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矢崎義雄編 「医の未来」 

 岩波新書 (2011年3月)

第28回日本医学会総会「命と地球の未来を開く医学・医療」のために 

医療は安心社会を実現する基盤のひとつである。安心というと安全保障とかセキュリティという強面の面もあるが、医療は誰もがかならずお世話になる身近な安心材料である。しかし医療は宇宙軍事技術のように近代科学の総力を挙げてとりくむ対象であり、きわめて複雑で総合的な科学分野でもある。と同時に個人の生活の質や人生の価値観とも会話する必要がある「臨床の知」という人間学の分野でもある。医療の社会システムが限界にきて「医療の崩壊」が叫ばれて久しい時間が経ち、さまざまな対応がなされてきたが、大きな課題が解決されているとはいい難い。日本医学会は明治35年4月に第1回総会を開いて以来、4年ごとに開催されそれぞれの時代の様々な問題を議論してきたが、今年第28回日本医学会総会を開く。総会を記念してその会頭を務める矢崎義雄氏(独法国立病院機構理事長)が編者となって本書「医の未来」を編んだ。そういう意味で本書は1999年に刊行された高久史麿編「医の現在」(岩波新書)の続編にあたる。内容としては第1部「未来の医療と社会」,第2部「地球規模の医療」、第3部「未来の医学・医療」、第4部「生と医の未来」からなり、13名の専門医学関係者の分担執筆と対談で構成される。新書版というコンパクトな内容の本で、専門家の共著という総論タイプの本というのは本来矛盾している。新書はやはり1人の著者の責任において特色ある視点を提供するのが理想である。1人平均20頁以下の分量では、順序だって理解できる事を述べるのは不可能である。また関係する章段を調整することも出来ないであろう。したがってバラバラで尻切れ蜻蛉となるのはやむをえない。そういうつもりで、「話題となっている点は何か」を理解するだけで本書をよんでゆこう。

第1部 未来の医療と社会
第1章 「医療を守る」 桐野高明(国立国際医療研究センター総長・脳神経外科学)

第2次世界大戦が終ってからの日本の医学の進歩は驚異的であった。そして医学の進歩は日本人の健康の向上と平均寿命の延長に大きな貢献をした。ところが複雑で高度な医療過程での過誤が報道され続け、医療は信頼をなくし医療関係者が非難される対象になった。WHOやOECDのデーターで見る限り日本の医療は安い医療費で高い医療成果を挙げているようである。わが国の医療技術が欧米先進国に較べて良好なレベルにある事は確実であろう。しかし医療システム(病院・マンパワー、医療制度全体)となると問題が多い。中でもマンパワー不足は深刻である。高度経済成長期の1960年代には日本と欧米の医療システムはどの指標をとっても同程度であったが、欧米先進国では病院を短期入院を中心とする急性期医療に対応させ、平均在院日数は2000年には1-2週間に短縮した。日本は1ヶ月であった。その分病院の業務を担当するマンパワーは日本では不足がちである。欧米先進国型の医療とは、
@ 専門医制度 
A 病院機能の集約化
B 病院と診療所との連携
C チーム医療とコメディカルの強化 
D 医療安全と患者権利尊重のシステム
を特色とした。欧州の医療は公的な経費負担のもとで公的に運営されているが、日本では公的な経費負担のもとで、私的医療機関が運営の中心である。いわば欧州型とアメリカ型の折衷型であった。日本の医療システムの変換が意識されたのは1990年代になってからであるが、総医療費削減によってますます対応が困難な状態にあった。

医療費を公的に制約すれば利用者のアクセスまで制御されるイギリス型の失敗になり、民間保険会社の市場原理に委ねると医療格差の拡大と総医療費の膨張というアメリカ型の失敗となる。日本は欧州のように医療費は公的国民皆保険制度のもとで運営されている。(わが国の健康保険制度は2011年で50周年を迎える) 公的な保険制度のもとで私的な医療機関が運営を担うのが日本的医療システムである。長年の総医療費抑制政策によってわが国の医療制度は油切れを起こしてがたがたになってしまった。医療関係者の個人的負担は限界を超えている。医療を守るために最も重要なことは総資源である医療費とマンパワーである。ところが国民は税や保険料の負担増大をする政府を支持しない。したがって政府の収入の2倍以上の支出を要求するというとんでもない国家になって久しい。アメリカと日本は財政破綻国家である。そのなかで医療が信頼されていなければ、医療システムの再建も難しい。医療の質を高めるには専門医制度を確立することであろう。

