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吉川真司著 「飛鳥の都」 シリーズ日本古代史B 

 岩波新書 (2011年4月)

聖徳太子から天武天皇へ 律令制中央集権国家の確立 

本書は日本古代史のなかでも「7世紀史」に関する。AD601(推古9年)−700(文武4年)の間の日本史である。年号が王朝の独立性や政治システムをしめすものであるとするならば、7世紀はそこにいたる最終段階であった。文化的には「白鳳文化」(奈良時代は「天平文化」というに対して)ということはあるが、政治的に天皇の在位期間で区別しているだけである。国名は「倭」であった。大きくは聖徳太子の時代から大宝律令の直前までが7世紀史の期間である。通称「飛鳥時代」とよぶが、都(王宮所在地)がいつも飛鳥地域にあったわけではない。「奈良時代」は都は平城京で固定されていたが、飛鳥時代の都は天皇の在位に応じて転転と移動した。しかし飛鳥時代は実にダイナミックなイメージである。天皇または皇子が血刀をさげて争う闘争の時代であった。天皇が実力を持たないと直ちに崩壊する危い時代であった。少なくとも天皇はお飾りではなかった。天皇の権力機構も一元化していた。時代は国際情勢(中国を中心とする東アジア)を受けて、緊迫した圧力を隋や唐から受けた朝鮮半島の政治情勢抜きには語れない。遣隋使・遣唐使によってもたらされる新しい文明、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱とつづく激動の政治情勢、そのなかで打ち立てられる律令制中央集権国家と絶対王権、そして法隆寺の釈迦三尊蔵、高松塚古墳壁画、万葉集、日本書紀の編集とこれらのすべてが飛鳥時代に生起した。飛鳥時代の始まりは592年の推古天皇の即位で、その終わりは710年の平城京遷都であろう。日本古代の研究手法は「日本書紀」、「古事記」、「万葉集」、「風土記」、「藤氏家伝」などの文献、中国・朝鮮の歴史書、金石文で歴史が論じられてきたが、近年実証研究のレベルが上がり、遺跡発掘調査など考古学的研究、「木簡」などが一次史料としてクローズアップされた。これらの実証研究によってかえって「日本書紀」の記載史実の裏付け・強化がなされている。

著者吉川真司氏のプロフィールを紹介する。吉川真司氏は1960年奈良県生まれ。1989年京都大学文学研究科博士課程終了し、現在は京都大学文学部教授である。専攻は日本古代史で、主な著書には「律令官僚制の研究」(塙書房)、「天皇の歴史2聖武天皇と仏都平城京」(講談社)、「展望日本歴史6律令国家」(東京堂出版)などである。京都大学国史学科の伝統は、内田 銀蔵  (1907. 5. 3 〜 1919. 7.12 )、三浦 周行 (1909. 5.22 〜 1931. 7.15 )、西田直二郎) 1919. 6.12 〜 1946. 7.31)、 喜田 貞吉 (1920. 7. 5 〜 1924. 9.29)、 中村 直勝 (1927. 7.19 〜 1948. 1.29)、 藤  直幹 (1936. 3.31 〜 1948.10.24)、 柴田  實 (1946. 8.26 〜 1950. 3.31)、 小葉田 淳( 1949.11.30 〜 1969. 3.31)、 赤松 俊秀( 1951. 8.16 〜 1971. 3.31)、 岸  俊男( 1958. 3. 1 〜 1984. 4. 1)、 朝尾 直弘( 1968. 4. 1 〜 1995. 3.31)、 大山 喬平 (1971. 4. 1 〜 1997. 3.31) 、鎌田 元一 (1983. 4. 1 〜 2007. 2. 2 )と受け継がれ、現在、藤井、勝山、吉川、谷川の四人体制で、広い視野に立った実証主義という独自の学風や学生の自主性を重んじる研究室制度などの優れた伝統を継承しつつ、新しい時代に即した研究・教育のあり方を模索しているということである。

