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森 毅著 福井直秀編 「一刀斎 最後の戯言」 

 平凡社 (2010年12月)

今はなき全共闘時代のヒーロー 一刀斎先生の箴言集

森毅先生(1928年1月10日 - 2010年7月24日)はいうまでもなく京都大学教養部の名物数学教授であった。そして1991年ソ連解体とバブル崩壊とともに定年を迎えた。その後は「フリーター評論家」として、洒脱な人生観を売り物にするエッセイイストとして分野を超えて人気を博したが、2010年7月に逝去された。享年82歳であった。数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行った。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団は在学中より熱中し、これらもエッセイの材料としている。数学者としての業績は論文が2本だけとほとんど無く、教授になるさいには「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか。」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い。」ということで京都大学の教授となったという逸話が残っている。京都大学はそれほど懐が深かった。京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。軽いノリで書きまくった雑文は数知れず、いちいち挙げるのも馬鹿ばかしい。福井直秀氏はそれを丹念に集められ166の文献からスクラップブックをつくり、1冊の本にされた。それが本書である。本書の題名「一刀斎 最後の戯言」も森毅氏の命名によるのではく、福井直秀氏の発案による。「戯言(ざれごと)」と言っておいた方が森先生も気を楽にされるだろうという気遣いからであろうか。本書は森先生名言集といってもいいし、箴言集といってもよい。本書は森先生の教えを受けた福井直秀氏の編集によるもので、それなりの編集方針があったことだろう。そこで福井直秀氏のプロフィールを知っておくことは意味がある。

福井直秀氏は1949年生まれ、京都大学経済学部卒業、教育学部大学院で日本政治思想史を終了したという変わり者。法学部大学院で研究すべきものを教育学部で研究するのは、就職を考えて教員となるためというせこい考えからだそうだ。教育学部助手を経て、現在京都外国語大学教授で、専攻分野は日本近代思想史 、日本文学 、教育学 であるそうだ。「柳田国男の教育思想」、「現代日本の学校教育」、「笑いの創造」などを研究テーマとしている。日本笑い学会に所属している。著書には「笑いの技術‐笑いが世界をひらく」(2002 世界思想社)、「人と思想 北一輝(共著)」(1977 三一書房)などがある。つぎに福井直秀氏と森先生との接点であるが、1980年代教育に関する森先生の本を読んで先生に近づき、週1回程度研究室を訪問することが2,3年続いたという。森先生の魅力は常識に反する意見から入る事であると云う。柔軟な思考でいつも二刀流の考えをする。福井直秀氏は「笑い飛ばすことで権威を相対化し、世の中を変えたい」という希望を持っているそうだ。するとトンチや機転,笑いが重要な技術となる。森先生の本を大量に読んで、「現代トンチ話集」を作りたいと想いが出てきたのが2009年ごろで、先生は大火傷で入院中だったので趣旨を話して快諾を得た。先生は2010年7月敗血症のショックで帰らぬ人となってしまったので、本書が日の目を見たことは知らない。さて本書でもって世の中を笑い飛ばすことが出来たかどうか、もって瞑すべし。私は森毅氏の本は3冊ほど読んだ。森 毅著 「一刀斎 数学三部作」としてまとめた。「数学の歴史」(講談社学術文庫)、「数学的思考」(講談社学術文庫)、「異説数学者列伝」(ちくま学芸文庫)という、比較的数学に近いエッセイである。それに味を占めた私は、森毅著「位相のこころ」(ちくま学芸文庫 2006)を買って読み出したところ全く歯が立たなかった。解析関数空間の位相的研究という数学そのものの本で、いまさら読むだけの忍耐力はなかった。といったしっぺ返しを食らった私は今度は本書で気楽なエッセイ集を手にした。それもまとまった考えを述べる書ではなく、166の著作からの切り抜きである。半日で読み干した。本書を編んだ福井直秀氏の章立てに沿って森先生語録を箇条書きに並べてゆこう。ただ森先生の言葉は数学者としての発言という側面は希薄なので、そこは普通の人の発言と捉えていただきたい。

