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加藤文元著 「ガロアー天才数学者の生涯」 

 中公新書 (2010年12月)

10代で1世紀後の現代数学への道を拓いた天才児

開口一番、現代抽象数学の言葉で書いたガロア理論を下に示す。これだけでは私には全く理解不能です。そんな自分が加藤文元著 「ガロアー天才数学者の生涯」を読んだとしても、ガロアの数学的業績についてやはり何も分らないだろうが、「盲人象をなぞる」式で、ガロアの天才ぶりに一歩でも近づければという気持ちで、本書のマトメを行う。
ガロア理論の基本定理
『体 L を体 K の有限次ガロア拡大とする。L と K の中間体 M と Gal(L/K) の部分群 H について次の式が成立つ。
M = LGal(L/M), H = Gal(L/LH)
ただし、Gal(L/M) は拡大 L/K のガロア群であり、LH は L の元のうちで H の下で不変になっているもののなす L の部分拡大を指す。したがって、Lの中間体 M とガロア群 Gal(L/K) の部分群 H の間の対応
φ : M → H = Gal(L/M), ψ: M = LH ← H
は互いに逆で、これらは全単射になることがわかる。また、この対応はあきらかに包含関係を逆にしている。つまり、M1 ⊃ M2 ならば φ(M1) ⊂ φ(M2), G1 ⊃ G2 なら ψ(G1) ⊂ ψ(G2) となる。』

森 毅著 「数学の歴史」 (講談社学術文庫)からガロアの群論にいたる数学の歴史を紐解くと、『18世紀と19世紀の境に数学の巨人ガウス(1777−1855)が立っている。普通19世紀の数学は「論理と体系」を特徴とする。イギリスの数値解析がニュートンの解析学を生んだように、ガウスはその級数の収束に慎重であった。ガウスは関数列の極限の収束を論じて19世紀解析学の主題となった。18世紀後半の「集合と関数」がようやく実体化するのはガウスの「可変群」からである。群論はガウスに始まり、夭折した天才アーベル(1802−1829)による5次方程式の根の非存在の証明に利用された。代数方程式の根の理論にこだわって、群論が生まれたのは瓢箪から駒的副産物であった。ベルリンのヤコビ(1804-1851)はガウスやアーベルを継いで、楕円関数論を発展させ、純粋数学として解析学や線型代数の基礎をきずいた。フランスのガウスを継ぐ数学者としてコーシー(1789−1857)が著名である。コーシーは置換群を組織化して、ガロアの「群論」の先を行った。さらに極限概念による解析学の論理的基礎付けと解析関数の基本概念を確立し、理論派数学者(機械的計算の数値派に対する)の面目を発揮した。』ということだ。森 毅著 「異説数学者列伝」 (ちくま学芸文庫)においてガロアについて、『ガロアは20歳で決闘に散った天才ということで、フランスではいまも有名である。幼年時より奇矯、陰険という言葉が成績表に残っている変わり者であった。高等工芸学校を2回受験して落ちている。この頃から数学に異常に熱中し、17歳でのちに「ガロア理論」といわれる方程式論の研究を進めた。論文を科学学士院に提出したが、コーシーが紛失したようだ。教職予備校時代に再度論文を提出したが、今度はフーリエがどうかしてしまって日の目を見なかった。教職予備校では校長弾劾運動に巻き込まれ、19歳で革命か数学かの選択で革命を選んだ。そして1830年の革命に遭遇し、ガロアは共和派「人民の友」というセクトに参加した。』と素っ気無く書いている程度である。

