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小田部雄次著 「皇 族」

 中公新書(2009年6月)

「開かれた皇室」か「天皇制廃止」かは別として、皇族の歴史を知ろう

明治以降の日本史を紐解いても、天皇を除いて歴史に登場する皇族は極めて少ない。明治維新の戊辰戦争で錦の御旗を持って進んだ有栖川幟仁親王(和宮の許婚者)くらいではないだろうか。歴史上活躍した皇族がいなかったのか、それとも意図的に書かないのか、それは難しい問題である。なぜなら戦争責任が附いて廻るからである。そもそも昭和天皇さえ、軍部に押し切られた被害者で戦争終結を望んだ平和の人であるかのような偶像が出回っている。昭和天皇の名において始められた世界大戦の責任は不問にされ、まして皇族の軍人達は操り人形かお飾りという形になって戦犯指定から遁れている。戦争責任は東条英機という軍部独裁者に集約している。それが日本の戦後の出発点であった。

本書の特徴は皇族という貴族が軍部と組んで天皇の地位に迫るほど実力を持ち、陰に陽に天皇に圧力をかけ戦争推進に動いた様子を描いている点にある。「権力の中心は空虚である」と誰かが言った。確かに天皇が血刀を下げて権力闘争を闘ったのは飛鳥時代で終わりを告げて、奈良時代以降から藤原家は天皇家に姻戚関係を結んで同盟関係を築き、藤原家がキングメーカーの役割をにない、藤原家の意向なしでは天皇即位もままならずという時代になった。こうして日本の権力に二重構造が生まれた。血液関係ではもはや天皇家と藤原家を区別することは不可能となって、藤原家は天皇家を乗っ取った。平安時代には天皇家の婚姻相手は藤原四家に限るという摂関時代になり、天皇の妃の実家藤原家が権勢をほしいままにした。平安時代末期から平家という武士階級が藤原家を追い出して摂関家になり天皇家との融合政権を築いて権勢を誇ったが、すぐに源氏という別の武士階級が天下を取って政権を奪った。源氏は摂関家にはならず、はっきりと権力の中心になろうとした。そういう意味で源氏・北条連合鎌倉政権は天皇家から権力を奪ったのである。鎌倉時代をもって天皇家という形式的な二重政権も力を失った。この時代から古代王朝である天皇家と藤原家の経済基盤(地方の収奪権)は武家に奪われ衰退した。建武の中興で一時は権力に返り咲いたかに見えた天皇家には政治力はなくなっており、田舎侍足利尊氏に取って代られた。お飾りに過ぎなくなった朝廷をめぐって南北朝時代には天皇の系譜は乱れに乱れ、応仁の乱から戦国時代には足利将軍家と同様に、天皇家は権力基盤も経済基盤も完全になくして、地方豪族に養われる哀れな存在となった。織田信長ははっきりと天皇に取って代ることを考えていたようだ。徳川幕府は江戸に政権を移し、権力の中心となった。法的に公家諸法度をつくって天皇家と公家をコントロール下に置き、形式的に天皇性の存続を許した。生活に困っていた皇族と公家は唯々諾々と幕府の支配下に置かれた。もはや権力の二重構造ではない、一元支配構造であった。京都という公家と宗教界を支配に組み込んだのだ。江戸時代末期海外列強の開国の圧力にさらされた幕府にはもはや処理能力はなく、薩長を中心とした雄藩連合は尊皇攘夷という討幕運動を起こした。薩長は形式性を利用したのだ。徳川幕府をジレンマに追い込んで、薩長藩閥政権が徳川に変わった。それが明治維新である。そして本書は明治以降の天皇と皇族を話題にしている。公家・藩侯などの華族まで話題にすると複雑になるので、本書は皇族だけを対象にして、そして明治以降の近代日本における皇族の位置を問題にしている。

