100610

藤木久志著 「中世民衆の世界」

 岩波新書(2010年5月)

百姓の生活、村のおきて、村のあらそい

たいした問題意識もなくふと買って読んでしまった本であるが、きわめて読みやすくそれなりに学ぶところがあった。ただ中世の定義がかなり近世にずれ込んでいるような気がした。本書が扱うのは鎌倉時代から室町時代を経て戦国時代、そして徳川時代初めまでである。私は中世は社会の動きが止まった平安時代にはじまり、室町時代はルネッサンス、戦国時代から日本の近世が始まると感じている。それも表面的なことで、日本の農民にとって徳川時代末までは中世封建時代の闇の中にあったといえる。「寛喜3年餓死のころ」という文句で始まる鎌倉幕府法(追加法112条、1239年)は深刻な飢饉の描写で始まり、幕府もうつ手は無かったといわれた。このようなさなか、ようやく見つけた政策は「飢饉奴隷の公認」という超法規的処置であった。この飢饉のさなか、誰か裕福なものがいて、貧しく飢えた者を養ってやれるなら、その者を奴隷としてよいというのである。ただ人身売買は許されないので、飢饉の年に限って超法規的に黙認するという。命を永らえさせるための緊急避難的危機管理時限立法であった。1232年貞永元年鎌倉幕府は基本法といえる御成敗式目を定めた。その第42条「百姓逃脱」の項には、「百姓逃脱の時、領主は逃毀といって、妻子を抑留し資材を奪い取る、はなはだ仁政に欠く」と書きき始められている。注目すべきは幕府はこの「逃散」を認めていることだ。この年の年貢を納め終わっておれば、去留は民の心のまかせよというのである。この鎌倉幕府の政策は室町幕府にも受け継がれ、15世紀「逃散許容禁止」においても、年貢を納めた百姓の逃散は正統と定めていた。そして江戸幕府1602年の法でも百姓が領主の非法を理由に逃散することを補償する.ただし年貢の決済を済ませてから。中世を通じて近世にいたるまで、災害時の基本法として去留の自由を認めていた。徳川時代には「ゴマの油と百姓は搾れば搾るほど出るものだ」とか「百姓の越訴は禁止」とかいわれているが、建前と現実には差があったようだ。領主と百姓の関係は秀吉の時代、1587年バテレン禁止令のなかで「総じて地頭・百姓は末代の儀、代官は当座の事」と述べられている。領主はころころ変わるものだが、百姓は永代土着する者であると云う考えで、庇護の対象にする位置づけであったようだ。本書の主題は中世の百姓の行動と村の成長を見て行くことである。

著者藤木久志氏のプロフィールを紹介する。藤木 久志(1933年10月 生まれ)は、日本の歴史学者。立教大学名誉教授。専門は日本中世史。新潟県出身。新潟大学卒業。新潟大学では井上鋭夫に師事。東北大学大学院修了。聖心女子大学助教授、立教大学教授、1986年「豊臣平和令と戦国社会」で文学博士。99年立教大を定年となり2002年まで帝京大学教授。戦国時代の民衆史を専門とする民衆史観研究者だが、護憲派としても運動している。主な著書には『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会、1985年) 、『戦国の作法―村の紛争解決』(平凡社選書、1987年)、  『戦国大名の権力構造』(吉川弘文館、1987年)、 『戦国史をみる目』(校倉書房 1995年)、 『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年)、 『村と領主の戦国世界』(東京大学出版会、1997年) 、『戦国の村を行く』(朝日選書、1997年)、 『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書、2001年)、 『刀狩り 武器を封印した民衆』(岩波新書、2005年)、 「土一揆と城の戦国を行く」 (朝日選書2006)などがある。本書は専門書 『村と領主の戦国世界』(東京大学出版会、1997年)を一般読者用に纏め直したものであるという。飢饉という危機に対処する法は日本の中世に一貫して続いている事、過酷な村のおきてが人を大事にする方向へ変化し、惣作という村の管理システムがそれを支えて、入会地を巡る村どうしのあらそいと調停のシステム、領主に対する「強訴」という実力行使、幕府への「越訴、目安」という訴訟システムなど、我々が歴史の教科書で学んだことの行間を埋める、生き生きとした歴史理解につながる本であると思う。

