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山折哲雄著 「教行信証を読む」 

 岩波新書(2010年8月)

親鸞 悪人救済にいたる思想の葛藤と自覚の道

金子大栄校訂「教行信証」(岩波文庫)という本は、大変分厚く一見して読む気がしないので、昔から私は近づけなかった。金子大栄校訂「歎異抄」(岩波文庫)は100ページ足らずの本で半分は金子氏による解題(評論)であり、本文は平たいひらがなで書かれていて誰にでもすぐ読みきれる本である。私は「歎異抄」の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」から浄土真宗を知った。なおよけいなことであるが、私の実家の檀家寺は浄土宗禅林寺派である。山折哲雄氏という宗教学者がこの難解な親鸞著「教行信証」のポイントを読み下して、ユニークな見解の本書を出した。著者のプロフィールを紹介する。山折 哲雄 (1931年5月11日生まれ)は日本の宗教学者、評論家で専攻は宗教史・日本思想史であるそうだ。氏の父は浄土真宗の僧侶で、布教のためサンフランシスコに赴任中に山折哲雄氏は生まれた。戦争中は母の故郷である山形県に疎開し、1954年東北大学文学部卒業。 1976年 駒澤大学文学部助教授 、1977年 東北大学文学部助教授、1982年 国立歴史民俗博物館教授、1988年 国際日本文化研究センター教授を歴任、1997年 白鳳女子短期大学学長、2000年 京都造形芸術大学大学院長、2001年 国際日本文化研究センター所長となった。主な著書には、「死の民俗学」、「近代日本人の宗教意識」(いずれも岩波書店)、「親鸞を読む」(岩波新書2007) 、「悪と往生」(中公新書2000)などがある。2002年 「愛欲の精神史」(小学館)で和辻哲郎文化賞を受賞した。

親鸞の事をおさらいしておこう。浄土真宗の祖といわれる親鸞は平安時代末期源平の争いのさなか、1173年京都の下級貴族に生まれ、1262年京都で死んだ。90歳という長寿を全うした。誰かが親鸞のことを「真綿の襟かけが暖かそうなお坊さん」といった。私は京都松原通り堀川東にある親鸞入滅の地を訪れたことがある。9歳のとき比叡山に登って修行し、1201年29歳の時比叡山を降りて法然の弟子となる。1207年後鳥羽上皇、土御門天皇のとき、法然の念仏運動に弾圧の手がのび、法難に連座し越後に流された。時に親鸞35歳であった。それ以降、越後国から常陸国稲田へと東国での苦難の人生が始まった。なおこの「教行信証」は稲田(西念寺)にいた10年間の間に書かれたといわれる。関東には北条氏の武家政権が出来上がり、平安貴族政権との二重構造は次第に武家政権側に実権が移行し、平安貴族政権の経済力基盤は比叡山、高野山、南都仏寺の仏教勢力の荘園に依存していたが、しだいに武家地頭階級に追い詰められてじり貧傾向は明白であった。仏教界においても護国鎮護仏教である天台宗、真言宗から新興仏教・大衆仏教が分離してゆく過程にあった。比叡山を降りた親鸞は、師法然の導きによりただひとつ念仏による救済を選択したのである。流罪以降の親鸞が高田専修道場や稲田の庵においてどのような事を考えていたのか、かならずしも明確ではない。かれは法然に対する絶対的な信頼の姿勢は生涯崩すことはなかったが、念仏以外に何を付け加えようとしていたのだろうか。その法然随順の姿勢は60代になって京都に戻ってからも変わっていない。それに対する回答は「教行信証」を読み解くほかにないだろうと、山折哲雄氏はこの難解な「教行信証」に何度もチャレンジするのである。法然が主張したのは「選択本願念仏集」において「われは念仏を選択する」という主題である。ところが親鸞の「教行信証」では、その主張が明確な形を取らないのである。教(原典)、行(念仏)、信(信心)、証(悟り)という4本の柱は項目であって、主張を示す言葉ではない。教行信証の総序文に「アジャセ逆害の物語」の重要性に山折氏はヒントを得たようだ。この父殺しの悪人アジャセははたして救われるのか。人間における根源悪(キリスト教の原罪に相当)についての問題提起である。親鸞は「教」の冒頭に「大無量寿経」を選択すると宣言する。ところがこの「大無量寿経」には五逆と誹謗正法を犯した者は救済から除外されるという記述があり、人間凡ては念仏によって救われるという浄土宗の大前提に矛盾するのである。この葛藤の克服に親鸞はこだわり続け、親鸞が最終的にたどり着いたのは、条件付きの悪人救済の道であった。善き師につくこと、そして深く懺悔することの2条件で悪人(人間すべて、親鸞を含めて)は救われる。山折氏はこの悪人救済論が「教行信証」の真の主題であると確信するに至った。そしてそれは法然らが軽く無視した「大無量寿経」の矛盾に対する、親鸞の全身的な異議申し立てではなかったかという。「教行信証」の枠組みは思考の順序に過ぎない、いわば方法論であると結論した。

