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田中素香著 「ユーロ ー危機の中の統一通貨」 

 岩波新書 (2010年11月)

世界金融危機、ギリシャ危機に直面して、欧州の通貨ユーロの将来を展望する

2007年秋以来の世界金融危機と2010年ギリシャ危機は容赦なく、自由主義経済圏(ドル、ユーロ、円)の経済をずたずたにした。自由主義経済圏に依存しながら自由主義をとらない(国家の金融規制が厳しい)中国だけが軽微な傷で済んだようだ。世界グローバル金融資本の過激な移動は20世紀末にアジア金融危機を引き起こしている。米国とBRICSの狭間に立つ欧州経済圏EUは1998年通貨統合に成功し、物価と経済の安定に成功したかのように見えたが、ユーロは21世紀の金融恐慌を前に今厳しく存在意義が問われている。政府の粉飾決算ともいえる数値のごまかしに端を発するギリシャの債務のデフォルトは、欧州の地方問題(格差問題)とみられていたが、世界金融危機を招きかねない「第2のリーマンショック」と見る人も多い。金融グローバル化で世界の一隅の国に世界中の資本が移動している。資本の流入と逃避の自由が保障されているからである。アメリカのオバマ大統領はドイツのメルケル首相に速やかな対処を要請し、ギリシャ向けに12兆円、南欧の金融安定化策として83兆円という巨額の支援プログラム(IMFが1/3を負担)が発動して6月には一応沈静化した。「通貨はひとつだが財政はバラバラ」という現状からはユーロの崩壊は当然視する意見もあるが、筆者はいまや欧州安定化はユーロ以外には解決の道はないという考えである。これが本書の結論である。フランスとオランダがEU憲法批准を拒否したため、欧州の政治的統一の熱は冷めた。しかし経済圏の統一なくしては欧州の生きる道は無いのである。支援プログラムのドイツの負担は20兆円、フランスの負担は15兆円である。これだけ膨大な負担をしてのなおかつユーロの連帯が強固なのである。

ユーロの問題点は欧州の人がよく知っている。3億3000万人に人がユーロを使用しており、ドイツとフランスとオランダ、ベネルクス三国(中核の中核国)がユーロを離脱すれば、EUは崩壊する。ヨーロッパは分裂の危機に見舞われる事をよく承知して、ユーロは経済を越える欧州の政治である事を理解しているのである。BRICSの台頭を前に欧州規模の経済を効率的に運営することがユーロの宿命である。ユーロおよびユーロ圏諸国の将来は楽観を許さない。南欧諸国は不動産・土地バブル破裂後の経済停滞は長引くであろうし、賃金、年金の切り下げ、増税は避けて通れない国民的課題である。ところが欧州が始めた経済統合はEU政府を組織しないまま、経済分野に国家と類似した制度を作ることである。単一市場や統一通貨はその典型である。こうした連邦型経済圏は歴史的実験である。EUには政府は無いといっても、EU法は国家としての機能をもたせてある。ユーロ圏16ヶ国とEU加盟国27ヶ国の政府はEU法に従がいながら、漸次経済的統合の道を歩もうとしている。もはや後戻りにメリットはなく、システムの改良に邁進するのみであろう。ユーロの法的な基礎は1992年の「マーストリスト条約」である。フランスのミッテラン大統領やEU首脳は、ユーロによってドイツの独り歩きを阻止する事を考えた。ドイツのコール首相は「欧州統合は戦争か平和かの問題だ」として、ドイツ主導の経済でもってユーロが誕生したいきさつがある。21世紀の欧州経済は緊縮財政政策を一斉に採用したため、しばらくは成長率は低下しデフレが進行するかもしれない。日本の「失われた10年」の道を歩むかもしれない。しかし欧州統合は危機のたびに飛躍したという歴史を持つ。EMSの創設、単一域内市場統合、通貨統合は欧州の危機のなかで生まれたのである。「危機から統合」が欧州の歴史である。ユーロは覇権を求めるものではなく、バランスの取れた経済経営を目指すのもである。したがってドルに代わって基軸通貨になるということは決してない。2010年におけるユーロ加盟国16ヶ国とは、ドイツ、フランス、オランダ、ベネルクス三国、スペイン、ポルトガル、イタリア、フィンランド、アイルランド、マルタ、ギリシャである。2011年にはエストニアが加盟する運びである。EU加盟国27カ国とはユーロ加盟国以外に、イギリス、スウェーデン、ポーランド、ルーマニア、ハンガリー、チェコ、ブルガリア、キプロス、リトアニア、ラトビアである。

