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竹内 啓著 「偶然とは何かーその積極的意味」 

 岩波新書 (2006年9月)

生物進化や人間の歴史のおける偶然の積極的意味とは

本書を読んで、おやどこかでよく似た話は読んだことがあると感じた。自分の読書ノートを調べると、アーサー・ケスラー著「偶然の本質」(ちくま学芸文庫 2006年)がそれである。このアーサー・ケスラーの本は衒学的で超心理学というオカルトめいた落ちがあるが、本書竹内 啓著 「偶然とは何か」はさすが岩波新書であるだけに明るく前向きである。しかし扱っている手段は、数理統計学と量子物理学、進化学など両者の材料は似ている。同じような材料を扱ってどうしてこうも結論が違うのか、それは前者が心理学であり、後者は経済学であることだろう。竹内 啓(1933年10月生まれ)は、日本の数理統計学者、経済学者。東京大学名誉教授。基本的な専門分野は統計学だが、経済理論ではマルクス経済学に位置し、その広い関心から科学技術や環境保全などに関する著作も多い。1994年までは東京大学経済学部教授を務め、定年後は明治大学国際学部教授を12年間務めた。現在は高崎商科大学客員教授だそうだ。父も弟も東大教授だったという東大学者一家である。主な著書には「数理統計学」(東洋経済新報社 1963)、「近代合理主義の光と影」(新曜社 1979)、「情報革命時代の経済学」(岩波書店 1987)、「科学技術・地球システム・人間」(岩波書店 2001)、「現代史への視座」(東洋経済新報社 2007年)などがある。

この本のテーマは「偶然」である。人生において予測できないこと、説明できないことは多い。その典型はガンになること、事故にあうことであろう。もっと理不尽なことは無差別な犯罪に巻き込まれて命を落とすことであろうか。そこでいつも出てくるセリフが「なぜ私(あの子)に限って」という無念である。言ってもしかないことながら、この理不尽、不合理は人間の宿命という運命論でかたがつくのだろうか。「神」が死んでから久しく、今では誰も神の意志など信じない時代である。まして「親の因果が子に祟り」など仏教的迷信は最悪である。でもどうなるかわからないという「不確実性」はやはり存在する。偶然を悪いイメージで捉えると「リスクマネージメント」となり、要因を排除し安全対策を万全にしたつもりでも、やはり事故は起きる。リスクは管理するものとしても、偶然を押し込めることは出来ない。ここでリスク「偶然」には2つの面がある事が分る。ひとつは客観的な「偶然」という問題と、それに対して個人または社会がどのように主体的に関るかという問題である。当然ながら、後者の問題が本書の目的である。偶然現象をつきつめて拘っていても得ることは無い。主体的に(前向きに)どう対処するかに関るかが本当の主題である。したがって数理統計学に配慮しつつ、人間の知恵を重視するのが本書の立場である。「偶然とは何か」と同様にその反語である「必然とは何か」も定義できない。この「偶然と必然」という対語は、フランスの微生物学者・遺伝学者であるジャック・モノーの著「偶然と必然」の問題を引き摺っている。この書は生物進化のメカニズムを扱ったのであって、生物進化には偶然という変異が発生し選択されることが必要であると云う命題を述べたものである。これはダーウインの「種の起源」を分子生物学的遺伝子の文脈で表現したものである。著者は自然科学的世界観をニュートン力学の「機械的決定論」において、ラプラ−スの言葉を引いて「偶然とは単に無知の結果であるにすぎない」という。ニュートン力学世界観をこんなノー天気な楽観的万能論で表現されると、それは違うと言いたくなる。科学の発展はいつも先行する理論や学問体系を修復し、改良し、覆すものであって、太古の昔から学問体系が不変であるとは誰も考えない。相対性理論や量子力学はたえずニュートン力学に異議申し立てをしている。人間の理解が及ばない領域は無数にある。理解できないことを全部「偶然」とは思わない。学問体系は絶えず変更を受けるが、科学の論理はいまのところ変わらない。世界を人間の知性で理解しうるものとして発展するのだ。それを「人間の無知が残る領域」にどう対処するか、「本質的偶然」といってすますか、科学の進歩を待つか、はたまた人間の行動原理として前向きにこれを楽しむか、それが問題である。科学の進歩としてはまだ萌芽状態にある、非線形科学複雑系の科学などが面白い前線である。

