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高橋正仁著 「無限解析のはじまりーわたしのオイラー」 

 ちくま学芸文庫 (2009年7月)

近代数学を創造した一番はじめの人 

18世紀中頃の数学者オイラーの業績については、吉田 武著 「オイラーの贈り物」(東海大出版会に「オイラーの公式」を中心とした本格的(数学形式に則った)な解説がある。本書は微分、数論、複素解析の3分野における「初めての物語」を紡いだ人オイラーの考え方を丹念に辿った書である。したがって本書は公式・定理の記述ではなく、混沌期の「初めの物語」の思想を述べたもので、入り組んで理解が難しいようで分れば数学の本質が納得できるように書かれている。吉田 武著 「オイラーの贈り物」より、19世紀初頭のガウス、20世紀初頭のヒルベルトと並んで数学の巨人と称せられるオイラーの生涯と業績をみておこう。

レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler 1707 - 1783年)は18世紀最大の数学者・物理学者である。スイスのバーゼルに生まれ、ロシアのサンクトペテルブルクにて死去した。本書が紹介するオイラーの生涯を見て行こう。バーゼル大学でベルヌーイ(流体の運動方程式で有名)の講義に魅せられて、神学から数学へ転進した。19歳でパリ科学院のアカデミー賞に輝いたオイラーは勧められて、1727年ロシアのペテルスブルグに移った。女帝エカテリーナ1世の死去に伴う政情不安の中で、過度の勉強で右目を失明した。1741年ドイツのフリードリッヒ大王の招きでベルリン科学アカデミーに移り、素晴らしい研究成果を発表した。「無限解析入門」 と「微分学教程」という数学書を出版した。1766年ロシアのエカテリーナ2世の要請で再びペテルスブルグに戻った。熱心な研究を続けたが、1773年白内障の手術を受けたものの、視力を失った。1783年天王星の軌道について議論中に逝ったといわれる。文学や社交には興味を示さず、数学と物理に専念した。オイラーは虚数iのみならず、πやeについて山ほどの公式を発見し、その普及には大きな功績があった。オイラーは数値計算に関しては、πの仕事を全て終らせたといわれる。オイラーの業績を見ると、まず解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来もっともこの分野の技法的な完成に寄与した。級数や連分数、母関数の方法、補間法や近似計算、特殊関数や微分方程式、多重積分や偏微分法などなど、古典的な解析学のあらゆる部分に、基本的なものから応用にいたるまでの業績があった。オイラーの名前は、指数関数と三角関数の間の関係を与えるオイラーの公式、オイラー=マクローリンの和公式、オイラーの微分方程式、オイラーの定数などに残っている。フェルマー以降ラグランジュの出現までは進展がなかった整数論において、ほとんど一人で研究し続け、広大な結果を残した。数論的関数の一つであるオイラー関数に彼の名前が残っている。彼はゼータ関数と素数の関係を表すオイラー積の公式を発見、素数の逆数の和が発散するという新しい結果を得た。解析幾何学では一筆書きのできるグラフはオイラーグラフと呼ばれる。これはグラフ理論の起源となった。物理学では、ニュートン力学の幾何学的表現を解析学的に修正して、流体力学の基礎方程式(オイラーの連続方程式と運動方程式)を導いて体系化し、さらに剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系(オイラー角)を導入してオイラーの運動方程式を得た。

