シリーズ中国近現代史@「清朝と近代世界」は既に紹介した。岩波新書10年10月配本はシリーズAの前にシリーズBの本書「革命とナショナリズム 1925-1945」が刊行された。時期は孫文死去の1925年から日中戦争終結の1945年までの抗日戦争期である。主役は国民党と共産党と抗日戦線の国民である。終始逃げ腰であった蒋介石政権の敗北の歴史であり、共産党勝利の神話の歴史である。清朝から引き継いだ国民党政権では最終的に近代国家と国民は生まれ得なかった。それは1949年毛沢東共産党政権による中華人民共和国の成立を待たなければならない。著者石川禎浩氏は京都大学人文科学研究所東方学研究部の准教授である。巻末から著者を紹介しておこう。1963年山形県生まれで、1990年京都大学文学部史学科修士課程卒業、京都大学人文科学研究所助手、神戸大学文学部助教授を経て、現職である。専攻は中国近現代史で「中国共産党史」を研究テーマとしている。著者の業績・著書については、京都大学人文科学研究所のホームページの研究者紹介を御覧ください。1991年のソ連邦の崩壊と冷戦終結によって、旧ソ連の情報公開が進み、歴史資料が飛躍的に利用可能となった。著者はこの「イデオロギーの時代の終結」によって「革命史観」が全く色あせてしまって、この新資料にたいする興味も減退しているのはもったいないという。新資料を活用した、中国の近代化に影響を与えたソ連の役割や革命運動の実際を明らかにしたかったと本書の末に著者が述べている。またスタンフォード大学フーバー研究所所蔵の「蒋介石日記」の利用が可能となったこともよろこばしいという。そして後日蒋介石は日記に手を加えて「歴史の書き換え」をやっているところも面白いという。
1925年3月12日中国革命の指導者・孫文が北京で世を去った。時に58歳。死に際して3通の遺言書を残した。中国国民党同士へ、家族へ、ソ連共産党への3通である。その中で「革命なを成功せず、同志すべからく努力せよ」、「民衆を必ず喚起し、世界の平等を持って我に持する民族と連合し」という言葉がある。そして中国の当面の課題は「不平等条約の撤廃」を挙げた。1920年代の中国はどのような国であったのだろうか。日本では近代化を成し遂げた「偉大な明治」時代は終わり、第1次世界大戦後の国民の生活向上と大正デモクラシーといわれる議会民主主義の高まりを迎えていた。1912年の辛亥革命によって成立した中華民国は体制こそ共和制をいっているが、その内実は相変わらず軍閥が割拠し、北京政府の意向など全国に及ぶべくも無かった。清朝以来の不平等条約体制と外国租界と列強の駐兵権もそのままであった。1920年に成立す多国際連盟に非常任理事国として参加したが、選挙でその非常任理事国も落選し、国際社会が中国を見る目も冷たかった。不平等条約の撤廃がなされるのは、中国が「連合国共同宣言」に署名した1942年10月のことで、実にアヘン戦争後の南京条約から100年が経っていた。こうして中国は名前だけの「大国」になったが、この1925年から1945年の20年間の動きが本書の受け持ち期間である。孫文の晩年の革命方針である「連ソ容共」政策は、孫文死後3年で国民党内では破棄された。その意志を受け継いだのが中国共産党であった。こうして孫文死後の中国の政治は、国民党と共産党の2軸で展開された。
