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岩波新書編集部編 「日本の近現代史をどうみるか」
シリーズ日本近現代史I 

 岩波新書 (2010年2月)

現代歴史学が問う、今に至る日本の通史

本書は2006年より刊行されてきた岩波新書「シリーズの日本近現代史」の最後となるNo.10 である。近代の幕開けを告げた幕末の開国から150年余、日本はどのように歩んできたのだろうかということは、教科書で学びさらに多くの歴史に関する書物を読んで来たが、何度読んでもその都度の観点があって面白いものである。「新日本史」高校教科書では家永三郎氏の歴史観があり、書き換えを命じる自民党政府の歴史観と争ってきた経緯が思い出される。「教科書検定は憲法違反である」とする家永氏の主張は1997年の最高裁判決で敗訴となったが、32年間も争ったことは稀代のことである。さほど日本史は政治問題化しやすい。これをどう見るかは今の現状をどうしたいかとほとんど同価値であるからだ。特に現代史はどの立場に立つかで、数多くの「歴史」が現れるのである。岩波新書の立場については本シリーズの著者及び内容を検討すれば自ずと明らかになるだろう。それはさておき、まず岩波新書「シリーズの日本近現代史」の全巻を下記に記す。
@ 第1巻 幕末・維新 井上勝生
A 第2卷 民権と憲法 牧原憲夫
B 第3巻 日清・日露戦争 原田敬一
C 第4巻 大正デモクラシー 成田龍一
D 第5巻 満州事変から日中戦争へ 加藤陽子
E 第6巻 アジア・太平洋戦争 吉田裕
F 第7巻 占領と改革 雨宮昭一
G 第8巻 高度経済成長 武田晴人
H 第9巻 ポスト戦後社会 吉見俊哉
I 第10巻 日本の近現代史をどうみるか 

本書第10巻(本書)は通史を書いた執筆者9名が各時代の日本を理解する上で欠かせない根本的な問いを掲げ、そしてそれに答える形でシリーズを締めくくる最終巻である。各新書1冊を要約するというよりは、各書を貫いた基本的な問い(問題設定)と答えをまとめたものと理解したい。下記に各執筆者の問いを列記する。
@ 第1章 幕末期、欧米に対して日本の自立はどのようにして守られたのか (井上勝生)
A 第2章 なぜ明治の国家は天皇を必要としたのか (牧原憲夫)
B 第3章 日清・日露戦争は日本の何を変えたのか (原田敬一)
C 第4章 大正デモクラシーとはドンナデモクラシーだったのか (成田龍一)
D 第5章 1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか (加藤陽子)
E 第6章 なぜ開戦を回避できなかったか (吉田裕)
F 第7章 占領改革は日本を変えたのか (雨宮昭一)
G 第8章 なぜ日本は高度経済成長をできたのか (武田晴人)
H 第9章 歴史はどこへ行くのか (吉見俊哉)
「上の問いから3問選んで1000字以内で記述せよ」という試験の小論文の課題になりそうな質問である。さてどう答えられるだろう、どう答えれば正解なのか。おそらく正解は無いだろう、価値観で答えは違うのだから。

「歴史学は問いかけと回答をともに提示するものだ、通史の試みは、この問いと回答の営みにほかならない」と成田龍一氏は本書末尾で述べられている。遠山茂樹・今井精一・藤原彰著「昭和史」(岩波新書新版1959年)では「なぜ私たち国民が戦争に巻き込まれ、おしながされたのか、なぜ国民の力でこれを防ぐことができなかったのか」という問いを立てた。現代歴史学はつねに今との緊張関係にある。つまりグローバリゼーションと呼ばれる潮流とどう向かい合うかを念頭において歴史を書かなければならないと成田氏はいう。教科書は通史のひとつの型を示している。原始古代から近現代までを時間的に追いながら、政治経済、国際情勢、民衆、文化など多くの領域に目を配りながらまとまった歴史像を提供している。読む側からすると通史は歴史の入り口であり、総合的な理解を提供するものであろう。教科書から一歩進んで読むのが新書版という、単行本と違った、読みやすい量でナウな感覚で読める通史である。新書版では基本的な事を描くことで精一杯である。何が求められているかを手短にまとめる必要があり、突っ込んだ解析やディテールに入る余裕は無い。そしてある程度時代に共有された認識を前提としている。明治以来の歴史は一貫して「近代的国民の形成」である。国家主導と民衆主権の相克の歴史であった。この岩波新書シリーズでは編集部は「軍隊」、「家族」、「植民地」を軸に展開したという。全シリーズを読むかどうかは、この本を読んでから考えたい。では次の9つの歴史的問いと答えを考えよう。