著者田中素香氏のプロフィールを紹介する。 1945年生まれ。1971年九州大学大学院経済学研究科修士課程修了。同年4月より九州大学経済学部助手。下関市立大学経済学部講師、助教授を経て、東北大学経済学部助教授。1983年経済学博士(九州大学)取得。1986年より東北大学教授、1999年より東北大学大学院教授。2004年から中央大学教授。日本国際経済学会会長、日本EU学会前理事長。専攻はヨーロッパ経済論という。中央大学の田中ゼミ「国際経済論」のHPを紹介しておく。主な著書には、「世界経済・金融危機とヨーロッパ」(勁草書房2010)、「拡大するユーロ経済圏」(日本経済新聞出版社2007)、「ユーロ その衝撃とゆくえ」(岩波新書2002)などがある。筆者はユーロ現金が流通するタイミングで岩波新書に「ユーロ その衝撃とゆくえ」を刊行した。本書は世界金融危機とギリシャ危機においてユーロの強み弱さを評価するために、前書の改定ではなく新書として刊行したという。

1) ユーロの歩み 1999−2010

ユーロが導入されてから2010年で12年が経ち、3年の準備期間を経てユーロ現金が流通し始めてから9年目となる。この12年間のユーロの対ドル為替市場の推移を見ると、大きく3期に区分できる。第1期は導入時の1999−2001年末までは下降期で0.82ドルまで下がって、準備期にある(銀行帳簿取引だけしかユーロは使用できなかった)ユーロへの不安が出てきた時期である。第2期は2002年1月から2008年7月までの6年半は上昇期になる。ユーロの評価は日を追って上昇し対ドル1.6ドルまで上がった。第3期は2008年8月から2010年末までの危機期にあたる。リーマンショック後に暴落し再び上昇したが、2010年初めよりギリシャ危機で1.2ドルに下がった。今なお不安定な状況が続いている。統一通貨が導入されると、ユーロ加盟国の国債の利回り格差(ソブリンスプレッド)は一夜で解消した。たとえば政府債務残高がGDP比100%を超えていたイタリアのリラ建て国債費(利払いと償却費)は「徳政令」の如く激減した。同じことは2001年に加盟したギリシャでも起きた。氏城はユーロ圏を真の統一有価地域と認め、国の違いを問題視しなかった。第2期からユーロは本格的な発展期に入った。ユーロの果たした役割は、
@ ユーロ圏の経済統合を進展した。
A ユーロ圏経済の安定化を促進した。
B ヨーロッパの基軸通貨として、ドルに次ぐ地位を占めた。

経済的に立ち遅れた国がユーロに加盟すると、国の信用が強化され金利が下がり、国も企業も資金調達コストが低下する。EU加盟国はユーロ加盟の資格を持つが、「加盟4条件」を満たさなければ加盟は認められない。その条件とは、
@ 物価安定:消費者物価上昇率が最も低い3カ国の平均から1.5%以内
A 低い長期金利:国債金利の最も低い3カ国の平均から2%以内
B 為替相場の安定:対ユーロ為替相場の2年間の安定
C 財政赤字がGDP比3%以下、および政府債務残高がたいGDP比60%以下(60%に向かって縮小していることに緩和」)
ユーロ通貨統合は最初先進国だけの計画であったが、南欧諸国及び中・東欧諸国の加盟によって、ユーロ加盟国の経済格差は開いてきた。ユーロは欧州の経済統合と経済安定をもたらした。ユーロ圏の域内貿易は2008年に33%に増加し、ユーロ圏内での直接投資FDI、証券投資、銀行貸し付け、ユーロ圏社債は非常に増大した。金融市場の規模がひろがり、貯蓄のホームバイアス(貯蓄が同一国内に投資される)が低下した。ユーロ圏内の投資・融資は南欧諸国の不動産・住宅ブームは消費ブームを支え、中東欧の経済発展を促した。しかし21世紀からの経済不況にあってユーロ圏の経済成長率や生産性上昇率は停滞したままであった。経済成長が止まったままでのブームはバブルであって、これが第3期の危機の遠因となってゆくのである。ユーロ加盟4条件はユーロ圏諸国の物価安定と経済安定に貢献した。南欧5ヶ国の消費者物価指数は1999年から急速に収束し4%となっている。各国に努力を要請したからである。消費者物価の安定は経済不況下ではデフレになりかねない(日本がそうなっている)ので、消費者物価指数上昇率2%以下を修正し2%近傍を認めた。

