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大山礼子著 「日本の国会」 

 岩波新書 (2011年1月)

国会審議の空洞化の原因は、国会制度そのものにある

2011年2月現在、菅民主党内閣は衆議院で2/3の議決をめざして社民党との政策合意に国会運営の命運をかけている。衆議院で与党民主党は300議席を持つにもかかわらず、そして予算案議決の衆議院優先権があるにもかかわらず、実に苦しい国会運営を強いられそうである。それはねじれ国会では首相任命権、予算議決優先権は衆議院に優先性があるが、もはや与野党間で積極的に合意形成を図ってゆかなければ、重要法案の審議入りさえ覚束ない状況である。自民党は攻守入れ替わって野党に徹し、旧態依然たる審議拒否戦術に訴えている。これでは55体制時と国会の構図は何も変わっていない。長く続いた自民党政権の時代、国会は内閣提出法案の追認機関に過ぎなかった。与野党が国会審議の中で協議して政策につなげてゆく場面は殆ど見られず、大部分の法案は無修正のまま国会を通過していた。野党の最大の戦術はすべての法案に反対の態度を貫き、内閣提出法案を時間切れ、廃案に持ち込むことにあった。国会で法案の実質審議はほとんどなく、あったとしても国会外での与野党の交渉で処理され,国会審議は空洞化して行くばかりであった。国会はなぜ存在するのかというと、歴史的には君主の行政に対する制御・チェック機能として法制化された。君主がいなくなった国民主権の現代では、議院内閣制では選挙で選ばれ国会議員が民意に沿った政策を行う内閣を構成し、必要な立法を行なう場であった。国会は本来政党や議員が議論を尽くして政策を決める場ではなかったか。国会はなぜ実質的な審議を行ない得ないのか、行なおうとしないのか。国会がここまで無力なのは立法府として恥ずべき事ではないのだろうか。国会改革とは議員数の削減や政治と金の問題だけではないはずである。今最も緊急を要する課題は、国会審議を通じて政策決定への民意の反映を実現することであろう。今日の国会審議の空洞化をもたらした最大の原因は、国会の制度にあると考えられる。本書は戦後の新憲法のもとで目指した国会のあり方を検証し、自民党長期政権下(55体制)での国会運営と国会空洞化の歴史をみてゆく。そして国会改革の課題を欧米の政治制度と比較しながら設定してゆくものとなっている。

著者大山礼子氏のプロフィールをみる。大山礼子氏は現在駒澤大学法学部教授である。1954年東京生まれで、一橋大学大学院法学研究科修士課程修了(法哲学専攻)後、1975年から1995年まで国立国会図書館に勤務して調査及び立法考査局で議会や地方自治関係の調査を担当した。その後聖学院大学教授を経て2003年より現職である。専攻は政治制度論である。主な著書には、『国会学入門』(三省堂、1997年)、『住民投票』(共著)(ぎょうせい、1999年)、『国会学入門・第2版』(三省堂、2003年)、『比較議会政治論』(岩波書店、2003年)『マニフェストで政治を育てる』(共著)(雅粒社、2004年)、『フランスの政治制度』(東信堂、2006年)などがある。私は政治学に関係した本としては本コーナで飯尾潤著 「日本の統治構造」ー官僚内閣制から議院内閣制へー 中公新書(2007年7月) を取り上げた。また民主党の目指すイギリス型の議院内閣制については、菅直人著 「大臣」増補版 岩波新書(2009年年12月)を参照されたい。本書の論じるところに極めて接近していると思われる。また行政監視機能として注目されている「事業仕分け」については、枝野幸男著 「事業仕分けの力」 集英社新書(2010年4月)を参照して欲しい。

