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木簡学会編 「木簡から古代が見える」 

 岩波新書(2010年6月)

古代のレシートから見えてくる生活と歴史

歴史研究のための資料のうち、文字で書かれた資料すなわち「文字資料」をとくに「史料」と呼んでいる。史料はさらに「文献資料」、「出土史料」、「金石文」などに分けられるが、「木簡」は最も代表的な出土文字資料である。地中から発見された木製品のうち、墨で字が書いてあるものを、広く木簡と呼ぶ。なお正倉院には出土品ではない木簡が存在する。古代の日本においては、木に文字を書くことは広く行なわれてきた。紙が十分に生産できなかった古代は「紙木混用時代」といい、地方では広く木に文字が書かれた。用途に応じて様々なタイプのものがあった。荷物を送るときにそれにつける「荷札」、容器の内容物を記した「付け札」、路傍に掲示する「札」、墓地の「卒塔婆」などなど、近世でも使われる場合が多かった。「下足番札」、「命札」、出席を確認する「名札」などは今でも使われている。これまで1928年の三重県柚井遺跡、1930年秋田県払田柵跡から出土していたが、1961年平城宮跡(大膳職推定地)第1号木簡の発見は衝撃的な出来事であった。765年の恵美押勝の乱前後の政治情勢を伺わせるものとして、第1級の木簡史料として注目された。。日本の木簡は7世紀ごろ最初から「木紙混用」時代から始まったようだ。中国では紀元前3世紀秦漢時代から(紙が用いられるのは後漢時代から)、竹(簡牘)が正式な官用文書作成に使用されている。後漢の3世紀ごろから中国では「紙木混用」時代に入った。簡牘とは竹の札に書かれ、木簡は木の札に文字が書かれる事を指す。それが漢の楽陽郡直轄領、朝鮮の新羅、百済を経由して、日本に伝わったときは4,5世紀ごろからであってすでに「木紙混用」型であった。木簡を多用した中央・地方の役所の仕組みから、じつは「日本書紀」や「続日本紀」の記述が間違っていたことが判明した。大宝律令の施行により、701年より「評」が「郡」に変更されるとされているが、藤原宮跡出土木簡が「日本書紀」に見える646年の「大化改新詔」の誤りを指摘した。

木簡史料の重要性が認識されてそれから木簡の発見が相継いだ。木簡史料を総合的に検討するため1979年に「木簡学会」が結成された。木簡研究に必要なのは、そこに書かれた内容の検討だけではない。そもそもいつの時代に、どのような場で、なぜ紙ではなく木が選ばれ、誰によって作製され、どのように使用され、移動したのか、そして最後はいつどこでどのように廃棄されたのかを考えることである。今年は「木簡学会」が結成されてから30周年にあたる。それを記念して学会の編集という形で、学会の主だった人々によって本書の刊行が企画された。本書は「研究の足跡」、「奈良の都の木簡」、「地方の木簡」、「木簡伝播の過程」、「木簡の保存」の5つの章の本文と各章に2つの話題を配して、合計15名の研究者の共同執筆である。執筆者の所属は奈良文化財研究所の方が4名、奈良や京都・大阪の大学の研究者が6名となっており、木簡学会の事務所が奈良文化財研究所に置かれていることから、当然関西勢が主流である。「木簡学会」の研究成果は奈良文化財研究所のホームページに公開されている。「木簡データーベース」、「全国木簡出土遺跡・報告書データ−ベース」、「木簡字典」、「電子くずし字字典データ−ベース」などのサイトが用意されている。もちろん専門研究者向けである。

