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森 毅著 「一刀斎 数学三部作」 

 「数学の歴史」(講談社学術文庫)、「数学的思考」(講談社学術文庫)、「異説数学者列伝」(ちくま学芸文庫)

一刀斎先生 数学の歴史を語り、数学教育を斬る

森 毅(もり つよし、1928年東京生まれ)は、日本の数学者、評論家、エッセイスト。東京大学理学部数学科を卒業し、京都大学教養部教授を経て現在は京都大学名誉教授。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行う。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団に熱中し、これらもエッセイの材料としている。数学者としての業績は論文が2本だけとほとんど無く、教授になるさいには「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか。」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い。」ということで京都大学の教授となった。数学教育に関していえば、民間の教育団体である数学教育協議会の活動との関わりが挙げられる。京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。と書くととんでもない破天荒な数学の教授だったことになる。私が京都大学理学部の教養課程(吉田)の学生のとき、森先生は数理統計学の先生で、助教授だった。薄汚いコートを着たまま教壇でぼそぼそ話をする先生であった記憶がある。期末試験では「ランダムウヲーク 酔歩問題」を出され私は何を書いたかは忘れた。無論何を書いても単位はくれた。大学卒業後はすっかり忘却の彼方にあり、どこが面白いのかは知らなかったが、世の風評では70年安保時代には「一刀斎」と称して「平凡パンチ」で若者の人気者になっていたという。私は最近数学をもう一度初歩から勉強したく思い、色々な本を読み始めたところ、この森先生に再会したわけである。一見洒脱な極意を持った先生と理解しておこう。実をいうと私は先生を個人的にはよく知らないからだ。ところで森先生のご専門は「関数空間の位相解析」ということであるが、教科書の数学は知っているとしても私は数学界の研究は知らない。数学の研究方法ってどうするのだろうか。紙と鉛筆で新しい公理を導くことなのだろうか。未知な世界の探検に胸を躍らせて、まずは森先生の本を3冊取り上げたい。(追記:2010年7月26日朝のテレビで森先生の訃報を知る。袖触れ合った先生のご冥福をお祈りします。)


森 毅著 「数学の歴史」 (講談社学術文庫 1988年)

本書は1970年に紀伊国屋新書として発行され、1988年に講談社学術文庫として発行された。だから初版以来実に40年も経っている。数学の不思議なところで役に立たないほど古くなったという感じはしない。私の頭が止まったままなのか、数学が根本的なところでは書き換えられていないのだろう。今読んでも面白いし違和感はない。ところで日本の数学者で世界的な仕事をしたという人はどのくらいいるのだろうか。、「4年に一度」「40歳以下」「4名まで」といった制限がついた数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞した日本人としては、1954年小平邦彦氏  1970年広中平祐 氏、1990年森重文氏の3名である。数学はすぐれて個人的な知的活動であり、数学の歴史といっても天才の頭の中のことであり、歴史的発展ということがはたしてありうるのだろうか誰しも思う。まして世の中の文明的な潮流に対応するような環境論は成立するのだろうかというようなことを考えたのは本書である。本書はギリシャから初めて現代数学までを20章にわかって考察している。各章は年代順に数学業績に関する短いマトメと数学者のエピソードからなっている。そして数章の終わりにはなんの役に立つのか分らないような年表と地図が添えられている。つまり整然と歴史的に語ることが出来ないといっているようだ。数学者が数学史を書こうとするとき、問題意識を前進させるために、歴史を逆規定することになる。まして先のことは誰にも分らない。文化とは何かという普遍的課題と、数学者にとって個別的課題との間には何らかの通路は存在するはずだという主観的意図から本書を書いたと森先生は誇らしげに序章で語っている。数学全体を非歴史的に再構成したブルバキの「数学史」がある。これは数学概念別の歴史である。数論の歴史とか、線型性の歴史とか連続体の歴史とかを年代を無視し数学者も分断して書いた稀代の数学史である。人間、社会、数学の関係は全くお手上げである。どう関連させてゆこうというのだろうか。ソ連があった時、数学史と思想史というくくりは無関係とも言い難かったが、どの数学が開発されたから月に着陸できたかに答えるのも難しい。数学が人類の歴史にあらわれて3000年くらいは経つが、人間の知的活動として哲学以上に総括が難しい。

1) ギリシャ数学の偉大さ
すべての数学はギリシャに遡るという「定説」がある。ブルバキの「数学史」は概念の歴史という立場をとっているので、すべてをギリシャの概念より始める。しかし個々の数学概念がギリシャから始まってというのは「贔屓の引き倒し」みたいなもので、それらの概念をふくむ思想の総体として「数学」を生みだしたというべきだろう。「ギリシャの数学」というとき、地理上のギリシャ(アテネ)に注目するとおかしなことになる。ギリシャ七賢人としたわれ「幾何学の祖」といわれたタレス(BC624-BC547?)は小アジア(いまのトルコ)にいたし、ピタゴラスの定理(√2という無理数の発見)で知られるピタゴラス(BC572-BC492?)はイタリアのサモス島の出であり、「幾何学原論」で確固たる幾何学を築いたユークリッド(BC300?)はエジプトのアレクサンドリアで活躍し、「円錐曲線論」で楕円の幾何学を生んだアポロニウス(BC262?)はシリアの南のベルガモン王国の出であり、浮力の発見や工学の祖アルキメデス(BC287-BC212?)は北アフリカのカルタゴで活躍した。個々にあげたギリシャ時代の数学者はすべてアテネ周辺にいたことになり、文化圏はイオニア文化、アレクサンドリア文化を背景とするといってもいい。ギリシャ数学の源流はエジプトやバビロニアとも関係があるようだ。民主都市国家アテネは観念論のプラトンを生んだが、学問的生産の都アレクサンドリアで数学は誕生し、キリスト教的ローマ帝国でギリシャ数学は没落したというのは歴史の皮肉かもしれない。鉄器文明で地中海貿易を制した都市国家群にギリシャ文化は始まった。幾何学の祖といわれるタレスは小アジアの都市ミレトスの商人で、エジプトの測地術を学んだといわれ、彼の「3角形の合同定理」は航海術と関係していた。ピタゴラスは南イタリアのクロトンで数学の学派ピタゴラス派をつくった。ピタゴラスの定理(直角3角形の斜辺の長さの2乗は他の2辺の2乗の和に等しい)から無理数が発生し、ギリシャの調和に反することとして忌み嫌われた。ギリシャのタブーにはゼノンの逆説の「アキレスの亀」があり、無限・変化・運動にかんする最初の議論となったが、ユークリッド幾何学では無限の処理は排せられた。亀を先に出発させるから話がこんがらかるので、同時に出発すると1秒後にはアキレスの方が先にたっている。無限少の時間のなかで苦しんでいるのが「アキレスの亀」の話である。時間・運動の概念がない。無限の問題はソフィストの格好の議論材料「円に接線はあるのか」となったが、もう少し考えるとニュートンの微分の概念にたどり着いたかもしれない。「観念論」の祖プラトンは「幾何学を知らざるもの入るべからず」として、哲学の形成に数学の形成を強く関連付けて「ギリシャ数学の世界観」を決定的に運命付けた。プラトンの友人ユードクソス(BC408-BC355)は「数学者」として評価される最初の人であった。ユードクソスの比例論は数の解析という点で近代解析学の論理の基礎を作ったといわれる。アリストテレス(BC384-BC32)は論理学の完成によって、公理主義を強調して学問の基礎原理を樹立した功績は2000年以上今日に至るまですべての学問を支配している。

