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朱建栄著 「毛沢東の朝鮮戦争」 

 岩波現代文庫(2004年7月)

1950年10月19日中国義勇軍が鴨緑江を越えるまで 毛沢東の選択

朝鮮戦場に地底から沸き起った中国義勇軍というイメージはあっても、著者の朱建栄という中国人については全く知らない。本の末尾から著者を紹介する。1957年中国上海生まれ。1981年東華師範学校を卒業後、84年上海国際問題研究所付属大学院修士課程卒業し、86年来日。総合研究開発機構客員研究員、学習院大学局員研究員を経て、1991年「毛沢東の朝鮮戦争」(岩波書店)を発刊。これを基にして学位論文を学習院大学に提出、博士号(政治学)を得る。この本は92年に第8回大平正芳記念賞、毎日新聞社第4回アジア・太平洋賞特別賞を受賞した。現在東洋学園大学人文学部教授である。著書には『江沢民の中国』(中公新書, 1994年) 、『ケ小平は死なず』(講談社, 1995年) 、『江沢民時代の大中国』(朝日新聞社, 1997年) 、『中国2020年への道』(NHKブックス, 1998年)、 『毛沢東のベトナム戦争』(東京大学出版会, 2001年) 、『中国第三の革命』(中公新書, 2002年) 『胡錦濤対日戦略の本音』(角川書店, 2005年) と本書岩波文庫版(2004年)である。朱建栄氏は中国現代史、中国現代政治を研究する学者である。本書は朝鮮戦争最大の予測不可能事項であった中国の参戦を始めて膨大な資料を基に明らかにした。1949年に建国された「中華人民共和国」中国の戦争前の状況、戦争準備、金日成への対応、毛沢東の参戦目的、周恩来・スターリン会談の内容、など秘密のベールに覆われた数々の事実をほりおこして、あわせて戦後世界への影響を考察している。1991年のソ連邦の崩壊と中国の開放政策によって第1級の史料が開示されたため、旧版をかなり書き直し、本書岩波現代文庫版は2004年段階の時点における中国の朝鮮戦争参戦の政策決定に関する研究成果の集成となった。

朝鮮戦争の謎を解く研究は、歴史的に大きく2つの段階に分けられる。第1段階は戦争中から1980年代の末までである。夥しい研究が出されているが、冷戦期の二大陣営各自の公表史料に基づいているため、資料に限界があり、学者間の研究応流も制限されていた。90年代に入って朝鮮戦争に関する研究の質的な飛躍が起きた。理由はいうまでもなく、ソ連の崩壊と中国の開放政策の進展である。米国の歴史文書公開も続き、朝鮮戦争をめぐるグローバルなシンポジウムも開催されて史料の比較検討が進んだ。中国側の史料では義勇軍総司令官だった「彭徳懐自述」、解放軍総参謀長代理だった「聶栄臻回憶録」そして、第1級資料である「建国以来毛沢東文稿」、朝鮮戦争に対する中国の正統的見解を示す1990年の「抗美援朝戦争」、2000年の中国軍事科学院軍事歴史研究部著「抗美援朝戦争史」である。著者は1991年は旧版を発行後、2002年ワシントン大学で半年間多くの資料を閲覧できる機会に恵まれ、東西の資料を渉猟したという。その成果が本書改訂岩波現代文庫版となったという。1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、端緒の2ヶ月は北の破竹的南下で韓国軍とアメリカ軍を釜山に追い詰めたが、伸びきった戦線は9月16日に米軍が仁川に上陸したことで断ち切られ、壊滅的打撃を受けた。米国軍が38度線を越え鴨緑江に迫ったころ、中国は参戦を決定した。13万人の国連軍の北上を阻んだのは30万人近くの中国人民義勇軍であった。中国の参戦兵力は延べ500万人、最高投入兵力は1953年4月の130万人であった。まさに人海戦術で、朝鮮半島北部は中国兵で埋め尽くされた。国連発表の義勇軍の死傷者は60-90万人、中国発表の死傷者は36万人(死者13万人)であった。この朝鮮戦争参戦による中国封じ込め政策によって経済再建が遅れ、台湾奪回による国土統一の機会を失ったといわれるが、世界最強の米軍を38度線まで追い返したことにより、国際社会における中国の位置はゆるぎないものになり、社会主義国際関係でナンバー2の位置を不動のものとした。中国の朝鮮戦争参戦の政策決定プロセスは決して一枚岩の戦略であったわけではなく。毛沢東の強い意志が政策決定に大きな力をもった。世界の誰もが建国した翌年に、蒋介石派の匪賊の暗躍、財政破綻状態、武器装備の後進性、国内の厭戦気分などの国内問題が山済みしている中国が戦争に参加できるとは思っていなかった。アメリカ大統領トルーマンさえ中国参戦はありえないと考えていた。戦争を引き起こしたスターリンと金日成の後始末に中国は巻き込まれたくはないというのが、当時の中国指導者であった周恩来、陳毅、林彭を始めとする政治局員の気持であった。それを覆したのが毛沢東の米国帝国主義の中国侵略論である。本書は6月27日のj開戦直後のトルーマン大統領の声明から始まり、北京の事態把握と軍備進捗状況、10月19日の義勇軍の鴨緑江渡江にいたる政策決定の具体的プロセスを解明することである。戦争そのものの軍略的経過は追わない、戦争開始までの政策決定を詳らかにすることが本書の目的である。