第1 幕末期、欧米に対して日本の自立はどのようにして守られたのか (井上勝生)

幕末から明治初期にかけて日本の独立はどうして守られたのかという問いに対して、私が聴かされてきた理由の第一は、アメリカは国内の南北戦争(1861-1865年)で手一杯で、ロシアと欧州(英仏)はクリミヤ戦争(1853-1855年)で交戦中であり、東洋の孤島まで手が出せなかったからだという。しかし清王朝はアヘン戦争(1840年)で敗北し、それ以来英、米、仏、露との条約によって領土の幾つかかを掠め取られた。1860年には英仏軍は北京に入城した。1874年には新興国日本の明治政府は台湾に出兵している。巨象清帝国は音を立てて崩壊した。日本では1863年の薩英戦争、1864年の英米仏蘭連合艦隊による下関戦争で欧米列強との戦争を経験したが、急激な攘夷から開国への方針変更と日本の巨象徳川幕府の崩壊によって、かろうじて欧米列強の侵食を阻んだ。もともと世界の資本主義や帝国主義の産業商業システムは、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域の豊富な資源と膨大な市場を獲得して繁栄してきたのである。欧米露が19世紀中頃から急速な植民地主義的膨張を遂げた。その中で近代になりきれていない東アジアの国々が彼らの圧倒的な軍事力を背景とした経済進出の餌食になるのはある意味で当然である。しかし日本の開国の歴史は欧米の動きだけからでは説明できないものがある。日本の側から説明する必要がある。1853年6月3日ペリー艦隊4隻が浦賀沖に停泊して、日本の開国史が始まった。

ペリーは書簡の冒頭で徳川将軍に「日本皇帝閣下に呈する」とはじめて、最初から砲艦外交を展開した。何かいえば不測の事態(戦争)をちらつかせたのである。これに対して幕府高官は「国にはその国の国法これあり・・・」と、圧倒的な軍事力格差のもとで精一杯の論理的外交交渉を始めた。下田と函館を開港した1854年の日米和親条約の改定を巡って、下田奉行とハリスの交渉は険悪になり、戦争をしきりに口にしてヤクザまがいの威嚇にでるハリスに対して、下田奉行は「既に和親条約を結んでいる以上、永世にわたり誠実に交渉するのが大道ではないか」と冷静にやり返した。結んだ条約は決して無駄ではない、これで敵を縛ることが出来るのだという外交の論理は見事である。1858年に日米修好条約が(同じ条約は英仏蘭露国とも結ばれた)、幕臣井上清直、岩瀬忠震とハリスの間に結ばれた。これは不平等条約といわれるが、日本の法治国家の体制としては決して、不平等ではなくこれしかなかったのである。徳川幕府の幕藩体制では日本は主権国家ではなく、大名の支配する藩国内では大名が裁判権を有していた。つまり裁判権は分散していたので、国家としての裁判制度はなかった。領事裁判権は結局明治政府によって中央集権国家がまがりなりにも誕生し、1899年に日本に裁判制度が出来上がるまでその解消は出来なかったのである。ペリーが幕府全権林大学頭に自由貿易を迫ったときや、ロシアのプチャーチンが幕臣川路聖謨と通商の論争において、「自由貿易は相互に利益があるのだから」と迫るが、川路は「日本は素っ裸になってしまう」と抵抗した。貿易は後進国にとって両刃の刃である事を幕臣は知っていたのだ。次に外国人商人の旅行権の問題である。清国は1958年の天津条約で中国全土の旅行権を承認して、地方までが違法に近い手口で国内市場が荒されたことを知っていた幕臣は外国人の旅行範囲を10里以内と制限した。幕末横浜に集結した生糸商人の力で外国商人の国内市場破壊とかく乱を防いだのである。ハリスは旅行の無制限許可を求めるが、井上は「貿易を開けば諸商人は横浜に蝟集して大都会となる。そこに全国の産物が集まる。国内商人といえど産地にまで出向くことは無い」と反論したという。幕臣は経済の実態を知っていて、ハリスの論を破ったのである。