1) 飛鳥の王法と仏法

日本書紀によると、欽明13年(552年)百済の聖明王から釈迦如来像と経論・仏具が贈られた。いわゆる仏教伝来である。渡来人集団を束ねて文明開化路線を企てる蘇我稲目・馬子親子一族は仏像を飛鳥豊浦に安置したが、在来の武力集団であった物部氏の圧迫を受けて仏像は破壊された。用明天皇が死去した587年にはその後継者争いと連動しながら、蘇我・物部の武力衝突となった。蘇我馬子は物部氏を滅ぼすと崇峻天皇を擁立し、588年伽藍寺院飛鳥寺の創建に着手した。591年崇峻天皇は馬子によって暗殺され、推古天皇が即位した。蘇我氏系渡来人集団の職能工人の働きにより推古4(596)年に飛鳥寺の堂塔が完成した。594年推古天皇と聖徳太子は「三宝興隆詔」を出し、曽我氏の仏教を公認した。百済王は仏舎利と僧侶・造寺技術者を送って援助した。飛鳥仏は高句麗の大興王の黄金支援もあり609年に完成した。飛鳥寺は1塔3金堂という全く類を見ない伽藍配置をもち、朝鮮の高句麗や百済の影響を見ようとする見解があるが、いずれの影響かは決を見ない。この時点では飛鳥寺は蘇我氏の氏寺であろう。天皇が経営する寺院が国大寺となるのは大化の改新後のことである。飛鳥寺の創建に百済・高句麗が援助したのは、文化支援だけではなく東アジアの国際情勢で考えなくてはならない。581年隋の文帝が中国を統一した。煬帝のときに隋は全盛期を迎えたが、北に突厥、東に高句麗の存在が念頭におかれた。583年年文帝は突厥を東西に分裂させ、607年煬帝は東突厥を臣従させた。6世紀の朝鮮半島は東南部に新羅が急速に台頭し、南の百済を圧迫し、北の高句麗を押し上げるという三国時代となった。高句麗は平壌に都をおき新羅に対抗するため570年倭に使者を送った。隋の中国統一という国際情勢をうけ、百済・高句麗の戦略との連携しながら,倭は新しい外交関係に直面することになる。

7世紀前半までの王権は大王(後日の天皇)が国王として権力の頂点に立ち、私部・壬生部の大規模の領民を所有して権力基盤とした。これを部民制という。王権を取り巻いて、大夫という支配者階級(豪族)が権力を構成し、そのトップに蘇我氏などの大臣が大王を補佐し、大王との婚姻関係を深めていった。こういう政治構造を反映し、天皇即位については群臣による推戴するという儀式が行われた。皇位継承原理は天皇を父に持ち、皇女を母に持つ人物だけが直系として認められ、曽我氏の娘が天皇との間に生んだ皇子は傍系とみなされ即位は難しいとされた。すると継体−欽明ー敏達ー竹田皇子が直系ラインになった。しかし敏達がなくなったとき竹田皇子が幼少であったので、蘇我傍系の用明天皇が即位したのである。竹田皇子が夭死したので、用明天皇の長子であった聖徳太子が皇位継承者となった。こうして推古朝の政権中枢は、推古天皇−聖徳太子という蘇我色の濃いラインとなった。562年に百済の伽耶が新羅に併呑され任那の権益を奪われたので、倭の支配層にとってその復興が悲願であった。推古8(600)年には倭が新羅に1万人の兵を出し降伏させた。これには朝鮮側の史料「三国史記」には関連記事がない。新羅と戦いつつ隋に備えるという高句麗の戦略と,新羅に圧迫される百済が倭と誼を結ぼうとするには当然で、百済・高句麗の飛鳥寺創建への援助はそのためであったといえる。推古10(602)年、倭は来目皇子を新羅征討将軍として渡海準備をしたが、来目皇子の死去と当摩皇子の帰国によって新羅攻撃は中断した。倭は600年、607年に独自に遣隋使を派遣し朝貢をして情報収集にあたった。小野妹子、高向玄理、南淵請安、僧旻らが留学した。百済・高句麗にとって倭が朝貢する事は、新羅をけん制する意味で歓迎するところであった。