古代より天皇の血族として存在した皇族、近親結婚を繰り返して支配者の血を誇る一族、明治維新後最も近親で天皇を支える階級として、軍人の義務と多くの特典を享受した一族である。本書は近代以降成立した15宮家、皇族軍人を中心に戦前の歴史を総括し、新たな位置づけを模索した戦後の「皇室」の全貌を見て行こうというとする。本書は新書版としては400頁を超える厚い本となっている。資料を豊富にいれているので厚くなってしまったのであるが、その内容は必ずしも的を得ているとか真実に逼るとかいうような史書では無い気がする。戦争と天皇をめぐる史実という点では、細川日記、牧野伸顕文書、原敬日記、木戸幸一日記、入江相政日記、西園寺公一や近衛文麿の文書など第1級資料の重要性には較べることは出来ない。しかし歴史に書かれることが少なかった皇族を書いた点でその功績は大きいのではないだろうか。著者小田部雄次氏のプロフィールも簡単である。1952年生まれ、1985年立教大学文学部卒業で、現在は静岡福祉大学教授、専攻は日本近現代史であるという。本書あとがきから本書が生まれたいきさつを記そう。昭和天皇の病状が悪化した1988年、共同通信社に「昭和天皇班」が組織され、筆者が「美貌の皇族」として知られる梨本宮伊都子の日記の全文解読を任されたことから始まった。旧皇族の梨本徳彦氏を度々訪問することから、筆者は皇室研究者になっていったという。その中で旧皇族や法制度の調査も始まり、近代上流階級の華族をまとめた「華族」(中公新書)、「皇室辞典」などの編集にたずさわった。主な著書には、「梨本伊都子の日記」(小学館 1991年)、「ミカドと女官」(恒文社 2001年)、「雅子妃とミカドの世界」(小学館 2001年)、「四代の天皇と女性たち」(文春新書 2002年)、「家宝の行方」(小学館 2004年)、「華族」(中公新書 2006年)、「華族家の女性たち」(小学館 2007年)、「李万子」(ミネルヴァ書房 2007年)、「天皇・皇室を知る辞典」(東京堂出版 2007年)、「皇族に嫁いだ女性たち」(角川選書 2009年)などである。著者自身が述べる本書の特徴は次の3点である。
@ 維新後の皇族の特徴を明確にする前提として、古代から現代までの皇族を総覧した。
A 天皇と皇族の確執を描いた点である。昭和天皇と参謀総長閑院宮戴仁親王、軍令部長伏見宮博恭王の三巨頭体制の齟齬。
B 戦後和解の問題で、昭和天皇と高松宮との亀裂は明白である。戦後和解は現在の皇室に綿々と受け継がれている。
皇族という「美称」を一方的に崇め奉るのではなく、せめて過去にどのような皇族が存在し、どのような行動をとったかぐらいは知っておきたいという意図で本書が書かれている。

第1部 明治・大正時代 欽定憲法と皇室典範 立憲君主制時代の皇室

戦前には皇族として15宮家があったことを知る人も少なくなっている。当然ながら私も知らなかった。伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、竹田宮、朝香宮、東久邇宮、桂宮、有栖川宮、華頂宮、小松宮の15家であった。このなかで桂宮と有栖川宮の2家を除いては、13家の始祖は室町南北朝時代に遡る伏見家の流れに属していた。戦後皇室は昭和皇后と皇太后とその実子(明人親王、正仁親王、和子、厚子、貴子内親王)と、昭和天皇の実弟である秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家を残して、伏見宮から東久邇宮の11宮家の皇籍を離脱させた。この伏見宮系皇族は明治維新以来の近代皇族を考える上で重要な存在であった。そもそも皇族とは時代により法令により定義や構成が異なってきた。現在皇族とは「平成天皇」の家族22名を意味する。女子配偶者を皇族とみなすかどうかは近代とそれ以前を別つ大きな指標であった。古代大宝令(701年)が制定される以前には天皇の後胤という漠然とした範囲で把握されていた。大宝令が定まった奈良時代以降明治憲法までの時代(つまり近代以前)は「継嗣令」で皇親の範囲を「5世未満」と明確に規定している。1世の皇子を親王とし、皇孫、皇曾孫、皇玄孫を王とした。賜姓降下、親王宣下、臣籍降下などで、皇族が過剰にならないよう、親王不足にならないよう調整をしてきた。鎌倉時代以降、宮号を賜って代々世襲する「世襲親王家」が誕生した。室町時代に伏見宮が生まれ、安土桃山時代に桂宮、江戸初期に有栖川宮、江戸中期に閑院宮がそれぞれ創設されて四親王家となった。徳川時代の御三家(水戸、尾張、紀伊)とか吉宗以降の新御三卿(一橋、田安、清水)を思い浮かべれば事情はわかる。