本書の内容に入る前に、現在の国会の諸問題を概観しておこう。国会は国の機関のなかで唯一国民の投票で選出される「国民代表機関」である。憲法では国会を「国権の最高機関」、「唯一の立法機関」と規定する。しかしながら憲法制定後60年を経た今日、国会がその位置にふさわしい役割を果たしてきたかというとはなはだ心もとない。国会は官僚の作成した法案に承認印を押しだけの機関になったという人もいる。2008年の調査では国会を信頼する国民は23%に過ぎなかったという。国会の形骸化はその審議時間の現象でも明らかである。衆議院の本会審議時間は年間100時間から近年は60時間に減少した。イギリスやフランスでは年間1000時間以上である。日本の国会審議は殆どの精力は委員会の審議(年間1400時間)に費やされ、本会議はセレモニーに過ぎなくなっている。内閣提出法案の80%以上は無修正で国会を通過し、実質修正率は10%以下である。これには自民党の政策決定過程が、法案提出前の党内部会での事前審査制が徹底し、総務会で決定されれば党議拘束がかかり、後は政府と党が協力して無修正で可決するばかりになっていたからだ。国会での法案審議は実質的審議ではなく、与野党の論戦とスケジュールの駆け引きの場に終始してきた。「官僚内閣制」もしくは「省庁内閣制」といわれる官僚側と、省庁別に特化した自民党各種部会(族議員)が法案提出前に事前に修正と妥協を通じて政策決定を行なってきた。この時点では内閣の関与は曖昧で「二重権力構造」といわれても仕方ない状態であった。官僚と族議員の事前審査決着後に閣議決定を行い、事務次官会議を経て国会に法案が提出された。以上が自民党政権時代の政策決定プロセスであった。

それまで野党であった民主党が総選挙で過半数を優に超える議席を獲得した2009年9月の政権交代は、日本の議会政治史を画する出来事であった。民主党政権は「政治主導」を唱えて政務三役による政策決定を行なうとして、事務次官会議を廃止、自民党の政務調査会に相当する政策調査会を廃止して、政策決定を内閣に一元化した。民主党が目指した国会審議のあり方は、議院内閣制の議会として至極正当な方向を示したものとして注目された。しかし民主党の「政治主導」は迷走し、国会審議は一向に活性化されない。2010年6月鳩山首相の辞任した後を受けた菅直人首相は政策審議会を再建し、与党議員からの提言を受け付けて政務三役と意見調整を行なうこととした。2010年7月の参議院選挙では民主党は大敗し、野党連合が過半数を制する「ねじれ国会」が再現した。野党の協力が得られないと政策の実行は不可能である。政策ごとに野党との合意を図る部分連合を目指すことにした。昔のねじれ国会で自民党は2/3条項を使って何回も重要法案を国会を通した。それさえ今の民主党政権では難しい。自民党は2011年度になって今国会で民主党政権の打倒を図り、国会運営はマヒ状態となった。衆議院では2/3近くの議員数がありながら、これほど無力な内閣は前代未聞であろう。振り返れば1990年代の政治改革によって、日本の政治の枠組みは大きく変化してきた。1994年の小選挙区比例代表並立制(細川内閣)は2大政党制を目指し、公認権が選挙で政治家の生命を制するようになった。政治資金制度も資金が政党中心になったことから、議員が資金面で党本部に依存する度合いが強まった。1998年の中央省庁改革基本法で(橋本内閣)で首相権限の強化された。1999年の国会審議活性化法で政府委員制度(官僚が国会で答弁)の廃止、党首会談の導入も決まった。これらの一連の改革の目指すところは、第1に政権交代可能な2大政党制をめざし、第2に首相及び内閣のリーダーシップを強化することであった。