1) 国民革命の時代孫文の率いた革命組織は辛亥革命前までは秘密組織であり、革命後初めて国民党を名乗り、1919年中国国民党に改組した。1923年3月北京政府に対抗するため広東政権を組織した。この政権も軍閥の寄せ集めの地方政権に過ぎなかったが、1923年1月「孫文・ヨッフェ連合宣言」によって、ソ連との提携方針を明らかにして、綱領や組織規約をソ連の指導を得て定め、孫文の個人政党から委員会による合議制へと党のスタイルを変えた。「改進」と称する一連の変革は、国民党を近代政党へ変身させる上で大きな転換点となった。国民党は「民主主義集権制」を謳いソ連共産党の組織原則に倣った。ただ党員すなわち幹部だけの幹部中心政党で、大衆政党ではなかった。啓蒙された大衆や国民がまだ存在していなかったためである。1924年6月党の軍隊の創設を行い近代的軍隊の整備を開始した。軍幹部を養成する「陸軍軍官学校」(黄埔軍校)を設立し、ソ連軍事顧問団の指導で国民革命軍が鍛えられた。1924年1月の国民党第1回全国代表会議において国民党への共産党員の加入、すなわち「国共合作」となった。当時の国民党党員公称5万人に対して、共産党員は500人に過ぎなかった。当初共産党はこの合作に反対であったが、コミンテルンの指示のもとに行なわれ、国共合作は実は共産党の党勢拡大に大きく貢献した。非合法下で細々とした活動しかできなかったのが、公職につき給料も支給されて党員は拡大し1925年秋には3000人に増加していた。ソ連共産党は広東政権に1925年半年で460万ルーブル(150万元)を援助している。ただ日本政府が当時の中国軍閥政権に与えた借款は1億5000万元であるので、ソ連の援助といってもこれには較べようが無いくらい少ない。1924年の第2次奉直戦争という、北京政府を構成する曹銀の直隷派と張作霖の奉天派、段其瑞(日本が支援)の安徽派の内戦に乗じた馮玉祥が反乱を起こして北京を制圧した。これに対して孫文は「北上宣言」をだして1925年北京に入った。孫文は北京で病死し、結局は奉天派が北京政府を掌握した。
孫文が目指した国民革命は孫文の死後に始まった。1925年5月中華全国総工会が設立され、上海労働者のストライキに始まる「五三〇運動」は一気に反帝運動に転換した。上海と香港租界を支配する英国への反帝運動となった。1925年7月広東政権は「国民政権」(首席汪精衛)に改め、党の軍隊を国民革命軍」に改編した。こうして国民政府は文治派の汪精衛と軍の指導者蒋介石の二人を、ボロジンらのソ連顧問団が支える体制で維持されることになった。1926年3月の「中山艦事件」で蒋介石はソ連顧問団と「北伐早期実施」方針で争い、汪精衛に代わって国民政府軍事委員会首席となり、国民党常務委員会首席となった。1926年5月国民革命軍北伐先遣隊の湖南派遣により、北伐戦争が開始された。7月には長沙、10月武漢、11月南昌、12月福州へ達し、1927年3月には杭州、南京、上海、6月には徐州、1928年5月には済何、太原、保定、天津へと進み、6月に北京、1928年12月には東北に入った。北伐軍の快進撃は農民運動の高揚がなくしては考えられないものであった。国民党左派は蒋介石をけん制するため、1926年「武漢国民政府」をスタートさせ、南昌に北伐軍司令部を置いた蒋介石に対抗した。北伐軍が上海に迫るなか、租界の列強は軍隊を集結させ黄浦港は艦船で埋め尽くされた。労働運動と農民運動の高揚を背景とした上海革命運動は遂に武装蜂起を繰り返し、「上海特別市臨時政府」が樹立され、蒋介石は1927年3月26日上海に入った。南京でも襲撃がおき英米は砲撃を加えた。これら列強との交渉を通じて蒋介石は国民政府を代表する存在にのし上がった。1927年4月蒋介石は共産党弾圧を策動し、上海に戒厳令を布き総工会を占拠して強制武装解除した。これを上海クーデターという。蒋は資本家・商工業者の労働争議の是正、治安の回復の要求をうけ、共産党弾圧に踏み切った。その見返りとして公債の引き受け、財政援助を得たのである。こうして蒋と武漢政府との対立は決定的となり、蒋は4月18日に胡漢民を首席とする南京国民党政府を樹立した。武漢に於ける民衆運動の激化と無秩序は汪精衛の目にも余るものがあったようで、コミンテルンからの1927年5月指示は2万人の共産党員の武装、土地革命の実施など国民党が受け入れられない指示を突きつけたものであった。7月15日国民党は共産党員の職務停止を命令し、第1次国共合作は終った。