人は物事に秩序が存在するという意味で必然性を理解している、それがなくては生きてゆけないとという。偶然はかく乱要因と見なしているようだ。hんらい必然的な因果関係に支配されながら、偶然現象を発生させるメカニズムには昔から科学的には次の3つのケースが考えられてきた。ひとつは初期条件の僅かな違いが結果に大きな明確な違いをもたらす場合である。ルーレットやさいころのケースが相当するようだ。2つには2つ或いはそれ以上も無関係な因果関係が同時に働くことによって予測が出来ない場合である。これにはポアソン分布がよく似合う。離散的故障解析になくてはならない理論である。3つに微細な多数の原因の結果として生じる連続的変動である。これには正規分布がよく似合う。多数の偶然変動が加法的に累積されることである。本書の構成を述べておこう。大きくは二分され、前半は確率論や統計論が示す世界、後半は偶然に対処する人間の世界を描く。前半の数理統計学については数式は一切用いないで簡単にレビューしよう。そして本書の目的である後半の人間行動原理についてしっかり見て行きたい。

1) 確率の意味

偶然性には定量的に確かさを予測し、それを数量的に表現したのが確率論である。賭けゲーム理論がフェルマー、パスカル、ベルヌーイらによって17世紀に数学的に整備された。それはニュートン力学が数学的に体系されたのとほぼ平行している。さいころの目から組み合わせ確率論(2項定理)が生まれた。さいころを多数回振って、1から6までの目が出る回数はほぼ等しいとするのが「客観的確率論」で、さいころを振ったときどの目がでるかは1から6まで同じ程度であるというのが「主観的確率論」である。結果を見た後の論か、行為に出る前の論の違いである。コルモゴロフは確率を集合論的に定義し、有限個の事象wiの関数(0から1まで)とし、重ならない事象の全体の確率の和は1とする。事象が独立ならば同時に起きる確率はそれらの積となる。上のさいころの例では1の目が出る確率は1/6という。2項定理の計算から、独立に同じ試行を多数回繰り返すと、その値の平均値は,ほぼその期待値の近くに来る。これを「大数の法則」という。2項分布を滑らかな曲線で表現したものは正規分布曲線であり、中心極限定理という。中心値は期待値であり、試行結果はあるばらつき(分散σ)内に収まる。その曲線はいわゆる釣鐘状である。試行回数nを増やすと釣鐘は期待値を中心とした鋭いピークとなり、分散幅は狭くなる。この大数の法則でゆくと、「賭け事を続ける人は必ず破産する」ことになる。参考までに、相次ぐ事象が互いに独立では無い場合、すなわち試行結果が次の試行に影響する場合には、続けて行なうと事象は片寄ってしまうのである。

コインの裏表を0,1であらわすと、コインを投げる回数をn回繰り返すとき、0または1が表れる回数をmとすると確率はp=m/nである。そしてnが無限大である時、部分数列νの中で1が表れる回数μとすると、μ/ν=pである。この数列をベルヌーイ系列(もしくはミーゼスのコレクティブ)という。この系列はランダムであるといえる。大数の法則が成り立つための前提がこのランダム性にある。注意深く行なわれたのもかかわらず発生する測定誤差、さいころなど多くの賭け事などである。ところが事故の様な稀な事象には「少数の法則」というポアソン分布となる。また時間の中でランダムの起きる事象は時間とともに急速に減少する指数分布となる。ランダムな確率過程をコンピュータの乱数発生を用いて追試するのが「モンテカルロ」法である。完全にランダムなものが、完全な均一性をもたらす事を明らかにしたのが統計力学であり、気体の運動方程式である熱力学において「エントロピーの法則」とされている。情報量とエントロピーの法則は類似性はあるが直接の関係は無い。数理統計学からいうと、賭け事における「主観確率」は心理学であり、胴元が大きな利益を得る仕組みで動いている限り獲得金額の期待値は明らかにマイナスであり、賭けに参加する人の期待効用は心理学もしくは幻想である。ゆめゆめ公設賭博には参加しないように。