1) 村 掟−暴力の克服

1461年琵琶湖北岸の菅浦村に「惣庄置文」が残されている。置文とは村のおきてのことであり、村人達が集まって総意として申し合わせた事項である。「惣庄の力を合わせ、人を損ない、いわれなく人を処罰することをやめよう」という内容であった。粗暴な村の暴力が蔓延っていた時代で、処刑、追放のような村の秩序を守る習俗を「自検断」と呼んでいた。「下克上」の応仁の乱から戦国時代に続く風潮で、自治権を強めていた農村、国領では一種の恐怖政治も行なわれていた。この菅浦村の新しい取り決めは、村人の穏かな生活を望む方向を示すものとして注目される。1483年同じ菅浦村では「地下置文」(村掟)でさらに詳細を次のように申し合わせた。
@根拠の無い理由で死罪、追放された時には、その者の遺産はその子に相続させる。
Aお寺の住職を理由あって追放した場合、遺された寺領、仏物などは保全する。
B近年無情なおしおきが繰り返され、かわいそうなのでもう一度村全体で申し合わせる。この決定に背いた者は罪科に処する。
村の安定した生活への願いが家の保存と存続という形に掟が申しあわれた。1449年信濃の高梨一族置目には、出奔、逃散した百姓の財産を領主が勝手に没収するのはやめようと定めらた。戦国時代も終わりになると世の中に平和と秩序が回復し、追放処分で逃げた農民を呼び戻す「還住」、「召し返し」が行なわれ、1568年菅浦村では戦国大名浅井氏が仲介して、召し返しの取り決めが行なわれた。遺された家財が存在する時は親子に引き渡すこと、田畠も引き渡すという内容で、それについて大名が証人になるということであった。過酷な中世の掟では罪人の遺産は没収・破却勝手が当然と見なされていたのが、中世後期には家族に相続を原則とした。

逃散した百姓の田畠は村人の手で耕作されていた。1588年浅井長吉が若狭に大名として入国する際、次のような約束をした。「百姓はしり候、その田畠など惣中として作仕るべき」、つまり村の連帯責任で耕作してほしいという大名のお願いである。大名の利害が切実に表されており、村にとっては大変な負担でもあった。豊後の大友氏もさらに厳しい措置が取られた。惣作りの地が荒れたら、在所の責任(おちど)であるという。大阪冬の陣で戦争に出稼ぎに出る百姓が続出し、1614年近江ではたまりかねた百姓らは、惣作り拒否の申し合わせを行なった。年貢も納めず戦場の雑兵役で出稼ぎのため出奔する百姓が続出したら、村の惣作の連帯責任の負担は深刻である。1589年近江国浅井郡で村の水争いが生じた。秀吉の「喧嘩停止令」が出されていたので、喧嘩両成敗に従って村より数名の名代(犠牲者)が処刑された。処刑予定の名代が村に対して条件を出し奉行が保証人となった。跡目を嗣子に継がせること、屋敷・畠を継がせること、幼い嗣子を村で養育することであった。村の惣百姓11名が連署して嗣子に与えたという。村が請け負う「村請」の確かな枠組みとして機能したらしい。江戸時代の「地方凡例録」にも百姓の逃亡(欠落ち)の対処法が詳しく書かれている。逃げた百姓の行方を手を尽くして探索(永尋)し、どうしても分らない時は役所に届け、跡継ぎの手立てを処置する。はっきりした相続人がいなければ、親類が引き受ける。親類がいない時は知り合いが引きうける、知り合いもいない時は入札で処分する。代金は年貢を納めて余りある時は村役人が没収する。年貢の未払いがなければ村惣作とし、耕作したものが帳尻を記録し、収益が出れば村で管理する。もし罪科なく本人が戻った時に、田と利益を元のものに戻すという念の入った取り決めである。欠落人の田畑は「村惣作」が原則で、村には収益の管理まで託された。近世では欠落百姓を「潰れ百姓」と呼んだ。「潰れ百姓」は本来再建されるべき百姓株(名跡)とみなされ、積極的な再興策が問題となった。甲斐の村定めには「潰れ百姓」の再興の手順を定めている。
@「潰れ百姓」のあとは、その五人組が世話をする。家屋・財産は売り払って年貢や負債にあてる。田畑や屋敷、林、山まで五人組が経営の責任を持って管理し 小作に出す。
A低率の小作料であるが、領主の年貢、村の経費、潰れ百姓の取り分に分けて分配し、「潰れ百姓賄帳」に詳しく記録する。
B決算報告は村の監査を受ける。なお潰れ百姓の取り分は高利で運用され再興の備蓄金とする。百姓株は守られるものであり、村ではそれを援助する。
百姓が潰れても、その株や名跡は消滅しないという近世の村に広く見られる観念は、中世以来の知行地の権益や基盤は保存されるという慣習法に基づくものであろうか。

