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橘木俊詔著 「日本の教育格差」 

 岩波新書(2010年7月)

教育格差を経済的視点からみると

著者橘木俊詔氏の名前はどこか記憶にあって、調べてみると橘木俊詔著 「格差社会ー何が問題か」(岩波新書 2006年)を数年前に読んだことがあった。時代は小泉政権が終わり、小泉首相の新自由主義パフォーマンスをメデァが華々しく報じている間に日本社会が妙にギクシャクし、貧困化が急速に進行していた時代であった。21世紀に入って派遣社員、偽装請負、ニートと日本の労働市場が窮迫してゆく状況の中であった。そういう意味で橘木俊詔著 「格差社会ー何が問題か」(岩波新書 2006年)は時代に大きな警鐘をならすものであった。その格差社会は単に所得格差だけでなく、それをもたらした長期的・側面的な要因として本書「日本の教育格差」は教育の問題を経済学的に論じようとするものである。所得格差は容易に社会問題化するが、その影で進行している教育格差は伝統的に個人の資質・能力の問題に化し易いため、実は階層の問題でありながら、教育格差を社会経済問題として理解する風潮は少なかったようだ。昔から「どんなに貧しくとも、優秀な学生には未来がある」といわれ、境遇の向上には有名大学を卒業することであると考えられていた。上昇志向の典型は「野口英世」であった。問題は優秀でない学生のことである。これを切り捨てるか、勉学環境のために優秀になれなかったとするかで問題は大きく変わってくる。学業を企業活動と考えれば、投資がなければ当然受けられる利益も無い。最初からスタート点が違うじゃないかという疑問が出てくるわけである。これを教育の機会の不平等という。高学歴を目指して塾や中高一貫受験私立校が隆盛する中で、経済的理由から学校を辞めるものも目立つようだ。

人がどの程度の教育を受けたかは、その人のその後の人生にかなりの影響を与える。このような教育の格差は、人生における結果の格差につながる問題である。本書はこうした教育に関する格差の実態や要因、それらがもたらす問題について検証するという。本書の第1の特徴は、学歴による格差を、@最終学歴の格差 A名門校と並の大学の格差 B専攻科目別の格差というかなりナウなポイントから見ることで、最近の教育格差問題をよく見られることである。今の高卒では昔の中卒と同じく組織の最下層である、有名でない私立大学を出ても殆ど大学卒の待遇はなく非正規社員になる、法学部や人文系は就職で不利である。これぐらいの常識を備えてないと、世の中を渡ってゆく最初でつまずいてしまうのである。大学が大衆化(50%の人が大学を卒業する)したが、昔の大卒の境遇を受けられるのは一握りで、あとの大卒者は高卒並みにしか扱われない。高卒者は昔の中卒並にしか見られない。大卒層が上下に分解し、下を押し下げている構造である。そのうえで日本が学歴社会なのか、教育の機関平等という原則は日本でどれだけ達成されているのかを考えなければならない。教育の問題は教育関係者は学力や創造性という人間教育の観点から論じる場合が多く、経済学者は職業教育や社会の需要、所得という経済学の視点で論じる。本書の第2の特徴は学力低下や学力格差などの問題を、教育機会の格差とおよび結果の格差の両面に注目することである。