1) 「木簡は語る」 研究の足跡

1961年平城宮第5次調査(大膳職跡)で、約40点の木簡が発見された。20世紀初め中国ではヘディングらの調査により、敦煌・楼蘭などで約1200点、居延で約1万点の簡牘(竹片)が見つかっている。日本で木簡が広く周知されたのは1988年の「長屋王家木簡」の発見からである。王家のゴミ捨て場から約35000点に及ぶ木簡が出土した。これと長屋王家に隣接する二条大路から出土した木簡を併せると合計11万点が出土した。これまで全国から出土した木簡の総数は約37万点にも達した。これまでの日本古代史研究は、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」、「風土記」、「万葉集」、「日本霊異記」などにより進められてきた。木簡は発掘調査で出土する「ナマの史料」であり、受け取り、発送などの短い事実を記したいわば「レシート」であるため、政治的文書でないことから、事実関係の有力な証拠をなす場合がある。税・財務調査における「領収書」、「発注書」のような位置づけである。木簡研究者による正確な釈読と、発掘担当者による出土状況に関する観察と記録が必要であり、両者の連携によって木簡研究が進んだ。木簡研究者にも発掘調査の経験は欠かせない。
出土した木簡は比較的中世、近世のものは少なく、大半は古代の木簡である。中世木簡の殆どは「呪符」(まじない)や柿経であり、近世の木簡は大名屋敷から出る。古代木簡は7世紀後半から9世紀初頭までのものである。歴代の都から出土する木簡は、宮家や諸官司などで簡単な記録に用いられた木簡や、諸国から送られてきた調庸物や大贄などにつけられた「付札木簡」が主である。地方木簡は大宰府跡や国府、郡家遺跡から出土した。内容的に注目される木簡は1967年藤原宮跡の「己亥(699年)10月上挟国阿波評松里」と記す木簡であった。地方の行政組織は701年の「大宝令」により、以前「国−評−里」と呼んでいたものを「国ー郡ー里」に改めた。ところが「日本書紀」では7世紀後半の天武・持統朝の記事に「国ー郡」とあるのは間違いであると判明した。長い間の「郡評論争」が一挙に解決したのである。また飛鳥の石神遺跡から「天皇」と書いた天武朝の木簡が発見され、7世紀後半から「天皇」号が成立していた事を示している。行政組織の「戸」が「里」に変化したことも明らかになった。
7世紀中頃の木簡は徳島観音寺遺跡から出土した「論語木簡」が有名である。中国では細長い木柱状の木に論語などを記した「觚(こ)」があり、字句を暗記するため、習字の手本に用いられた。この観音寺木簡も木柱の四面に論語を記した木簡であった。日本では平安時代になって紙の生産が本格化し紙が普及した。そして木簡の使用は著しく減少し、耐久性を重視した付け札など限られた用途に限定されたようだ。奈良時代では紙はまだ高級品で宮廷内で用いられていたが、郡や地方の官司では木簡が使用されていた。しかし8世紀から地方でも木簡は急速に減少したようだ。公文書には外印を押すことになり、木簡が使用されなくなり、近世からは木簡は荷札、付札、値札、表札など耐久性を要する特殊な用途に限定された。

「日本書紀」の記述が示す政治情勢と、飛鳥池遺跡木簡が記す金属工房との関係が面白い。日本書紀によると、天武6年(677年)6月天武天皇は詔をして「東漢直一族のこれまでの悪行は許しがたいが、恩を施して許す」という特赦令を出した。渡来人東漢直一族は蘇我氏の忠実な臣下として勢力をもち、中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我蝦夷を滅ぼした乙己の変(大化の改新 645年)ののち、大海皇子(天武天皇)が権力を取って(壬申の乱)、都を近江から飛鳥に戻したときに、天武天皇は東漢直一族を許した。それは東漢直一族が勢力を持つ飛鳥付近に都を置くことへの協力と、東漢直一族が、大陸の金属加工、武器・仏具製造、装飾物製造職工を多数抱えていたことを考慮して味方に付けたい目論見であったようだ。飛鳥寺東南にある飛鳥池遺跡から、金属加工などの工房から7世紀後半の木簡が300点近く出土した。これらは金属製品材料に関する記載を持つ木管、製品の供給先を記した木簡、職人(工人)に関する木簡が多数含まれていた。木簡に書かれた工人の名は、飛鳥寺の仏塔に刻まれた銘文には、百済から渡来した瓦師、仏具師らは東漢直に統率され、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の創建に関った一族の名が記されており、その名が木簡に書かれた工人らの名と符合した。このように、もともと葛城氏の掌握下にあった渡来系の工人らが、5世紀後半に葛城一族が雄略天皇によって滅ぼされると、東漢直の元へ編成された。そして東漢直氏は大伴氏とともに蘇我氏の配下となってゆく。それが天武の詔によって、蘇我宗家の滅亡に伴い天皇家に仕えることになったのだ。