著者 高橋正仁氏は、岩波新書「岡 潔 数学の詩人」、「高木貞治 近代日本数学の父」を著した人である。1951年群馬にうまれ、現在九州大学数理学研究院准教授で、専攻は関数論と数学史である。主な著書には上に書いた2冊の岩波新書のほか、「dxとdyの解析学」(日本評論社)、「オイラーの無限解析」、「オイラーの解析幾何学」、「ルジャンドル 数の理論」(海鳴社)、「ガウス整数論」(朝倉書店)などがある。古典数学書の翻訳などで2009年日本数学会出版賞を受賞した。著者は数学史研究の醍醐味をこういっている。「一番初めの物語を紡いだ人の心情を回想し、心の世界に描かれた情景を再現するところに認められる」という。数学史を高橋氏は、デカルトフレマー、ライプニッツ、ニュートン、ベルヌーイ兄弟もことごとくオイラーに注ぎ込み、オイラーを経由してはじめて今日の数学となったという風に理解している。そして「数学という不思議な学問を理解するための鍵を握っているのは間違いなくオイラーである」と断言する。オイラーの数学的世界の全容は途轍もなく広大で高い。そして本書を第1章「無辺解析のはじまり」、第2章「オイラーの数論」、第3章「ベルヌーイの等式とオイラーの公式 複素解析の誕生」の3つを取り上げ、各章の終わりに付録として、リーマン、クロネッカー、オイラーの論文翻訳をいれるという、面白い構成で出来ている。本書は各数学分野の全体を述べるのではなく、初めの物語を述べることにあるので、取り上げる内容は限定されている。そういう意味で錯綜した物語の初めの部分を理解することは結構難しいが、それなりに面白い。本書の趣旨に沿って、なるべく数式なしで数学思想を考えたい。数学は視覚・聴覚などと違って、人の高次脳機能を表現するものであるから、言葉・文法の問題と同じように極めて難しい認識の問題をはらんでいる。実世界を表現しなくとも、数学はかってに考えられるものである。1、2、3、・・・という物を数えているときは実世界であっても、3.14259・・・という無限な数とは何だということから量という概念が生まれ、さまざまな数が創設された。そして虚数・複素数という訳の分らない数も生まれた。自分が生んだ数のつじつまを合わす為に強引に創造したようにも思える。なくても実生活には何の問題もない摩訶不思議な数の世界で七転八倒する人の頭脳をのぞいてみようではないか。

本書はオイラーの業績をすべて語ることは到底不可能である事を宣言している。なぜならオイラーの全作品を網羅したエネスとロームの目録によると、総数は800を超えており、生誕300年を経てなお全集は編纂途上にある。1冊が数百ページの書物が80巻に迫ってなお未完結だという。オイラーの全貌を読むことは到底不可能だとして、著者は自分の目に映った限りのオイラーを語りたいという。著者のオイラーとのめぐり合いは、ガウスの数論である「アリトメチカ」(1801年)が出発点であると云う。ガウスの独創性はオイラーとは別の世界であるというものの、ガウスは参考文献を殆どオイラーから採用している。ヨーロッパの近代数学にはオイラーとガウスという2つの巨峰が聳え立っている。ガウスは実際オイラーと会うことはなかったようだが、間違いなくガウスの師はオイラーであった。本書の内容に進む前に、本書が取り上げる3つの分野について数学史的な概要を把握しておこう。
1)  「無限解析のはじまり」はおおよそ今日の微積分である。オイラーの無限解析の要所は「関数」にあり、この基本概念が解析学に導入され、曲線を「解析的表示」するという関数概念であった。無限解析は曲線を理解する「解析幾何」を眼目として生まれた。この応用は力学において素晴らしい成功を生んだ。オイラー以降の無限解析は、ディリクレ、リーマンへと「実解析」は受け継がれた。オイラー以前にはライプニッツ、ベルヌーイ兄弟の無限解析の芽生えの時期があった。オイラーの無限解析では微分と積分計算が最初から渾然一体であり、コーシーになって「微積分の基本定理」が確立され、微分と積分ははっきり区別された。
2) 「オイラーの数論」ではフェルマーからオイラーへ展開した数論史が語られる。 フェルマーはギリシャ時代のディオファントスの書物「アリトメチカ」に触発され、欄外に48個の数学上の命題を断片的に証明なしで記した。いわばこの断章を紡いで近代数論に仕上げたのがオイラーの数論である。オイラーは「フェルマの小定理」や「直角3角形の基本定理」を証明し、素数の性質を深く洞察した。オイラーの「素数の形状理論」は、ルジャンドルの「素数の相互法則」、ガウスは「平方剰余法則」を生んだ。この2つの理論は等価の理論で「平方剰余相互法則」といわれる。後年クロネッカーは「平方剰余相互法則」の最初の発見者はオイラーで、証明を試みた人はルジャンドル、証明に成功した人はガウスだと考証した。4n+1,4n+3型の素数で平方数を割ると剰余の系列は「オイラーの基準」によって相互法則になる。ガウスはこれを「合同式の世界」の数論に持ち込んだ。
3) 「ベルヌーイの等式とオイラーの公式」ではオイラの「負数と虚数の対数」を手がかりに展開される。虚数を巡るヨハン・ベルヌーイとライプニッツの論争に終止符を打ったオイラーは正、負、虚数の対数は無数にある「対数の無限多価性」を宣言した。こうして複素解析が流れ出した。オイラーの公式はベルヌーイの等式を包含するひとつの等式であって、興味の目的ではなかった。複素解析の第2の契機はコーシーの段階で発生した。第3の契機はアーベル、ヤコビ、リーマンなどの代数関数論であった。