1) 6月25日 朝鮮戦争開始と中国の戦略

1950年6月25日に始まった朝鮮戦争(1953年停戦)の引き金を引いたのは誰かという問題については、金日成とソ連だとする西側報道関係、アメリカだとする北朝鮮、「誰が最初の一発を撃ったかは決定的な要素ではない」とする中国紫軍武駐朝鮮臨時代理大使の微妙な正論的発言などがあった。しかし1990年代以降、旧ソ連の崩壊後、朝鮮戦争関連公文書が公開され、6.25は北朝鮮側が発動したということは、もはや疑問を挟む余地はなくなった。金日成がスターリンの支持を取り付け、ソ連製重戦車で武装した北朝鮮軍がソ連軍事顧問団のアドヴァイスを受けて「朝鮮祖国統一戦争」という賭けに出たことが明らかになった。これを米国が感知していたかどうかが問題である。6.25以降7月、8月と怒涛の勢いで北朝鮮軍は南下を続け、釜山まで韓国軍と米軍駐留軍を追い詰めたことは、はたして北の不意打ちだけでは説明がつかない。真珠湾攻撃を利用し日本への参戦の機会をまっていた米軍と同じように、北の攻撃を予知しながら朝鮮半島南端まで北の主力部隊を一気に引き寄せ、北の戦線が伸びきった時点で、9月15日仁川上陸作戦で後ろから北の主力を遮断し包囲殲滅するという、米軍の戦略的意図を感じるのは私一人ではあるまい。だが本書は米軍の戦略を問題とする本ではなく、中国の参戦という政策決定プロセスを中心課題とする本である。元に戻ろう。日中・太平洋戦争末期、ソ連の満州進撃と原爆の広島長崎投下で日本は戦意を失った。中国共産党指導部は圧倒的な軍事力をもつ蒋介石政権との対決に備えた。ソ連でさえヤルタ協定に基づき中国の蒋介石国民党政権を相手とする政策を取っていた。中国共産党の独自戦略は東北(満州)進出であり、1946年林彭の指揮する第4野戦軍は東北部を制圧し、1948年には共産党と国民党との力関係が逆転し、ソ連の外交方針も毛沢東共産政権を相手とする調整を余儀なくされた。

