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坂上康俊著 「平城京の時代」 シリーズ日本古代史C 

 岩波新書 (2011年5月)

大宝律で律令制天皇集権国家がスタートし天平文化が咲き乱れる奈良時代とは

平安時代平城上皇は嵯峨天皇と対立し平城京へ都を遷都しようと、内侍藤原薬子と藤原仲成が絡んで810年薬子の乱が起きた。それ以来平城京は急速に衰退した。残ったのは東大寺・唐招大寺という教学の中心と興福寺など藤原家の氏寺と氏神だけである。もはや平野は田園地帯と化し、旧都は寺町となった。そして江戸時代中頃まで平城京の事は忘却の彼方に忘れられていたようだ。国学が「万葉集」や「古事記」の研究へと進み、19世紀中頃には穂井田忠友による正倉院宝庫文物調査や北浦定政による平城宮跡の調査が始まった。明治時代になって天皇と維新政府の権威を高めるため、平城京のことが掘り起こされた。やがてナショナリズムの高揚の中で平城京が日本の国家と文化の原点という評価を受けるようになった。フェノロサが法隆寺夢殿を開き、画家青木繁は日本神話を題材としたロマン主義を表現した。正岡子規は古今集を否定し万葉集を称揚し、斉藤茂吉は万葉集に傾倒した。こうして平城京時代が生み出した遺産は日本芸術の古典として、したがって近代日本の芸術の母体として地位を確立した。和辻哲郎は「古寺巡礼」に古都奈良の芸術を謳い、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、土門拳写真集「古寺巡礼」という平城賛歌が現れた。そして1998年「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録された。

歴史学でいうと、中世を日本独自文化の源とみる人は奈良時代を高く評価しないが、坂本太郎「大化改新の研究」は大化改新を明治維新に、大宝律令を明治欽定憲法に匹敵するほどの意義を与えた。石母田正は「日本の古代国家」で平城京の歴史は日本古代国家の完成期だと位置づけた。20世紀後半の歴史学での平城京時代の位置づけはある程度の共通認識が出来ているという。それはこの時代は一種の戦時体制で極めて特殊な時代であるとする。それが後の時代を形作ったとするなら、平城京の時代が現代まで残した最大の遺産は、日本の国家の枠組みである。地名・地域区分は奈良時代から今日まで基本的に変わっていない。天皇国家の人民は戸籍に登録されて様々な負担を課された(今日の国民総背番号制で税の一本化という形)ていた。平城京の時代の国家は人民を郷、里という共同体を上から把握してなりたった(今日の企業を介して把握する源泉徴収税制や労働組合)。その枠組みのなかに天皇がしっかりはめ込まれたのも平城京の時代である(今なお象徴天皇制が残滓として残っている)。

1) 律令国家の成立

慶雲4(707)年文武天皇がなくなり元明天皇が即位した。翌年遷都の詔が出て藤原京から平城京に遷都されたのは和銅3(710)年である。これをもって平城京の時代というが、実質的に平城京遷都はそれほど意義を持たないように思われる。というのは藤原京跡の調査が進むにつれその規模や内容から決して藤原京は平城京に劣るわけではないことが分ってきたからである。律令制国家の本格的な国つくりという意味では701年の大宝令の施行がキーエポックである。しかし大宝令が画期的かというと浄御原令に較べてそれほど革命的ということではない。そこで本書は697年の文武天皇の即位から始めようという。その理由は歴史学の重要文献である「日本書紀」(720年完成)が持統天皇で終了し、「続日本紀」が文武天皇から始まっているからだという。平城京の時代の最も頼りになる史料が「続日本紀」で、これは延暦16(797)年に完成し桓武天皇に奏上された国史書(六国史の2番目)である。持統天皇と文武天皇の間に王朝交代があったわけではないが、持統天皇で時代の区切りとしたいという意思が働いたのであろう。また「日本書紀」が中国で読まれる事を想定して正調の漢文で書かれているが、「続日本紀」には文武天皇の即位に述べる宣言文が「宣命体」(のりと文)と呼ばれる、名詞や動詞を日本語の語順通りにならべ、助詞・助動詞を漢字の音を借りて記す方法で記された。7世紀中頃から散文にはこのような日本語表記法が用いられ、韻文には一字一音で用いる万葉仮名を用いるようになっていた。ここに15歳の文武天皇が生まれ、持統太上天皇が支えるという態勢ができた。