1) 無限解析のはじまり

オイラーといえば複素解析という見方にとらわれていたが、実はオイラーはある意味で近代数学の祖といえるように、幅広い分野の超人であったようだ。本章は微分・積分学と関数論の話である。オイラー全集は生誕200年にあたる1907年から企画されたが、今なお刊行中であり全89巻、全91冊となる予定である。オイラー全集は以下の5系列で構成されている。
@系列: 数学著作集 29巻、30冊
A系列: 力学と天文学 31巻、32冊
B系列: 物理学 12巻(以上完結)
C系列: 書簡集 全10巻の予定(第7巻まで刊行)
D系列: 未発表原稿集(未完)
そして数学著作集の構成は以下である。なお「無限解析序説」、「微分計算教程」、「微分計算教程」をあわせて「オイラーの三部作」ということがある。本章の「無限解析のはじまり」はこの三部作を中心に見ることになる。
巻1 「代数学への完璧な入門書」 1770
卷2−5 アリトメチカ論文集(数論)
巻6−7 代数学論文・代数方程式論
巻8−9 「無限解析序説」 1748
巻10 「微分計算教程」 1755
巻11−13 「積分計算教程」 1770
巻14−23 解析学論文集(無限級数、積分論、楕円積分論、微分方程式論)
巻24−25 変分計算(極大極小の性質を備えた曲線) 1744
巻26−29 幾何学論文集

1684年ライプニッツは「万能の接線法」を発見したという。その後1696年フランスの貴族で数学愛好者のド・ロピタルが師ヨハン・ベルヌーイの講義を記述した「曲線の理解のための無限小の解析学」というテキストを著わした。これは1922年になってヨハン・ベルヌーイの講義録が発見され、ヨハン・ベルヌーイ(1667−1748)の学問的成果である事が判明した。ヨハン・ベルヌーイはオイラーの師でもある。1748年になってオイラーの「無限解析序説」というもうひとつのテキストが著わされた。ここでは現代の「微分学」という言葉は使用されていないが、ロピタルの「無限小解析」そしてオイラーの「無限解析」はどう違うのだろうか。決定的に違うのが、ロピタルのテキストでは「関数」という概念は出てこないが、オイラーのテキストは関数概念の導入から始まる。ライプニッツ、ベルヌーイという微積分の創始者には関数は認識されていなかった。オイラーには何を微分するかといえば、それは関数なのである。量の概念が変化量(不確定量)という普遍的な性格を備えたとき、生まれてきたのが関数である。変化量と定量から関数の概念をオイラーは次のように表現した。「ある変化量の関数とは、その変化量といくつかの数、すなわち定量を用いて何らの仕方で組み立てられる解析的表現である」という。この定義は曖昧な点がないわけではないが、オイラーは関数概念の第1提案者と呼ばれる。次々と新たな変化量を作り出すシステムこそが、解析的表示式としての関数概念の神髄である。関数は、正数、負数、虚数を取り入れ、代数関数以外に超越関数として指数、対数、三角関数、複素関数を貪欲に取り込んでゆく。無限解析においてオイラーは不思議な世界を提示する。無限小の変化量dxとその2乗(dx)^2に無限小の階層を設け、(dx)^2は相対的に無視するのである。論理的にはランボウなやり方だが現在でも微分式の誘導で平気で用いられている。この辺にオイラーの無限小の世界がある。オイラの解析幾何では、変化量xをx軸上に位置させ、関数yの値を垂直に置くことでオイラーは曲線を説明し、関数の概念を基礎にして曲線を理解した。接線、極大、極小の求め方は自然に流れるように定義されていった。

