100608

白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」

 岩波新書(2010年5月)

生き方は個人の選択だが、そもそも最初から立つ位置が異なる

21世紀になってから著しく日本社会を覆っている閉塞感の最大の原因はいうまでもなく格差社会である。経済的背景としてはグローバル経済という国境なき資本主義の市場原理主義がもたらした結果である。政治的思想的背景としてはアングロサクソン的(英・米国)新自由主義の結果である。それらの潮流の最大原因は、1989−1991年の共産圏諸国の滅亡の結果、資本主義の歯止めがなくなったことによる。これまで社会主義の主張(福祉)も取り入れた混合資本主義でやってきたおり、特に日本はお手本のような社会主義優等生であった。カウンター勢力がなくなったことで、資本主義は差異に基づくむき出しの収奪本性を発揮しだしたのである。1990年代のアジア通貨危機はヘッジファンドの後進国収奪の典型であり、21世紀初頭の米国のサブプライムローン問題は貧困層を食い物にしたビジネスで、世界経済の破綻の引き金を引いた。世界市場は重商貿易時代から情報の不均衡から利益を得ることを本質としている。今では中国は通貨の不均衡で世界の市場を食っている。小泉首相の小さな政府は社会福祉・医療などのセーフティネットを破壊し、アメリカ以上に生きにくい世の中にしてしまった。そして怪しげなヒルズ族を輩出し、「勝ち組・負け組」という言葉で格差を当然視する風潮を作った。社会の矛盾を自己責任の中に解消するか、個人的心理のせいにする暴論がまかり通ってきた。博打のように勝つ者もいれば負ける者もいるのは仕方ないという言い方で、実は中間層を分解して全体を貧困化した。勝ち組なんていなかった、全体が負け組であった。均質な中間層相手では儲からないのである。格差は資本主義の本質である。貧困層が無知であるほど仕掛けは大きくなり、儲けは倍増する。

今の日本で実際に選択できる「生き方」には、収入、ジェンダー、年齢によって著しい不平等があるのではないかという疑問から本書は出発する。子供、若者、女性、高齢者というライフステージごとに貧困の実態と原因は異なる。つまり弱者に端的に現れる不平等を解析してマクロな社会的不平等と、個人の生き方というミクロな側面を統合して考察することを本書が試みた。不平等や格差はマクロな視点である。不平等や格差は画一ではなく、さまざまな人生を送ってきた人々にさまざまな現実がが直面し、色々な現れ方でひとびとを苦しめることであり、社会の中での人の生き方を考えるうえで。マクロとミクロな視点の関連を交差させるのが本書の特徴となっている。教科書的に裁断するのではなく、生きる人の視点から問題をとらえてゆくのである。自己責任論は、最初の出発点は同じだったはずで、結果的に差が出るのはもちろん運もあるが個人の努力が反映していると見る。これは負けた者をどうしようもなく落ち込ませ再起不能にさせる論理である。これまで生きてきた節目の選択は必ずしも積極的であったとは言えず、時には不条理な選択もあったはずだ。それを「生き方の不平等」という。大きく捉えると、環境とか階層性が働いていることが従来より指摘されている。そして人生にはたまたまの要素もある。就職氷河期に出くわした若者が非正規労働者になるとそこから這い出すことはかなり困難で、一生非正規労働者のままでいる確率は高い。高度経済成長期に出くわした団塊の世代が人生を謳歌するのもたまたまの偶然とすれば、平成不況期に非正規労働者になったのもたまたまの偶然ではないか。けっしてその人の努力が足りないとか、性格とか心理のせいだとは言い切れない。しかし心理が歪めば秋葉原殺傷事件となるのである。