著者の加藤文元氏を本書末から紹介する。1968年仙台市生まれで、1997年京都大学大学院理学研究科数学・数理解析博士課程終了。九州大学理学研究科助手を経て京都大学理学研究科講師から准教授となる。専攻についてはよく分らないが、加藤文元氏のホームページ(英文で書かれている)には、群論と幾何学であるようだ。大学での講義内容は圏論、群論、(可換)環論、体論、代数幾何学などを講じている。学生には難易度はかなり高いらしい。著書にはこの中公新書に「数学する精神」(中公新書 2007年)、「物語 数学の歴史」(中公新書 2009年)があり、本書「ガロアー天才数学者の生涯」 は3冊目になる。著者は本書を書くにあたって編集者からガロアの生きた時代とビクトル・ユーゴの「レ・ミゼラブル」(悲惨な人々、ああ無情)の時代設定をダブらせて書くように示唆されたという。そうすることによって、当時の革命的社会の雰囲気や庶民の気分、天才児ガロアの気質がよく理解できるようになっている。20歳前後の青年が政治活動に身を捧げ、決闘で命を落とす。数学の天才ガロアの生きた時代とは、レ・ミゼラブルの時代だったのである。フランス啓蒙思想・合理主義とはそのアンチテーゼが横行する社会背景で生まれたのだ。本書は数学史の本ではない、ガロアという天才児の生涯という伝記なので、数式は一切使わないというところが私をして読む気にさせたようだ。ガロア(1811−1832年)はまだ20歳になる前に、数学の根本を書き換えるような巨大で深遠は金字塔を打ち立てた。本書の特徴のひとつは、ガロアがサン・ペラジー監獄で書いたとされる「序文」の全訳を掲げたことである。ここに現代数学を導いたスケッチがある。「序文」は「序文」だけで終り本文はなかったが。

1) 少年時代 数学との出会い

ガロアは1811年から1832年までの21年間を生きた。この時期はナポレンオン体制の衰退と終焉により、王党派の巻き返しによる保守反動からブルジョワ革命(1830年 7月革命)と近代工業化の始動にいたるエア−ポケットに陥り、時としてテロを伴う不安定な政治状況を生み、民衆レベルにおいても下層社会の劣悪な都市環境という社会矛盾が激しく社会を揺り動かした。1789年のフランス革命は混乱の中ナポレオン帝政で終った。エヴァリスト・ガロアは1811年フランスパリ近郊の村ブール・ラ・ネールに生まれた。リストやショパンが生まれる時期であった。父は学校を経営する18世紀の典型的な啓蒙人であったが、ボナパルティストだった父はナポレオンの百日天下のとき、1815年に推されてブール・ラ・ネール村の村長となった。ナポレオンがセントヘレナ島に幽閉された後も村長を続け、保守派からの攻撃に苦しめられ1929年に自殺した。ガロアの死の2年前であった。ガロアの破れかぶれの革命活動も父の自殺が深く影響しているようだ。11歳ごろまでガロアは明るい幸福な家庭で育ち、主に母親からラテン語や古典文学の知識を教わったという。1823年、ガロアは11歳でパリのリセ(高等中学校)「ルイ・ル・グラン」に入学し寄宿舎生活となった。フランスではその頃まですべての初等・中等教育はカトリック教会の運営になるが、ナポレオンは公教育の重要性を認識して教育制度改革をおこなった。そのひとつがリセであり、前期の11−15歳と、後期の15−18歳の中等教育機関にあたる。ガロアの入学した「ルイ・ル・グラン」はリセの超名門校であった。ガロアが入学して間もなく1824年、「聖シャルルマーニュ祭」に招待された75人の成績優秀な学生達が王党派ユルトラ内閣の専制的な学校運営に反抗して、国王への忠誠を冷やかすという騒動が持ち上がった。この75名は直ちに放校処分となった。ガロアは1826年に「修辞学級」に飛び級するかどうかで父と学校の間でトラブルがあり結局もとの第二学級に戻ることになった。この処置がガロアにとって数学に目覚める機会となった。

