吉田 武氏は「オイラーの贈り物」(東海大学出版会)の著者でもある、京都大学工学部数理工学の教授である。専門は数学・物理学だそうだ。大変ユニークな執筆活動を行なっている大学教授である。私は読んだことは無いが分厚いことで有名な「虚数の情緒:中学生からの全方位独学法」(東海大学出版会)などの著者である。著者をどうも「ちゅうがくせのための・・・」という言葉が好きなようで、本書「私の速水御舟」にも「中学生からの日本画鑑賞法」という副題がついているが、私は無視した。たしかに吉田 武氏の文章は易しく書かれているが、決して中学生が理解できるとは思えない内容を含んでいる。本書は速水御舟の傑作を9枚選んで(9枚の数については、今村紫紅が興した日本画革新グループ「赤曜会」のメンバー9名にちなんでいるようだ)その観賞・感想・考察・資料を各論的に述べたものである。そしてこの各論の最後に「日本画の絶対定義について」という一般論を展開する。著者は科学者である事から、芸術と科学の比較・類推が挿入され、確かにユニークな論となっている。「科学」と「芸術」は独創性が生命でありそれを成しえた人は「天才」と呼ばれ、「技術」と「芸能」は伝達、再現の能力によって「名人」、「職人」と呼ばれる。日本は技術立国による製造技術において世界に冠たる伝統を築き、その「造り込み」の深さは追随を許さない。著者は科学の世界的絶対基準である独創性によって芸術作品を評価するもので、「日本画の最高の独創性を示した巨人が速水御舟である」と断言する。この辺りの評価については人それぞれで異論は出るだろうが、御舟は歴史に残る日本画家のひとりには数えられるだろう。著者が御舟にほれ込むあまり、過激で不適切な言葉がほとばしるが、それはご愛嬌として聞き飛ばせばいい。独創的な芸術家の末路は悲惨である。ゴッホしかり一生一枚の絵も売れなかった人も多い。その点技術者や芸能者は確実な世界に住んでいる。努力は必ず実を結ぶ。著者は作品そのものの価値を作品に接する行為だけから判断すべきで、絵に関する数々の情報、レッテル、流派などは棄て去るべきであると云う。したがって本書の構成も「観て・感じて・考える」という順序でなされている。これが著書のいう「正しい鑑賞法」である。今だからこそ、「日本画」というジャンルは「定義の定まらない摩訶不思議な存在」である。材料や技法だけではない、日本画の絶対的定義なるものにチャレンジすると著者は宣言するのである。
私は岡本太郎なる画家の事はよく知らない。万博の太陽の塔のデザインで知るのみで、独創的な画風は「芸術は爆発だ」というパフォーマンスのみをメディアは伝えている。著者吉田武氏は岡本太郎を、モダンアートの中で異質な「日本人の芸術家」であるという。ここまでくると日本人にはどうしょうもなくこの100年くらいの勉強では洋画はかけない。逆にいうと西洋人の感覚では日本画は理解できない。おなじことはクラシック音楽についても言える。日本人は西洋音楽を全く理解できないし、あるのは物まねと演歌があるだけだ。私たち日本人にとって心のそこから共感できる絵画とは、自然環境と言葉をともにしてきた日本画以外には存在しないという結論になる。明治以来百数十年で日本人は西洋の絵画、音楽を理解することは出来ていない。独創性が絶対的基準である芸術は到底理解できるものではない。ただ科学だけは模倣で実益が出るものだから利用してきた。したがって日本の真に独創的な科学は残念ながら生まれていない。だからいまこそ日本人は、「日本人が描けるものは日本画しかない」と居直っていい。洋画と油絵は違う。油絵とは材料の事を言っているに過ぎない。油を使って日本画を描くことも出来る。5000年の西欧文明と絵画の歴史を日本人が理解できたためしはない。洋画のあの真っ黒な背景と光を理解できようか。日本画は最初から底が抜けた明るさである、光も影もない。まして遠近法なんて糞喰らえだ。
さて速水御舟の作品に入る前に、本書の年譜から速水御舟の人となりを振り返っておこう。速水御舟(1894-1935年)は明治27年生まれで昭和9年40歳で夭折した。病名は腸チフスではないかといわれている。同時代人で夭折した著名人は多い。芥川龍之介、小茂田青樹、岸田劉生、今村紫紅、菱田春草らは40歳前後で世を去っている。同時代で活躍した画家には、小茂田青樹、岸田劉生、小林古径、今村紫紅、菱田春草、横山大観、岡倉天心らがいる。岡倉天心、木村武山、横山大観、菱田春草、下村観山、橋本雅邦、寺崎広業らの谷中の「日本美術院」創設時代よりは、速水御舟の出現は遅れる。速水御舟の芸術活動を年譜形式で示す。家族の動きは省略する。
