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高瀬正仁著 「岡 潔 数学の詩人」 

 岩波新書 (2008年10月)

孤高の数学者、多変数関数論の独創の世界を築く

私はたしか大学生1年生のころ、岡潔氏のエッセイ「春夜十話」(毎日新聞社 昭和38年 1963年)を単行本で読んだ。このエッセイ集は毎日新聞で連載された「春夜十話」の10の話(目次を示す)1 人の情緒と教育 、2 情緒が頭をつくる 、3 数学の思い出 、4 数学への踏み切り 、5 フランス留学と親友 、6 発見の鋭い喜び 、7 宗教と数学 、8 学を楽しむ 、9 情操と智力の光 、10 自然に従う に「中谷宇吉郎さんを思う」ほか20扁のエッセイをあわせて本にしたもので、昭和38年を代表する話題作となって、この年「第17回毎日出版文化賞」を受賞した。岡潔氏は数学者であるが、高木貞治氏の本でも書いたように、数学的業績を示す論文を読んで理解できる人は、専門の数学者を除いては恐らくいないだろう。高木貞治氏は雑文を書くことはあっても文芸として鑑賞に耐えるエッセイは書いていないが、幸いに岡潔氏は数多くのエッセイ、評論を書いている。私も岡潔の数学論文を読んだことはなく、また本書のような評伝における数学的業績を理解できるわけでもない。したがって偉そうなことはいえないが、エッセイ集から数学者の姿を思い浮かべるに過ぎない。そこでまず「春宵十話」以降に雪崩をうって著わされたエッセイ集のうち主な著書を挙げる。
「春宵十話」 毎日新聞社、1963年
「風蘭」 講談社現代新書、1964年
「紫の火花」 朝日新聞社、1964年
「春風夏雨」 毎日新聞社、1965年
「月影」講談社現代新書、1966年
「春の草 私の生い立ち」 日本経済新聞社、1966年
「春の雲」 講談社現代新書、1967年
「一葉舟」 読売新聞社、1968年
「昭和への遺書」 月刊ペン社、1968年
「日本民族」 月刊ペン社、1968年
「神々の花園」 講談社現代新書、1969年
「曙」 講談社現代新書、1969年
「わが人生観〈1〉」 大和出版販売、1972年

1960年代は数学的著作は皆無であるが、エッセイ集の執筆、講演旅行、有名文化人との対談などで一躍超売れっ子となった。しかしこれも世のブームで、第3作目あたりから新刊本は次第に売れなくなった。岡潔氏は独自の宗教思想と民族主義的思想を根底にすえたエッセイを書く思想家となった。懸案の多変数関数の境界問題は放置され,数学の世界では今日でもなお岡氏の業績の後を継ぐ数学者がでていない。私も「春宵十話」(毎日新聞社)を読み進めて、途中からその独特な民族観からこの人は右翼か狂信的民族主義者ではないかと思い、幻滅した事を覚えている。理学部に入学した私は結局数学の抽象性に脳細胞がついてゆけず脱落し、現実世界を扱う化学に進んだ。そして今回本書を読んでその謎が氷解した。岡氏への反感は誤解であった。岡氏は心病む繊細な数学者であった事を理解した。実用的でない数学は追試する人も無く、あとを継ぐ人もいなくなると、忘れ去られる運命にある。それが本当に偉大な業績であったのか、思い違いだったのか誰にも分らない。数学は文法と同じく脳細胞の構造機能を表現するといわれる。物理的自然と脳細胞の対話が数理物理学であり、数学はもっと脳細胞に近い。世界で岡潔氏の多変数関数論を理解した人はフランスのカルタンだけだったのではないだろうか。もちろん私にも岡氏の数学的業績は一切分からない。

本書高橋正仁の「岡潔」評伝に入る前に、簡単な略歴をみておこう。
1901年4月19日(明治34年) 大阪市東区島町に生まれる。
1912年より父方和歌山県橋本市紀見村に育つ。
1919年3月 和歌山県粉河中学校卒業
1922年3月 第三高等学校理科甲類卒業
1925年3月 京都帝国大学理学部卒業
1925年4月 京都帝国大学理学部講師
1929年4月 京都帝国大学理学部助教授
1929年4月ー1932年 パリに留学
1932年3月 広島文理科大学助教授
1940年6月 広島文理科大学辞職
1941年10月 北海道帝国大学理学部研究補助嘱託
1942年11月 北海道帝国大学辞職
1949年7月 奈良女子大学理家政学部教授(1953年より理学部教授)
1951年 日本学士院賞 受賞 1954年 朝日文化賞受賞 1960年 文化勲章受賞 1964年3月 奈良女子大学定年退官
1964年4月 奈良女子大学名誉教授
1969年4月 京都産業大学教授
1978年3月逝去 77歳