そのガロアの数学の目覚めとは、ドイツの偉大な数学の巨人ガウスが良きライバルとした、フランスの幾何学者アドリアン・マリー・ルジャンドル(1752−1833)の「幾何学原論」(1794)に出会ったことである。この初等幾何学の芸術的で直感的な世界に出会ったことで、ガロアは全く数学の虜になってしまった。その代り他の学業は完全に放棄された。1927年春ガロア15歳のとき、数学の歴史を塗り替える天才数学者が誕生した。ルジャンドルの「幾何学原論」はユークリッド原論以来の「定義ー定理ー証明」という伝統を踏襲している。健全な直感を大胆にあしらい、それによってもたらされる初等幾何学のエスプリがガロアを魅了したようだ。ただ今日の数学は定義を変えると様相がガラッと変わる(非ユークリッド幾何)という、約束事を「理論の変数」と考えている。ガロアは代数学ではラグランジュの有名な「任意次数の数値方程式の解法」にも出会っていたはずである。当時のフランス数学界の様子を見ると、「エコール・ポリテクニ−ク(高等理工科学校)」の果たした役割は大きい。フランス革命の前には初等・中等教育はカトリック教会の指導のもとに行なわれ古典しか教育しなかった。理科系の教育は実用的な必要から陸軍士官学校で行なわれ、著名な数学者は王立アカデミーか陸軍士官学校の教壇に立った。フランス革命が起きると王党派の陸軍士官学校は閉鎖され、1794年科学技術専門の高等教育学校「エコール・ポリテクニ−ク」が設立された。「エコール・ポリテクニ−ク」の数学教育プログラムに貢献したのが、実用的な画法幾何学(後の射影幾何学)の祖であるガスパール・モンジュ(1746-1818)であった。差し迫った富国強兵の要請に答え、フランスの高等教育は実学よりも基礎教育の拡充を目指したのである。この慧眼はもって記憶すべきであると著者は力説する。この学校はナポレオンの強い庇護と援助で発展し、校風には自由主義的啓蒙主義(ボナパルティズム)が流れている。

ここで本書は近代西洋数学の歴史を簡潔に描き出すが、森 毅著 「数学の歴史」でも見たことであるので、ガロアに関係すること以外は省略する。西洋数学は17世紀に本格的に展開された。フランソワ・ヴィエット(1540-1603)の「解析技法序説」において、具体的な計算の数値のかわりにX、Yという文字式を採用した。これにより一般的な議論が可能となり、デカルト(1596-1650)の座標、フェルマー(1601-1665)、ニュートン(1643-1727)、ライプニッツ(1646-1716)の微積分学を生んだのである。18世紀にはレオンハルト・オイラー(1707-1783)がトラック一杯分の数式公理を生んだが、19世紀になって「概念」、「構造」に視点が向いた数学となる。19世紀には巨人ガウスが立つが、この根本的なパラダイム転換はベルハルト・リーマン(1826-1866)が「リーマン幾何学」の視点を打ち出し、数学の取り扱うべき実体は概念の集合体(後の集合論)となった。これにより現代数学の「構造主義的数学」への道が拓かれた。ガロア理論はその構造主義を先取りしていたことに意義があるのだ。ガロアの数学上の功績のきっかけとなった代数方程式の根の性質を見てみよう。1次方程式(x−a)=0の根は四則演算(+、ー、×、÷)でひとつだけ求められる。2次方程式x^2+ax+b=0の根は判別式を√(a^2-4b)=Qとすると、(-a±Q)/2の2通りある。ここで根をα、βとすると、根は(-a/2)に対して対称の関係にあり、根の差とは(α-β)=Qである事を言っている。3次方程式の解はカルダーノ(1501−1576)が示し、4次方程式の解はフェラーリ(1522-1565)が解の形の予想と巧妙な未知数の置き換えによって示した。基本は冪根をとることで、2次方程式は四則演算と平方根によって、3次方程式は立方根をとる。4次方程式までは巧妙な方法で解くことができたが、5次以上では特殊な場合を除いて解くことができなかった。18世紀後半ラグランジュは解よりも解法自体を研究対象とした。「根の置換」によって何が特徴的に振舞っているのかにラグランジュは気が付いた。5次方程式は一般的に解けない事を証明したのは、1798年パオロ・ルフィニ(1765-1822)だが、誰も理解できなかったようだ。1824年に夭折の天才ヘンリック・アーベル(1802-1829 )がこの問題に完全な答えを出したとされる。夭折の天才という点でガロアとアーベルはいつも対比される。

