2009年11月、鳩山新政権が設置した行政刷新会議による「事業仕分け」第3ワーキンググループにおいて、スーパーコンピューター開発事業の予算にもメスが入れられ、蓮舫参議院議員が「世界一でないとなぜだめなのか」という詰問に国民はハタと目を覚まされた。「世界一を目指した研究に予算を」という嘘(脅し文句)に異議を唱えると、野蛮人(国賊)といった白い目で見られるのではないか、また他の研究分野の関係者も自分のほうに同じ刃が向けられるのではないかという心配が立って、なかなか口にできなかった。そこを蓮舫さんが鋭く突っ込んだ。すると科学業界側はノーベル賞受賞者を数名集めて記者会見をし、事業仕分け側にたいして攻撃を開始した。これでは自民党時代の圧力団体と同じ手法であり、かつノーベル賞受賞者の発言だけに余計に始末が悪い。科学の成果については分らないなりに話題となる事はあっても、それを支えている組織や財源といった科学研究のコストが語られることは少なかった。科学関係予算は本当に有無を言わせないほど必要で、科学研究はコスト無視の聖域なのだろうか。本書はそういう疑問からスタートしている。
科学の進歩は無条件にばら色の世界を約束しているのかというと、公害、薬害、環境問題(オゾン層、温暖化)、遺伝子組み換え食品など、科学の部外者からは「世の中の全うな職業として完結するように」求められる。職業でつながりあっている世間から超越しているかのようにふるまう科学への世間の風当たりは冷たくなりそうだ。そして近年「科学者の道は職業としてはあまりにリスキーだという悲鳴も聞かれる。科学という職業は、請負仕事や契約仕事ではなく使命感に支えられた職業である(昔の教師像におなじ)と自負すれば、他の職業への侮辱になる。ほんの数名の天才を除いて、隔絶した頭脳と知性をそなえた科学者像に埋没するほど馬鹿でもない。科学の営みが職業と語られることへの反発があるとすれば、マックス・ウエーバーの「職業としての学問」がのべること「官制として制度化された大学の学問はそんな夢見るエリート像ではない」ことを考えてみるべきかも知れない。興味も関心もない国民を巨大な科学の成果は巻き込んでゆく。新技術による産業構造変換の駆動力はいやおうなしに国民生活に巨大な影響力を及ぼすのである。そして裁判員制度がDNA判定をしなけれならないとか、インフォームドコンセントといって分らないままに判断を求められるなど科学的な知識による個人判断が迫られる場面が増えてきた。自立した市民を前提とする民主主義での権利と義務は容赦なく個人を科学に巻き込むのである。科学技術の社会化によって数値で示されるリスクを理解するほどまだ知性は成熟しておらず、あいかわらずリスクゼロを要求するのも民主的市民である。日本は1990年代後半より「科学技術創造立国」政策のもとで科学技術関係予算を倍増させ、巨大な社会的資源を蓄積した。科学技術の世界は必要な経費を全部自立して稼いでいるわけではなく、社会の期待で巨大化したのである。科学を取り巻く状況はいまや転換期を迎えている。どのような科学技術システムにしてゆくかは、まさに創造性の問題であり解答が見えているわけでもない。このような混沌期には理念で「あるべき論」を考えるより、ひたすらこれまでどうだったかを「歴史」に関心を寄せた方が参考になる。本書はそういう意味で科学システム(制度)史というべきだろう。