*明治27年(1894) 日清戦争開戦後に東京浅草で蒔田良三郎の次男として生まれる。本名は蒔田栄一、母方が速水家である。
*明治41年(1908)14歳 東京私立育英尋常高等小学校卒業。近隣の松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門する。先輩に今村紫紅、同輩に小茂田青樹、牛田鶏村らがいた。大和絵、琳派、絵巻物などの摸写に励む
*明治42年(1909)15歳 蒔田禾湖の雅号で「蓬莱図」を描く
*明治43年(1910)16歳 第10回巽画展に「小春」を出品する
*明治45年(1912)18歳 第17回紅児会展に浩然の雅号で「緑陰」を出品
*大正2年(1914)19歳 紅児会展静岡展に「暮雪」を出品、紅児会解散し、原三渓の援助を受け京都南禅寺近くに転居、以後原三渓は速水御舟のスポンサーとなる
*大正3年(1915)20歳 速水を名乗り「御舟」の雅号に改める。日本美術院再興のため東京に戻り、院友になる。今村紫紅の指導で「赤曜会」を結成し「院展目黒派」と呼ばれた
*大正4年(1916)21歳 第2回赤曜会展開催、第2回再興院展に「山頭翠明」を出品
*大正5年(1917)22歳 今村紫紅死去赤曜会消滅
*大正6年(1918)23歳 第4回再興院展に「洛外六題」を出品 横山大観らの激奨をうけ日本美術院同人に推挙される
*大正7年(1919)24歳 第5回再興院展に「洛北修学院村」を出品
*大正8年(1920)25歳 交通事故で足首切断 京都にて比叡山、舞妓を写生する
*大正9年(1921)26歳 第7回再興院展に「京の舞妓」を出品 大観激怒する
*大正10年(1922)27歳 結婚する。結婚祝返礼色紙制作、「白磁の皿に柘榴」など傑作多し。京都奈良に新婚旅行
*大正11年(1923)28歳 第8回再興院展に「廣庭立夏」を出品
*大正12年(1924)29歳 岸田劉生と親交 武蔵野平林寺で参禅 震災で「洛外六題」らを失う、原三渓横浜の震災復興のため速水御舟の援助を打ち切る。平林寺にて制作
*大正14年(1926)31歳 軽井沢にて「炎舞」制作
*大正15年(1927)32歳 第13回再興院展に「樹木」ら三点を出品
*昭和2年(1928)33歳 第14回再興院展に「京の家・奈良の家」双幅出品
*昭和3年(1929)34歳 第15回再興院展に「翠苔緑芝」を出品
*昭和4年(1930)35歳 京都から紀州へ旅行 第16回再興院展に「名樹散椿」を出品
*昭和5年(1931)36歳 ローマ日本美術展覧会の美術特使として大観らと渡欧 ローマ・パリ・リバプール・エジプトを旅行
*昭和6年(1932)37歳 ベルリン日本現代画展に「夜雪」を出品、日本橋三越で「速水御舟遊欧小作展」を開催、第18回再興院展に「女二題」を出品
*昭和7年(1933)38歳 第19回再興院展に「花の傍ら」を出品
*昭和8年(1934)39歳 朝鮮に渡る 第20回再興院展に「青丘婦女抄」を出品
*昭和10年(1936)41歳 「盆梅図」制作中 死去
本書は速水御舟の作品として、著者の好みにしたがって9点の作品を取り上げている。そして本書の口絵として、図版を冒頭に9枚掲載している。著者の観賞を一つ一つ追跡してもさしたる成果は無いので、私は自分のセンスで2点、美の極致「炎舞」と醜の極致「京の舞妓」を取り上げたい。なんかこの2点が速水御舟の本質ではないかと思う。あとの作品は悪いが並である。私はむしろ果実の絵、なかでも「白磁の皿に柘榴」などに細密描写の極致が描かれているように感じる。
@ 「蓬莱図」 明治42年 絹本彩色(101cm×41cm) 水墨風
A 「暮雪」 大正2年 絹本彩色 軸装(51cm×41cm) 朦朧体
B 「洛北修学院村」 大正7年 絹本彩色 額装(131cm×97cm) モノクローム群青の世界
C 「京の舞妓」 大正9年 絹本彩色 軸装(152cm×102cm) 細密描写 群青の絞り 醜悪
D 「廣庭立夏」 大正11年 絹本彩色 軸装(97cm×147cm) 朦朧体
E 「炎舞」 大正14年 絹本彩色 額装(120cm×54cm) シュールリアリズム 幻想美の境地 モノクローム朱の世界