中・東欧10カ国は歴史的に3つの地域に分けることが出来る。
@中欧5カ国:ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキア、スロベニアはかってオーストリー・ハンガリー帝国に属し、工業化・市民社会・西欧文明を達成していた。ソ連の占領によって共産圏になったが、東欧の先進国である。
Aバルト三国:エストニア、ラトビア、リトアニアは長い従属の歴史をもち、ソ連の完全支配下で独自の通貨や中央銀行を持たなかった。
B東バルカン2カ国:ブルガリア、ルーマニアはギリシャとおなじく長いオスマントルコの支配下にあり、市民社会は形成されなかった。農業国として産業発展は遅れた。
中・東欧10カ国は冷戦終了後それぞれの体制でEU加盟にいたった。社会主義国から市場経済への移行は経済が混乱しインフレも激しかった。中・東欧諸国の為替相場制度はバラバラであったが、1999年ユーロにペッグ(承認を得ずにかってに固定比率でユーロに連動)し、2004年欧州為替相場メカニズム(ERM2)に参加した。ERM2とはユーロに対して中心レートを定め変動幅を持った為替相場を維持する仕組み(固定相場制)である。ユーロに加盟すればERM2は自動的に離脱する。こうして中・東欧の通貨はユーロ圏に組み込まれた。ユーロの影響力はEU未加盟の西バルカン地域でも強まっている。クロアチア、セルビア、ボスニアでは国内通貨と並んでユーロが広く使用されている。極小国に見られるように、かってにユーロを使用する事を「ユーロ化」という。ただ流通ドルの2/3がアメリカ以外で使用されるドルと違って、ユーロは欧州5億人が89%を使用する欧州限定貨幣といってよい。まちがってもドルに代わる第2基軸通貨とは言えない。2007年の外国為替取引高(相互使用でシェアーは200%)ではドルが86%、ユーロは37%、円が17%である。国債発行額では、ドル債が45%、ユーロ債が33%、円債が8%である。国債銀行貸し付けはドル建て:ユーロ建てが3:1に比率で、円建てはユーロだての1/10に過ぎない。ユーロの外国為替取引はハンブルグではなくロンドン市場で行なわれる。ユーロ圏の金融市場を主導するのは、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、ベネルクス三国である。

2) ユーロ導入までの道のり 1970−1998

ECで通貨統合が初めて公式の目標となったのは1970年、当時のEC6カ国がウエルナー報告をまとめた時以来である。通貨統合は経済・通貨同盟形成の一環として捉えられていた。統一通貨は単一市場とセットでなければ機能しない。「商品、サービス、資本、人(労働)の自由移動」という4つの自由がEC圏内で達成されなければ通貨は流通しない。1970年から通貨統合まで30年が必要であった。最初の20年は通貨協力の段階で域内の通貨相場安定に努め、90年代に入ってようやく通貨統合へ進んだ。1970年当時は単一市場がどういうものか、4つの自由を達成するにはどのような権限が必要かなど分らないことが多すぎた。1970年代はアメリカのニクソン政権が変動相場制を打ち出し、ECもEC為替相場同盟を作って対抗したが変動幅は大きく波うち「スネーク」と呼ばれた。ドイツマル安定圏はECとの関係が薄れ、1970年代は「挫折の10年」となった。1979年欧州通貨制度(EMS)がスタートした。ところが1980年代になってアメリカ・イギリスが主導する自由資本主義(レーガン・サッチャーイズム)が修正資本主義を乗越えて、金融自由化が世界潮流になると、ECもその流れに対応せざるを得なかった。1980年代中頃になって「安定通貨地域の形成」というEMSの目標が達成され始めた。1985年から1992年までECは単一市場の形成に取り組み、1989年の「ドロール委員会報告」(EC12ヶ国の中央銀行総裁会議)は、統一通貨を流通させるための連邦型中央銀行制度(ESCB)を柱とした経済同盟は次の4つの次元から成り立っている。
@ EU単一市場:商品・サービス・資本・労働の自由移動
A EU競争政策:単一市場の競争原理
B EU地域政策:単一市場での格差是正
C 財政政策協力:経済・通貨同盟の安定の確保

1980年代は基軸通貨ドルの大変動の時代であった。1980年代前半はマルクを100とするドルと円の為替相場が急騰したが、1985年の管理されたドル暴落を認めたG5の[プラザ合意」を受けて、80年代後半にはドル相場は急落し1987年には100を切ったが、円は150まで上昇を続け、英国ポンドは80まで下降した。フランス・フランとイタリア・リラは1980年代初めから一貫して下降した。こうしてドイツ・マルクは名実ともにEMSの基軸通貨の地位を確保した。EMSはマルク本位制の為替同盟となり、1980年代末「ドロール委員会報告」が合意され、ユーロへの道がに開かれたのである。EMSとのリンクによって為替相場を安定させ、金利の引き下げを狙った。こうして1990年代初めに欧州を包括する大欧州為替相場圏が形成された。1980年代は「米日欧」の時代といわれるが、欧州の経済実績は最悪であった。資本の自由化を求めるアメリカ・イギリスの金融市場金融業は競争力を高め、金融サービス業、情報通信サービス業でも技術革新によりコストを引き下げ成長産業となった。欧州には「ユーロペシミズム」が蓋った。欧州の処方箋は単一市場の完成であった。非関税障壁を全廃すべく、1986年「単一欧州議定書」が調印され経済統合は急速な展開を見せた。アメリカや日本の資本導入により単一市場の「92年フィーバー」がもたらされた。1993年域内関税撤廃と人の自由移動の開始によって単一市場は現実のものになった。「ドロール委員会報告」の第2次元の競争政策、第3次元の地域格差是正政策も実現に向かった。フランスは単一市場でのドイツの独り舞台を回避するため1988年通貨統合政策を西ドイツに提案した。ECはそもそも西ドイツを平和のうちに西側体制に包括することが狙いであった。しかし1989年東ドイツが崩壊し「ドイツ再統一」へと向かう。この強力な統一ドイツがECを離れて一人歩きする事をフランスは恐れた。シュミット、ジスカールデスタン、ミッテラン、ドロール、コールといった「通貨統合の父」の知恵と賢明な判断によって、欧州は平和のうちに安定した経済・通貨同盟を実現したのである。