教育格差には、教育機会の格差とおよび結果の格差があるという2つの論点に注目した。第1の結果の格差については、最終学歴による賃金格差は欧米や韓国のような凄まじい差は生じていない。そういう意味では日本は強烈な学歴社会ではないかもしれないが、将来のトップグループまで上り詰めるかどうかにはやはり歴然とした差がある。それは能力主義・実績主義が浸透してきたことによるが、超有名大学卒がトップになる確率はまだかなり高いことは事実である。そして低学歴層は非正規労働者の供給源となり、日本社会の貧困率は世界でもかなり高い。結果の格差は厳然として存在する。高校の普通科は75%、職業科は20%で、特に普通科の就職組は満足できる職業にはつけないだろう。それは大学でも同様で、文系一般法学系は職業では専門性は期待されず、何でも屋、使い捨てになる可能性が高い。理科系は就職は良好であるが、製造業を除いて組織のトップにはなれない。専門性が期待され賃金・モラルも上質なのは、医系だけである。第2の機会の格差で、一番大事な要因は家庭の経済状況である。格差社会の上層部の子弟は教育投資額も大きく断然有利なスタート点に立てる。教育費は日本は世界でアメリカに次いで一番高い。昔は安かった国立大学の授業料はいまや値上げによって年額50万円を越え(私の時代の授業料は年12000円だった)、私立大学では100万円以上である。私立大学の比率が高いことも教育費の高騰の要因である。政府の教育支出はOECD国では最低で、昔から授業料は100%個人負担であった。給付型奨学金制度を拡充するか、公費による教育支出(私学助成金や授業料の公費負担制度)を増やすことが、教育の機会平等には欠かせない。高校以下の教育費では塾や予備校など学校外教育費の問題も大きい。有名校に入るための学校外教育はいまや必須の条件となっている(ちなみに私は小学校から高校まで、すべて公立校で家庭教師や塾など学校外教育を受けたことがなかった)。貧困家庭でも学校内教育だけで学力を上げるには、本人の能力・努力以外に、少人数教育を徹底して質の高い教育を受けさせることである。そして高校授業料無料化のように家計負担を減らすことも重要である。第3の視点は教育は何のためにあるのだろうかという問いである。教育学の視点のみならず、費用対効果の観点から、文部省がこれまで一貫して無視してきた職業教育も必要であろう。これらの格差問題をクリアーして平等なスタート点に立ったとしても、大学教育は研究者養成のためにあるのではなく、人生の大半を占める職業の選択を考える場でなくてはならない。

1) 学歴社会の実相

教育格差を問題とする場合、社会科学の常套手段として、まず日本は本当に学歴社会なのかを統計データから実証する必要がある。統計データには各種の数値処置が施してあり(統計母体の問題、平均値、定義など)、直ちに恣意性や異論が発生する。そしてそのデータから言えること以上に著者が言おうとする最初からのストーリー性が感じられる場合もある。データがあって、その著者がいうことは必ずしも正しいとは言えない。別のことも言えるのではないかという疑問がいつも附いて回るのが、社会科学の実証の仕方である。その場合自分で論理を組み立てるか、別のデータ-を探してくるしかないのだが、専門外の読書子としてはそこまで付き合っていられない。この弊害を除くには、数多くの本を読んで、相対的に判定してゆくことだ。地球温暖化現象が本当に正しいかどうかほどの論点の難しさは無いのが幸せである。学歴社会の基本的特徴とは、卒業した学校によって、その人の人生経路が変わるということだ。学歴がその人の職業生活に与える効果としては、@最終学歴、A有名大学かどうか、Bどの学部を卒業したかの3つの論点から整理する。学歴間賃金格差の国際比較では、日本では高卒に対する大学卒の賃金格差は1.6倍であり、アメリカの2.8倍、韓国の2.3倍、イギリスの2.6倍、フランスの1.9倍、ドイツの1.8倍に較べると、日本は学歴による賃金格差は小さく、むしろ平等度の高いといえそうだ。また学卒新入社員にたいする部長クラスの賃金格差は3倍、部長に対する社長の賃金格差も3倍というのが平均的な一流企業の例である。アメリカほど経営者の収入は高くない。次に有名大学(一流大学、ブランド大学)と役職につくチャンスの問題である。社長、役員という職に就く確率の多い大学のベスト10は、京都、一橋、慶應、東京、神戸、早稲田、名古屋、中央、横浜国大、大阪市大というところである。現在の企業の最高経営者の28%は東大、9%は京大、一橋、7%は慶應、5%は早稲田というところである。もちろんこのブランド大学を卒業していても最高経営者になれない人も多いことは当然である。かって日本が高度経済成長から安定成長に移った時点で、一流企業の採用制度が「指定校制度」を採っていたので、旧帝大7校と一橋、東京工大、慶應、早稲田、中央、明治など以外のリクルートは玄関払いという時代もあった。Bの卒業学部の問題は専門性にかかわるので、昔から医学系(医学、薬学、看護、リハビリ、獣医、バイオ技術)、は教育と職業が直結していた。一番曖昧なのが、司法以外の法学、経済、商学、社会学などの文科系であった。潰しが利くといえば聞こえはいいが、何でもやりますの一般職(営業、管理、官吏など)しか就職が無いというのが現在の実態である。