F 「翠苔緑芝」 昭和3年 紙本金地彩色 四曲一双屏風 各(172cm×362cm) 琳派風
G 「名樹散椿」 昭和4年 紙本金地彩色 2曲一双屏風 各(167cm×170cm) 琳派風
H 「盆梅図」(未完) 昭和10年 絹本彩色 (65cm×101cm)
著者は速水御舟の同時代人芥川龍之介の「ある阿呆の一生」を引用して、「この紫色の火花だけはー凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった」と言う。著者の言葉こそ火花を散らすのである。「この一瞬のこの命を絶対零度の画面に捉え保存する。あらゆる穢れは削ぎ落とされて、唯々美だけが残されている。そして、それは永遠のものとなる」と。上の図(左)をみれば、炎の饗宴の一瞬をカメラが切り取ったように、美の極致である事は誰もが同意するだろう。恐らく日本画の傑作に位置するといえる。これだけで速水御舟は日本画の歴史に永遠に残る作家となった。炎の造形、舞い上がる蛾の美しさは喩えようもない。炎は昔から地獄絵・不動明王図など「仏画」の必須アイテムであった。デザイン的にもよく似た炎の造形は多くある。しかしこの絵には上昇し旋回する空気の対流まで描き切っている。墨の朱から中心の黄色まで朱のグラディエーションが見事である。確かに常人のなせる技ではあるまい。
U、「京の舞妓」「炎舞」が美の極致だとすれば、「京の舞妓」は醜の極致であろう。日本画は醜を描いてはならないという決まりは無いが、この絵は再興美術院の長老大観を怒らせた。「院展除名」という言葉も出たという。舞妓の着ている群青の絞りの着物の細密描写の美しさ、畳の目一つ一つを描く執念、花瓶の磁器の透明感など脇役は文句なしの技を見せてはいるが、舞妓の首から上の醜悪さは化け物である。文明批評的に見れば、人間の醜悪さを曝露されて怒るほうも馬鹿だが、激怒を誘う描き方も大人気ない。こんな絵は売れるわけがない。話題をてらっただけの事だろうか。著者は「舞妓の影に隠れた真実を描くためには、周囲の細密描写が必要であったのかというもんだいに行き着く」と解析した。美と醜の対比をわざと露骨に描いた曝露趣味なのだろうか。むしろ舞妓の顔をもう少し美人にして頬に朱を入れて、「悲痛な美」、「哀愁の美」に持ってゆくことは容易だったのに。
2) 日本画の絶対的定義本書は前半は速水御舟の日本画9点の鑑賞という「特殊性」を提起し、後半(付録という形にしているが)は日本画の「一般性」への道を探ろうとする試みである。そして洋画との対比において日本画の特徴を明らかにするという方法ではなく、日本画の自律的運動として日本画を定義したいと著者はいう。ようするに全人生の価値観のなかに日本画を位置づけようと試みるのである。万人に平等に与えられた「人生の時間」を「幸福観」という不安定な感覚が支えている。精神の環境というべき人生にとって、何事かに夢中になる達成感は重要な生きがいという実感がある。学問・芸術という精神活動はたしかに静かな達成感を与えてくれる。読書というものも、自分では最初の発見者になれなくとも、それをしっかりと学び、自らの頭で考え再発見するという喜びや達成感がある。特に芸術においては美こそが中心に存在している。美しいと感じさせるものには、それしかないという必然性が内在している。これを「内なる美」と呼ぶ。この論のなかで著者は数学や科学との類似性を解説するのであるが、数学の分らない人には傍証にもならず、まして類推も出来ないので、かえって煩雑になるので数学の部分は割愛する。また俳句と日本人において季語という約束事については、面白い論である。約束事は水墨画についてをはじめあらゆる造形において、これはこう観るという約束事で表現する場合が多い。約束と思えばちょっと実物とは違うじゃないかと思っても腹も立たない。説明のための造形を越えた次元の表現である。西洋の彫刻や古典絵画のように実物に肉薄するという手法は最初から東洋には存在していない。言葉なしでこういうものだという了解で理解が進むのである。これを「以心伝心」という。禅という宗教的境地「悟り」は、言葉遊びで常識的迷妄を両断するものらしい。「不立文字」というものもそうだ。では何を伝えるのか。それは本質である。言葉の多義性に惑わされず、ずばっと本質に迫るのである。本物をわしつかみにすることである。造形芸術、とくに建築、彫刻、絵画において、制約の中での創造が重視される。建築においては人が住むという実用目的のため構造的、外観的に極めて制約の多い仕事である。しかし安藤忠雄氏の茨木春日丘教会は別名「光の教会」といわれる、宗教的本質を見事に表現した傑作であると著者は絶賛している。こうしたさまざまな困難・制約のもとで建設された建築物に限りない自由を感じる。[これには作者の魂の飛翔が見えるからである。