1990年代の政治改革が効果を著わした2000年以降には、自民党と民主党の2大政党時代へ移行した。自民党と連立を組んだ社会党の崩壊は劇的であった。政権交代が可能となったことで、選挙では党はマニフェスト(政権公約)を掲げて闘い政策を国民に鮮明にした。選挙のときの党首が首相候補者であるため、政権選択と同時に首相選択としての色彩を帯びた。2001年に首相に就任した自民党の小泉氏は自民党時代では想像も出来なかった改革を実行した。郵政民営化、道路公団の民営化、公共事業の削減は自民党の足腰を食う改革であった。小泉氏でさえ法案の事前審査制という族議員の権益に食い込むことは出来なかった。そして小泉以降の3代自民党内閣(安倍・福田・麻生)で改革は頓挫し、替わった民主党内閣は内閣一元化を掲げたが、小沢氏の「党の要望」に振り回される有様であった。現状は弱い内角が弱い国会に対峙し、内閣、国会、官僚のいわば「三すくみ」状態であるといえる。日本の政治改革はイギリスの議会民主制(ウエストミンスターモデル)を手本にしてきたが、このウエストミンスターモデルに早くから着目していたのは民主党の小沢氏であった。小沢氏の基本的認識が1993年の政権交代以降に政治改革の主流となり、それは民主党政権にも引き継がれている。その改革目標は菅直人著 「大臣」増補版 岩波新書(2009年年12月)に詳しく書かれている。たとえば国家戦略局構想は小泉内閣時代の「経済財政諮問会議」の発展型である。その国家戦略局構想も菅内閣は早くも断念しているようだ。ここが重要なのであるが、ウエストミンスターモデルは既に大半は実行済みであり、これからの改革の議論には即効を期待できない。当のイギリス下院でさえ国会の審議は政府野党の対決中心にならざるを得ず、政府法案の修正率は1割以下に止まっている。日本政治制度の特徴は、首相の権限をチェックする役割の拒否権プレーヤー(参議院など)が多数配置されていることである。日本の政治機構は戦後の憲法では基本的にウエストミンスターモデルに基づいていたのを、歴代の自民党政府がアメリカ型に近い運用をしてきたものである。1990年代以降再度ウエストミンスターモデルに戻す努力をしてきたように見える。ウエストミンスターモデルがはたして日本でうまく行くかどうか大いに疑問があるのに、民主党首相の力不足だけのせいにすることは無理である。

1) 戦後新憲法での国会運営

いまさら帝国議会を持ち出すまでもないのだが、国会という観点で帝国憲法を見てゆくと、立法権は天皇にあるといいながら帝国議会の同意を必要とし、帝国議会は法案提出権も持っていた。1924年から1932年まで存在した日本の政党内閣はイギリスなどにおける議院内閣制と同じ発展を示すものであった。政友会と民政党の政権交代も実現した。しかし議院内閣制を保障する憲法上の記述がなく、内閣主導の政策決定を阻む勢力も多く存在して昭和の初めに軍部の台頭とテロであっけなく崩壊した。太平洋日中戦争で破れポッツダム宣言を受諾した日本に進駐した連合軍司令部(GHQ)は日本の民主主義的傾向の復活強化を目指した。GHQ民政局は帝国憲法での弱い議会が軍国主義の台頭を招いたという認識から、新憲法は議会の権限を大幅に強化するものとなった。1946年11月に制定された日本国憲法は国民主権を謳い、国会を「国権の最高機関であって、唯一の立法機関である」とした。新憲法は議院内閣制を明文で保障し、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決で指名される。新憲法は連合軍民政局で議論され、三権分立のアメリカ型より、立法府が最高の地位を占めるイギリス型に傾き、イギリス型の議会優位の仕組みにアメリカ流の解釈を施すことで決められた。1947年4月に制定された国会法では、アメリカ連邦議会をモデルとした常任委員会制度、立法補佐機構の充実が取り入れられた。アメリカ流に国会の権限が著しく強化された。法案などの審議は本会議中心主義から委員会中心主義へ導かれた。常任委員会には強力な権限が与えられ、公聴会、国政調査権の主体となり、法案提出してもよい事になった。欧州型の議院内閣制の議会にはないほど委員会の権限は強力である。

戦後初の国会は1947年5月からスタートした。多くの政党が乱立する中の政局はかえって議員の自由な活動がうまれ、自由討議の機会を活用した田中角栄氏の活躍が有名で、かつ議員立法も活発に行なわれた。「昭和電工疑惑」のヤミ物資疑惑を調査する国政調査会活動は活発に行なわれ、1948年10月に芦田内閣総辞職に至った。証人喚問も厳しく行なわれ自殺者を出すくらいであった。しかし証人喚問も次第に行なわれなくなり、昭和20年代に895人に上った証人喚問は、30年代には136人、40年代には僅か2人となった。国政調査報告書の提出も曖昧になり、1954年以降国政調査報告書が提出された例は無い。参議院では無所属議員が多く一大勢力が形成され、緑風会が中心となって、政党中心の衆議院とは異なる運営で参議院の独自性を発揮した。内閣提出法案に対して緑風会は多くの修正案(97/836件)を出した。破防法の修正,教育2法案の修正が参議院の良識を示すものとして有名である。戦後の内閣提出法案可決数と率は7856件(85%)、議員立法の可決数は1178件であった。1955年の国会法改正により議員立法にハードルが設けられ、衆議院では20名、参議院では10名以上の賛同者が必要となった。そして内閣提出法案が主流である事が分って、国会の審議は議員同士の討論ではなく政府に対する質疑中心のものへと変化した。そして政府委員(官僚)の役割が増したのである。政府委員の任命には両議院の議長の承認を必要とするが、戦後国会では政府委員は増加の一途となった。首相の議会解散権は「不信任決議が衆議院で可決されたとき、10日以内に衆議院が解散されない限り総辞職しなければならない」のと七条解散の2つがある。解散は内閣にとって大きな武器であり、「バカヤロー解散」、「馴れ合い解散」、「抜き打ち解散」、「江戸の敵を長崎で解散」など歴史に残るものが多い。提出された法案は直ちに所轄の委員会に付託され、委員会審議が終了して始めて本会議に上程される。議院運営院解会が特に認めた場合には、本会議で趣旨説明を実施できる。1950年ごろから与野党間で意見が鋭く対立する案件については、趣旨説明が終るまで委員会付託を待つという慣例が生まれた。数10件の法案の趣旨説明を求められると重要法案の審議入りが遅れることになり、趣旨説明が逆に審議引き延ばしの手段として利用されている。

