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栗原俊雄著 「勲章-知られざる素顔」 

 岩波新書 (2011年4月)

戦前は天皇への、戦後は国家への貢献の序列  

私は勲章とはほど遠い世界に住み、貰ってくださいと頼みに来ることは間違ってもないのでどうでもいいのだが、持ち前の野次馬根性(好奇心)から買って読んでしまった。内容がないので読んでから読書ノートを作る熱が沸かない。しかしこんな馬鹿なことで税金を使って何かを意図している奴がいるかと思うと、ほっておくのも業腹なので筆をとる。そういう気を起こさせた本書にはそれだけの価値がある。毎年4月と11月、新聞の大きなスペースをつかって、受賞者の名前が羅列される。春秋叙勲の各4000人と各種叙勲を合計すると年間約2万人を超える。そしてそれにかかる費用は約40億円である。決して馬鹿にならない金額である。事業仕分けの対象としてもいいのではないかと思われる。だからそもそも勲章はいついかなる目的で生まれ、どんな変遷で現在も続いてきたのだろうかを考えるのは国民の義務かもしれない。人選や等級はどんな手順と基準によるのか、人間の序列化や官民尊卑の助長など批判の多い制度はどういう変遷を経たのかを考えるよい機会である。日本国憲法前文には「国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その福祉は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、これに反する一切の憲法、法令、及び詔勅を排除する」と厳かに主権在民がうたわれている。にもかかわらず勲章制度を運営する法律は存在しないし、現在運用されている準拠は明治以来の詔勅である。こんな奇妙なことが平気でおこなわれている日本は法治国家なのだろうか。(とはいうものの、刑法や民法も明治以来の法を受け継いでいる箇所が多い。) 

勲章に興味を持って一書を著わした栗原俊雄氏とはどんな人だろう。プロフィールを紹介する。1967年東京都うまれ。早稲田大学政治経済学部修士課程卒業後、1996年毎日新聞社入社。現在東京本社学芸部記者である。著書に「戦艦大和ー生還者の証言」(岩波新書 2007)、「シベリア抑留−未完の悲劇」(岩波新書 2009)、「シベリア抑留は過去なのか」(岩波ブックレット 2011)がある。なかでもシベリア抑留に関する労作は、敗戦直後、旧満州の日本人兵士ら約六〇万人がソ連軍に連行され、長期間の収容所生活を送った「シベリア抑留」で極寒・飢餓・重労働の中で約六万人が死亡した・・・日本政府への補償要求と責任追及…「奴隷のままでは死ねない」と訴えてやまない。 この仕事により2009年第3回「疋田桂一郎賞」を受賞した。

1) 大日本帝国の栄典制度

1973年近代国家建設に邁進する明治政府は「信賞必罰は統治の要諦」と栄典制度の整備に取り掛かった。フランス軍事顧問団のブスケの助言を得て、5名のメダル取調べ係りを任命し諸外国の制度の検討を始めた。外交上の有力な道具であるという認識から、強くそれを望んだのは外務省である。そして1875年勲章を制度化する詔勅が出された。「朕惟うに凡そ国家に功を立て積を顕す者宜しく之を褒賞し以って之に酬ゆべし」として、旭日章が生まれた。1875年勲一等旭日大綬賞が5人の親王に与えられた、1876年には台湾征伐に功があったとされる西郷従道が受賞した。具体的には国家への功績ということで、官吏や軍人が褒章制度の主役となった。1876年には賞勲局が設置され制度が急速に出来上がった、1890年大日本帝国憲法(欽定憲法)には「天皇は爵位勲章その他の栄典を授与する」と定められた。いわゆる統帥権と並んで「天皇大権」のひとつとなった。天皇を守る者つまり「藩屏」をつくるための小道具となった。1892年叙勲の基準を定めた「叙勲内則」が定められ、@大勲位菊花章 A勲一等旭日桐花章 B勲一等旭日大綬章 C勲一等瑞宝章が区別された。首相・元帥から高等官一等まで職位による格差が設定され、軍人と官吏以外の民間人が叙勲される可能性は著しく低かった。皇族の叙勲は1910年の「皇族身位令」にとって規定された。(馬鹿馬鹿しいから省略する)また旭日賞は八等級に分かれ勲一等から勲八等までナンバーがついている。1888年最高勲章として大勲位菊花章頸飾が規定された。(今も天皇が晩餐会などで着用されている) これを授与された者は皇太子などトップクラスの皇族と元老クラスの大山巌、山県有朋、伊藤博文、西園寺公望である。戦後没後に授与されたのは吉田茂と佐藤栄作の二人である。女性のみに授与される勲章は宝冠章で八等級に分かれる。日本人の女性としては皇族に限られた。旭日章の下位に、旭日章から漏れた人を広く補うために瑞宝章が規定された。1883年から春秋の定期叙勲となり、1915年には月1回に増えた。