1889年大日本国憲法とともに制定された旧典範によって近代皇室の定義がなされた。皇族というのは、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王をいうとされた。また皇太子から皇太孫の男を親王、女を内親王という。つまりそれまでの「5世未満」の範囲が急反転では「親王」とされ、かっては範囲外であった5世以下も王、王女として皇族に加わった。近代以前では天皇配偶者は皇女がであることが原則であった。明治以降では皇后、皇族妃になることで皇族と称されることになった。天皇の妃になれる条件は「同族または認可されたる華族に限る」と明記されている。華族では徳川、島津、前田、鍋島など旧大大名家の中で上流の家が占めていた。旧典範下には15宮家があり(桂宮は1881年、小松宮は1903年、有栖川宮は1913年、華頂宮は1924年に廃絶、あとの11宮家は1947年に皇籍離脱)、総員189名であった。江戸時代食えずに宮門跡となって落籍していた多くの親王が明治維新後に、雨後の筍のように還族し宮を起こした。青蓮院門跡の尊融親王が久邇宮をおこし、そこから梨本宮、朝香宮、東久邇宮の宮が分派した。勧修寺門跡であった済範親王が山階宮をおこし、仁和寺の嘉彰親王が東伏見宮をおこし、聖護院の信仁親王が北白川宮をおこし、知恩院の覚諄親王は梨本宮を起こした。明治天皇の子沢山は有名であるが、3男10女ができたが、8人は夭折し、男は明宮(大正天皇)のみとなり、女はそれぞれ宮家に嫁いだ。1989年の旧典範までは養子が認められていたので、新たな宮家の当主が伏見宮の実系の子孫で占められる結果となった。皇族の邸宅は1873年布告により3000坪以下を標準とする邸地が指定されるが、大正時代には7宮家の邸宅は1万坪を超えていた。

近代皇族と軍事との関わりは、1668年戊辰戦争から始まる。有栖川幟仁親王が新政府軍の大総督に就任し、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討総督になった。有栖川幟仁親王は輿に乗って物見遊山気分で結局一度の戦闘もなく、江戸入城を果たした。輪王寺宮公現親王は幕府軍に担がれて奥羽列藩同盟の盟主となって敗北したため屈折した人生を送ることになった。1973年徴兵令が発布され、「皇族自今海陸軍に従事すべく」という太政官達がだされた。欧州列強の皇族が幼少より陸海軍に服したことが意識されていたのである。1874年佐賀の乱では東伏見嘉彰親王が征討総督、1877年の西南戦争では有栖川幟仁親王が征討総督となり、西南戦争後幟仁親王は日本赤十字社を興した。戊辰戦争の戦没者慰霊のために靖国神社は最初から皇族と深い関係を持っていた。招魂社を創立したのが幟仁親王であり、靖国神社の100年の歴史の中で皇族の主要行事への参加は、祭事は陸海軍が統括していた。1945年までに帝国陸軍には有栖川幟仁親王をはじめ18名、海軍伊は華頂宮博経宮を始め10名、合計28名が軍人高官として列している。皇族から華族に賜姓降下となった人々で軍人となった人は山階芳麿ら12名を数える。