55体制後の自民党保守政治はパイの増加に対応した圧力団体的政治で、政策論については極めてお寒い限りであった。颯爽と政策を引っさげて登場したのが2001年の小泉内閣であった。その過激な言動にメデァを始め国民が酔いしれ、新自由主義政策で労働と福祉を縮小し、アメリカ並みの金融市場社会に転換しようとした。「格差は悪くない」という与党が衆議院で圧勝し、メディアが作る世論のいい加減さが露呈した。そして気がついたら「貧困」が社会を覆っていた。2008年12月日比谷公園が派遣村になって大きな社会問題として意識された。朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」などが問題を喚起した。ついで関心が集まっているのが「子供の貧困」である。格差の本質は貧困にある。格差は子供をも支配しているのは当然であろう。20世紀末の平成不況時代には、就職氷河期といわれ、若者の世代にロストジェネレーションが生まれた。そしてそれは正規労働者のリストラとなって全体に及んだ。格差・不平等・貧困は許されるべきことではない状況の程度が強まっている。そのなかで2009年9月自民党政権は倒れ、民主党政府が生まれて国民の社会福祉への期待は高まった。マニフェストに書かれたことを実行する財源は国債でそれがさらに国家財政を圧迫するというジレンマがあるものの、政策の基本姿勢がどこまで実行されるか国民は注視している。社会の制度や規範が社会を構成する個々人の関係に介在して、その関係が家族や地域、会社、政府といった次元の異なる集まりに繋がって行くのである。個々人の生き方はライフステージに従って展開する。子供、若者、女性、高齢者という社会的弱者に矛盾は集中して現れる。そのようなライフステージごとに不平等のありようは異なるが、そこに生きる人々と諸制度のあり方を設計するためには、それらをつなぐ接着力として社会的想像力が要求される。お互いに年齢、性別、世代の問題を共有して、違いを超えてつながるシステムを著者は「お互いさまの社会」という。上野千鶴子、辻本清美著 「世代間連帯」(岩波新書)の説く所もこれに近いかもしれない。

1) 子供たちの不平等

日本の母子家庭の問題は貧困にあるだけではなく、貧困に派生する様々な不条理にあり、特に母子家庭の子供達に満足なライフチャンスが与えられるのかということだ。つまり世代を超えた不平等の再生産に問題の深刻さがある。例えば児童手当は家計を支える稼ぎ主への生活援助が第一義となって、子供の福祉になっているとは思えなかった。国が子供一般を対象として、子供の生活を保障するという観点はみられなかった。OECDが調べた各国政府の家族関連社会支出の対GDP比は、日本と韓国の1%以下という低さは群を抜いていた(2010年)。国勢調査によると子供のいる家庭の貧困率はこの20年で10%から13%へ増加しつつある。若くして結婚し幼い子供を抱える家族の苦しい経済事情が伺える。貧困状態にある子供を持つ若年既婚者の就労分布を見ると、男性はフルタイム労働に従事しているが、女性の8割は無職である。若年既婚者の男性の学歴は義務教育のみが17%、高卒が2/3である。母子家庭に加え、幼い子どもを抱える若年夫婦はもうひとつのワーキングプア−であろう。税金などの再配分後の所得は決して有利に働かないで、かえって可処分所得で貧困率が高まっているという皮肉な現実がある。子供は生まれついた時から親は決まっているのであるので、裕福な親を選択できるわけは無い。そうすると貧困家庭に生まれた子供は社会のスタートライン(絹の産着と銀のスプーンをくわえた子供に較べて)から不利な状況に置かれている。このスタートラインの格差を少しでも小さくすることが社会制度の役割ではないだろうか。どのような親元に生まれようとも、「ひととなり」を保障してあげなければ不平等というものである。