受賞者の80%は軍人で、残りの20%は官吏らの定例叙勲であった。民間人は極めて少なく戦前では岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)が勲4等旭日小綬章を受けたに過ぎなかった。また軍人のためだけに、1890年金鶏勲章がつくられた。功1級から功7級の等級にわかれ、生涯年金が授与された。1881年民間人を顕彰する「褒章条例」が制定された。紅綬は人命救助に、緑綬は徳行者に、藍綬は学校・医師・道路建設などの公益事業者に、黄綬は海防に私財を投じた者に、紺綬は寄付者に与えられた。戦後1955年に紫綬褒章が新設され学芸芸術者を対象とし、学者・芸術家・文芸・芸能人などの人々におくられた。栄典制度は勲章のほかに爵位がある。爵位は1884年の「華族令」が公布されて定められ、叙位は1926年「位階令」で定められた。正1位から従8位の8段階に正と従がある16段階級となっていた。戦後は爵位制度は廃止され、生存者への叙位も停止された。1926年宮中行事での席次が皇室儀礼制令で定められた。70の階級で序列が決められ,勲章の順位が重要視された。馬鹿馬鹿しいので省略する。(今でも宮中晩餐会では概ねこの序列に従っているようだ) 勲章に伴うさまざまな令が存在した。「勲章佩用式」では勲章の着けかたを規定した。「勲章等着用規定」は服装を規定し、「勲章ち奪令」では刑罰を受けたものの授与者の地位を奪う規定である。

2) 戦後生存者叙勲の停止と復活 批判と改革

戦後占領軍のGHQは軍人に対する叙勲の廃止を求め、1946年5月幣原内閣は閣議で生存者叙勲を停止する事を決めた。こうして金鶏勲章は廃止された。生存者叙勲は停止されたが、死亡者・外国人・文化勲章・褒章は残された。1946年11月公布の日本国憲法第7条に、内閣の助言と承認による「天皇の国事行為」の第7項で「栄典を授与すること」が定められた。ところがこの栄典法が歴代内閣の立案になるも、今日にいたるまで制定されていないのである。1948年芦田内閣が栄典法案を提出した。内容は位階制度の廃止、1種5階の普通勲章と文化勲章、功労賞の新設、褒章を善行賞と改めるなどを骨子としたが、衆議院は通過したが参議院で審議未了廃案となった。1952年吉田内閣はサンフランシスコ講和発効後に再度栄典法案を提出した。位階制度を存続させることへの反対が強く衆議院解散によって廃案となった。1955年鳩山内閣は黄綬褒章と紫綬褒章を新設した。そして1956年4月栄典法案を提出した。位階廃止・菊花勲章と文化勲章の存続、普通勲章として旭日勲章とする内容であったが、継続審議の末廃案となった。第1次安保改定で難渋した岸内閣の後を受けた池田隼人内閣は「寛容と忍耐」をスローガンにして、法典法案に関して無用な紛争と論争を避ける戦術をとった。それは1963年7月の閣議決定で「1946年の閣議決定で停止した生存者叙勲を再開する」という宣言である。社会党の石橋委員長はこれを「こそ泥みたい」と激しく非難し、社会党議員は叙勲を拒否すると高らかに宣言した。停止した勅令による叙勲を再開するということは、明治憲法の叙勲制度が生きているということであり、主権在民の新憲法に合致するわけもなかったが、政府は生存者叙勲の基準を示す要綱を閣議決定した。もちろん金鶏勲章がはなかったが、「国・地方公共団体の公務に従事し功労のあったもの」を対象に勲1等から8等までの瑞宝賞を、民間人に対しては勲2等から6等瑞宝賞を定めた。1964年春の叙勲者は大勲位菊花大綬章に吉田茂元首相ら189名であった。1964年に復活した戦没者叙勲者は1万人あまりであった。こうして明治憲法下の勲章は金鶏勲章を除いて、5種28がすべて復活した。しかし年金制度は廃止された。勲章の経済的恩恵はない。ただし文化功労者には年350万円の終身年金がつく。