2) 55体制で空洞化する国会審議

国会の審議手続きは1)で述べたので繰り返さないが、国会の会期の短さと、会期不継続審議原則があるので、法案は審議継続の議決をしない限り廃案になる。野党との駆け引き重視の国会審議は自民党長期政権下で定着した。議員内閣制を採用している諸外国と較べると、日本の立法過程では内閣の存在感が薄い。それはアメリカの議会制度の影響を強く受けているため、行政府と立法府の権力分立が顕著なためである。内閣から国会の審議を促進する仕掛けがないのである。内閣の法案提出権は内閣法で明文化されているが、立法の主導権はあくまで国会にあり、法案提出後は国会が自立的に審議して修正を加えるのが原則である。内閣による法案の修正は制約されている。フランスでは一括評決や可決を促す権限があり、イギリスでは議長による討論終結、決めた審議時間を越えたら審議打ち切り、政府の議案の優先権などの仕掛けが確立している。1955年以降自民党政権下では、内閣提出法案を順調に成立させるための運用が「事前審査体制」であった。事前審査の起源は1962年の総務会長赤城宗徳の「法案審議について」であった。閣議決定前に総務会で審査し修正を加えるというものであった。これには国会審議で数値をころころ変えられると困るという大蔵省の要望が絡んでいたようだ。1970年に入って田中角栄内閣のときに自民党内の審査体制が整備された。その中心的役割は自民党政務調査会の各部会であった。各行政的分野に沿ったいわゆる族議員が関係業界の要望も踏まえて、第1次官僚作成の法案を修正する。部会の審査を終えた法案は政務調査会の総会で全会一致で承認され、自民党最高意思決定機関である総務会の了承を経たのち党議拘束がかかり、事務次官会議を経て閣議決定され、国会に提出されるのである。事前審査の対象は閣議決定された法案ではなく、第1次官僚作成の草案である。したがって自民党議員の交渉相手は内閣ではなく法案を起草した省庁の官僚である。事前審査制はいわば官僚と与党議員との利害の一致によって生まれてといえる。国会の常任委員会もほとんど政調会の与党議員主導で進められた。この事前審査制廃止は小泉内閣でさえ党内の壁を突き破ることは出来なかった。