荷札木簡は日本古代国家の支配をみるために重要な事実を伝える。荷札がつけられる荷物とは、すべて中央政府に貢納される税物なのである。だから木簡は古代税制と支配の実体を知る上で大変役に立つ情報を与える。若狭国は朝廷に対しては塩貢納国として知られるが、若狭国塩荷札の地名を調べると内陸部の地方であったりする。恐らく若狭国は国全体で塩を貢納することになっており、内陸部では塩以外の物品で代納し、塩貢物にそれを負担した地方の名が入っているのであろう。同じことは安房国の鮑荷札に内陸部の地名が見られ、伊豆国のカツオ荷札にも内陸部の地名が見られる。また字体から荷札は地方官庁)(郷)単位でまとめて作製された。そして実際の涼と違う場合には、伊豆国カツオ荷札の追記が見られた。追記をした場所はおそらく郡の役所であった。つまり荷物とは関係なしに前もって帳簿を下に郷単位で荷札を作っておき、荷物が郡役所に届けられると荷札をつけてゆき数が合えば終わりで、数が合わないときには追記が必要となった。古代国家は行政単位で大量の帳簿を作成し、現実の人や荷物との数合わせに必要な物が木簡だったのであろう。これで帳簿との1対1の整合がついた。

2) 「奈良の都を再現する」 都の木簡

1961年平城宮大極殿の北に位置する役所跡の発掘調査で、ゴミ捨て場用孔(土坑)から40点の木簡が出土した。この木簡が平城宮遷都の時期を巡る論争に終止符を打つというホームランとなった。「続日本紀」によると、708年2月15日に元明天皇が平城遷都の詔を出した。3月に造宮省、9月に造平城京司という都造営の役所が出来、翌709年12月5日には天皇は平城宮に行幸(建設状況を視察)した。710年正月に元日朝賀の儀が行なわれた。それがもとの藤原宮だったのか、造営なった平城宮だったのかが研究者の論争の種であった。3月10日には「平城に都を遷す」と記されている。詔から遷都までの2年1ヶ月で大極殿を中心とする平城宮が出来ること自体が今の突貫工事をもってしても難しいといわれるが、その秘密は藤原宮の大極殿を解体移築したことである。また朱雀大路は幅70メートルの大道であったが、それも昔からあった「下ツ道」を拡大工事して利用し、都の東の大路は昔の「中ツ道」を利用している。それでも遷都から1年半ごの711年9月の「続日本紀」の記事は「今宮の垣いまだならず、防守備わらず」と新都の築地塀が完成していないことを伝えている。したがって710年元旦の朝賀の儀を行なう平城の大極殿は出来ていなかったと予想されるが、それが出土した木簡で確かめられた。710年3月の月の伊勢国からの税荷札から、大極殿の回廊あたりは未完成であった事を示している。3月の平城宮遷都のときは大極殿は工事中であった。工事中の仮住まいに遷都したことになる。朝賀の儀に対極殿が使われたのは「続日本紀」によると715年であり、そのときまでには大極電殿は完成していたことになる。
平城宮の都市計画は「条坊制」という、北から1条から9条の通りと、朱雀大路を境に東西に左京と右京に分かれ各1坊から4坊の通りがある碁盤の目状である。この都城制は平城京から平安京でも同じである。そしてその大路には柳と槐の街路樹が植えられたことは、「二条大路木簡」に役所名と木の名と量が記されていたことから分った。この柳と槐の街路樹は唐の都洛陽をモデルにした都作りであった。