2) 惣 堂ー自立する村

中世の「惣堂」、「村の堂」は「惣堂は 案内なくして 人休む」と誰かが歌ったように、何となく親しい共通の空間、共通の世界をイメージするシンボルであった。それは村の寄り合い場所であり、御堂、薬師堂、阿弥陀堂、大日如来堂などである場合が多く信仰の場所でもあり、かつ旅人が遠慮なく宿とすることが出来た。中世の村ではよそ者に宿を貸すことを戒める「所の大法」が広く行き渡っていたが、惣堂だけは例外でだれでも断りなしに休むことが出来た。浪人、敗残兵、犯罪人、出奔人、旅の僧らが隠れて宿としたようだ。惣堂はまたは草堂ともいわれ、村人が寄り合って建てた堂で、村持ちの堂は中世の日常の暮らしにとって大切な結集の場であったらしい。村争いの調停で「中分」という和解の方法がある。なんでも半分で了解することである。山の境界を二つの村で争った時も境界に堂を作って和解する、あるいは境界のしるしに堂を建てる(境堂)、さらには二つの村が堂を二分してl共有するなどということも行なわれた。惣堂は他国の流れ者の緊急避難所にもなっていた。惣堂の柱、板壁などには諸国から来た人の落書きで満ちていた。それを解読すると人の身分、往来やいきさつなどがわかって面白い。戦国時代も終わりの頃、1589年摂津国の二つの村が入会山の利用権を巡ってあらそい、秀吉の「山検地」の決定を無視したため喧嘩停止令によって、庄屋が牢に入れられた上、惣堂が焼き払われた。村の代表者の処罰と村の共有のシンボルである惣堂が焼かれたのであろう。惣堂は村の祭りやもめ事調停、一揆を超す拠点であった。かつ仏事を営む場所でもあった。御堂、住職や仏具まで村の皆のものであった。村の長老らは「評定衆」と呼ばれ、独自の升までもって村の年貢を請負い、村の掟に背いた人を処罰する権限を手に入れていた。これを「地下請け」とか「自検断」といった。そして長老にとって、村政の集まりのあと、会合の打ち上げの酒宴には、惣物、仏物による盛大な飲み食いが行なわれたこれを長老の余禄といった。

3) 地 頭ー村の生活誌

村の領主の代理人である地頭と地元の村人の間には季節ごとの複雑な贈り物のしきたりが慣例として決められていた。1527年敦賀の寒村である江良浦が新しい領主と契約の際に提出した「百姓の指出」(村と領主の間の先例報告書)が拒否されて騒動となったいきさつが村の庄屋(刀禰)の家に伝わっていた。もともとこの地は大社気比神社が領主であり地頭を交わした季節ごとの貢物や賦役に対応した領主側の贈物にはじつにこまやかな慣例が存在していた。それを新しい領主が旧領主から聞いていないといって農民と対立し、ついにもとの領主との売買契約を破棄することになった事件である。一例だけを挙げると、1月6日村が地頭に年始の挨拶に行く日を「六日年越し」といい、村からは庄屋(刀禰)1人、百姓3人、下人4人の合わせて8人が、銭500文と白米3斗を持参する。それに対してして地頭側は「百姓椀飯」といって饗宴を設ける。酒、一番鯖、斗樽の酒が振舞われる。村によって異なるが、村人の身分差に応じて鏡餅、扇、飯、おかずが出される。飯については刀禰に七合飯、百姓に五合飯、下人に四合飯といった按配に。これらは互礼の贈答習俗であり地方によって著しく異なるものである。2月には「麻播き始め」祝い、7月には「麻の代」(麻の納入)、3月には「入草はじめ」(田に草の下肥え)、3月15日「浜の地子」(塩年貢納入)、6月1日「麦年貢」(うち40%は村の鎮守さまの祭り用にとっておく)、6月30日には「くわ代」(桑代畠地子銭、年貢)、「こりおきの食代」(薪刈賦役の食事代)、7月7日初秋の祝い「根芋」、「大角豆ささげ」納入、7月13日「盂蘭盆会の祝」、8月15日気比神社へのお供え物納入などが主だった行事であるが、それ以外に地頭へ納められる物品には必ず祝儀と酒手を百姓に贈らなければならない。粟、柴、餅つき柴、畳の薦、松飾り用松、餅つきなどなどである。地頭といえど百姓との関係にかかる費用も大変である。これを聞いて江良浦の新しい領主はびっくり仰天逃げ出したということであろう。夫役といえどただ働きではなく、1日に1升1合の飯を食わせなければならない。庭の普請に百姓をかりだす時、路次は手弁当だが、1人前の働き手には飯6合、使い走りには飯3合と決められていた。金で払う時1人3文であった。若狭太良庄では夫役は有償であった。1334年、「食・酒」の付き合いが村と領主の結びつきにとってどれほど大事であったか、もしこれを破る地頭や代官がいたら、百姓は領主に約束違反として訴えた例があった。また「人足給3石」、「永夫銭(京などへ長期派遣労働)18貫」、「国越し(長距離派遣)夫6貫」など年貢から控除するという取り決めがあった。