新羅征討を中止し隋を見てからは、倭は急遽国内整備に乗り出した。推古11(603)年王宮を豊浦宮から小墾田宮に移した。小墾田宮の遺構は見つかっていないが、儀礼空間として王宮の威儀は高められたようだ。同年冠位一二階が制定され、身分を冠の色で区別し、服装も改められた。翌推古12(604)年聖徳太子は憲法17条を定めた。訓令的な内容で仏教色・儒教色の濃い当たり前のことであり、まだ律令制中央集権的政治体制には程遠い状態を示している。聖徳太子のブレーンであった高句麗僧慧慈の存在が窺える。推古16(608)年煬帝の使者裴世清が小墾田宮にやってきた。倭が礼儀の国、大国惟新の化を示す盛大な歓迎行事が催されたことであろう。(明治維新後に文明開化を示す鹿鳴館の宴とおなじ) 飛鳥王権には2つの流れがあった。欽明天皇を軸とする一つは用明天皇・推古天皇・聖徳太子の蘇我氏系の傍系であり、もうひとつは敏達から舒明天皇につながる「押坂王家」の直系である。聖徳太子は601年斑鳩宮に移り「上宮王家」と呼ばれた。飛鳥とは太子道で連絡し、難波には竜田道で連絡する物資や交通の要衝にあった。621年聖徳太子は斑鳩宮でなくなり、蘇我刀自古郎女の間に生まれた山背大兄王が「上宮王家」の跡をとった。そして推古34(626)年に蘇我馬子が亡くなり、蝦夷があとを継いだ。628年75歳で推古天皇がなくなり、推古天皇の遺志は田村皇子(舒明天皇)の直系ラインを選択した。630年舒明が即位し岡本宮に遷居した。その岡本宮は636年に焼けてしまい、日本書紀によると田中宮に移った後、百済宮と百済大寺(遺跡は吉備池廃寺)の建設が始まった。隣の大陸では隋が滅んで617年唐の高祖が立った。628年二代皇帝太宗が全国を統一し、「貞観の治」と呼ばれる繁栄期を迎えて外に向けては積極的な膨張政策が取られた。そこで舒明天皇は630年犬上御田鋤らを遣唐使として唐に送った。朝鮮三国も唐に朝貢していたが、唐が最も重視したのは新羅との関係であった。唐は返礼として高表仁を使節として新羅使も同伴して倭に遣わしている。隋から「礼儀」を教わった倭は唐から「法式」を学ぶ意図で遣唐使を送ったようだ。632年御田鋤の帰国にともない、渡来人氏族系の学問僧も帰国した。僧旻、高向玄理らも相次いで帰国した。隋・唐で最新の思想・仏教・法制を学んだ知識人の帰国により、彼らは後の大化の改新以降の政治改革に活躍するのである。

2) 大化改新

641年舒明天皇が亡くなった。翌年舒明の皇后であった宝皇女が即位し皇極天皇となった。上宮王家(山背大兄王)、押坂王家(中大兄皇子)、蘇我宗家の思惑を先送りにして、中大兄皇子の成人を待つため、后が天皇となった。アジアでは再び激動の時代を迎えた。唐の太宗は版図拡大へ動き、630年北の東突厥を滅ぼし、西へ軍を進め635年青海の吐谷渾を下し、640年には西域の高昌を滅ぼしてオアシス国家をつぎつぎに飲み込んだ。こうして北方と西方の国家を滅ぼすと、残るは東方の高句麗のみとなった。高句麗は脅威を感じて長城を築き唐の侵攻に備えた。こうした唐の拡大路線を反映して、642年より朝鮮三国の動乱と権力集中が始まったのである。百済の義慈王は642年新羅をせめて旧伽耶の地を奪回した。ついで百済宮廷内では扶余豊を太子から退け、倭に人質として赴かした。倭との同盟を深めるための方策で、いよいよ義慈王の独裁権力が強化された。高句麗では642年泉蓋蘇文がクーデターを起こし、栄留王らを殺して宝蔵王を擁立し自ら莫離支となって全権を掌握した。唐は新羅を攻めないように要請したが、蓋蘇文は拒否したので、唐は遂に645年高句麗への総攻撃を開始した。高句麗はよく戦いこれを斥け、647年、648年の役も唐を退却させた。太宗の死によってこの戦役はひとまず終った。新羅では642年の百済の侵攻を受け、唐の高句麗出兵に協力した。朝廷内では唐依存派と親唐自立派の争いとなったが、自立派の金春秋が勝ち648年朝貢使として唐の太宗に面会した。倭国にとっても決して対岸の火事ではなく、アジア情勢に対応しながら国家整備を進めて行くことになる。権力闘争のセンテを取ったのは蘇我入鹿であった。皇極天皇のときには押坂王家嫡流の中大兄皇子、押坂王家でも蘇我氏の血が入った古人大兄皇子、上宮王家の山背大兄王の3人が天皇候補者であったが、蘇我入鹿は古人大兄皇子を推戴して、643年斑鳩宮を急襲し山背大兄王を殺した。日本書紀は入鹿を悪者に仕立て上げているが、古人大兄皇子が天皇になったという記載はなく、何か皇極期の変の記載は矛盾に満ちている。645年6月中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我石川麻呂らにより蘇我入鹿が暗殺された。この宮廷クーデターを「乙巳の変」という。皇極天皇ー古人大兄皇子ー蘇我蝦夷・入鹿のラインから孝徳天皇ー中大兄皇子ー中臣鎌足のラインへ政治の中心が移動した。こうして押坂王家嫡流へ権力一元化が達成された。