著書「職業としての科学」という命名は多分、マックス・ウエーバーの「職業としての学問」、「職業としての政治」からパクリであろう。著者は大学の理論物理学者として、政策論は苦手であるためどうしても認識論などの哲学的(形而上学的)思考が強い。巨大化した「科学技術」職能集団の意識の変革は難しい。制度を変える前に脳みそを変えようという著者の戦略なのであろう。しかし権威を持つ組織の指導者の頭を変えるのは到底不可能なので、世代交代に期待するという戦術も面白い。ただ著者は「反科学論」、「ディープエコ、自然主義」に傾斜することには懐疑的であり、もっと世界中に科学を押し進めなければ地球は救われないという立場から「科学主義者」の一群にいる。著者佐藤文隆氏のプロフィールを紹介する。1938年山形生まれで、1960年京都大学理学部卒業、学部生時代 - 大学院生時代は天体核物理学研究室の林忠四郎の下で宇宙物理学を学んだ。博士論文は、「一般相対性理論における、宇宙項の寄与に関する研究」である。(ワー難しそうと言うなかれ) 1972年 京都大学教授 、1975年 京都大学基礎物理学研究所所長、2001年 京都大学を定年退官 し甲南大学教授となり現代にいたる。 専門は宇宙論・相対性理論である。一般書の著書には『宇宙の創成』(紀伊國屋書店、1979年) 、『相対論と宇宙論』(サイエンス社、1981年)、『湯川秀樹が考えたこと』(岩波書店、岩波ジュニア新書、1985年) 、『アインシュタインの宇宙』(朝日新聞社、1992年)、『孤独になったアインシュタイン』(岩波書店、2004年) 、『雲はなぜ落ちてこないのか』(岩波書店、2005年)、『異色と意外の科学者列伝』(岩波書店、岩波科学ライブラリー、2007年) など多数の科学読物を書いている。
転換期にある「科学という制度」を考える際、日本の科学技術振興策の現状を整理しておこう。これまで長く染み付いている科学研究のイメージは聖域論であった。「科学研究はすぐには役立たなくても新しい知識をもたらす必要で不可欠なものであり、日本が国際的競争力をつけるためには科学技術を発展させる必要がある。科学によって我々の生活はよくなる」というものである。日本は1996年「科学技術基本法」を定め「科学技術基本計画」という財政支出による振興策目標を掲げた。橋本内閣は政府研究開発投資の倍増を早期に達成する」という国土道路計画なみの目標を掲げた。2001年には科学技術政策担当大臣が設けられ、内閣府に「総合科学技術会議」が設置された。科学技術基本計画第1期には、評価、有期限競争研究資金の導入と流動的雇用の制度的導入など差別的研究費配分を可能とする行政環境が整備された。第2期には研究課題の戦略的重点化すなわち「重点4分野」として、ライフサイエンス、情報通信、環境、ナノテク材料が登場した。増加した科学技術予算は研究者一般に平等に配分されるのではなく、公募題目の中から審査され勝ち残ったものにいわゆる「競争的資金」として配分される。国立大学の学生数などの規模に応じて一律に配分される「運営費交付金」は一般軽費同様に毎年削減された。こうして瞬く間に研究の経費は競争的資金依存に変わり、研究者間の研究費格差は増大した。研究費とは材料費のみではなく、設備費から必要な研究員の人件費・交通費など一切合財を含む規定である。この研究費を巡って研究者に過度の緊張をもたらし、先取権争い、論文捏造、盗作、過労死などおぞましい事件が多発したことは新聞紙上でご存知の通りである。有期間の研究プロジェクトで実行する軽費であるから雇用される研究者や職員まで任期付きとなって、研究現場は不安定な雇用者が大量に発生した。産業界における派遣労働者とは数は比較的少ないが、研究現場の研究者雇用はよく知られていないだけに深刻な研究者雇用問題を呈している。有力な研究者を要することは組織にとって研究費獲得に有利であり、プロ野球選手やサッカー選手のように研究者の流動性を増した原因でもある。