「革命は自分自身の力に頼る」を信条とする中国指導部は、ソ連が朝鮮革命に対してはすでに深く関っている(建国をふくめ)ため局外的態度であった。また北朝鮮指導部も過去の伝統的な中国支配を嫌って中国を敬遠していた。1948年9月朝鮮民主主義人民共和国が建国し、中国人民解放軍内の朝鮮民族兵士の帰還問題を49年1月ハルピンで協議し、3万5千人をこえる兵士が北に帰った。これで北朝鮮人民軍の兵力は3個師団から5個師団に増強された。1949年10月に建国した中華人民共和国政府は12月に毛沢東がスターリンと協議し、「中ソ友好同盟相互援助条約」に調印した。この毛・スターリン会談では金日成の「南進」計画が協議された形跡は無いし、中国に事前了解を求めた証拠は存在しない。朝鮮戦争が「国内戦争」、「祖国解放戦争」だったかどうか、開戦当時ソ連が北朝鮮に深くコミットしている以上、建国して間もない中国にとって、他岸の火事的態度を取るのは一理ある。朝鮮戦争で冷戦が世界的規模で始まったのである。50年6月27日トルーマン大統領が介入の声明を発表し国連軍が上陸して、中国は本格的な国際戦争に突入した。1949年前半では韓国軍の方が優勢を伝えられ、38度線を睨んで衝突は頻繁に起きていた。49年3月3日モスクワに到着した金日成はスターリンに「南進」を打診したが、スターリンはきっぱり断ったという。ここから金日成の必死の暗躍(2大国の矛盾を利用し大国の力を借りて事を行なう半島外交)が始まったのである。1ヶ月ほどして北の支援による南におけるゲリラ作戦や拠点作りが開始された。これを許したのはスターリンであるが、中国は北に対して無関心でソ連に任せ放しで、独自の北朝鮮外交ルートを持っていなかったためである。そこに金日成が付け入る余地を与えたのである。毛沢東にはスターリンが同意しているという「スターリングカード」を使い、スターリンには「毛沢東の全面的助力が得られる」というカードを使った。そして毛沢東がスターリンに確認を行なうと、スターリンは「確かに、朝鮮統一の願いに同意した。しかしこの問題は中国と朝鮮の問題だ。もし中国が同意しないなら考え直す用意がある」という返事であった。これは暗に責任を中国にかぶせる狙いがあり、もし同意しないなら朝鮮統一の失敗の責任を中国に取らせ、もし同意するなら朝鮮戦争の解決は中国と朝鮮にあると云うものだった。毛沢東はこれを受け入れる以外に選択肢は無かったようだ。

6月25日以前の中国の見方は、基本的に朝鮮労働党の祖国統一は支持する、そして米国はこれに介入しないだろうと軽く見ていた。1950年初めの中国指導部には、国民党残党の討伐、チベット解放、海南島及び台湾の開放以外は念頭には無かった。長年の日中戦争と内戦による破壊された国内経済の建て直しのため500万人あまりの解放軍の整理と経済再建問題にあった。「銃をすて鍬をもて」と50年4月に毛は復員工作条例を発布し、兵士の140万人を農民に返すという計画であった。50年1月「国防機動部隊」を設置し最も精鋭な第13集団軍を東北、熱河に移動した。そこでやった仕事は農業であった。1950年5月頃の全中国への解放軍の配備状況は、北からいうと東北22万人、華北40万人、西北60万人、北京30万人、華東130万人、中南150万人、西南100万人であった。6月27日トルーマン大統領は米国軍の朝鮮戦争介入、第7艦隊の台湾海峡進駐、フィリッピン・ベトナムの反共勢力への支援をおこなう趣旨の声明を出した。これに対する中国の反応は、6月28日軍事オブザーバーグループ(紫成文首席代表)を派遣すると発表した。中国の「アメリカ帝国主義の侵略」に対する反応のワンパターンさは、過去の米軍の援助を受けた蒋介石の四平の攻撃によって、解放軍が挫折を受け全面内戦に移行した経験によるもので、毛沢東のトラウマに起因していた。中国はアメリカ帝国主義の戦略を「三路向心迂回」と呼び、朝鮮半島、台湾、インドシナ方面から中国を侵略すると信じ込んでいた。だから台湾は必ず取り戻す、朝鮮・ベトナムについても座視するわけにはゆかない。中国を朝鮮に誘い出すことはアメリカの戦略であり、アメリカのワナに落ちたという見方がある。中国の伝統的な思考様式には、歴史的経験を重視し、我も彼も一貫した意図のもとで行動するはずだという理解(戦略的意図を重視)というワンパターンがある。中国はアメリカ参戦を中国への侵略と直ちに理解したのだ。