これまで歴史観では、開国期に無為無策の幕府が、一方的に不平等な条約を認めさせられ、それに対して条約反対という世論を受けた天皇と公家が条約を拒否し、ここから幕末の討幕運動が始まるという物語が作られてきた。とんでもない、頑固一徹の外国人知らずの天皇周辺が出来もしない攘夷論を振り回し、幕府に異人打ち払いを要求したまでの事である。薩英戦争、下関戦争で欧米の力を身で知った西南諸侯が一転開国による近代技術の導入方針に変更した。さらに倒幕運動に英国を幕府への圧力として利用した。あまりに頑迷な攘夷一点張りの孝明天皇はすでに薩長にとって障害物となっていたので、長州は孝明天皇を暗殺したという噂をアーネスト・サトウは「1外交官のみた明治維新」に書いている(これがためこの書は明治時代には禁書であった)。幕府の外交方針は漸進的開国路線であった。幕末は日本の自立の出発点である。外交のできる幕臣を生み出した日本の政治的な成熟、江戸末期の経済的成長が日本の民族的自立の基盤となったのである。明治政府の歴史の歪曲を真に受けて、江戸末期の成熟を見逃しては正当な開国近代化のプロセスは理解できない。明治政府初期の能力ある官僚は殆どが幕臣であったこともそれを裏付ける。

第2 なぜ明治の国家は天皇を必要としたのか (牧原憲夫)

これに対する回答はいうまでも無く、美濃部達吉の「天皇機関説」に直結する。神権的天皇がアプリオリに存在したからではなく、天皇制は明治政府の近代国家作りの有力な手段として形成されたものである。最近の歴史学では短期間で近代国家の基礎を固めた明治天皇の功績を評価する見解が有力になっている。この時期の政治構造は明治政府と民権派とそして民衆の3極構造で捉えるべきで、自由民権運動は、近代的権利論(参政権)や自由競争による近代社会形成と富を獲得する国権拡張主義を政府と共有して、議会開設の主導権を巡って争った。その中で明治天皇がはたした役割が注目される。明治維新とは、公家と武家の伝統的支配体制の破壊による近代国家の形成が目的であった。明治天皇は開花の模範として最高の文明のブランドに仕立て上げられたのである。このことは飛鳥時代の仏教文明の摂取、奈良時代の唐律令制度の導入における天皇の権威確立という手法の経験の再現であった。天皇の権威確立には明治政府は随分苦労している。民衆は当時天皇なんて存在は殆ど知らなかったのである。知っていたのは領主と徳川様だけだった。天皇の全国巡幸をあまねく実施し天皇の宣伝に務めた。天皇が政府の中で一定の存在感を示すのは、大久保利通の暗殺後、絶対的指導者を失い政府内で対立が深まった時である。天皇の裁定で混乱を逃げる手段として天皇はようやく働きを見せるにいたるのである。しかし欧州の絶対君主のように君主の意思がストレートに政治を動かすことの危険性を熟知した政府は、「君民同治」の立憲制を目指した。帝国憲法が立憲主義と天皇大権とセットになったのは、けだし当然の成り行きである。中国の易姓革命論を退け「万世一系」を採用したのは、天皇の無力化と近代的立憲君主制にとって必要であったからだ。近代天皇は西欧化の象徴として、あるときには権力機構の調整役として、また権力の防禦壁として創出されたのである。欽定憲法は議院内閣制でなかったため、議会と政府の関係が不安定で、議会に無視した「超然内閣」も1898年の憲政党内閣まで存在した。大正時代から一転して天皇の存在が影の薄いものになった。天皇が再び政府にとって利用価値を見出されるのは昭和ファッシズムの時代になってからである。

第3 日清・日露戦争は日本の何を変えたのか (原田敬一)

答えは、悲しいかな戦争によって近代国家の社会と国民が形成されたのである。我々が普通に使っている「日本国民」という実態が出来上がったのである。「天皇陛下万歳」といって日比谷公園の交番を焼き討ちにすることで国民がひとつになったのである。日清戦争の報道によって全国に「戦争熱」が生み出され、扶養家族的な意識しかなかった、おらが村の町衆が「国民」という意識を持つようになった。新聞、雑誌といったマスメディアの発達がなければ、全国一律の情報と雰囲気は盛り上がらなかった。福沢諭吉、加藤弘之、西周といった旧幕臣らの翻訳で欧米の思想が輸入され、学制が整備され官僚養成の帝国大学以外に、多くの官公私立の専門学校が高学歴人材養成に大きく貢献した。国民の知的水準が大きく向上した。日清・日露戦争を経て,台湾、南樺太、朝鮮という外部植民地社会が獲得され、日本という国家意識も確立された。そしてそれは列強と並ぶ帝国主義の世界体制を維持する軍事的色彩の濃い社会へと変貌させた。日本が持続的戦争意志を持つのは日清戦争後のことで、大陸に確保した利権や植民地を拡大する意欲に突き動かされ、アジア太平洋戦争まで続く日本国家の姿を形作った。