EC諸国はドイツ統合を無条件で承認し、西ドイツの中央銀行制度を模範として通貨同盟を組織する約束ができた。その代償としてドイツはマルクを放棄しECレベルの規制に従がうという取引である。欧州内で生きることを国是としたドイツは、マルクを放棄する事を決意し、統一通貨を西ドイツ流に制度化する事を要求した。EC12ヶ国は1992年ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)に調印した。ECはEUに発展した。マーストリヒト条約はEUの共通規定(民主主義、人権尊重、自由経済ステムなど)を持ち、その下に3本の柱からなる経済統合・政治協力の規定がくる。
@ 経済・通貨統合:3段階のアプローチ(協力段階、欧州中央銀行の準備、統一通貨導入と欧州中央銀行の稼動・統一金融政策の実施)
A 共通外交・安全保障政策
B 司法・内務協力
なおイギリス・デンマークは通貨統合除外規定を認められて批准した。マーストリフト条約批准後すぐさまアメリカの投機筋の介入によってEMSは危機を迎えた。各国の利率格差を狙って、イタリア・スペイン・イギリスなどの高利通貨の暴落を見越して、高利通貨売りとマルク買いという投機筋の「代理ヘッジ」が凄まじい攻撃をかけた。1992年のEMS危機は、メキシコペソ危機(1995年)、東アジア危機(1997年)、ロシアルーブル危機(1998年)、ブラジルレアル危機(1999年)と続きた一連の「90年型国際通貨危機」の最初であった、国際ヘッジファンドが操る巨額の資本が海外から流入し、為替・土地・株価バブルを引き起こし、危機の兆候が見えると反転流出するいわゆる「破壊ビジネス」であった。急性で激烈な通貨危機を引き起こした。EMS投機は間欠的に周辺国通貨を狙い撃ちしたが、EMSは上下2.25%というせまい変動幅を見直し、上下15%という広い変動幅を認めることによって、投機は勢いを失い、EMSは安定を取り戻した。この教訓から、ユーロによって域内の為替相場を排除すれば、為替相場危機を根本的に克服することが出来る、通貨統合への支持が広まった。1990年代後半になると猛烈な財政赤字切り下げ競争が展開され、「ヨーロ非加盟は2流国家」という汚名を遁れるため、EU域内では物価、金利、財政赤字は急激に低下した。

3) ユーロの仕組み

欧州中央銀行(ECB)はドイツ・フランクフルト・アム・マインにある。ユーロを発行し流通させる中央銀行制度はユーロシステムと呼ばれる。指令塔である欧州中央銀行ECBと下部機関の加盟各国中央銀行から構成されている。各国の中央銀行は自国の銀行との関係を維持し、銀行は各国の中央銀行に預金口座を持ち、国内の他の銀行との決済を行なう。そこに「クロスボーダー決済」のメカニズムが追加された。他国の銀行との決済を、自国の中央銀行→他国の中央銀行を通じて行なうことが出来る。ECBは1998年に設立され、EU27カ国の中央銀行が人口比とGDP比で計算される資本金を負担している。ただユーロ加盟国16カ国の資本金が95%程度である。ECBの執行機関は6人の役員会と、最高決定機関である政策理事会で構成される。役員会は総裁・副総裁と4人の理事からなり、ドイツ、フランス、イタリア、スペインの4大国は常任で、あと2国が持ち回りである。政策理事会は役員会6名とユーロ加盟国中銀行総裁からなり、2010年はユーロ加盟国は16カ国であるので、1国1票で政策決定を行なう。ユーロ加盟国が16カ国以上になると政策理事会はローテーション方式を取ることになる。ユーロ未加盟国を含む一般理事会は27カ国のEU中央銀行総裁を含めるが、ユーロシステムとの意見調整を行なう場であり、ユーロの流通や金融政策への発言権は無い。金融政策の最重要課題は政策金利の決定である。ECBの決定を受けて、各国中央銀行が市場金利を政策金利に近づけるためオペレーション(公開市場操作)を各国で実施する。ECBの至高の政策目標は物価安定である。物価安定のみを政策目標とする方式はドイツ流であり、アメリカFRBの政策目標は物価安定と並んで、雇用の最大化、長期金利の安定を掲げており、日本の日銀はさらに経済成長も考慮する。ECBは各国政府の指示を受け入れたりしてはならない(政治からの独立性)。ユーロシステムの基本業務は@金融政策の決定と実施 A外国為替操作 B外貨準備の保有と運用 C決済システムの円滑な運営である。