アレクサンドリアの大図書館はギリシャ文化の中心的存在であった。ユークリッドの「幾何学原論」は20世紀の相対性理論によって非ユークリッド空間が議論されるまで、確かに世界の空間構造を示すものであった。「幾何学原論」は全13巻からなり、当時の全数学を集大成し、数論(テアイテトスの無理数論)、実数論(ユードクソスの比例論)や代数を含み幾何学の体系(プラトンの正多面体論)に、ギリシャ数学の理想を具現しようとした。この書が体系的に完全なのは「公理的方法」によっているからで、命題を吟味してありうるかどうかを証明するはユークリッドに始まるといわれる。ペルガモン王国に偉大な幾何学者アポロニウスが出た。その「円錐曲線論」において、二次曲線、楕円曲線が完成した。近代の「解析幾何学」の始まりとなったといわれる。「ギリシャ最大の数学者」といわれるアルキメデスはカルタゴとローマの闘い「ポエニ戦争」で武器の製作に携わった工学者でもあった。アルキメデスの書「方法論」に述べられている、無限少のものを足し合わせるという求積報は積分法の萌芽となった。無限を否定したユークリッドは、量的解析を否定し、変化を否定した。ここにギリシャ数学の限界がみえる。ギリシャ数学はその完全性、論理性、体系性を持ったことで偉大なのであった。アルキメデス以降、ギリシャ数学は急速に衰退し、形骸化したギリシャ数学のみが残るのは、次のローマ帝国時代からである。ギリシャ数学の形式を受け継いだにはアケメス朝ペルシャであり、ローマには継承されなかった。ペルシャでは幾何学ではなく、アラビア代数や3角法が発展する。技術としての代数は「アルゴリズム」という言葉に残っている。そしてギリシャの古典はアラビア語で保存された。インド数学はゼロを発見し、中国の数学は負数の使用が認められる。

2) 16世紀・17世紀 新しい時代の数学(ルネッサンス・近代の夜明け)
中世の欧州の数学は13世紀に「フィボナッチの数列」でおなじみのフィボナッチ「算盤の書」を著わしたとはいえ、中国やイスラムの数学が僅かに光彩を放った時期であった。中国では南宋の朱世傑の方程式論があり、元時代に三角法の完成があった。これを最後に科学史の世界で欧州以外の国が舞台に出ることはなくなった。欧州では十字軍の結末は教皇権と領主権との分離、イタリアルネッサンスの始まりを導いた。ボローニア、パリ、オックスフォード、プラハの大学が生まれ、スコラ哲学は抽象的な思考を許した。トマス・アキナスは数直線上の点の連続的無限性に着目し「連続体は、点に分割することはできない」と論じた。数学上の業績ではニコル・オレームはグラフを最初に使用した人といわれる。欧州の文化の中心はイタリアに移動し、非神学的文化が始まる。フィレンツェの中から数学は生まれた。レオナルド・ダヴィンチ(1452-1519)の機械学では自然科学と数学は一体であった。レオナルドにおいて無限は「点は無と線分との間の限界であって、無と線分が接触するところに点はある」という。16世紀の数学で顕著な功績を挙げたのは、ボローニアのフェロは3次方程式の一般解法を発見したといわれ、ニコロ・フォンタナは完全な3次方程式の一般解法を完成した。4次方程式の一般解法についてはカルダノ(1501−1576)の弟子フェラリであった。16世紀の「イタリア代数学」はアラビア代数を「代数学」に進歩させた。それはボンベリの「代数学」(1572)に結実した。16世紀の最も重要な問題は「宗教改革」であって、スラブ圏からコペルニクスの「地動説」が生まれ、ブルーノは火あぶりの刑に処せられた。オランダのステヴィンは少数近似と極限の概念を掴み、代数学の記号化の系譜につながる「少数」(1585)を著わした。すべての量は少数の使用によって近似が可能となり、数の普遍性が獲得された。代数形式と数概念の自立は同一の課程をなした。

ガリレイ(1564−1742)は「天文対話」(1632)において、「人間の理解は外にある命題を千ぐらい知ったとしても無限にある命題に較べると無に近い、人間の理解は内にある知性により完全に自然界を知る事が出来る。これが数学的科学である」といった。ケプラー(1571−1630)は17世紀の錯雑とした状況で、ギリシャを乗越えようとした。ヴェイト(1540−1603)の「解析学入門」(1591)は、文字形式こそ数学の普遍性を保証するものであった。ケプラーの共同研究者ピュルギは対数の発見者であった。これらの業績によって17世紀は無限小解析の契機である近代代数学(解析学)の入り口に立ったのである。デカルト(1599−1650)は幾何学と代数学の総合をなした人であった。「解析幾何」によってデカルトは代数形式を確立したといわれる。こうして、数、代数式、空間、変量がデカルトの普遍学として確立した。17世紀中葉にデカルト、パスカル、フェルマが登場し、数学者というより「自然哲学者」ともいうべき存在であった。ギリシャ時代に不変の象徴であった図形はもはや変化の象徴となり、二次曲線一般代数曲線に包括され、数学は記号の世界へ踏み込んだ。パスカル(1623−1662)は賭博の理論から確率論の創始者となり、「射影幾何学」の創始者の名が与えられたが、「パンセ」という瞑想録を書く繊細な精神を持った数学者・物理学者であった。確率過程はピタゴラス以来の2項係数(組み合わせ)と結びつき、級数論としてはイギリスの数値解析の伝統と合流する。フェルマ(1601−1665)は微分の概念を確立し、デカルトと「無限小解析」的接線と「代数幾何」的接線の論争をした。「解析幾何」、「数論」の創始者として群をぬいた存在であった。ピタゴラス数の一般解は存在しないという「フェルマーの最終定理」は20世紀末まで数学者を悩ました。イギリスのフランシスコ・ベーコンは「ノヴェム・オルガヌム」(1620)において実際に観察し考察したこと以外は信用するなといってイギリス経験主義の伝統を示した。イギリス数学の伝統は「数値計算」にあり、ウォリスの「無限小算術」(1655)は級数論と結びついて数値計算(理屈はともあれ計算できること)を導いた。対数の級数化はメルカトルに始まり、三角関数の級数化はグレゴリーとウォリスによって成し遂げられた。1670年代は無限小の総体を認識し、微分積分が一斉に花開いた決定的な時期となった。ニュートン、ライプニッツ、グレゴリー、ホイエンスの微積分に関する業績はいうに及ばない。ライプニッツ(1646−1716)の形而上学は難解で分らないが、数理論理から線型代数にいたる起源はすべてライプニッツの功績である。ライプニッツは何でも記号化する事をスローガンとし、機能=関数において定式化する事を可能とし、それはひいては「位相解析」を抽象することであった。イギリスのニュートン(1642−1727)はいうまでもなく「ニュートン力学」(古典力学)の祖であるが、イギリスの伝統である「級数論」を受け継いで、差分法は2項級数へ発展して解析学の軸となった。弟子のテイラー級数として発展したといわれる。

3) 18世紀 啓蒙時代の数学
18世紀は啓蒙の時代である。イギリスに始まる産業革命とともに技術の発展は素晴らしく、イギリスは植民地主義で世界の征服に取りかかる。科学は世界を征服するものとなった。だが17世紀の科学の英雄時代にくらべて、18世紀は目立たない。ロック、モンタスキューからヴォルテールは啓蒙時代からフランス革命にいたるまで思想的原動力であった。ライプニッツの後継者にはスイスのベルヌーイ一家とオイラーが出た。18世紀数学史はダランベール(1717−1783)が主人公となって、ペテルスブルグにオイラー、ベルリンにラグランジェ、パリにダランベールという配置となった。ダランベール、ディドロ、ヴォルテールの手によってフランス百科全書が編まれたが、自然科学はまだその期は熟していなかったようだ。19世紀数学の系統化に較べると18世紀の数学は膨大な結果の集積があった。ガウスが言ったようにオイラーは数学のすべてを用意した。オイラー(1707-1783)の功績の位置づけについては吉田武著 「オイラーの贈り物」に述べたので参照してください。オイラー、ラグランジェ、ダランベールによって、現在に及ぶ数学の根幹は18世紀に出来た。18世紀は数学にとって事実の世紀であった。17世紀は原理の時代、18世紀は事実の時代、19世紀は体系の時代とまとめることも出来る。代数については複素数を利用した代数方程式の根の存在がある。4次方程式の根の存在はダランベールにより、5次方程式の根の非存在はラグランジェによるものだ。数論についてはフェルマーを引き継いだオイラーはガウスの登場を用意した。百科全書派の啓蒙主義は近代を準備し、フランスが数学の正統となった。18世紀を象徴するラグランジェ(1736-1813)の「解析力学」(1788 )はフランスの数理物理の伝統に関係する。ラグランジェ、ラプラース、ルジャンドルの3人の系譜は19世紀「数理物理学」の基礎を作った。ラプラース(1749−1827)は「確率の解析的理論」において、微分方程式の初期値問題を除いて機械的決定論を見たのである。ラプラース変換は操作記号の魁となった。そしてフランス革命となった。