もともと科学技術基本法は当初は産業界の開発研究での産官学連携の政策であった。財政削減政策の進行と基礎科学研究の大型化によって基礎科学研究もこの法による振興策に頼らざるを得なかった。なにか派遣労働法が特殊専門業務からいつの間にか一般労働まで拡大された事情と機を同じくする。任期つきの流動的研究員の数や時限つきの研究組織の数が急増した。こんなリスキー(研究が成功するかどうか)で不安定な職場(いつも何年か先の職場を探している)が研究現場である。日本は人口1万人当たりの研究者数は64人で世界一である。アメリカは46人、フランス・ドイツは32人である。大雑把に見て(研究者の定義あいまい)日本には70万人の研究者がおり、世界の1割強を占めている科学者大国である。小・中・高の学校教員数は現在では80−90万人、大学の教職員数は18万人、医師20万人、弁護士3万人と較べると、研究者の数は学校の教職員に匹敵する規模になろうとしている。教職員には日教組という組合があったが、研究職の生活を守るユニオンは聞いたことがない。かってない規模に達した科学技術研究を昔の聖域論では管理することは不可能である。教職員数には生徒数という需要に連動し、企業研究では市場規模に見合った投資という意味で需要供給のバランスはある。しかし基礎研究の市場を見通すことはできない。果たして日本の科学研究は持続可能なのであろうか。現在のような制度科学への歩みをはじめたのは19世紀中頃からであった。日本の科学は完全移入で始まったが、その時期は欧米の制度科学の誕生期にあたり、運よく欧米と期をひとつにして進めることができた。日本の科学は大学の整備と歩調を合わせて進展した。20世紀の政治経済の歴史の中で、制度科学には国家が介入し、社会性を帯びてきた。オリンピックと同じ精神でノーベル賞獲得が目標とされ、冷戦時には核開発、情報通信技術、宇宙航空開発といった軍事目的研究から、冷戦後は遺伝子解析まで国家の威信をかけて進められた。今後も国家が科学の主要なステーキホルダーとして関与し続けるかどうかが問題である。さて現在の制度科学研究がどこまで進むのか、そして創造的進展は出来るのだろうかという問いを考察する前に、制度科学の生い立ちを振り返ろう。
1) 知的自由としての科学 恵蒙・ロマン・専門制度科学の生い立ちを英国を例にとってみてゆこう。科学の発展のなかで制度科学の面から考えると、おおきく3期に分けられる。第1期は1660年英国王立協会の発足に見られるような、王や貴族の合理と理性による科学精神の「啓蒙」期で、ニュートン、ラボアジェなど個人的研究者はいたが、組織だった科学者という職業はは存在しなかった。そして第U期は革命を経て旧階級の没落による主役交替により、18世紀末から19世紀前半に「ロマン主義」期を迎える。1831年英国科学振興協会BAASが組織され、科学者という団体が生まれて、一躍ヒーローを目指す時代的風潮をドイツロマン主義という。第V期は19世紀中頃から国民国家の形成と帝国主義時代を迎え、科学は国家により組織化された「専門」期に入り20世紀の科学の時代となったという。この3段階の科学の進展をもうすこし詳しく見て行こう。制度科学とはこのような人間の知的活動を開花させる社会的仕組みのことである。英国王立協会は王の権威のもとに同好の士があつまって知識を会報等で共有し、相互批判で質を高めあう自主組織ができ、科学の進歩は加速された。その主役は英国貴族の精神文化である。この時代の科学の担い手には、力学のニュートン、天文学・建築学のレン、フックなどがいた。第1期「啓蒙」時代が開明貴族野時代であるとするならば、第U期のロマン主義科学は、産業革命の進展により、民衆に科学の時代を知らせるものであった。ロマン主義とは旧体制崩壊後の市民的近代的自我の爆発である。ロマン主義は1768年のクックの世界1周公開に始まり、1831年ダーウインのビーグル号航海で終ったといわれる。経済的には植民地重商主義の時代である。この時代の担い手は、天文学のハーシェル、電池のボルタ、レンズ光学のフラウンホーファー、振り子のフーコー、電気科学のファラディー、ディビーらであった。