律令時代の皇族の簿籍、陵墓や廟の管理は宮内省の正親司という役所が管掌した。正親司には代々白川家から任じられた。1886年宮内省官制が定められ、帝室の事務、宮中や皇族の職員を統率し、華族を管理した。宮内大臣の総覧のもと、2課、3職、6寮、6局の体制となった。1889年大日本帝国憲法が発布され、第2条から第16条まで天皇の権限が定められた。議会から内閣、軍隊などのすべての権限に関わり最終決断者として天皇がいた。ところが皇族の権限は限定されており、天皇と皇族の地位と権限には隔絶した格差が存在した。皇室典範の改定には皇族会議と枢密顧問に諮問するということで、皇族は典範の改定に関係することが出来た。皇族についての具体的な法的規定は憲法にはなく旧典範に委ねられた。旧典範の第1章は皇位継承で「皇統にして男系の男子之を継承する」とあり、第7章には天皇が皇族を監督するとか養子はできないとか皇族女子の臣籍への嫁ぎ先は皇族ではないと述べられている。男子無き宮家は廃絶となる運命であった。そのほか第5章「摂政」、第6章「太傳」(東宮教育)、第8章「世伝御料」(財産管理)、第10条「皇族訴訟及び懲戒」、第11条「皇室会議」などからなる。1907年に制定された皇室令「旧典範増補」で、婚姻、財産、儀礼が定められ、その制定改定には旧典範と同様帝国議会は関与できなかった。1916年に「帝室制度審議会」がさらに旧典範増補を行い、戦前の皇室制度は完成したといわれる。「皇族の仕事は生殖活動にある」と誰かが看破したが、婚姻に関しては身分制が堅く結びついていた。国際結婚は文面には無いが事実上堅く禁止されていた。能久王(かっての輪王寺宮公現親王)はプロシア留学中にドイツ貴族の娘との婚約を強く希望したが認可はついに下りず、岩倉具視は婚約破棄と帰国を命じたという。旧典範第39条「皇族の婚嫁は同族または認許された華族に限る」とされた。また「天皇、皇后を立つるは皇族または特に定むる華族の女子」とされた。明治天皇は岩倉具視の言うとおり、天皇の皇后たるべき者の家柄は華族では一条、二条、九条、近衛、鷹司の五摂家に限るとしていた。それに従い、大正天皇の皇后には九条公爵の節子が、昭和天皇の皇后には久邇宮良子女王が選ばれた。近代の皇族妃の総数は37名で、内親王が5名、女王が3名、公家が12名、将軍家や諸侯出身華族が17名となる。皇族の女子(内親王や女王)の嫁ぎ先は皇族か認許された華族となっており、戦前の皇族の子女36名のうち、内親王5名は全て皇族に嫁ぎ、女王31名の嫁ぎ先は皇后1名、皇族2名、王族1名、華族27名であった。こうした閨閥関係は皇室の安定に貢献したといわれるが、その時代の支配者階級をそのまま反映したものであった。

旧典範第42条に「皇族は養子を認めず」とあることにより、廃絶した宮家は多い。明治天皇の実系から遠い皇族の拡大を排する動きは強い抑止力として働いた。ところで天皇は必ずしも皇后との間に子を儲けるとは限らない。そこで1882年宮内庁に岩倉具視を総裁とする内規取調室が設置され「皇族内規」が立案された。伊藤博文、井上毅、柳原前光の間で議論され、ドイツ皇室を範とする井上毅と柳原前光(庶子であった大正天皇の義理の父)の妥協が成立した。四親王家(有栖川、伏見、閑院、桂)の存続は維持され、直系の永世皇族制、臣籍降下は内親王と女王の婚姻に限定された。こうして皇族の数に歯止めはなくなった。しかし1907年の旧典範増補では臣籍降下は明文化され、小松宮が最初の降下となった。1920年に「皇族の降下に関する施行準則」が内規として裁定され、戦前に臣籍降下した皇族の数は16名に及んだ。明治天皇直系による万世一系の男子相続の原則を貫こうとする狙いがあったものと解せられる。