あれやこれや著者は日本画の周りを徘徊し、読者をして次第に日本画の本山に誘導してきた。さてここからが日本画の絶対的(本質的)定義(特徴)に入る。絵画はそもそも3次元の物体を2次元の平面に表現(射影)するものである。2次元といってバカにしてはいけない、運動まで感じさせる4次元の世界を表現する作家もある。パソコンやテレビ画面で、コマ送りされた映像が消えないで連続した画像を映す技術がある。正にその技術のように過去の形も描くことが出来る。絵画はその表現形式が平面にげんていされているからこそ自由なのだという。彫刻は3次元芸術、絵画は2次元芸術であると云うと窮屈である。立体を平面に映すことを数学では射影という。影絵といってもいい。そういう意味では完璧な再現は不可能である。人間の目は水平に2個あるため、左右の距離感を掴むことは得意でも、上下の距離感を掴むことは不得意である。坂道を描くときそれは如実に表れる。現実を写すことはできなくとも、真実を写すように心がけなければいけない。見た様に描くことはできなくとも、そう見える様に描くのである。ところが「見た様に」ということもそう簡単ではない。カメラは真実を写しているかというと、カメラの目はひとつである。遠近感も立体感もない、まさに平面への光学的直接描写である。人間の目は2つあり、しかも意識によって右目に集中すれば右側がたくさん見えるので、立体を回り込んで見ることになる。カメラと人間は別の世界を眺めている。ただ感度という点では人間の目は今のデジタル一眼レフのフィルム感度に及ばない。音楽でも然りで、体全体で感じることはあっても、人間の聴覚は10H以下や20KHz以上の感度は殆どないに等しい。人間の五感も怪しいといいたい。日本画とは西洋画に対する言葉であって、はっきりした境界があるわけでもない。洋画でないのが日本画、日本人が日本の画材で描いたのは日本画という程度の理解である。禅の鈴木大拙は「即非の論理」という、彼と我の境界のない状態、融通無碍の論理を提唱した。
著者は哲学的に日本画の絶対的定義を「日本画とは即非の論理でもって描かれる絵画である。もてなしの心を持って意図され無限を描画対象としたものである」という。また日本画は抽象的、精神的であり、一切の虚飾を削ぎ落として立つ、内なる精神性を表現する。これを「わび」という。さらに非対称性、巧まざるところ、古色などが加わって一段と深い美が現れる。これを「さび」という。さてこんな定義は私には了解不能である。むしろ哲学定義をするより、日本画の特徴の羅列で実体を際立たせるしかないのではないか。物理的な遠近法には縛られない、無数の視点が存在する多重遠近法といってもよい。絵の部分部分で座標を任意に選べる空間(多様体)である。洋画のようにひとつの視点で見た遠近法という絶対座標(画家の位置を原点とする)が統一して存在するのではない。どの部分でもそこが見やすいように座標をとる。ありえない像の大きさの無視を平気でやってのける。遠くに居る人を大きく描く場合もある。これは理知による多視点といい、キュービズムの先取りであった。何がんでも描くのではなく背景をばっさり切り捨てる。そして背景に金箔をはって描く対象を際立たせる手法をとる。何もない空白で、極めて金属的なありえない空間を創出してきた。狩野派の金壁障壁画や琳派の屏風絵画がそれである。ひとつの画の中に、部分的に調った世界を描きつつ全体として調和した世界を創出する特殊な透視図法である。日本画には中心点は無い。画面のどの部分を見ても面白く、絵の中で自由に遊べる空間である。こうした独特の精神の働きによって描かれた絵画を日本画と呼ぼう。材料が日本的材料(岩絵の具や膠接着剤)を使って、洋画の手法で絵を書く人も多い。最近の日展を見ていて、あれこれは洋画ではないかと思う作品で埋められている。油っぽいところがなく、光と影のない洋画といってもいい。写実に迫った絵画には遊びがない。日本画は荒唐無稽でなくてはいけない。精神の自由とは遊びから生まれる。ただきれいだけでは売り物になっても、人を遊ばせることは出来ない。