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金 文京著 「漢文と東アジア」 

 岩波新書(2010年8月)

漢文文化圏である東アジア諸国の漢文訓読みの変遷と文化

本書は文学の本ではなく、比較言語学と比較文化論の本である。漢詩は出てくるが、味わうものではなく文体を比較するものである。そして漢文文化圏ということは、どうしょうもなく有史以来の東アジアの中華思想と周辺弱小国家の悲哀という切り口になってしまう。漢字という文字文明を発明した漢民族の軍事的世界支配がその中心にあり、周辺民族国家にとって、植民地化、属国化という直接・間接を問わず軍事的支配を受け入れざるを得なかった。そして漢文化の受容は有無を言わせない必然的な結果であった。陸続きの韓国は楽浪群という部分的植民地化の時代もあったが、少なくとも2000年以上は中国の属国であった。宗主国は中国であり、文物、法律、行政組織も漢文化のお仕着せであった。日本は幸いに海を隔てた島国であったため、陸軍国家中国の直接支配は受けていない(危機は鎌倉時代に元寇として二度現れたが)。夷国として朝貢・使節をおくる程度の周辺国に過ぎなかった。周辺国家には民族の言語はあっても、その国の文字が存在する場合と存在しない場合によって、文化的対応が大きく異なる。日本、朝鮮、ベトナム、モンゴル、女真、西夏などシルクロード西域諸国(中央アジア)では言葉はあったが独自文字を持たなかった。文字がなければ漢字をそのまま利用せざるを得ない。そのときにかならずダブルスタンダードが発生し(文字は漢字、頭の中は自国語)、訓読みの問題が発生する。漢字をそのままの発音で読んでも意味が通じないから、漢字をそのまま使用しても翻訳して読み直す必要が生じる。

たとえば電車の切符を売る事を日本語では「券売」といい、中国語では「売券」という。中国語では動詞プラス目的語が正規の漢文規則である。日本語では「券を売る」というようにそれが逆になっている。そして中国人には通じない漢字の使い方がある。日本語で「改札口」というが、中国語では「検票口」となる。札と票は同じ意味だとして、「改」は「命が改まる(革命)」というように古い物を新しくするという意味である。日本語では「改」にあらためる(しらべる)という意味を持たせている。しらべるなら「検」であるが、日本語には訓読みを通じて別の意味が紛れ込んだといえる。連想ゲームのようなものだ。韓国語は日本語と殆ど同じ語順と文法を持ち、漢字発音をハングル文字で表記した文字である。漢字と助辞の関係は日本語に同じである。ベトナム語はまだ中国語に似た言語であるが、名詞の修飾語は名詞の後に来るそうである。猶早めに断っておかなければならないが、私は中国語、ハングル、ベトナム語その他の言語は全く知らない。漢文の訓読みを通じての教養しかない。比較言語学は全く素人であるので、ここでは他の言語に関する引用は最低限にして、日本語と漢文の関係だけを論じたい。東アジア文化圏ということで興味ある事項には言及するが、言語学的には何も知らないことを白状しておく。第1当事者は日本語、第2当事者は漢文、第3当事者は自信が持てないという構図である。「図書館」は実は日本語であるが、近代国家形成後の言葉であり、韓国、中国には存在しなかった言葉であるので、日本語がそのまま流通した。中国語も韓国語も日本語も発音は違うが、「図書館」を使用する。ベトナム語では「書院」という。このような時代文化背景を持つ日本製漢語の影響も多い。東アジアでは中国、韓国、日本、ベトナムが漢字文化圏であるが、現代では韓国とベトナムは漢字を全廃した。しかし文字としての漢字は使わないが、漢字に由来する言葉は依然として高い比率を占めている(60%以上ともいわれる)。今でも漢字を使用しているのは、中国と日本であるが、日本語では独自の略字による漢字と仮名の併用、中国でも略字体を使い、台湾のみが従来の複雑な字形の漢字を使用している。漢字の発音は、中国、韓国、日本で由来した地方・時代を反映して読み方はバラバラで、日本には音読み(呉音、漢音)のほかにさらに訓読みがある。