国会の議決においては、多数決の原理で党議拘束をかけた与党案が可決されることは明らかである。そこで国会は審議時間の割り当てをめぐる与野党の駆け引きの場と化した。議院運営委員会から協議の場は国会対策委員会に移り「国対政治」となった。野党であった社会党は国会外の交渉で自党の主張を通すことを目指したので、つるし戦術で審議入りを阻む戦術をとった。こうして国会審議の空洞化、形骸化が進行し、1975年ー85年には国会本会議開催時間は55時間まで落ち込んだ。事前審査制の確立が国会審議を変質させたのである。では委員会審議は十分に行なわれているかというと、開会に先立って発言順位と発言時間を割り振ることが慣行となり小会派の自由発言はありえない。本会議と並行して委員会審査のあり方も実質的審査とは程遠いものに変わった。委員会や本会議はテレビ中継で国民の目に公開されるので、野党にとって内閣対決姿勢をアッピールし存在を示す機会となった。では議員立法が国会活性化の鍵となるだろうか。成立法案の9割以上が内閣提出法案である欧州に較べると、日本は議員提出法案が多いほうである。この議員立法の議論はアメリカの議論を引き摺ったものである。党議拘束を掛けないアメリカ議員の行動パターンは「個人商会」といわれる。それが今の日本にそのまま当てはまるとは思えない。1990年代後半からの低成長時代にはこれまでの既得権益擁護型の政治は成り立たず、政策転換が求められた。右上がりの原資がなくなった現在、果断な決断を下そうとすれば首相のトップダウン型政治が求められるが、公共事業型予算や政策の事前審査制はその阻害物となった。2001年に成立した小泉内閣は@内閣主導体制 A官僚主導の排除 B族議員政治との訣別からなる「小泉三原則」により進められ、脱公共事業、政府財政支出削減、民営化を軸に展開された。小泉首相は事前審査制の廃止を目指したが、2002年郵政公社法案を自民党の了承抜きで出国会に提出し、事前審査に風穴を開けた。その後事前審査制度に戻ったが2005年の郵政民営化法案は自民党の了解は得られず再度事前審査なしで国会に提出し、解散総選挙という極めてリスキーな賭けを犯して小泉の郵政民営化は成った。事前に党の了承を得ないで法案を提出すれば、国会審議において法案可決の道筋は見えない。これは危険すぎるほどの手法で小泉首相でさえ、このような手法は二度と使えるものではないだろう。自民党を空中分解する寸前にまで追い込んだ。

3) 日本と世界の立法府改革構想 

民主党政権のキーワードのひとつに「政策決定のおける政府・与党の一元化」があるが、これはイギリスがモデルである。議院内閣制における権力の融合を目指したものである。日本では1993年小沢一郎氏が「日本改造計画」でこのモデルを提示し、2002年3月に民党国家戦略本部国家ビジョン策定委員会は首相を中心とする内閣主導体制の構築と族議員政治との訣別を掲げた。メディアもこのイギリス型改革構想にたいして賛同してきた。あたかもアメリカモデルがイギリスモデルに取って代ることが改革であるかのような論調であった。「政策決定のおける政府・与党の一元化」とは一体なんだろうか。民主党の改革は本当にウエストミンスターモデルなのだろうか。じつはかなり違っているのである。ウエストミンスターモデルの本質と日本的改革の特徴を吟味する必要がある。欧州大陸型の議院内閣制ではウエストミンスターモデルとは相違がある。政府と議会内与党会派との関係が違う。フランスはドイツ・イタリアと同じような議院内閣制をベースとしながら大統領権限を強化したものである。大統領の任命する首相と閣僚については議員との兼職が禁じられ、閣僚になれば自動的に議員職を離れる。議員兼職禁止規定がないドイツでも閣僚の20%程度は非議員である。ヨーロッパ大陸型の制度は内閣が議会の新任によって支えられている点では議院内閣制であるが、内閣と議会を別個のものとみなしている。議場の配置を見てもイギリスは左翼(野党)右翼(政府・与党)の対立配置であるが、大陸ではひな壇に議長・閣僚が居並び、議員は扇型配置で会派ごとのブロックにわかれて坐る。そういう意味では日本は大陸型の扇状配置である。