代数曲線というと連続曲線を想定するし、「ある一定の規則に従がうような一様な機械的運動によって描かれる曲線は連続曲線である」とされる。曲線の世界は代数曲線と超越曲線に二分される。これらは解析的表示が可能な第1の関数といわれる。ところが変化量も代数的表示もない状態において、関数の概念が発生する。オイラーの後ドイツのディリクレ(1805−1859)は「完全に任意な関数」という概念を数学に持ち込んだ。(x,y)には1価性の対応関係さえあればいいという。こうして極度に抽象的な関数概念がうまれた。この「完全に一般的な関数」の概念はオイラーの第2の関数概念として提出されたものである。1749年の論文「弦の振動」に出てくる。与えられた関数のグラフを描くと曲線が形成されるのではなく、(x,y)は変化する量ではなくて、弦の点の位置を示す数値に過ぎない。抽象的な対応関係としての第2の関数が、弦振動の偏微分方程式(x,y,t)の場合はフーリエ級数展開が問題になるが、ディリクレ関数では微積分の組みなおしが必要となる。そして最後に円の方程式x^2+y^2=1を解析的表示するとy=±√(1-x^2)という2価関数となる。オイラーはこれを相互依存関係という第3の関数概念を提出した。動かしえない数学的発見とは「曲線には解析的源泉が存在する」ということである。オイラーは十分に広く展開された関数の解析学の土台の上にニュートン力学を構築し、この路線はラグランジェに継承されて「解析力学」という果実を生んだ。

2) オイラーの数論

ユークリッドの「幾何学原論」には、数の持つ特殊な性質が語られ、「素数は無数にある」という命題が出されている。紀元前3世紀のアレクサンドリアのディオファントスは代数学の最古の創始者と呼ばれ、著作「アリトメチカ」というギリシャ語の原点が現存している。フランスのバシェ(1581−1638)は1621年ディオファントスの「アリトメチカ」をラテン語に翻訳し刊行した。その後フランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1601−1665)はバシェのディオファントスを読み、欄外に48個の命題を書き込んだ。この命題には証明は記されていないのでさまざまな代数問題の断片であるが、「フェルマーの最後の定理」として有名な不定方程式x^2+y^2=z^2のn次解は整数または有理数の範囲では存在しないということである。この脚注付きの「アリトメチカ」をフェルマーの子であるサミエルが1670年に刊行し、今日「サミエルのディオファントス」と呼ばれている。紀元前6世紀のピタゴラスの定理により無理数が発生し深刻な契機となって、ディオファントスの数論が出来た。上の不定方程式(x,y,z)の整数解を求めるものである。ディオファントスはピタゴラスの定理以外にも、多くの不定解析例を語っている。しかし数論としては見るべき成果はなかった。欄外ノートであるフェルマーの48の命題こそが、近代数論の出発点であった。フェルマーの時代はライプニッツらによる無限解析が始まったところで、数論にもパスカルなど多くの数学者が参加した。この不定方程式にペルの方程式がある。ax^2+1=z^2(aは正の定数)を満足する整数(x,z)を求めるものである。不定方程式は解ける場合もあるし解けない場合もあり、解が無数又は存在しない場合もある。このペル方程式の可解性は定数aの性質に依存している。

フェルマーの死後80年ほど誰も興味を示さない中で、オイラーはこの種の数論に格別の嗜好があって夢中になって研究したようだ。そして1741年、次のフェルマーの主な2つの定理を証明した。ルジャンドルは1875年「数の理論とエッセイ」でオイラーの業績をまとめた。それによるとフェルマーの2つの定理とは、
@「フェルマーの小定理」: aを素数とし、xはaで割り切れないとすると、x^(a-1)−1はaで割り切れる。(例 a=3 x=4とすると、4^2-1=15=3×5)
A「直角三角形の基本定理」: 4n+1という数はどれも、2個の平方数の和である。 a^2+b^2=4n+1 (例 n=3とすると 4n+1=13=2^2+3~2)
「フェルマーの小定理」とはガウス(1777−1855)の「合同式」の概念を使うと、「pは素数、aはpで割り切れない整数とすると、合同式 a^(p-1)≡1(mod p)が成立する」ということになる。a^(p-1)をpで割ると剰余が1になるということだ。pを「法」と呼ぶ。この2つの定理以外にも、オイラーは「xは整数とすると、フェルマー数2^2^x+1はすべて素数だというのは誤りである。フェルマー数の約数は常に2^(m+1)×n+1という形を持つ」ことを証明した。フェルマーもオイラーも素数(1と自分自身の数以外では割り切れない数 1,3,5,7,11・・・)の性質に深く関りあった。素数は2以外はすべて奇素数である。奇素数の全体を4で割るときの剰余に着目して、素数は4n+1型と4n-1型(4n+3型に同じ)に分けられる。平方の和x^2+y^2が奇数であれば、4で割ると余りはかならず1になるということである。直角3角形の基本定理は4n+1型の素数に共通な性質である。