現在高校への進学率は1980年以降95%で、大学への進学率は2000年以降50%である。全日制高校の構成割合は、1990年以降普通科は73%、職業科が20%、専門科が3%、総合科が4.7%である。普通科の殆どが大学か専門学校を受験する。普通科から就職すると満足できる職業には就けない場合が多い。高校で就職するなら最初から職業科を選ぶべきである。これだけ大学生の数が増えると、大学入学の間口が広くなり有名大学からそうでない大学までの格差がますます大きくなった。1990年代より少子化の時代に入り、大学経営の点から、学力選抜試験から無試験に近い大学まである。2000年以降の不況から高校卒業者の就職難から大学へ入学する学生もあり、少子化現象から大学全入時代も噂されている。こうした大学大衆化路線は私学を中心に行なわれ、高い授業料を修めて卒業しても、昔のような大卒のプライドも待遇も無い、むしろ非正規社員の道しかないような就職状況が待っている。

2) 家庭環境の影響力

学歴を決定する要因として、本人が生まれ育った家庭環境に影響力に比重が高まっている。大学の授業料は本人負担が原則であるので、家計所得の大きさが子供の大学進学率に大きな影響を及ぼすことは容易に推測される。両親の年収と、高校卒業後の大学進学率、専門学校進学率、浪人、就職率の関係を調査した東大大学院の結果では、年収200万円では各々、35%、25%、5%、35%であるが、年収600万円では50%、20%、6%、20%で、年収1000万円では65%、16%、8%、11%で、年収1200万円では75%、10%、12%、5%である。総じて言えば、年収が多いと大学進学率は増大し、専門学校進学率、就職率は低下する傾向が明白であった。年収に比例して大学進学率は35%から75%へ増大し、就職率は35%から5%に低下した。貧しい家庭の子弟は大学進学と就職が相半ばしていたが、高額所得家庭では圧倒的に大学進学率が高い。社会移動が閉鎖的であると、親と子供の職業が同じになり、社会異動が開放的であるとは親とこの職業選択が異なることである。日本が格差閉鎖社会に入ったのではないかという主張がなされる。親の所得が子供の学力形成に影響し、教育水準の決定(教育格差の固定化)につながる恐れがあるというのである。文部省の調査によると、小学校6年の学力試験の結果を親の年収で整理すると、国語、算数とも正解率が見事に親の年収と比例関係が見られた。あまりに見事なので帰って疑いたくなるほどである。年収700万円が丁度正解率の平均を示す。ある年収以上では正解率はばらけるのではないか(後は子供の能力次第)と思い勝ちだが、とんでもないどこまでも年収と正解率は比例して向上している。こんな統計データがどうして取れるの不思議だ。学力テストの答案用紙に親の年収を記入するのか、親の源泉徴収書を貼り付けるのか、文部省の役人が後で国税局へ行って受験子弟の親の年収を徹底的に調べたのか、どうして調べたのか興味津々である。それはさておき、親には「学歴下降回避願望説」や「名門度上昇志向説」や「インセンティブ・デバイド説」があって、子供だけには自分よりよい教育と学歴を与えたいという願望があり、無理をしてでも教育熱心になる心理があるはずだ。ところが現実は親の収入に見事に比例して子供の学力が決定されている。イギリスのパブリックスクールでは親の文化的社会的階層が重視され、グラマースクールでは学力が重視されている。日本やフランス、韓国では徹底して学力重視(オンリー)で生徒を評価してきた。親の職業が専門管理職や農業であると子供の学習時間も長くなるが、親が事務職やサービス職・自営業などでは子供の学習時間も短いという調査がある。親を見て子供が育つのか、家庭の教育への熱心さがそうさせるのだろうか。