第2章 「医療人を育てる」 吉岡俊正(東京女子医科大学理事長・医学教育学)

医学という科学分野の進歩によって医療者の教育は裾野が広がっている。医者は薬を出すことではなく、患者さんが満足する医療を提供する「双方・コミュニケーション」というサービス業であると云う考えが流行している。「説明できる医療」、「安全な医療」、「根拠に基づく医療」という観点での教育が必要である。医療系の教育には教育の質保証が必要である。「共用試験」に参加する大学では「コアカリキュラム」に基づいた教育を行なう。そして医師国家試験基準が設けられている。社会が医師に求める資質に「コンピタンシー」(専門的実践能力)があるが、新医師研修制度の卒後2年間で1人でこなせる能力を持たせることが目標である。そしてチーム医療において職種間教育が必要で、専門家医のはやす役割を意識することが求められる。患者が国際間を移動することは「メディカルツーリズム」といわれているが、医師の国際移動は欧米では常識となってきているが(弊害も指摘されている)、日本ではまだ顕在化していない。教育ならびに意志の資質保証に関する国際基準が求められる由縁である。

第3章 「医療の質を高める」 上原鳴夫(東北大学医学研究科教授・国際保健学)

医療技術革新が医療の質を向上させたことは事実であるが、いまや医療の質は大きな転換期にある。米国で医療過誤の存在または有害事象の存在がクローズアップされ、訴訟対策として「リスクマネージメント」から、患者の安全を守る予防的安全管理としての「質の管理」、「シスエム変革」へと変わった。医療の質を作っているのはひとり医師だけではなく、様々な職種とプロセスによって構成されるシステムである。そのために追及される項目には次のようなものがある。
@ 技術本位の質から患者本位の質へ
A 質の追求と確実さの追求へ
B 医療事故の刑事罰の免責と医療補償制度・基金
C プロフェッションの自治機構と質の管理
D 臨床医療に科学的根拠をEBM
E 知識技術と情報支援システム
F 職務分掌と労働環境の適正化
G 医療システムの質管理
H 質の透明化と臨床指標の活用

第4章 「医の倫理の未来を育む」 赤林朗(東京大学医学研究科教授・医学倫理学)

米国でバイオエシックスが誕生したの葉1960年代といわれる。「安楽死」、「尊厳死」、「がん告知」、「堕胎」、「遺伝子操作」などの問題に関心が集まったが、まだこのような問題群を扱う学問はなかった。日本では1980年代より脳死・臓器移植の問題が議論され始め、脳死臨調が設置され1997年に臓器移植法が成立した。これが先例となって「インフォームドコンセント(説明と同意)」の考えが浸透した。1991年東海大学安楽死問題が発生し、終末期医療と尊厳死が議論されたが、安楽死は合法化されていないし、治療の中止問題は解決をみていない。次の問題は死のことよりライフサイエンスの発展による生の始まりに関することであった。21世紀になって医の倫理がようやく社会的関心事となった。ES細胞やクローン技術規制法など数多くの政府ガイドラインが設けられた。法律によるよりはガイドラインで事態に対処する日本的方式である。2000年に京都大学に、2003年に東京大学にい両輪が区分やが設置された。近年は治療目的ではない医療技術の利用(ドーピング、エンハンスメント)脳神経科学の進歩による「マインドリーディング」などが一層真実味を帯びてきた。2007年の山中教授の「iPS細胞」から生殖細胞を作成してよいかどうかクローン人間の問題に焦点が集まってきた。そして2009年の新型インフルエンザ騒動では政府による個人のライフスタイルへの介入は「パブリックエシックス」という問題をはらんでいた。