第4 大正デモクラシーとはどんなデモクラシーだったのか (成田龍一)

大正デモクラシーという言い方は実は1955年ごろから使用されたもので、1900年から1930年までの日本の動きをデモクラシーという観点で捉えようとする歴史認識である。ところが「大正デモクラシー」とは実に危うい・果敢ない・一時の夢だったのかもしれないほど、実態の薄い、歴史への影響力の少ない現象で、あっという間に昭和ファッシズムに飲み込まれてしまった。デモクラシーの内容とは、政党政治の実現と社会運動の活性化をさす。吉野作造はこれを天皇制欽定憲法と矛盾しないように、「民主主義」とはいわず「民本主義」と言い換えた。国家権力は日露戦争後の社会運動を「大逆事件」をでっち上げて抹殺し、デモクラシーの圧迫者として強権を振るう。大正デモクラシーというものがあったなら、それは近代国民の成長と国家主義といった2つの極の思想の狭間で苦悩する日本のことであった。基本的に海外権益拡大路線を是認する限り、日本の政治・社会運動は社会民主主義から変質して、戦争をきっかけに国家社会主義へと傾斜してゆく。もちろん、平沢計七、山本宣治、小林多喜二の虐殺に象徴される国家による弾圧という片方の力が押しやった結果であるが。

第5 1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか (加藤陽子)

満州事変から日中戦争への時代、そこで闘われたのは、軍事力、経済力とともに言葉の力が戦われたという見解を示す。「国際法理論の言葉を巡る闘い」これが筆者の答えである。言葉のジレンマとは1937年のアメリカの中立法の成立がネックとなる。1930年代のアメリカが、古典的な中立の概念を変更し、中立法を経済制裁の手段として用いたことである。1941年アメリカは「現在行なわれている侵略戦争は国際共同体に対する内乱である。米国らは差別的措置を取る権利を有する」として、中立法のもとで禁輸という経済措置をとった。軍事力で相手国民を殲滅するコことと、禁輸という経済措置で相手国民を餓死に追いやることにどれだけの違いがあると云うのだろう。当時の国際法のシステムの中でアメリカは国際法を破るアンチシステムの国として弾力性を発揮する。「真の権力者とは自らの概念や用語を定めるものである」とカール・シュミットはいう。日中戦争がアメリカ大統領により戦争と認定されれば、アメリカ金融市場を通じた決済や資金調達は不可能となる。だから日本は日中戦争を宣戦布告しなかった理由は、アメリカ中立法を避けるためであった。第1次近衛文麿内閣とそのブレーン「昭和研究会」は日中戦争を「一種の匪賊討伐戦」と定義した。政府間の戦争とはいわなかった。今でいえば「対テロ戦」であらゆるアメリカの軍事行動が許される事態に酷似している。「国民政府を相手とせず」、「大東亜新秩序」、「近衛友好外交三原則」とい支離滅裂な声明で、日本の行為を正当化しようと努めた。そしてその言葉を巡る闘いは敗戦後の東京裁判にも発揮された。連合軍は侵略戦争を犯罪と見なす、戦争指導者を特定し戦争責任の罪を問うというもので、従来の国際法にはなかった見解である。従来の法の縛りに拘束されないで、自由に相手国戦争指導者を処刑出来るのである。これがアメリカのやり方で、イラク戦争で存分に見せ付けられた。

第6 なぜ開戦を回避できなかったか (吉田裕)

太平洋戦争開始当時アメリカのGDPは日本の12倍もあった。国力で見る限り日米戦争は無謀な戦争であった。しかし1941年11月15日大本営会議は「対米英蘭蒋戦争終結促進に関する腹案」を決定した。ここで、南方の資源を確保し、アメリカの主力艦隊を撃滅させ、日独伊三国の圧力で米英の戦意をそぎ、中国の蒋介石を屈服させるという施策で有利な講和に持ち込むというものであった。この程度の戦略的見通ししか持ち得なかったところに、この戦争の無謀さが示されている。なぜこの無謀な戦争が避けられなかったかという理由の第1は、「統帥権の独立」を楯に軍部の独走を総理大臣といえどコントロールできなかったことである。第2に政治主体が不明瞭で誰にも決定権がなかったことである。誰かが言ったように「権力は中枢に行くほど空虚である」ということだ。第3に泥沼状態の日中戦争が太平洋戦争を誘導したことである。すると日中戦争を決意した近衛文麿の戦争責任は重いといわざるを得ない。敗戦後、日本の戦争責任の検証は十分なされなかったといえる。それは冷戦への移行によって,アメリカは日本の民主化や戦争責任追及の熱意を失い、政策の軸を日本の経済復興と親米政権の育成に切り替えたことである。形式的にも戦争責任者であった昭和天皇は退位も謝罪もしなかった。沖縄も広島にも行かなかった。これに対して国民の間には深いわだかまりが残っている。