1) 自分について

* 戦争中の少年の将来なんてなかった。だから読書ばかりしていたふけた少年時代だった。
* 理屈達者だけではいきてゆけない。子供のとき、なるべく相手を言い負かさないようにする世渡りの術を覚えた。
* 戦争は嫌いだけど現実から適当な距離を置いて付き合った、そつのない厭味な少年だ。群れず、外れず、いじめられずに気を通少年であったという。
* 左翼崩れの中学の教師が「貧富の問題を考えることは重要だが、そのため過激な発言をしてはいけない」といったのを見てニヤリとしたら教師に殴られた。相手の屈折した心を傷つけたのだろう。彼が特高のような役割を演じる悲しさを、僕は殴られる痛みの中で感じていた。(なかなか名文だ)
* 人はそれぞれの価値観で判断していることに気が付いて、世間に関心が持てた。
* チャランポランないい加減な人間と思われると、かえって気楽に付き合える。
* 兵隊に引っ張られるのに理由がないのと同じように死ぬのには理由は無いが、理由をつけないと苦しい。自分で自分を騙さなければならない状況に追い込まれるのが悲劇なのだ。
* 北海道大学助手時代に教授と仲が悪くなって、自分の感情に溺れなかったのは、自分を客観視することが出来たからだ。
* 京大教養部の時代、試験中に講義をすると学生から評判がよかった。(森先生の試験は誰と相談してもよかった事を覚えている)
* 試験勉強によって得られるのは単位であって、学力ではない。
* 頽廃が実体である場所においては、自分の内なる欺瞞と俗物性に依拠している。大学の教師はその欺瞞で生きている。全共闘に答えて。
* 校長はタヌキであらねばならない。職員会議では教育委員会を口実とし、教育委員会では職員組合を口実として学校の独自性を守った。教師は職員会議では生徒の立場に立ち、教室では校長のせいにすればうまく行く。大学の団交でも学部団交では本部と学生に両方を考えなければならない。そして人間関係が崩れないように喧嘩するのである。
* 森氏は団交の確認書つくりの名人で、学部執行部と学生の両方が満足する確認書を書けたのが自慢だという。
* バリケードによって得られた教育的効果は、学生も教師も教室が存在することによって得られる安心は仮象に過ぎないということだ。
* 全共闘時代、一番最悪なのは、「いうことは分らないが、気持ちは分るというセリフだ。2.26時件で殺された人がいった「話せば分る」とおなじである。むしろ「言うことは分るが、気持ちは分らん」といった方がいい。
* 「社会のために尽くす」というのは役人のセリフ。教師というものは役人と芸人の二重性によって成り立っている。芸人は自由である。
* 僕の最大の才能は時代や人間を自分にとっての幸福にしてしまう能力かもしれない。物事を面白がる能力がなければ世の中は暗い。自分を道化に置くのは、自己表現の基本だった。自分を客体化する能力である。
* 物事の変化は二乗が累積するようだ。81歳まで生きるとすれば、1歳でヒトが形成され、4歳で親に養われ、9歳で少年時代、16歳で反抗期で自我が芽生える、25歳で青春を終え自立し、36歳で充実した仕事を見つけるとき、49歳で仕事を成し遂げ、64歳で老年の自立、そして81歳でお陀仏。

2) 数学教育について

この章は福井直秀氏が数学者もしくは数学教育者ではないので、必然的に収録した言葉は少ない。
* 数学の問題は解き方を考えることである。解き方を教えて例題をやるようでは解ける問題しか考えられない。微分は腕力で出来るが、積分は知恵が必要でいつでも解けるとは限らない。
* 日本人の教養とは、曖昧な言葉のままで論理を展開することであろう。どうとでも逃げられるから。論理だけが正しいとしても、もともと間違った出発点なら真実は見えてこない。
* 日本の数学は順序数の傾向が強いドイツから教育体系を輸入したため、順番に考える癖があって、変に縛られた考えしかできない。三角関数は周期運動の関数であって図形の比ではない。このあたりの議論は「数学の歴史」(講談社学術文庫)、「数学的思考」(講談社学術文庫)に詳しいので省略する。

