揺さぶった。いわゆる国家の非常事態であった。田中首相は三木副総裁を中東に派遣し産油国に援助や借款を申し出て石油確保策に邁進した。内閣に国民生活安定緊急対策本部を設置し、石油需給適正化法など2法案を成立させた。国民の間にはパニックがおこり、昭和49年度には卸売り物価指数が17%、消費者物価指数が12%も跳ね上がりまさに「狂乱物価」という現象が生まれた。田中内閣3年目に拡大路線から一気に縮小路線に急降下した。こういう場合田中氏の政治力・経済政策は弱かった。昭和49年7月の七夕参議院選挙では田中の全国遊説の努力も空しく、「金権選挙」、「企業ぐるみ選挙」の評判がたって、改選前の議席を大きく失い寄せ集めてやっと過半数は維持したものの、田中内閣への不信任が示された状況となった。選挙後田中氏への造反が始まって、三木氏や福田氏が内閣から離れた。

昭和49年10月「文芸春秋11月号」が店頭に並んだ。立花隆氏の論文「田中角栄研究ーその金脈と人脈」、「淋しき越山会の女王」が掲載してあった。忽ちのうちに雑誌は売り切れ、刷り増しされたという。前著は田中氏が「庶民宰相」といわれるが、その実態はおよそ庶民感覚から遊離した巨額な土地ころがしによる蓄財にあり、後著は私生活における1人の女性が田中の影で資金面を動かしているという告発であった。この書は次第に波紋を広げ自民党内には辞任を求める声が大きくなった。それでも田中首相はニュ−ジランド、オーストラリア訪問を終えて内閣改造をおこなった。米国のフォード大統領の日本訪問が終ると政局は一気に田中辞任に動いた。11月26日田中は竹下官房長官を通じて退陣声明をした。田中氏はまだ56歳であり、再起を期すことも出来ると考えたようだ。田中派は衆議院銀河46名、参議院議員が44名、あわせて90名もいる党内の最大派閥である。田中内閣の後任は椎名裁定によりクリーン三木を選んだ。昭和51年2月4日にワシントンから意外なニュースが飛び込んだ。アメリカ上院のチャーチ委員会がニクソン前大統領の製資金問題を調査していたら、ニクソン大統領から田中がトライスラーの売り込みを受けたのではないかという疑いが出され、ロッキード社の賄賂が児玉と丸紅を通じて日本政府高官の手に流れたらしい。その黒い資金は30億円にのぼり、「ピーナッツ領収書」に日本人イトウのサインもあると云う。これを受けて三木首相はロッキード事件の解明に全力を挙げると宣言し、国会に小佐野、全日空の若狭、渡邊、丸紅の桧山、大久保、伊藤らを呼んで証人喚問が行なわれた。

田中氏は三木が政権を握っている状況では、灰色高官で公表され逮捕されるかもしれないと危機感をもち、とにかく三木を首相から降ろすか、自らの意の通じる人物を首相にするしかないと考えたようだ。ロッキード社のコーチャン側は証言を拒否していたが、日本の検察側はコーチャンの嘱託尋問を希望し、ロスアンゼルス地裁で6月26日に免責する事を認めて嘱託尋問が行なわれた。7月24日日本の最高裁はコーチャンらの嘱託訊問の刑事免責を発表した。丸紅の大久保専務が田中に5億円を渡すことが明らかにされた。こうして昭和51年7月27日東京地検は田中を逮捕した。かっての「今太閤」、「庶民宰相」が「金権政治、利権政治の権化」という忌まわしいレッテルへ落ちた。8月に田中は外為報違反と受託収賄罪で起訴された。昭和52年から58年第1審判決が出るまで6年9ヶ月法廷闘争が続いた。田中は自らの法定闘争を有利に導くために、国会と内閣を自在に操ることが必要である。法務大臣のポストを常に田中派が握ろうとしていたのはそのためであった。昭和51年12月の総選挙は一般に「ロッキード選挙」といわれ自民党内では三木降ろしとなった。田中は新潟選挙区でトップ当選をしたが、自民党は歴史的大敗を喫した。263議席で辛うじて過半数を超した。三木は退仁陣し、福田赳夫内閣が誕生した。福田内閣では田中は安心できないので、大平と組んで福田に一定の制約を与えるということが田中の戦略であった。

