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高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」 

 岩波新書 (2010年12月)

名著「解析概論」の高木貞治は、クロネッカー、ヒルベルトを継いで代数的数論を総覧した

私が高木貞治氏を知ったのは、大学1年生の微積分学の教科書が「解析概論」であったからだ。岩波書店の黒いハードカバーのしっかりした本であった事を覚えている。いつしかこの「解析概論」の本はどこかへいってしまったので今は手持ちしていない。残念至極だ。高校の微積分からすんなりと連続して入れるので分りやすい本であったと記憶している。しかし初めにデディキントの「数の連続」でつまずいた。岩波文庫だったと思うがデディキントの書いた小冊子を買って読んだが、わかったような気になっただけかもしれない。大学の数学でわかったのは解析学だけである。だから数理物理学方面は専攻せず、理学部の3回生から化学科へ行くことにした次第である。私は系統的に数学を理解したことはない。必要に応じて、行列、微分方程式などを独学したに過ぎない。まして現代数学という抽象化された学問体系は全く理解の外にあったといわざるを得ない。群論、位相、写像などはいまでも少しも頭に入らない。先日、吉田 武著 「オイラーの贈り物」を読み、何十年ぶりにか数式の展開をやってみて、手を動かすと分った気になるので面白くて夢中になってやった。

振り返ってまとめてみると、「オイラーの公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学・物理学などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい,そして驚くべき「方法」」だと述べている。私はこの本を題名だけで判断して、恐らく科学読み物か数学史くらいに考えて本屋に注文した。そして入手した本をぱらぱら見て驚いた。本格的な数学の専門本ではないかと疑った。ただし本格的な専門書は、この本のように内容的に間口はひろくないし、装丁も紙の質ももっと上質であるが。第1部でオイラーの公式を導くための数学の基礎全般を概説し、数論、級数、代数方程式、関数論、微分、積分を概説する。準備が整ったところで、第2部ではオイラーの公式の骨格をなすテイラー展開、指数関数と三角関数の特徴を概説する。そして第3部でオイラーの公式を導き、ベクトルと行列に応用して物理学への展開を述べる。付録としてアドバンスコースを設け、オイラーの公式の利用のすごさを実感してもらう過程となっている。今の数学教育ではお目にかかれない連分数や、√2、π、eが無理数である事の証明やフェルマーの最終定理など数論の基礎的話題は魅力に満ちている。4次までの代数方程式は何とか解けることの実習にかなりのページを割いている。行列形式による微分方程式の解法はベクトル形式を利用して物理学への重要な意味付けを扱っている。3行正法行列の行列式の計算とラプラ−ス変換による微分方程式の解法は有意義な勉強であった。本書はオイラーの式が持つ意味を理解するための総合的な数学入門であり、従来の分野別数学書ではない。私たちが大学の始めに習った名著高木貞治著「解析概論」のような格調の高さは無いが、紙と鉛筆、そして卓上電卓を座右において実践する数学として抜群の面白さがある。著者が工学部の数値工学の先生であることから、徹底して実用的で演算的である。抽象的なことは一切入ってこない。高校生が読めば、きっと数学が好きになるだろう。私のような高齢者が数学概論を勉強して何になるのかという疑問はあるが、いくつになっても面白いものはあるのだ。本の余白を数式の展開の鉛筆書きで満たす作業は、何物にも替え難い満足感を得た。」というものであった。