上に書いた岡潔の略歴を頭に入れて、岡潔ってどんな人だったのだろうかと思いをいたそう。私が岡潔という名を知ったのは、1963年大学1年生のころで、「春夜十話」を読んだ時である。そのころ高木貞治氏の「解析概論」、「微分方程式」や「ベクトル・行列論」を学習し始め、デデキント「数の無限」に悩まされていた頃のことである。奈良女子大教授で文化勲章受章者の数学者が書いたエッセイということで、新聞などでは随分もてはやされた「春夜十話」という本である。多変数関数論という数学分野のことも皆目分らなかった(今でも分らないが)。「春夜十話」のはしがきに、岡潔氏は「人の中心は情緒である。・・・数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術のひとつであって、知性の文字盤に数学という形式に表現するものである」と語る。これでは数学は芸術活動と同じ次元の話となっている。三高時代、岡潔氏は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。今まで数学を情緒の表現と言い表した数学者はいなかった。オイラーを「数学は量の科学」であるという言葉を残した。「これは科学者の言葉であるが、岡潔の言葉はあきらかに詩人の言葉である」と著書はいう。それで本書の副題「数学の詩人」と命名したのであろうか。岡潔の数学研究者としてのやり方は、心に芽生えた自分の思い描く数学像のままに、問題群を設定する造型の場に、詩人(芸術家)の心が現れるという意味であろう。能力があれば、思いっきり主観が許される世界を作ることができるのである。岡潔氏の生涯の数学的業績は、10篇の論文に集約されている。そういう意味で岡氏はガウス、リーマン、ヒルベルトの系譜につながる人である。

2004年第1回本屋大賞および第55回読売文学賞を受賞した小川洋子著「博士の愛した数式」は、映画化され大ヒットした。「博士の愛した数式」の中の「博士」は80分の記憶しか持たないという数学者であった。数学者エルデシュを描いた『放浪の天才数学者エルデシュ』(原題は「数字だけを愛した男」)から、エルデシュは「博士」のモデルと言われることもある。私にはこの博士は岡潔氏にも通ずるところがあるように思われる。作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲『雨のひまわり』を製作したが、「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、精神状態がプラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。人生で何回も家出(行方不明)を繰り返し、入院を余儀なくされたことも度々あった。問題を解くために山を彷徨し、特異な行動で妻に別居されたこともあった。数学的業績が無ければ、ただの変人と思われる。岡潔にとってプラス面、マイナス面といった2極分離ということではなく、数学的集中が長く続くと陥りやすい精神状態と理解される。我々凡人は所詮極度に集中することができないでチャランポランに誤魔化していることが、岡潔氏には出来なかったのであろう。集中の中で解決の夢を見るということは偉大な科学者の発見物語によく現れる、一種のメタ状態ではなかろうか。フランス留学から帰国し、1932年広島大学助教授になっていよいよ数学者の生活が始まろうとする時に、1938年(昭和13年)いわゆる「広島事件」(河川敷で寝転んでいた時に通りかかった中学生の持ち物を強奪した事件)がおきた。本人が何も弁解しないので詳しいことは分らないが、このことで病院に入院し広島大学を休職・辞職した。そして1949年奈良女子大教授になって1951年奈良市に住居を移すまでの13年間は両親の住む紀見村に無職で数学を伴としていた。岡潔氏は一所不在といっても過言でないくらい各地を転々とした。その間資産家の奨学金を受けたり、岩波書店店主の「風樹会」の奨学金で命をつないだ。友人中谷宇吉郎氏の世話で北海道大学で居候をしたこともあった。その間数学論文を欧州に発表して認められる実績を挙げて、岡潔氏は1949年頃から日本の数学界に復帰し、1950年代は日本学士院賞、朝日文化賞、文化勲章を受賞した。まさに岡氏の黄金時代を迎えた。1963年頃から岡潔氏は上に書いたように数々のユニークなエッセイを本にして世の好評を得た。岡潔氏の人生を大きく分けるとするなら、1901年ー1932年までを学びの時代、1933年から1948年までを苦難と数学研究の時代、1949年から1960年までを栄光の時代、1960年から1978年までを評論家・思想家の時代と言えそうだ。