2) 6月28日-7月 東北辺防軍の創設と調整

6月28日政府委員会第8次会議が行われ、トルーマン声明の分析が中心課題となり、当面の課題を@経済再建政策は継続する、A朝鮮支援任務は東北地方政府(首席高崗)に任せる、B朝鮮侵略反対運動を展開するというものであった。7月2日周恩来はソ連大使と会談したが、朝鮮指導部の米国介入の可能性の過小評価と金日成への不満を述べたといわれるが、この時点では中国はまだ朝鮮戦争のプロセスに関して傍観者の立場にあって、情報収集の段階であったと思われる。中国と朝鮮指導部との連絡は不十分であり、ソ連を介した情報連絡では金日成に翻弄されていた。7月7日国防軍事会議において第13集団軍(林彭の影響下にあった)を中心とする東北辺防軍の創設が決定された。7月13日「東北辺防軍」の組織が決定された。東北辺防軍司令部司令官兼政治委員 栗裕 副司令官 蕭勁光 副政治委員 蕭華 第13集団軍司令官 ケ華 参謀長 解方 政治委員 杜平らが任命された。この人事は殆ど第4野戦軍の人脈であり、林彭の強い影響下にあった。7月中旬では辺防軍は25万5000人であった。7月下旬には鴨緑江北岸に大軍が集結した。7月7日の国防軍事会議において軍事面の戦争準備指令を出した毛沢東は、次に国内政策と、外部環境整備を行なった。アメリカ帝国主義の戦略「三路向心迂回」のひとつであるベトナムについては、軍事指揮者を派遣しない方針を変え、陳将軍をベトナムに派遣した。「朝鮮と呼応し敵を挟撃する」方針である。中越国境付近には数万のフランス軍と10数万の国民党残存兵がいた。南部国境を安定させることは緊急の任務であり、フランス軍がアメリカに呼応して国連軍に参加するのを防ぐためにも重要であった。5月1日第3野戦軍は海南島を攻略し、台湾進行を目指して渡航訓練を行なっていた。そこに米国第7艦隊が台湾海峡に忽然と現れたのである。1949年11月人民空軍が成立したが、アメリカ軍と戦えるような代物ではなかった。海軍の準備もはかどらなかった。6月28日周恩来は蕭勁光海軍司令官を呼んで「陸軍を縮小し、海軍と空軍を強化し、台湾解放作戦の時期は引き延ばす」という方針を伝えた。台湾攻略という方針から防禦体制に切り替え、海上で米軍と交戦する事を回避する結論を出した。中国は台湾の早期攻略をあきらめたのである。