オイラーは近代数学であるとすれば、20世紀の現代数学は近づきがたい抽象性があるそうだ。そこで意を決して、ユウクリッド「原論」からブルバキ「数学原論」にいたる数学史の構造主義的アプローチといわれるニコラ・ブルバキ著 「数学史」を読んで見た。現代数学は本書でも取り上げられるドイツのヒルベルトが言い出した公理主義を出発点とする。公理主義は本書高瀬正仁著 「高木貞治」には一切出てこない概念である。なぜなら高木貞治氏(1875-1960)は50年遅れのトップランナーで(日本の数学のレベルがそうなのだからしかたがない)、現代数学については研究したことが無いそうだ。高木貞治氏はヒルベルトに師事したといわれるが、ヒルベルト氏自身はすでに代数的数論から興味はなくなっており、「幾何学基礎論」にみられる公理主義に移っていた。高木氏は、ガウスに端を発しアーベルからクロネッカーへと続く、魔術のような代数的数論の流れを引き継いだ最後のランナーであったようだ。そして誰にも分らない「類体論」という金字塔を打ち立てた。さてブルバキは1930年にフランスで、ヴェイユ、シュヴァレー、エルブラン、カンタンら全英的数学者が集まって作ったグループである。ブルバキは1939年ごろから「数学原論」の刊行を始め、1984年には40冊を書き続けている。「数学原論」はいうまでもなくユークリッドの「原論」を意識しており、本書の内容はいつも「ユークリッドからブルバキへ」の視点で数学史を総括するのである。この2000年以上の西洋の学問の歴史を念頭に置かないと彼らの志の高さは分らない。ブルバキは集団であり歴史的にも多人数の入れ替わりであるにもかかわらず、視点は統一されている。多種多様な数学の歴史の関係を読み解く視点は「哲学的」でもある。ブルバキの旗印は「構造」であり、「形式論的経験主義」だといわれている。そしてこの「構造主義」は、当時の哲学と密接に関係し、その影響下にあったといわれる。この「数学史」は全くお手上げである。それは著述の詳細が原論に頼っており、証明も何のあったものではなく素人にはおかまいなしに、ドンドン話題が進められるのである。これでは最初からお手上げである。この「数学史」がいわゆる読み物的な歴史ではなく、又個人の伝記や年代記のたぐいでもない、むしろ内容をある程度わきまえ、かつその背後や周りの状況を理解できており、できれば哲学や歴史的文明の考え方を分っていないと、太刀打ちできないだろう。専門的な思考を持つ学問の徒のための歴史書である

私は本書を読んで、やはり高木貞治氏の「類体論」については全く理解できなかった。というより本書が読者に分るような系統的な説明をしていないからであろう。戦前の昭和15年、当時の西園寺公望内閣のとき高木氏を第2回文化勲章受章者に推すとき、時の東大数学科の主任教授が西園寺首相に「類体論」を解説する必要があり、大いに困惑したという話が伝わっている。当時の日本の数学界でも「類体論」を理解できる人は少なかったようで、まして素人の首相に説明することは不可能であったようだ。結論はどうなったかは知らないが、私のような素人が「類体論」を理解できないのもやむなしという理由にはなる。高木氏の業績を伝えるべき本書のような評伝書でも、やはり専門的内容に立ち入ることは困難で、その道に専門的でない人に理解させることは不可能であろう。すると本書は何のために著わされたのかという疑問がでる。権威主義者なら内容は分らないくせに、「高木氏の業績は世界の金字塔である」と礼賛しておればいいのだろう。それも空しいということになるので、私としては(著者高瀬正仁氏も同じことであろう)出来る限り肉薄するしかないと腹をくくろう。

1) 少年時代 岐阜中学時代

高木貞治氏は明治8年(1875)4月21日に岐阜県数屋村に生まれた。母方の実家の養子となり高木姓を名のることになったなど、個人的なことや幼年時代の事は省略したい。私は伝記作家ではないので、本質には関係のない些末なエピソードは高木貞治氏の業績には関係ないと思うからである。また本書には明治期の学制の変遷に関する記述が多いが、これについては天野郁夫著 「大学の誕生」を参考してほしい。明治19年(1886)から明治24年(1891)の岐阜中学校時代から始めたい。当時の中学時代の教科書はすべて輸入の学問であるため、原書で行なわれた。例えばバーレーの万国史、ロスコーの無機化学、スチュワートの物理、ウィルソンの幾何学といった次第である。外国語は英語とドイツ語である。特に外国語の授業時間の比率が高かったそうだ。日本語の教科書が出回るのはずっと先のことである。高木貞治は東京の帝大で菊池大麓と藤沢利喜太郎から薫陶を受けたが、その洋算(西欧の数学)の流れのほかに、金沢の関口開の和算の流れも心に留めておかなければならない。関口開は金沢藩の和算家であったが、戸倉伊八郎から洋算を学び、そこから多くの弟子を生んだ。加藤和平、北条時敬、河合十太郎らがいた。彼らはみな三高から帝大へ進み、帝大の菊池と藤沢のもとに関口門下生が相次いで集まった。明治初期の帝大数学科には和算家の群れも存在していた。