第2部 地球規模の医療
第5章 「医療の輪が世界を救う」 尾身茂(自治医科大教授・WHO西太平洋名誉事務局長)

筆者は約20年間世界保健機構(WHO)に勤務し、2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)対策に従事した。有史以来人類は文明と病気の関係は変化してきた。感染症を外的環境の結果とすると、近年は生活習慣病、環境問題に見るように人類自らが病気の要因を作ってきたことが分る。感染症、周産期における母子の死亡、低栄養などが長い間主要な健康問題であった。その健康指標として従来は生存年数を用いてきたが、最近は障害調整生存数(DALY)を用いている。心筋梗塞、脳梗塞、ガン、慢性呼吸器疾患、糖尿病などの生活習慣病が世界的な重要な疾患であるが、WHOはその危険因子として@高血圧 Aたばこ B高血糖 C運動不足 D肥満 E高コレステロール血症を挙げている。さらに精神疾患も重要で自殺が大きな社会問題となっている。もちろん時々全世界を巻き込んで感染症の大流行(パンデミック)が発生する。鳥インフルエンザH5N1、豚由来新型インフルエンザH1N1も重大な健康問題である。今日の保健医療問題の特徴には次の6つの特徴がある。
@ 生活習慣病にみられる社会的、経済的、精神的要因を考慮して健康をとらえようとする。
A 医療供給体制自体に対する取り組みが増えてきたこと。
B 保健分野の人以外に財政,農業、教育、企業、NGO,NPOなどさまざまな関係者が役割を担うようになった。
C 富める国と貧しい国の格差を縮小する取り組み(途上国への薬の供給、ワクチンの接種機会均等など)
D 病気を人間安全保障の一環としてみる.
E 医学の研究方法の進展

第6章 「病気に国境はない」 押谷仁(東北大学医学研究科教授・感染症学)

経済のグローバル化に連動して、人と物資の移動が盛んである。それにともなって感染症などが国境を越えて拡大するリスクも増大した。1980年代のHIVエイズの問題に始まり、アフリカの熱病であるエボラ出血熱が欧米で見つかる例が増えてきた。21世紀には入ると2003年重症急性呼吸器症候群SARSという新興感染症が中国から世界の30カ国に広まった。8000人の感染者と776人の死者がでた。これを媒介したのは潜伏期間中に全世界に移動できる飛行機である。これに追い討ちをかけたのが、2003年高病原性鳥インフルエンザH5N1の流行である。アジア、欧州、中東、アフリカに拡がって、500人以上の感染者がWHOに報告され60%が死亡した。2009年には豚インフルエンザH1N1の流行が全世界に広がった。幸い流行性インフルエンザに較べて重症性は強くなかった。地球規模の健康問題とは、かってはエイズ、結核、マラリアであったが、近年多くの抗ウイルス剤が開発され、HIVは先進国では治療蚊能名感染症になりつつある事は喜ばしい。しかしこれらの対策の恩恵を受けられるのは先進国と後進国では大きな格差が存在することも事実である。国連とWHOは基金を設けて取り組んできており、対策は進んでいるといえる。発展途上国で毎年900万人近くの小児が肺炎と下痢症で亡くなっている事を忘れてはならない。WHOは地球規模の感染症に関して、情報の共有を重視し2005年国際保健規則を改正し、コレラ、ペスト、黄熱病以外のあらゆる事態を想定して直ちにWHOに報告するように各国に義務付けた。新たな感染症が見つかればすぐにワクチンが製造されるが、そのワクチンの恩恵を受けるは高価なため先進国に限られているとして、発展途上国からの不満は高い。ウイルス遺伝情報は共有できても、ワクチンを世界で共有する仕組みが存在していなかったのである。全世界のグローバルな課題をグローバルな視点から捉えることが21世紀の世界的課題である。

第3部 未来の医学・医療
第7章 「臓器はよみがえる」 丘野栄之(慶応大学医学部教授・再生医学)