3) 教師について

本書で一番力点を置いている章である。福井直秀氏の専攻が教育学なので採録する言葉が多くなったのであろう。
* 内申書は過去の実績主義で貫かれている。学歴主義もこれと同じである。問題解決能力、分らなくても楽しめる能力、失敗してもへこたれず別の解決に至る能力は無視されている。
* 制度としての「飛び級」は「そんなに急いでどこへ行く」一直線の人生である。経験の重要性が考慮されていない。むしろ「偽学生」や、なんでも受講できる、1日留学制度などの選択肢を増やした方が豊かな人生となる。「学力別クラス」の最大の問題は似た資質の人間を集めることである。多様な人間がいないと社会は折れる。出来る子もできない子も科目を選択することが必要であろう。
* ゆとり教育が無駄を省く効率的運営によっているとは本末転倒である。効率という官僚管理によって生み出された時間という意味ではない。生徒、教師,校長、教育委員会がみんな管理中毒になっている。
* 平等主義や、教師が正しさを占有し、人つくりに責任を負うという体制的教育観は息が詰まる。教育は常に反面教師である。師の通りにやるようになれば学術・芸は廃れる。
* 湯川秀樹氏は研究会でいつもトンチンカンな質問をしていたが、10に2,3つの質問ははっとさせられる質問だった。だから皆は湯川氏を歓迎した。トンチンカンは劣等生の専売特許ではない。おそれず堂々とトンチンカンをやろう。ずっこけて社会を楽しくしようではないか。
* 競争原理には一元化志向があり、自由には多元化志向がある。政府の規制とは条件を一元化してその中で競争させる平等主義であると云う論がある。現実は排除の論理が働いて独占体が有利になっている。教育の自由化というお題目で「英才教育」を進めようとする動きがある。公立学校の受験校化もそれである。だから自由化というのは規制緩和というだけで、受験エリートを養成しようとするに過ぎない。官僚のきれいごと文句にはいつも裏がある。
* 学校では教師が強者で、生徒が弱者という構造で動いている。弱者保護というのもパターナリズムという支配の変形である。弱者に必要なことは保護ではなく自立である。
* 受験勉強は無駄でよい。努力を無駄に変えてゆくのが若者の特権である。学問も人生も無駄かもしれないが、老人にも学問をして遊ぶゆとりは欲しい。
* ありとあらゆる権威をパロルのは面白い。反対ということばは権威を強化するので、笑い飛ばして価値観を変えよう。
* 学力というものがあるとすれば測ることは難しい。問題が解けないときに切り抜けるのが学力というのかもしれない。点数はすべて歪んだ鏡である。どのように歪んでいるのかもわからない。
* はみだしを許さない集団は恐ろしい。いつでも抜けられる集団が良い集団である。本当に自分の事を大事にすることは人間にとって何よりも大切である。自分でさえよく分らない自分を他人が分るわけがないだろう。
* 学校なんて軽く考えろ、どうやったら自分が気持ちよく暮らせるかが問題だ。
* 自分のことは自分で決める、その選択の責任は個人に属する。それが納得できる生き方である。
* 戦後日本はひどい「たてまえ社会」になった。そして自分が悪い事をやっていることも自覚しなくなった。
* 親は少なくとも「子供のため」とうことはやめよう。親も子を見て勉強している。一生が学びの連続だ。
* 今の学校は社会秩序へと一方的に方向づける。子供は異文化人なのに、「問題児」排除となっている。
* 教師は笑われてナンボの存在である。芸達者な「怒れる教師」というのも面白い。教師も大人の見本であって手本ではない。僕が京大で学生にいくらか人気があったとすれば、それは僕の滑稽さによっている。

4) 人生について

* すべての人間は自分の心の中に「狂者」というマイナー面を持っている。それを排除してはいけない。文化のために「狂者」は大事に残してほしい。自殺だって同じだ。ドラマは多くの人物がいて成立する。他人も自分も殺してはいけない。
* 自我の形成といわれ続けると、自己が脅迫観念になってしまう。相手に写って見えているのが自分である。
* 人間みんなずっこけている法が自然だ。働き蟻だって、働いているの2、3割で、あとはうろうろしているだけ。
* 首尾一貫・一意専心なんて僕が最も排除したい言葉である。「ひとつだけ」は危険である。犠牲にしたがるのは牧畜文化の原罪である。エスケープゴートよりストレーシープのほうが性に合っている。歳とともにこだわりを少なく分散した生き方のほうが絶対得です。
* 多数派が幸せなる社会はだめになる。全員が多数派につこうとするである。そして世の中が沈滞する。世の中を時々入れ替える(かき混ぜる シャッフル)した方がいいと思う。
* 妙なものを面白がる開放型の集団がサロンである。社会は会社組織であっては硬直する。人生は虚と実が重なっている。日常もまた芸能化しているのだ。
* 戦前の軍隊のように、悪い事をするのは末端の人間で、トップは責任を追求されるために存在する。
* 味方が死んだから反戦ではなく、敵も死んだから反戦なのである。せんしはすべて無駄死というのが反戦の原点である。
* 「頽廃文化」はあるのか。いや文化はすべて頽廃を要素として含んでいる。文化人(教師)は世の中の寄生虫であるからだ。
* 東京は建前の町、大阪は本音の町、京都はダブルスタンダードの町。京都には帰属する集団がない。すべては社交だけ。
* 寅さんはヒッピーとおなじポストモダンか。「ポストモダン」とか「現代・・」とかは前の価値の後の混沌のことである。
* 道化的精神が衰退しないように、自分を笑う飛ばそう。批評精神の老化はなによりも道化的精神の衰弱から。

  
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