大宝元年(701年)元旦の「続日本紀」の記事は「文物の儀、是に備はれり」と力を入れた表現となっている。それもそのはず対馬より金が貢がれ、3月、元号を「大宝元年」と呼び大宝律令が施行されたからだ。これまで年号は干支で呼んできたのを、律令で始めて元号を定めることになった。日本国家の統治システムを法的に整備する見通しを得た王権は、位階の呼称変更、官職の変更と人事異動、元号制、服制、衣冠の廃止(位記という辞令発行へ)の改革を行なった。そして朝廷人事では左大臣に多治比真人、右大臣に安倍朝臣御主人、大納言に石上朝臣麻呂、藤原不比等、紀朝臣麻呂が就任した。5位以上の貴族はこの時点では百数十名であった。大宝律令では律すなわち刑法については、全500条の完全に整備された唐律があり、殆どそのまま採用された。令は唐と同じように律令と格、式が編纂されたが、唐の令が1500条からなるのに対して、日本の令は1000条であり、唐令を選択して編纂したようである。令とは命令という意味の行政規則であるが唐にいたって体系的な法典として整備された。官位令、職員令、田令、公式令、賦役令、学令、選叙令、軍防令、神祇令、僧尼令などが定められている。律令に基づいて統治される国家を律令国家と呼ぶが、内容は実に様々で複雑である。大宝2(702)年持統太上天皇が亡くなった年に、「知太政官事」という政権のトップを監視する職が置かれ、刑部親王が命じられた。この職は後に穂積親王、舎人親王、鈴鹿王らという皇親が命じられたのだが、次第に形式化していったようだ。大宝4(704)年、年号を「慶雲」と改め、遣唐使が帰国したときにあわせて律令の見直しが行なわれた。「制七条事」といって太政官にめいじて律令の不備、負担の軽減などが行なわれた。大宝律令の見直しはさらに養老2(718)年ごろまで続けられ藤原不比等の死去で養老律令の編纂は終ったとされる。

8世紀の東アジアは比較的安定した状態であった。それは唐が吐蕃(チベット)との関係に忙殺されていたからである。新羅が統一朝鮮王朝を作り自信を持って倭と接したので倭と新羅の関係がギクシャクし、日本は大宝元年の遣唐使を送った。この遣唐使から初めて「日本」という国号が中国に伝えられた。日本のスタンスは微妙である。白村江で唐新羅連合軍と戦った「倭」の印象を弱め、別の国家「日本」で倭と縁を切りたかったようだ。唐に朝貢はするが冊封は受けない独立国家という外交方針を堅持した。大宝の遣唐使は北路の新羅経由をとらず、楊州を目指す南路の海路をとった。4隻以上の大型船団でむかった。以降天皇の代替わりには挨拶として大がかりな遣唐使を派遣すること7回に及んだ。日本としては唐の前の華夷秩序の存在(日本の方が新羅よりは上だいう自負心)を認めさせたかったのである。一方国内では、五畿七路という広域行政区画が出来上がっていたが、西と北には異民族が存在した。それが隼人と蝦夷である。隼人は九州の薩摩と大隈両国に住み、702年には反乱が起き大宰府が兵を派遣して討伐した。720年には隼人によって大隈国守が殺され大規模な反乱となった。大伴旅人が大将軍として鎮圧し、ようやく隼人の大規模反乱は治まった。こうしては隼人を「隼人群」に入れて、調庸をだす朝廷への服属が強要された。東北6県は「陸奥国」と呼ばれ、新潟,米沢、仙台以北に居住する人々は8世紀の朝廷の支配下にはなかった。彼らを蝦夷と呼んで、北の蝦夷居住区に城柵を設け、板東から移住させた人々を柵戸と呼び、彼らの居住区を拡大することで支配地を広げていった。8世紀を通じて隼人・蝦夷を支配下に治めるため出兵する帝国主義の時代であった。蝦夷の反乱は長く続き、720年隼人の反乱と呼応して按察使を殺害して反乱を起こしたが、隼人が屈服してからも724年陸奥海岸の反乱が起き、多賀城が設けられた。また780年にも伊治砦麻呂の反乱があり板東の兵士数万人を動員した。