親と子の年代に代表される40年の期間を隔てた学歴別の卒業者の職種別就職者比率の変化を見ると、大学卒業者は1970年には専門管理職が40%、事務職が31%、販売職が23%であったが、2008年には専門管理職が33%、事務職が33%、販売職が23%になった。つまり専門管理職が減ってサービス職が増えている。高校卒業者は1970年には事務職が34%、販売職が17%、サービス職が4%、生産工職が31%で、2008年には事務職が11%、販売職が11%、サービス職が14%、生産工職48%となった。つまり事務職がへってサービス・生産工職が増えたということだ。「職業に貴賤はない」というが、その構成比率がこの40年で専門管理から事務、販売、サービス、生産の方へ流れていることは明白だ。つまり40年前に中卒者の就いていた職業に高卒者がつき、高卒者の就いていた職業に大卒者が就く確立が高まったということである。これは生産の合理化と自動化によって仕事の内容が大きく変化したことによるのか、日本の産業構造が生産業から流通・金融・サービス業へ移りつつあるためなのだろうか。単純に労働供給側の学力が上がったと喜べるのだろうか。

3) 学校教育の進展と新たな格差

学校教育の目的には、ひとつに人が生きてゆく上で何らかの労働に従事して所得を得なければならないので、教育を受けることにより知識と技能を高めることである。もうひとつは人として生きる上で社会や他の人との接し方かたを教育から学び、よりよい価値観、社会観、道徳観を持てるようにする事である。西欧の教育方法とは基本的に上流社会ほど個人授業であった。日本でも江戸時代から個別授業であったが、近代国家形成のため明治時代に学校教育が始まった。1886年に「小学校令」、「師範学校令」、「帝国大学令」などが施行された。教育学的に言えば、文字による教育の普及と国民国家形成が急務であったからだ。経済学的な視点からいうと産業発展のための人材需要が大きかったからである。学校教育とは多くの生徒・学生を対象に授業・実験などの指導を行なう「一斉教授法」になった。教育学のことは本書の得意とするところではないので、教育方法に関する変遷は省こう。経済学的な視点から論じると、アダムスミスの「道徳感情論」において、人間が生産活動を行なううえで秩序ある効率的な生産組織を運営するためには道徳が必要であるという。マーシャルの「経済学原理」では、非熟練労働者の教育訓練は生産性向上に必要であり、かつその人の生活の向上にもなくてはならないという。第2次世界他戦後には人が学校教育と企業での職業訓練を受けると生産性が向上するという「人的資本理論」と、組織内での人の選抜評価で候補者の学歴がひとつの有力な判断基準であると云う「スクリーニング理論」が提出されたが、教育学の観点はこの理論をよしとしない。実用的な教育目的は不純だというのだろう。建前はあくまで人間性向上のために教育はあると云うのだが、実際はそうは動いていない。教育学と経済学の教育の目的は異なるが、経済効率と公平性の双方を満たす教育のあり方こそが求められているのではないだろうか。