4) 山 野ー村の戦争

村の山野河海はみんなのものであり、鎌倉幕府御成敗式目にも「水、山野、草木のこと、公私ともに利す」とか「山林、河澤の実は公私ともにすべき法あらんか、通用の先蹤にしたがうべき」とされていた。共有地、入り合い地は慣例法として処せられたのである。だが次第に強欲な領主は「無主の地は庄の領たるべし」とその囲い込みを図るようになり、領主間でも争いの種であった。村では山野河海の争いは「中人」仲裁人(隣り合った第三者の村)に立ってもらい、和解の証文を交わす慣わしであった。これに反する村は「中違い」という仲間はずれ(村八分)を受けて孤立した。鎌倉幕府は村の争いには「折中の法」といって折半して沙汰することを原則とした。山畠の争いも折半の沙汰とし、田の用水も両方半分の法で沙汰、薪、炭、馬草、材木の利用も共同利用が原則であった。領主間の争いも村の争いの代理である事が多かった。1259年「諸国飢饉」の年、紀伊高野山の荘園の地頭は代官を訴えた。言い分は諸国一帯が飢饉のため山海を開放し、かつ領主の蔵を開いて百姓に食物を施しているのに、ここの代官は冷酷で百姓の生活を省みない。このように中世では山野河海は食料資源として飢えた人に解放するというのが飢饉の救済策であった。山野河海は肥料(枯れ草)、飼料(馬草など)、燃料(枯れ木、柴)、食糧(山菜・鳥・獣・魚・海藻・塩)、衣料素材(こうぞ三椏)、染料(藍、黄肌)、薬、材木、用水、飲料水源、土、鉱物資源、など実に豊かな生活資源に満ちていた。お互いに共存して、他を侵害しないという「棲み分け」で利用し合おうという規範として慣例法が成立していた。領主が力ずくで私物化することを強く制限していた。16世紀に越前国でその山の持ち主である塚原村と山を利用したい河野村が交わした山野の入会契約書が存在する。毎年の正月に更新し、3月3日の節句に9貫文を河野村が支払う。そして利用する細かな条件や鎌・斧の用具も規制している。草だけならすべての村人が利用できるが、鉈・鋏・斧以上の山用具を使って伐採した木などは山の地主のものであるから金を払うという考えである。領主は特定の場所をしてして囲い込み、そこを立山、立野、立林、立海と呼んで区別した。また自領に近い山を内山、遠い山を外山といって、外山の下草は入山料を取って開放するが、内山は自領内のものだけに限定するなどの区別をした。