岡潔氏の多変数関数研究成果発表は1963年(昭和37年)の第10論文で終り、数学的思索も1966年(昭和41年)で終った。昭和11年(1936年)から始まる岡氏の連作「多変数関数研究」論文をまとめると
@ 第1報告 「有理関数に関して凸状の領域」(正則領域におけるクザンの第1問題の解決) 1936年5月1日 広島文理大学紀要
A 第2報告 「正則領域」                     1936年12月10日  広島文理大学紀要
B 第3報告 「クザンの第2問題」(岡の原理によるクザンの第2問題の解決) 1938年1月20日 広島文理大学紀要
C 第4報告 「正則領域と有理凸状領域」           1940年4月1日    日本数学輯報
D 第5報告 「コーシーの積分」                 1940年4月1日    日本数学輯報
E 第6報告 「擬凸状領域」(有限単葉な領域でのハルトークスの第2問題の解決) 1941年10月25日 東北数学雑誌
F 第7報告 「いくつかのアリトメチカ的概念について」(不定域イデアルの理論の基礎) 1948年10月15日 フランス数学会誌
G 第8報告 「基礎的な補助定理」(分岐点を持たない有限領域に対する第1基礎的補助定理) 1951年3月15日 日本数学会欧文誌
H 第9報告 「内分岐点を持たない有限領域」         1953年10月20日   日本数学輯報
I 第10報告 「擬凸状領域を創りだす一つの新しい方法」  1962年9月20日    日本数学輯報

数学研究の模索時代

本書 高瀬正仁著「岡 潔 数学の詩人」(岩波新書)にはいる前に、一言気が付いた事をいうと、本書の記述には重複するところが極めて多いことである。繰り返し(恐らくは5回以上)同じ記述が見られる。強調する為、違う場面で多少違う言葉で再度繰り返すことで理解が深まるという利点があり、忘れやすくて一度読んだだけではよく理解できない自分にとっては大変助かる配慮であるが、著者が言わんとすることのエッセンスは本文の1/3以下になろう。本書をまとめる段では同じことは繰り返さない。そして評伝だから当然書かれている家族関係のことも省略する。漂泊の数学者岡潔氏には重要性を持たないからである。ただ岡潔氏の居た景色としては和歌山県紀見村のことは欠かせない。岡潔氏の父が家を継ぐため実家に戻った1912年から三高に入学して村を離れる1922年までの10年間の少年時代と、1938年いわゆる広島事件によって大学を休職して以来1952年奈良女子大教授として奈良市に住居を構えるまでの苦難の時代の14年間をこの紀見村の実家に居たのである。紀見村は紀ノ川の上流にあり、奈良県、大阪府と接する山村である。日本のチベットと言われる奈良県十津川村と似たような山村と想像すればいい。高野山も隣村にある。この村の古老は岡潔氏のことを「気違い博士」と呼んでいたと語る。お寺の境内で岡氏が思索にふけっていると、子供達が覗き込んだりはやし立てたり邪魔をしないように退散したりと、まるで良寛和尚と子供の情景が連想される。岡潔が書き残した膨大な数学日誌「メモ」に、数学的発見が起きるときの心模様を「出来る前には予感がある。ほのぼのとあたたかく、面白くなる」と書いているが、近所のオバサンは峠の山頂でお日さまに向かってじっと立っている博士の姿を何度も見たという。こういう情景が岡潔氏の啓示の瞬間だったのであろう。