銀行間の資金取引の金利(インターバンク金利)は資金の需給関係によって変動するが、中央銀行は物価安定や雇用政策のために適切と思われる政策金利を設定する。資金の供給・吸い上げによって中央銀行は、銀行間市場金利を政策金利へと誘導する。金利を調節する方法として、上限として「限界貸し出し金利」、下限として「預金金利」を見て、「市場介入金利」を上限と下限の±1%内に設定するのである。リーマンショック後にこの貸付残高が500億ユーロから8000億ユーロと桁違いに増加した。世界金融危機の中でECBは巨額のユーロ資金を供給して銀行の流動性危機を回避した。一般に政策金利は不況時には景気刺激のため引き下げられ、好況期には部羽化上昇と景気過熱を抑えるため政策金利は引き上げられる。ユーロは市場介入金利を1998年3%でスタートした。2000年以降原油価格高騰やユーロ相場下落のため政策金利は引き上げられ2001年に4.75%となった。アメリカのITバブル崩壊による深刻な不況になったので、金利は引き下げられ2003年半ばより2%という低金利になった。この低金利は2006年初めまでの2年半維持された。2006年より景気過熱と不動産バブルが懸念されたので金利は4.25%まで引き上げられた。2008年末にはリーマンショック後の世界不況で急速に金利は引き下げられ2009年初めには1%(実質0.25%に誘導)となった。経済危機のため日米はゼロ金利政策を取った。いまなお金利は危機管理に全力を投入している段階である。ユーロ圏の金融政策は本質的にジレンマを抱えている。先進国6カ国だけでユーロ圏を作ったなら単一金利政策で問題はなかったはずだが、南欧や東欧が加盟したため域内格差が顕在した。ある国にとっては金利が高すぎ手不況を深刻化させる一方、他の国では低すぎて景気刺激やバブルの膨張を助長することが同時に起こりうるのである。2001年から成長率の高いアイルランドやスペイン、フランス、イタリアでは消費者物価指数が金利を上回り(逆さや)実質金利はマイナスなった。やがて住宅バブルが発生した。2005年までの長い経済停滞は先進国を低成長に巻き込み、スペイン、アイルランドでは不動産バブルが蓄積した。これを「ジレンマケース」といい、金融政策ではどうしょうもなかった。

2010年時点のユーロシステムの金保有高は2669億ユーロ、外貨準備は1976億ユーロである。外貨準備の世界一は中国で24000億ドル、2位は日本で10000億ドルである。ユーロシステムの金・外貨準備は非常に少ないといえる。それは外国為替市場への介入を殆ど行なわないからである。ドイツの伝統は価格の不安定なドルを出来る限り所持しない方針であった。外国為替相場政策にはEU財務相理事会が責任を持つ。ECBと協議して外国と交渉する。ユーログループEU財務相理事会、欧州委員会、ユーロシステムESCB(ECB)の3機関から構成される「経済金融評議会FFC」で調整が行なわれる。決済には1日の差額を送金するネット決済と、その都度送金する即時グロス決済(RTGS)という2つの方式がある。ユーロ前には各国のRTGSシステムが稼動していた。ユーロ後には各国のRTGSシステムをそれぞれの中央銀行を媒介して接続するTARGETシステムが稼動した。2007年でTARGETに参加する銀行は1072銀で、アメリカのドル決済システム「フェドワイヤ」を上回り世界最大の決済システムである。当時は使用料金が高かったので不満が大きかったが、2008年第二世代TARGET2への移行が完了した。TARGET2では各国の中央銀行を経由することなく、銀行同士が国境を越えて直接決済を行なうことが出来る。ユーロシステムの最大の問題は貧弱な危機管理制度にあった。リーマンショックにおいて金融危機予防、危機管理機能が遅れて適切な対応が出来なかった。ECBには平時の権限しか与えられておらず、危機時に問題となる金融機関への緊急財政出動や金融機関の監督権限はなかった。EUの銀行監督制度の原則は「母国監督主義」である。この限界を打破するため「EU金融監督庁」の創設などが話題となっている。

4) 世界金融危機とユーロ

2003年から2007年までは世界的に好景気となった。これにはアメリカの低金利政策があり、消費者物価上昇率が1.9%で政策金利は1%であり、これが消費ブームをもたらした。あわせてブッシュUの戦争政策による軍事支出、財政赤字による巨額の有効需要によって景気を下支えした。アメリカの経常収支赤字と輸出国の黒字の対比は「グローバル・インバランス」といわれた。金融資産は実体経済の規模をはるかに超えて拡大し、その金が住宅投資に流れた。住宅ローンを証券化する金融工学手法によってサブプライムローンのリスクが見えなくなったのである。それには信用格付け会社の粉飾が働いていたようだ。2007年6月にはサブプライムローンのファンドが行き詰った。危機のスタートは2007年8月のフランスの「バリバ危機」であった。そして一気に欧米にサブプライム危機が爆発した。サブプライム危機による金融機関の損失はアメリカが5割、ヨーロッパが4割、その他の国が1割であった。流動性危機を防ぐには、中央銀行が最後の貸し手になって流動性現金を供給するほかには救済の方法は無い。バリバ・ショックの後、アイルランド、スペインでは住宅バブルの破裂が進行した。2008年3月アメリカの投資銀行スターンが破綻し、9月には投資銀行リーマンブラザースが破綻した。「どのように大きな金融機関でも破産する」という恐怖感が金融を麻痺した。