著者が第U期「ロマン主義」という19世紀前後の動きは、分類項目としてあまりに文学的で私には意味がよく分らない。政治的には市民革命と王権の復活を繰り返した混沌期であり、経済的には産業革命期である。私は「市民国家形成期」というほうが科学の歴史と繋がりやすいと思うがどうだろう。それはさておき、19世紀に入ってドイツ化学に遅れを取った英国は工科を含む新興大学(オックスブリッジに対抗するブリックス)の設立を急ぎ、科学の専門職を養成した。その中心がヒューエルであった。ヒューエルは科学専門職を旧来の「自然哲学者」から「サイエンティスト」と呼び換えた。科学者の協会・学会には産業界から桁違いの寄付金が入り、王侯貴族の保護から自立の道を歩むことになった。1867年のパリ万国博で劣勢を自覚した英国では、プレイフェアーにより科学教育改革が始まり、科学教育の動きと連動して科学研究を政府が支援すべしという運動が、ストレンジとロキャーにより推進され、1970年「デボンシャー委員会」が発足した。ロキャーは週刊学術誌「ネイチャー」を立ち上げ、科学情報誌によりデボンシャー委員会活動を盛り上げた。デボンシャー委員会活動には官僚組織内にいる研究者(王立天文台など)から既得権を侵すものとして反対があった。電気学のケルヴィン卿らはベンチャー企業の収益で儲けていたので、政府の支援には頼らなかった。
2) 科学者精神とは マッハ対プランク1900年ドイツのプランクが量子仮説を発表し、アインシュタインの光量子説、ボーアの原子模型をへてハイゼンベルグとシュレージンガーの量子力学に結実した。ニュートン力学以来の物理学革命はすべてドイツで成し遂げられた。以来マックス・プランクは帝政時代のドイツアカデミアの権威として、アインシュタインを主流に持ち上げ、学術組織の保護育成に努めた。現代数学の始祖ヒルベルトに相当する権威である。1905年よりプロイセン全体の大学と高校の理工系教育の改革が始まったが、「科学教育の理念」というとマッハのいう「歴史的・批判的」精神が強調された。マッハはオーストリアハンガリー帝国の学会で活躍し、音速の単位に名を残す人である。19世紀末マッハの言動はヨーロッパの学問思想の基層に影響を与えた。哲学、心理学、言語学、相対性理論など広い分野の巨人もマッハの影響下にあるといわれている。旧学説を次々に暴いて成立根拠を疑いいわゆる批判的実証主義であった。大いに社会的な、外向きの発言をなした人であった。政治的には社会民主主義に共感を持ち市民の力に期待していた。1908年プランクはマッハの科学観を批判した。マッハが「科学は思惟経済である」とか「知識は感覚要素の関数関係である」といった感覚経験論にプランクは反論した。マッハとプランクの年齢差は20年で、明らかに科学の進歩で原子物理学説に隔絶の感があった。論点が明確ではなく、公式な論争をしたわけではない。従って著者の憶測になるが、あえて対抗軸を設定して論点を整理すると次の表(フラーの作で著者が加筆)のようになる。ただし項目ごとの特徴に各人整合性(1本通った筋)があるわけではない。
対抗軸 | 細項目 | マッハ | プランク |
科学理念(メタ理論) | 哲学 価値 政治 動機 気風 | 道具主義 知力の節約 自由民主主義 社会の必要 職人的 | 実在論 価値の追加 国家中心主義 好奇心 芸術家風 |
科学の性格 | 自律性 結合の源泉 典型的な基礎科学 ヒーロ 必要性 | 科学は手段 知覚経験主義 現象論 ガリレオ 使うこと | 科学自体が目的 要素還元主義 原子物理学 使われること |
科学の教育 | 一般教育の科学 市民科学者とは 歴史性 教科と研究分野との関係 | 技術 科学力を持つ市民 歴史に学ぶ 薄い(統合主義) | 問題解決力 市民のなかから選抜 過去には拘らない 濃い(要素主義) |