「広く国民の各界、各層の方々に及ぼすことにしており、名もなく清く美しく社会を支えてきた功労者に留意し」という文句にもかかわらず、1980年の叙勲では官職と準官職の受賞者が過半数を占めた。「官高民低」はその後も続いた。例えば2001年の叙勲者の内訳は、公職者(議員など)8%、警察官・自衛隊官など公務員18%、小・中学校の公務員9%、一般行政職12%、地方公務員5%、その他公務員7%、旧三公社五現業7%、その他公職8%、民間34%であった。結局「公」と「民」の比率は2:1であった。この再開生存者叙勲制度に対して批判の声が各界から挙がった。1976年に昭和天皇即位50周年について朝日新聞社説は「天皇に政治の中心的役割を負わそうとする動きが、天皇の前にひな壇の格差を作る復古調的になった生存者叙勲」といった。政治家や公務員はもともと公のために働くのが仕事であって、それ相応の報酬を受けている。莫大な税金を使ってまで勲章や褒章で酬いる必要なないという批判は根強く存在する。1993年細川内閣の赤松良子文相は叙勲の男女格差を指摘した。1994年村山内閣の井出厚生大臣は「国がその人の人生を番号付けるのはいかがかな」と批判した。1996年朝日新聞論壇欄に大貫自民党衆議院議員は「エイズなど企業不祥事を起こした企業のトップが受章するのは疑問である。またそれぞれの立場で貢献する人々を総合的に評価して順位づけるなんておよそ期待できない」として、功労とは社会的ポストの事かと疑問を呈した。2000年自民党の亀井静香政調会長はプロジェクトチームを設け「栄典制度の改革」を指示した。肩書きや年功偏重、官民格差を問題とした。財界からは野村證券の元会長相田氏は1996年「おおよそ人の業績にどうして等級がつけられるのか、小賢しく官僚がポイントを付けている。毎年時期になると企業ではトップの受賞にむけて狂奔する有様は見るに耐えない」といった。北洋銀行頭取だった武井正直氏は1998年に「人が人に格付けするのは失礼千万」といった。2000年経済同友会の今井敬氏や日経連の奥田氏は「ナンバー式等級はやめよう」と提案した。ジャーナリズムからも批判があがった。1999年共同通信社の原寿雄氏は「人権とマスメディア」という論文で、新聞は批判者・辞退者の意見があるにもかかわらず、あいかわらず叙勲者のニュースを大きく扱う。等級は宮中席次をあらわすもので、天皇制が社会の人間差別の根元である事を端的に示している」といった。