近代日本が最初に経験した対外戦争は、日清(1894年)・日露(1905年)戦争であった。この戦争に軍人皇族9名が参加した。陸軍では有栖川幟仁親王ら5名、海軍では有栖川宮威仁親王ら4名であった。日清戦争では台湾占領において北白川宮能久親王は戦病死した。この戦役で勝利したことにとって皇族の間には戦勝気分が横溢した。又日露戦争を契機として朝鮮での権益の優先権を得えた日本帝国は1910年李朝朝鮮を合併し、李王朝の一族は日本の王公族となった。1926年李朝王公族の皇室典範というべき「王公家軌範」が成立した。明治維新後多くの皇族が軍事留学や外遊に出るようになった。物見遊山的な外遊も増え、1921年北白川宮成久王はパリで自動車事故で死亡する事態も発生した。1920年フランスに軍事留学した東久邇宮稔彦王は6年たっても帰国を拒否し、大正天皇の崩御した翌日に帰国したという。これには稔彦王は常日頃から平皇族を自嘲し大正天皇と不和であったことが大きく影響しているようだった。近代国家における最初の皇后は英照皇太后であった。五摂家の九条家から孝明天皇に嫁いだが、儲けた二人の女子は夭折し、孝明天皇が中山慶子との間に儲けた庶子(後の明治天皇)を養子とした。明治になって最初の皇后は五摂家の一条家から嫁いだ昭憲皇后であった。皇后と明治天皇野間に子はなく、権典侍であった葉室光子、柳原愛子、千種任子、園洋子に生ませた庶子(男4人、女10人)や、後宮の管理を一条家から派遣された高倉寿子に任せた。大正天皇の皇后には五摂家の九条節子(貞明皇后)がなった。大正天皇の間に4人の男子を生んで、皇統の心配を払拭したといわれる。皇族も華族も「皇室の藩屏」と称される特権集団であったが、皇族と華族では構成も機能も自ずと違っていた。皇族は15宮家の天皇の血族である。華族は公家、諸侯家および明治維新で功があった政治家・官僚・実業家・学者・軍人など多種多様な構成である。華族は皇族と平民に間を取り持つ存在であるが、内部の身分差は甚だしかった。皇族には原則として資産はない。宮家の皇族歳費は大正時代一家あたり10万円ほどであった。資産や所得でいえば、旧大名や実業家の方が皇族よりはるかに豊かであったといえる。皇室の高等女官は主に華族の子女から選ばれた。華族の学校であった学習院は1977年に創立された。1885年女子には華族女学校が設置された。皇族の子弟には特別な扱いと教育がなされたが、1920年以降は特別扱いは廃せられたが、皇族子弟の成績は発行しなかった。1926年皇族就学令がだされ、原則として皇族の子女は6歳から20歳まで学習院または女子学習院に就学すると定められた。

第2部 昭和前期時代 昭和天皇と戦争 軍人皇族と軍部の台頭

1921年摂政宮裕仁親王(昭和天皇)は第1次世界大戦後の欧州視察に向かった。皇族としては陸軍大将閑院宮載仁親王が随行した。約半年でイギリスとフランスを訪問し、欧州皇族のあり方なども学んだといわれる。皇太子妃の内定者として久邇宮良子女王の色覚異常を巡って「宮中某重大事件」騒ぎとなった。良子の父である久邇宮邦彦王の性格に皇后節子(貞明皇后)が難色を示し、山県有朋や中村宮内相が内定取り消し運動をはじめ、久邇宮邦彦王が煽動した右翼などが絡んで恐喝事件もおこったが、結局内定どおりに久邇宮良子が皇后になった。1885年宮内大臣伊藤博文は宮内省官令を定めて正式に発足した。伊藤以降、宮内大臣は最上位の親任官で、土方久元や田中光顕など勲功華族が就き、政府と宮中をつなぐ統括者として重責を負った。内大臣は宮中にもけられ天皇を直接輔弼する重職で、公家や元老がその職に就いた。1920年以降宮内省職員は実務系官僚が占め、総職員数は3300人ほどとなった。皇族関係部署は、皇后宮職、東宮職、澄宮付、皇族付職、李王職、東宮武官、皇族付武官、李王付武官などである。皇族付職には13宮家に5名から10名の職員が就いている。宮内省は天皇1人のための組織であった。昭和初期の昭和天皇の側近には、侍従長河合弥八、牧野顕伸内大臣、一木喜徳郎宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長らがいた。戦争中は1940年から1945年まで候爵木戸幸一内大臣が最重要側近となり、十一会を組織して近衛文麿公爵、松平康昌候爵、酒井忠正伯爵、有馬頼寧伯爵、原田熊雄男爵らと華族の昭和政治革新運動を始めた。木戸幸一内大臣は西園寺、牧野らの宮中勢力とは違う、軍部台頭を背景としたあらたな天皇制国家を目指した。木戸幸一らは皇族の政治化には懸念を示し監視を怠らなかった。