4) 19世紀 資本主義時代の数学
18世紀と19世紀の境に数学の巨人ガウス(1777−1855)が立っている。普通19世紀の数学は「論理と体系」を特徴とする。イギリスの数値解析がニュートンの解析学を生んだように、ガウスはその級数の収束に慎重であった。ガウスは関数列の極限の収束を論じて19世紀解析学の主題となった。これは18世紀数学者の一面であるが、オイラーには無数の数式(舌を巻く手法の巧さ)という事実があったが、ガウスには理論があった。18世紀後半の「集合と関数」がようやく実体化するガウスの「可変群」からである。群論はガウスに始まり、夭折した天才アーベル(1802−1829)による5次方程式の根に非存在の証明となった。代数方程式の根の理論にこだわって、群論が生まれたのは瓢箪から駒的副産物であった。19世紀初頭の出来事はロバチェフスキーの「仮想幾何学」(1835)による非ユークリッド幾何学の成立である。ガウスは「無限小曲面論」で微分幾何学を用意し、リーマンは「幾何学の基礎を成す仮説」(1854)によって「多様体」概念を用意した。

フランスの理工主義に対する資本主義後進国ドイツの人間主義はフーリエとヤコビに代表される。ベルリンのヤコビ(1804-1851)はガウスやアーベルを継いで、楕円関数論を発展させ、純粋数学として解析学や線型代数の基礎をきずいた。パリ派の数理物理の代表としてフーリエ(1786−1830)の「熱の解析的理論」(1822)には、波と拡散とポテンシャルが登場し、三角級数(フーリエ級数)が近代解析の中核的存在となった。フランスのガウスを継ぐ数学者としてコーシー(1789−1857)が著名である。コーシーは置換群を組織化して、ガロアの「群論」の先を行った。さらに極限概念による解析学の論理的基礎付けと解析関数の基本概念を確立し、理論派数学者(機械的計算の数値派に対する)の面目を発揮した。イギリスの数学界でベクトル解析を生んだが、応用数学とみなされて正統な位置を得られなかったが、数学者として名が知られたのはダブリンのハミルトン(1805-1865)は4次元(4変数)のイギリス線型代数学の形式を生み統計力学や量子力学への発展の基礎となった。イギリスでもう一人見逃がしてはいけない人に差分方程式や数理論理(ブール代数)を開拓したブールがいた。19世紀前半はフランスの数理物理と幾何学、イギリスの線形代数学、ドイツの代数学など近代国家の形成によって、数学も各国で独自の発展を見る時代となった。19世紀前半には「現代数学」の成立にいたる契機は全て用意された。整数や代数式の普遍的な数学的構造の型が明らかになり、波動、熱など自然法則の基本的範疇はつねに普遍的な数学を要求したことである。こうした数学の内部的契機は数学の自立を促し論理的な体系を生んだことである。数学は自立し期待されるようになったということだ。数学の論理も体系もそれは外形に過ぎない、本質的なことは普遍概念の追求にある。対象と機能は実体化し「集合と関数」の一般概念の成立となった。ガウス以来新しい幾何学は、代数形式による空間概念の数学的形式を確立した。この新しい幾何学はイギリス線型代数学派によって開かれ、リーマン(1826−1866)は関数集合論の基礎を成す「多様体」によって突出した象徴性を獲得した。ハミルトンを継いだケイリー(1821−1895)は、一般次元のベクトル空間や行列と行列式を定式化し、工学にはなくてはならない分野が確立した。

代数方程式の根の分析において出現した複素数は、形式的な数学的構築が数学的世界の基盤となったことで、19世紀前半の複素関数論の成立は、19世紀ゼン他の数学に大きな影響を与えた。ガウスを継ぐヴァイエルシュトラウス(1815−1897)は代数的形式の支配こそが複素解析関数の基になる事を示した。ガウスの超幾何関数に始まってリーマンからピカール、ポアンカレーにいたる微分方程式の展開と関連している。19世紀後半のイギリス線型代数学派はケイリー、シルヴェスターらの行列による変換群表現は「不変式」を生み、ハミルトン形式と対を成した。19世紀末の群論はフロベニウスの群の行列理論が脚光を浴び、リーによる典型群を生んだ。一方ガウスの数論はクロネッカー(1823−1891)による代数体の数論に発展して、それはやがてヒルベルトや高木貞治の類体論につながるのである。19世紀最後の数学の巨人ポアンカレー(1854−1912)は位相幾何の祖と見なされている。19世紀古典数学の自律した秩序をポアンカレ−は「世界の内的調和」と呼んだ。19世紀の最後は数学の歴史では「集合論」というひとつの流れを生んだ。20世紀の初め数学界に大きな変革(見方)をもたらした。古くから「無限と連続」は自然哲学に属すると見られていたが、ヴァイエルシュトラウスの「実数論」ははじめてこれを数学的軌道に乗せたといえる。ガウス、リーマンの空間概念の成立は一般的代数的法則性を幾何学の外的表象において捉えることができる事を示した。それはデカルト普遍学の達成を意味した。デディキント(1831−1916)は代数的法則性を抽出して「実数論」を生んだ。カントル(1845−1918)の「実数論」は20世紀の「位相空間論」となった。カントルの得た集合も位相もその起源はフーリエ級数に負うところが大きい。フーリエ級数表現は関数の形式性から自由である。そこから不連続性関数の不連続点の集合が解析できた。カントルを継いで「集合」擁護論者としてのヒルベルト(1862−1943)は、19世紀の解析学にたって、20世紀数学の創始者として現れた。対象の外延化、法則性の抽出、形式の確立、そして「公理主義」の名で呼ばれる20世紀の抽象数学が始まった。

5) 20世紀 抽象時代の数学
第1次世界大戦が現代史の幕開けだった。20世紀の数学史はヒルベルトに始まる。ヒルベルトは方法論として、新しい概念には新しい記号が対応しなければならないこと、新しい記号が数学理論の公理化の基礎とならなければならないと宣言した。ギリシャ時代から「公理」は自明性である事以上の意味はなかったが、20世紀において数学と論理の関係は極限にまで達した。数学=論理学に転落しかねないところに来ていた。哲学者バートランド・ラッセルは数学を論理学の一分野と包摂した。ヒルベルトの「幾何学基礎論」(1899)はユークリッド幾何学を論理的に完成させたものであったが、数学概念が記号化されることで公理化されるという公理主義の出発点でもあった。この時代には、幾つかの学派がうまれ、アメリカの線形代数学派の線型環理論、ドイツ代数学派の表現論など「抽象代数」の爆発的展開となった。位相概念の定式化にいたる解析学は、ルベーグの積分論は位相解析につながり、ヒルベルトの固有値問題を扱った積分方程式のスペクトル論は関数空間の概念で述べられるべきであった。個別対象を扱う「古典派」と抽象構造を扱う「近代派」との対立は世代間対立のようでもあった。19世紀と違って、20世紀数学者はもはや自分を投影すべき対象を持たず、「関係」のなかで宙吊りにされて生きることになった。悪魔の化身といわれたノイマン(1903−1957)は殆ど抽象理論の内部整合性に導かれて「作用素環論」を書いた。ノイマンは数理経済から電子計算機、自動機械(サイバネティックス)に至る現代的諸分野で活躍した。ヴァイユらを中心とした「ブルバキ」という共同匿名集団が形成され、数学の20世紀的再編成を目指した。抽象体系の自己完結性、抽象化に拍車をかけたようであった。そして第2次世界大戦後数学が米ソの二大大国へ分裂した。アメリカのプリンストン研究所、ニューヨークのクーラン研究所に近代数学が吸収された。モスクワ学派に始まる「確率過程論」、「統計学」が飛躍的に発展した。ノイマン、ウィナーらの数学の工業化は電子計算機として巨大な産業を生んだ。今ではすでに数学は社会構造の一部である。


森 毅著 「数学的思考」 (講談社学術文庫 1991年)

本書は1964年に明治図書出版より刊行され、1991年講談社学術文庫に入った。45年以上前に書かれた本である。今の数学教育がどうなっているのかは知らないが、著者一刀斎先生は1960年代の古き時代を懐かしんで(そして自分の若さを)、少しも訂正せずそのまま文庫に入れたようだ。一刀斎先生は遠山啓氏に賛同して水道方式という数学教育の運動に携わった。本書に入る前に水道方式を知っておくことは勉強になる。遠山啓氏は1950年ごろから数学教育に関心を持つようになり、1951年数学教育協議会(数教協)を結成し、ながくその委員長として、小中学校の教育現場での数学教育を指導、数学教育の改良運動に率先してその力となった。中学校の数学教育において、因数分解や幾何の証明の余り難解な問題を生徒に課する事を批判していた他、日本の学校教育が、生徒に間違いをさせない事を過度に重要視するのを批判していた。1958年「タイル」というシェーマの使用、「数」にかわる「量」にもとづく指導、「水道方式」という数学の学び方を開発した。 筆算中心である。、タイルを使う、 量を重視する、計算問題をキチンと分類するといった特徴的な教え方をする。本書の主眼は数学教育にある。本書の前半は「数学の歴史」のスケッチに相当する部分があるが、上の「数学の歴史」で述べたので省略する。本書の題名「数学的思考」とは「数学教育において数学的思考を養うためには」という意味で、数学教育を論じた部分だけを紹介する。