本書は、漢字をめぐる問題と背景を漢字文化圏全体の中で論じるために、訓読みに焦点をあてるのである。各国の訓読みの仕方に共通点を見つけることがスタート点である。言語体系の違う周辺国が中国語をなんとかして受容するには、複雑な翻訳過程があったに違いない。苦労して作った訓読み法に共通点がありそうである。したがって本書は第1に日本における訓読みの歴史を、第2に朝鮮半島における訓読みについて、第3に東アジアで用いられた変体漢文の背景と相互関係について述べる。筆者はいうまでもなく在日韓国人であろう。韓国の寺では僧が経を読むとき漢文にアラビア数字をつけて訓読している。これは日本の影響ではなく、高麗時代の「旧訳仁王経」に訓読記号が付されているのを見ても、むしろ高麗の訓読みが先かもしれないという感じを抱くようになったという。感じ漢文に接触した中国周辺地域ではどこでも同じような訓(翻訳)読み形式が遅かれ早かれ成立していったと考えるべきではなかろうか。やがて契丹、ウィグルにも同じような現象がある事を知り、著者は1988年に「東アジアの訓読現象」(汲古書院)を書いた。特に漢文訓読の根底には膨大な仏典の漢訳体験においても、インドのサンスクリット=梵語を漢字に翻訳するとき、中国語による訓読体験も存在したということである。梵語→漢文→日本語、韓国語etcという翻訳の流れの中で、絶えず外国語を自国語に翻訳する際に発生する現象であろう。明治初期、英語を日本語に翻訳する順番をふる例もあったという。そこから訓読を始め様々な現象が発生し、そしてそれが言語意識だけでなく、各地域の国家感や民族意識まで波及したことは容易に考えられる。日本僧は仏典原典をインドまで探すことはなく、インドまで修行に行った日本人僧はいなかったが、朝鮮の高麗僧はインドまで修行に出かけたそうだ。それには高麗の航海技術が大きな役割を果たした。後漢のころ中国は仏教というインド異文明と直面し、19世紀末より清朝は西欧異文明に対決した。著者である、金 文京氏については私は初めてお目にかかる学者である。1952年東京に生まれ、京都大学文学部を卒業して、現在京都大学人文科学研究所教授であるそうだ。専門は中国文学、特に小説と演劇であるそうだ。主な著書には「中国小説選」(角川書店 1989)、「教養のための中国語」(大修館書店 1991)、「三国志演義の世界」(東方書店 1993)、「三国志の世界」(講談社 2005)などである。 

1) 日本の訓読の歴史

論語の一節に「子曰 学而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎」を「子曰く 学びて時にこれを習う また説ばしからずや 朋有りて遠方より来る また楽しからずや」とよむのがすなわち訓読である。つまり訓読とは、本来外国語である漢文を一定の方式により日本語に翻訳(読み下す)する方法である。そこには 二、一、∨などの中国語の語順を日本語に直す記号(返り点)が使われ、原文には無い助辞、動詞などの変化を送り仮名としてしめすほか、漢字本体も学(ガク)を「まなぶ」、時(じ)を「とき」、朋(ホウ)を「とも」というふうに日本語の意味を宛てて読んでいる。言語は民族の数だけあるといわれるが、現実世界の共通言語は大きくは、ラテン語系、アラビア語系、漢文系に3つに分けられる。東アジアの主要言語は漢文(中国語)であるにせよ、周辺国家の言語は中国系とはいえない。中国語は孤立語、周辺国家は「てにおは」で文を構成する膠着語で文法も中国語とは異なる。欧州の英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などの方言程度の近さとは比較にならない。近隣諸国では中国語は極めて難解な言語であった。中国語の四声音という「声調」は、テレビで中国の指導者が演説するときの調子のよさで実感できる。平坦な発音しかない日本語、朝鮮語には声調が脱落している。漢詩を作るときの約束事「平仄」は日本人にとっては単なる約束事に過ぎず、漢詩を音楽として、韻として感じられる日本人は少ないだろう。日本の詩歌の韻律は言葉の数の組み合わせからくるリズムであってメロディーではない。日本がはじめて漢字を受け入れた4−6世紀の中国(三国志の時代)は南北に分裂しており、日本は地理的に交通が便利であった南朝の呉の発音「呉音」が朝鮮経由で入ってきた。人を「ニン」、間を「ゲン」、口を「ク」と発音した。後世唐時代に遣唐使を通じて学んだ言語は「漢音」である。人を「ジン」、間を「カン」、口を「コウ」と発音した。訓読みでは人を「ヒト」、間を「アイダ」、口を「クチ」と発音した。つまり]訓読みは本来翻訳である。中国語を話す公式の場の必要はなく、読むだけなら意味が取れればいいのだから、いっそ日本の意味で漢字を読んでしまうことになるのは必然である。「訓」とは、解説して教えるという意味で、とくに儒教の経典を教えるための注釈をさす。これを「訓詁」という。中国語のなかの経典の「訓詁」と、それを日本語で解説する「訓詁」には大きな距離があるが、日本のそれは「和訓」である。日本語読みを大きくみれば中国語の方言読みとみなしていたのではないだろうか。