本書は数学者の評伝であるから数学なしには語ることは出来ない。しかし私には数学的業績は理解できない事を白状しておこう。その周りを記述することになる。岡潔氏の生涯の研究テーマであった「多変数関数論」を多少かじっておこう。関数の概念はオイラーに始まる。函のなかに変数と定数を素材にして何らかの関係で結ばれた「式」y=f(x)があり、そこへ変数xを放り込めば、その式によって結果yが出てくる。この関係を函数(関数)というのである。ひとつの変数なら1変数関数、2個以上なら多変数関数である。これを解析幾何学的に見ると、1変数なら2次元、2変数なら3次元、それ以上の変数なら一般に多次元空間を連想する。式の関係が冪の演算だけなら、一次の冪と加減乗関係のみは多項式といい、除算も入ると有理式といい、一般に加減乗除と冪演算を「代数関数」と呼ぶ。これにたいして三角関数、指数・対数関数などは超越関数である。ここには演算不能な点(ゼロで割るなど)が存在し、式の意味が失われる特異点が存在する。代数関数の積分を「アーベル積分」と呼び、オイラーの始めた「代数関数論」はアーベル、ヤコビ、ディリクレ、リーマンに引き継がれた。リーマンは1851年に1複素変数論(虚数iをふくむ数)の基礎の確立を目指して「リーマン面」(x+iy)の概念を提出し、「ヤコビの逆問題」を解決した。多価関数(多変数関数)の分岐様式は、(x,y)平面で分岐点において垂直な軸に別の平面が接続され、あたかもらせん状に面が繋がってゆくイメージをもった。関数が存在する場所「存在領域」として幾何学的な領域を設定したのであるから、その領域(リーマン面)に関数を作らなければならない。アーベル関数と呼ばれる多変数の超越関数が認識されることが多変数関数論の出発点であった。岡潔氏の多変数関数論の研究は留学から帰った昭和10年頃から本格化する。その研究の流れは上に連作論文の表で示した。岡潔氏の数学研究の期を画する三大発見とは、「上空移行の原理」、「関数の融合法」、「不定域イデアル」の発見であるといわれる。岡潔氏は多変数関数論のハルトークスの逆問題を生涯の課題と定めたが、第6報告 「擬凸状領域」(有限単葉な領域でのハルトークスの第2問題の解決)で使われた関数Φ(x,y)=-log d(x,y)と同じ役割の関数を見つけることが出来るなら、境界問題は解けるると考えたようだが、この問題は生涯解くことはできなかった。

「数学の内容は調和の精神である」とはポアンカレの言葉である。岡潔氏は「数学は想像といわれる働きの現れだ」という。フランスには19世紀前半のコーシー以来の1変数関数論の伝統があり、1930年代にはアンドレ・ヴェイユ、ハルトークス、レビ、ベンケ、ブルメンタール、カルタンらの数学者が集まっていた。1935年フランスで微積分学のテキストを書こうという目的で「ブルバキ」という現代数学者集団が発足した。岡潔氏は晩年この抽象数学をひどく嫌って、昭和42年インタビューに答えて「数学の危機がきた」という言葉で現代数学を批判した。1925年(大正14年)岡潔は京都帝国大学を卒業し、京都大学講師となって3年目、広島文理大学設立にあわせて教員要員に選ばれ、留学を命じられた。1929年4月(昭和4年)パリに着いて、ジュリアの1922年の論文「有理関数のイテレーション」に感化され、大学の講義を受けた。イテレーションとは有理関数の平面状の点(x,y)を次々と同じ関数関係R(x)で次の平面へ移す操作Rn(x)のことである。ジュリアはその関数の特異点の形状を調べたのだ。ジュリアはその関数の集まりを「正規族」と呼んで、「値分布論」が当時の研究の中心であった。ここで岡潔氏は正則関数から有理型関数の拡張しただけのザクセルの定理をジュリアに提出して、「若い人がそういう事をしていては全く見込みが無い」と叱責され、大いに恥じたという。そして次の研究はハルトークスの集合問題であった。特異点の値をみる「ハルトークスの連続性定理」のことである。多変数関数の正則関数の特異点は決して孤立せず、ある特異点の近くに他の特異点が存在するように、特異点の集合は連続体をなすというものである。集合の幾何学的形状を調べてゆくと正則関数では「擬凸性」を備えている。この成果は第4報告 「正則領域と有理凸状領域」につながった。 留学中の友人は考古学者の中谷治宇二郎氏と兄の物理学者中谷宇吉郎産であり生涯の友人となった。というより彼らの尽力がなければ岡潔は存在しなかったかもしれない。留学中中谷治宇二郎の古墳発掘を手伝ったりして親交を深めた。

