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桑原武夫訳編 ディドロ・ダランベール編 「百科全書-序論および代表題目-

 岩波文庫 (1971年6月)

フランス革命を準備した、フランス啓蒙思想家の集大成

本棚から黄色くなった本を取り出した。なんと20年前に読んだディドロ・ダランベール編「百科全書」(岩波文庫)であった。欧州の近代化に中心的な役割を果たし、市民革命や産業革命を準備(受け入れ体制を作った)した。東洋の近代化が遅れたのもこの思想が無かったからである。日本の近代化は西洋より100年遅れ、日本は幸い植民地化は免れたが、中国の近代化は日本よりさらに50年後れたために、欧米ロシアそして新興日本の列強帝国の草狩場と化した。それほど民族の歴史に一大革命を引き起こした近代化への精神運動が18世紀半ばにフランスで生まれた。啓蒙思想の集大成である「百科全書」はディドロ、ダランベールの協同編集によって企てられ、1751-1772年に本卷17巻、図版11巻が発行され、マンモルテルの編集により1776-1780年に補巻4巻、図版1巻、索引2巻が発行された。前後29年にわたる知的大事業は、フランス革命を準備した一大思想運動でもあった。これを京都大学人文科学研究所において、25人の共同研究班を組んで、1950年から3年かけて翻訳事業を完成させた。その成果は1954年岩波書店より、「フランス百科全書の研究」(桑原武夫編)として発行された。その「序論」と代表項目をまとめたのが岩波文庫の本書であり、1971年に刊行された。百科全書が生まれるまでの歴史を簡単に振り返っておこう。『百科全書』の出版は、イギリスのイーフレイム・チェンバーズによる『百科事典』 (1728年)に刺激され、企画された。当初この企画は、『百科事典』に目をつけたフランス在住のイギリス人ジョン・ミルズが、フランス語への翻訳を、パリの王室公認の出版業者であるアンドレ・ル・ブルトンのところへ持ち込んだことから始まったのだが、ル・ブルトンが王室発行の出版特認を自分のみの名前で取得したことから、ミルズとル・ブルトンの間で裁判沙汰がしばらく続き、その間に取得した特認は失効してしまう。1745年5月には、『百科全書』の原型は チェンバースの『百科事典』内の記述の誤りを正し、新たに発見された項目を追加する役割のみの編集者として、フランス科学アカデミーの地学部門会員であるジャン=ポール・ド・グワ・ド・マルヴが任命された。 しかし、出版社ル・ブルトンは費用がかかりすぎる事と、執筆者の知名度が低過ぎることを理由に強硬に反対し、マルヴは編集長を辞任してしまう。そのため、ル・ブルトンは編集長にディドロを任命したが、ディドロは再度、もっと包括的で翻訳ではなく、自分たちが執筆した『百科全書』を出版するようル・ブルトンらを説得した。ル・ブルトンは合意し、ディドロは、これは独力で出来る仕事ではない、集団の仕事だと考え、知人であり当時はるかに名声の高かったダランベールに共同編集者を依頼する。総執筆者は184人で、『百科全書』の執筆に参加した人々は通常「百科全書派」と呼ばれており、そのなかにはヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなども含まれるが、むしろ必ずしも有名ではない知識人がその大半を占める。『百科全書』の意義は、そうした大規模な知識人の結集・共同作業を実現した点にもある。