教育は公共財か私有財かという議論がある、国による小中学校の義務教育は基本的に無料で行われてるし、子供に教育を受ける権利があると憲法でうたわれているので、公共財とみなしていいだろう。私立大学の授業料は極めて高いので私有財とみなされるが、国から私学助成金が支払われているので準公共財ということも出来る。明治時代以降、近代的専門的知識の習得は財政不足の折から国立大学だけでは到底まかなえず、最初から私立学校の存在が不可欠であった。慶應、早稲田や東京の私立専門学校(今でいう大学)の果たした役割は極めて大である。日本の大学制度の成立過程については、天野郁夫著 「大学の誕生」(中公新書 2009年)に詳しい。現在小中学校の教育は殆どが公立であるが、高校の20%は私立である。大学では私立の比率はさらに大きい。義務教育は公立であるので、公立の小中学校ではすべての生徒に最低限の学力をつける事が最大の目標となる。公立小中学校は学区制が採用されて、様々な子供を受け入れる事を最大限の特徴としている。教育の平等性が希求されているからだ。そのため特殊性・効率性の間隙を縫って私立校の小中学校も存在する理由がある。小学校から私立に通わせたり、中高一貫校への人気が高まるのは、自分だけ出し抜こうとして公立校の平等性の裏を突く作戦なのである。いつでも、どんな制度を作っても、こういう輩は後を絶たない。特に裕福な金のある階層に多いのである。これを志が低いというか、人情というか?

国立大学付属中学や私立中学校の在学率は、バブルがはじけ不況が深刻化した1990年代から急速に増加し始め、4%からいまや8%になろうとしている。私立中学・高校一貫校として名門大学への進学率の高さを売り物にした受験校が隆盛を見ている。ここに矛盾する面白いデーターがある。全国学力テストの公立・私立別の成績を見ると、小学校も中学校も私立校の成績がかなり高いことが示される。ところがOECD学力達成度調査によるとPISA2006の点数は日本はOECD加盟国平均と違って公立高校の成績の方が私立高校より高いのである。著者はいろいろこの違いを説明しようとしているが、私にはどうも明確に理解できない。調査法に何か問題が隠されているとしか言いようが無い結果である。飛びぬけた私立受験高校だけが話題になるだけで、平均で言えば私立高校の全体の質は低いのだろうか。それなら小中学校も同じような結果が出てもいいはずで、とにかくこの2つの結果は矛盾していて決着がつかない。教員1人が受け持つ生徒の数はいわゆる教育環境や少人数教育の指標となるが、日本では小・中・高・大学のどの段階でも公立校の方が小さくて恵まれている。公立高校では13人、私立高校では17人であり、大学では私立は公立の2倍以上になっている。これも公立校の平等性が高い事を示している。すると残るは受験教育の効率性が私立有名校がずば抜けてた高いということだろう。遅ればせながら公立の中・高一貫校が出来つつあり、公立も受験技術に長けた教育に変わり始めたようだ。名門公立校(かってのナンバースクール)の復権をめざしている。東大に何名入学という分りやすい教育数値目標を提起して先生と生徒を競わせる教育である。日本の特徴である学校外教育費用(塾など)と成績の関係を文部省が調査した。月当たりにかける学校外教育費に比例して算数の学力が上がるという恐るべき結果が出ている。月5万円以上の金をかけると算数の点数が2倍になるという。

地域別の学力テストの結果はいつも都道府県教育委員会と教師が戦々恐々とするものでるが、深刻な格差問題は、東京や大阪といった大都市内に存在する。低所得貧困家庭子女に援助する「就学援助」を受ける小中学生が急増しているという。そしてそれが小が生の学力順位にも反映している例が東京都で見られる。港区、千代田区、文京区など高所得者の多い区では学力順位はトップクラスで、江東区、江戸川区、葛飾区、足立区などの低所得者が多い区では学力順位は最低クラスである。高校間での格差というか序列化が進んでいる。それは大学の序列化と同じである。判定基準は本書では書いてないが、高校をトップ校から下位校まで4段階に分けられるという。大学も偏差値から、60以上から50未満まで4段階に分けて高校生の進学を見ると、高校ランクトップでは約半数が偏差値60以上の大学に進学でき、下位校では偏差値50未満の大学に進学する。これを大学側から見ると、偏差値60以上の有名大学の入学性の半数は上位高校から、31%は中堅上位高校から入学してくる。麺幸50未満の大学では下位校から54%、中堅下位校から26%が入学するという結果であった。こうして高校も大学も序列化され、有名高校から有名大学へという「単線型受験競争社会」になっている。