平城宮のすぐ南の2条大路東1坊から東2坊に悲劇の親王長屋王の屋敷があった。1988年長屋王邸跡と2条大路の発掘調査により約11万点の木簡が出土した。「 長屋親王」宛ての鮑の大贄の荷札「長屋親王宮鮑大贄十編」があったことから、そこは奈良時代前半の重要人物「長屋王」の邸宅があったことがわかった。また天皇へ食事用の蔬菜や果樹の栽培をする「園池司」から蔬菜を進上する木簡があったことから、長屋王跡には光明皇后の宮があったことが分った。藤原の娘光明子が聖武天皇の皇后のなったのは、729年の長屋王の乱と密接な関係にあった。内親王ではなく藤原氏の娘が皇后になることに反対した長屋王が、政変で左大臣の地位を奪われ反乱を企てたかどで自殺に追い込まれた。その長屋王の邸宅跡に皇后宮を営んだことは「続日本紀」には語られていない。反対論者長屋王を破滅に追い込み、その邸宅を自分の物にした藤原一族の勝利を意味するものであった。
740年大宰府の藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇はおびえたように、伊勢へ行幸をおこない、都を山城の恭仁宮に遷都し、744年難波宮、745年に紫香楽宮へ遷都を繰り返した。1年ごとに都の建設ができるわけはなく、これはあきらかに聖武天皇の乱を恐れる避難行か、正常な精神を失った狂気のなせるわざであった。借金取りから逃げるために転居を繰り返すのと同じ心境であったといえる。「造大殿所」と書かれた大量の木簡がでたことから、紫香楽宮跡の場所が確定された。
745年平城宮に戻った聖武天皇は東大寺に大仏殿をたてる詔を発した。大仏殿の西回廊での発掘調査で、大仏造営に関る木炭、青銅片、溶解炉などとともに、たすうの木簡が出土した。「薬院仕奉人」の氏名、「悲田院」を書いた木簡が見つかり、光明皇后が設置した病院と貧窮者の救済施設であることが分った。続日本紀760年に「東大寺と国分寺を創建するは、本、大后の勧めし所なり」と書かれたように、皇后の大仏造営への意欲がよくわかる。そして金銭の寄付を募った「智識」の木簡があった。
749年聖武天皇は、娘の孝謙天皇に位を譲った。藤原仲麻呂は皇后宮識の長官を足がかりに権力を強化したが、758年孝謙天皇は淳仁天皇に譲位した。淳仁天皇も大炊王といわれた時代には藤原家の庇護のもと、「田村第」の邸宅を貰っていた。こうして仲麻呂は権力を上り詰め「恵美押勝」という美名を賜った。ところが760年光明皇后が亡くなると、権力の拠りどころを失って、孝謙上皇が寵愛した道鏡と対立し、天皇は内裏に上皇は法華寺にと権力の在所が分裂した。764年孝謙上皇は天皇から権力を奪い、追い詰められた仲麻呂はクーデターを起こしたが敗れて死んだ。淳仁天皇は廃せられ淡路に流され孝謙上皇は復位して称徳天皇となった。法華寺にいた時代に上皇が「大膳職」へ要求した、小豆、醤油、酢などの木簡が法華寺から出た。また式部省跡から「仲麻呂支党除名」という人事木簡が発見された。