第7 占領改革は日本を変えたのか (雨宮昭一)

戦後体制の次のシステムを考えるとき、多様な主体が多様な選択肢を持ち、多様な可能性を「IF」ではなく、現在も現実的な可能性として捉えることが歴史的想像力というものであると筆者は主張する。それほど占領期の日本は可能性に満ち溢れていたといえる。占領政策を事実のレベル、システムのレベル、認識のメタレベルの三段階で検証するという。第1の問題はGHQの政策の検証である。第2の問題は戦時中の総力戦体制論という内務官僚が作った国民生活の制度が戦後も生かされている点である。第3の問題はアメリカの無条件降伏と戦後復興成功モデルの検証である。55体制は保守と革新の言論空間であったものの、潜在的に自由主義と協同主義という軸が存在していたという。筆者はとくに総力戦体制によって、社会の変革が進み、現在まで続く社会福祉の原型が作られていたとする。戦中の岸信介ら革新的官僚は国家統制派という上からの協同主義者であった。芦田均、鳩山一郎、吉田茂ら戦後の政治家は明確な自由主義者である。高度経済成長の時代には、資本のヘゲモニーのもとで協同主義が自由主義と接合された稀有な幸福な時代であった。1990年代の低成長時代になって、新自由主義のあり方が社会福祉の底を抜いたのである。日本には戦中戦後と自由主義と協同主義という軸が存在していたのである。これを見逃しては、GHQの改革という新憲法下での日本社会の変化は捉えられない。

第8 なぜ日本は高度経済成長をできたのか (武田晴人)

答えは日本経済の高度成長は例外ではなく、中国、韓国台湾らの例が示すごとく、キャッチアップの効率のよさ(解答を知った上の作業)と、後進国(開発途上国)がいつかは達成できることであった。「なぜ日本だけが高度成長できたのか」という問いは、中国の例を知るまでの歴史的な問いに過ぎなかったということが回答である。日本が優秀であったというのは神話である。まして官僚がこれを主導したというのは全くの後付けの作り話であった。高度経済成長の可能性を持つのは後進国の特権である。追いついたところで後発国の有利性は消えるのである。日本のように。先進工業国は、高い経済成長によって生産性の向上と完全雇用の実現という二つの目標を両立させることが出来る。経済規模の拡大路線が破綻した今、ゼロ成長で人々がいかに豊かな生活を送りうるかが問題となったのだ。世界の最終的消費大国であるアメリカはいまもなお高い個人消費の伸びに拘っている。政府が経済成長に何らの役割を果たすことが出来るというのはおそらく政治家の嘘であり、過去、経済成長に政治家の果たした功績はゼロであり、経済成長の恩恵を受けたに過ぎない。日銀が金利をコントロールするだけの役割が政府の仕事である。呼び水ではなく真水をばら撒いて、公共工事に走った自民党政治は崩壊し、社会福祉に重点を置く民主党は財政赤字を解消するどころかさらに悪化させている。自民党政治での成功は吉田内閣の「軽武装」方針が経済に圧迫を与えなかったことである。

第9 歴史はどこへ行くのか (吉見俊哉)

1990年以降は55体制の崩壊である。バブル経済の崩壊と自民党単独政権の終りは阪神淡路大震災が象徴した。そして現れたのが金融工学に典型的に現れるグロバリゼーションである。工業は製造業の経済から、情報サービス業に資本へ移行した。製造業の海外流出と非正規雇用は急激な社会の不安定化を引き起こした。1人巨万の富を世界から略奪したアメリカの金融資本は、ブッシュの戦争政策で生き延びたが、2008年金融不安から世界不況を引き起こした。経済は金融の「虚構の全面化」となり、社会のリアリティが失われた。「歴史はどこへ行くのか」という問いの答えは無い。経済の一歩先が全く分らないのに世界がどこへ行くかという問いは不遜である。


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