今再生医学・医療という分野に注目が集まっている。「再生」とは「生体の失われた細胞・組織・臓器の一部が、幹細胞の増殖・分化転換によって補われること」である。損傷した中枢神経系の組織が元通りに自然治癒することはなく、人間には再生能力はないとされるが、それでも日常的に皮膚や損傷した細胞の修復・新陳代謝(再生)は起きている。そこには「幹細胞」が主役を演じる。幹細胞には臓器固有の体性幹細胞のほかに、胚由来の多能性幹細胞(ES細胞)とがある。ES細胞は遺伝子改変マウスに広く使われてきたが、1998年トムソンらは余剰胚を使ってヒトES細胞を樹立した。難治性疾患をターゲットととして再生医療への応用に期待が集まった。そこで2006年厚労省はES細胞以外の「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」を施行した。2010年見直しをおこない多能性細胞であるヒトiPS細胞も対象としたが、ヒトES細胞については検討中であるという。一番臨床に近い研究には慶應義塾大学の「角膜上皮シート移植」があり、指針の承認を受けて2010年フェイズU段階にきた。米国で行なわれている胎児性またはES神経前駆細胞は治験段階であるが、臨床応用に際し免疫学的拒絶反応の問題を避けることは出来ない。そこで自家細胞を用いた再生医療が期待されるわけであるが、HAL遺伝子座の多様性に対応した多能性幹細胞バンクの構築が京都大学の中辻氏によって進められている。またクローン胚由来ES細胞(体細胞移植技術、scnt細胞)は免疫学的拒絶反応のないES細胞の作成に繋がるものと期待されたが、いまだに成功していない。そこへ2006年京都大学山中氏によって、クローン胚を用いない自己細胞由来の人工多能性細胞(iPS細胞)技術が発表された。幾つかの転写因子遺伝子をウイルスによってヒト繊維芽細胞に導入することで、体細胞を変換しEs細胞に類似した増殖能・分化能を獲得した多能性幹細胞である。問題は外来遺伝子を導入するため、発ガンの危険が付きまとうのである。どの体細胞を用いるかや移植安全性に優れた株の樹立が大きな課題である。文部科学省は2007年「iPS細胞研究などの加速にむけた総合戦略」を策定し、研究拠点として京都大学、東京大学、慶応義塾大学,理化学研究所が選出された。

第8章 「ゲノムが医療を変える」 中村祐輔(東京大学医科学研究所・遺伝医学)

2000年ヒトゲノム解析が終了した。ヒトゲノム研究が病気の予防診断治療に新しい時代を切り開くことへの期待が高まった。病気や症状を引き起こす原因を見つけ、それを手がかりに薬を開発する方法がとられるようになった。HIV感染症にたいする「マラビロク」、慢性骨髄性白血病に対する「グルベック」などの開発に成功した。そしてヒトゲノム解読後は新しい抗がん剤である分子標的治療薬が次々と開発され、米国FDAは19種の抗がん剤を承認した。日本では2、3年の遅れで承認されている。この承認遅れを「ドラッグラグ」という。治療は患者さんを集団として捕らえて、新旧の治療法(新薬)の統計的有為差があれば有効というエヴィデンスを与えてきた。このような「エヴィデンスに基づく医療EBM)」と、1995年頃から患者さんの個体差を遺伝子情報を調べることで治療法も変えてゆく「オーダーメード(パーソナイズ)医療」の考えが広がってきた。がん治療においては従来は抗がん剤をとりあえず標準的に用いて抗癌効果を求めるという治療法であった。それに対して乳がんにはHERという分子ががん細胞で作られている場合のみ「ハーセプチン」という抗体薬を投与する。肺がんにはEGFRがガン細胞で作られている場合に分子標的治療薬「イレッサ」が有効である。患者さんの遺伝子多型で効用が異なる「タキシモン」、血液抗凝固薬「ワルファリン」を患者さんの遺伝子多型に基づいて用量を決めている例がある。また薬剤による副作用に遺伝子多型が関連している。高コレステロール治療薬「スタチン」の副作用である横紋筋融解症を遺伝子多型で予測する方法である。HIV治療薬「ネビラピン」による薬疹が、患者さんの細胞表面のHLAタイプとの組み合わせによって決まることが分った。アメリカではオバマ大統領による「ゲノムオーダーメード治療法案」が2006年に提出された。日本では日本人遺伝子多型データ-ベースの構築が中途半端で終っていることが残念である。食道ガンは喫煙と飲酒との関係が大きいとされているが、それにはアルコール脱水素酵素ADH1Bとアルデヒド脱水素酵素ALDH2の遺伝子多型が絡んでさらにリスクが大きくなることが明らかにされた。さらに糖尿病性腎症を起こしやすい遺伝子タイプも徐々に特定されてきた。