2) 国家と社会の仕組み

この章は国家財政をまかなう仕組み(支配者の収奪機構:徴税)を考えよう。8世紀初めの日本の人口は400万人強であったとされ、そして支配者の貴族階級(五位以上)は100名強である。そして国家が国民の福祉政策を行うことはまずなかったとすれば、国家財政とは戦争の費用捻出と貴族階級・官僚機構という不労階級を養う費用であった。その費用がどれほど必要かはよく分らないが、まず税収入の基礎となる国勢調査の話から入ろう。「律書残篇」によると8世紀前半には555の郡があり、「国造本紀」では国造の数は120余と伝えている。郡の下の行政単位は里(郷さと)というが、全国の里の数は「律書残篇」によると4012とする。1里の人口は大宝時代の戸籍によると平均して1000人(大宝2年の美濃国戸籍によると、正丁4人を抱える戸を上・中・下の3等級のうち「中政戸」としている。すると戸口数は正丁ひとりあたりの家族数を5人とすると20人強となる。里は平均は50戸とするので、里の人口は1000人)であるので、平城京の人口4、5万人を加えて当時の人口は4百数十万人と計算される。中国の唐(安禄山の乱時)の人口は5291万人とされるので、日本の人口は唐の人口の10分の1以下であった。ここで戸籍がかならずしも実際の家族数を反映していない。仮にひとりの正丁あたり5人としたが、それが1家族という保証は無いし、稼ぎ頭が正丁ひとりというわけでもない。6年毎に作られる戸籍を支配の根幹において、毎年の調庸(税)の徴収台帳である計帳を作るのであるから、おおよそ5,6人が生活する竪穴式住居の軒数を4軒として20人あたりを1戸とした。50戸を集めた里とは自然に存在する集落を2,3集めて呼び名をつけたのであろう。4人の正丁からなる標準的な1戸から兵士1人という原則で徴兵された。つまり一つの里から50人の兵士を徴兵したということだ。これが軍隊の基本単位である隊を構成した。これを積み重ねて軍団をつくる。1里という単位から都で3年間雑役に従事する「仕丁」と炊事役の「厮丁」1人も徴発された(養老6年の制度)。徴発された兵士は全国で20万人(4000×50人)、都に集まる「仕丁」、「厮丁」は6500人ほどであった。この軍団兵士制の仕組みでは兵士の逃亡を防ぐため東国の兵士は九州北部の沿岸部に配置された「防人」に、また東北の蝦夷居住区におく柵戸の「鎮兵」も東国(とくに板東)から徴発された。