1) 数学教育の遺骸

長い間、数学教育の悪癖は訂正されずに今もちゃんと残っている(1964年ごろ)、数学教育を現代化することが必要である。数学教育の正すべきところを分野別に論じようという。なお数学教育とは、小中学校、高等学校、大学教養課程までをいう。
@算術の遺骸
寺子屋の時代から「読み書きそろばん」というリテラシーの必須の教育がなされていた。そろばんは実は数学と関係は無い。数理の世界という難しい権威を用いて、身の回りの物を教えるという態度が染み付いた。こうして初等数学教育はお上の権威主義と偏見のとりこになった。たとえば数概念は「数え主義」一辺倒となる。1,2,3,4・・・というのは順序、個数であって、物の量という概念がおろそかになった。整数を教えて実数を教えていない。重さ、長さ、時間は整数できれいに表せるものではない。戦後の生活単元主義(私にはわからないが)逆立ちをした数理の世界で生活をきっている。数え主義の遺骸は量より形式を優先させ、現在最も悪名高い「わりあい主義」の源流となった。数だけでなく次官の概念もないまま、形式で処理させるものだから、あいまいなままそしてこれらの量を結合する法則的意味も曖昧なまま公式を覚えさせる。図形教育にいたっては目も当てられない。
A代数の遺骸
中等教育で代数が取り上げられると、代数の形式性は実用的なのであるが、受験勉強と重なると極端な公式主義で丸暗記となる。2次方程式の根の解法は本当は目を瞠るような巧みさの醍醐味があるのだが、その面白さを投げ捨てて最初から根の公式の丸暗記となり、虚数はまるで矛盾でしかない。代数的結合関係(掛ける順序)などの吟味も教えず、術に慣れるように演習だけに精を出す。一般に中等教育の基本的悪弊は教養主義である。エリートを選別するための手段でしかない。微積分を中心とした解析学を教えるべきところを関数操作論ですり替えている。
B幾何の遺骸
これこそ教養主義の塊である。幾何学は観念論の典型である。図形の存在証明としての作図命題が重要であるらしい。たしかに天才の作図には舌を捲くが、代数を使えばもっと簡単に分る問題をやたら補助線を引きまくり、そのあげく三角形の三垂線が交わらず、チョークを投げた高名な先生もいた。
C三角法の遺骸
三角法で教えられているのは三角比であって、三角関数(周期関数)ではない。三角法は円から始まり、円周率と切っても切れない関係にあり、オイラーの公式にすべてが集約された。そこには円周率π、指数、三角関数、虚数、級数が関係する。周期性の解析は波動現象から物理学への入り口を用意する。なのに三角関数の倍角公式から始めて無数の公式の暗記と演算に終始する。
D解析幾何の遺骸
高校で教えられている解析幾何は絶対的な空間観念をのまま、図形の性質を処理するための技法となった。幾何的空間と量との関係の法則的認識、代数式と空間との結合関係(ベクトルや行列)に進むはずんものが、ユークリッド幾何学と同じ対象を、別の方法で求める証明法みたいな関係となっている。そして2次元では関数のグラフ化と結びついて解析幾何と矮小化されてしまった。
E高等代数の遺骸
高等代数は行列式を除いて姿を消した。大学の教養課程で行列式は線型代数の中心となった。これだけはよく整理された成果かもしれない。
F微積分の遺骸
高木貞治著「解析概論」が大学教養課程では標準的となった。前半はよく書けていると評判であるが、後半はもう時代遅れである。高校の微積分は操作に傾きすぎた。大学教養課程の微分方程式論も解析解のある問題のケーススタディである。その解法も現実の課題に関係する部分があまりに少ない。解けない微分方程式は数値解法でという棲み分けができているようだ。こうして科学教育の基本といわれた解析学も理念よりは答案の論理性に、変動量の変化の解析よりは式の計算技術の運用に流れた。

2) 数学の方法

現在の数学は、集合を基礎として、公理主義的方法で定式化されている。対象としては関数の集合(関数空間)であったり、変換の集合(変換群)であったり何でも物の集合と考える。その空間でどのような法則を持っているかを定式化して構造として示さなければならない。個々の要素の関係を集団である集合の法則に形にする。これがブルバキがいう数学的構造である。要素間の演算的な結合関係(加減乗除など)は代数的構造といい、極限や連続などつながり方の法則は位相的構造という。この2つが現代数学の最も基礎的な構造である。ギリシャ的世界観では唯一絶対空間であったものが、量的な方法の開発(測度空間)によって量化された構造を持つ集合(多様体)として客観的に定式化された。それらは数学的実体として具体性をもち形式論理に導かれて議論することが出来る。数学では形式化されて、現実から抽象されているが、その出発点のイメージを用いて現実性との関係を保持している。これを「シェーマ」と呼ぶ。これが数学教育でなくてはならない。たとえば直線は実数のシャーマに、グラフは関数のシェーマになっている。シェーマは只の形式ではなく、その現実を忠実に反映しその構造を視覚化する作用を有する。物理学で電磁場をマックスウエルの数学形式にするとただの式であるが、流れのイメージで捉えると非常に分りやすくなるのだ。数学において粒子像と連続像(点と線)の関連の問題が、数学的定式の上で表れるのは統計的数理化学においてである。連続体的概念は数学教育では、数学的像の形成が無いと教えられない。複素数の中における実数の位置づけを考えることによって実数がよりよく理解できたように。よく分っている連続関数の集合の全体の性質で、位相空間の性質を規定しておくという方法は位相的構造の基本である。双対性ともいわれる。数学はとかくプラグマティズムと結びつきやすい側面を持っている。常に実体との関係を頭に入れておかないと迷路におちいる。いろいろの問題の特殊事情を共通の法則性から説明することは、公理主義の精神から当然である。しかし抽象数学が相手で、その数学を抽象すべき数学的実体を持たないと、いきなり形式を当てはめても失敗する。数学教育で重要なことは形式の実体を持つことである。加減乗除の計算はどのような法則で行なわれるかということだ。指数関数では加減と乗除が交換する理由をよく考えると、面白さが倍増する。数学教育では一般論が横行していることの弊害の方が大きい。関数論では特殊がすべてという特異点の問題もある。