1750年10月ディドロの手で「百科全書の趣意書」が書かれ、この仕事の意義と目的を説明した。この18世紀が必要とする辞典は、自学する人々を啓蒙するだけでなく他人の教育のために働く人々を手引きするのに役立つ辞典を目指すとされた。そして被わなければならない領域は広大であるので、分担と仕事の集団性が強調された。また集団性をより強固にするためには学問の相互交渉を図ることが編集者の主要任務であると書かれている。「情報はひとりではいられない 編集とは関係の発見である」という松岡正剛氏の「知の編集工学」(朝日文庫)の考えと同じである。あるいは松岡氏が百科全書から引用した言葉かもしれない。1751年から百科全書第1巻が刊行された。これに対してイエズス会の攻撃が起こり、1752年第2卷が出た時点で、国王の名において発行が禁止された。ところが、政府当局のマンゼルブ、王の寵姫ポンバドゥール夫人などの援助もあって、禁止は解かれ1753年第3巻が刊行された。この事業が共同作業であるための困難もあり、1757年にダランベールが「ジュネーヴ」の項を執筆すると、ルソーらがそれに異議を唱えて協力を拒否し、ダランベールおよびそれに同調したヴォルテールも執筆をやめてしまった。脱落者が相次ぐ中で、一人多くの項目を引き受けたのがジョクールであったという。それに追い打ちをかけるように、1759年には『百科全書』の出版許可そのものが取り消され、ドルバックらの協力のもと、ディドロは非合法的に編集作業を続けた。『百科全書』の刊行が再開されるのは1765年のことである。このような中で仕事を最後まで推進したのは、組織者ディドロの手腕に追うところが大きい。その後の様々な困難を乗越え、1772年に11巻が完結した。そして「百科全書」の成功を見て、補巻の刊行が企てられ、マンモルテルが編集者となり補巻4巻となって1980年に完成した。この大部な図版は百科全書が工芸を重視したためである。チェンバースの辞典と大きく異なるのもこの点である。もちろん本格的な機械設備の発明は、1765年の蒸気機関を動力とする産業革命を待たなければならないが、技術を整理し産業革命を準備したという意義は何物にも替え難い。このことは政治革命についても言える事であるが、百科全書の理想とする政治形態は「立憲君主制」という微温的なものであったが、時代は市民革命へと動いたのである。なぜ百科全書は技術を重視したのだろうか。それはいうまでもなくブルジョアジーの利益に沿ったからである。「所有が市民を作る」というブルジョア的立場が百科全書を貫いており、ブルジョアの武器である技術が最優先課題であったことは言うまでもない。ディドロは思弁哲学の終焉と経験哲学の到来を告げ、ダランベールは感覚的経験の重視を説いた。この思想は250年を経た今でも少しも色褪せることはない。本書の構成に従い、次にその内容を見て行こう。

1) 百科全書序論 (ダランベール)

ダランベール(1717-1783)は数学者、物理学者である。はじめ法学を学んで弁護士となったが、後に数学、物理学を研究し「力学概論」を著した。哲学者としては感覚論をとり、不可知論的傾向を示し、神の存在には懐疑的であっという。「すべての部門とすべての学問とにおける人間知識の努力の一般的な展望」を与えるべく「百科全書」は企画され、百科全書の冒頭にダランベールが序論を書いた。デカルトの「方法論序説」と同じく、「百科全書序論」はひとつの大論文である。百科全書には2つの目的がある。第1は「百科全書」として人間知識の順序と連関を出来る限り明示することである。第2に学問、技術、工芸の体系的辞典として、その土台となる一般的原理と本質的な細目を含む「合理的辞典」である。これを第1部と第2部に分けてみてゆこう。

第1部 「百科全書」

人間の学問の無限に多様な諸部門を仮にも統一的なひとつの体系に包括することは極めて困難である。我々の諸知識の系譜と家系、すなわちそれらを誕生させたはずの原因と相互に区別する諸特性を吟味することが必要である。ダランベール氏は学問の分類体系をベーコンから学んだ。ベーコンの「学問の分類」は、知力を記憶(歴史)、想像(文学)、理性(哲学)の3分野に分け、記憶をさらに自然の歴史、社会の歴史、境界の歴史へ分け、理性を神学、自然(形而上学と実験)、人間(医学、精神)に分類した。このベーコンの分類は今から見ると第3の「理性」分野の分類は随分おかしな分類になっている。これに対してダランベール氏の「人間知識の系統図」では悟性を記憶、理性、想像の3分野に分ける点はベーコンと同じであるが順序が想像の前に理性を持ってくるものである。さらにその下の分類は比較的現在でも通用する項目となっているが、記憶の「自然の歴史」がやたら手工業中心になっているところが面白い。理性の「自然の学」では実に細目に科学の分野が分けれており、大体納得できる内容である。