2) 1829年 数学者としての出発と挫折

1828年16歳のガロアはリセ「ルイ・ル・グラン」の学業には目もくれず、相変わらず自分の数学に夢中になっていた。そのころガロアは一度は5次方程式の解の公式を発見したと思い込んだらしい。間違いであったことに気が付いてますます深くこの問題にのめりこんでいった。系統的に数学を勉強するわけでなく、物理や他の学業には殆ど関心がなかったようだ。1828年通常より1年早く数学の殿堂である「エコール・ポリテクニ−ク」を受験したが失敗し、リセに戻ったガロアは「哲学学級」に進学し「特別数学」の教師リシャ−ル先生に出会う。このころが薄幸だったガロアの生涯で一番幸せな時代だったかもしれない。先生はガロアの才能を正当に評価し、ガロアは先生と飽きずに当代一流の数学者の仕事を議論しあった。そして少しづつ数学の成果がではじめ、1929年最初の論文「循環連分数についての定理の証明」を専門誌に発表した。そして「与えられた任意の次数方程式が代数的に解けるための必要十分条件を見つける」事を自分の目標とした。そして2つの論文「代数学研究」と「素数次数の代数方程式についての研究」をまとめた。リシャール先生はアカデミー会員のコーシーを選んで査読のために論文を送った。このコーシーにはかのアーベルもあきれたくらい頑固で、熱烈なカトリック信者で王党派であったという。コーシーは自分の論文を書きまくりアカデミーは彼の論文の長さに制限を加えたくらいであった。他人の数学の仕事には全く無関心であったが、ガロアの論文はきちんと読んだらしい。そしてアーベルとガロアの論文の違いを正しく見抜き、ガロアにアカデミー大賞への応募を進めたようだ。ガロア理論が次世代の数学を支えるくらいの内容を含んでいる事をコーシーは理解した。

1929年はガロアの数学人生(17歳で)で最も幸福な時期であったが、同時に2つの不幸がガロアを襲った。一つは父ニコラ・ガロア村長が教会の策略で追い詰められ自殺したことである。そして2つ目の不幸とは二度目の「エコール・ポリテクニ−ク」受験失敗である。当時注目の数学者として知られたガロアが不合格となった理由は試験官を侮辱したことと、無難で常識的な答え方を知らなかったためであろう。「エコール・ポリテクニ−ク」の受験は2度までとされていたから、ガロアはもう受験資格を失ったことになる。そしてリシャール先生はガロアからしだいに醒めて距離を置く関係になった。父を亡くした経済的理由から、ガロアは給付金が支給される「エコール・プレパラトワ−ル」(高等師範学校)に入学した。

3) 1830年 7月革命

1830年1月18日にコーシーはアカデミーでガロア論文を報告するはずであったが、体調を理由に欠席し、2月にコーシーはガロアに「方程式の冪根による解法の条件」でアカデミー主催の数学論文大賞に応募するように勧め、ガロアは大急ぎでまとめて提出した。このころガロアの数学研究活動は活発で、4月には「方程式の代数的解法についての概要」を数理科学紀要に投稿、6月には同じ雑誌に「方程式の代数的解法についての覚書」と「数の理論について」を投稿した。前の論文には楕円関数に関するモジュラー方程式の代数的可解性について述べた。後の論文は現在の言葉で「ガロア」とか「有限体」といわれる数の体系を述べている。アカデミー大賞応募論文はジョセフ・フーリエ(1768- 1830)に送付された。全くの偶然でフーリエはガロアの論文を検討する間もなく他界した。そしてその論文は失われた。6月アカデミー大賞はアーベルとヤコブ・ヤコビ(1804−1851)の二人に贈られた。ガロアは大賞を受賞することは出来なかった。アーベルはガロアと同じ題名の論文で、ヤコビは楕円関数のテータ関数で受賞した。ガロアはこうした度重なる不運に運命を翻弄され、世の中に不正しか見出さななくなってしまったようだ。