645年6月孝徳天皇の即位、中大兄皇子の皇太子就任、左右大臣と内臣・国博士の任命によって新しい政権が誕生し、倭国最初の公式年号「大化」が定められ、「大化の改新」と呼ばれる政治プログラムの改革が始まった。8月には「東国国司」が任命され、8つのグループの諸国に国司が派遣され、そして「倭国六県」でも人民と土地調査がが命じられた。646年中大兄皇子は部民制の廃止を上奏した。貴族・豪族の私有の民を取り上げて公民となす、大化の改新の中核をなす政治的改革であった。部民制の廃止と官僚制の整備を一体化して断行した。公民制の新しい地方行政組織は「国ー評ー五十戸」という三段階となった。評とは「こうり 郡」で、五十戸とは「さと 里」のことである。常陸国風土記によると649年に6つの「コホリ」として新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂が定められ、653年には11の評に再編されたという。各国には倭政権より国司が派遣され評を統括したと思われる。大化3(647)年に13階冠位制、大化5(649)年にはさらに19階冠位制が施行された。これらの官僚制階位は天智帝、天武帝の時代にますます複雑化してゆく。そして高向玄理と僧旻は「八省百官」という中央官司機構を制度化したという。652年孝徳天皇は古い豪族の割拠する飛鳥盆地から、新天地難波長柄豊崎宮(今の大阪城の南)に遷都した。難波長柄豊崎宮は官僚制と公民制の中枢組織としての威容と機能を誇る使節として交通の要に建設された。孝徳天皇は仏教を国家イデオロギーの機軸に据えて保護育成と統制を加え国家王権の護持とした。帰朝した遣唐僧らがその中心となった。知識僧らが伝えたのは仏教だけではなく、儒教イデオロギーも儀礼とともに輸入された。豪族らの墳墓を改める大化2(646)年の「大化薄葬令」が出された。ここに大規模な墳墓から仏寺への埋葬へと改まった。

649年左大臣安倍仲麻呂が亡くなり、蘇我石川麻呂が謀反の疑いで自刃することで政権の顔ぶれが大きく変わった。653年に宮廷が不思議な分裂をした。難波遷都1年後皇太子中大兄が飛鳥への遷都を上奏すると、孝徳天皇はこれに反対し、中大兄皇子は政権の中枢を引き連れて飛鳥に移った。百済援助派と親唐・新羅派との分裂という説もある。654年孝徳天皇は亡くなり、祖母宝皇女が再び天皇位につき斉明天皇となった。658年孝徳天皇の子有馬皇子は謀反の名で殺され、皇太子中大兄の専権体制は強まった。日本書紀によると、孝徳帝から斉明帝にかけて蝦夷征伐が進展し、越後、東北、北海道への進出が図られた。各地に「柵」(要塞)が造られ、第1次斉明4(658)年、第2次659年、第3次660年には石狩川に達した。これには高句麗援助ルート開発という意味があるという説があるが、結局大陸と北海道の連結点はつかめなかったようだ。大陸では唐の高宗が651年に高句麗と百済の新羅侵攻を止めさそうとしたが、高句麗と百済は聞かず新羅は唐に援助を乞うた。658年、659年唐は遼東・朝鮮に対して大軍を派遣した。660年唐の蘇定方と新羅連合軍は百済を攻めついに百済は滅んだ。百済の遺臣鬼室福信が倭に来て援助を乞うたので、斉明7(661)年斉明天皇は難波で軍勢を整え北九州へ出発したが、病を得て急死した。