プランクが目指した制度科学は、マッハの体験にはなかったため、プランクの科学は社会から独立して存在するが、マッハの科学は社会のなかでむき出しで存在するという基本的な差異は明確であろう。このプランクの「制度された科学」は実は後進国ドイツ特有の科学観を反映し(それを直輸入した命じ政府の科学政策にも通じる)、いわば「象牙の塔」として制度化された。ドイツを先頭に高等教育に研究が組み込まれ、庶民出身の科学者も食っていけるような産業と国家の制度が整備された。研究に特化した組織「カイザー・ウィルヘルム協会」(後年プランク研究所と改名)が設立され、プランクが運営の責を負った。認識論から表を眺めると、マッハは身体的経験論であり、プランクは合理的実在論という言い方も出来る。マッハの時代は「社会の中の科学」が強調され、旧学問の事大主義の悪弊を念頭に、科学の専門分化の傾向をそたから押し付けられることを批判する。国家により巨大化した制度科学の問題を考える時、著者は当然ながらその対極にあったマッハの歴史主義、社会性に魅力を感じているようである。
3) 制度科学のエートス ポパー対クーンクーンは1962年「科学革命の構造」という著書で、知的変換期の「大きな物語からの逃避」という「パラダイムシフト」という言葉を発案した。時代を支配した考え方は変わる事を示した。「学問が制度化されるということは、それが教科書化され,その教育・訓練が大衆化され職業化されるということである。アメリカでは心理学や政治学まで制度化されている。天才たちの特権を一般大衆の従事しうる職業に変えたという点において、学問の制度化はまことにありがたい恩恵であろう。」 科学を部分に分解し、その知を積み重ねてきた「ピースミール」エンジニアリングが社会に貢献してきたことは、いわば「夢見る科学」から「禁欲の科学」に徹してきた成果である。科学を事実の発見と理論の構築に分けるとき、理論は事実の加工過程であるから時代の空気によって支配され一種の流行でさえある。理論は変わりうるもので市場=社会に晒されるとする、「社会構成論」と呼ばれる。ただ実際に役立つ理論は淘汰されるものであるので、それほど浮ついたものではない。冷戦終了後レーガン政権が押し進めてきた巨大加速器SSCをクリントン政権が中止した。「国家の威信をかけた」巨大プロジェクトも政策変更で不要とされる時代である。すると素粒子研究というのはそもそも政治的研究題目であったといえる。
1992年の京都賞受賞者ポパーはイギリス在住の科学哲学者で、1935年の「科学的発見の論理」で有名であった。「それを覆す反証現象を明確に提起できる理論のみが科学的理論である」という主張だ。彼の批判的合理主義は絶対主義と対峙するもので、デカルトの2元論(自我世界と物質世界)のほかに第3世界として思考内容の世界(言語、科学、数学・・)の客観的存在を主張し、科学の社会構成論と対立した。ポパーが見た科学とは制度科学のことであって、ク−ンはこの存在を否定した。1965年ロンドン大学で始まったポパー・ク−ン論争はまえのマッハ・プランク論争と錯綜しており、職業としての制度科学と科学的精神の対決の20世紀版といえる。しかし書物の上での論争は何もなかったので、また著者による想像を交えて対抗軸を描いてみる。ここでは科学理論の実在性(ポパー)と社会構成論(ク−ン)に対抗軸を設定する。論争の時点は、マッハ、プランクは20世紀始め、ポパー、クーンは20世紀後半の科学世代を反映している。従って対抗軸の重心はずれており、同じようにくくることには無理があるかもしれないが、おおまかな議論は下表に示される。
啓蒙科学精神 | 制度科学研究 |
マッハ | プランク |
ポパー | クーン |
科学理論実在論 | 道具主義・構成主義 |
プランク | マッハ |
ポパー | クーン |