21世紀に入って世界金融市場がグローバル化しており、アメリカ・イギリスが世界金融のセンターである。世界最大の金融センターはイギリスロンドンで、先進国米欧日に投資している。世界第2の金融センターはアメリカニューヨークである。アメリカに流れ込む金はイギリス、日本、東アジアからである。キャッシュフローが莫大であるためアメリカの経常収支赤字の8000億ドルを穴埋めしてなお余りが出て、前世界に投資された。21世紀初めの好況期にはアメリカからの投資はイギリスを経由して欧州の経済発展に、そして南欧の住宅ブームへ、中東欧の新興国ブームへ流れる構図である。ドル建ての金融ビジネスを「ドルビジネス」と呼ぶことにすると、銀行業はEUの主要産業であって8000の銀行は40あまりの巨大多国籍企業の系列下にあり、いやおうなしにドルビジネスに強く結びつけられている。西欧の銀行のドル建て投資は2008年には8兆ドルを超えた。西欧の銀行はドルを借りてロンドンで高収益の証券などに大規模に投資した。ところがアメリカの銀行は欧州進出の関心が薄かった。これがドル不足の原因であった。バリバ・ショックの後2008年9月−10月にEUの4つの銀行が破綻し、アメリカを越える危機が懸念された。銀行危機対策は10月にパリで緊急首脳会議が開かれ、240兆円規模の緊急支援が決められた。ユーロ圏のGDPの20%に相当する。10月29日EUは中東欧など国際収支の悪化した国に特別融資枠を250億ユーロに増額した。しかし財政出動には欧州委員会の権限は無く、加盟国が自国において拠出する法式であった。

世界金融危機においてユーロはドルに対して下落し、2008年10月には底値1.24ドルとなった。リーマンショック後、円をのぞいて殆どの通貨はドルに対して暴落した。これはヘッジファンドによるドル引き揚げが原因であると云う。この時期超低金利の円を借りてドルに替え、そのドルを高金利通貨に投資していたヘッジファンドの「円キャリアー取引」の流が逆転し、円資金を返済するためドル売り・円買いの取引がおき、円はドルに対して急騰した。これは今日の円高の要因でもある。イギリスのポンドはリーマンショック後ユーロに対して一気に暴落した。イギリスの財政赤字危機による国債信用を懸念する「リブソン・リスク」が最大の要因であった。イギリスの金融危機は欧州よりももっと深刻であった。世界金融危機を乗越えるための国家支出は財政赤字状況を一層拡大し、「リブソン・リスク」が懸念されている。「銀行危機の財政危機への転化」であって、イギリス、スペインなどで著しい。この苦境を前にイギリスではユーロ加盟も議論されているようであるが、その可能性は低い。なぜならイギリスの「金融王国」は世界金融センターとしてドルビジネスとユーロビジネスの双方を利用して繁栄してきたからである。ユーロに対して管理変動相場制をとるポーランド、チェコ、ハンガリーの通貨は、2008年7月よりユーロに対する為替相場が下落し通貨危機となった。特にポーランド・ズロチ、ハンガリー・フォリントの下落は対ユーロ80%以下となったが、2010年には回復した。バルト3国は低金利のユーロ建ての借り入れで、住宅・自動車・旅行などの消費ブームを謳歌したが、バブルは2008年前半で破裂し、ユーロ建て負債はGDP比70%を占めた。ラトビアでは銀行が破綻しEUとIMFに救済を求めた。このような危機においてもバルト3国はユーロ為替相場安定が経済安定の基礎である事を確認し、ユーロを放棄しないと声明した。バルト3国の銀行はスウェーデンの3つの銀行に支配され、信用供与されている。20世紀末のアジア通貨危機と違って、西欧の銀行が見放さなかったので銀行危機は避けられた。世界通貨危機において中東欧諸国はユーロのメリットを実感したのであり、このためニューロ加盟を希望する国が一気に増えた。ユーロの求心力は強まった。