3) 8月 高崗と林彭の異議申し立て

7月下旬には東北辺防軍が鴨緑江北岸に集結した。8月前半から9月半ばまでが中国出兵を巡る政策決定過程の前期である。8月4日政治局会議で周恩来と毛沢東は戦争準備に奔走し、高崗東北軍区司令官に9月上旬までに戦争準備を完了せよと電報を打った。8月13日高崗が主宰する辺防軍将校会議が藩陽で開催され、高崗は義勇軍の名義で参戦し、中国軍が有利に戦える条件分析をおこなった。彼我の参戦兵力比を1対3と見て、祖国防衛戦争というモラルの高い位置づけを行い、原爆にも屈せずというものであったが、毛沢東の9月参戦には触れなかった。8月14日第13集団軍側は、ケ華、洪学習、解方の連名で中央軍事委員会に8月準備完了はとても無理で9月末までにしたいという電報を送った。高崗、蕭勁光らはこの電報を支持していたようだ。8月18日毛沢東は高崗への返電でこの9月末までの完了延期を了解した。8月23日参謀本部作戦室主任雷英夫は毛沢東、周恩来に、国連軍が仁川に上陸する可能性が極めて高いという報告書を送った。7月、8月は北の人民軍は破竹の勢いで釜山に迫ったが、戦線が延びきっており、戦争物資の補給が限界を超していた。韓国軍と米国駐留軍は陣地を固守し北の全兵力をしっかり引き付けたままである。米国は日本に居る第1,7師団を日本にて訓練中である。米英の艦船が対馬海峡に集結している。米軍が狙いをつけているのは仁川で上陸作戦を行なえば、人民軍を切断し包囲することが出来る。マッカーサーは上陸作戦に周知しているなどの理由である。毛沢東は通報という形で北朝鮮指導部に伝えよという事を指示した。金日成はそれを聞いても全軍が出払っており補強の仕様もなかった。8月31日解方が起草し、ケ華、洪学習、解方の連名で朱徳解放軍総司令官に送った報告書は、「朝鮮人民軍は敵を殲滅する機会を失っている。敵が後方に上陸し前後から挟み撃ちにする可能性があり、そうなれば朝鮮人民軍は窮地に陥る。」というものであった。8月26日第2次国防軍事会議が7月7日のメンバーで行われた。各兵力の三段階拡大計画が討議された。毛沢東は兵力集結の規模を拡大する構想は、8月31日の周恩来が消臭した東北辺防軍建設計画会議」であわせて70万人の三段階配備計画が示された。8月31日ケ華、洪学習、解方の連名で送った報告書には「敵が38度線以北まで進出した機を我が軍の参戦時期とする」というコンセンサスに触れている。9月1日柴成文は周恩来に北京に呼ばれ、朝鮮に出兵する場合の困難性」について意見を求められ、林彭は「金日成は山に入りゲリラ戦をやる覚悟はあるのか」と述べ、中央首脳部内に意見の対立がある事が察せられたという。この意見対立は主戦派の毛沢東と参戦準備の実務派の林彭の間で起きていた。

4) 9月30日 周恩来の世界への警告と戦争準備

9月16日国連軍は仁川上陸作戦を成功させた。9月18日周恩来はソ連大使と談話し金日成やソ連への不満をぶちまけた。要するに北京への連絡無しに行なった朝鮮人民軍の(従ってソ連軍事顧問団の)独断専行の失敗への不満が爆発したのであろう。スターリンからの返電は連絡の悪さと戦術のまずさをカバーする金日成弁護論であり、ソ連の責任回避論であった。9月27日と30日金日成は中国倪志亮駐朝大使と面談し泣きを入れた。周恩来の金日成宛電報は重火器を捨て少人数で北へ退却し、一部はゲリラ戦をやるべしという。中国首脳部はこれまでの殆どの連絡がモスクワ経由だった段階を棄て去り、金日成と直接連絡をとり積極的に意見を述べるようなった。9月20日周恩来の責任で中国参戦の基本方針が制定され、「抗米援朝戦争は自力更生の持久戦でなければならない。接近戦、夜間行動によって小規模の敵を包囲殲滅弱体化する長期戦をとる」という内容である。そして先遣隊武官8名を朝鮮に派遣した。参戦部隊を「義勇軍」と呼び、米国と全面戦争をする意志は無いというシグナルを伝えようとした。9月30日周恩来首相は北京で行われた政治協商会議の式典で演説を行い、「中国人民は侵略反対の戦争を恐れない。帝国主義者の隣国への侵略を放置するわけには行かない」と警告した。