ヨーロッパ大陸では政府と与党が相互に自立した存在だとすれば、政府提出法案も与党議員による修正はまぬがれない。法案審議の中心となるのは日本と同様に本会議ではなく委員会である。政府は議会審議の動向にあわせて自ら政府法案を修正している。審議中は議員は自由に意見を述べることが出来る。与党議員であっても個別の法案では必ずしも政府の意向に従がうとは限らない。それは連立政権が多いためで、政府と連立与党は必ずしも一体ではないことがあるからだ。かって連立政権であるが故に自分の主張を言えなかった日本の社会党が特徴を失って壊滅したこととは大いに異なる。ではウエストミンスターモデルのイギリスの議会政治はどうなっているのだろうか。ウエストミンスターモデルとは議会主義、大臣責任制、政党内閣の三原則のことをいう。議会下院で多数を占めた政党の党首が首相として政策決定を主導する体制という意味である。イギリスには成文憲法は無いので、議会主権が存在するのである。またイギリスでは君主が行政権を持っており下院与党で構成される内閣がそれを補佐するという形を取るので、議会に対して責任を持つ内閣の立法権と行政権は無制限に強い特徴がある。下院に基礎を持つ立憲君主制といえる(国王の権力を制限し制御するために内閣と議会は連帯して権力を行使する精神が生きている)。イギリスでは歴史的変遷によって内閣が議会の外にあるのではなく、内閣と議会は文字通り融合している。イギリス議会は政府と野党の対決する場である。日本国憲法では首相は議員の中から選び、閣僚の過半数は議員から選ぶことになっているので、かなりイギリス型に近いといわざるを得ない。しかし「内閣は行政権の行使について、国会に対して責任を持つ」という規定は、内閣を国会から独立した存在と考えなければならない。日本では閣僚は審議会委員にはなれない点で大陸型に似ている。イギリスでは閣僚は与党幹部でありかつ審議会審査をリードできるのである。アメリカモデルである権力分立型の日本の国会運営はこの点でイギリスモデルの対極に立っている。委員会審議の場で行なわれる政府と与党の意見調整が、日本の55体制では与党内で済まされており、委員会審議は与野党対決の場でしかなく、委員会審議は形骸化し、ひいては本会議審議も採決の場に過ぎなくなった。国会の法案審議が内閣の手を離れたのは、強い国会の自律性にあった。しかし事前に与党議員の要望を入れて修正しておけば、国会での法案の成立が保証されたのである。

イギリスの政治制度はブレアー政権で行なわれた政治改革によって、もはやウエストミンスターモデルとは異質なものになっている。1960年ごろから首相主導性が確立したが、80年代のサッチャー首相の強権政治を畏れた世論は、これを「首相統治」、「選挙による独裁」と呼んで軌道修正が試みられた。1997年に成立したブレア労働党政権は大規模な改革を実施し、ウエストミンスターモデルの基盤であった議会主権を抑制する効果をもたらした。欧州統合が進展したことで1998年に人権法が成立し、裁判所のイギリス議会政治の見直しが開始された。又比例代表制が地方議会に導入され、小政党の多党化に拍車がかかった。イギリスの2大政党制は小選挙区制のマジックに支えられてきた。そして2010年5月下院選挙で単独過半数を得る政党がなく、イギリス議会政治史上に例のない保守党と自由民主党の連立政権が生まれた。キャメロン新政権は下院の任期を5年とし、解散は下院の55%以上の賛成がないと出来ないことが約束された。首相の解散権を大きく制約したのである。また2006年に常任委員会を廃止して法案毎の「公法案委員会」が設置された。特別委員会の委員長については立候補を受け付け下院本会議で投票を行なうことになった。イギリス議会は政府と与党を分離し、議会の自律性を促す方向へ舵を切ったようだ。ではウエストミンスターモデル自体が変わってきた今日、日本の国会は何を変えるべきなのか。民主党に政権が交代した直後、2009年11月21世紀臨調は「国会審議活性化等のに関する緊急提言」をまとめた。日本の国会は世界に類を見ない「日程国会」であるといったが、では国会をどう変えるかについては、殆ど実行済みであるウエストミンスターモデルを見習うことにどれだけの意味があるとした上で、「自然な姿」としてヨーロッパ大陸型の国会をモデルを提案している。政府と与党は一心同体ではないことを認めたうえで、政策決定過程を構築することが必要ではないだろうか。内閣が国会審議へある程度関与する事を認め、内閣による法案修正を可能とし、各会派は所属議員の自由な発言を許し修正を経た後に党議拘束を掛ける事も必要である。各委員会では法案修正につながる活発な審議を実施して、その成果を国民と共有することが必要である。