2) 確率を応用する論理

この章は、社会において確率はどう利用されてきたかを扱う。第1番はやはり保険である。偶然の災害に対する相互扶助を組織化したのが保険である。大数の法則にもとずいて企業化したのが保険会社であった。例えば火災保険は、加入者の件数の中で何件が焼失するかが問題であって、保険金と件数の掛け算が保険料の総額となり、1年間に加入者数に一定の確率で火災が起きるという前提で、保険の支払い金額が算定できる。保険料の総額が支払額より多ければ保険会社は儲かる仕組みである。したがって保険会社という企業が成り立ってゆくには、保険料の支払いは安定していなければならない。つまりそれは大数の法則に依存している。多くの加入者を集めることで保険掛け金を少なくすることが保険会社の営業である。いっぽう加入者にとって保険料金が火災の確率より大きければ、誰も保険には入らない。保険金は新築費用を目安として契約する。保険料金は保険料から計算される。海難事故のように確率は小さいが損害が巨額な場合保険会社はさらに保険に入る。これはリスクヘッジといわれる。生命保険の場合は発生確率は厚生省が統計を取っている生命表によって死亡確率は極めて明白である。約束した保険金×死亡確率が支払う保険金額の期待値となり、これが集めた保険料金の総額より小さければ商売は成り立つ。火災保険と違って保険の効用というものは死んだ人には期待できない。死亡時保険金の計算の根拠は人によりまちまちで、したがって残された人の生活を守るという相互扶助の精神が働くのである。人の命はいくらかというのは事故時の法定賠償算定基準があるが、自分が自分にかける生命保険は、残された家族にいくら必要かは決めようがない。

大数の法則や中心極限定理は、多数の事例を集めれば集めるほど得られる結論の信頼性は高くなる。その信頼性を艇了するのが「統計的仮説検定法」である。ここにいう「統計的仮説」とは例えばさいころの1から6の目がでる確率はすべて1/6である」と表現する。カール・ピアソンが「カイ2乗検定」を創始した。期待値からのばらつきの2乗の和と確からしさの関係は「カイ2乗分布」に従がうとする。有意水準として1%、または5%が用いて仮説の確からしさを評価する。また農業実験や企業の品質決定因子実験などに「実験計画法」が採用されることが多い。実験が持つばらつき(ノイズという場合もある)をキャンセルして因子の影響(効果)を際立たせるための統計的手法であるが、多因子実験計画法はかなり複雑である。この方法の原型はA・フィッシャーが始めた。また世論調査には必須のアンケート調査に、無作為抽出というサンプリング法をJ・ネイマンが創始した。ある特定の社会集団を母集団とみて、そこから無作為にある一定の数の人々をサンプリングする。このサンプリング集団が大きければ母集団と似た結果をもたらすだろうということである。アンケートの質問項目を択一問題とすれば、その意見を持つ人の母集団における比率pに対する、サンプリング集団の比率p'のずれを1%以下にするために必要なサンプリング数(集計コストに大きな影響を持つので無闇に大きくすることは出来ない)は1.29/√n=0.01からn=14641人となる。したがって数千人のアンケート結果は信用するに足りない。