子供の幸せは親の幸せ。せめて子供だけにはましな暮らしをさせたいと、親は教育に力を注いだものでした。世代を超えた人生の帳尻の合わせ方である。高度経済成長期には熱心な教育ブームが広がって、1970年代の合計特殊出産率は2.13で、夫婦に子供二人が典型的な家庭であった。総中流生活といわれたものの、実はじわじわと階層化が進行していた。日本の母子家庭の貧困率は2/3ときわめて高いが、母子世帯の割合は3%と他国に較べて低いことが特徴である。シングルマザー・離婚・死別などで母子家庭に落ち込む確率は低いものの、母子家庭になれば確実に貧乏になる。つまり母子家庭を対象とした社会保障が満足ではないからだ。日本の母子家庭数は約75万世帯である(2005年)。80%が離婚によるもので、母親の85%は働いている。労働形態は非正規労働で低賃金のワーキングプア−を強いられる。母子家庭が貧困を遁れるひとつの手立ては親と同居することであるが、それもままならぬ場合には貧困家庭となる。18歳未満の子供がいる貧困層にある世帯の家族構成を見ると、60%が二人親核家族で、30%が1人親世帯であった(2007年)。二人親がそろっていても貧困世帯である。これは社会全体の貧困と密接に絡んでいる。一人親(母子家庭・父子家庭)世帯の18歳未満の子供の高校在学率は、普通の家庭が98%であるに較べ、それより10%以上低い数値である。1人親家庭で育つことで、教育の機会が減っていることを示す。親の収入に対する教育費の割合は、年収1000万円以上の世帯で1%以下であるが、年収250万円以下の世帯では3%となり、子供の教育費が家計を圧迫する。子供の貧困は子どもを養う親の経済力によるところが絶対的であるので、子供の貧困への解決は親の貧困と同じ問題である。ただ親の生活援助をすればいいだけかというとそうではなく、子供の福祉という普遍的福祉政策が必要である。民主党政権が始めた高校授業料無料化をはじめ、給食費の無料化、学習補助政策などが必要となる。

2) 若者達の格差

20世紀末の平成不況・就職氷河期から顕在化し社会的問題としてクローズアップされたのが、若者達の格差であり、労働市場の多様化である。多様化というといい意味に聞こえるかもしれないが、実は労働市場の分解であり、格差社会の到来である。自己責任論は若者にいいようの無い不安と憂鬱をもたらした。香山リカ著 「悩みの正体」はその心理的側面を描いている。最近の日本社会における雇用を考えると、雇用の多様化と雇用の不安定化を同時に見て行かなければならない。濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」は日本の労働市場の流動化をまとめている。今日本の完全失業率は2010年春で5%であるが、15歳から14歳までの若者の完全失業率は8%と有意に高い。2000年より2006年は若年層の完全失業率は10%を超えていた。年齢層によってマクロ経済から受ける影響の大きさが異なり、若年層には厳しい現実となっている。これは企業は即戦力を求め、社内職業訓練教育に金と時間を使わないという余裕のなさからきている。これには現職の団塊の世代が自己保身のためしわ寄せを若年層にかぶせた結果でもある。女性は若年層が影響を受ける前から労働市場から撤退しており、見かけは失業率の変化が少ない。昔から家計補助のためにパート労働に従事する女性の問題は非正規労働雇用問題でもあった。失業率で見ると弱者は若年層であり、非正規労働者であり、女性である。15歳から24歳の若年層と65歳以上の高齢者層で非正規労働者割合が高いのは、最近オ雇用の不安定化が若年層に集中して現れていることが分る。男性若年層の非正規雇用者割合は40%、男性高齢者の非正規雇用者割合は65%である。女性若年層では45%、高齢者層では70%である。女性では前年齢層を併せても非正規雇用者割合は50%以上である。