2) 南京国民政府蒋による上海クーデターと国共分離は、ソ連型革命運動にとっては手痛い敗北であったが、中国国民革命の性格が変わったがこれによって潰えたわけではない。国民党は北伐の過程で帰順した地方の軍民と党軍と南部商工業者と資本家の支援を得て、治安の維持と早期の中国統一を目指した。蒋介石は武漢側と南京側の統一融和のために、1927年8月一時身を引いた。そして蒋は私人の資格で日本を訪問し、対中国武断強硬派の田中義一首相を訪問し、各国の利益を犯さず北伐を続行する蒋の考えを伝え日本の意向を打診したが、得るところ無く帰国した。むしろ成果といえば有馬温泉で湯治中の宋美齢の母親を訪問し、美齢との結婚の承諾を得たことであった。この結婚によって宋一族と婚姻関係を結んで孫文の義弟という位置をえて、美齢の兄の国民党財政部長の宋子文、宋靄齢の夫国民党商工部長孔祥煕との党関係を深め、上海財閥との協力を得る意味でも重要な結婚であったといえる。帰国した蒋は1927年1月国民党革命軍総司令に復職し、党の軍事・政治最高職を兼務した。北伐再開によって党内の求心力を獲得しようとした。国民革命軍は四軍にわかれ、蒋が北方第1軍を、馮玉祥が河南方面第2軍を、閻錫山が山西方面第3軍を、李宗仁が広東方面第4軍司令となった。1927年4月第2次北伐が再開された。張作霖軍閥はもは北伐軍の敵ではなく、蒋らは6月に北京に無血入城した。6月15日国民政府は北伐完了と全国統一を宣言した。北伐を前にして、日本の田中義一内閣は第2次山東出兵を行い、1928年4月済南を占領した。これによりこれまでイギリスを対象とした中国の半帝民族運動が、明確に日本を標的とするようになり、英米両国は日本の出兵を警戒し反対する側に回った。日本は満州権益保護を理由に干渉をほのめかしていたが、1928年6月3日関東軍の謀略で張作霖が乗った列車を爆破した。田中内閣は辞職し「満州某重大事件」とごまかした。このため東北の軍閥張作霖の息子張学良は国民党と手を握ることになった。
国民党政権「南京政府」によって中国は統一され、王正廷外交部長は「不平等条約撤廃」交渉を進めた。アメリカはそれに答えて1927年7月に中国の関税自主権を承認し、11月には国民政府を承認した。イギリス、フランスも1928年の末までには関税条約を改正し国民政府を承認した。日本政府が中国国民政府を承認したのは1929年6月のことであった。関税協定の改正は1930年まで遅れた。ところがソ連との関係は1927年の国共分離で悪化し、国交断絶したままで、1929年5月張学良はハルビンのソ連領事館を捜索。これに対し9月ソ連軍は東北部に侵攻し「泰ソ戦争」となった。結果、ハバロフスク休戦協定が結ばれ従来どおり中東鉄道はソ連が支配し、国民党の期待は無残な結果となった。国内は統一されたといえ、まだ軍政のままであり、これを憲政に移行することが課題となる。国民党の「政党国家」はいわば「プロレタリア独裁」のソ連の体制そのものであった。1928年10月国民党は「訓政綱領」を発表し、憲政への移行期間は6年と定められた。そのため「国民会議」を組織し、1931年に召集された国民会議で「訓政時期約法」が決められた。しかし蒋介石と対立する汪精衛、孫科ら文人政治家との争いに軍人政治家も絡んで、党内闘争が軍事的衝突になることもしばしばであった。この内戦は張学良が蒋介石側につくことで落着した。1932年1月蒋の「国民会議」に反対する胡漢民を蒋が幽閉する事件が起き、反蒋派の汪精衛、孫科らが広東で「国民政府」を樹立すなど迷走が始まった。そこに満州事変が勃発し、反蒋派は再び蒋と連携し、1932年3月南京政府と広東政府は合体し、孫文の息子孫科を首班とする新体制となった。汪を行政院長に、蒋を軍事委員長とする「汪蒋合作」体制がスタートした。