3) 数学教育の現代化

科学教育で一番重要なことは量の概念である。加減乗除の処理を無内容に施してはいないだろうか。性格の違う数を無内容に加えてはいないか。あなたのが持つリンゴと私が持つリンゴを、その場でリンゴは何個あるかという考えなら加えればいいが、あなたのリンゴを私のリンゴとして加えたわけではない。私の集合とあなたの集合は異質かもしれないからだ。数の概念はイコール量の概念でないことは前に述べた。量の概念で数学教育の現代化が行なわれている。加えたり、変化する量の概念は基本的である。人間が科学を獲得してきた道筋に従って、確実に正確に行うことがそれが教育の現代化である。水道方式が提唱する数計算の原理は、素過程は何であるかを分ることである。それを学校教育では一般的性格を持った典型的な問題をおろそかにして、型崩れの特殊問題を教えている。一般的で典型的な複合過程である水源地を作って、特殊な問題へ水を流す道筋を考えることが水道方式である。水道方式のもうひとつの特徴は定式化の形象としてに「シェーマ」として「タイル」を利用することである。水道方式では演算と結合して数の構造を明確に組織だてる。たいるには現実の量から数概念への媒体的な意味がある。量の概念を知るためにタイルの面積を利用したり、未知の物をXで置く文字の使用で代数的構造を表す。シェーマの指導は「どう教えるか」から「何を教えるべきか」の領域へ踏み込むことである。量の法則性を教えるためにも最終的には文字の使用が必要である。数学教育の現代化は量の問題の法則的定式化を目指している。図形という言葉は曖昧である。丸、三角、4角、平行線、交差など私は最初どう理解してきたのだろうかこころもとない。物質の定義は空間の占有にあり、その仕方が形であると、自然哲学的に説明されてもよく分らない。図形は空間で浮遊しているわけではなく、空間を定義しないと安定しない。ものの長さが空間の距離へ、角度、点の運動へ、平面的図形から球面へかなり複雑な過程が存在するが、小学校では論理抜きの曖昧な図形教育を行い、中学校ではユークリッド幾何学の論証へいきなり入るのである。水道方式では小学校でも方眼紙をつかって、ジグザグな運動軌跡を教え、長さと角で量化してとらえることが出来る。幾何学の実体的把握なしにユークリッドの論理体系を教えて、高校ではユークリッド幾何学はなく、大学でまたいきなり射影幾何学や多面体で面食らう。高校で教える解析幾何学は中途半端で付け足しみたいな代数的意味づけをしているが、本来極座標からベクトル空間へ、そして行列表現をへて線型代数学へ連結しなければならない。数学教育のすべてがちぐはぐな不連続な教育をしているために、学生もぶつ切れ知識がつながらない。一方で群とか環を早期に導入しようという動きは、数学実体と理論を知らないで下へおろすことは危険である。中学の代数を量から形式の確立へという方向で築きあげるなら、線型代数の早期導入は実現性がある。微積分学がは量の変化の法則性を解析するものであるが、微積分の演算形式を重視するあまり、微積分の概念が曖昧なまま置き去りにされる教育が「問題のための問題」を生んだ。均質な物質の運動は線型結合の基本であるため代数形式の典型となった。これは局所的な微分方程式の取り扱いという、解析学の基本的な思想である。中学校において関数教育を解析学本来の姿において教えることも可能ではないか。指数的変化の法則を利息計算(代数計算)に留めることなく、指数的変化の法則として教えるべきである。2進法、10進法、自然対数の理解が必要だ。三角関数を3角比(幾何)の問題ではなく。周期関数(調和振動)として解析することを教えなければならない。大学教養課程では、多変数の解析学の現代化が必要である。多変数の微積分学を線型代数の上に理解しなければならない。数理統計学を、アンケート調査の乱暴な取り扱いに騙されないように、集団現象の連続的取り扱いとして解析学の理念において理解しなければならない。

数学教育とて教育体系の一部分である。特に物理科学分野との関連において理解を進める必要がある。領域ごとの分野の特質は、その内容から生まれてきたものである。このような意味で教育の全体構造を考えることは重要である。暗記とテクニックで教育するとすぐにつまずく子が出るが、法則性を明らかにしながら進む道は子供にも楽な道なのである。三角関数の無数の公式を覚えるより、オイラーの公式ひとつで必要な命題を解いてゆくと、数学はどれほど楽しいことかが分る。数学は理科に従属するものではない。数学教育現代化がもっと理科教育現代化の中に入ってゆくことが重要だ。理科に現れた数学的形態ではなく、自然科学の本質的内容に迫ることが求められる。理科教育では数学以上に「身のまわり主義」の弊害が著しい。昔高等教育が文科と理科に分けられてきた歴史的弊害はいまも「文科系学生」を縛っている。社会的統計で計算処理を施すと科学になると信じている学生がいるが、重要なのは処理ではなく点の内容の吟味であろう。異質な物を見抜く力が求められる。それには文科・理科の違いはない。言葉との関係で、数学と論理学の問題は重要である。高校で記号論理を教えるかどうか難しい。なぜなら相関と関数関係の区別が曖昧である。最後に数学と芸術、人格は関係がない。

1)ピタゴラス
森 毅著 「異説数学者列伝」 (ちくま学芸文庫 2001年)

一刀斎先生は、30人の数学者列伝を「偉人伝」としてではなく、「ボロボロ史観」で悲劇的かつ喜劇的に描きたいという。だいたい数学者には変な人が多いそうだ。変なんだがエライところもあるというふうに、ボロボロたちによって数学は作られた。つまりよれよれの一刀斎先生もこれで、数学者の仲間入りができるのだ。数学3000年の歴史は、まえの「数学の歴史」を見ていただくとして、本書は数学者に列せられる人々が如何に生きたかに重点を置いてある。ただ筆者の思惑はそうであっても、少ないページ数と乏しい文献で人の人生を描くことは難しい。へたをすると、手垢のついたエピソードの切り売りに堕することの危険性もある。さて筆者の目論見はうまく行くのだろうか。本書は1973年蒼樹書房から刊行され、2001年に講談社学術文庫に入った。

1) ピタゴラス(BC580-500?)

数学者の始まりはタレス(BC565没?)といわれているが、伝説の彼方にある。小アジア(トルコ)のイオニアに住みギリシャ自然学の影響のもと日蝕の予言で有名で、3角形合同定理はタレスの功績とされ、「賢人タレス」の名を流した。アリストテレスは、「数学の諸原理が一切の事物の原理であると考えたほど、この科学を前進させた最初の人」ピタゴラスといった。イオニアのサモス島の出身でイオニア自然学の後継者とされるピタゴラス学派を作った。そして「ギリシャの哲人」に納まった。彼の数学の基礎は数(自然数)とその調和(比)であったとされる。ユークリッドの幾何学に代表される図形の調和にたいして、ピタゴラスは個数に価値を置くバビロニア数学と関係つけることも出来る。直角3角形におけるピタゴラスの定理は、√2という無理数をうみ、アピタゴラス学派によりタブー視された。

2) ユークリッド(BC330-275?)

ピタゴラスから約200年後の、プトレマイオス王朝のエジプトのアレクサンドリアの出身である。ギリシャ知性主義とエジプト神秘主義の中間を行くお国柄で、幾何学の公理体系「原論」を著わした。ユークリッドはプラトン多面体の完成のために原論を書いたといわれる。プラトンは友人の数学者ユードクソスを支持してエレア派を退けた。エレア派はギリシャ数学の伝統である背理法的有限理論(無限を排除する)を形成し、ツェノンは無限と運動に関する「アキレスと亀」の逆説で有名である。ギリシャ数学は無限をタブーとした。ユークリッドの原論13巻は大変難解で読める人はいなかった。

3) アルキメデス(BC287-212?)

アルキメデスはローマの対抗者カルタゴ(北アフリカ)の出身で、ポエニ戦役(カルタゴの将軍ハンニバルは今一息でローマを滅亡させることが出来なかった)において、ローマ軍によって殺されたとされる。軍事兵器製作の技術者でもある数学者で、奴隷の仕事といわれた製造研究にも天才振りを発揮した。浮力とか比重の発見になった風呂場での出来事が超技術者のアルキメデス像を作った。アルキメデスの力学はイタリアの数学者ユードクソスの系譜とも言われる。アルキメデスの数学は幾何学に基礎をおき、求積法は極限と積分の概念の萌芽を含む。しかしながら、ギリシャ幾何学(ユークリッド幾何)は無限、変化、量を避けてきたことで、ギリシャ数学の芽を摘んだことになり、それ以降1800年間は数学の進歩は止まった。

4) カルダノ(1501-1676)

16世紀イタリアミラノで「最大」の形容詞を独り占めをした数学者がカルダノであった。16世紀ルネッサンスでは「自然科学」とは「自然魔術」の段階にあって、錬金術や占星術から生み落とされたいかがわしいものであった。数学も大道芸に近い秘法であった。フォンタナは三次方程式の大数学師で身を立て、フェロ派のフロリドとの決戦で、「3次方程式の一般解法」を編み出したといわれる。カルダノはこのフォンタナの解法を聞き出し、フォンタナとの決戦でカルダノの弟子フェラーリは4次方程式の一般解法を生んだという。なんか講談じみた話ではあるが、とにかくカルダノ以降欧州の近代数学が始まった。アラビアの方程式が近代代数学と生まれ変わった。

5) ケプラー(1571-1630)

南ドイツ神学生だったケプラーは神職を得ることが出来なくて、占星術と数学教師を職業とし、コペルニクス派の地動説に立つのであるが、空想的神秘主義は科学的なガリレイの嘲笑を買った。1609年「新天文学」において、5年の計算を経て火星の楕円軌道を発表した。この中には無限小解析という積分論の芽生えが見られる。

6) デカルト(1596-1650)