中国語においても「仮借」というもっぱら音を表す漢字を当て字に用いることは多い。魏志倭人伝・倭人の「卑弥呼」、「邪馬台国」という文字は「ヒミコ」、「ヤマト」の当て字であろう。しかもご丁寧に辺境の野蛮人である事をにおわせる卑語「卑」、「邪」という言葉を採用している。漢字の表音的使用による外国語表記が中国人にとって重大な問題となったのは、仏教伝来の結果であった。仏典はインドの梵字(サンスクリット)で書かれていたので、仏典では梵語から中国語への翻訳が緊急の課題となった。例えば梵語で「うぱさか」を「優婆塞」と書いて「清信男」(在家信者)と訳した如し。中国での仏典の漢訳が盛んに行なわれたのは2世紀から12世紀であるので、仏典の日本での和訳と中国での漢訳がほぼ同一時期に進行する場合もあって、中国へ渡った日本人僧侶たちはこのような梵語から中国語への翻訳の現場に立ち会った可能性がある。梵語→漢語→和語を常に頭においてその手法を見ていたと考えるのはあながちおかしなことではない。しかし日本人僧侶はけっして梵語仏典を直接手にしようとは考えなかった。漢語仏典の完成度が高かったのか、出来上がった漢語仏典からスタートする方が手間が省けたからであろう。10世紀末北宋の都開封にあった訳教院でインド僧を中心に行なわれた「般若心経」の訳教儀式は次のような工程からなっていたそうだ。
@訳主:インド僧が原文を梵語で読み上げる
A証義:梵語の意味内容を討議する
B証文:訳主の読み上げる梵語に間違いがないかどうか点検する
C書字:梵語の僧が訳主の読み上げた梵語の音を漢字で表記する
D筆受:漢字で表記された梵語を中国語に訳する
E綴文:中国語に翻訳された単語を、中国語の文法に則り順序を入れ替えて文章化する
F参訳:梵語と漢文を比較して校正する
G刊定:訳された漢文の冗長な部分を削り、簡潔にする
H:潤文官:漢文が適切かどうか適当な表現に直す。分りやすいように本来ない文章を入れることもある。
漢語は単音節で意味をなし、漢字という表意文字を用いる。しかし梵語は複音節語で表音文字を使用するという根本的な文字構造の差がある。梵語の字母はシッダーマートリカー文字のことで、ア、イ、ウ、エ、オに中国語では「悉曇」といって、阿、伊、憂、暝、烏という漢字を当てた。漢字による梵語の音写を容易にする仮借である。この「悉曇」という仮の音当て字は日本に伝わり仮名の発想、仮名の50音図もこうして発生したと考えられている。梵語では語順は自由であるものの、目的語は動詞の前におかれる。つまり中国語とは逆である。中国語の語順にしたがって単語の順序を入れ替えることを当時「廻文」といった。語順において日本語は梵語と似ているので、中国語を間において梵語と日本語は対応している。日本に梵語が伝来されていた可能性は高い。東大寺大仏の開眼供養で導師を務めたインド僧 菩提は梵字百枚をもたらしたといわれている。インドにいった新羅僧から訳教の実態が日本に伝わった可能性もある。こうして中国語の相対化が進行したのである。

訓読は中国の相対化をもたらしたと先に書いた。大陸で地続きであった朝鮮半島国家にとって中国は絶対的存在で、中国で王朝が変わるたびに形式的な侵略支配を認めざるを得なかった。隋は朝鮮半島の侵略失敗で国を滅ぼした唯一の王朝であるが、歴代王朝は朝鮮をひとつの属国としていた。その点島国の日本は、中国の海軍が殆どないに等しかったため直接侵略を受けることなく、君臣の礼を取りながら、気楽に中国を一定の距離に置いて、相対化することができたのである。聖徳太子が「日出る国の太子、日没する国の天子に贈る」という国書を出したというのは、古事記の偽書であって、そのような文書が出せるわけがないが、自国内で何を言っても中国にばれることは無いという気楽さがあったのだろう。朝鮮ではそうはゆかない。中国中央からの大使クラスの官吏が常駐しているので筒抜けになる心配が存在していた。大陸と地続きというのはいつの時代も周辺国家にとって死命を決する宿命であった。鎌倉時代の慈円という僧(歌人)は「梵和同一説」という珍説を出しているが、日本は中国よりもインドに近いということを言っている。インドの権威を借りて中国に対抗しようとする思想は、同時に漢文訓読の思想的背景をなした。漢文訓読は便法として、翻訳ではなく、漢文本文と対等の地位を主張する日本語の一文体であるかのようである。つぎに漢文訓読の歴史を草創期(奈良時代末期から平安中期)、完成期(平安中期から院政期)、あらたな転換期(鎌倉時代から江戸時代)、明治時代の訓読の4期にわけて訓読の歴史的特徴を整理しておこう。