満州事変とそれに続く第1次上海事変(1932年1月)に軍事的に対処するには蒋の力によるしかないことから、結局蒋の不動の地位が確立することになった。国内外の戦乱にもかかわらず、国民政府の経済運営は1930年代半ばまで順調に成果を挙げた。工業生産は年10%以上の成長をとげ、不平等条約改正による関税自主権を得て、関税が国家収入の90%ほどをまかなうことになった。また公債を引き受ける金融機関の成長と政府の信用裏づけなど安定した社会に成長した。1928年い中央銀行が設立され、商法・会社法・工場法・銀行法の整備も進んだ。1929年に始まる世界大恐慌も次第に中国経済に影響し、1933年銀の貨幣「両」を「元」に一本化し、1935年には幣制改革を行なって、銀を国有化し紙幣を統一貨幣とした。こうして1936年には中国経済は豊作とあいまって顕著な回復となった。
一方日本は不況のどん底に陥っていた。1931年9月満州軍は奉天の郊外の柳条溝で満鉄を爆破し、張学良のいる奉天を攻撃した。これに対して蒋介石は張に「不抵抗」命令を出していた。当時内戦に手一杯であった蒋は、日本の侵略に対しては交渉と国際連盟への提訴で切り抜けようとした。連盟は日本の撤兵決議を出したが、1932年3月溥儀を担ぎ出して「満州国」樹立を宣言して答えた。連盟はリットン調査団の報告に基づいて2月満州国不承認を採択した。3月日本は連盟を脱退した。戦線は熱河省に拡大し、日本はこれを満州国へ併合した。中国の連盟提訴は残念ながら列強の強い干渉をもたらさなかったが、日本の国際的孤立化が深まったことは確実である。この強引な日本の満州侵略は、中国国内に求心力のある国民意識とナショナリズムを引き起こした。中国の文化人、胡適・丁文江・呉景超・魯迅・宋慶齢の民主論争が起こり、1936年5月憲法草案となった。蒋はバラバラの国民を愛国心や組織へ纏め上げてゆく「国民国家」運動として、「新生活運動」を興し、1928年中央放送局がスタートした。国民国家として政府の国民把握のもとになる主計局(統計局)が1931年に設立された。識字率や就学率も30%ほどに向上し、漢字の略字が制定された。また農村の管理制度として「保甲制度」が県以下のレベルまで浸透し、公的な伝達ルートも次第に整備された。1936年時代の農村の「保甲長懇談会」での象徴的出来事として、「出席者は、保長3人、甲長17人、うち字の読める者は6人、学校設置には頑固に反対であった」という。国民党は大都市に基盤を求めたに対して、文化とはおおよそ無縁な形の民衆社会・農村風景こそが毛沢東の農村革命の舞台なのであった。
3) 共産党の革命運動1927年の国共合作下の武漢で共産党が党大会を開いた時、党員は6万人になっていた。構成は労働者が6割、農民と知識人がそれぞれ2割であった。党の中核部分は知識人である。共産党は会議と文書によって意思の伝達を図るスタイルであるため、文書の読み書きが出来なければどうしょうもない特徴があり、同時に国民党に較べてイデオロギー性の強い政党文化を持っていた。共産党はソ連共産党が指導するコミンテルンの指示で動くため、外国語でコミュニケーションできる知識人が中枢を占めるのである。とはいえ「資本論」が中国語に翻訳されたのは1938年頃である。1927年の国共分離後のコミンテルン総会はその責任を陳独秀の個人責任にされ、陳は中国共産党指導部を追われた。陳の後、矍秋白の暴動路線、李立三の急進路線が失敗し、王明らの駐ソ派と実務派の周恩来が指導権を握った。モスクワには中国革命の指導者を養成する学校が設立され、多くの青年が学んでいたが、彼らを駐ソ派と呼ぶ。国共分離後地下にもぐった共産党活動家を取り締まるため、国民党政府は上海に特区法院『裁判所)を設立し、多くの共産党員を逮捕処刑した。このようにして1930年代半ばまでに都市部の共産党組織はほぼ壊滅した。国共分離後、共産党は葉挺、賀龍、朱徳らの国民党軍の部隊を動かして、1927年8月に南昌蜂起を起こしたが続くものがなく壊滅した。南昌蜂起失敗後共産党は武力蜂起路線を反省し、独自の農村革命理論を生むことになる毛沢東が注目された。都市から農村へ向かう革命運動の流れのなかで、1927年毛沢東は井崗山に入り農村根拠地の拡大活動を開始した。そこへ1928年4月朱徳らが合流し「紅軍」が生まれた。毛沢東を政治委員とし、朱徳を軍事委員とする「朱毛紅軍」が共産党の象徴的存在となった。