税を確実に徴収するには、田を把握しなければならない。公民が生活するために「班田収授」の制度をつくり、国家運営のための諸経費を調達しようとする制度が「租庸調」であった。6年毎の戸籍(690年 庚寅年籍)に基づいて、公民に班田した。717年には里を改め郷とした郷里制に基づく養老5年(721)の養老造籍、郷里制が廃止された740年の天平造籍、墾田永年私財法を経て、造籍後の班田支給の時期が2年後、3年後と後れてゆき、801年には12年ごとに一度の班田となった。戸籍に二度登録された者にすべてに水田が支給され一生保持できる。男子に2段(反)、女子にはその2/3、奴婢には良民の1/3が支給された。班田収授法が実施されるためには、水田の区画である「条里制」と、土地図面台帳である「田籍」、「田図」が整備された。土地の特殊性からきれいな区画が可能だったかどうかは怪しいが、道路に平行・直角というラインが引かれた。天平以降は田籍よりも田図の方が区画管理手段として重要視され、755年、773年、786年の班田図は「四証図」として重視された。班田には原則として「租」が課せられた。上田では1段当たり稲50束(中田の収穫は30束、下田の収穫は15束である)が見込めるので1.5束が課せられた。税率は収穫の3%である。この租の根拠は恐らく1段の種籾の量2束から来ているようだ。つまり備蓄用という名目で租が集められた。種籾は「公出挙」という形で公民に貸し出され、利息は5割(平安時代には3割で固定された)といういわば官営の高利貸しである。この収益が諸国の経費に充てられた。公出挙の起源は共同体内部の再生産維持の方法であったろうが、公出挙に諸国の財源を依拠することになった途端に、毎年一定量の公出挙を割り当てるという強制貸付となった。いわば地方税財源であった。既に天平年間では租と「公出挙」の収入はほぼ拮抗していた。一方中央政府の財源は主として調庸に求められた。「調」は本来貢物という意味で、繊維類、食料品、雑貨類からなり、都に運ばれた後、天皇からの贈り物として官人の禄に充てられた。「庸」は雇い賃という意味で、成人男性を年間20日の力役に徴発することであったが、実際には繊維類・食物で提出することも可能であった。地方から徴発した「庸」は采女、兵衛、衛士、仕丁といった下働きや警備役、官庁の雑役に人々を養うために必要であった。日本の律令制度は諸国の財政を公出挙でまかない、中央政府の財政を調庸でまかなうという仕組みであった。はたしてこの財政収入で国債もない時代に、朝鮮への出兵や、遣唐使、東大寺など官営仏寺建設、頻繁に行なわれた遷都、蝦夷隼人経営、飢饉などの出費に対応できたのだろうか。

国ー郡ー里50戸という行政単位の末端が50戸1000人の里(郷)であった。その里を束ねるのが里長であった。万葉集の山上憶良の「貧窮問答歌」に言われるように「鞭執る里長が声は」という風に、鞭をふるって徴税する里長の姿は本当だったのだろうか。どうも山上憶良の歌は唐の文の摸写ではないか(敦煌遺書)という説がある。今の日本では村長さんクラスの共同体の人がそんな強権をふるえたとは思えない。日本古代の地方行政の単位としては郡が大きな力を持ち、戸籍の作成など郡司のはたす役割が大きかった。国司は国から派遣され、郡司はその郡内の有力者から任じられる。1国に派遣される国司は大きな国でも守1人、介1人、掾2人、目2人と史生3人の計9人だけである。国庁では儀式・政務、国内巡視、公出挙の割り当て、戸籍・計帳の取りまとめ、都に計帳、調庸、考選文、計会帳、正税帳などを作成して都の審査を受けなければならない。国司だけでは国内をすべて把握できるわけがなかった。郡司に負ぶさるところが多かった。郡司は世襲で終身官でもあった。郡司の任命は国司の推薦をうけた候補者が式部省で訓練を施されて任命される仕組みであるが、そこで重視されるのが「譜第」という先祖以来の郡領の経験であったという。地方行政の区画割については今日の日本でも「道州制」という大きなくくりが議論されている。奈良時代のくくり方は、天武天皇の時代国境の確定作業が行なわれ、五畿内'首都圏)として大和、摂津、河内、山背、和泉が成立した。畿内以外の国は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道という七つの行政区画(7道)に組み込まれた。京畿内では京ー条−坊という制度をつくり長を置いた。都の人は条坊制という碁盤目のような区画に戸籍を持った。機内では調は半分、庸は全免されており、布のみが徴収された。

豪族達は京に住む事を強制され律令制官僚組織に組み込まれた。中央政府の官僚は2官、8省、5衛府、1台の組織であり、4等官以上の官位に任じられているものが約500名、その下の下級役人が約5000人であったとされているが、時代とともに官僚の数は増えてゆく。三位以上の貴族は119人といわれ、天皇の任命を受ける5位以上になるのは容易ではなく、六位以下は地下といわれた。六位の最上段まで上がるのに15階級あり、6年毎の昇任でゆくと、3,40年かかってようやく五位に手が届く次第であった。貴族の子弟は「蔭位」の制度があって急速な昇進が許されていた。このあたりの貴族の昇進と栄華については枕草子や源氏物語に雅やかに語られている。