我々の知識の全体は、直接的知識(感覚が受け取る知識)と反省的知識(精神が直接的知識に働きかけて得る知識)に分けられる。感覚の存在は議論余地なく確実である。反省的観念が照らすものは第1に私たち自身の存在で、第2に外的物体の存在である(コギトエルゴスムというデカルトの2元論に近い)。疑うことができないものは私自身であるということから反省的観念はスタートする。私たちの最も強い感受性は苦痛である。現世の苦痛をできる限り免除するために人間知識活動があるといえる。この目的のため、利用しうる観念の相互伝達のために記号(言語)が発明され、社会形成の起源となった。私たち人間が形成しなければならなかった最初の諸法が「自然法」であり、強者の圧迫を取り除き、平和で平等な道徳的観念が生まれた。これらは哲学者の範疇に属する事項である。外的物体を対象とする学問は「自然学」または「自然研究」と呼び、非常に多くの有益な部分を含む広大な学問の起源と進歩の原動力となった。物理的存在の一番重要な特性は「不可透入性」であると云うことから初めて、ダランベール氏は得意な数学「幾何学」と物理学「力学」の有効性を力説し、諸現象を可能な限り少数の原理へ還元する体系的精神(決定論的・還元論的科学)を求めることが「明証的一般実験物理学」であるという。真理の数が多いほど理性の貧困を示すものである。真理の数は少ない方向へ向かう。数学については、代数によって「計算」する解析学は経験によって恣意的な仮説から遁れるという実用数学を説明するのであるが、現代抽象数学はとても収まらないだろう。ダランベール氏の理想とする「明証的一般実験物理学」はむしろ工学の分野に属し、これだけを追求すれば善いというわけではなく、真に革命的な学問はむしろ抽象的な研究から生まれる場合が多いことはダランベール氏の眼中には無かった。

人々が自分の観念の領域を広げることに利益を見出し、知識を獲得する方法及び自分の考えを伝達する方法を「論理学」と名づけた。観念を最も自然な形に配列し、共通な観念を解析して、観念を他人に理解されやすくする技術の事である。推理は最も有効な働きである。言語の論理学が文法であるごとく、正しい論理で誰にでも学問や技術を理解させることである。情熱に訴えて伝達する技術が「雄弁術」(修辞学、話術)である。人間の営みを過去、現在、未来にわたって把握したいという願望に「歴史」の起源がある。人間知識のうち、観念の組み合わせと比較を一般に「哲学」と名づける。美しい自然の模倣に絵画、彫刻、建築の起源がある。詩と音楽は自然というよりは情動で観るものである。思弁と実践ということが「学問」と「技術」を区別する相違点である。「技術」は実証的で恣意や個人的意見から独立した諸原則に還元されル知識の体系である。そういう意味では学問のいくつかは技術である。技術は自由技術(技芸)と機械技術に分けられる。自由技術のうち「自然の模倣」を目指すものは主として楽しさを追求するため「芸術」と分類される。私たちの精神が対象に働きかける仕方と私たちがその対象から引き出す用途の相違でさまざまな判断(価値)が生まれる。判定には明証、確実性、蓋然性、感情によって示される。芸術は感情によって判定される。百科全書の「人間知識の系統図」は諸学問のつながりと関係を提示するもので世界地図に相当する。私たちの知識の樹は、知識を自然的知識と啓示的知識、有用な知識と楽しい知識、理論的知識と実際的知識、明証的知識と確実な知識、蓋然的な知識、事物の知識と記号の知識、という際限ない項目分類を進めることである。「百科全書」では百科全書的順序(アルファベット順)と生成的順序のバランスを志したという。知識は精神的か物質的かであり、直接的か反省的観念かによっている。「想像」を模倣しつつ創造才能とした。

第2部 「合理的辞典」

「百科全書」を学問と技術の合理的(体系的)辞典として著わすことが第2の目的である。主に学問と技術の歴史的経過について述べられている。出発点はルネッサンス(学芸の復興期)とする。中世の無知(暗黒)の時代から出て啓蒙(光明)の時期にいたる精神の進歩は、ギリシャ・ローマの文献的研究から始まり、ラテン語文学、哲学と進んだ。偉大な精神を生むためには迷信を離れた自由な行動と思考しかなく、それを節度あるものにするには知識が導くのである。17世紀の文学は、マレルブ、バルザック、ロワイヤル、コルネイユ、ラシーヌ、ボロワー、モリエール、ラ・フォンテーヌらにより開花した。芸術活動は、絵画部門においてはラファエロ、ミケランジェロ、プウサン、ル・シュワール、ルブラン、詩においてはキノール、音楽においてはリュリが啓いた。絵画は感覚によるので、必ず詩より先行して啓かれた。特にイタリアの美意識によって先導されたといえる。ところが哲学はひどく遅れていた。中世のスコラ学は啓蒙の時代の最大の障害であった。ギリシャ哲学はそのために正しく知られていなかった。中世の神学では、世俗的権威に結びついた精神的権威の濫用が理性を沈黙させ、もう少しで人類は考える事を禁止されるところであった。このなかで知識の偉人フランシス・ベーコンは静かに啓蒙の時代を用意していた。ベーコンの著書「人間知識の権威と増大について」は実験的物理の必要性を説き、人間知識の本質部分をなす諸技術を研究する事を勧めた。「百科全書の樹」はベーコンの「学問の分類」の模倣ではない。ダランベールの「百科全書の樹」の前には、デカルトがいた。デカルトは幾何学と哲学者であった。彼の形而上学はスコラ学の専制的な権力を打ち破る最初の人である。ついでニュートンは自然学から曖昧な仮設や臆断を追放しもっぱら経験と数学に従がう事を説いた。彼は光学、微積分学、力学(引力の発見者)の創始者となった。彼らの論証、明白で正確な概念はすべての形而上学に影響を与えずにはおられなかった。新しい形而上学はジョン・ロックの「人間悟性について」によって創造された。真理のヴェールを啓いた偉人たちには、天文学のガリレー、医学のハーヴェイ、数学のホイエンス、パスカル、物理学のボイル、ライプニッツらによって諸学問は一気に花開いたのである