では「教行信証」の総序において、親鸞の意図を考えてゆこう。第1の主題は、阿弥陀仏は一切の衆生を救うと決意されたということである。浄土往生の主題である。つづいて人間の原罪の例証として「アジャセ逆害の物語」の悪人も救済することが仏の慈悲であると云う主題である。そのために「悪を転じて徳をなす」本書の目標が設定される。この目標達成の道筋として「教・行・真・証」の順を説くのである。人間の凡てが「愚鈍」である覚悟を持ち続けることが親鸞の自覚であった。よく言われる「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という善悪の対比、順序ではなく、人間凡てが悪であり愚鈍なのだ、それを救済されるのが阿弥陀仏の決意なのである。ここで「教行信証」の文体について述べておこう。親鸞は全文を漢文で書いた。親鸞の書いた文書では「和讃」に見られように漢字仮名まじり文(カタカナ)があり、家族や高弟らに対する手紙には漢字ひらがな交じり文がある。親鸞は公式の文書では漢字・片仮名まじりの領域を守った。「教行信証」よりも後の作といわれる「平家物語」序には日本文学特有の「無常観」が極めて重要なキーワードをなしているが、「教行信証」にはそのような情緒的な無常観は微塵もない。親鸞には「無常」はないが、[無明の闇」という打破されるべき対象がある。無常観については親鸞と蓮如に大きな断絶がある。真宗中興の祖蓮如は布教活動のためこの無常観を大いに利用した。蓮如の書「御文」には無常の言葉が頻発する。蓮如のいう無常は平家物語の無常に限りなく近づいている。詠嘆と叙情の流を巧に利用しているのである。さすが組織の天才といわれる由縁である。「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」という無常観はまさに「火宅無常」の法華経的人生観である。「教行信証」の総序には「教行証」と「信」を抜いた表現が数箇所現れる。我々のような駄文であれば脱字で済まされるだろうが、10年以上も改定を繰り返した親鸞がこのような誤りをするわけがない。やはり意図あって「信」が抜かれていると見ればこれは大きな謎である。そして突如、総序の末尾において6章からなる「教行信証」の目次立てがなされる。教行信証の4項目プラス真仏土、化身土の2項目の追加がなされる。「教行信証」という書物は完成品か未完成かという疑問がいつもわいてくるのだが、総序で結論じみたことは何も言わず、よくよく考え抜かれた結論にそって各論を述べるという順序を取らない。いわば問題提起(課題設定)をして、各論を書きながら考えを進める、いわば「走りながら考える」という書物なのかもしれない。
1) 真実の教 
2) 真実の行
3) 真実の信
4) 真実の証
5) 真仏土 
6) 化身土 

依拠すべき原典と念仏(教から行へ)