3) 平城遷都

日本の古代歴史とはイコール天皇史みたいなところがある。庶民はまだ歴史の主人公になっていないのだから仕方ないが、それにしても誰が天皇になるかが貴族にとって最大の関心事で、それを巡る争いが権力闘争であり政治であったらしい。さて唐の律令を参照しながら国家の仕組みをつくってきた文武天皇は707年にあっけなく25歳で亡くなった。天武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)はまだ7歳に過ぎなかったので、天武天皇の母が即位して元明天皇となった。皇位継承が円滑に運ばないときに、女帝が中継ぎに立てられる慣習があり、女帝を立ててそれを援護する体制がキングメーカーたる藤原家の常套手段であった。元明天皇即位の時点で、天武天皇の皇子には、穂積親王、長親王、舎人親王、新田部親王、長屋王らがいた(この中で藤原家の血が入っているのは、新田部親王、長屋王である)。天皇の母は皇族でなければならいとする皇族直系派の考えでは、これらの有力な親王が多数いる中で、文武天皇と藤原宮子の間の子供である首皇子が即位するのには大きな抵抗があったと思われる。元明天皇の即位の宣命には、天智ー持統ー草壁ー元明と続く系統は天智天皇の令を「不改常典」と考えて守り抜く決意が述べられている。8世紀は皇統を天智・天武の直系を正統とする時代であった。

元明と元正天皇は中継ぎ女帝として立ったが、施策は平城遷都、和同開珎の発行、「古事記」、「日本書紀」の完成、養老令の編纂と画期的な出来事が多い。慶雲4(707)年に藤原京から平城京への遷都が諮られた。平城遷都の理由は大宝の遣唐使の見聞から来ているようで、「周礼」に範をとって、内裏を中央北端において朱雀大路が中央を別つ都の配置に影響されたようだ。ただそれだけで立派な藤原京を捨てる理由としては納得できないが、貴族の趣味は分らない。和銅3(710)年に平城京に遷都した。和銅開珎はどうも流通しなかったようで、「蓄銭叙位令」という買官制度まで作ったが、記念のメダル以上のものではなかった。元明と元正天皇の時代には「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が完成し、「風土記」の作成が命じられた。(713年) 古事記は天皇家の私的な読み物で、元明天皇が幼い首皇子の帝王教育の教材として作ったという説が有力である。「日本書紀」は貴族役人を相手に講読会が開催されているが、古事記にはその記録がない。「日本書紀」は飛鳥浄御原宮の天武天皇が681年川島皇子と忍壁皇子に「帝紀および上古の諸事」を筆録させる詔をだして以来、推古9(601)年を「辛酉革命の年」とみなし、それから1260年前に遡って神武即位年と定めた。数百年の寿命の天皇が何人もいたり、欠史八代を設けるなど弥縫策が目立つ。神話の想像力不足からきたお粗末ではないか。これらの編纂事業で主導権を握っていたのは藤原不比等である。

藤原鎌足以来政界の中心に躍り出た藤原氏は、過去から未来へとつながる相互依存関係の積み重ねの中に自らを位置づけて、天皇に仕えた。かっての蘇我氏のように天皇の后(正后でなくとも)に娘を入れ、もし子供が天皇の地位につけば外戚として絶大な権力をふるうという婚姻関係は、それが当時では政治といわれていた。平安時代には藤原氏は摂関家として后メーカの地位を不動のものとした。こうして何百年も藤原氏は天皇家に纏わりついた藤の蔓のようであり、血の関係では天皇家を乗っ取ったとも言える。しかし婚姻関係は偶然の要素が大きい。いったん握った権力を安定的なものにするためには制度として合法化する必要があった。それは大宝、養老律令の編纂に主導権を握って、自分達に都合のいいような規則を決めることである。大宝令で固定された藤原不比等の既得権益の最大のものは蔭位制と勅封制である。不比等の子供ら(藤原四家の麻呂、房前、宇合、武智麻呂)は大職官(正1位)の息子として政界にデビューできたのである。直孫で正六位以上から、庶孫でも生六位下からスタートできた。最初から貴族の扱いであった。天皇から与えられる封戸である「勅封」として2000戸、右大臣としての禄は2200戸とあわせて不比等ひとりで84里分(当時の全国で4000里だった)、つまり日本全国の調庸の1/50を独り占めした。皇親の「勅封」は長屋王で5000戸(約90里)で、かつ蔭位は親王の子は従四位下から官位はスタートした。その藤原氏にとっても、皇后は皇族からという規定は、なかなかクリアーできなかったため、策略が必要であった。それが政治力である。