2) 京都第三高等校・東京帝国大学時代の二人の師

高木貞治氏の卒業した岐阜中学校からは、当時の学制では入学できる高等学校は京都にある第三高等学校であった。本科、予科とあるうち、高木貞治氏は予科3年からスタートした。三高には河合十太郎という数学者がいた。河合十太郎氏は加賀藩の出身で関口開の和算を学んでいた。トドハンターのテキストで代数と「三角法」を河合氏から教わった。平面幾何学はパックルの本で、微分積分学はウイリアムソンの本で勉強した。三高の同級生に広島の吉江琢児がいてこの人は高木の生涯の友人となった。河合十太郎氏は吉江にデディキントの「連続性と無理数」を読むように勧めた。実数の連続性の本質を理解する上での里程となった。明治27年高木貞治氏らは三高を卒業した。350人の在学生で卒業できたのは90人であった。アメリカ並みの競争性であったのか、それとも学費が高くて学業が維持できなかったのだろう。その内理科は12人であったという。高木は日清戦争のさなかに帝国大学(東京帝国大学と呼ぶのは、京都帝大が出来た明治30年以降のこと)に入学した。当時は6つの分科大学制で、理科大学に入学した。帝大の数学教育はもっぱらイギリス流であった。それは菊池大麓教授がイギリスに留学したからである。帝大数学科には二人の数学者がいた。菊池大麓教授が数学第一講座と応用数学講座(明治29年から長岡半太郎に代わった)を担当し、藤沢利喜太郎教授が数学第二講座を担当した。高木と吉江の残した「数学ノート」は当時の授業内容を知る貴重な図書となっている。菊池も藤沢教授もテキストが外国の書であり英語で授業をした。菊池は主として幾何学と力学の受け持ちで、藤沢は解析学、微分方程式の担当であった。

ここで日本の最初の数学者であった菊池氏と藤沢市の略暦を紹介する。菊池大麓氏は津山藩の蘭学者箕作秋坪の次男として生まれ、幕府派遣留学生として1866年に11歳でイギリスに渡った。翌年明治維新が起きて帰国した。明治3年15歳の時、明治政府の命で第2回目のイギリス留学になった。ケンブリッジ大学で数学を学んだ。明治10年(1877年)帰朝し、22歳で帝国大学理科の教授となる。高木貞治が帝大を卒業した年に菊池は大学を離れ、文部省学務局長となり、文部次官、東京帝大総長、文部大臣、学習院長、枢密院顧問官などを歴任し大正6年に逝去した。藤沢利喜太郎氏は1861年新潟の佐渡の生まれ,菊池大麓が帝大理科教授に就任した翌年に帝大に入学した。菊池の強い勧めがあって数学への道を選択してイギリス・ドイツに留学した。明治20年(1886年)帰朝し帝大理科教授の就任した。菊池は藤沢にイギリスの数学だけでなく、ドイツ・フランスの数学を学ばせたかったようだ。ベルリン大学で藤沢は関数論のヴァイエルシュトラース、クロネッカー、クンマーらに学び、さらにシュトラスブルグ大学に入ってライエらに学んだ。高木貞治氏は藤沢利喜太郎教授から楕円関数論、複素関数論を聞いたという。菊池が学んだイギリスの数学はレベルが低く、藤沢がドイツで学んだ数学は「世界的レベルのすべての数学」があった。それを藤沢は日本に移植したのである。