近代数論への道はフェルマーの命題に始まり、オイラーの証明で近代数論が確立され、ラグランジェに継承されたというべきであろう。19世紀前後にガウスが「平方剰余理論」によって近代数論を深めた。その後ドイツ学派に受け継がれ19世紀初頭にヒルベルトの類体論となって完成した。高木貞治はこのヒルベルトの流れにあるといえる。これが近代数論の大きな本流である。ルジャンドルは「数の理論とエッセイ」で、数の理論(素数の形状理論)と不定解析(不定方程式の解法)は等値である事を主張しています。オイラーは極めて巧妙な解析的技巧を駆使して多くの不定問題を解いた。オイラーの後は、ラグランジュが不定問題を継承した。ラグランジュは連分数(今はあまり使わない)を適用して、ペル方程式x^2-ay^2=-1に関するフェルマーの問題は必ず解けるという結論を得た。直角3角形の基本定理とは「4n+1型素数(線型的形状)pは平方的形状x^2+y^2を持つ」というのと等値である。オイラーは直角3角形の基本定理の延長に、さまざまな命題を発見した。そこでラグランジェはある「ある一般的な方法」を開発して、オイラーを凌駕した。しかしラグランジェの一般理論は4n+3型の素数に対して成り立つが、4n+1型の素数には無力であった。そこでルジャンドルが提案したのは「平方剰余相互法則」である。ルジャンドルは1875年の論文「不定解析研究」において、「異なる2つの奇素数の間に存在する相互法則」となずけた。合同式a^(p-1)≡1(mod p)において奇素数をp,qとすると、(q/p)(p/q)=(-1)^(p-1)(q-1)/4という相互関係を発見したのである。しかしルジャンドルは相互法則を正しく証明できなかったので、1801年ガウスが「アリトメチカ研究」という論文で、平方剰余の理論における基本定理、すなわちx^2≡q(mod p)、x^2≡p(mod q)とおいて(q/p)(p/q)=(-1)^(p-1)(q-1)/4という相互関係と等値の定理を得たのである。これがガウスの「平方剰余における基本定理」といわれる。平方剰余相互法則の第1発見者はルジャンドルでもなくガウスでもなくオイラーである事を、19世紀のドイツの数学者クロネッカーが、その経緯を精密に考証した。クロネッカーの経緯とは、まずフェルマーが直角3角形の基本定理(第1補充定理)を証明なしで発見した。つぎにオイラーが直角3角形の基本定理を証明した。そしてオイラーは平方剰余相互法則の本体と、2つの補充定理を証明なしで発見。ルジャンドルはフェルマーの小定理から平方剰余相互法則を抜き出した。証明は無い。最後にガウスは第1、第2補充定理と平方剰余相互法則を発見した。という説明である。

3) ベルヌーイの等式とオイラーの公式(複素解析の誕生)

対数の概念はジョン・ネイピア(1550-1617) の創案になるが、オイラーは負数や虚数の対数とはどういうものだろうかという問題を究明した。オイラーは1747年「負数と虚数の対数に関するライプニッツとベルヌーイの論争」を書いて、「対数の無限多価性」の認識に至った。あのあまりに有名なオイラーの公式e^xi=cosx+isinx  (i=√-1)はその副産物であった。ベルヌーイとはオイラーの師にあたるヨハン・ベルヌーイのことである。オイラーの「無限解析序説」において超越曲線の考察で、非有理の冪指数が姿を見せる。これを描くには対数の支援が無ければ論じられない。さらに負数の対数となるともうお手上げである。ベルヌーイは「負の対数は虚数である」といい、log(i)/i=π/2を発見する。これはオイラーの公式においてx=π/2とおけば得られる。ライプニッツとベルヌーイの論争においては、ベルーヌーイはlog(+a)=log(-a)が常に成り立つと主張し、ライプニッツは指数と対数の無限級数展開を援用して、負数と虚数の対数はいずれも虚数であると主張した。双方のやり取りは矛盾点を引き出すことで延々と続いたのあるが、煩雑になるので省略したい。一気にオイラーの見解に入る。オイラーはそもそも各々の数に対応する対数はただひとつしかないと思い込んでいることを検討した。そして対数の底を常用対数または自然対数に固定し、y=logxとおいて、指数の無限級数表示においてnが無限大でx^(1/n)は無限の多くの異なる価を持ち、logxも無限に多くの価を与える。
正の数の対数:A,、A±2πi、A±4πi、A±6πi、A±8πi・・・・
負の数の対数:A±πi、A±3πi、A±5πi、A±7πi・・・・・
虚数の対数:C+Φi、C+(Φ±2π)i、C+(Φ±4π)i・・・・


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