プランクの関心は社会から隔離された専門家科学者での、クーンが認めたような安定した制度を立ち上げることであった。20世紀初めの原子仮説に対してマッハが疑問を呈したこと(原子論は形而上学だ)にプランクは腹を立てたようだ。研究者は仮説であっても素朴な強い実在感をもって研究し、結果としてポパーのいう実在に達することがある。これは「動機的実在論」ともいっていい。これを実証的批判で葬られたのでは浮かばれないとプランクは言いたかった。プランクは制度科学が効率を発揮するには社会から一定の隔離は必要であると考えた。似たような論争に1927年ボーア・アインシュタイン論争があった。アインシュタインはボーアの原子模型に苦情を呈し、これを「思想善導策」と論じた。第2次世界大戦から冷戦時代を通じて、制度科学が国家との関係で大きく取り上げられ、国家の科学研究振興策となった。人工衛星、核開発、素粒子論などで強化され、制度科学は潤沢な研究費でサポートされた国家科学となった。プランク以来社会とのバリアーを高くしてきた科学研究はそろそろ改めるべき時代であろうか。大勢順応主義コンフォーミズムは科学者魂の沈滞と腐敗をうむとポアンカレ−は述べている。社会学者マートンは1930年代に「科学には独自の構造がある」と主張し、戦後の冷戦時代には聖なる科学者魂として広がった。マートンが見た科学者のエートス(習慣からくる気風のこと)とは、@公有性 A普遍主義 B私的利益からの解法 C系統的懐疑主義のことである。マートンのエートスは戦後日本の科学者像と合致した。日本では研究の自治と捉えられた。このマートンのエートスにはアメリカ政府も随分手を焼いたそうだ。
4) 理の系譜 日本の制度科学11世紀に始まった宋学(朱子学)が400年ほど後れて、江戸時代に盛んになった。理を説く理学は朱子学の別称である。ところが日本では古学という理を否定する学派が生まれた。誠を説く伊藤仁斎、実証主義の荻生徂徠、日本学の本居宣長などである。18世紀になって開明思想家が生まれ、富永仲基、平賀源内、杉田玄白、司馬江漢、三浦梅園などの啓蒙時代の学者であった。次の啓蒙時代は明治維新後の福沢諭吉、西周、津田真道などである。江戸時代の学問状況は科学の面では中国からの移入では見るべきものは無い。幕末から明治初期の洋行視察で科学技術の圧倒的な落差に気付いた指導者は、科学の移入と人材育成が急務と考え、まず学制の整備に取り掛かった。東京帝国大学、京都帝国大学がまず設立され、工学、理学、医学、農楽、法学と分科大学が設置された。学制の整備は天野郁夫著 「大学の誕生」(中公新書)に詳しい。日本の学制はドイツに学ぶところが多く、かつ欧州とさほど違わない同じ時期に学制が整備された。明治の科学は常に上からの育成で進められた。在野に何も科学の芽がなかったからである。そういう意味で日本では科学は最初から制度科学で始まった。明治を過ぎて大正時代になると、国力も付いて多くの人が欧米を見てきており政治的には大正デモクラシー、科学では普遍性のある科学精神なるものが語られるようになった。1918年哲学者田辺元が「科学概論」を著わした。日本人の手になる初めての科学論であった。ポアンカレーの「科学のための科学」論と軌を同じくするものだ。昭和初期の「あるべき科学像」を醸成した意義は高い。第1次世界大戦後、日本の科学技術の制度的整備が急速に進んだ。特許法、度量衡法、規格基準などが整備され、「理化学研究所」や大企業の研究所も生まれた。第2次世界大戦後の日本の科学技術は軍事部門が主要な部分になる経験をすることがなかった。湯川博士のノーベル賞受賞は科学的成果より戦後復興の精神的応援歌となったようだ。2度の原爆被爆、水爆実験被爆など原子力時代の到来で洗礼を受けた唯一の国民となった。これがトラウマとなっていまも原子力の軍事利用へ大きなブレーキとなって、戦後科学が出発点した。