若者の格差による経済力の低下は親の経済力との関係で、親と同居するチャンスが増大している。以前は女性は結婚で、男性は就職をきっかけに親と別居するようになった。それが2007年では成人未婚者の親との同居率は70%を超えている。同時に1人暮らしの成人未婚者の貧困率は40歳以下では男性で25%、女性では40%である。未婚のままで1人暮らしをすることが、経済的リスクと無縁でないことを示している。若年層の失業率、非正規雇用率とも上昇し、低賃金で不安定な雇用では自分ひとりの生活もままならず、まして結婚して新しい家族を持つとことは経済的に難しい状況にあると云う。若者の晩婚化、未婚化は価値観だけでなく貧困問題と連動している。1人で稼いで家族を養うといったモデルから、規範の上でも諸制度の上でも脱却することが必要であり、共働きモデルへの転換をしなければ解決の道は無い。出来ちゃった婚で誕生した若年カップルの貧困化も深刻な問題である。20歳から29歳の夫婦の貧困率は60歳以上の夫婦の貧困率を別にすればかなり高い。それは年収が低いので当たり前かもしれない。年老いた親と同居する成人未婚者は親の収入(年金も含めて)に頼っているが、それは子供の頼るところが親しかいないという社会保障機能の不備が指摘される。日本の政府は長い間(高度成長期)企業の生活保障機能に頼ってきたため、社会福祉政策が貧弱なまま推移してきたという経緯がある。グローバル化による経済不況で企業がその従業員生活保障機能をかなぐり捨てた今こそ、政府の公的支援が求められる。宮本太郎著 「生活保障ー排除しない社会へ」には雇用と結び付ける「生活保障」への政策が述べられている。政府が人を育てる制度設計の主導権を持たなければならない。そのためには教育の中に働くことへのインターンシップ、職業意識教育が求められる。そして低所得者の所得を挙げる、最低賃金制度、雇用保険、同一労働同一賃金が確立されなければならない。そして最後に働く若者の住宅政策も必要だ。

3) 女の働き方・男の働き方

性的役割分担論に見られる「女らしさ」、「男らしさ」という規範的呪縛を取り除かないと真に平等な「男女共同参画社会」(2000年施行)にはならない。年金制度に第3号被保険者問題があって、被扶養者の配偶者(妻)の収入は130万円を超えなければ、保険料が免除される制度である。さらに配偶者税控除の対象になるのは103万円をけないこと、これらが縛りとなって女性の労働年収が低賃金に制約されてきた。パート時給700円が相場なのはそこから来ている。女性の働き方として、労働参加率は戦後長い間50%程度に止まっている。その間時代の変化で農業や小売業、飲食業などの家庭内労働が減って非雇用労働が増えた。外へ働きに出るようになったのである。高度経済成長の時代には生活の場を女性が一手に引き受けて、生産の場を稼ぎ主の男性が担うという役割分担論でやってきた。不況時代でも性的役割分担は本質的に変わっていない。女性には子育ての時期に労働参加率が低下するM字型労働参加曲線が特徴的である。男女の働き方が欧米に較べて大きく異なっているのは、労働市場が男女で分断され、女性の賃金と昇進機会が制約されてていること、家庭と職場を結ぶ社会的支援が不十分である事があげられる。就労形態で見ると女性は事務、男性は生産とはっきりした差異があることである。医師は男性、看護師は女性が多いという風に断絶している。男女賃金格差はOECD平均が17%以内であるのに対して、日本では格差が35%と大きい。これでは女性の労働意欲がなくなるわけだ。そして最後は女性の管理職割合が極めて低いことである。係長職では女性は全体の6%、部長職では全体の2%に過ぎない。女性が昇進するとそれだけで話題になるということは決して喜ばしいことではない。