5) ギリシャ危機とユーロ存亡の危機

2009年10月ギリシャに新政権が誕生し、09年度の財政赤字が12.7%になるとして、前政権の粉飾決算を明らかにした。欧州委員会も2005年頃からうすうす気付いていた様子であるが、公式には対応しなかった。にわかにギリシャのソブリン・リスクがクローズアップされ、金融関係者はユーロ圏各国の「国債利回りスプレッド(格差)」に気がついた。リーマンショック後にドイツと南欧諸国の国債利回りスプレッドは一気に2−3%(ギリシャのみは最高6%)に広がった。金融関係者はデフォルト候補国としてイタリアを含む5カ国を一括してPIIGSと呼ぶようになった。09年度のギリシャの財政赤字はGDP比13.6%、ポルトガル9.4%、スペイン11.2%、アイルランド14.3%であった。イタリアは5.3%と低いので、イタリアを除いたPIGS南欧4カ国が問題児であった。金融関係者の注目と心配の中2010年1月にギリシャ危機は深刻化した。ドイツ国債に対するスプレッドは4%から年末には一時6%まで拡大し、ギリシャ国債は売り一本槍で買い手が付かずデフォルトの懸念が広がった。ユーロ相場は1.35ドルまで下落した。2月にEU臨時首脳会議、ユーロ圏財務相会合が行なわれ、ギリシャの財政再建策を承認したが、ギリシャのやる気が疑われる中4月末から5月にかけてギリシャ危機は爆発した。スプレッドは9%、国債利回りは13%に迫り、ユーロは1.2ドルと暴落した。この危機は世界に伝染し、株価ショックに発展し「第2のリーマンショック」というパニック状態となった。巨額のユーロが逃避してドルや円に向かうグローバルな投資シフトがおき、「ユーロ崩壊」、「ユーロ壊滅」というタイトルが躍った。

2010年5月7日のユーロ圏緊急首脳会議はユーロ圏15カ国による800億ユーロのギリシャ支援を決定した。ほかにIMFが300億ユーロを支援するのでギリシャ支援は合計1100億ユーロとなる。5月10日緊急支援を可能とするユーロ圏金融安定化策が発表され、7500億ユーロ(約90兆円)という巨額な金融安定化メカニズムを創設した。なぜこれほど膨大な額となったのかは、市場がスペインへの飛び火を恐れ、市場の安心感を与える思い切った支援額が必要であったからだ。2009年10月にギリシャ危機が現れてから翌年5月に金融安定化メカニズムが発表されるまで7ヶ月を要した。EUという連邦制の民主主義国では何をやるにしても時間がかかるのである。IMFが1997年の東アジア通貨危機ではかえって各国の危機を増加させたという前科があり、ギリシャ金融危機ではIMFは拠出資金の1/3を負担し。融資条件の緩和、条件実施の監視を担うことになり、グローバル化した世界金融危機に対処することができた。IMFの資金援助の8割は欧州向けで、EUがそれを演出した。IMFにはアメリカの意向も加味されているので、グローバルな金融危機対応といえよう。ギリシャ危機の中でEU各国とIMFの動きに隠れて目立たなかったが、ECBはギリシャ国債の買取という危機対応措置を行なった。2010年7月までの買取額は600億ユーロとなった。ギリシャ国債の70−90%は国外の投資銀行やファンドであって、この買取策は銀行の資金繰りを助け銀行危機を防いだといわれる。

南欧5ヶ国(スペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランド、イタリア)はユーロ加盟を目指してインフレと財政赤字の切り下げに必死となり、マイナス10−15%もあった財政赤字は見違えるように改善され、1999年ごろにはほぼマイナス3%を維持することが出来た。2009年のギリシャ危機で財政赤字は再び一気にマイナス10%近くに悪化した。ところがギリシャには一向にマイナス3%を守る意志は無く、ごまかしに終始して、借金財政で国民の人気取り政策(ポピュリズム)をやっていたのである。ルール重視と罰則主義のドイツの伝統(モラル)は、楽天主義(ケセラセラ)のギリシャなどのカルチャには受け入れられなかった。ではギリシャはユーロから離脱した方が経済財政の再生はうまく行くのだろうか。財政赤字問題が露呈したように、危機意識の薄い国柄で、ユーロを離れれば、ふたたびインフレ、財政赤字、高金利など、リスクの高い経済に戻るのではないだろうか。ギリシャにはルールの遵守という当たり前のモラルが必要である。ユーロ加盟国の間には、先進国と南欧国の経済格差(競争力)は年々拡大し、いまEUの頭の痛い問題となっている。消費者物価指数を比較するとドイツとスペインでは格差が30%を越えている。GDPに占める製造業比率はドイツが23.9%、スペインは15%であり経済基盤の相違が目立つ。経常収支をみると先進国5カ国は4%の黒字、南欧諸国(PIGS)は6%の赤字、ユーロ圏12カ国はほぼゼロに均衡している。インフレ国は競争力を年々喪失してゆくのに、ユーロ圏にいるので為替相場は切り下げることは出来ない。ますます輸出には不利となってゆくジレンマにある。アメリカの赤字と東アジア・産油国の黒字を「グローバル・インバランス」というのに対して、ユーロ圏内の格差は「リージョナル・インバランス(域内不均衡)」という。こうして北の工業国はユーロの利益をしっかり享受し、南欧諸国は一時的なバブルを経験したのみで、製造業は衰退し持続的な経済発展とならなかった。ドイツは中東欧をがっちり自国の経済圏に組み込み独り繁栄している。これは域内の「南北問題」・「東西問題」である。