第9章 「がんに克つ」 垣添忠生(日本対ガン協会会長・元国立ガンセンター総長)

年間60万人の人が新たにガンになり、34万人の人がガンで亡くなっている。ガンは高齢者の生活習慣病化している。ガンという病気の特徴は@細胞の突然変異である A要因は生活と環境にある。Bガンの発生には長い時間を要する慢性病である。日本人の死亡原因となる上位三種のガンは、肺がん、胃がん、大腸がんである。がん予防には禁煙、塩分ひかえめ、ワクチン接種(HPV,HBV)そしてがん検診である。ガン診断の最前線は画像解析(X線、CT,MRI,PET)と細胞生検である。ガン治療とは手術療法、放射線療法、化学療法、免疫療法の組み合わせである。今ペプチドワクチン療法が注目されている。ガン治療の5年生存率は約50%に向上した(それでも半分の人は5年以内に死ぬ)が、終末期3ヶ月の緩和治療は重要である。2006年「ガン対策基本法」が成立し「ガン対策推進基本計画」が作られ今後10年間にガン死を20%削減する、ガン検診の受診率を50%に向上する目標が掲げられた。

第10章 「健康に生きる」 内山真一郎(東京女子医科大学教授・神経内科学)

「ヒトは血管と共に老いる」といわれ、脳卒中や心筋梗塞などの血管病は死因の30%を占めている。アルツハイマー病は認知障害を伴いQALYを低下させる。そして血管病の危険因子はアルツハイマー病の危険因子でもある。脳卒中は全脳疾患患者の50%を占めついで多いのがアルツハイマー病を始めとする認知症である。血管病の危険因子として、加齢、人種、性、高血圧、糖尿病、脂質異常、心房細動、喫煙、大量飲酒が知られている。そして危険因子の大半は生活習慣に起因するので管理することが重要となる。危険因子の加重でリスクはさらに高まるので、危険因子の同時削減と健康食品のバランスの取れた摂取が一段と大切である。そのガイドラインは個人によって異なるが、学会がガイドラインを公開している。脳卒中には脳出血、脳梗塞、くも膜下出血があるが,最近は脳梗塞が脳卒中全体の3/4を占める。血圧管理が進歩して脳出血が減ったためである。脳梗塞は糖尿病、メタボ、高脂血症を反映して増加した。脳梗塞の中で「一過性脳虚血発作TIA」が最も多い病態で、片麻痺や言語障害が起こるが24時間以内に後遺症もなく消失する病気である。ところがこのTIAは何回もおき重症化するので専門医の治療が必要である。脳梗塞が起きて3時間以内に血栓溶解剤t-PAを注射してよくなるのは三割といわれており、リハビリ・介護が必要になる。TIA救急診療体制が整備されつつあり「急性脳血管症候群」として即時24時間対応クリニックができている。ガン診断でTNM診断で予後を見るように、脳梗塞発症をABCD2sスコアーで再発率をみる。アルツハイマー病の診断にはCTやMRIでは症状が進行してからでないと判別できなかったが、近年血流をしらべるSPECTやPETによって早期診断が可能となった。アルツハイマー病の治療にはアミロイド蛋白ワクチンが注目されたが、進行した人には一定の効果がある。最近糖尿病がアルツハイマー病の有力な危険因子として認識されている。