問題群の造型

1978年、岡潔は奈良市高畑町の自宅で亡くなった。享年77歳であった。自宅の離れに「数学念仏道場」と称する、浄土宗門「光明主義」念仏道場と数学研究室を兼ねた12畳ほどの部屋があった。戦後岡潔氏は次第に光明主義念仏に傾斜してゆくのであるが、それはさておきこの離れに岡潔氏所蔵の蔵書以外に山というほどの大型封筒に入った数学の研究記録や論文草稿が積まれている。筆者は1998年(平成10年)に始めてこの離れに入ったそうである。そこに昭和41年12月31日の最後の日付となる数学メモノートが40年間分(1万枚以上)存在した。これらは岡潔氏の研究の歴史を物語る「数学日誌」というべき第1級の史料である。筆者はこのメモを写させて貰い、岡潔氏の研究を再構成しようとした。その成果が本書であろう。厳密な数学的考証は恐らく筆者によって数学史学会などで発表されているかもしれない。そのメモの一枚に、1934年(昭和9年)12月28日付けで「序文及び基礎的概念」という標題で多変数関数論の研究論文を書き始めていた。そこに岡潔氏の萌芽期の研究の構想が語られているようだ。第1に「多変数関数論から放たれたひとつのイデーを対象とする」と書いてあり、1926年ジュリア・1927年カラテオドリと記されているのは、ジュリアの論文「多変数解析関数の族について」カラテオドリの論文「二複素変数の解析関数におけるシュヴァルツの補助定理について」を指すことは間違いない。次にメモには「二つの流れが合流して領域の理論へ、ベンケートゥルレンを引用する」という言葉が書いてある。2つの流れのひとつは「特異点」に関する理論で、「ハルトークスの集合の理論」に他ならない。もうひとつは「レビの問題」すなわち「ハルトークスの逆問題」(正則関数の特異点は凸性をもつというレビの定理の逆に、擬凸性特異点を持つ関数は正則関数であるとする問題設定をいう)のことを指している。1932年アンリ・カルタンとトゥルレンは「正則領域は正則凸性をもつ」(凸性とは純粋に幾何学的形状を指さない。なんとなくでっぱている感じ)という定理を証明した。

アンリ・カルタンはヴェイユの指導のもとに多変数関数論を研究し、ドイツハンブルグのベンケの弟子トゥルレンと共同研究を行なった。岡潔氏は留学中にカルタンと会う機会はなかった。ベンケはヒルベルトに学んで「二変数モジュラー関数の理論と数論への応用」を書いたが、数論との関係で解析関数を考えるのはガウス以来のドイツ数論の伝統であった。1934年ベンケートゥルレンは連名で「多複素変数関数の理論」を書いた。第2の流れである「ジュリアの問題」とその解決にあったと見られる。多変数解析関数の正規性が破れる特異点の集合を考えると、それはハルトークスの連続性定理に描写されているものと同じ幾何学的状勢が備わっている。アンリ・カルタンとトゥルレンのいう正則凸性という概念が特異点の理論と領域の理論をつなぐ役目をはたすことに岡潔は気付いていたのである。1934年の数学日誌メモには「主な流れは領域の理論。その領域は分岐している。」という簡潔な言葉がある。領域の理論は分岐点を内在として構成すべきであると云う岡理論の骨格が示された。それは後年の「不定域イデアル」の理論は内分岐領域の理論であり、第8論文の「基本的補助定理」とは内分岐領域における上空移行の原理(次元を上げて考えれば矛盾が解決する)であった。内分岐領域におけるハルトークスの逆問題は解けるという感触を得たようだ。