政財界から強烈な批判が相次いだ事を受けて、小泉内閣は2001年10月「栄典制度の在り方に関する懇談会報告書」(吉川弘之座長)を受理した。報告書は生前の功績を称え追悼の意味のある叙位制度は存続が妥当とし、叙勲制度の様々な問題点を絞り込んだ。ナンバーで序列をつける印象を与えるので、各勲章には固有の名をつけて表示する、官民格差を是正する、男女格差を是正する、吸い上げ方式に一般国民から推薦を受ける事を提案した。この報告を受けて2002年8月「栄典制度の改革について」閣議決定された。変更点は以下の4つである。
@数字による等級区別の廃止、旭日賞、瑞宝賞が8等級に分かれていたのを、6つの固有名の章に改める。
A官民格差を是正する。
B旭日賞、瑞宝賞を上下関係でなく内容で区別する。旭日賞は顕著な功績で、瑞宝賞を公共的仕事に長年従事した功労によるとした。 
C勲章による性差を改める。旭日賞には男女差を設けない。外国人に与える宝冠章はそのままとした。
これを改革というのかどうか、風当たりが強いナンバー制を固有名に変えただけで、運用面で実質的レンク付けは明白に残っている。国家と公共への貢献という基準は本質的に何も変わっていないからだ。この改革はかっての批判者も受け入れやすくし効果があり、叙勲対象者から「等級を挙げろ」というあからさまな要求が減ったという効果があったという。官民格差については、2003年の改革前と2010年の改革後の受賞者内訳を見ると、官と民に比率が6官65%ー民35%が2010年に官60%−民40%となった。賞勲局が意識して民間人受賞者を増やそうとした結果であるが、官民格差の大勢は変わっていないし、ポスト重視の傾向も変わっていないようだ。一般国民からの推薦制度で「人目につきにくい分野のほりおこし」は年間10件にも及ばない。

3) 人選と序列ー選考の過程

現在の叙勲の種類には@春秋叙勲 A高齢者叙勲88歳以上 B死亡叙勲 C外国人叙勲 D危険業務従事者叙勲(警察・自衛官・消防士・入国警備官・海上保安官など) E緊急叙勲(風水害震災火災防止や復旧に貢献、殉職者) 2003年5月新たな「勲章の授与基準」が決まった。旭日賞の対象者は政治家などの公職者や民間人で、瑞宝章に対象者は公務員である。まず旭日賞の受賞基準を示す。
旭日大綬章:内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官
旭日重光賞または旭日大綬章:国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、衆議院副議長、参議院副議長、最高裁判所判事
旭日重光賞または旭日中綬章:国会議員、都道府県知事
旭日中綬章または旭日小綬章:政令指定都市の市長
旭日中綬章または旭日小綬章または旭日双光章:政令指定都市以外の市長もしくは特別区の区長
旭日小綬章または旭日双光章または旭日単光章:町村長
旭日小綬章または旭日双光章または旭日単光章または旭日中綬章:都道府県議会議員、市議会議員、または特別区の議会議員
旭日単光章または旭日双綬章:町村議会議員
等級名を無くしただけで、各章名の序列は歴然として存在している。「公益性を有する各種団体」では全国的団体から市町村の団体へ、旭日小綬章から旭日単光章までこれまた序列が明白である。詳細は省く。面白いところで企業経営者の受賞目安は、旭日重光章から旭日小綬章まで区別される。そして公務員に授与される瑞宝章の授与基準は、事務次官が瑞宝重光賞、局長は瑞宝中綬章、課長は瑞宝小綬章である。

叙勲の選考過程は次の6段階からなる。@地方自治体や各種団体などが推薦者を挙げる A所轄省庁が候補者をまとめ、勲章のランクをきめる B賞勲局が審査する C閣議決定 D天皇に上奏裁可を受ける E発令するという順序で行なわれている。賞勲局へあげる各省の「協議書類」は、春の叙勲は前年の11月26日、秋の叙勲は5月16日までである。 人選とランク選定の実情は各省が推薦する段階で決まっている。賞勲局が変更することは無い。上の序列に見るように叙勲はどのポストにあったかが重要な判断基準である。そういう意味で民間企業は圧倒的に不利である。絶対基準ははっきりしないからだ。内閣府は叙勲の手続きの詳細は明らかにしてはいないが、「栄典事務提要」(1974)によって窺い知る事はできる。そこには叙勲などを辞退する候補者を一番恐れていることがわかる。「天皇に上奏裁可後の辞退は,国事行為の取り消しとなるので、このようなことがないよう厳重に注意されたい」と書いてある。すなわち勲章をほしがる人がいなくなったら勲章の価値はなくなるのである。買い手のつかない商品みたいなものだ。受賞する気があるかどうか、各省段階で問い合わせが来るのだ。