5) 国家と科学教育国民の目が科学の成果のみに向くと、近い将来金を生むことから遠い研究分野は一斉に「効能書き」の作文に走った。研究の価値はその分野への寄与分という差分であるが、その差分の評価は専門家でないと判別できない。蛸壺状態にある分化科学では少しでも専門分野が違うと本当のところは分らない。「税金を使ったことに対する説明責任」と内容説明は違う。制度科学を国民から隔離して管理してきたつけは、専門家と国民の知的関心の乖離を生んだ。研究界を税金で支えてきたことの制度的意義は、広い意味の教育の仕組みで考えるべきことである。科学を学校教育で教えるだけなら最先端の研究を自国で運営する必要は無い。これが教育と研究の分離が推進された由縁である。政治から将来への視点が失われつつある現在では(国家の借金や年金・保険の世代先送り)、政治は誰も信用しない。公教育こそが未来へ希望を託することが出来る政治的行為なのである。学校教育が民主主義の重要な関心事と位置づけられて政治も変わることが出来るのである。現在の科学は徹底して要素還元論(アトミズム)の手法である。これは古くはヘブライズム(メソポタミア文明とキリスト教)とヘレニズム(ギリシャ文化)を継続した西洋ではごく自然な成り行きであったのかもしれない。ドイツロマン主義はこの文化にたいする異議申し立てであった。東洋文化の自然主義(老荘思想)もアンチアトミズム(ホーリズム全体論)である。しかし理科教育はその両方を教えなければならない。そしてさらに、考える人間の営みの素晴らしさも教えることが必要だ。今後科学の将来には3つの方向がある。@日本、ドイツのように科学に深く国家が政策的に関与し、事細かに科学の進行を管理する。 A科学を野放しにしないで、科学に別の価値観を学ばせる。エコ社会という持続可能性に満足して進歩を許さない(反科学主義)。 B英米国のように科学研究は市場主義原理に委ねる。高度のスター的研究者が謳歌する競争社会である。@の官僚統制科学では、目前の課題(伝染病対策のような)では成功するだろうが、科学の他の分野との多くのトラブルで行き詰ることは必至である。全体を見通すことなど所詮不可能なのである。Aの反進歩主義は窒息状態となるだろう。しかしBの市場原理主義で青天井の発展が約束されるだろうか。科学技術の進歩は、自由平等の民主主義社会の方向と極めて整合的である。
6) 科学制度の規模十分な統計データ−を持ち合わせていなくても、既知の知識をフル動員して難問題にあたりをつけることが必要なときがある。科学では数量化が求められるので、桁数(オーダー)ぐらいは合った話がしたいものである。この章の問題は、適切な科学研究者の規模はどのようにして決まり、はたして規模はどのくらいで持続可能であるかということだ。そこで大雑把であっても当らずと言えど遠からずの程度で予測できないかということである。小・中・高校の学校教員の数は、同学年の生徒の数を120万人とすると30人クラスを担当する教員数は40万人必要である。中・高では教科別に先生が必要で、クラスあたりにすると2人の先生ぐらいになるので教師数は80−100万人となる。大学では進学率を50%とすると1学年の学生数は60万人で卒論の教員が5人の学生を見るなら12万人の大学教師が必要である。実際の大学教員は18万人である。研究と教育が完全分離していないからこの辺の計算が曖昧になるのである。したがって研究に専従する大学職員の規模は何で決まるかが問題である。大学教員に対する学生の数は東京大学で3.6、全国平均で15.6である。この差は東大の大学院生の数が学部学生の数とほぼ等しい事を反映している。全国平均では大学院生は学部生の一割に過ぎない。学校教育の教員数は学生数の需要で決まっていたが、どうも研究者は供給サイドの都合で決まっているようだ。日本の研究者数は約70万人といわれ、人口の多いアメリカで140万人(人口3億人)、中国では122万人(人口10億人)である。日本の研究者数は人口あたりでは以上に高い。研究者の数は需要から見ると曖昧であるが、供給サイドからは教員の数に連動している。つまりこれは技術創造立国という政策が、必要かどうかは別にして大学教員をそして研究者を大量生産しているのである。