一枚のメモには、一つの流れー特異点という小見出しがあり、文献が列記されていた。
1902年 ファブリ 「二重級数の収束半径について」
1906年 ハルトークス 「他独立変数の解析関数理論、特に級数表示」、「多変数関数の場合のコーシー積分」
1909年 ハルトークス 「多変数解析関数の特異点から得られる形成体について」
1910年 レビ 「多複素変数の解析関数の本質的特異点に関する研究」
1911年 レビ 「2個の複素変数の解析関数の存在領域の境界でありうる4次元の超曲面について」
1926年 ジュリア 「多変数解析関数の族について」 
岡潔氏はこれらの研究を総覧して、そこから「ハルトークスの集合」という概念を得たらしい。「ハルトークスの集合」は1934年ベンケートゥルレンの論文「多複素変数関数の理論」などによりさらに深められた。1934年の岡潔氏の数学メモはベンケートゥルレンの論文の論文を読んで一気に構想が練られたというべきであろう。こうして昭和9年末、34歳の岡潔氏は、数学者としての生涯の歩みを決定するに至った。レビはハルトークスの連続性定理が有理関数でも成立することを示し、存在領域の条件を書き止めた。これを「レビの条件」というが、この条件は必要、十分条件なのかは不明であった。岡潔氏は「特異点の理論」から「領域の理論」へと多変数関数研究を進める。ベンケは「擬凸上領域」と呼んだが、ヒルベルトの指導を得たオットー・ブルメンタールが「擬凸上領域」は未解決問題であるとはっきり認識した数学者であった。この境界の理論の実態こそ「ハルトークスの逆問題」に他ならない。「春宵十話」の6話「発見の鋭い喜び」では、昭和10年中谷宇吉郎氏の招待に応じて夏休みを札幌で過ごしたとき、「上空移行の原理」を発見した事を述べている。この「発見の鋭い喜び」という言葉は、寺田寅彦氏のエッセイから借用したものである。「取り扱う空間を適当な次元に引き上げることにより、問題の困難がしばしば緩和される」という原理である。量子電磁気学でノーベル賞を受けた朝永振一郎とファイマン氏の、困難な問題を一時棚上げする「繰りこみ理論」と似た発想ではないかと思う。ここに岡潔氏は問題の造型を決めた。「正則領域を除いて、擬凸状領域について知っていることはほとんどない。そこでハルトークスに立ち返り、逆に擬凸状領域はどれもみな正則領域であるか否かを問う」という「ハルトークスの逆問題」を提起したのだった。岡潔氏は自身の重要な発見を「3つの大きな発見」と称し、@上空移行の原理 A関数の融合法 B不定域イデアルの研究を挙げている。

苦難の多変数関数研究

画期的な研究をスタートさせたかに見えた岡潔氏の数学者人生にとって、不可解な事件が起きた。1936年(昭和11年)6月23日の「広島事件」である。心身に不調をきたした岡氏は所在不明となり、中学生の自転車などを没収したということで、翌日近くの河原にいた岡氏が発見された。病気ということで入退院を繰り返し、伊豆に逗留していた中谷宇吉郎氏のもとで静養することになった。広島事件が起きたころは岡潔氏は第2論文(1936年12月広島文理大学紀要に受理)のメドを得た時期で、第1論文とあわせて「発見の鋭い喜び」という数学的業績と表裏をなしていた。翌年1937年11月には第3論文「クザンの第二問題」(1938年1月20日 広島文理大学紀要 受理)の根幹が出来上がった。妻みち子の別居などの問題もあったが、この時期の数学研究は活発に進んでいた。順調な数学研究とは反対に岡潔氏の生活は1938年(昭和13年)に大きな転機を余儀なくされた。すなわち1月の行方不明事件(日支戦争反対の天皇陛下直訴のためと本人はいうと)6月の広島文理大学の休職(1940年依頼退職となった)そして帰郷である。しかし帰郷後は生活も落ち着き、7月の中谷宇吉郎氏への書簡で、「正則領域における関数の展開」という題名で、正則領域は必ずしも有理凸状ではないという第4報告 「正則領域と有理凸状領域」の内容を書いている。「単葉正則域を3つの区分すると、柱状域、有理関数にして凸状なる領域、および一般領域となり、一般域が存在するかどうか全く不明である。何よりもここを解決しなければならない。」と述べた。一般域をさらに正則域と擬凸状域にわけ擬凸状域は必ず正則域になる事を証明しようとする「ストークスの逆問題」の解決にむかった。こうした数学上の活動にもかかわらず、根無し草の生活は続き、彼の実家での生活を支えた父寛治氏も1939年4月(昭和14年)に亡くなった。第4論文と第5論文(連作)を広島文理大学紀要に提出したが、数学科の教授は受理を拒否したため、改めて大阪帝学清水辰二郎に依頼して、1940年4月1日、日本数学輯報で受け付けられた。

この苦難時代の唯一の友で理解者は北海道大学物理学科の中谷宇吉郎氏であった。岡潔氏は中谷宇吉郎に「1日1文」を書いて送っていたが、昭和14年10月京都へ行くといって出かけたまま行方不明になった。そしてお遍路さんと一緒に宿にいたところを、鳴門海峡の福良で保護された。この辺の岡潔氏の情緒は日本の原景に向かっていたのではないかと著者は推測する。10月20日付けで中谷氏に送った「1日1文」の題は「夢無限」とあり、寄る辺のない情感に覆われていたという。紀見村で孤高の思索生活を送っていた岡氏に博士号取得の話が出た。岡氏の再就職に博士号があった方が有利だという、同窓の京都帝大数学者であった松本敏三氏と和田健雄氏、秋月康夫氏の尽力によるものであった。岡氏は面倒であまり乗り気ではなかったが、1940年(昭和15年)3月学位論文は提出された。この年学位は取得したが、広島文理大学は免職となった。1941年(昭和16年)第6報告 「擬凸状領域」を東北帝大藤原松三郎氏に提出し受理された。この論文を提出した後、多変数関数研究に一区切りをつけた岡潔氏は「なんだか自分の一部が死んでしまったような気がして、洞然として秋を感じました」と高木貞治氏宛ての手紙に書いている。そして自分を駆り立てるようにして臨んだのは、内分岐領域におけるハルトークスの逆問題であった。しかしこの研究は、昭和15年頃から昭和41年の末まで苦闘は25年間続いたが解くことはできなかった。