百科全書の構成を知る上でディドロが書いた「趣意書」を見ることは必須である。「従来の辞典はその形式からして系統だった読み方を目したものではない。学問と技芸を向上させるアカデミーが設立されていないとき、自学する人々を啓蒙するだけでなく他人の教育のために働く人々を手引きするために役立つ、一つの辞典を持つことは大切であると考える。チェンバースの百科全書の功績は非常に優れたものであるとしても、進歩した学問の項目があきれるほどに少なく、芸術た[機械技術にいたっては殆どか書かれていない。必要なのは知識の連関であって、断片的な説明ではない。百科全書では知識の連鎖を断ち切り、形態と本質を損なってはいけない。学問と技術の凡てを1人の人間で取り扱うことは向こう見ずであり短見である。このような大きな重荷を支えるにはそれを分担する必要がある。それに十分な学者と技術者を揃えたことで、多くの方法と確実さと詳細さを持ちえたのである。協力者の各人は自分の引き受けた部分についてひとつの辞典を作り、編集者はこれらの辞典全部をひとつの全体に統一した。編集者は個人の仕事には絶対手を触れない。文体も変化があってこそ面白い。百科全書の全内容は学問、自由芸術、機械技術の3分野である。執筆者は最優秀と認められる人が選ばれ、名前を挙げ、自分の文章を引用し、諸見解を比較し、諸証拠を考量すること、叙述が長くなる事は妨げない。」とディドロ氏は編集の目論見と留意点を書いた。この百科全書の最大の特徴は機械技術の叙述と絵図作成であり、そのためには工作所の現場にまでいって質問したという。本書はソクラテスが言った「精神の産婆」となるべく努力したことである。

2) 代表的項目

私は「百科全書」全訳を手にしたことがないので、本書岩波文庫「百科全書」が挙げる「代表項目」(16項目)がどの程度のものなのか全く想像がつかない。「百科全書」の収録項目は72000項目といわれ、岩波書店の広辞苑という辞書は約23万項目である。恐らく誰も全部読んだ人はいないだろうし、今の時点で読む必要もないだろう。その中から代表項目といっても、言葉通り何を代表するのかは定かではない。京都大学人文科学研究所の編集者の興味と岩波文庫の標準的厚さから自ずと決まる数になったのであろう。

哲学 (ディドロ)

ディドロ(1713−1784)は哲学者、文学者、百科全書派の頭目であった。唯物的無神論を主張したため、一時投獄されたこともあった。ロシアのエカテリーナ2世から支援を受け、ペテルスブルグに赴いたこともある。貴族的古典主義に反対して、市民的リアリズムを推進した。この項目は百科全書の哲学思想の半面を代表するだけでなく、ディドロの一般的な哲学間がよく現れている。この「哲学」の項目で@言葉の起源と意味を歴史的に考察すること、A適切な定義によってこの言葉の意味を確定することが議題となっている。第1の議題はダランベールの「序論」でも論じられていることである。哲学は知恵の愛を意味する。知恵と博識は区別されておらず、優れた天才は、自らの省察に専念して、自然と理性が与えてくれる諸観念と諸原理からひとつの堅固な体系を引き出す努力をした。この人々をピタゴラスは愛知者(哲学者)と名づけた。古くから哲学を神に関する考察と人間に対する考察とに分けた。スコラ派は哲学を、論理学、形而上学、自然学、道徳学に分けた。そして第2の課題はこの哲学に適切な定義を与えることである。哲学とは事物の理由を与えることである。ここでディドロ氏はヴォルフの見解に従っている。ダランベールとは違って形而上学を認めて、目的論的自然観から実験的自然学に向かう。ダランベール氏が数学物理学的自然観から実証論(懐疑論)に至ったのとは反対である。ディドロ氏はものが存在する理由こそ、哲学者が探求し考察すべきであると云う。哲学の対象は神、魂、物質である。ヴォルフ氏に従って、自分のうちには可能なる事物の観念を形成する能力がある事を確信し、これを悟性(理性)という。真理認識における人間悟性の力を論理学という。全存在の一般的認識を内容とする哲学部門を存在論と名づけ形而上学を構成する。論理学と道徳学は実践的哲学である。以上が哲学の健全な概念であり、その目的は確実性であり、それにいたる道筋は論証である。「しかし哲学はいまなおひどく不完全な学問であり、いつ完全になるかはわからない」という、哲学の進歩を遅らせたのは権威と体系的精神であった。