3) 近江令の時代

斉明7(天智元年)(661)年、百済の鬼室福信の使者が筑紫長津宮に訪れ、倭に人質となっていた王子豊璋の帰国を願い出た。皇太子中大兄は将軍安曇比邏夫に命じて第1次侵攻軍を渡海させ、豊璋に百済の王位を継承させた。唐の朝鮮半島侵攻は高句麗で膠着したが、百済では新羅との連携作戦で百済を圧迫していた。倭は663年第2次侵攻軍を派遣したが、百済王室の内紛で豊璋が鬼室福信を殺害したため、百済は自滅への道を歩むことになった。663年8月唐・新羅連合水軍が豊璋のいる周留城を取り囲み、白村江で倭軍を待ち受け壊滅させた。第1次第2次あわせて五万の兵が動員されたので、西日本の豪族の疲弊は著しかった。こうして唐の百済支配は定まった。665年百済は新羅に屈した。倭は唐の使者を受け入れて恭順の意をあらわした。高句麗では泉蓋蘇文の死によって内紛が発生し、668年唐・新羅連合軍は遼東から攻め入り平城を陥落させ、唐は安東都護府を置いた。朝鮮半島は唐・新羅の支配下にはいり、倭国では戦争に備えてハリネズミのような臨戦態勢となった。国土防衛体制がとられ、664年に北九州に防人が配備され、筑紫大宰府を内陸部に移し、大宰府の周辺には「水城」や朝鮮式山城が多数築かれた。このようにして天智政権は,北九州から瀬戸内海を経て畿内に至る地域に、百済の技術を用いた要塞が数多く築かれ、倭の都への侵攻に備えた。天智6(667)年、皇太子中大兄は都を飛鳥から近江へ移した。これは唐の侵攻があったとき、飛鳥では山に囲まれて逃げ道がないが、琵琶湖周辺の都だと舟で東国へ逃げることが出来るからである。

天智政権の政治を支えたのが内臣の中臣鎌足(藤原)であった。天智3(664)年皇太子中大兄は重要な政治改革をおこなった。「甲子の宣」と呼ばれるもので、まず26階冠位制で、実務を担う中下級の官僚組織を細分化し充実を図ったのである。さらに氏上制を定め豪族の長を任命し統括ラインを序列化し、公民制の例外として「民部・家部」(私有制)を認めて氏の財政的基盤を保障した。戦争では中央・地方豪族の兵力に期待しなければならず、氏上に特権を与えて王権への服従を求めた。支配階級の統制強化にあわせて、全国の人民支配と財政確保のため戸籍台帳の把握が急務となった。日本書紀は天智9(670)年倭国最初の本格的戸籍「庚午年籍」の作成を命じたと伝えている。天智10(671)年天智天皇は「冠位・法度の事」を定めた。これを「近江令」という。「令」と「礼」を定めた(刑法である律は大宝律令において初めて定められた)。「近江令」施行の前日に新しい政権首脳部が決まった。太政大臣に大友皇子、左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金、御史大夫に蘇我果安、巨勢人、紀大人と云う顔ぶれであった。これは大宝令太政官制の原形となった。官庁機構は「六官」制を中心とする組織である。六官とは法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、民官であるが、これに宮内官、中官が加わって大宝令の「八省」につながった。地方官については「国ー評ー五十戸」からなる行政組織を維持した。官僚制と公民制は律令体制の根幹となるシステムであり、日本の統治体制は天智政権でなったというべきであろうか。