5) 10月1日-5日 政治局での大論争と毛沢東の勝利

金日成は「国連軍は仁川に上陸後、凄まじい勢いで北上中であり、人民軍は38度線以北では守備する兵力を持っていない」という窮状を内相朴一兎に中国へ伝言させた。9月28日の朝鮮労働党の中央委員会は、ソ連と中国に直接の軍事支援を求めた。スターリンは大使を通じて毛と周に電報を送り、自分は出兵しないが中国に出動を勧めた。そして金日成に対しては自分が中国に援助するよう働きかけたという姿勢を維持したかったのだ。9月30日マッカーサー国連軍総指揮官は金日成に無条件降伏を勧告し、その日に38度線を越えて北上した。金日成の出兵要請が届き、スターリンからの出動要請が届いた10月1日からが、中国首脳の参戦問題を巡る政策決定がいよいよ大詰めを迎えた。10月1日国慶節祝賀大会で朱徳解放軍総司令官は総司令部命令を発した。10月1日夜、毛沢東、朱徳、劉少奇、周恩来、任粥時の書記局会議が行われた。ここで何が話されたかは分らないが、10月2日午後の拡大書記局会議にはさらに高崗、聶栄秦らが参加して出兵問題を協議した。前夜の会議では恐らく毛沢東の参戦方針が示されたが、周恩来慎重派が関係者全員の参加の席で決めるべきだと抵抗に出たのであろう。毛沢東の参戦構想と反対論の対立はそのまま内部論争として残ったようだ。ここに毛沢東がスターリンに打った2通の矛盾する内容の電報が存在する。1通は参戦の決定をしスターリンに通告する内容で、最初は防衛戦に徹し、ソ連の武器装備の支援を待って反攻に転じる計画が示されている。もう1通の電報は参戦反対派の内容である。拡大書記局会議の討論の行方によっては、毛沢東の参戦構想が支持されるか、反対意見が大勢を占めるかが不明であった。さてどちらの電報をスターリンに打ったのだろうか。10月2日の会議の結論は早期参戦を見合わせることであった。その反対派の中心人物が周恩来であった。

国連軍が38度線を突破して北に侵攻したという情報が飛び交う中で、10月3日労働党常務委員内相の朴一兎が金日成首相、朴憲永外相が連署した親書を持って北京の到着し毛沢東に面会した。毛沢東は義勇軍総司令官に栗裕を考えたが病気療養中ということで辞退し、9月末時点で林彭に就任を要請したがこれも病気を理由に辞退された。そこで10月2日の拡大書記局員会議では彭徳懐を指名し、満場一致で総司令官就任を要請する決定を行なった。林彭は智将、彭徳懐は猛将と並び称されるライバル意識を利用したようだ。10月4日政治局拡大会議が開催され、急遽彭徳懐が北京に呼び寄せられた。毛沢東は粘り強く反対派への説得を続けたが、その日は結論が出ず、翌日の会議に持ち越された。1943年3月の中央委員会政治局決定によると、政治局に意見の相異が生じた場合、毛沢東が最終決定権を行使できることになっていた。翌日毛沢東の意を受けたケ小平は彭徳懐を説得し、総司令就任を要請したという。10月5日拡大政治局会議は切迫した雰囲気のなかで毛の参戦構想を強硬に採決した。毛は参戦かどうかの論争に終止符を打った。