しかし紛争は絶えなかった。ひろく「山論」といった。1216年延暦寺領であった近江の古賀庄と善積庄の間で境界を無視して樹木を伐採する争いが起きた。村レベルでは山を侵す相手方から「鎌・斧を取る」ことで実力支配を認めさす争いである。1296年山城の禅定寺は「山盗み」について詳しい禁制を定めた。檜類を盗み刈りしたら、「鎌・ヨキ」を取り上げ、3百文の過料をとるという。1420年山城の伏見庄と聖護院小幡庄の間で草刈争いが起きた。相手の鎌をとって、戦闘状態となったという。1564年武蔵滝山城の北条氏照は下草刈でも鎌を押収するだけでなく、身柄を拘束連行するお達しを出していた。この山盗みに対して「鎌をとる」というやり方は古くから行なわれており、799年の太政官符では、「公私共利」の原則が寺や貴族荘園領主によって破られ「鎌や斧を奪い取る」ことを問題としている。中世には武力を持つ領主だけではなく、武力をもたない村においても「鎌を取る」という危険な紛争が起きるようになった。事が紛争になると、鎌を取るだけでは収まらず、放火、刃傷、矢戦、合戦に及んでいる。見かねた周辺の村が調停に立ち、「異見」(意見)をいう手続きを行い霊社で起請文に署名した。双方の言い分をまず文章で提出(文箱にいれる)させ、証拠調べを審議して多数決(多分)で結審した。1573年の甲賀村と伊賀阿山村との草刈場争いでの判決文では、双方の境界線を引き、その間の山の範囲を緩衝地帯として共同利用するという解決の方法である。山の境界を厳格に定めることは難しかったので、曖昧な場所は緩衝地帯とするやり方であった。1560年甲賀石部三郷と檜物下庄の用水紛争では、「弓矢」の戦いとなり「討ち死に」がでた。長老達の判決は檜物下庄のほうに過度の戦闘行為があったという意見であった。檜物下庄の名主が頭を丸めて法衣を着て相手方の鎮守の鳥居の前で謝罪する。そして檜物下庄の名主の家の門を壊し、家に火を放つという謝罪の作法であった。門を壊し家を焼くという制裁は、当時の一般化した村レベルでの刑罰であったという。1449年近江の菅浦村と大浦村の間で起きた争いは、女子供も動員した村総出の戦いとなり、大がかりな戦闘を行う兵糧や酒手は村にとって重い負担であったことが記されている。犠牲者には村で末代までその家の長男の賦役を免除することを約束した。江戸時代になっても山野紛争はやまなかった。「天ご法度」が発せられても、なかなか争いごとはやまなかったようだ。

5) 直 訴ー平和への道

1550年、小田原の北条氏は百姓と地頭や代官との間にもめ事があったら、大名法廷に訴訟するようにという直訴の道を開いた。その前に大地震があり、耕作に絶望して村を棄てる人々が続出した。どうやってもとの村へ百姓を戻すか。大名の思い切った保護策に大きな期待がかかっていた。そこで百姓の直訴を積極的認め、苛斂誅求な代官や地頭から百姓を守らなければならなかった。それが直訴の勧めの本音であったと思われる。その後1560年上杉謙信に小田原城内に深く攻め込まれ、領域を徹底的に破壊され、それが引き金になって激しい飢饉に見舞われた。そこで北条氏は下々の百姓まで、目安箱を置いて諸人の訴えを聞いた。江戸時代に有名な目安箱が1世紀も前に小田原で実施されていた。領主や代官をこえて、百姓が大名へ直接訴える事を保障していた。戦国時代に軍隊による乱暴狼藉は村の自治力で防いでいたが、そのためにはそれなりの村の武装も必要であった。戦国大名は自軍への協力を誓った村には安全保障を約束した。直訴、目安箱などの政策が、荒廃した戦場の村に村人たちが戻る事を促した。豊臣秀吉は百姓の異議申し立てには家来任せにせず、自分がじかに裁くことを約束した。そして1580年秀吉は次の事を言った。「理不尽なやからがいたら、村人達の力で逮捕し、直訴すべし」という、村の武力を前提とした警察システムによる秩序維持に期待した。緊迫した戦国時代の村自治の有様であった。直訴というシステムによる百姓村での武力行使の回避、抑制策は大きく広がってやがて徳川時代の政治の骨格となっていった。1603年徳川家康は将軍となると「御領所直轄領と私領旗本領の百姓七箇条のこと」を定めた。
@直轄領と私領の百姓に、領主の非にもとづく逃散権を保障する。代官や領主がその百姓に還住を強制することは禁止する。
A「出入り勘定」つまり年貢の支払いを済ませば、移住は村人の勝手である。
B幕府に異議申し立てをする時は、村を出る覚悟をせよ。
C年貢率の高下についての異議は受け付けない。
D幕府への直目安は禁止する。地頭に人質を取られた場合の緊急時はこの限りにあらず。
E代官に落ち度がある時、越訴を保障する。
F領主による私的な制裁を禁止する。幕府の法廷での公平な裁判を保障する。


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