共産党が農村で組織しえたものは、「ヤクザ」、「土匪」、「遊民」的存在で全く字を知らない人々であった。しかも共産党支配地では軍事支出ばかりが増大し、徴発や地主土豪の財産没収という一時しのぎの危さに満ちていた。共産党が農村の生活を助けるのではなくますます疲弊させたのである。光沢東は「政権は鉄砲から生まれる」、「農村によって都市を包囲する」というゲリラ戦略を掲げた。李立三の急進路線の時、1930年彭徳懐が長沙を占領しソヴィエト政府を樹立したことに驚いた蒋介石国民党南京政府は1930年11月より1931年7月まで三次に及ぶ共匪包囲作戦を行なったが、完全に壊滅させることは出来なかった。共産党は湖南から福建に至る地域に根拠地を拡大し、1931年11月瑞金において「中華ソヴィエト共和国」の建国を宣言した。政府の首席は毛沢東、副首席には張国Z、軍事委員に朱徳が選ばれた。党の指導部は王明や駐ソ派幹部で、党指導の原則があった。この共和国に対して国民党政府は1932年から1933年に第4次包囲作戦を行なった。この作戦も日本軍の熱河侵攻によって中断を余儀なくされた。日本軍に譲歩して停戦した国民党軍は1933年10月に第5次包囲作戦において蒋は100万の軍を動かし、ようやく共産党の根拠地を壊滅することが出来た。共産党は中央根拠地からの撤退を決意し、1934年10月紅軍主力8万人が西に向けて移動を開始した。これが「長征」の始まりである。毛沢東・朱徳の第1軍は瑞金を脱出し、ひたすら西へ逃げ、貴州の遵義において湖南北西にいた賀龍の第2軍と合流した。1935年1月遵義会議において毛沢東は党指導部を鋭く批判して、周恩来、張聞天らの駐ソ派の論破と切りくずしに成功し、毛沢東は政治局常務委員になり、毛沢東、周恩来、王稼祥の3人の軍事指導体制がなった。そして雲南の昆明から北上し、四川において張国Zの第4軍と合流、張国Zは新疆からソ連へルート開発を主張して毛らと対立したが、毛は強引に北上を開始し取り残された張は国民軍に包囲され兵力を失って失脚した。1936年10月第1、2、4軍は甘粛省の会寧で合流し延安について長征の伝説ドラマは終了した。要するに共産党の「長征」は当時の中国の辺境線をなぞるもので、辛うじて国内か危ければ国外へ逃げる行路である。それを追う国民党軍は紅軍を包囲殲滅することは出来なかったが、それまで中央軍が及ばなかった湖南、貴州、雲南、四川に軍を進め、道路建設や地方政権の掌握に努め、統治範囲を拡大することに成功したといえる。
4) 日本帝国の侵略と抗日民族統一戦線1933年2月の関東軍の熱河作戦は関内に進み、5月日本側の一方的な要求を呑む形で停戦協定(塘沽協定)が結ばれた。ここに長城以北を満州国領とする軍事境界線が事実上確定したことになった。しかし国民政府は満州国を承認したことではない。あくまで地方軍と関東軍のと停戦協定に過ぎないという態度で、日本側からすると軍部と中国の出先機関との間で処理されるという「現地解決方式」が定着した。1943年3月溥儀が皇帝の即位したことで、日本の天皇制に倣った帝制になった。日本は満州国を、国家総動員体制の資源供給基地とするだけでなく、重化学工業の建設、対ソ戦の戦略的基地と位置づけた。そして不況にあえぐ日本の農民を入植させた。つまり植民地化した。日本人開拓移民は1945年までに約30万人に達したという。