4) ねじれ国会をもたらした2院制問題

戦後GHQは全議員が公選によって選ばれるのなら、二院制でも一院政でもどちらでもよかったといわれる。日本側が二院制を主張してきたので、国会を衆議院と参議院の二院制とし、全国民を代表する議員によって両院を構成することになったという。衆議院の優先規定(首相指名、予算、条約)、2/3以上の再議決は、アメリカの大統領の法案拒否権を覆す制度を真似たものである。参議院の定数は242名、任期は6年(三年ごとに半数改選)、被選挙権は30歳以上、選挙区は146名、比例代表は96名、解散は無い。はじめは無所属議員が多かったが、次第に参議院議員の政党化が進んだ。もし野党が参議院の多数を占めた場合、両院間のねじれが起きることは危惧されていた。参議院は「良識の府」といわれているうちはよかったが、政党化が進むと衆議院と同じになり、同じ機能が2つある事になった。普通の法案について機能的には両院は対等であり、どこにも参議院の解散権がないだけ強力な存在となった。野党が多数を占めるねじれ国会は二度攻守を逆にして起ったことで、法案の成立は非常に困難になった。したがって衆議院で絶対多数をとった与党でも、参議院の事を考えると初めから連立政権をとることが必要である。安定して与党単独で2/3条項が使えるほどの勢力を占めていない場合、是々非々で法案ごとの連立を組みなおすということもありうるかもしれない。

二大政党制の次代が到来すると、野党は政府から譲歩を引き出すのではなく、政府と対決して政権交代を目指す戦略に転換した。両院のねじれが発生したのは1998年7月の参議院選挙後の事である。小渕内閣は金融再生法案をめぐって野党案を丸呑みして法案の成立を図った。そして自民・自由・公明党の連立内閣を構成した。このように衆議院では多数を制している与党が、参議院対策のために連立を組むという手法が定着した。その後の一連の政治改革により派閥の力が減退してゆくと、参議院の自民党与党会派の力が相対的向上し、参議院自民党議員会長や参議院自民党幹事長の発言力が増した。解散権のない参議院に対して与党内の参議議員に対する首相の力は及ばなかった。参議院が法案を否決したと見なす「60日ルール」があって、野党が引き延ばし戦術を取ると、衆議院側は60日間再議決を出来ない。衆議院で可決して参議院へ送った法案は修正もしくは撤回できないという規定のため、国会の場で柔軟に参議院と協議を行う道は最初から閉ざされている。ということで衆議院と参議院を同時に考慮しなければ身動きが取れないということで、国会の運営は一層複雑となった。諸外国でも両院制を採用している議会では、ねじれ国会はしばしば起きている。フランスでは両院協議会を開いて決着がつかなければ、下院の決議が優先する仕組みである。ドイツの連邦参議院が公選制ではなく各州政府の代表が構成する。そして連邦参議院はすべての法案を審議するわけではなく、州の利害が絡む法案のみ参議院の同意を求めるものである。変形一院制といってもいいのでねじれはそもそも存在しない。アメリカでは大統領の党派と議会の党派の多数派が異なる「分割政府」がねじれに相当するかもしれない。ブッシュ、オバマ大統領も分割政府を経験している。アメリカではねじれは殆ど問題とはならない。各議員が独自の見解にもとづく「個人商店」であるからだ。法案ごとの対応が可能であるからだ。その代り大統領は法案ごとに個人議員を説得しなければならない。イギリスの上院は貴族院であり公選制ではない。1999年時点で貴族院は世襲貴族759人、一代貴族478人、合計1290人の議員を擁している。民意を代表する下院の明確な意志を世襲議員が阻止するのは控えようという「ソールズベリー・ドクトリン」の合意があり、貴族院の拒否権はない。2000年貴族院改革により一代貴族を主体とする700人の議員となった。

現在まで貴族院型の上院を持つのはイギリスだけで、ドイツ・アメリカなどの連邦制国家では上院は各州代表という性格である。第2次大戦後に議会制民主主義を導入した新興国ではほとんどが一院制である。なぜ日本は公選制の議院を2つもおいて対等の原則で、時差の(きまぐれの)民意によるねじれに苦しんでいるのかいるのかという根源的な疑問がおきる。民意は毎週の世論アンケートで時々刻々と変化する移ろいやすいものである(メデイアの煽動ともいわれる)。フランスのみは下院の暴走を抑制する「反省の府」であったが、下院優位は動かない。日本の参議院は昔は無所属議員の「良識の府」、「言論の府」であったが、いまや野党の第2の「拒否権の府」に変わった。野党時代の民主党がやった政府いじめが、今度は自民党の政権奪回の手段に変わった。参議院選挙が政権の構成を変えうる力を持ち、政権選択の様相を示している。参議院選挙は内閣を倒す力を発揮した。1998年橋本内閣、2007年安倍内閣は参議院選挙敗北の責任を取って辞職した。ねじれ国会を利用して参議院での「問責決議」が頻発した。内閣の信任を問うのは衆議院だけである。1998年額賀防衛庁長官に対する問責決議がなされ、法的根拠は無いのに長官は辞任した。2008年には自民党の麻生首相に対する問責決議が可決された。同じ手法は攻守を変えて民主党内閣に対して、参議院で多数派となった参議院野党連合が仙石官房長官問責決議と国土交通相問責決議を連発した。収拾のつかない泥沼化したねじれ国会である。衆議院の不信任に対しては内閣は解散によって対抗できるが、参議院に対しては解散権がない。参議院が事実上の内閣不信任を決議できるとなると内閣の地位は極めて不安定なものになる。参議院で多数派となった参議院野党連合は「直近の民意」を主張して、いつでも総選挙に持ち込もうと優位に立つのである。「直近の民意」を主張して参議院が衆議院と争うようになっては、衆議院を基盤に内閣が成立している憲法の意味が無くなる。