体系 (ダランベール)

この項目はかなり長いもので、本書では初めだけを訳したという。コンディヤックの「体系論」が要約されている。「体系とは技術や学問の様々な部分がお互いに関係し合う状態のその部分の配置である。体系はまとめる原理が少なければ少ないほど完全である」とされる。

自然状態 (ジョクール)

ジョクール(1704-1779)は百科全書編集のディドロを助けて、副代表の役を果たした。コンディヤックやモンテスキューの友人で、ジュネーブ、ケンブリッジ、ライデンに学んだ。「ライプニッツの人と作品」が主要作である。ディドロ、ジョクールに代表される百科全書派の政治社会思想は、18世紀ヨーロッパで支配的であった近世自然法理論の伝統の上に立っている。自然状態で人は完全に自由で平等な状態に置かれ、自由は放縦ではなく個人の行為に対して規範的性格を持つ自然法が存在する。既に社会的存在の萌芽が含まれ、人間の未組織の自然的社会または普遍的社会というべきものである。したがって自然状態から具体的な社会への移行は、自然状態の自主的展開ととらえられる。自然状態にはないものは、法律、裁判官、強制権を有する権力である。自然人が社会に入ることによって、自然状態で有する権利を社会の託し、政府の立法権は公共の福祉以上に拡大してはならない。

自然法 (ディドロ)

ディドロは啓蒙的人間・政治観から、理性的人間によって認識され実法の前提となる自然法の概念を強調している。「法は正義の基礎である。正義とは各人にふさわしいものを与える義務がである」 個人の自由を奪うことが出来るのは、全人類にのみ属する「一般意思」である。「一般意思」論はルソーの「不平等起源論」における個人の自由を批判する内容を持つ。

政治的権威 (ディドロ)

ディドロの政治的見解を示すものとしてこの項目は注目される。ディドロの啓蒙的君主論という穏健な政治思想はルソーの論に較べると微温ともいえる。人民の無条件的な法の遵守を説くとき、契約としての人民の承諾から発する権力である、父権・擁護者としての政府を信頼し全権を預けるというには現実的ではないだろうという疑問が湧く。啓蒙君主に全幅の愛情と信頼を置くには、神を仮定するようなのもである。

主権者 (ディドロ)

ディドロの政治社会思想の特色が示されるのは、前項目と同じである。人間自然に内在する原理を基礎としての社会の自然的形成論、契約による国家主権形成論、二重契約の否定、制限君主制論の4つの論が述べられている。二重契約論については闘争による変革の否定につながり、絶対君主制を説くホッブス、徹底した民主制を説くルソー、双務的な服従契約をとるディドロの制限君主論という関係が明らかである。「主権者とは社会を治めるため必要な権力を、人民の意志によって授けられた人々である。それには各人は自然的権力の一部を放棄しなければならない。主権者の権力や権利は人民の同意によってのみ基礎付けられる」という論であるが、権力の発生過程や歴史に目をつぶった論では無いか。権力は決して契約で発生したのではない。簒奪で発生したのであり、歴史的に君主の権力に人民が制約を加えてきた過程をさかさまに見ている論である。ディドロの見解は今から見ると王権擁護論者となり甘いといわざるを得ない。

親権 (ジョクール)

民法の親権を論じたものであるが、ジョクールの主張は母親も父親とおなじ親権を持つこと、および親権の根拠を親の子に対する監護義務に求めている点である。近代的な親子法の原理を明確に表現している。日本でこの近代的親子法が出来たのは第2次世界大戦後であり、百科全書の約200年後のことであった。

平和 (ダミラヴィル)

自然状態においては人は戦争状態ではないとする論はホッブスの論を否定し、18世紀のオーソドックスな自然法思想に基づいている。そのおおらかな平和思想は、合理主義、楽観主義という特質を持つフランス啓蒙主義思想の国際主義の傾向を代表している。