4) 国家との向かい方 拒否した人・受けた人

皇族以外の者が大勲位菊花大綬賞を受けた例は、戦後では吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の3人である。首相在任期間の長さである。じつに分りやすい。すると次は小泉元首相に成りそうだ。辞退した政治家には戦争責任を感じていた賀屋興宣氏、戦前に授与して戦後返上した政治家として内大臣木戸幸一氏、白鳥敏夫氏、徳富蘇峰氏は文化勲章を返上している。憲政の神様尾崎行雄氏は1916年に勲一等旭日大綬賞を受けたが、1946年に返上した。尾崎氏は大政翼賛会で議会政治が滅んだ事を愧じたためで、1945年12月昭和天皇に拝謁した折「きょうは御所 きのうはごくしゃ あすはまた 地獄極楽いづちに行くらん」という狂歌を天皇に見せたところ、天皇は苦笑いされたそうだ。それで勲位を返上したらしい。また逆に戦前は受賞とかいうことを馬鹿にしていた小説家永井荷風は文化勲章受賞を意外にも喜んでいた。暗殺された社会党委員長浅沼稲次郎氏は生前の意思により遺族は受賞を拒否した。社会党委員長石橋政嗣氏は、国会で社会党員は受賞を拒否すると宣言し、杉山元次郎氏、河合義一氏、河野密氏、部落解放同盟委員長松本治一郎氏は「貴族あるところ賎族あり」と拒否した。社会党系の議員で叙勲拒否の態度が揺らいだのは1970年の加藤寛十氏と加藤シズエの受章からである。社会党委員長勝間田清一氏も1986年勲一等旭日章を受章した。まさかと思われる例では右翼でギャンブル界の大物笹川良一氏が1987年勲1等旭日大勲章を受章した。

明治以来叙勲を拒否してきた大物に、旧幕臣である山岡鉄舟(幕末の三舟、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のひとり)、福沢諭吉、芥川龍之介、平民宰相原敬(死後側近が受けたが)、最近の政治家では市川房枝、元総理細川護煕(日記を文語体で書く文人)、土井たか子、元総理宮沢喜一らがいる。財界では三井物産社長で元国鉄総裁石田礼助、日本興業銀行頭取中山素平、小説家ではノーベル賞作家大江健三郎氏は1994年「戦後民主主義には国民的栄誉は似合わない」と文化勲章を拒否した。「俘虜記』の作家大岡昇平氏は1971年日本芸術院会員を辞退した。芸術家では彫刻家の佐藤忠良氏は「年度職人に勲章はいらない」と2011年文化功労賞を拒否した。女優の杉山春子氏は1995年文化勲章を辞退した。反骨の作家城山三郎氏は大江健三郎の文化勲章辞退を「文化勲章は政府、文部省といった国家権力による査定機関となっている。言論、表現の仕事に携わるものは、いつも権力に対して距離を置くべき」と大江を支持した。城山自身紫綬褒章を辞退して「之には国家というものが最後のところで信じられない」と妻に言ったという。西部流通グループの総師であった堤清二氏(文筆名 辻井喬)は褒賞を断った。それは辻井氏の「昭和天皇は敗戦とともに退位すべきであった」という天皇の戦争責任と国家観に基づいている。平成になって天皇が変わったから受けてはどうかという問いに対して「文筆家として批判する自由は持っていたい」と語った。これは文学者の衿示であろう。


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