和銅8(715)年元明天皇は元正天皇(氷高内親王、女帝)に譲位した。このとき首皇子は15歳であったが、さらにもう一度女帝のピンチヒッターを出したことになっる。独身の内親王であった点が一番無難であったようだ。元正天皇の治政のもと、藤原不比等は長屋王の補佐を得て、日本国家は律令体制の完成に向かった。717年には郷里制が施工された。これまでの里を郷と改称し、その郷の下に2,3の里を設けたのである。さらに1戸を2,3に分割し房戸と呼んだ。郷には郷長、里には里正をおいた。人口の増加に見合う行政単位の再編であるが煩雑すぎて不評であったので、747年には郷ごとの編成を放棄するに至った。720年ぶは隼人の反乱が起きたが大伴旅人が鎮圧し、時を同じくして蝦夷が反乱を起こし式部卿藤原宇合(うまかい)が持節大将軍として鎮圧した。藤原宇合は遣唐使、持節大将軍、「風土記」の編纂とまさに七面六臂の活躍ぶりであった。養老5(721)年元明太上天皇が崩御されたので、翌年元正は譲位して太上天皇となり、首皇子は聖武天皇となって即位した。そして元号を神亀元年と改元した。左大臣に長屋王が上がり補佐した。722年には100万町歩開墾計画が発布され、国は右肩上がりの成長期にあり、人口増加による開墾奨励のため「三世一身法」という暫定期間の私有を許す法が出された。聖武天皇は即位後、母藤原宮子を「大夫人」と呼べという勅旨を出したが、これに対して長屋王は皇太后は皇族に限るという公式令があるから違勅となるとクレームを出したが、藤原家の入知恵に違いないが公卿の論奏という形で「皇大夫人」案をだし公卿の署名が必要な詔書で「宮子を皇大夫人」と呼ぶことになった。(現皇室範典では后は庶民出であろうと皇族となるが、当時の律令では皇后は皇族からという規定があった。) 皇族でない藤原氏出身の宮子に「皇」という字がついたのである。

聖武天皇は夫人藤原光明子との間に安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)をもうけていたが、男子に恵まれず、727年に待望の男子(基)が出来たが夭折した。ところが夫人犬養広刀自との間に男子(安積親王)が生まれた。しかし犬養氏は公卿を出す家柄ではなく安積親王の後ろ盾は脆弱である。安積親王に天皇位行く事を藤原氏の望むところではなく、実力行使に備えて728年兵制の改革が行なわれた。新しくもうけた中衛府の大将に藤原房前が就任し、光明子・孝謙女帝の護衛を名目にした実動部隊となった。神亀6(729)年の政権の顔ぶれは、知太政官事に舎人親王、左大臣長屋王、大納言多治比池守、中納言大伴旅人、藤原武智麻呂、安倍広庭、参議藤原房前であった。藤原氏としては安倍内親王を皇位継承者にしたいところであるが、長屋王系は男子王が沢山控えており魅力的な人材が揃っていた。長屋王系に皇位が移ったら藤原の系統ではない純皇統の天武ー草壁ー吉備内親王(長屋王の夫人)の系統に継承されてゆくので、藤原氏の望むところではない。そこで一計が企てられた。729年長屋王謀反の密告である。直ちに藤原宇合は六衛府の兵を集めて長屋王邸を取り囲み、長屋王と吉備内親王および子供らを自殺させ、無実の罪で葬り去った。こうして長屋王系は抹殺され、天平と改元した。天平3(731)年藤原四家の藤原宇合、麻呂、武智麻呂、房前の4人が公卿に列した。