668年高句麗が滅んで、唐のユーラシア東部の支配は最大版図を実現した。このとき唐の倭国征服計画は既に始まっていたと見るべきであろう。670年新羅文武王は高句麗遺民の唐への反乱を助け高句麗支配をはかり、百済全土の支配を完成した。こうして新羅はしだいに唐と訣別して、朝鮮半島統一に向けて動き始めた。この年に天智天皇がなくなり、倭王国はまた難しい局面となった。大船団を組んだ唐の使いが筑紫にきて新羅攻撃への支援を要求して帰った。大友皇子は今度は東国の美濃・尾張に徴兵令を出したとき、天智天皇の弟大海人皇子は吉野カら美濃の野上に逃れて大友皇子への反乱の兵(壬申の乱)を挙げた。大海人皇子は美濃・尾張の兵をかき集めて大友皇子を破り、672年飛鳥の後岡本宮に入った。673年大海人皇子は浄御原宮で即位し天武天皇となった。天智政権と天武政権には政治体制の違いは無い。天武は天智の政権をそのまま引き継ぎ、実施してきめ細かな制度整備が深耕されたというべきであろう。それは唐と新羅の対立が激しさを増し674年新羅征伐が行なわれた。676年唐は安東都護府を平城から遼東へ退却せざるを得なかった。これをもって新羅の朝鮮半島統一という。

4) 律令体制の確立

天武天皇は後継を草壁皇子と定め、天武10(681)年に大極殿において国家基本法たる「浄御原令編纂」の勅命を出した。「浄御原令」は「近江令」と同じく律を伴わなかった。刑法は唐の律をそのまま用いて、むしろ行政の規範となる基本法の修正や充実が図られた。「浄御原令」が実施されたのは天武没後の689年の事である。こうして近江令は「浄御原令」に吸収されたようである。(ただ「浄御原令」の条文は何一つ残っていない) なぜ天武天皇は近江令を改定したのだろうか。それは天智天皇の臨戦態勢から平時体制への以降が考えられる。東ユーラシア大陸は唐を中心として、西に吐蕃、北に突厥、東に新羅という極構造が固定した。平時にふさわしい国家つくりが天武天皇の課題であった。まず礼として皇子から平民までの服装を規定した「禁式九十二条」、「礼儀・言語」詔、官人考選に氏姓の基準を設ける、氏上制を徹底して54の氏に「連」の姓が与えられ、「八色の姓」として、真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置が定められた。681年にもうひとつの重要な詔である「日本書紀」の編纂事業が命じられた。完成するのは養老4(720)年である。国家的事業としての国史編纂の命は「帝紀」、「旧辞」の蒐集がはじめられ、日本書紀・古事記の編纂が開始された。壬申の乱から14年倭国は極めて安定したとき、天武15(686)年天武天皇はなくなった。天武の皇子は合計10人いて直系は草壁皇子と決められていた。まず大津皇子の謀反は平定されたが、即位を待たずに草壁皇子はなくなった。687年皇位継承時の混乱を恐れて皇后が即位して持統天皇となった。持統天皇は高市皇子を太政大臣としたが、696年高市皇子は亡くなり、王位継承は珂瑠皇子(文武天皇)と決まり、693年に持統天皇は文武天皇に譲位した。これがわが国最初の譲位である。皇后の女性天皇中継ぎー譲位ー後見というパターンが生まれた。

持統8(694)年持統天皇は藤原宮に遷都した。藤原宮は耳成、畝傍、香具山に囲まれた平野で、狭隘な飛鳥に較べると大規模の都を築くことが出来る地である。676年に天武天皇が計画し一度中止となったが、持統天皇が691年から新宮建設に着手して完成した。藤原京は倭国で始めて、中国の長安のように碁盤の目のような都市計画で建設された都である。条坊道路が東西南北に41本(道路間隔は133メートル)、「十坊十条」の都と呼ばれ東西南北約5.3キロメーターであった。藤原京のほぼ中心に藤原宮が東西928メートル、南北907メートルの王宮として営まれた。藤原宮はその規模においても難波長柄宮をしのぎ、律令制の確立期にふさわしい巨大な王宮となった。長安城の王宮は都の中央北端に置かれたが、藤原宮は正方形都の中心に王宮を置く独特の配置であった。その分王宮の南から発する朱雀大路が短くなっている。


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