参議院の構成が民意を代表するかというと。衆議院の最大格差が2.39倍まで下がったのに、参議院の最大格差は4.97倍に達している。参議選挙は旧態依然のままでいわゆる「憲法違反」状態である。参議院は民意を反映していないとも言える。衆議院改革と参議院改革は同時に進めなければ、バランスを欠いたものになる。両院協議会の「院議」対等では衆参で決議が異なる場合、成案を見ることは出来ないなど、ねじれ国会で差し迫った改革を必要とするのは参議院かもしれない。国会同意人事についても両院対等型を見直さなければねじれ国会では何も決まらない。参議院が生き残るためには、衆議院議決の優位の原則を確認し、内閣から距離を置いた自由な討論によって存在感を示すことや閣僚ポストを返上することが必要ではないだろうか。参議院での首相指名は返上し、首相は衆議議員から選出することなども憲法改革の視野に入れなければならない。いずれにせよ憲法改正がなければ本質的な改革にはならない。

5) 国会の改革の課題

議院内閣制の下での議会では、内閣提出法案を審議の中心としてどれだけ実質的な審議を行い必要な修正を施せるかが議会側の実効性となり、内閣法案をいかに迅速に成立させるかという内閣側の効率性が問われる。現行の国会関連法規と各議員規則を視野に入れた議論が必要である。改正案の検討は首相の個人的審議会ではなく、国会の正式機関により国民の目の前でなされるべきである。憲法問題は避けて通れないだろう。憲法問題の前で思考停止するか、これまでの運用で対処しうるものか見極めなければならない。定員削減や議員待遇の引き下げばかりが国会改革ではない。まず問わなければならないのは国会の代表性である。選挙区の格差是正、女性議員数の向上、世襲議員の制限などを検討する。一度選挙されたら議員は民意を反映するかというと、選挙では多様な意見を集約する機能は無い。議会請願の掬い上げ、インターネットでの意見の募集などで絶えず民意を問わなければならない。選挙民への情報開示については、議事録のデータ−ベース化では日本は世界の先端をいっている。国会の観光名所化で市民のアクセスも必要である。国会の立法機能と行政監視機能は車の両輪の関係にある。内閣のチェック機能として、国会での口頭質問(書類質問だけでなく)と自由討議を復活して審議の活性化が必要である。国政調査権は殆ど休眠状態にあるが、証人喚問の全会一致の議決を必要とする慣行を改めることが必要である。近年は数年に1回程度政治ショー化した国政調査の実質的な調査報告書をまとめて公表しなければならない。最後の国会会期制度の見直しが必要である。会期不継続の原則が存在しているため、会期中に議決しないと廃案になるし、会期は短いというジレンマを解消しなければならない。選挙から選挙までの期間を議会活動の単位とし、ひとつの立法期と見て、諸外国の議会ではほとんど会期不継続原則を廃止した。唯一例外のイギリス議会では1年間を会期としている。ドイツ、オランダ、イタリアでは会期そのものを廃止し通年会期制を採用している。日本の戦前の内閣は議会の活動を嫌って議会活動を限定しておきたかったためであろう。ものような点で帝国議会制度を引き摺っている。そして会期制度を利用してきたのは野党の時間切れ戦術である。この会期不継続原則を廃止するだけでもねじれ国会の停滞を解決することができる。


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