そうしたなかで、フランスの7月革命が勃発した。1827年の選挙で成立したヴィレール政権と次の穏健王党派のマルチニャック政権は保守派と自由派と左派のなかで次々と辞職し、1829年に成立したポリニャック政権は絶対王権派で反動的政策を強め、国民とブルジョワから見放された。そこで共和派(左派)とオルレアン派は政権打倒を目指した。1830年3月ポリニャック内閣不信任案が可決され、国王シャルル十世は議会を解散し、緊急大権条項(7月勅令)を出してクーデターを起こした。ラファイエット将軍とオルレアン派のラフィットが革命軍を始動し民衆蜂起がおこった(7月27日 栄光の3日間)。それによって権力を握ったのはオルレオン派で、新しい王ルイ・フィリップスの立憲君主制(7月王制)が始まった。このルイ・フィリップスのもとでブルジョワ革命が完成し、共和主義派は地下に追い込まれた。ガロアの在学していた「エコール・プレパラトワ−ル」の校長ギニョー氏は王党派で内心は7月革命を警戒していたので、栄光の3日間は学生に外出禁止令を出して校門を閉鎖した。そして革命が成ると校長ギニョー氏は新政権に忠誠を誓という変節ぶりにガロアは激しい怒りを覚えたらしい。このころからガロアは数学よりも政治活動のほうに熱心になっていた。友人でガロアの遺書の受取人になったオーギュスト・シュヴァリエはサン・シモン教会に入信し社会民主主義的共同生活を理想とした。その影響でガロアは政治問題への関心を急速に高め、共和主義政治結社「人民の友社」に入会した。そして校長ギニョー氏を揶揄する投書が新聞に掲載された。ガロアが内部告発したと睨んだ校長は退学処分を教育大臣に申請し、1831年1月14日正式にガロアの放校処分が決定した。

4) 1831年 共和派活動

7月王制のルイ・フィリップスは個人的には開明啓蒙君主であり、その下でイギリスに対抗すべくブルジョワジーによる産業の近代化が進んだ。しかし社会の不安定要素として共和派を弾圧し、政治問題にめざめた場末の職工や労働者、それを取り締まる警察組織、一触即発の危機をはらんだ社会不安が広がる光景の中にガロアがいた。「エコール・プレパラトワ−ル」を退学させられた20歳のガロアは放浪者として町に投げ出された。1月16日ガロアは実に3回目の正直というべき「冪根による方程式の可解性について」の論文を仕上げて、アカデミー数学会員のシメオン・ポアソン(1781-1840)に提出した。この論文は現存しているが、序文によるとアカデミー大賞応募論文の抜粋に過ぎないという。そして「素数次数の既約方程式がべき根で解けるために必要十分条件は、その根の中から2つの根を任意に選ぶと、他の根はこれらに関する有理関数で表される」というガロア理論が要約されている。これが本文の冒頭に書いた抽象数学の言葉の内容である。ここからルフィニやアーベルの「5次方程式の代数的非可解性」という証明は,ガロア理論の特別な帰結となってしまう。約3ヶ月かけた審査の結果は3月31日に、アカデミー委員のポアソンとラクロア氏は「必要十分条件」にこだわり、「十分に明快ではなく、正しく判定できない」として論文を拒否した。ガロアは共和派が沢山いた「国家警備砲兵隊」に入隊したが、1830年12月にルイ・フィリップスによって解散させられ、1831年4月国家警備砲兵隊の制服を着て騒動に加わったかどで逮捕され、裁判では全員無罪となったがこれ以降ガロアは警察の要注意人物として監視された。5月9日共和派の大規模な宴会が催され、ガロアは「ルイ・フィリップスに乾杯・・・・」とやったところで、「フランス国王の暗殺を煽動した」という容疑で逮捕された。これは来るべき7月14日の革命記念日に共和派の政治行動があると警戒した警察が予防拘禁したのであろう。10月の公判が開かれるまでガロアはサン・ぺラージ監獄に拘禁された。