オランダのボエチエ大学で法学士となり、武者修行の話題に事欠かないのだが数学者ベークマンについて落体問題を研究したという。ガリレイ的自然観を持ち、1637年「方法序説」を書いた。方法序説の幾何学は代数学との結合で解析幾何学の誕生となった。「省察」、「哲学原理」で近代哲学の二元論「コギトエルゴスム」の生みの親となった。一刀斎先生はどうも哲学が苦手らしく、哲学への考察が一切無いのが特徴である。そのかわり猥雑な下世話なお話が大好きというなんという仙人なのだろうか。

7) パスカル(1623-1662)

フランスパリの生まれで、幼少より数学的天才であった。16歳で「円錐曲線詩論」を書き、計算機の発明に精を出し、トリチェリの真空実験を行って近代的な真空概念に到達した(気圧をパスカルという単位であらわす)。社交界ではデカルトとは性が合わなかったようだ。数学ではサイクロイド曲線の研究、積分概念の進歩に貢献した。フェルマーとの文通で賭博から確率理論を考え、神の存在は確率論から信じた方が得策だと「瞑想録」に記した。

8) ニュートン(1643-1727)

1642年ガリレイが死んでイギリスにニュートンが生まれた。幼少時代はガキ大将で、からくり玩具作りやぶどう酒から錬金術に熱中したらしい。22歳頃から科学の先端に到達し、ケプラーの法則と重力概念(距離の逆二乗則である引力)を会得した。ケンブリッジの教授になってから、「光学」、「無限級数の方程式による解法」という微積分を研究した。永遠の名著「プリンピキア」、「数学原理」を著わしたが、ニュートンの晩年には微積分法は大陸のライプニッツに主導権を奪われていた。

9) ライプニッツ(1646-1716)

父はライプツィヒ大学の教授で母からラテン語を学んだライプニッツは早熟な教養少年であった。法学とスコラ哲学を学んで、21歳で宰相ボイネブルグの懐刀として政治家となる。24歳で数学に接し、ホイエンス、パスカルを学ぶ。パスカルの4則演算の計算機をつくって王立協会員となる。微積分の形式を作り、位相幾何学の原点を書いた。そして数学上のライプニッツ学派を形成、「形而上学序説」を著わす。40代に宗教界の再編計画に手を出し悉く失敗した。50代には記号論理学、計算機、2進法によってコンピューターの祖となった。

10) ベルヌーイ(ヤコブ1654-1705 ヨハン1667-1738 ダニエル1700-1782)

スイスの数学一家として知られ、流体力学のベルヌーイの方程式といってもどのベルヌーイかはっきりしない。ヤコブはバーゼル大学の教授となり、ヨハンとともにライプニッツの3人でヨーロッパの解析学のトロイカが疾走し始めた。懸垂線、微積分(ロピタルの定理)、ベルヌーイの微分方程式、サイクロイドの降下線(ベルヌーイ・オイラー変分法)、テイラー級数などは論争的共同作品であると考えられている。ヤコブは「推測法」という書を遺し、確率論の出発点となった。ベヌーーイ試行(大量試行)の大数の法則はベルヌーイを「確率論の真の創始者」といわしめる。ダニエルはオイラーをペテルスブルグに呼び寄せ後釜にして、自分はスイスに戻って流体力学を研究したが、成果を父のヨハンが独り占めしたというからベルニーイの方程式が誰の功績かわからなくなるのは当然だろう。ダニエルは弦の振動を三角級数解によって、固有振動数の重ねあわせで表した。これが固有関数展開の最初となる。

11) オイラー(1707-1783)

現代の数学はリーマンに淵源するというが、リーマンはガウスの発想を展開しただけだといい、ガウスは数学は何でもオイラーにあるといった。「現在の数学者の作る定理なんてものは理論の断片にすぎないが、オイラーの定理はこれから成長する一粒の麦となった」と著者先生がおっしゃる。オイラーというとロシア人だと思うのは間違いで、スイスバーゼルの出身で、就職先をロシアのエカテリーナ女帝としてそこで数学の業績を上げたからである。ベルヌーイ・ダニエルがペテルスブルグ学士院に入ったのを契機として、オイラーはその弟子となった。「力学」を表し、オイラー積分やオイラー関数などオイラーの名をかぶせた公式を数限りなく生産した。ロシアの内紛時代にはプロシアのベルリンに移り、「無限小解析序論」、「微分学原理」を著わした。そして7年戦争の余波を受けて59歳のオイラーは再びロシアに職を求めた。白内障で視力を失いながらも、オイラー方程式を含む変分法の著作「極大極小論」をあらわしたのは67歳のときであった。

12) ダランベール(1717-1783)

18世紀のフランスサロンで啓蒙主義「百科全書」の著者ヴォルテール、ディドロ、ダランベールの名は有名だが、恥ずかしながら私は数学者としてのダランベールは知らなかった。数学者として、ダランベールの収束条件、波動方程式の微分演算子、ニュートン力学のダランベールの原理の方が先で、百科全書の序文を書いたのはあとのことであった。しかし百家全書の序文の態度は数学の流れを反映している。数学形式が意味から自立し、数学の線型性を予言するものであった。ブルバキ派は現代の百家全書派かもしれない。代数方程式は複素数の範囲で根を持つ(ただし根が一般的に求め得るのは4次方程式まで)というガウスの定理を証明はダランベールによるものだ。また解析関数の基礎方程式「コーシー・リーマンの方程式」は「ダランベール・オイラーの条件」と呼ばれている。ダランベールは30歳代で19世紀の数学、数理物理、流体力学を先取りしていた。

13) ラグランジェ(1736-1813)

ダランベールの推薦を受けて、トリノ砲兵学校の教官ラグランジェはベルリンに赴いた。振動論、流体力学、天体力学に功績を残した。オイラーとともにラグランジェは代数方程式の解について、19世紀線型代数のガウスの先駆をなした。「ラグランジェの公式」などオイラーと共通した性格が目立っている。オイラのように「トラック一杯の公式」生産にもあきて、1788年「解析力学」の大著を完成した。翌年フランス革命からラグランジェの人生が一変した。王朝とナポレオンと王候の間を激しく動いた。

14) モンジュ(1746-1818)

モンジュの考案した画法幾何は「図学」といわれ製図技術の基礎となった。射影幾何のように、各面から見た立体像は「結合の象徴」であったはずが、いつの間にか転倒して「分離の象徴」となった。モンジュはメジュール士官学校から軍関係の工学者となった。フランス革命ではジャコバン党に属し海軍大臣となった。大砲の製造に携わった。反動期には姿をくらまし学校教官になっていた。1795年「解析の幾何への応用」は微分幾何の創世記をかざり、偏微分方程式の先駆ともなった。ナポレオンのエジプト遠征に従軍し、エジプト学士院を建設したが置き去りにされ苦汁をなめる。ナポレオンが皇帝になったとき伯爵に叙せられた。ナポレオンがセントヘレナに隠居したときはモンジュは70歳のヨレヨレ老人で学士院から追放され、貧民窟で病死した。

15) フーリエ(1768-1830)

フランス革命後の激動期を生きた人々は、政権が変わるたびに立場の調整が大変だったようだ。ラプラースは陰性だったために評判が悪かった。フーリエは21歳で修道院に入ったが、方程式の論文を革命の1789年にパリ科学学士院に提出し、モンジュに認められて高等工芸学校に呼んで貰い坊主から数学者の道へ転進した。方程式の根に関する「フーリエの定理」である。エジプト遠征ではエジプト学士院に取り残された。フーリエには行政手腕もあったようで、フランスに戻ってからグルノーブルの知事に任命された。フーリエは「熱の解析的理論」は1822年のナポレオン後のことで、熱伝導で科学学士院理事に君臨した。熱伝導を三角関数の級数で解くことは、ベルヌーイが50年前に弦の振動を三角関数の級数で解いたことの再現であった。熱の伝導と弦の振動が同じ数学形式で表されることが奇妙な取り合わせとなり、現代解析の基本的カテゴリーである「集合と関数」、「位相と連続」、「測度と積分」のすべてがフーリエ級数でつながっていたのだ。フーリエは数理物理学者になった。ルイ18世の王政復古の時は、暫く身を潜めていたが、セーヌ統計局長におさまった。パリ学士院会員、翰林院会員と上り詰め、ディリクレをフーリエ級数の理論後継者とした。

16) ガウス(1777-1855)