3) 帝国大学数学科時代 数論の世界

大学の講義は菊池大麓の幾何に、藤沢の解析学が加わったが、欧州の近代数学の全容にはいま少し不足していた。そこで藤原は3回生から始まるセミナーで代数学を導入するように努めた。セミナーとは課題学習のことであり、少し突っ込むと論文と同じ内容になる。セミナー演習録には同期の吉江氏は「射影」、高木氏は「アーベル方程式」、林氏は「e,πの超越数」という論文が残っている。高木貞治氏はこの辺から代数学にのめりこんで行く。「アーベル方程式」については、高次代数方程式の解は一般的には存在しないが(存在しない事を予想したのはアーベルの定理)、解が存在する方程式の根の間には特別な関係がある。この辺の代数学はじつに巧妙な手法で根の形を予想する。ここにガロアは群論を生んだ。高木貞治氏はセレ、ネットー、ウエーバーの代数学を参考にした。セレは「クロネッカーの代数方程式論」を紹介している。「一般アーベル方程式は本質的に円周等分方程式(オイラーの複素周期関数)にほかならない」と予想した。虚数乗法論のことであり、これを「クロネッカーの青春の夢」と著者は呼んでいる。これ以上の代数学の詳細は読む人には分らないだろう。そこでまとめると、ガウスに端を発し、アーベルからクロネッカーへと続く数論の流れがここに発生し、高木貞治氏の「類体論」の源流となったというに留める。高木貞治が大学を卒業したのは明治30年(1897年)(同期の卒業生には美濃部達吉、志賀潔、上田敏らがいた)のことであり、留学を待つ為に大学院に進んだ。留学前のこの時に、高木貞治は「新撰算術」と「新撰代数学」という2つの本を書いた。前者は演算算術のことで、後者は3次、4次の代数方程式の解法のことであった。明治31年6月ドイツ留学の辞令を受け、10月にベルリンに到着した。

4) ドイツゲッチンゲン大学留学時代 「類体論」の建設

ベルリンでの留学はなんということもなく語学の研修程度で、1900年(明治32年 25歳)にはゲッチンゲンに移動し、クライン、ヒルベルトの数論を勉強した。1年遅れで同期生の吉江氏とゲッチンゲンで合流した。ヒルベルトに会った高木貞治は「代数的数体の整数論」をやるつもりだというと、ヒルベルトは怪訝な顔をした。ガウスに始まる19世紀ドイツの数論を東洋人の高木がやるというので驚いた風であった。ヒルベルトは1898年の論文「相対アーベル数対の理論」で一区切りとなり、高木がきた1900年ごろは数論の時代は終っており、もうヒルベルトの関心は数論から離れ、理論物理学の偏微分方程式に移っていたようだった。1900年8月パリで第2回国際数学者会議が開かれ、日本代表として藤澤利喜太郎氏が参加した。会議ではエルミートが名誉会長、ポアンカレが会長に選出された。この会議でヒルベルトはいわゆる「ヒルベルトの23の問題」を提起した。代数的整数論に関係したのは2つの問題であった。「数体における一般相互法則」、「クロネッカーの定理の代数的有理域への拡大」であった。高木貞治の「類体論」は後者の問題の解法であった。ヒルベルトは1893年「数論報告」を行い、ガウス、クンマー、ディリクレ、クロネッカー、デデキントと続くドイツの数論の歴史を総括し、困難な壁にぶち当たっている代数的整数論の展開に「類体論」のアイデアを提出した。1998年ヒルベルトは2つの論文、「相対二次数体の理論」、「相対アーベル数体の理論」を書いた。「類体」という言葉はヒルベルトの創出ではなく、ウエーバーが楕円関数の虚数乗法により供給される特別なアーベル数体を「類体」と読んだのが始まりである。ヒルベルトは楕円関数の虚数乗法の理論と類体論を基礎にすると、「クロネッカーの青春の夢」の証明が出来るかもしれないと考えた。