岡氏の独創を支えた人々

昭和14年に父寛治氏が亡くなって、昭和15年5月に祖母つるのさん(92歳)が亡くなった。同年12月母方の実家の当首北村長治氏(72歳)がなくなった。昭和19年7月母の八重さん(81歳)が亡くなった。岡の賑やかな家族が少なくなってゆく中で、岡の苦闘が開始された。内分岐領域論の道しるべは、不定位イデアル論であった。19世紀のクンマーのイデアル論は整数論に始まるが、カルタンと岡はこれを多変数関数に持ち込んだ。1941年岡はカルタンの「n個の複素変数の正則母式について」の論文を筆写して勉強し、カルタンの確定領域イデアルを「不定領域イデアル」に拡張した。日本意は1変数関数論の研究者はいたが、多変数関数論研究者は岡一人きりであった。欧州全体を見ても多変数関数研究者はごく少数で、岡の論文は何の反響も呼ばなかった。反応があったのはドイツのベンケ、フランスのカルタンのみであっった。岡論文の別刷りは彼らに送付された。戦争中岡の研究の心情を理解する人は、京都帝大の秋月康夫氏、北大物理の中谷宇吉郎氏、東北帝大藤原松三郎氏、東京帝大の高木貞治氏らであった。彼らは岡潔氏の無職の生活を援助するため、実業家の資金援助を世話し、中谷氏と吉田洋一氏らが語らい岡氏を北大の研究員補助員の名目で雇い入れた。昭和16年秋から岡氏は札幌に移ったが、どうもなじめず昭和17年夏突然帰郷してしまった。同年10月精神の興奮状態が続いたので入院を余儀なくされた。昭和17年末岩波書店の岩波茂雄氏と親しかった中谷氏の仲介と高木貞治氏の裁定で、「風樹会」の奨学金を受けることになった。昭和18年に高木貞治氏のもとへ、集中して5篇の論文が送付された。根無し生活の中で集約した業績をあげつつあった。これらの5篇の論文は戦後第7報告から第10報告へ結実してゆくのである。

1948年(昭和23年)第7報告「いくつかのアリトメチカ的概念について」(不定域イデアルの理論の基礎)を持った岡潔氏は京都帝大の秋月康夫氏を訪問し、訪米する湯川秀樹氏に論文を運んでもらうことになった。論文は在米の角屋静雄氏の手を経てシカゴのヴェイユ氏へ渡り、フランスのカルタンのもとに郵送された。カルタンは激賞し、フランス数学会会誌に掲載するといってきた(1950年に掲載された)。岡潔の論文に触発されたカルタンもすぐさま1949年9月「複素変数の解析関数のイデアルとモジュール」の論文を出した。カルタンはこの論文で「先行する岡の美しい作品の数々が私をイデアルに関する研究に導いた」と褒め称えた。1949年7月秋月康夫氏の推薦で岡潔氏は奈良女子大学教授に就任した。1951年3月に第8報告 「基礎的な補助定理」(分岐点を持たない有限領域に対する第1基礎的補助定理)を日本数学会欧文誌に、1953年に第9報告 「内分岐点を持たない有限領域」を日本数学輯報に発表し、1962年に第10報告 「擬凸状領域を創りだす一つの新しい方法」を日本数学輯報に発表し、岡潔氏の活動は収穫期に入ったようだ。1951年 日本学士院賞 受賞、1954年 朝日文化賞受賞、1960年 文化勲章受賞と、誰も理解できなかったであろうが、岡潔氏の業績は世間で認められた形となった。そして岡氏の活動はエッセイに及び1963年「春宵十話」が発表された。1964年3月 奈良女子大学を定年退官した。


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