「教」の第1章には、「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つは往相、二つは還相なり。それ真実の教を表さば、すなわち大無量寿経これなり」が置かれる。中国の曇鸞の回向論は、浄土世界に行く事を「往相」、自分の善行の結果である功徳を一切衆生に振り向けることを「還相」という。その「往相」から「還相」への変り目が「回向」である。親鸞には7人の重要な思想的先達がいた。インドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信(往生要集の著者)、源空(法然)である。親鸞の名は天親の親、曇鸞の鸞からきている。親鸞は曇鸞の回向論を発展させ、回向の真の主体は自己の力ではなく阿弥陀の救済であるとした。親鸞の「自力」から「他力」への転換である。「往相の回向について、真実の教行信証あり」といって、教行信証のうち「教行信」が往相の問題を論じることであるという。悟り「証」を得た人はこの世に帰って人々を救わなければならない。「還相」とは利他教化である。浄土三部経典には「大無量寿経」、「観無量経」、「阿弥陀経」があるが、親鸞は浄土真宗の拠るべきテキストはただひとつ「大無量寿経」のみだと宣言する。これが親鸞の信の出発点である。1201年親鸞は29歳の歳のとき、師法然の浄土宗に入信した。法然は「選択本願念仏集」を書いて念仏の道を、つまり行としての念仏を選び取った。平安王朝政権の時代は王権と神権の融合すなわち「神仏習合」による統治システムであった。鎌倉武家政権の樹立はこの統治システムを破壊し、選択の時代に入った。宗教界も激しい革命の時代に入った。親鸞も法然と同じく念仏の選択こそ出発点であった。法然の主題は阿弥陀の本願に帰依し、ただ念仏だけを唱えるだけで往生できるという主旨であった。教の選択は必然的に行の選択を促がさずにはおかない。

苦悩する親鸞(信)

親鸞は、「信」の問題は信の問題として独立して考えなければならないと、信の卷にあらためて「序」を設けた。「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心にしずんで、浄土の信証を貶す。定散の自心にまどうふて、金剛の真信にくらし。ここに愚禿釈親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢をこうぶりて、ここに一心の華門をひらく。しばらく疑問をいたして、ついに明証をいだす。・・穢域をいとう諸類、取捨をくわうるといえども、毀謗を生ずることなかれ」という。大変なことを発見したが、奇異なことだといって批難するなと主張する。「しばらく疑問をいたして、ついに明証をいだす」とはどのような疑問だったのか。それはアジャセ逆害に関る問題であった。大無量寿経にある「五逆と誹謗正法」の除外規定の問題である。父殺し、母親迫害を犯した悪人は阿弥陀様は救済するのかというである。大無量寿経は五逆とは父殺し、母殺し、聖者殺し、仏の損傷、教団の破壊、そして仏法を誹謗するものは救われないという規定が大無量寿経に書いてある。それでは阿弥陀如が一切の衆生を救済するという原則に反するのではないかという疑問である。文献的にいえば、最初阿弥陀如来の万人救済の原則(第18願)があったのだが、「大無量寿経」を書いた後世の作者がさかしい「五逆と誹謗正法」の除外規定を入れ込んだと解すべき事項であろう。法然は無視したが、親鸞は大無量寿経を選択するといった手前、まじめな親鸞はこの一条をどうするかで、「しばらく疑問をいたして」と論理的ジレンマにおちいった。すったもんだの思考の難産のあげく、屁理屈を見出したのが「ついに明証をいだす」ということである。大無量寿経のさかしい一条の記載のため親鸞は十年間苦労した。「観無量経」では五逆のものは救われるとして、救済除外規定を緩和している。このように経なんぞというものは御釈迦さんが書いたものではなく、後世の弟子が書いた矛盾だらけの、相反する主張の寄せ集めにすぎないご都合主義で出来ているのであるが、なんと親鸞はその矛盾のつじつまを合わせようと苦労していたのだ。