19世紀の数学はガウスを持って始まる。ガウスは理想的な数学者としての能力に恵まれていた。ガウスは知りえた知識は完成の形で発表するという完璧主義者であったため、半世紀間の数々の数学的発見は行李の底に秘匿され、日の目を見なかった。それが多くの後輩数学者に対する業績評価に話題を投げかけた。しかし天才ガウスの発見したことは半世紀の間にガウスなしでも発展したことになり、天才がいなくても世の中は進むものである。10代でゲッチンゲン大学に進み、算術幾何平均、最少二乗法、正17角形の作図をしたといわれる。20代には「整数論考究」、「天体運動論」をものにした。30にしてゲッチンゲン大学天文台教授として立った。ガウスは18世紀サロンの数学を実地でおこない、19世紀の数学理論体系を自立させたという、18世紀と19世紀の境にたった「両面のヤヌス」といわれた。ガウスは測地学から曲面論と多様体を自立させた。50代には電磁気学を中心に研究し、磁場のガウス線はポテンシャル論の出発となった。この頃若い数学者の研究、たとえばコーシーの「複素関数論」、アーベル、ヤコビの「楕円関数論」、ボヤイ、ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学を無視したことは、かって自分がしまいこんだ論文の行李の底を引掻いたからだといわれる。曲面論と時ユークリッド幾何が新しい世代によって開花し始めた時期、つまり19世紀半ばドイツ数学の黄金時代にガウスは亡くなった。

17) コーシー(1789-1857)

コーシーは19世紀を推進する最も多産で有能な数学者であった。生活面では「カトリックと王党派」という信条が彼を縛り付ける。ナポレオンのサロンでコーシーはラグランジェによって「未来の大数学者」と着目された。高等工藝学校に進み、土木学校から工兵士官となった。この間の多面体や、置換体の研究は群論の出発点をなした。複素関数のコーシー積分定理、発散積分のコーシー主値、弾性体の解析でテンソルを使用した功績がある。王政復興後、ルイ18世はボナパルト派のモンジュを追い出し、コーシーを科学学士院に、ソルボンヌ大学教授に任用した。そして30歳代はコーシーの多産時代となった。「解析学講義」、「微積分要論」はフランス解析学のはしりであり、19世紀風に改めた。ガロアやアーベルの論文を握りつぶしたことではコーシーの評判は悪い。1830年人民の王フィリップスの時代になると、頑固な王党派コーシーは失脚した。1838年パリに舞い戻ったコーシーは学士院に大量の論文を送りつけた。弱った学士院は論文のページ数を4ページ以下にするという制限を設けた。天文台教授として微分方程式の初期値問題「コーシー問題」、整数論の収束半径に関する「コーシー・アダマールの定理」などがこの時期の功績である。

18) ボヤイ(1802-1860)

ボヤイという名は音楽家コダーイなどに通じる名で、ルーマニア地方のマロシュ川のほとりの貧乏貴族の家に生まれた。ウイーンに留学し陸軍工兵学校を出て少尉となる。ウオッカとヴァイオリンと数学を愛した青年は、やがて非ユークリッド幾何学の研究に邁進する事を決意する。「純粋数学入門」をガウスに送ったが、ガウスはロバチェフスキーの「仮想幾何学」と同様に、非ユークリッド幾何学を理解しながら、この道に入らないように勧めたという。ボヤイの数学への夢は挫折し、45歳になってウイーン革命に参戦した。反革命軍がウイーンを占領した時、ボヤイは軍事秘密会議の被告席にいた。それからボヤイの消息は知られていないが、1860年すべての人に忘れられたボヤイが死んだ。

19) ヤコビ(1804-1851)

19世紀の数学の基底には楕円関数論があったが、ワイエルシュトラウスもリーマンも1829年にヤコビが書いた「楕円関数論の新しい基礎」から出発している。18世紀のオイラー以来の楕円関数論は、アーベルが1826年に書いた「超越関数の一般的性質」と、1829年にヤコビが書いた「楕円関数論の新しい基礎」によって新しい展開を見せた。アーベルは論文をパリ学士院に送ったが、掲載されないのでルジャンドルに抗議すると、コーシーの引き出しの中で眠っていることが判明した。アーベルにベルリン大学教授の招請状が来たのは、アーベルが26歳で結核に倒れた2日後であった。例のガウスがアーベルの楕円関数論は自分の10代の少年時代に解いたと嘯いていたことも影響したのだろう。ヤコビはベルリン大学の助教授時代にこの楕円関数論を書いた。マンチェスターでハミルトンに出会ったことが「ハミルトン・ヤコビの力学」の始まりとなった。1842年ごろ編微分方程式や力学の功績に結びついた。これらは線型代数と不可分であり行列式の定式化を行なったのもヤコビである。行列式についての論文は「関数行列式」と続き、ヤコビアンという名につながる。ヤコビの場合線型代数は1次方程式から生まれたのではなく、力学系の微分方程式の理論から生まれたのである。1848年の革命の時期45歳のヤコビは何を思ったのか自由主義者として立候補した。落選したヤコビを待っていたのは7人の子供であった。

20) ハミルトン(1805-1865)

ハミルトンはダブリンの弁護士家族に生まれ、神童といわれた幼少時代には1ダース以上の語学を学んだといわれている。22歳でトリニティカレッジの教授となった。変分原理を使った幾何光学が認められたのだ。20代には幾何光学から力学系に仕事の幅を広げ、ハミルトン方程式はラグランジェの「解析力学」につながるもので、これなくしては統計力学も量子力学も考えようがないほど重要な形式となった。この辺の理論の完成は「ハミルトン・ヤコビの力学」としてヤコビに任せ、ベクトル幾何から3次元の回転群の考察に導かれ、10年後の1853年人類が始めてみた「4次元数」となった。これによりハミルトンは線型環の創始者となった。クリフォード環の出発点であり、数の系列は、実数→複素数→4次元数→8元数(ケイリー数)と進化した。線型代数の固有地問題は「ケイリー=ハミルトンの定理」は3次元の固有地問題であった。ハミルトンは英国数理物理学の伝統に則り、ベクトル解析の微分作用素が4次元表記となりベクトル解析の誕生につながった。その延長線上にはマックスウエルの「電磁気学」1873年が待っている。しかし彼の「4次元講義」はニュートンの「数学原理」に匹敵するといわれるが、解読不可能な黙示録として今では誰も見る人はいない。

21) ガロア(1811-1832)

ガロアは20歳で決闘に散った天才ということで、フランスではいまも有名である。幼年時より奇矯、陰険という言葉が成績表に残っている変わり者であった。高等工芸学校を2回受験して落ちている。この頃から数学に異常に熱中し、17歳でのちに「ガロア理論」といわれる方程式論の研究を進めた。論文を科学学士院に提出したが、コーシーが紛失したようだ。教職予備校時代に再度論文を提出したが、今度はフーリエがどうかしてしまって日の目を見なかった。そして1830年の革命に遭遇し、ガロアは「人民の友」というセクトに参加した。教職予備校では校長弾劾運動に巻き込まれ、19歳で革命か数学かの選択で革命を選んだ。

22) ケイリー(1821−1895)

19世紀イギリスの線形代数学派を代表する。ケンブリッジに学び、23歳のとき「n次元解析幾何」、「線型変換論」、「超行列式」を発表して数学者として出発した。ところが25歳の1846年には法学部に入りなおし、法律家への道を進む。イギリスでは弁護士以外は知的職業とは認められなかったようで、主客が逆転した。ここへ同じような道を選んだシルヴェスターがケイリーの同僚となり、「行列論」の創始者の仲間入りをする。1855年シルヴェスターは弁護士を辞め士官学校の数学教官となり数学に専念するが、ケイリーは弁護士のまま数学業績の最も多産な時期を迎えた。ケイリーの「行列論」は4次元数の行列表現で「ハミルトン・ケイリーの定理」が定式化され、線型環の行列の最初の例となった。19世紀幾何の総合として「射影幾何学」を唱え、双曲線非ユークリッドを位置づけローレンツ群を指定した最初となる。1863年ケイリーはケンブリッジ大学教授となった。シルヴェスターはジョンホプキン大学に招かれて渡米し、1881年にはケイリーをアメリカに招いて、二人は不変式論の最高権威として、アメリカ代数学派の成立に貢献した。数学論文の圧倒的な量産家では、オイラー、コーシーと並んでケイリーの名が確定した。

23) ワイエルシュトラス(1815-1897)