中国東北部の抵抗運動は「反満抗日」ゲリラとして止むことはなかった。1936年ソ連から派遣された楊松が抗日運動を指揮し、紅軍から改編された東北抗日連軍が編成された。1937年夏には東北抗日連軍隊員は約4万人となり、ゲリラ戦を展開した。この中には朝鮮人も多く参加し、金日成らも活動していたと伝えられる。1933年9月広田弘毅外相が就任し和協外交を展開したので、1936年11月の綏遠事件までの3年半ほどは日中間に大きな戦争は起きなかった。その間も支那派遣軍との間で現地解決方式はいくつか結ばれており、日本外務省もそれを承認していた。こうした現地解決方式は中国周辺部の自治の動きを関東軍が支持し、中国の主権の剥離が進行していた。関東軍は河北、チャハル部や綏遠省のモンゴル族地域で華北分離工作を行い、中央との結びつきの薄い地域で親日派政権の樹立が進められた。国民党政府の対日交渉がこうした際限のない妥協を繰り返していたため、抗日を求める声が全国へ波及した。国民党政権は反日運動を厳しく取り締まったため、1935年12月大規模な反日デモが北京で起こった。日本の分離工作によって国民党勢力が華北より後退し、代わって共産党組織が浸透した。
蒋介石は日本の対中侵略は必然的に列強の干渉を招くと読んで、英米との関係改善のみならず、ドイツとの公易特にドイツからの兵器輸入とドイツ軍事顧問団の受け入れを進めた。またソ連は日本の満州事変をソ連への圧力と感じて、1935年中東鉄道を満州国へ売却した。日本の矛先をソ連に向けようとする中国と、中国を楯にして日本の侵略の緩衝地帯化しようとするソ連の思惑が入り組んで、中ソ両国の接近が始まった。1927年以来中国共産党包囲作戦で死闘を繰り返し、壊滅したはずの共産党組織が延安で復活しているのを見た蒋介石は、様々な人脈のルートを辿って共産党との交渉を始め、1936年になって正式な代表による交渉が一本化された。1936年1月日本の岡田内閣は「北支処理要綱」を策定し、華北5省(河北、チャハル、綏遠、山西、山東)の分離を国策とした。1936年11月内モンゴルの独立工作を進め、徳王を総裁とする「蒙古軍政府」を樹立した。国民党政府はこれを承認しなかった。蒋の命により東北の雄張学良は1935年秋15万の軍を率いて、陜西省北部の共産党掃討作戦に赴いた。意外に頑強な反撃に手を焼いた張は、「抗日民族統一戦線」の結成を唱える共産党と手を組む事を決め、相互不可侵の取り決めが成立した。張は共産党を「一致抗日」の同盟者とみなし、国民党軍の楊虎城もそれに同調した。張は共産党への入党を申請したが、コミンテルン・ソ連はあくまで国民党政府を正統とする「抗日民族統一戦線戦」にこだわり、張を軍閥の1人に過ぎないとして入党を認めなかった(孫文未亡人宋慶齢は共産党に入党していた)。蒋介石は1936年10月第6次包囲作戦を発動し、12月4日張・楊を督戦するために西安に入った。張・楊は蒋の「諫言」を試みたが入れられず、軟禁して「兵諫」に及んだ。直ちに共産党の周恩来は西安に呼ばれ、国民党の宋子文も西安に入り蒋説得に赴いた。周恩来は共産党宣伝の停止、蒋の指揮に紅軍が従がうことを約束し、蒋は共産党討伐の停止、容共抗日を約束した。こうして12月12日蒋は南京に帰り、蒋介石への期待は一気に高まり、抗日民族統一戦線が成立した。
5) 抗日戦争から第2次世界大戦へ1901年清朝との間で結ばれた北京議定書によって列国は北京公使館と北京ー山海との連絡沿線への駐兵権を獲得し、また天津への駐兵権を得ていた。支那派遣軍は1600人が認められていたが、1936年には5600人に膨れ上がっていた。日本軍が新たに進駐した豊台は天津・武漢から北京への要路にあたり北京の孤立化も可能な位置であった。これに中国政府は抗議したが、日本軍はかまわず、宋哲元の第29軍に隣接して豊台・盧溝橋で頻繁に演習を行なった。