ここで「教行信証」のテキスト状況を整理しておこう。親鸞の草稿版は真蹟本といって「板東本」といわれ、今も東本願寺に所蔵されている。1954年京都大学の赤松教授が真蹟本の解装修理を行なった際、「信」巻と「化身土」巻の表紙が取りかえれれていたことが判明し、当初の構成が教、行、信、証、真仏土、化身土の六帖という形をとっていたのだが、いつか教行、信、証、真仏土、化身土、末の六帖に改められたという。信巻と化身土巻の大増補があったようだ。それは親鸞が晩年にいたるまで本文改定の作業を続けていた事を示す。「教行信証」の写本は1247年親鸞75歳のとき、弟子の尊蓮が書き写したといわれるが今は伝わっていない。1255年親鸞が83歳の時、弟子の専信が書写した最古の本が専修寺に伝わっている。親鸞滅後1275年の写本が西本願寺にあり、専修寺本とあわせて清書本といわれている。親鸞の真蹟本と古写本は漢文と片仮名送りで書かれているが、覚如や存覚の時代に漢文の素養のない者のために和文交じりの延べ書き本が作られた。山折哲雄氏がテキストに用いた金子大栄校訂本(岩波文庫版)は和文交じりの延べ書き本のひとつである。信巻は前半が「大無量寿経」の釈迦の大衆救済について述べているが、後半は「大涅槃経」からの大量引用から成っている。大無量寿経の第18願は「至心信楽」といわれ、十万衆生は念仏すれば救われる、ただし五逆と誹謗正法を除くと。大無量寿経のテーマと大涅槃経のテーマの狭間に突然懺悔のテーマが投げ込まれる。「うやまいて一切往生の智識等にまうさく、おほきにすべからく慙愧すべし、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」と。救いがたき悪人の所業を「大涅槃経」から大量に引用する。アジャリのような「難治の機」が父殺しの贖罪をもとめて、6大臣と善智識を訪問する物語が述べられる。人を殺すことを宿命とする支配階級はいつも殺人の悪夢に苛まれ、聖者や識者を訪れて慰めと悟りを聞こうとする。それは鎌倉時代・室町時代に武家が禅僧の教えを乞うたのと同じ構図である。大涅槃経では6大臣はお追従の慰めしか言わないが、耆婆は応えて曰く「よきかなよきかな、王罪をなすといえども、心に重悔を生じてしかも慙愧をいだけり」と、慙と愧という二つの内省によってはじめて人々は苦悩から救われるのだと。こうして「教行信証」はようやく真の主題を明確にした。いま大経には唯除五逆誹謗正法といい、観経には五逆の往生をあかして、謗法をとかず。涅槃経には機と病をとけり。これら真経いかが思慮せんや」と自分の課題を鮮明にした。親鸞は大無量寿経の]矛盾を、中途半端な観無量経を飛び越し、大涅槃経の懺悔のテーマによって悪人も救われるという彼岸に達したのだ。

ここに面白い問題が存在する。それは「教行信証」板東本の「信」巻表紙の裏にある「反故裏書き」である。5行ほどにアジャリ逆害に関するエピソードの一節が書き込まれていた。アジャリの七大臣訪問の一節「悉知義」の回答である。父を殺して王位に就く王は多いが誰も苦悩する者はいないという内容である。親鸞はおそらく阿諛追従の弁を説く七大臣に全身の力をこめて反論したいと思ったのであろう。親鸞には見過ごし出来ない事実があった。1207年南都の僧の告げ口を入れ、法然の念仏宗への迫害の命をだした後鳥羽上皇と土御門天皇の悪行への怒りである。この恨みは「悪人ども地獄へ落ちろ」といいたい気持ちであったに違いないが、なおかつこれら悪人を救済するという阿弥陀仏の慈悲をどう理解したらいいのかと親鸞は煩悶した。1214年親鸞は罪を許され常陸の国にはいった。時に42歳であった。1221年後鳥羽上皇らは承久の乱を企てたが瞬時に鎮圧された。そして二上皇と今上天皇は捕まり流された。常陸の国に移って10年、1224年に「教行信証」は書き上げられた。この「信」巻は「悪人正機説」を証明するための扁であることは明白である。それは国王を初め権力者への容赦ない批判を露にしている。悪人救済説と親鸞の現実はあまりにリアルではないか。なおこの「反故裏書き」を無視(削除)するテキストは多い。これを無視しては親鸞の切実な精神的苦悩と彼が生きていた時代の大きなうねりを理解できないだろう。この親鸞と同じ思いは1247年道元が北条時頼から誘いを受けた鎌倉下向の折の文章「鎌倉名越白衣舎示戒」に示された。権力者に呼ばれた道元も「大涅槃経」の一節を書き写したとされる。親鸞と道元問題認識は「悉有仏性」にあり、道元は正に自分が権力者に「追従」の言葉をいう七大臣の立場に置かれたことである。北条氏は頼朝いらの御家人を粛清し、かつ北条一族との権力闘争を戦い抜いてきた。名越、三浦、千葉氏を滅ぼして時頼は執権に就いた。道元は鎌倉下向以来在家仏教を諦め、永平寺の根本道場に戻った。