少子化問題から労働力不足を憂うため女性就労を促進するというせこい見方がある。2006年の合計特殊出産率は1.32で少子化は深刻な現実であり、2005年より日本は人口減少社会に突入したとされる。出生率の低下は世代の成熟だけでなく進行した晩婚化・未婚化とおなじ不況と密接に連動している。政府は欧州の状況を見て、女性の労働参加が高い国は出生率も高い傾向にあるので、出生率を高めるには女性の労働参加を促進する必要があると解釈したようだ。これはあまりに短絡的な現象の見方にすぎず、保育所、賃金、働き方支援など女性の労働参加のための労働福祉施策が実を結んだ結果出生率が上がったのであって、政府の施策もなしに女性労働参加を求めても本末転倒であろう。遅ればせながら2001年より「雇用保険法改正」により産休所得保障、職場復帰給付金など、2004年には「少子化対策大綱」が決められたとはいえ、少子化に歯止めはかかっていない。2006年政府は「新たな少子化対策について」を発表したが、問題を「子供」と「家族」に限定し背景が無視されたことは問題である。そして女性と家族に向かって「大切な家族」、「子育ての喜び」とか価値観の押し付け説教をしていることである。人々の意識を政策目標とするのは危険である。倫理は政策ではない。「美しい日本」とか「友愛」とかいう美学や価値観の強要と同じ論理である。首相個人が内心でそう信じておればいいことで、法の前文で述べることではない。環境省のエコ意識の強要もおなじことである。2010年鳩山政権下で「少子化対策大綱」が「少子化対策」から「子供子育て支援」へと方向転換したことは評価できる。欧米での女性労働参加率の上昇の背景には女性の高学歴化がある。日本でも女性の高学歴化は進行しているが、学歴に相応した女性の労働環境が整えられていない。それは含み資産に止まっている。男女間賃金格差をなくし、昇進を始め報酬体系のジェンダー間格差を解消することから始めるべきであろう。一般世帯に占める共働き世帯の割合は2006年で49%である。妻の収入と夫の収入を比較すると、20年前は30%以下の妻の収入貢献度であったが、2004年には50%以上に向上している。これには男性に収入低下という側面もあるので一概に喜ばしい変化ともいえない。つまり妻の収入が夫と同じくらいの共働き夫婦は、高所得層より低所得層に大きく偏っているのである。ジェンダーフリーは「らしさ論」から偏見の目で見られているが、人々の様々な生き方を受け入れる多様な社会の承認につながる。ジェンダー論には上野千鶴子著 「おひとりさまの老後」が有名である。

4) 高齢者たちの格差

人口の少子高齢化に伴う世代間のアンバランスは制度運営を著しく困難にしている。高齢者一人を支える生産年齢人口数は2005年度は3.3人であるが、それが2055年には1.3人とさらに減少することが見込まれる。人口問題の困難さは、少なくとも一世代30年間は政策的にどうしようもなく決定的であることが、河野稠果著 「人口学への招待」に述べられている。人口高齢化を捉えるにはマクロとミクロの二つの側面がある。マクロの側面とは現役と高齢者の数からくる世代構成であり、年金制度に大きな影響を与える。ミクロな側面とは個人の生き方とはライフコースといった個人と家族の問題であり、介護保険に直結する。介護保険は個人の加齢に伴う介護ケアーを社会化することであり、2000年に日本が世界で始めて実施した制度である。世代間の不平等とはこういうマクロな見方から来る、世代のアンバランスを反映する。高齢期とは経済的のみならず、社会的な蓄えがものをいう人生の終盤期であり、蓄積された不平等がより顕著に現れる時期でもある。「お一人様の老後」で述べられているように、ひとりで生活する高齢者は同居する家族がいない分深刻な貧困リスクち向き合わなければならない。そのためには周到な老後設計が求められるのである。高齢者の所得格差が大きいのは、他の国に較べて高齢者の就労率が高いからである。OECDの平均は12%ほどなのに、日本の高齢者就労率は20%を超えている。欧米では悠々自適の(年金)生活を謳歌するが、日本では年金だけで生活できないので老後の心配から、いつまでも働くのであろうか。高齢者の所得には当初所得が少なく年金を入れた総所得がものをいう。そして税金と社会保険を引いた後の可処分所得で生活をする。人によっては現物給付を貰って再配分所得があるかも知れない。