1937年7月7日ここに盧溝橋軍隊間の衝突がおき、日本の近衛文麿内閣は「現地解決・不拡大」の方針を出したが、中国軍の北上にあわせて、日本政府は「北支事変」と呼び、7月28日日本軍による平津への全面攻撃が始まった。蒋は「盧山談話」を発表し、「真に避けられないなら抗戦あるのみ」という両面のシグナルを送ったが、日本は30日までに天津、北京を攻撃した。戦火は8月13日上海へ波及し第2次上海事変の勃発となった。蒋介石は華北よりも列強の権益が集中する上海を決戦場に選び、列強の関心を引く戦略に出た。当初は中国軍は空爆を含めて有利な展開を見せたが、日本軍の派遣増大により最も凄惨な攻防が続いた。日本軍の宣戦布告なき日中戦争はアメリカの「中立法」による経済封鎖を避けるための便宣に過ぎず事実上の戦争であった。日本の進出に最も脅威を抱くソ連がが中国に手を差し伸べた。8月21日中ソ不可侵条約が締結され、軍事援助を行い1940年まで中国の最大の援助国となった。条約締結を受けて、国民政府軍事委員会は中共紅軍を国民革命軍第8路軍に改編した。中国は英米に働きかけ連盟に日本制裁を要求した。11月九カ国条約会議(ブリュッセル会議)が開かれたが、ソ連が制裁を支持したのみで英米は煮え切らない態度であった。この上海戦に日本軍は20万人を投入し、国民政府軍は40万人をつぎ込んだ。1937年11月上海は日本軍の手に落ち、総崩れとなった国民政府は南京から重慶に避難した。南京陥落後逃げ場を失った大量の中国人を日本軍が集団殺戮した。これを「南京大虐殺」という。中国軍の弱さは、それが予備役・後備役兵の混成部隊で、現役兵は17%に過ぎなかったことにあるといわれる。南京陥落後も、中国政府は抗戦を続けた。ドイツを中に立てたトラウトマン停戦工作は打ち切られ、1938年1月日本政府は「国民党政府を相手にせず」と第1次近衛声明を出し、傀儡政権樹立へと戦略を変えた。現地軍によって次々地方傀儡政権が立てられた
上海・南京陥落は蒋介石政権はにとって大きな打撃であったが、抗日戦意は高まりかってない求心力を生じた。1937年9月23日蒋介石は共産党の合法的地位を認め第2次国共合作が成立した。中国国民政府は「抗戦建国綱領」を採択し、「国民参政会」を設置した。この国民の諮問機関には共産党・青年党・少党派など幅広い人々が集まった。1928年5月日本軍は徐州へ、8月には武漢へ、広州を占領した。今回の国民党政府は軍事的敗北を受けても決して降伏はせず抗戦を続けた。そこが中国ナショナリズムの誕生なのであり、それを生んだのは日本の侵略であった。莫大な損害を蒙りながらも、日本の反面教師的役割で中国の近代的国民が誕生したといえる。そして日本軍を中国大陸の奥深く誘い込んだ持久消耗戦に対して、100万人近い軍隊を派遣した日本には近衛師団しか残っていなかった。兵站は伸びきってもはや新たな増兵は不可能であった。蒋介石は11月の軍事会議で政治部の強化、民衆の動員、有激戦の推進を中心とした持久戦の方針を打ち出した。この戦略を強調したのは共産党の毛沢東の「持久戦を論ず」である。抗日戦争が「戦略的退却、対峙、反攻」の三段階を経るという見通しで、民衆の動員がかぎとなると述べている。毛は「抗日根拠地」を農村に浸透させる戦術をとり、ソ連派とは意見の違う自主独立路線を守った。1938年11月、国民党政府を重慶に追い込んだ日本政府は第2次近衛声明を発表し、大東亜新秩序に賛同するなら国民党政権でもかまわないと、汪精衛を誘い出した。「和平救国」を唱えて汪精衛は重慶を脱出した。「日支新関係調整方針」を決めていた日本政府は汪をペテンにかけていた。撤兵もせず、次々と要求を突きつけ1940年南京で汪精衛の「国民政府」(傀儡)を樹立した。しかし汪の支配地は江蘇、浙江、安徽の三省に止まった。しかも中国国民の支持はなく、国際的な承認はドイツ・イタリアだけであった。