未解決課題の克服(証から真仏土へ)

教行信証の往相を説く「教行信」に較べると還相を説く「証」の分量はおよそ1/10ぐらいであるという。浄土への旅が成就したことが悟り(証)である。ところがそれですんなりと極楽浄土へいけるかというとまだ未解決の課題が残っている。それは正しい道を歩んできた人が行く「真仏土」と、悪人・愚鈍の人が本当に救済されるためにゆく仮の浄土「化身土」の2種類があるという。まだまだ反省が足りないからだという。一切衆生を導いて安楽浄土に再生させるため、自利利他の菩薩の道が還相である。この証巻の後半部分は曇鸞の還相論の引用から成り立っている。

幻想の浄土(化身土)

では化身土とは何か。それは幻想の浄土ということだ。浄土に2種類があると云う論は大乗仏教の長い論争の歴史があった。化身土は「観無量寿経」にとく、悪人往生への必須の道である。「観無量寿経」は五逆の悪人に往生の可能性を与えるために化身土を置いた。どちらにしてもへ理屈のつじつま合わせに過ぎないのだが。難解で言語ゲームのようだと著者はこぼしている。悪人を救うためには自力は期待できないので、結局他力にすがるしかないという論理に展開する。中国の善導の「懺悔三品」に懺悔にも三段階があると云う。「悲泣雨涙」、「拳身投地」、「号泣向仏」だそうだ。親鸞はこの懺悔論を乗越え(言葉の遊びにすぎないのだが)、真心から懺悔し、善智識による導きが必要だとして、自力(定散、方便の仮門)の修行を捨て、他力(選択の願海 方便の真門)に転入し身を任せることである。これを親鸞の三願転入の信仰告白という。

葛藤と自覚の道(化身土から後序へ)

親鸞は「観無量寿経」と「大涅槃経」を読みぬいて、「大無量寿経」の救済除外規定を回避し、悪人往生への論理的道筋をつけたという。法然がオミットした悪人救済除外規定を真正面からこだわり、なんとか屁理屈のつじつまが合って親鸞はほっとした。それでも法然の浄土宗門からの誹謗中傷が起こる事を心配し、誹謗しないようにお願いしている。「化身土」こそ悪人往生を約束する窮極の目標であった。悪人の幻想の浄土を用意することで末法の世を救うことが出来ると親鸞は確信したようだ。浄土真宗は、在世正法(釈迦のいた時代)、像末法滅(釈迦入滅後の教えを弟子が守った時代)、濁悪の末法(すべてが滅んだ末法の時代)にひとしく導くのである。末法時代には僧自体が破戒無慚の悪人である。自分は僧でもなく俗でもない「愚禿鸞」にすぎない。ここに悪人とは権力者の悪逆非道だけのことではなく、末法時代には人間の存在自体が悪であると云う人間原罪論に近くなり、ひたすら懺悔しなさいという、まるでキリスト教の教えと同じである。


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