長屋王は天武天皇の孫で、父は高市皇子、母は天智天皇の娘である。高市皇子は大化の改新で大活躍したが、母の出自が低かったため長男でありながら皇太子にはなれなかったが、太政大臣として持統天皇の政治を補佐した。長屋王は676年生まれで草壁皇子と元明天皇の女吉備内親王を妻に迎え、藤原不比等の女も妻に1人にむかえ、皇族のなかでも最高の血統を誇る華麗な一族であった。長屋王木簡は史料が少ない時代に家政運営に関るものであり、上流貴族の暮らしを垣間見ることが出来る。長屋王家木簡から、「店物 飯九十九笥直九十九文 別笥一文」などの注目すべき木簡が出ている。別に酒の木簡もあり、長屋王家は市の店で飯と酒を売る店を経営していたようだ。また邸内から「御酒醸所」という施設を持っていたことが知られているので、これを商売にしていたのである。長屋王家木簡には邸内外への物品の支給の際に使用した木簡が多数存在する。これらは人名、部署名、役職名などの支給先、物品名、数量、授受月日、出納責任者名からなる書式を持っている。家政の部署には、家令所、政所、帳内所、主殿寮、大炊寮、工司、鋳物所、書法所、仏具所、薬師所、馬司、税所などがあり、役職名も多岐にわたった。木簡の例として「内親王御所米一升 受小長谷吉備 十月14日書吏」という書式である。長屋王家には御田・御薗という私有地からの貢物が納められていた。木簡の例として「片岡進上蓮葉四十枚 持者都夫良女 御薗作人功事急急受給 六月二日 真人」とある。功事とは給料のことで急いで支給してくれという意味である。長屋王邸内だけでなく、邸外にも司をおいて税関係を管理しているし、物品の公易関係も極めて多い。近畿地方のみならず中国九州北陸信州関東に及んでいる。直轄地との取引だけでなく地方豪族との付き合いも多かったようだ。

3) 「古代の日本」 地方の木簡

古代の地方行政と社会の姿は、風土記、万葉集などの史料以外には見え難い。中央よりさらに紙使用が制限されていたため地方の木簡は多く活用されていたので、木簡の断片を積み重ねて、そこから行政支配、交通、信仰、正業などの姿が見える。石川県加茂遺跡出土木簡という「お触れ書き」がある。およそ30cm×60cm(1尺×2尺)の板に書かれた生活心得8か条が記されていた。農民がほしいままに魚酒を飲食する事を禁じる第2条、桑畑を持たない農民が養蚕をする事を禁じる第6条は社会の変化を伝えるものとして貴重である。裕福な地方豪族(地頭)は農民をかき集めて、魚酒を供して養蚕に従事させる事を禁じたようだ。
律令制のタガが緩む原因であったからだ。都では「大夫」とは5位以上の官人を指したが、地方では国司(守、掾、目)クラスを「大夫」と呼んでいた実態がみえる。阿波国府跡である徳島県観音寺出土木簡には「板野 国守大夫」とあるが、上国であった阿波国であれば「大夫」と表記してもおかしくはない。新潟県長岡市下ノ西遺跡出土木簡には「掾大夫借貸三十五束」とある。利子を取って稲を貸し付ける出挙と国司借貸の内訳を記した木簡である。郡司の長官に「殿門」という尊称で呼んだり、「掾大夫」、「目大夫」と呼ぶのは、国司、守、介、掾、目すべてに対して位階の4,5位には関係なしに「大夫」の尊称を使用している。
7世紀後半、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和政権は唐の侵攻に備え、関東地方から防人を徴して九州防衛に当たらせた(なお関東防人の制度は757年には廃止された)。万葉集には防人の歌が数多く採られているが、佐賀県中原遺跡から「防人木簡」が発見された。8世紀後半に甲斐の国の兵がいたということは、防人の任期3年を過ぎても、理由は分からないが故郷に帰らずそのまま九州に止まった人もいた事を物語っている。
「過所木簡」とは通行手形(割符)のことで、耐久性のある木簡が利用された。「過所木簡」は全国で4つ出土している。板を真中で二分するとか、板を薄く2枚に裂いて二つの割符を作った。兵庫県芝遺跡から10世紀ころの「呪符木簡」が出土している。道教的な呪句「急急如律令」を書くとか、疫病神を饗応して平癒を祈って道端に立てたものである。奈良県香芝市下田東遺跡から、地元の有力者の多角的な経営を示すメモ書きが出土している。この木簡は解文(上申書)の下書きを削ってメモ帳に利用し、稲の品種別にまく時期や刈り取り時期など、川魚の売り買いのメモ、馬の飼育メモなどが記されていた。この木簡は物品と一緒に動くものではなく、心得用のメモである。地方野有力者の多角的経営ぶりは、森鴎外の「山椒大夫」の物語に似ている。企業主のような多角経営であった。