6) 10月5日ー12日 毛沢東の出兵と中止の狭間

10月5日午後の拡大政治局会議ののち、毛沢東は周恩来、彭徳懐、高崗を呼んで指示を出した。@彭徳懐、高崗は藩陽に帰り東北辺防軍の準備完了に全力を尽くす、A義勇軍支援は当面東北政府が負う。高崗がその最高責任者である、Bこの決定を金日成に通告する、C中国の朝鮮出動は10月15日とする、D周恩来はソ連を訪問し、支援と武器購入についてスターリンと協議するというものであった。同日夜毛沢東は第19集団軍に12月5日までの第3次軍事出動令を発した。10月6日周恩来は軍事拡大会議を開催し、義勇軍の軍事戦術、幹部人事などを討議した。10月7日国連総会は、朝鮮新政府樹立に向けての選挙実施と金日成に対して降伏勧告を出した。10月8日毛沢東は「中国義勇軍の設立に関する命令書」を出した。同日周恩来、林彭一行はモスクワに向かった。10月8日中国はソ連大使館を通じて参戦決定を伝えた。参戦日時は明らかにせず、周恩来らが少しでもソ連からの援助を引き出す駆け引きであったようだ。毛沢東は金日成に電報を打ち、平壌大使館の倪大使と紫成文参事官が電報を金日成に届けた。10月9日彭徳懐と高崗は藩陽で義勇軍の幹部会を開いたが、前線の幹部のなかから(林彭の影響下のある)義勇軍出撃における空軍の支援状況を問いただす意見が噴出し、彭徳懐と高崗は連名で毛沢東に電報を打った。これが参戦問題を巡る論争の再燃となった。10月10日彭徳懐は国境の町安東に到着し、鴨緑江の渡河地点を視察した。彭徳懐と高崗は徳川で金日成と打ち合わせをするため毛沢東に電報を打ったが、毛は11日朝1時の電報で「待て」という指示を出した。その前に周恩来とスターリンの連名で「ソ連空軍は中国義勇軍作戦支援のための朝鮮への出動は出来ない」という電報が来ていたのである。ソ連は朝鮮において前線に立たないという大国エゴイズムであり、ソ連から参戦を促された毛沢東としては当然ソ連が空軍支援ぐらいはしてくれるだろうという期待が踏みにじられた。そこで毛沢東は動揺したのである。10月11日毛沢東は彭徳懐に「高射砲連隊を前線に移動するが、空軍は出動不可能である」という連絡をした。中国空軍はまだ存在しないのも同然で、全面的にソ連の空軍力に期待していた毛沢東としては動揺したようだ。これに彭徳懐は援護無しの突撃は死ねというのかと激怒したという。これがのちの廬山会議における彭徳懐の失脚の遠因になったという人も居る。10月12日毛沢東は彭徳懐に出兵中止命令を出した。ソ連の空軍援護拒否のショックは大きく、前線指揮官の反対が意外に強かったので、ついに毛沢東は軍の出動を一時ペンディングにし、再度北京で政治局会議を開くことに決めた。

7) 10月10日 周恩来と林彭の秘密訪ソとソ連の協力要請

周恩来の秘密訪ソは冷戦時代は謎に包まれていたが、90年代ロシア公文書公開でその存在が明らかにされた。旧ソ連、中国側の通訳の証言が出たからである。場所はスターリンの別荘がある黒海沿岸ソチ付近であると云う。10月10日夕方から会談が行われたようだ。中国側は周恩来、林彭、ソ連側はスターリン、マレンコフ、ミコヤン、ベリア、ブルガーニン、モロトフら全員の中央政治局員であったという。10月7日毛沢東から参戦を伝える電報があったからだ。ここで何が話し合われたか、ロシア側の記録と証言は「周恩来は出兵しない事を伝えに来た」とする説を採る。中国側の記録は「出兵するための空軍支援を求めに来た」とする説を採る。中国政府の正式見解「抗美援朝戦争史」では会談は「中国における出兵を巡る見解の相違があったことを説明し、困難な中国の状況を伝えソ連側の朝鮮支援計画をただした」となっている。ソ連の空軍支援につては、義勇軍副総司令官洪学習の回想によると「陸軍は中国、空軍はソ連という合意があったはず」という。しかし「中ソ友好同盟相互援助条約」では中国の防空への協力は謳われていても、中国の参戦への空中支援は別問題であったと見るべきであろう。(日米安全保障条約でも同じ見解が取られるであろう。)その意味で中国軍の朝鮮参戦にソ連空軍の支援をあてにしていたのは、中国側の一方的な思い込みであったというべきであろう。ここで中国は国際政治の冷酷な現実を知らされた。実際ソ連空軍は1950年10月と12月には13個航空兵師団が東北、華北、中南に配備された。12月にはソ連空軍機は鴨緑周辺で米軍機と交戦した。これには中国義勇軍の働きで、朝鮮北部の国連軍を清川まで押し返し、米ソ直接対決の危険性が薄れたからである。そして51年以降は中国義勇軍支配域にあった清川以北にソ連空軍作戦は拡大された。国際法上ソ連の直接侵略には当たらないと判断したためである。