3) 偶然の積極的意味

この章から後半に入り、人間が偶然にどう向き合うかを語る。宇宙は百数十億年という有限の歴史を持ち、地球は約50億年,生命は約40億年の歴史を持つ。これを支配する基本物理法則は不変としても、宇宙と生命は変化(進化)を繰り返すのである。ニュートン力学の機械的決定論では手に負えない世界であり、この進化のメカニズムを偶然と捉えると、40億年あっても人類誕生の謎に説明は付かない。スチュアート・カウフマン著「自己組織化と進化の論理」(ちくま学芸文庫 2008)では、ダーインの進化論とは別に自己組織化のメカニズムを想定している。本書は進化の源をダーウインの変異の原理に求めている。(なお参考のため、ダーウイン自らは進化という言葉は使用していない。ダーウインの「種の起源」の思想は変異と自然淘汰である。)そしてダーウインは神を追放し、人を動物と同じく扱ったところに社会革命をもたらしたのである。またダーウインは遺伝子という概念に到達していない。遺伝子の概念を掴んだはダーウイン晩年の時代になるメンデルである。メンデルも遺伝子の実体には言及していない。それが染色体であり、さらにDNAというポリ核酸である事が判明するのは20世紀になってからである。したがってダーウインニズムがダーウインを過大評価するのは誤りであろう。ダーウインはそこまで見通していたわけではなかった。生物の進化の中で「偶然」が本質的な役割を果たすということを本書は主張する。しかしすこし補正を加えると、生物進化には偶然と選択そして自己組織化の原理が必要であったというべきである。遺伝子変異にはターゲット理論から来る単一塩基の破壊や変異だけでなく、遺伝子の組み替えで染色体の対構造が重要な役割を担う。男女という性の分化についてはダーウインは変異の重要な契機であると述べている。生物は性の文化によって、一挙に遺伝子変化を起こす可能性を獲得したのだ。偶然的変異だけでは性の分化は説明できない。遺伝子組み換えにおける偶然のエラーも変異の重要な契機であると云うのがただし言い方であろう。

生物がこのDNA遺伝子システムを獲得する確率を計算すれば、サルがシェークスピアの作品をランダムタイピングで打ち出す可能性以上に、ありえない気の遠くなるような時間が必要であろう。指数計算でそれ容易に想像がつくのである。生物の誕生がこの広大な宇宙の中の小さな地球上で1回限りで発生したことは、偶然だけでは説明できない。答えはまだないが、神ではなく別の原理を探すことが科学の役割であろう。歴史にも偶然と必然ということが長い間議論されてきた。英雄史観は偶然現れる特別な能力を持つ個人に歴史の原動力を求めることである。ワーグナー、ニーチェ以来欧米の伝統的思考法である。英雄待望論の結果がヒトラー、スターリン、毛沢東らの変な巨人を生んでしまった。英雄史観の対極にあるのが唯物史観であるが、社会主義国中国で発生した毛沢東主義は「鉄砲の先から革命が生まれる」という思想を蔓延らせ、皮肉なことにアジア周辺国にいまでも軍事オンリーの歪な国家を生んでいる。唯物論は観念論を排斥して画一的な「人間機械論」を生んだ。社会の動向などに人間がどう対応するかは、基本的に「大数の法則」のように中心値があるようだが、それにはかなりの幅(ばらつき)が存在する。そのばらつきが民主国家のいいところであり、厄介なことでもあった。文部省の「期待される人間像」は明治以来教育の目的を、子供の思想をこの中心値に限りなく均一に教育する事を目指してきた。自由とはこのばらつきを是認することである。中心極限定理に限りなく近似した社会は支配者にとって効率のいい社会かもしれないが、社会の変動に対処できず折れやすい。社会変動を周辺の異端児が救う場合が多い。異論がたえず存在し、それが自由に存在することが民主社会の最大のメリットである。