草創期(奈良時代末期から平安中期)
一般に訓読は8世紀末(奈良時代末期)から9世紀初め(平安時代初期)に始まったとされる。それは万葉仮名の使用と、大伴旅人らの和歌に訓読語が書く見えることから推定される。官吏が書く木簡にも日本語の語順による記載がみられる。漢文を日本語の語順で読んでいたとすれば、語順を示す何らかの訓読記号が必要となる。最初はは誰で使用できる規則ではなかったかもしれないが、奈良時代の写本「続華厳経略疏刊定記」には、墨書、白書(胡紛顔料)、朱書あるいは角筆によるへこみ印で記されており、句読点「・」、語順の数字「一、二、三、四、五」は朱で本文右に書かれていた。中国の古文として新訂「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝」(岩波文庫 1951)の付録から原文を見ると、句読点どころか何の訓読記号もなく、ただ漢字が上から下へ並んでいる。少なくとも3世紀から7世紀にかけて中国の公式文書には読む人の便利を考えた工夫はなされていない。ところが、仏典「大乗無量寿経」には5,6字おきに一,二,三,四のように意味の切れ目に番号が振ってある。これを訓詁、科文という。各段落を科段といい、漢文の文法的構造分析にほかならない。古代中国において文章を読みやすくするために補助的な記号が使用されていたのである。「・」、「。」、「、」、「一」などが用いられた。すなわち正確に意味が理解できなければ、正確な点は打てない。最も標準的には文の終わりに「・」、「。」の句点をうち、文中の休止箇所には「、」の読点を真ん中にうつ。平安時代には中国では例がない文字の左側下に「・」をうって返り点として用いた。上下の順序を間違って書いた場合校正の為、「S」や形が似ていることから「乙」そして「レ」記号で語順を訂正した。それを応用して漢文の読み順の顛倒記号「レ」が発生した。語順のほかに漢文を読むための工夫として、漢字個々の音訓や送り仮名(助辞、語尾変化など)が必要とされた。最初は万葉仮名が用いられたが、変体仮名、片仮名がうまれた。片仮名は訓読のための文字であって、現在のような外国語表記ではなかった。「ヲコト点」とは漢字の4周に点をおき、明経点(清原家)では時計回りに「ヲ コト ト ハ ス テ カ ニ ム」と送る約束である。この方法には「明経点」と院政以降は「紀伝点」という門外不出の方法となった。まるで野球のサインである。その起源はもちろん漢字の四声圏に類似を見ることが出来る。「ヲコト点」の欠点は、位置関係が複雑になるほど判別不能となる点である。やはり送り仮名を書く方向へ向かったようだ。
完成期(平安中期から院政期)
平安貴族の愛読書であった白楽天の詩集である「白氏文集」が京都博物館にあり、12世紀初め藤原茂明による加点が見られる。連続読みは号符でつなぎ、句点、読点、音読符(しむ、なり、たり、より、せり、く、る、や、お、も、そ、四声圏をも記号で示すもので、複雑の極致に達した。院政期になると全文隈なく訓点をつけるようになった。ここに訓読が訓読が完成した。日本語の訓読と漢文が対等の関係になったことの結果であり、遣唐使を廃止した後のいわゆる国風時代の始まりと軌を一にする。こうして漢文は訓読によって味わうという漢文文化が出来た。しかしながら訓読の方法は学問の家にとって秘伝であった。三論点、喜多院点、西墓点、東南院点、円堂点と宗教の各派ごとの訓読点は異なっていた。
あらたな転換期(鎌倉時代から江戸時代)
鎌倉時代は宗教革命の時代で、民衆仏教が相次いで興り開放的な文化状況が生まれた。宗派ごとの出版が盛んとなって、各派毎のヲコト点や訓読法はわずらわしかった。そこでだれでもわかりやすい訓読法が考案され、ヲコト点は室町時代には廃れ、江戸時代には全く用いられなくなった。新しい訓読方式が生まれるのは京都五山の時代である。そして新しい儒学「朱子学」が禅僧によってもたらされ、朱子の著作「四書集注」を講義した文之玄昌(1555-1620)が完成した訓読法「文之点」は、江戸時代の四書訓読の基礎となった。かれは定型的で存在意味の薄い置き字、落字をも含めて全部読むという姿勢である。鎌倉・室町時代に中国に行った僧の数は非常に多く遣唐使の比ではない。こうして日本の僧や学者の漢文理解レベルは非常に向上した。室町時代に一条兼良や桂庵らは漢文の虚辞といわれる助辞、置き字を全部読まなければならないとして、漢文の助辞機能に注目した。朱子学の生まれた南宋時代は北方異民族との抗争が熾烈でかつ北方異民族の力が優勢であった。そこから「尊王攘夷」という峻別の思想が生まれたのだが、江戸時代末期には尊王をかってに「天皇」と読み替えて討幕運動に利用された。朱子学は倒幕のイデオロギー(マルクス・レーニン主義に匹敵する)となった。江戸時代の山崎闇斎、伊藤仁斎、太宰春台などは多くはこの文之点を基礎として儒教訓読に改良を加えている。その中から伊藤東涯、荻生徂徠らは訓読から直読へ主導し儒教の直接的理解にいたろうとした。このことは訓読をのべる本書の域を脱しているので言及しない。
明治時代の訓読
明治以降日本が西洋文明を導入することに成功した理由のひとつに、漢文読解力をあげる人がいる。西洋の文物、制度、概念の多くが漢文によって翻訳され、多くの概念語が生まれたからである。西洋文明に日本より後れて参加した中国や韓国では、日本語の術語なしでは西洋文明の理解は出来なかったといわれる。そして多くの日本製漢語が中国や韓国へ逆輸出された。日本では文明は常に翻訳によって担われてきた。このことは丸山真男・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」(岩波新書 1998)において論じられている。