戦争が対峙状態にはいると、日本は戦闘力の高い師団を日本に呼び戻し、現地には警備用師団と混成旅団を展開させた。それは1939年のソ連とのノモンハン事件、欧州情勢の急展開によるものであった。占領地の治安維持を目的に広範な地域に小部隊を分散配置した。その分散配置の背後を八路軍が襲った。国民政府は奥地への工場移転と援助物質運輸ルートの確保のため奥地「大後方」の経済開発が盛んにおこなわれた。ビルマルート、仏印ルート、西北ルートの開発がそれである。日本軍が援蒋ルートの遮断を図るべく1940年9月仏印に進駐したことは、英米仏の反発を呼び日中戦争の世界大戦への変質に繋がった。
日本の中国侵略は、直ちに英米仏ソの権益を侵すわけではなかったので、直ちに国際的干渉を招かなかったが、長江封鎖、天津租界封鎖、偏狭な東亜新秩序は欧米の反発をうみ、道義的支持を超えて実質的援中制日へと転換させた。1939年9月第2次世界大戦が欧州で勃発したのを受けて、日中関係が国際化した。世界大戦の初期フランス、オランダの敗戦を見て、1940年7月日本は火事場泥棒のように「南進」政策に踏み切った。それは援蒋ルートを遮断する狙いもあったが、本来東南アジアの資源を確保することが目的であった。日本の北部仏印進駐を見たアメリカは数度にわたる重慶国民政府への物資援助と借款を行なった。アメリカは日本に対する制裁に踏み切り、在米資産凍結、石油輸出禁止を行い、1941年11月日本軍の中国・仏印からの完全撤退を求める「ハルノート」を提示した。そしてこれが1941年12月8日日本の対米英宣戦布告にいたるのであった。太平洋戦争においてアメリカにとって日本を孤立化させるため、中国の存在価値は大きくなった。1942年1月英米ソなど25カ国は「連合国共同宣言」に調印し、中国は連合国軍に加わった。これを受けてアメリカは重慶政府に参謀長としてスティルウエル将軍を派遣した。米英は1942年10月中国との不平等条約の廃棄を、翌1月には治外法権撤廃の条約を結んだ。ソ連は「独ソ不可侵条約」、「日ソ不可侵条約」を結ぶなど、自国の安全を重視する時間稼ぎをおこなう等国際的な不信をまねいた。ソ連は満州・モンゴル・トルキスタンでは中国の主権を踏みにじって軍を南下させた。1942年の後半以降日本軍はアメリカに手痛い敗北を喫し、重慶包囲作戦も中止せざるをなくなり、もはや中国戦線で攻勢に出る余裕もなくなった。一方重慶政府は1942年「国家総動員法」を実施したが、国内のインフレ・物不足から来る官僚軍隊の腐敗や密輸が後を絶たなかった。
国民党が重慶政府で腐敗堕落を極める中で、共産党は解放区で1942年ごろから「整風運動」という毛沢東思想一色化が進行した。親ソ派を「教条主義」と攻撃し自己批判させた(スターリンの粛清とは一味違うが)。周恩来にも自己批判を強いて、周はこれ以来永遠に毛に服従するに至った。1943年3月毛は党内で「最終決定権」を持つことが承認され独裁的権威が成立した。1943年以降連合軍側の勝利が相次ぎ、9月イタリアが降伏し11月に米英中のカイロ会談で日本に対して、無条件降伏、台湾・満州の返還、朝鮮の独立などを要求した。1945年2月のヤルタ密約ではソ連の参戦を促すため中国の主権を侵害した形で結ばれた。ヤルタ密約でアメリカにすれば、中国大陸での日本軍を壊滅させる力は中国軍には期待できなかったので、ソ連の対日参戦を促したのである。5月ドイツの降伏がなってソ連の日本への宣戦布告が秒読みになる時点で、8月14日中ソ友好同盟条約が結ばれ、東北の主権を中国が有すること、新疆の管理権は中国にある事、中国共産党をソ連が支援しないことを約束させた。1945年7月「ポツダム宣言」、8月6日、9日広島・長崎の原爆投下、8月8日ソ連の宣戦布告によって、8月15日日本は無条件降伏した。この日中戦争で中国側の死傷者は350万人、日本側は50万人といわれている。終戦時の日本軍は44師団、105万人であった。