高齢者が子夫婦と同居する3世代世帯では高齢者が生活に窮することは少なかった。高齢者が誰とどのような世帯で生活しているかが生活水準に直接反映しして、それが大きな経済格差となることが分っている。過去30年の高齢者がいる世帯の変化を見ると、3世代世帯数が60%から20%へと急速に減少し、反面高齢者のみの世帯数が15%から45%へ増加した。単独世帯や夫婦のみの世帯も10%から25%に増えている。大世帯という集団が解体していることが如実に示される。世帯主である高齢者の年齢別に貧困を表すジミ係数をみると、60歳以上になると就労率が低下しジミ係数は増加するという傾向が顕著である。高齢者の収入は稼ぎによるものから年金に依存するにつれ、経済格差は昔に較べると小さくなった。社会保障制度の充実が無業世帯の経済状況の改善につながったのは喜ばしい。1人暮らしの世帯の貧困率は高いものの、この20年でどのような世帯の貧困率も低下している。一人暮らし女性の貧困率は70%から50%へ、夫婦のみの世帯の貧困率は30%から15%へ減少した。一人暮らし高齢者の配偶者との関係で貧困率を見ると、男性高齢者の1人暮らしでは、未婚高齢者の貧困率は50%、妻と死別した者の貧困率は28%、別れた者の貧困率は34%であった。女性高齢者の1人暮らしでは配偶者と無関係に貧困率は50%近くと高い傾向である。円満な生活を送れた一人暮らし男性高齢者の経済力は高いが、未婚者の長年の蓄積経済力は低いといえる。少子高齢社会で今最も必要とされているのは社会的連帯であろう。つまり「おたがいさまの社会」である。

5) お互いさまの社会をめざして

マックス・ウェーバーがいう「ライフチャンス」は、人生を歩む過程で、次の選択肢の種類や質が現在の立つ位置によって大きく異なることがある。結果として階級による違いが再生産されるのである。結果としての不平等を解消するには、機会の不平等から解消すべきなのである。本書は人生のライフステージにおけるライフチャンスの格差の観点から人生の不平等を論じてきた。小泉・阿部内閣の時には世論(新聞)の論調は「格差は否定しないが、貧困は問題である」ということが支配的であった。「格差は当然で破れて貧困になった者は情けで救済すればいい」というアメリカ流の新自由主義であった。しかし格差と貧困は独立したものではない。格差社会では貧困は表裏の問題で、誰でも貧困リスクを持っている。それを他人事ではないと理解するには、「他者感覚」が必要だ。貧困問題を社会で共有することである。それは「他者感覚」=「社会的想像力」のことである。ともに支え、ともに助け合う社会に向けてキーワードとなるのが「他者感覚」である。それを養うには教育の力が大きいことはいうまでも無い。地震でいつも大きな被害をこうむるのは貧困層である。被害はいつも貧乏人を直撃するというのは真実である。自然災害のリスクは平等であるが、高台に住んでいるとか、堅牢な住宅に住んでいるとかダメージを受ける度合いは階層によって異なるのである。それが格差なのである。大きな魅力的なチャンスは高い階層が独り占めし、屑のような機会しか掴めないのが低階層の人々なのである。介護保険、健康保険、年金制度などは見えない人を支え、見えない人にも支えられる関係にある。そんな関係を大事にしないと我々の社会は成り立たない。見えない他人を支えるのは馬鹿馬鹿しいといってしまえば、他人は自分の窮地の時に助けてくれない。保険料を払ってしっかり制度を支えることが健全な「おたがいさまの社会」にはなくてはならない倫理なのである。若年層、壮年層を中心に子育て支援、就労支援などを通じて社会が生活保障期機能を提供するとことの恩恵をはっきり納得できなければ単なる倫理で終る。就労を介した参加型福祉国家の提言にも通じる。日本は再配分効果の低い国だといわれている。一番低い国はアメリカ・韓国であるが、所得税や消費税などの政策が検討されてよい。


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