4) 不平等化する日本の教育

戦後親の社会階層が低くても、子供が望んで努力して高い教育を受けることが可能な時代となり、そうした時代はバブルがはじけるまで続いた。いわゆる「一億総中流化」の時代であった。しかし最近になってそうした状況が崩れ、教育を受ける機会の不平等が拡大しているようだ。学費負担の増大がまず第1に挙げられる。国立大学の授業料は1975年まではめっぽう安かった。私立大学の授業料の1/10 以下であった。だから貧乏学生でもあるバイトをすれば国立有名大学に進学することが出来たのである。ところが1979年より国立大学の授業料がうなぎのぼりに上昇し、2004年には年間授業料は52万円、入学金は28万円となってしまった。私立大学との差は1.5倍程度に縮小した。大学の負担割合は1960年に個人が3割、政府7割であったのが、2000年には個人負担が60%、政府負担が40%と逆転した。それは親の収入が子供の進路に大きく影響してきたことである。親の年収400万円では高校卒業後の大学進学率と就職率はほぼ同じ30%であるが、親の年収1000万円では大学進学率が62%、就職率が5%程度となっている。親の収入が少ないと大学へはいけない時代となった。その要因は教育費の自己負担が高いこと、政府の教育費負担のGDP比がOECD加盟国中最低であることによっており、確実に教育の不平等が進行した。政府予算に占める教育予算もOECD加盟国中最低で9.5%に過ぎない。アメリカは14%、韓国は15%である。日本の教育が明治以来かなり私学に依存してきた歴史があった。教育投資における一人当たりの公財政支出の欧米との比較において、日本は小・中教育は平均的な支出で遜色はないが、大学教育費負担が欧米の半分以下で極端に少ない。大学など高等教育への公的負担と私費負担の割合は、日本は33%対67%である。そして驚くべきことに就学前教育の公的負担はアメリカ・イギリスの1/3、フランス・ドイツの1/2に過ぎない。幼稚園・保育園の縦割り行政の弊害から幼保一元化が進まない。民主党の「子供手当て」支給は確かに親の負担を軽減する政策である。奨学金などの学費援助制度は日本が最も貧弱である。学費免除、奨学金給付または有償貸しつけ、無利子か利子補助での返済なのかという点が問われている。アメリカの13兆円という奨学事業にたいして、日本では学生支援機構の奨学金は7000億円と非常に少ない。教育という面では日本はアメリカ以上に新自由主義国である事が分る。欧州では大学生の数は日本やアメリカより少ないが、学費は基本的に無料である。