6) 闇将軍と田中政治の終焉

昭和50年代の半ばごろには、田中角栄は「闇将軍」とか「キングメーカー」と評された。田中派がどう動くかが政局を支配し、あたかも田中派に決定権があるような状況での総裁選挙が繰り返された。昭和53年12月大平は田中派の大量の票をえて福田を打ち破った。大平の急死を受けてそれ以降の鈴木善幸、中曽根康弘内閣はいずれも田中の票で成立した内閣であった。自民党のリベラリスト政治家宇都宮徳馬氏は田中を評してこういっている。「ロッキード事件は民間航空会社の機種選定に係る汚職という風に言われているが、本当は日本と韓国への戦闘機売り込み問題であり、それは出せないため首相を辞任していた田中氏を狙って周辺の航空機問題でお茶を濁したに過ぎない。そういう意味で田中氏は本当の権力の中枢には居なかったのである。官僚や官僚派歴代首相は決してこの程度のことで、罪になる事はありえない。」 権力の中枢を逮捕することは権力の崩壊につながるので権力者は決して行なわない。田中は権力の中枢にはいなかったという事を言っているのだ。田中氏はスケープゴートに過ぎないという見解もいわれている。評論家田原聡一郎氏は「アメリカの虎の尾を踏んだ田中内閣」という表現をしている。石油ショックのときにアメリカの面前で石油確保のためにアラブ支持政策を打ち出した田中内閣に対するアメリカのしっぺ返しがあったという見解がある。歴代の政治指導者はロッキード社から金を受け取ろうが、CIAから金を受け取ろうが、とにかく軍事兵器や戦闘機の選定に当たってはこれまで多くの金が動いてきた。それも兵器ではなく民間飛行機程度で田中を狙うとはなぜか。それは田中憎しに燃える佐藤・福田らの官僚派政治家のアメリカと組んだ巻き返しではなかろうか。昭和58年10月東京地裁で判決が出た。外為法違反と受託収賄罪で懲役4年、追徴金5億円であった。田中派は直ちに控訴した。

田中氏は昭和59年に入っても徹底して田中派の拡大と自らの政治的権限の増大に向けて努力していた。田中派は既に130人になっていた。田中の政治信条は「表決政治は1票たらなくても落選は落選」というように数の力がすべてであった。昭和59年密かに官僚派の宮沢喜一が総裁選出馬の了解を取り付けに訪れているし、阿部晋太郎は竹下に総裁選を打診しに来た。田中氏は自分の有力な後継者を作らずに、自らの影響力で睨みを利かしていたことが、若手らに自分が出る機会がないという不満を募らせていた。中曽根の後を狙うニューリーダーとして竹下に次第に声望が集まってきた。昭和60年竹下は「創政会」を旗揚げしたが、田中からはまだ早いという妨害を受けた。竹下は一応田中に従う様子を見せ、派中派という分派活動を既成事実化していった。その頃から田中氏の苛立ちと不安が募り酒量が増えたという。ついに2月田中は脳卒中で倒れた。田中の家族(真紀子氏)の希望によって田中派との結合関係は切れてゆき、昭和61年の総選挙で自民党は304議席を獲得する大勝利をおさめ、田中も断トツ一位で当選したが、次第にその存在は党内では薄れていった。昭和62年竹下派が「経世会」として旗揚げをし、ここに実質的に田中派は消滅した。田中派に殉じる二階堂派は15人程度で、竹下の経世会は113人の大きな派閥となった。田中派は事実上竹下派に乗っ取られた。経世会の結成から3週間後東京高裁の判決は控訴棄却であった。最高裁で争うことになった。同年11月竹下登が首相となった。田中角栄氏は平成元年10月政界引退を発表した。平成4年8月田中氏は日中国交回復20周年記念行事で北京を訪れた。平成5年12月75歳の田中は体調を崩して入院し帰らぬ人となった。


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