周恩来一行とソ連政治局との会談において、スターリンが提案したのは金日成の亡命政権を中国東北部に作ることであった。亡命政権を受け入れると中国が空爆にさらされ、米国の矛先は中国へ向かう。そこで林彭は金日成は山に入ってゲリラ戦をやるべきだと主張してスターリン提案を打ち砕いた。中国側通訳の証言ではスターリンはこの会談で中国側に武器装備を供与し、ソ連空軍を国境周辺に配備する事を約したという。10月12日から13日にかけて、スターリンは金日成に対して再三「朝鮮北部からの撤退」を勧告する電報を送っている。金日成の「朝鮮統一計画」にゴーサインを出したスターリンとしては、自分の手で時局を収拾するには金日成をあきらめさせる以外の手は思い浮かばなかったようだ。これを実力で動かしたのが毛沢東の義勇軍派遣による国連軍北上阻止であった。いずれにせよ中国は自分の意志と構想で参戦を決定した。この決断と行動力でスターリンは中国と毛沢東を見直し、国際共産運動の中で中国の地位は決定的となった。朝鮮戦争後冷戦構造のなかで、ソ連と中国の一枚岩の結束が誇示され、中国の5カ年計画にソ連は全面的に支援を送った。

8) 10月12日-19日 義勇軍鴨緑江を渡る

10月12日夜、再度拡大政治局会議が招集され、激論の末毛沢東の強い意思で、当面のソ連空軍の支援が無くともやはり参戦すべきであるという同意が形成された。そして第13集団軍前線には出動準備再開の命が打電された。13日夜毛沢東は政治局会議の決定をスターリンと周恩来に送った。15日には平壌が国連軍によって陥落し、韓国軍と国連軍は鴨緑江に向かって進撃を加速した時点で、中国義勇軍の出撃時期は急を告げた。国連軍が鴨緑江に達する前に出ないと義勇軍の参戦時期は失われる。10月14日毛沢東、彭徳懐と高崗の間で義勇軍の渡江作戦が詳細に検討され、19日出兵案が提起された。義勇軍は全26万人が3箇所から鴨緑江を渡り、10日間で渡江を完了し、28日には徳川以南に拠点を構築するという計画である。その構想は防衛線中心で、反撃用の拠点をつくることを目標とした。10月15日藩陽において、高崗、彭徳懐は東北軍司令部で義勇軍師団長以上の幹部会議を開催し、最後の出兵準備と軍の政治動員を行なった。この中で中国の参戦規模が明らかにされ、即時投入される兵力は25万人、第2戦線舞台は15万人、第3戦線部隊は20万人となった。15日金日成は中国の参戦を1日も早く実現するため、朴憲永外相を藩陽に派遣し、彭徳懐と面談した。中国は19日の出兵時期は最後まで明らかにはしなかった。10月16日彭徳懐は藩陽を立ち、安東に入り第2回目の師団長以上幹部会議を招集した。朝鮮半島の地形が狭いことから、中国革命方式の長距離移動の運動戦は採用できないので、陣地の確保を中心任務とした。17日彭徳懐は第13集団軍参謀長解方に朴憲永とともに渡江作戦の打ち合わせを朝鮮側と行なうよう指示した。17日朝毛沢東は聶総参謀長代理に命じて出兵を停止するよう命じている。その理由はソ連より帰ってくる周恩来と最終確認をしたかったからである。10月18日、彭徳懐と高崗は北京に呼ばれ、周恩来を迎えて最後の書記局拡大会議が行われた。夜9時第13集団軍指揮官に至急電報が送られ、予定通り明日19日夜安東、長旬、輯安より鴨緑江を渡江することが発せられた。そして義勇軍の指揮権を統一するため、彭徳懐の司令部は第13集団軍と合併し、人民義勇軍総司令部を構成する。彭徳懐を総司令官兼政治委員に、ケ華、洪学習、韓先楚を副司令官に、解方を参謀長に任命した。朝鮮側から朴一兎を義勇軍の副司令官に指定した。賽は投げられた、10月19日夜中国軍はついルビコン川ならぬ鴨緑江を渡った。彭徳懐、ケ華、洪学習、韓先楚らは別々に朝鮮領に入り、20日に合流した。


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