マニュファクチュール (ディドロ)

「マニュファクチュール」とは多数の労働者が同じ種類の仕事に従事する場所、手工業であれ機械工業であれいわゆる工場の事である。1776年にフランスの経済思想を著わした論文として有名である。集合マニュファクチュールと分散マニュファクチュールに分けられ、大量生産のための分業というアダムスミスの観点はないが第1の集合マニュファクチュールが近代工場生産方式となった。かなりの投資を必要とし、一貫して生産され、かなりの利潤が見込めること、労働・原料の入手や製品の流通に便利な場所に設置され、政府による税金面での保護を受けることが必要であるとされる。資本家、労働者、企業家の役割が明確に記述されている。

奢多 (サン・ランベール)

サン・ランベール(1716-1803)はヴォルテールや百科全書派と親密な著作家であった。唯物論的傾向を持つといわれた。奢多とは快適な生活を得るために、富や勤労を使うことである。奢多は批難されることではなく、社会の人口を養い、国家を富ませ、貨幣の流通に役立ち、習俗や道徳を高め、知識と芸術の進歩にとって有利であって、国民の力と幸福を増加させるものであると云う。奢多はあらゆる種類の産業を刺激する、今でいう消費生活のことである。現在の世界経済はアメリカの消費で支えられているといわれる。歴史上国が滅ぶのは奢多のせいではなく、外の原因によるものであって、奢多を目の仇にするのは、物資窮乏にあえぐ経済統制下の戦前の日本であった。18世紀の政治論で節約や勤勉は好んで取り上げられたテーマであった。ルソーの強硬な奢多排撃論は有名である。サン・ランベールはむしろ適切な政治のもとで、国民の健全な中間層の向上と結びつくサン・ランベールは必要であり、それは工芸や産業を発達させ財産所有者を作り出すことになるという。

力学 (ダランベール)

当時の有力な物理学者としてダランベールが執筆した。ダランベールの「力学論」(1743)が発揮される項目である。「力学とは運動原因の学である。エネルギー、力の成分の分解と合成、解析学など力学の2,3の分野が述べられる。当時の力学の水準を示している。

技術 (ディドロ)

様々な物の存在の諸特性について観察し、そこから法則の体系を作る学問のことである。ディドロはここで徹底して、工芸技術(自由工芸技術、手工業・工業的技術)を擁護し高い価値を認めている。ディドロは科学と技術を同根とみなし、技術の理解、推進には理論と実践が相伴わなければなないという。技術は自由工芸芸術に較べて低いものでなく、より重要な意義を見出していることである。工芸技術における発見や完成の意義、工場生産における品質、分業の有利性、生産性の向上策にも触れている。蛇足みたいであるが、近代の3つの発明、印刷技術、火薬の発見、磁針の発見についても言及している。

慣習 (ディドロ)

決まりや指示の影響を受けるところの、生来的・後天的な人間の善悪の行いである。慣習は人類全般に共通であり、ひとつの慣習だけが真正性をもつのではなく、国民や民族によって様々な慣習がある事を協調した。慣習は政治形態にも及び、おおいに社会的通念を啓くものがあった。

インタレスチング (ズルツェル)

ズルツェル(1720-1779)は18世紀において最も先駆的な反古典主義芸術論者であった。彼の著書「諸芸術の一般理論」で、美学を構成する中心概念として、活動、エネルギー、インタレストの3つを挙げた。インタレスチングは好奇心といってもよいが、私たちの精神を釘付けにしてなにかの期待を持たせることである。「人間の優秀さとは、このような魂が常に引き絞られた弓のような状態にあることである」

天才 (サン・ランベール)

天才とは精神が広く、想像力が豊で、魂に活力がある事である。この天才讃美論は近代美学の祖といわれているカントの先駆をなす。ただ天才は祖国を救うことがあるが、彼が権力を持ち続けたら国は滅びるという指摘は面白い。政治家の想像力は、他人を不幸にする。

美 (ディドロ)

ディドロ以前の美学の批判的概論、ディドロの美学の一般理論、美的判断の条件からなるが、岩波文庫本はディドロの美学のみについて訳された。美を客体に存在する性質と、主体の側の知覚の統一のうちにあるという一般理論はまず頷ける。ところが美的判断が人によってかくも多様なのは、人々の側の美的判断の条件が様々であることによる。個人の恣意に左右されているわけではないという。


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