ドイツミュンスター大学を出て、高校で数学と体操を教える39歳の大男が、アーベル関数について論文を書きドイツ数学界を驚かせた。40歳を過ぎてからベルリン大学助教授に招かれたが、なじめなかったようだ。大学でいじめられた相手はクロネッカーで、独身主義者で愛した女性がロシアの弟子コワレフスカヤであったという挿話が残っている。楕円関数、解析関数、変分法などの業績があるが、若いデヂキントとともに19世後半の「無限と連続」の追及者であった。

24) コワレフスカヤ(1850-1891)

緑色の目をした愛らしいロシア娘コワレフスカヤ(実は結婚していた)はベルリン大学でワイエルシュトラスに教わる。4年間はワイエルシュトラスのお気に入りとなったが、パリコンミューンに出かけたりベルリンにもどったリ忙しいことであった。24歳の時ゲッチンゲン大学で学位をとるが、それが変微分方程式の初期値問題「コワレフスカヤの定理」であった。ペテルスブルグの社交界で小説や詩を書いて数学は辞めたようだった。34歳のときストックホルム大学講師となって数学を講義した。社交界でロマンスの噂が絶えなかったが、41歳で肺炎でなくなった。

25) ポアンカレ(1854-1912)

ポアンカレーの熱中心(放心癖)はニュートンと並んで有名であった。フランスナンシーの町の医科大学教授の家族に生まれた。数学の才能は定評があったが、推論が雑で荒削りで飛ばし勝ちだったので、偏微分方程式論文で学位をとったとき審査教授から、アイデアのままで修正や説明が必要と注意された。カン大学の教職に就きフックス関数と非ユークリッド変換との関係を得たと、のちの「科学と方法」1908年に書いている。27歳のときパリに移り、保型関数論をまとめた。ポアンカレーの理論は「微分方程式の定性的理論」と呼ばれるが、20世紀の花形である位相幾何へのスタートとなった。19世紀末にはポアンカレは多面的な世界最大の数学者とみなされ、第1回ボヤイ賞を受賞した(第2回はヒルベルトが受賞)。ポアンカレーは現代の数学者にとって、最後の古典的数学者であった。

26) ヒルベルト(1862-1943)

ヒルベルトは、プロシアの古都ケニヒスブルグ(今はソ連の軍港カリーニングラード)の裁判官の家に生まれた。ヒルベルトの20代は「不変式論」の研究でクライン、エルミート、ゴルダンらのドイツ数学界の大家を訪問し、「ヒルベルトの基底定理」に至った。具体的な計算のかわりに、抽象的な論理を駆使する20世紀数学の開始であった。ケニヒスブルグ大学の教授になると、自分の席に幼少時代の友人で天才少年ミンコフスキーを招いた。しかし間もなくヒルベルトはクラインに呼ばれゲッチンゲン大学教授として移動し、代数学的数体の研究に心血を注いだ。ミンコフスキーはいつもよい相談相手であった。「相対アーベル体論」は20世紀数論の課題となった。二人は電磁気学の空間論に熱中し、アインシュタインが相対性理論を出したとき、ミンコフスキーは「彼は数学はダメさ、私が教えたのだから」といって取り合わなかった。二人の仕事は「積分方程式論」(1912年)となり、ヒルベルト空間のスペクトル論に発展し、ヒルベルトのゲッチング大学は世界の数学の頂点となった。1924年共著「数理物理学の基礎」を書いたとき、ヒルベルトは60歳を越えていたが最絶頂期であった。1943年ヒトラー軍がスターリングラードで敗北した時、ヒルベルトは81歳で世を去った。

27) ラッセル(1872-1970)

ラッセルはケンブリッジを出て順調に知的エリートの道を進んだ。ラッセルの数学上の先輩は11歳年上のホワイトヘッドであった。「幾何学の基礎」を書いてケンブリッジのフェローとなり、23歳でベルリン大学に留学し「ドイツ社会民主主義」を研究した。1900年二人は数理論理学に心血を注ぎ、「数学原理」(1910年)を著わした。第1次世界大戦からラッセルは反戦論者となり、徴兵制反対運動でケンブリッジを追われた。数学者というより、文明論者・哲学者としてラッセルは理解されている。アメリカに移住し1943年「自由と組織」、1945年「西洋哲学史」を現した。戦後は労働党政府と一体化し、ノーベル文学賞、文化勲章を貰った。80歳を過ぎてから原水爆禁止運動、反核百人委員会にくわわって座り込みデモなども行なった。90歳代はベトナム反戦運動、そして1970年96歳で死亡。

28) ラマヌジャン(1887-1920)

1913年、インドのマドラス港湾信託事務所で働く25歳の青年ラマヌジャンはケンブリッジ大学のハーディ教授に手紙を送った。手紙には120の数学公式が書き連ねてあり、ハーディは迷うことなくこの青年をイギリスに招いた。ラマヌジャンは少年時代よりナマジリの女神と交渉して数学の啓示を受けていたようで、ハーディはこの青年に教育を施しても数学の芽を摘むことになりかねないと危惧し、自分お手元において養い、彼の書く公式の証明役を引き受けたという。20世紀の数学は証明だけに興味があるので、事実としての数学の式が尊重される時期は18世紀に終っていた。そこでハーディはラマヌジャンを王室協会員に推薦して待遇した。20世紀でもラマヌジャンのような数学者がいたことは、一種の清涼剤のような気がする。1918年に第1次世界大戦が終わり、31歳のラマヌジャンはインドに帰った。イギリスにいたのは僅か戦争中の5年間だけであった。インドに帰った彼は間もなくなくなった。

29) ウィナー(1894-1964)

ウィナーはハーバード大学のスラブ語の教授の息子として、そしてユダヤ系ドイツ出身のアメリカ知的エリートであった。又飛びっきりの神童ぶりを発揮し、9歳で高校に入り14歳で大学を卒業した。学位をとってから、イギリスにゆきラッセル、ハーディ、ヒルベルト、フッサールの講義を聞いたが、1914年20歳でアメリカに帰国した。ハーバード、メイン大学で講義をしたが面白くなく、映画とブリッジに埋没して数学界の主流から疎外された。戦争中はGEの技師、編集者、新聞記者などの職業を遍歴したことが、後のサイバネティックスにつながったのではという。三流技術者養成学校であったMIT(日本でいうと職工学校であった東京工業大学にちかい)で講師をしたが、ボスとはうまく行かず退屈で、チャールズ川の波のブラウン運動を見て「ウィナ−過程」の研究が始まった。1930年MITの学長となったコンプトンがウィナーの業績を見て、理学と工学の結合というMIT理念に乗り出した。1934年「複素領域でのフーリエ変換」はペイリーとの共著である。第2次世界大戦中はドイツに幻滅し精神的不安定な時期であったという。計算機とオートメーションの時代が到来し、2進法と電子回路によるコンピュータ情報論の先陣を切った。制御と予測の理論と結合し、「シャノン=ウィナーの情報量」という通信工学、そして1948年「サイバネティックス」に至った。ウィナーの性格は粗雑晦渋であり、彼がいなくても相応する数学工学者はいくらでもいたので、ウィナー不要論まで存在する。しかし時代を切り開く個性はいつも粗雑であった。

30) ノイマン(1903-1957)

悪魔が人間の真似をしたといわれたノイマンはブタペストの銀行家の息子として生まれた。中学校の時から神童の誉高く、ブタペスト大学に入学した。22歳の学位論文は集合論の公理で、ノイマン=ベルナイス=ゲーデルの公理系といわれている。23歳でベルリン大学の講師となってヒルベルト空間、量子力学、ゲーム理論の基礎の仕事をし、26歳でアメリカプリンストン大学へ移った。1933年プリンストン高等研究所において29歳の最年少教授となった。関数解析の研究は、ヒルベルト空間の作用素環論になり、「連続幾何」を生んだ。1932年「量子力学の数学的基礎」は物理学にヒルベルト空間を導入した。戦争前にノイマンは純粋数学者の花形と映ったようだが、35歳以降は軍事研究者に変身した。衝撃波の研究はジェット機の前触れであり、1942年ロスアラモス研究所に入ってマンハッタン計画に従事した。、ノイマンは「チュウリングの計算機」によってプログラム内蔵方式を生み出した。1944年「ゲーム理論と経済行動」は戦後の数理経済学に隆盛を招き、マクナマラの戦争を導いた。冷戦時代には1950年より水爆計画がはじまり、フェルミ、ファイマン、ノイマンらが参画した。それから原子力委員会、ICBM委員長を歴任した。


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