低所得者の子弟が大学進学を望んだとしても、そこには様々な困難がある。しかも近年世界的規模の不況によって、そうした状況は深刻さを増している。現在の日本の不備な学費援助制度のもとでは、低所得者層や貧困層の者が多ければ、教育の機会の不平等もますます拡大するのである。日本の社会が「総中流社会」から明白な「格差社会」になっていることはようやく認識されてきた。日本の貧困率は厚労省の「国民生活基礎調査」(国勢調査)により検証することが出来る。貧困率は自民党政権下では発表してこなかった。OECDは可処分所得の平均値の半分以下の人(年平均所得が300万円とすると、150万円以下の人を貧困者とする)のわりあい(相対的貧困率)をいうのである。2008年OECD調査によるとOECD加盟国26カ国の平均貧困率は10.6%であるが、日本は15%とアメリカに次いでかなり高い。欧州各国の貧困率は平均以下である。日本の総務省の調査では貧困率は2004年で9.5%であるという。厚労省の貧困率15%より低い値であるが、これは統計基礎が違うのでなんともいえないが、1984年度(7.5%)からの5年に1回の調査では毎回貧困率は上昇している。民主党政権は日本の貧困率を公表した。2009年10月の発表によると2007年度の貧困率は15.7%であった。OECDの統計値に近い値である。パート労働や派遣労働者のような非正規労働者が増加したため、小泉内閣以来格差社会を当然とする「勝ち組、負け組」という流行語に象徴される「弱肉強食社会」が現出したためである。年収150万円以下の低所得者数は2007年に24%を越えた。その犠牲者は主として若者と母子家庭であった。特に母子家庭の貧困率は66%であり、母子家庭のOECD貧困率平均値31%を2倍以上超えている。そして低学歴者に貧困者が急増している。フリーター率は男性で全体が9%、女性が22%であるが、義務教育だけの学歴者のフリーター率は男性で22%、女性で50%、高卒者のフリーター率は男性で11%、女性で30%である。低賃金、不安定労働は確実に低学歴者を直撃しており、特に女性の貧困率は際立っている。労働者の序列化も深刻である。大企業正規社員、中小企業正規社員、大企業非正規社員(派遣、季節工、請負など)、サービス、流通業の非正規労働者、フリーター、そして女性パート労働者という順である。フリーター、そして女性パート労働者の最低賃金時間給はいくら働いても生活保護以下である。

5) 教育の役割

教育の目的を巡る思想状況は5つに分けられる。@画一的な規制教育、文部省官僚、A保守主義教育、 国家主義・道徳教育重視の自民党右翼政治家、B新自由主義教育、 自由と選択理論、個人格差を当然視し教育の企業化、C社会民主主義教育、 日教組の伝統的教育論、能力主義反対、差別教育反対、D政治的リベラリズム教育論、基本的自由の権利と公平な機会平等主義である。著者の信条でもある政治的リベラリズム教育論を拝聴してゆこう。 
著者はジョン・ロールズの「正義論」、ロナルド・ドゥウヲーキンの「平等な尊敬と配慮の権利」という事をリベラリズムの根底に置いている。リベラリズムは自由と平等の契機を等価に扱うことである。平等に重点が移る時、ジョン・ローマの「機会の平等」というマルクス主義教育論つまり日教組の理論となる。ジョン・ローマの「機会の平等」には耳を傾けるべき思想がある。人には生まれつき能力差があり、これを少しでも緩和するため教育投資をしてその人の能力を高めるべきだとする。家庭環境がその人の学ぶ力に与える影響は大きい。僻地、貧困、人種などが入り組んで教育格差を形成している。日本の学区制小中教育のいいところは地域の共同体意識の中で教育が行なえることである。無論選択の自由と平等は確保されなければならない。日本では能力別・習熟度別学級編成は秀才学級と落ちこぼれ学級の差別を生むから絶対反対という教師が多い。しかし私立進学校が学校全体として秀才クラスなら、学区制公立校は全体として落ちこぼれクラスの序列化に甘んじているといえようか。そこで著者は小人数クラスにして、教育の質の強化という折衷案を出すのである。教育の目的を労働生活の準備と見るのか、崇高な人格形成と見るのか、序列化による最高位を占めたい人間はどこでもいつでも存在するので、どのような教育システムを作っても序列化は免れ得ないと見るのかによって、価値判断は異なる。公立校の教育システムが支配的であるから、私立中高一貫受験校という抜け駆け的受験校の存在意義がある。全部が灘高、開成、ラサール、教育大付属といった中高一貫受験校という競争システムになれば、さらに激烈なシステムが考案されるだろう。そして最後に文部省は大学の存在意義を研究やノーベル賞をもらえるような創造的人間養成だけでなく、大多数の人間が一生働くために職業教育を前に出してゆくべきではないだろうか。


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