4) 聖武天皇と仏教

天平8(736)年4月、疫病と干害が西日本で猛威を振るい始め全国にひろまった。藤原四家の兄弟全員が死去した。公卿7人のうち生き残ったのは橘諸兄と大伴道足の2人だけとなった。そこで朝廷の議政官には、鈴鹿王を知太政官政事に、多治比広成を中納言に、藤原豊成を参議にして急場をしのいだ。こうした中、ひどいうつ状態に悩んでいた皇太夫人宮子が中宮職吉備真備の紹介で僧上玄ムに逢った途端に病が治って、その功によりこの二人が疫病の間隙を縫って急速に朝廷内に勢力を伸ばしてきた。翌738年橘諸兄の働きで安倍内親王の立太子が挙行された。蝦夷の北方経営も一段落した時期から防人制の見直しなど軍事政策の縮小がはじまり、疫病による経済規模の縮小による郷里制の廃止など政府の政策は大きな転換期を迎えた。この時期の政府の中核にいた玄ム、吉備真備を除くべしという藤原広嗣(宇合の長男)が天平12(740)年大宰府で反乱を起こした。橘諸兄はこの反乱を平定したが、それから聖武天皇の5年に及ぶ彷徨が始まったのである。母子ともに精神的にきわめて弱かったようだ。伊勢・伊賀・美濃・近江を巡る行幸に出て、この間に恭仁・紫香楽・難波に遷都をしようとした。これを諫止するものもなく国費は浪費された。語るのも馬鹿馬鹿しいような狂人聖武天皇の振る舞いである。聖武天皇の天平後期から称徳天皇の治政にかけて、天皇と朝廷は仏教に染まっていったかのごとく見える。勝手に僧尼になる事を禁じた僧尼令が出され、厳しい修行と戒律が課せられ、民間への布教は禁じられて仏教は国家鎮護の目的ひとつに絞られた。聖武天皇のときに「金光明最勝王経」の写経を始め740年には「法華経」の写経、「観世音経」の写経と観世音菩薩像の造立が命じられた。天平13(741)年国分寺・国分尼寺建立の詔が出された。天平15(743)年、紫香楽宮に滞在中の聖武天皇は蘆舎那仏の造立を命ずる詔をだした。聖武天皇、光明皇后、皇太子安部内親王らの思惑は、仏教に自分たちの皇孫安寧の願いが籠められていたと見るべきであろう。僧尼令に続いて、戒律の伝授の確立を願って唐より鑑真和尚ら高僧の来日が図られ、来日直後に聖武天皇、光明皇后、皇太子安部内親王(孝謙天皇)の三者が菩薩戒を受けた。菩薩戒とは大乗仏教の戒であり一切衆生をすくう「利他行」に励む事を誓う人に授けられる。そこに身を置くことで安心を求めるということは、それほど女性天皇の脆弱な立場を表現している。

東大寺は聖武天皇の夭折した男子皇子「基」の菩提を弔うために若草山の麓に立てられた草堂にはじまった。安倍内親王の立太子のときに国分寺となり、天平17(745)年行基を大僧正として蘆舎那仏の造立に邁進させた。長門から大量の銅をえて大仏の建立が始まった。天平21(749)年陸奥国の百済王敬福によって金が都にもたらされたことにより大仏完成は近づいて、聖武天皇は譲位し直ちに女性天皇孝謙天皇が即位し、天平勝宝と改元した。天平勝宝4(752)年大仏開眼供養が、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇大后の臨席のもと執り行われた。756年聖武天皇はこれを見届けて世を去った。さて聖武天皇の国家財政はどうだったのだろうか。757年橘諸兄の子橘奈良麻呂の謀反のときの理由のひとつに「藤原仲麻呂の政は無道で、東大寺造営により人民辛苦する」といっている。東大寺には封戸5000戸、既墾田100町が与えられた。さらに1000町の墾田開発権も与えられていた。これらの田は律令制に寄生して経営される初期の「荘園」の始まりである。天平15(743)年の「墾田永代私財法」により、墾田の熱意は凄まじく、疫病による経済の縮小の衝撃から立ち直って、総生産と税収の増大も著しかった。そうした裏付けがあってはじめて、造都、造寺、造仏を推進することが出来たのではなかろうか。こうした経済的利益追求の熱意は、本貫地(戸籍)による律令支配の伝統的な共同体は次第に薄れ、貴族や寺の私領に依存する関係が深まっていった。