ガロアは自分の理論をアカデミーから発表する事を完全に諦め、自費出版すべく獄中で執筆を始めた。その著作は前半が「代数方程式べき根による可解性条件について」、後半が「代数関数の積分で表される超越関数について」の覚書となる予定であった。残っているのは序文と目次だけで、その序文が驚くべき文書であった。ガロアの業績を阻んだ人たちへの呪詛と罵詈雑言に満ちた序文はそれだけでも脅威なのであるが、それはさておき数学的興味から見て大変価値のある文であるという。数学的には「ガロアの黙示録」とでもいうべき内容を含んでいる。ガロア理論が代数方程式に留まらず、微分方程式や現代数学における理論を含めて広大なガロア理論が広がっているのである。部分を紹介すると「長々とした代数の計算は、まずもって数学の進歩氏は殆ど必要ない。・・・オイラー以来必要となった複雑な計算を一斉に包括するような理論が必要なのである。・・・複数の計算操作を結合し、グループ化し、そして形ではなく難しさによって分類することが未来の幾何学者に必要なのだ。・・・解析学の解析学を構築すると、高度な楕円関数の計算が特殊例になってしまう。・・・求める問題の特殊性に応じて形ではなく難しさによって分類された計算が実現される日がやってくるだろう。・・・」と述べている。1831年1月にポアソンに提出されたアカデミー大賞論文において、ポアソンをして「明快でない」と言わしめた分り難さはあるとしても、ガロアは「群(グループ)」という考え方を導入した。方程式の解き方で巧妙な根の置換という方法は、いわば方程式に内在するみえざる対称性をいうのである。この置換の集まりを「群」という。それら全体が集まって出来たひとつのシステムを論じようとした。四則演算で計算できる事を「有理的に既知」といい、既知の数の全体を「体」として集合を考える。この「群」と「体」という現代数学の言葉を用いれば、ガロアの理論はスムーズに理解できるのではないかと著者はいう。ガロアの理論を理解するには「構造主義的」な視点と集合論の言語が必要だった。ポアソンは理解できなかったが、コーシーは理解していたはずだと思われる。代数方程式を1次、2次、3次、4次と解くとき難しさの程度は上がる。微分方程式でも解析的に解けるには僅かで、やはり難しさの程度を「微分方程式のガロア理論」という。アンリ・ポアンカレー(1854-1912) はフックス関数というある種の関数の難しさを測る群が、非ユークリッド幾何学における幾何学的対称性と密接に関係していることを発見した。これは基本群というガロア群であり、「一般的ガロア理論」とは次のようなものであると著者はいう。「ガロア理論とは、数学的対象の難しさを、それに付随した対称性全体からなるシステムの構造によって記述する数学である」と。

5) 1832年 決闘 

いよいよガロアの死にいたる最終章となった。1832年という年は「病めるパリ」を象徴する「コレラと暴動」の年である。コレラの流行はパリは4月だけで12733人の死者を出した。そして6月5日に「ラマルク将軍追悼暴動」が起きた。「レ・ミゼラブル」は、恋人を失って自暴自棄となった少年ボンメルシーが暴動で瀕死の重傷を負うが、ジャン・バルジャンによって奇跡的に救出されるというストーリーでこの暴動を描いている。ガロアの初恋と、ガロアの決闘事件の実像はよく分らないが、「レ・ミゼラブル」のボンメルシーとガロアの実像を重ねるようにして著者はガロアの最後を描き出そうとする。「国家警備砲兵隊」事件で拘束されていたガロアは1931年12月の裁判で有罪となり、1932年4月29日まで監獄に服役と決まった。1932年3月パリにコレラの流行の兆しが見えると、ガロアは衛生状態がいいフォートリエ療養所に移された。そこで療養所庁長の娘に恋をしたらしい。手紙の断片にその様子が見られるが、どうなったのかは分らない。おそらくうまく行かなかったようだ。5月30日にあったとされる決闘は5月31日コーシャン病院の検死解剖結果からわかる。「近距離から銃弾を受け、12時に腹膜炎で死んだ」と書かれている。決闘は挑戦を受けた48時間以内に行なわれる習慣があった。ガロアは「僕は二人の愛国者から挑戦を受けた」と書いている。「陰謀説」、「自殺説」、「恋愛説」のいずれも決定打は無い。30日の決闘の前夜にシュヴァリエに書いた遺書には、数学上の発見をなんとか残そうと思っていたようで「この証明を完成させるための方法がある。でも私には時間がない」といった。 「レ・ミゼラブル」のボンメルシーには救いがあったが、ガロアには救いの手は差しのべられなかった。「本当にそれが運命だったのだろうか」と著者は残念な思いを述べている。


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