第11章 「生命を育む」 大澤真木子(東京女子医科大学部長教授・小児科学)

日本の乳児(1年未満)、新生児(4週未満)、早期新生児(1周未満)の死亡率は1000人に対して各々、2.6人、1.3人、1.0人と、日本は新生児の世界一の健康管理である。しかし合計特殊出生率(15-49歳までの女性)は年々下がっており、2007年は1.34で人口減少社会となった。遺伝子の働きのスイッチとされる「DNAのメチル化」が生後の環境で各人で大きく異なってくることが分ってきた。ストレスによる行動変化を「エピジェネティックス」というが、遺伝子のメチル化がホルモン分泌に影響する。子どもを可愛がったり拒否したりする行動に影響するようである。発達障害の子をしかるのは危険であり、ありのまま受け入れることが必要である。不妊症には生殖補助医療技術ARTが用いられる。体外受精、配偶子卵管内移植、顕微鏡受精などがあるが、倫理的・法的問題は残っているし、対応は各国の宗教的事情によっても異なる。

第4部 生と医の未来
第12章 「未来をどう生きる」 島薗進(東京大学大学院人文科学系教授・宗教学)

古事記の古代天皇のように、医学がいくら進歩したとしても数百年生きられるわけでもなく、秦の始皇帝のように不死を願うように死を受け入れる人々の節度と恩義を知る心がなくなりつつある。死生観の復興が今こそ求められているのではないだろうか。医師と患者および家族の齟齬を和らげるために、生命倫理・医療倫理の基礎的な手順としてインフォームドコンセントがあるが、圧倒的な専門的力量差のためはたしてどこまで平等な参加なのかは疑問が残る。まして根拠に基づく医療EBMは医学会の決めた約束事(マニュアル)としては有効であるが、患者さんの個人差は埋めることはない。「医者は臓器を診て、患者を見ていない」とはよく言われる言葉である。キュアー(治療)とケアー(介護・世話・配慮)の両面の医療が必要とされるのである。分りやすい例は緩和医療である。求められるのは医師と患者のコミュニケーションである「傾聴」である。「語りに基づく医療」NBMは精神科医に最も必要とされ、そういう意味では坊主(宗教)もその仲間に入る。

第13章 「医学研究のめざすところ」 永井良三(東京大学医学研究科教授・内科学)

「日本の医学の父」と呼ばれる明治時代のドイツ人医学教師エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)の言葉を採用しながら、「医学研究のめざすところ」を考えたい。1901年ベルツの在日25周年記念講演会で「日本人は西洋科学の樹の成果のみを受け取り、それを生んだ精神を学ばなかった」といって、愛情あふれる(きびしい)日本人批判を行なった。医学の起源はギリシャ神話の半人半獣ケイロンがらアスクレピオスに授けられた。そしてヒポクラテスの時代に医学が始まった。ローマ帝国時代に解剖がはじまったが、古代ギリシャの学問はイスラム(アラビア)に伝えられた。中世のヨーロッパの科学はキリスト教の弾圧で沈滞したが、イタリアから近代科学が生まれた。へーヴェイによる血液循環の発見、デカルトの理性により実験医学の基礎が芽吹いた。まず外科でバレの止血法、ジェンナーの種痘法、ベルナールの実験医学、ウイルヒョーの病理学、コッホの細菌学、スノーの統計医学(疫学)により19世紀中頃には医学は科学となった。明治以降日本では森林太郎の脚気の研究、北里柴三郎の破傷風菌の純粋培養の成功と医学的知は蓄積された。科学として拡大した医学に必要なのは、公共知を含む統合した「臨床の知」であると中村雄二郎はいう。ベルツは1902年第1回日本医学会総会において「専門家は日頃から片寄った仕事をしております。こんな機会には全般的研究と自己の専門的研究との関係を知る事は特に価値があります」とあいさつした。医学そのものを全体として正しく把握してはじめて、人間とは何かを知る事が出来るのである。


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