5) 古代の黄昏

聖武太上天皇なきあとの政局は、光明皇大后と藤原仲麻呂を中心に動く。仲麻呂は武智麻呂の次子であり、光明皇后は叔母にあたる。能吏として計数に明るく、財政データに精通しとんとん拍子に出世して孝謙天皇即位に伴いいきなり大納言となる。そのとき仲麻呂の上には左大臣橘諸兄、右大臣に兄の藤原豊成しかいなかった。光明皇后のためにつくった官庁紫微中台の長官を兼ね、紫微中台は光明皇后と孝謙天皇の意を体するところで実質的に政治権力を掌握することができる組織であった。仲麻呂は中衛大将も兼ねていたので、兵権をも掌握した。こうした仲麻呂の強力な政権運営のもとで、蘆舎那仏の造立、東大寺の造営そして大仏開眼供養が完遂された。756年聖武太上天皇が死去したとき、新田部親王(天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘との子)の子である道租王を皇太子に立てたが、757年には廃太子され舎人親王の子である大炊王(後の淳仁天皇)が皇太子に立てられた。この光明皇后と仲麻呂の企てた皇太子交替劇に怒った群臣の1人に橘奈良麻呂がいた。父の橘諸兄は756年に密告で失脚していたため、奈良麻呂の昇進はすっかり停止していた不満が高まって、奈良麻呂は仲麻呂勢力の一掃をねらった政変(奈良麻呂の変)を企て謀議が漏れて殺害された。758年孝謙天皇は譲位し、淳仁天皇が即位した。仲麻呂は「大保」(右大臣の中国風呼び名)に任じられ、「恵美押勝」という名を与えられた。760年仲麻呂は「大師」(太政大臣の中国風呼び名)に任じられた。大宝律令以来太政大臣に任じられたものはなく「則闕の官」(その任に堪えられる者がなければ欠けてもいい職)という空前絶後の権力者となった。そして仲麻呂は正一位となったが、その権力も760年光明皇太后が没するとかげりを見せ始めた。

淳仁天皇と孝謙太上天皇との関係が悪化し、太上天皇が国家の枢要な権力を天皇から奪った。そして淳仁天皇を廃帝として淡路に流し、自ら再び称徳天皇として即位した。これによって吉備真備が政界に復活し、藤原永手が政権に近づいた。僧道鏡は766年法王となったが、皇位を狙ったとされる宇佐神宮神託事件で失脚した。770年その称徳天皇が崩御すると、藤原永手・良継・百川らはすでに高齢となっていた白壁王を立て光仁天皇が即位した。しだいに称徳天皇時代の歪んだ人事の残滓を払拭した。772年光仁天皇の井上皇后が天皇を呪詛したという疑いで廃位され他戸皇太子も廃されて、山部親王が立太子した。藤原永手の死去と吉備真備の辞職により政権運営は藤原良継・百川(式家)に移った。この頃唐では安禄山の乱により帝国の支配が緩んだ隙を縫って、渤海国が台頭し新羅との関係で小野田守が渤海に派遣されていた。その報告を受けた仲麻呂は新羅征伐計画を大宰府に立てさせたが、唐の懐柔策に乗った渤海が新羅を攻める気を無くしたため、新羅征伐計画は立ち消えとなった。775年陸奥国で蝦夷が反乱を起こし桃生城が攻撃された。大伴駿河麻呂により鎮圧されたが、依然不穏な情勢は続き、紀広純殺害事件によって朝廷と蝦夷の間の全面戦争が繰り広げられた。蝦夷の朝貢は774年に廃止され、陸奥国を完全に律令支配下の領土となった。九州薩摩の隼人が帰順して朝貢が停止され班田収受が実施されたのは800年の事であった。こうして日本の原型が定まった。


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