2) 韓国の訓読の歴史

韓国は現在ほぼハングル文字専用になっており、文章に漢字を見ることは無い。この章は東アジア諸国、中でも古代朝鮮語(新羅語)による漢文の訓読の歴史を見ることである。しかし私はハングル、古代朝鮮語に関して全く知らないの、何を言われても実感がわかない。そこで著者の結論を簡単に紹介するに留めたい。実証の過程の議論を判断できないからだ。ハングルは「訓民正音」といい1446年李王朝の世宗が創始したものといわれている。それ以前は朝鮮語を記述するのに、日本の仮名と同じく、漢字を表音的に用いて、さらに仮名字形を簡略化したものが使われていたという。朝鮮王朝時代には漢文を読むときは漢語を音読して、意味の切れ目に助辞などを挟む「口訣」(くけつ)という読み方が確立した。漢字とハングルによる、朝鮮語に翻訳した「諺解」(げんかい)が行なわれていた。これは日本語による訓読にほぼ対応するという。日本語と朝鮮語の文法が殆ど同じだからである。漢字を音と訓で読む「文選読み」(あめ天、つち地、くろい玄、きいろい黄)という方法が日本と韓国で共通するのには意味がありそうだ。高麗以前の訓読法が、1973年に仏像胎内から発見された新羅の「旧約仁王経」に振られた訓読記号から明らかになった。「仁王経」は「法華経」、「金光明最勝王経」とあわせ護国三部経と呼ばれ、国家鎮護仏教の重要経典であった。日本では奈良時代に相当する時期である。仁王会は高麗王朝が滅ぶ14世紀末まで朝鮮王朝で盛んに行われた。この訓読法と日本の訓読との類似点、及び朝鮮と日本仏教の密接な交渉の事実から、朝鮮半島の仏典訓読法が日本に与えた可能性が濃厚である。新羅では仏教諸宗派のうちとりわけ「華厳宗」が盛んで、新羅に多くの日本の僧が修学に出かけ華厳経を学んできた。日本の書記の訓読と新羅の関係を示す資料として、東大寺の円超の著作(914年)に写本「華厳文義要訣」があり、新羅の僧表員の作であるといわれる。「華厳文義要訣」の訓点と角筆記号は実に複雑な当時の規格であったようだ。朝鮮の新羅と日本の奈良王朝の関係は、華厳宗を通じた交流が見られる。7世紀までの朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国時代で、仏教は372年に高句麗に伝わり、384年に百済へ、527年に新羅に伝わった。日本には百済を経て6世紀半ばに伝わったとされる。668年三国が新羅によって統一されると新羅仏教は最盛期を迎える。唐の義浄の「大唐西域求法高僧伝」によるとインドに渡った求法僧60人のうち8名が新羅僧で、日本僧はひとりもいなかった。


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