アーベルの定理とは5次以上の高次代数方程式の一般的解法は不可能であるというものであるが、あらゆる次数について代数的解法を可能とする特別の方程式がある。この種の方程式解法は、その根の間にあるある種の関係に基づいているというアーベルの方程式論の根幹が、ガウスの円周等分方程式(オイラーの周期関数、複素三角関数、巡回的関係)からきているのである。クロネッカーは係数が整数であるならアーベル方程式は円周等分方程式であると看破していた。ここにアーベル方程式とは、一般的記述法で表す代数方程式のことではなく、このような関係を持つ方程式の類の総称に過ぎないことに注意のこと。1901年高木は「複素有理数域におけるアーベル数体について」という論文を書きヒルベルトに見せた。「ガウス数体上の相対アーベル数体はレムニスケート関数(楕円関数の一例)の終期等分値により生成される」というクロネッカーが1853年に提出した定理に高木貞治は証明を与えることができた。そして1901年9月高木貞治は帰朝し、26歳で東京帝大の数学科第3講座代数学の助教授に就任した。翌年帰朝した吉江は第4講座微分方程式を担当した。高木は1903年に東京帝大理科大学教授の就任した。1904年(明治37年)より日露戦争が始まり、第1次世界大戦で欧州から論文が入手できなくなるまでの10年間ほど高木は眠ったかのように空白期が続いた。第1次世界大戦で眼が覚めたかのように、高木は類体論の研究を再開する。

ヒルベルトの枠を超えて、「分岐する類体」を考えるとアーベル体は類体であると了解される。これが高木の定理である。すべてのアーベル体を把握して、一望のもとに観察することが出来たのである。高木貞治氏の類体論は1920年の「相対アーベル体の理論」と1922年の「任意の代数的数体における相互法則」から構成された。前論文は「クロネッカーの夢」の解決であり、後者の論文はガウスからクンマーに継承された、冪剰余相互関係法則を確立した。高木貞治は1920年欧米巡回出張を命じられ、シュトラスブルグの第6回国際数学者会議の参加して「類体論」を発表した。代数の部門の聴講者も少なく質問は全くなかった。理由は戦争に敗れたドイツの数学者の参加が認められなかったからで、代数学の伝統のあるドイツから数学者が来ないと、議論できる人がいないのも同様であった。ドイツへ回ると、手紙では肝心のヒルベルトも高木の論文は読んでいなかったようだ。なぜならヒルベルトは当時76歳で悪性貧血で健康が優れなかったことによるらしい。高木の類体論は1927年「アンチンの相互法則」に受け継がれ、「高木・アンチンの類体論」と称された。「高木・アンチンの類体論」で高木の名声は欧州で確立したといわれ、その影響はフランスのシュヴァレー、エルブランにバトンが渡された。

5) 高木貞治の遺産

高木貞治は1920、1922年の2つの論文で数論研究に区切りがついたところから、昭和の初めから数学関係著作が相次いだ。共立出版社の「輓近高等数学」全集に「近世数学史談」、[数学雑談」などを寄稿した。同じ出版社から「代数学講義」、「初等整数論講義」を出版した。そして昭和7年(1933年 57歳)より「解析概論ー微分積分法及び初等関数論」(岩波書店)の7執筆が始まった。当時の東京帝大数学科の5講座では第1講座で高木氏が微分積分学を担当することになり、第3講座で末綱氏が代数を引き継ぎ、第2講座で吉江氏が微分方程式を、第5講座で中川氏が幾何学を担当した。高木貞治氏は積極的に微分積分の講座を担当する意志を示して日本初の我々の「解析概論」を実現しようとしたのである。いわば講義のために書かれた著作である。高木貞治の著作「解析概論」は「岩波講座数学」(昭和7年−10年)の分冊であった。この講座数学で高木貞治氏は「解析概論」と「代数的整数論」を担当した。1932年のドイツへ出張し、32年ぶりにヒルベルトに再会した。ヒルベルトは悪性貧血という病と闘いながら、数学基礎論の諸問題に取り組んでおり、現代数学の先頭に立っていた。これを見て高木貞治氏は鬼気迫る「恐るべき知識追求症」、「生肝を啜る生きながらの餓鬼道」を感じた。数学の抽象化については高木氏はやむなしという態度であるが、自身はそこへ入る事は避けていた。現代数学のルーツはヒルベルトの「幾何学基礎論」の指導原理「公理主義」に始まるとされるが、それにスイッチを入れたのはエミー・ネーターであった。デデキントの古典的イデアル論が忘れられた頃、1927年「代数的数と関数体におけるイデアル論の抽象的建設」という論文である。数学の境界撤廃の指導原理(ドグマ)が20世紀前半から燎原の火さながらに世界に広がった。


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