長門国長登銅山跡の発掘調査の結果、天平初年のころの約800点の木簡が出土し、古代長登銅山における銅生産の様子が明らかになった。長登銅山は752年の大仏開眼供養に貢献した「大仏のふるさと」である。「東大寺要録」によると、奉鋳用銅49万1911斤両、熟銅39万1038両、白錫1万722斤両、金知識人7万2075人、役夫51万4902人」と記している。実に500トン近い熟銅が用いられ、8度に分けて鋳造された。長門国司から大量の銅の送付状とつきあわせてチェックされ、不足分は新たに要求しテ居る事は正倉院文書「丹裏文書」に東大寺公文書が伝えられている。東大寺大仏殿回廊発掘調査から、光明皇后による大量の銅の施入があったことを示す木簡が発見された。「自宮請上吹銅一万一千二百弐拾弐斤」とある。長登銅山木簡には「製銅付札木簡」が多いのは当然で、製銅インゴットにつける札である。精錬集団名、出来高、製作月日、提出月日、あて先が記載されている。「配分宛先木簡」にある「太政大殿??首大万呂?五十三斤二・・・」とは藤原不比等宛の送られたインゴットである。

兵庫県日本海側の但馬国には、朝来、養父、出石、気多、城崎、美含、二方、七美の8つの郡が置かれていた。但馬国官衛遺跡では国府跡遺跡の発掘が進み、巻物の軸に見出し文字をいれた「題籤軸」をはじめ国司業務に関る木簡が見つかった。古代の郡家には「正倉」という稲穀倉庫が付設され、税の出納責任者を「税長」、徴収係を「徴部」とよぶ。木簡には税の出納関係が殆どであるが、中には「質物札」がある。「物部真貞質馬曳子十五隻」は農耕馬具を質に入れて苗を借りているようだ。農耕田に立てる「禁制札」、「帳簿木簡」、藁、竹、檜皮のような雑物を収めた「雑徭木簡」もある。