4) 偶然と人間

保険会社にとって偶然を確率論のモデルで把握しそれによって期待利益(或いは効用)を最大にすることは、「不確実性の下における意思決定の理論」といわれてきたが、偶然というものは、当人にとって本来不合理あるいは不条理なものである。そこで「不運」を分け合うことによって,そこから生じる「不幸」を小さく出来る。これは社会福祉国家の理念となろう。経済的合理性とは、自由主義市場経済のモデルとして、人間はすべて「合理的で完全な利己主義者」として振舞うものと考えられてきたが、本当に経済的合理主義者はいるのだろうか。人間にとって個人的欲求の満足(効用の最大化)だけがすべてであるというのは、あまりに貧しい人間観では無いか。市場競争もまた偶然に曝されている(為替、株式・商品取引など)とすれば、その結果はすべて個人責任に帰すべしというのも何かおかしい。他人の偶然の不幸の上に立った自分の偶然の利益は道義的に正当といえるだろうか。偶然の利益に与った時は自分の努力の結果といい、他人が偶然によって損失を受けたときは自己責任で知ったことではないというならそれは盗人猛々しいといわなければならない。事故が偶然とすれば、損害賠償では個人の責任を問うことはしない。交通事故については保険会社がその損害を補償するシステムである。「不確実性の下における意思決定の理論」によって、偶然を封じ込めたとしても不運を消滅させることは不可能である。偶然を考えることが出来るのは人間の想像力の賜物である。セレンディピティという言葉は、偶然に予期しない事態が起きたとしても挫けないで、その状況下に最善の手を考えて、不幸をチャンスに変える人間の創造力である。個人的にも社会的にも,偶然に対して主体的に対処することによって、幸福を大きくし、不幸を小さくすルことが大切である。

偶然を神の手から開放した「確率統計論」は18世紀の近代科学的世界観の開始と同時に確立された。しかしながら確率論的解釈には過ちが目立つ。ケトレーは人間の特性(身長、知能IQなど)はすべて正規分布になっているという「社会物理学」を唱えた。ケトレーのドグマは変化する人間の捉え方としてはあまりに固定的過ぎていた。19世紀は社会現象を人間集団の作り出す集団現象として捉えた時代であり、それは20世紀の社会科学諸分野の出発点でもあった。20世紀はフォードの自動車産業に見られるように大量生産の時代であった。そして品質の均一化が強く求められたので、このような社会ではすべての分野で重要なのは数であり平均でありばらつきが少ないことであった。これは大数の法則が支配する世界で、正に確率統計の対象となった。ところが20世紀晩期からは技術の中核はコンピュータと情報通信技術となり、マスの時代の象徴であった「重厚長大」から世の中は質の時代の象徴である「軽薄短小」へ動き出した。飛行機事故や原子力発電所の事故は悲惨な結果を招いたことから、安全性神話は崩れ技術向上による徹底した事故確率ゼロの信頼性が要求されている。といっても「人類絶滅の確率はゼロではない」といって杞憂していても始まらないのと同様に、確率が十分小さいとされるなら、それは起らないと見なす事を意味する。それが人間の行動原理なのである。河川の防災工事のレベルを、水天文学の降雨量を100年に1度の確率以上に引き上げれば、途轍もないほど金のかかる工事となる。高度経済成長期のように財源が豊富であった時代はともかく、セメント漬けの河川の時代から環境保全の観点からも、妥当なレベルはいかほどか財布と相談しながら決めてゆかなければならない。1980−1990年代はアメリカで開発された金融工学的リスクヘッジ手法により、明らかにリスクがあると見られた金融商品を証券化して細分化し世界中にばら撒いた。それが2007年のサブプライムローン破綻から世界金融危機を招いた。後で分ったことだが、実に手の込んだシステムであった。信用格付け会社の大盤振る舞いで、危険な金融商品が3Aにランクされた。それにレバレッジという梃子原理を働かせて一挙にダイナミックな賭けが行なわれたのだ。サブプライムのリスクヘッジの手法については春山昇華著 「サブプライム問題とは何か」に明らかにされている。アメリカの金融工学手法はやはり本質的には大数の法則や中心極限定理が成立するかのように思われるが、株式市場や資産市場では、要因を数倍にして相互作用することが行なわれダイナミックな変動が引き起こされたのである。


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