6) ユーロの課題と展望

EUの経済・通貨同盟形成の最も重要な狙いは、米英のグローバル金融資本主義に対応できる通貨システムを作り出すことであった。巨大なグローバル金融資本が「バブル・バスト」プロセスを全世界に仕掛けてくることに対して、欧州通貨制度EMSを防禦の砦としたのである。つまりグローバル資本は全世界の不均衡(差異・格差)を利用して為替相場の緊張に転化してくる。「単一市場に単一通貨を」というEU統合の発展は必然的であったといえる。そもそも前提は、ドイツの独り歩きを危惧したフランスがドイツ流の物価安定と中央銀行の独立性という基本原則を受け入れてマーストリフト条約が締結された。当時はマルク圏諸国(ドイツ・フランス・ベネルクス三国)の5カ国の先進国の共同事業であった。したがってユーロ加盟国の経済発展格差は全く考慮にいれず、通貨同盟・財政協力のあり方を取り決めた。先進5カ国は「中核の中核」のリーダーシップを発揮し、少なくとも90年代中頃までは南欧諸国の加盟は全く考えられなかった。ところが加盟4条件をめざして南欧諸国が必至に努力した(ギリシャのように数値のごまかしもあったが)結果、不適格と考えられた南欧諸国もぞくぞく加盟し、「コア・ぺリフェリ問題」が発生した。巨額の民間資金が南欧諸国に移転してその発展を支え、キャッシュフローが財政赤字を穴埋めしたのである。ユーロ制度は「金融政策集権・財政政策分権」を原則としたため、2007年に始まった世界金融危機において「銀行監督・金融規制」は全く役立たなかった。そしていまや危機管理、危機対応の解決を含めた通貨体制を作り直す時期にきている。欧州委員会の専門家グループは2010年2月「ドラジェール報告」を発表し、欧州システムリスク理事会と欧州金融監督システムの機関を設けることが決まった。こうして監督業務はEUレベルに移されることになった。多国籍化した金融機関を各国の銀行管理では対応できないことが認識された。5月ドイツ政府は「安定と成長の協力」の厳格化と厳罰化を骨子とするメモを発表した。フランスと南欧連合への警戒心が根強く存在している。2005年EU憲法草案がフランスとオランダで否決され、EUの政治的統合への熱は冷えた。東欧のミサイル基地問題、イラク派兵問題など欧州内の温度差は政治的統合は時期尚早と判断したようだ。

ユーロ圏の盟主ともいうべきドイツは1989年に東西ドイツの統一を成し遂げ、ドイツの「生存権」といわれる中東欧をEU圏の単一市場に包み込んだ。ドイツは欧州から取るべきものはすべて獲得した。「冷戦の勝者はアメリカ、冷戦終結後の勝者はドイツ」とも評される。ドイツ統一の前、西ドイツの景気は他の欧州諸国と連動していたが、東西ドイツ統一後、もはやドイツは自立し連動は消えた。1990年代前半にはドイツと南欧4カ国PIGSの経常収支はほぼ均衡状態であったが、2000年からドイツの経常収支は黒字に転換し、南欧4カ国は大きく赤字に転落した。このようにドイツが大差をつけたのはEU統合のお陰であった。ドイツ企業は21世紀になると中東欧・ロシア・ウクライナに本格的に進出し、安価で熟練労働者を組織して国内賃金の上昇を抑え、競争力を向上させていった。その間南欧諸国は消費ブーム・住宅ブームに酔いしれていた。ギリシャ支援と欧州金融安定化にゴーサインを出したのはメルケル首相であって、「メルケルが事実上EU大統領だ」と評価された。ギリシャ危機で「ユーロ崩壊」と騒がれたが、はたしてユーロなしで欧州経済は機能するのだろうか。答えは「ノー」である。ユーロ離脱のメリットは残留のメリットに較べると非常に小さい。いずれの国にとっても現実的な選択ではない。もし南欧諸国がユーロを離脱しても、先進国ユーログループはますます運営しやすく統一通貨のメリットが遺憾なく発揮される。フランスは常に世界政策を考える国であり、ユーロによって競争国の為替相場切り下げの心配もなく、欧州生産ネットワークによって世界最高の競争力を手に入れたので、これを手放すことは愚の骨頂であろう。フランスはドイツ牽制のため「経済政府」を導入しようと考えている。ギリシャ危機の「おかげ」で大幅なユーロ安となりドイツの輸出製造業は伸びた。ドル高ユーロ安は望むところであり、財政引き締めと金融緩和策でユーロ安はかなりの期間持続する可能性もある。EUは新経済成長戦略「欧州2020」を策定して、@賢い成長、A持続的成長 B包括的成長(雇用.貧困対策)を掲げた。


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