4) 「東アジアの木簡文化」 伝播の過程

中国では簡牘(竹)が盛んに用いられた時期(秦漢時代から4世紀ごろ)と、日本で木簡が用いられ始めた時期(7世紀中頃)とが大きく離れており。両者の関係及び伝達の経過などが判明しなかったが、2000年より韓国での古代木簡の発見が伝えられるようになった。韓国(朝鮮半島)での発掘調査に基づき中国から朝鮮半島への木簡の伝達過程が次第に明らかになりつつある。現在まで楽浪郡遺跡を含めて27箇所から580余点の木簡が発見された。これまで出土した木簡は6世紀の前半から8世紀ごろのものであり、この10年間韓国の山城(地方官庁跡)から多様な木簡が発見されている。荷札、付札、伝票、帳簿、論語木簡、習字木簡、題籤軸、封緘木簡、削り屑など、日本で出土しているのと同じ種類である。1975年慶州雁鴨池遺跡より、8世紀の新羅官庁の食品付札が出土した。文書類は殆どなかった事を見ると、すでに新羅では行政書類は紙に移行しており、木簡は付け札のような特殊用途に限定されていたと考えられる。ほかに門名名札(看板)や食品伝票、薬物木簡が見られた。咸安城山木簡は560年ごろの新羅期のものであり、約600点に及ぶ韓国出土木簡の半分を占める。荷札に相当する書式で、洛東江上流地域の物品が多くこの地を新羅が占領した時期を反映している。新羅木簡の特徴は松の細枝を利用し、半割りにした面を削らず樹皮だけを取り去っている。松の細枝の利用は中国の楼蘭の木簡に似ているといわれる。二聖山城遺跡木簡は「觚」といわれる四面体木柱に行政文書が書かれた貴重なものである。608年に使用したと見られる文書で、あて先の名に「前」をつける書式は古代日本では7世紀後半から8世紀にかけての木簡(いわゆる、前に申すという「前白木簡)に見られる。
平壌付近より発掘された楽浪郡木簡は戸籍簿と論語竹簡であった。韓国の研究者はそれらの事から楽浪郡の人口を28万人と推定した。県別の戸籍簿(紀元前46年の人口統計資料)発見例は初めてであった。出土した論語竹簡は中国漢墓(紀元前55年)の論語木簡と同じ形態であり、楽浪郡官吏の愛読書であった。衛氏朝鮮(紀元前195−108年)の墓制の延長にあり、現地出身の官吏であったようだ。前漢時代には楽浪郡支配に文書行政が持ち込まれ、論語教育と木簡文化が伝えられていた事を示す。これまで食物荷札が主流であった新羅木簡に対し、百済の扶余双北里発掘木簡は「貸食」の言葉が見え、官倉から穀物貸与と変換の記録を記したものであった。この木簡の表記法は、日本古代の「出挙木簡」に見られるもので、個人名の下に貸付額を記し、さらに返納額と未納額を記して、最後に貸し付け額の総計と返納額の合計を記している。これにより百済では貸付額の5割の穀物を利息として返納することが求められていた。これは日本の「官による穀物出挙の利率は半倍」という規定と一致する。新羅・百済木簡の特徴は四面体の「觚」が多いということである。論語木簡の特徴は日本が習字のためであるに対して、朝鮮では学習のためまとまった「論語竹簡」がテキストとなっていた。人や物の移動とともに、それに伴って朝鮮半島と日本の間には木簡技術も動いたに違いない。渡来人の伝えた建築・鋳造技術、仏教、文字などと一緒に木簡も伝えられたことは想像に難くない。中国では書き写し材料が紙に移行した時期に、日本では木簡が用いられた。古代日本の木簡の特徴はなんといっても「紙木併用」であった。それは律令制の施行と同期していたと指摘する人もいる。

中国では約27万点の簡牘が出土している。前5世紀から4世紀まで約800年間にわたる。紀元前3世紀の秦漢時代の簡牘の特徴を考える。材料は中国では木ではなく竹であった。後漢時代、105年に蔡倫が紙を献上して以来、書写用の紙が普及し、少なくとも3世紀には紙木併用期になっていた。中国ではまず竹、つぎに木、そして絹布が用いられた。秦漢時代の簡牘はバラエティに富んでいる。長さ23cm、幅1.1cmの1行書きの「札」、幅2.3cmの2行書きの「両行」、これらを数本紐で綴じて「冊書」に編綴する。幅広の板状の「牘」、多面体の「檄」、荷札や付け札の「検」、封泥をいれる「封検」などがある。寸法と字数も標準化されていたようで、長さ50−60cmには60字、16cmには20字と1/3となっていた。冊書を送るには文書本体と封検が必要で、それが一体化したものが「檄」である。「檄を飛ばす」という文句はここに由来する。封検は保証とチェック機能のための権威つけといえる。簡牘の改竄を防ぐため、字数を記入すること、竹の横面に「刻歯」を刻んだ後半分に割って割符とする方法、封泥に印を押すことなどで開封を証拠づけるなどの工夫が凝らされている。日本律令期の公式文書に見える、移、符、解、牒なども秦漢時代の簡牘に見える言葉である。日本、韓国、中国の流れのなかで、木簡を位置づけることが課題となる。


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