博士の供給数はアメリカで年間2.5万人、日本は約7000人に達する。アメリカでの大学は、博士の半数は外国人であり、それらを自国民にしてゆく魅力とダイナミックさを持っている。研究者という職業につく人の数は、需要とは無関係にその人の資質と情熱と忍耐力で決まるという説がある。需要という天井(枠)を考えると医学部入学定員のように数の制限政策に走るのが通例である。「医者の数によって医療費が増大する」という厚労省官僚の見方もあった。医療費を抑えるには医者の数を制限しろという論法で、今日の医療崩壊を招いた。「職業としての科学」というのは数を制限するのではなく、意味を拡大することを目指す。日本の理系の研究者70万人はざっと企業に50万人、大学に17万人、公的研究機関に3万人が配置されている。各国の研究費を見ると、アメリカが44兆円、EU31兆円、日本19兆円、中国11兆円である。その研究費の政府負担率はEU平均で約35%、アメリカ31%、日本19%である。たしかにこれまでの政府の研究関連予算は先進国に較べると防衛関係を除いても明らかに少なかった。日本の科学技術関係予算を2009年度でみると、総額3兆5548億円の66%を大学(文部省管轄)が占め、その殆どが国立大学の運営費交付金と私学助成金である。経済産業省が15%である。機関別に見ると大学、独立行政法人、他の省庁が1/3づつ(約1.2兆円強)という関係である。国立大学の収入をみると、国の運営費交付金(1兆1695億円)、授業料など自己収入(1兆62億円)、国からの競争的研究・寄付金などである。東京大学の収入は2008年度で2000億円、京都大学が1349億円、他の国立大学は100億円以下である。いかに東大・京大の予算規模がぬきんでいるかが分る。
7) 科学技術エンタープライズ評論家加藤周一氏は科学の理想として「素人の科学」、「民主主義の夢」を夢想している。今に時点でそれが可能かどうかは別として、17,8世紀はベーコン、デカルト、ライプニッツのような素人科学者の時代があった。19世紀中頃以降ではファラディ、マクスウェルなど専門家が主流となり、むしろダーウインなど素人科学者は例外であった。量子電磁気学の功績で1965年ノーベル物理学賞受賞を受賞した、朝永信一郎、ファイマン、シュヴィンガーの3人から惜しくももれてしまったダイソンという物理学者がいた。今世間から見るとダイソンはその物理学の業績よりも、人々を魅了する未来論的な発想で有名である。社会に向いた素人科学者(かけもち人間)である。ここで素人科学者とは生計費を科学研究から得ていない人という定義である。講演料を稼ぐタレント学者(文系に多い)も「ヌタ的存在」である。情報処理技術が発達したため、ソフト開発、遺伝子解析などは自宅のパソコンで出来るようなので、趣味で研究する人が多くなりつつある。専門化したため社会との疎外感が深まり、一方で巨大な費用をかけて行なうため社会的資産を消費しその存在が大きくのしかかる科学というものは、市民にとって異物感を増しつつある。科学者が生きてゆくと言うことは雇用がなければならない。そこで生計を成り立たせる雇用を生み出す事業体として、科学技術エンタープライズを考がえたいと著者は提案する。医療界では健康保険という政策と医者とコメディカルという医療関係者の総合で医療が成り立っている。それに似た科学者の総合的な事業分野という物を構想する。研究自体が高額な経費を要する時代になり、機関を離れては個人研究が成り立たないので、政府から資金を仰ぐというやり方は果たして健全なのだろうか。本当に大規模国策研究は研究を促進したのだろうか。あらためてスーパーコンピュータの事業仕分けで「世界一でないとなぜだめなのか」を問い直さなければならない。世界最大規模のBファクトリーサイクロトロン建設が日本で必要なのかどうか、共同利用施設ではダメなのか。創造的な科学は規模と関係ないはずなのだが。