1930年ロンドン海軍軍縮条約締結問題に端を発して軍部や右翼の政治的台頭が目立ってきた。浜口雄幸首相が狙撃されるまでに、艦隊派と条約派の対立が深まった。海軍軍令部にいた伏見宮博恭王は艦隊派にかつがれ、御前会議を要請する「天機奉伺」を主張して、条約を批准する方針の政府には悩みの種となった。岡田啓介海軍大臣ら条約派は天皇に決定させないことが皇室への怨嗟を防ぐ有効な手と考え、伏見宮、東郷ら艦隊派は天皇軽視だと反発した。天皇をどちらが抱きこむかが政争の決めてとなった。この間政治家と皇室の間を奔走したのが原田熊雄と西園寺公一であった。平沼騏一郎枢密院副議長らは倒閣運動の先頭となった。その時1931年3月武力による国家改造を企む陸軍将校ののクーデター未遂事件がおきた。事件には東久邇宮稔彦王、軍務局長小磯国昭、朝鮮総督宇垣一成らが首謀したといわれる。陸軍の派閥争いには閑院宮載仁親王が統制派に取り込まれ、1935年皇道派の真崎甚三郎教育総監を更迭した。そして1936年2月に2.26事件が起きた。真崎は伏見宮を動かして反乱軍の国家改造を実現すべく、天皇の詔を得ようと動いた。3月事件、5.15事件、2.26事件と相継ぐクーデター計画に「皇族がいたるところで関与しており、昭和天皇は皇族の動きに心を悩ましたようだ。皇族軍人たちが昭和天皇の立場を支持しなかった理由は、軍人経験のない昭和天皇への優越感であり、軍人としての誇りであった。昭和天皇は元老西園寺らと新時代の外交と軍事の方向を模索していたが、皇族軍人らは対米戦争と対ソ連戦争の強硬方針に賛成しており、決して利用されただけではすまないのである。勃興する小国が世界中を相手に戦争をするという冒険主義を推進したという責任は免れない。

1936年日独防共協定を締結し、1937年盧溝橋事件から日中戦争が開始された。時代は戦争へ大きく舵を切った。1937年9月欧州を訪問中の秩父宮はヒトラーと会見したが、ドイツに日本がかき回されることには懸念を抱いていると近衛文麿首相に述べている。同時期1937年高松宮宣仁親王は上海の戦線視察を希望したが、病気療養中の秩父宮にかわって摂政を担う地位にあるので、第1戦に赴くことはよろしくないと却下された。石原完爾作戦課長が作成した「帝国国防方針」を閑院宮載仁親王が天皇に上奏した。軍縮方針から一転して、世界最大の陸軍国ソ連と、世界一の海軍国アメリカを同時に敵国とする軍拡競争となった愚に、皇族軍人閑院宮載仁親王と伏見宮軍令部長が加担したのは決定的となった。日中戦争が長引く中、閑院宮載仁親王に対する天皇の不信感っは高まった。1940年天皇は閑院宮載仁親王と伏見宮軍令部長の勇退を逼った。しかし閑院宮載仁親王は辞任したが、伏見宮は大本営に居座った。そして「対仏インドシナ施策要綱」を奏上した。欧州でのフランスの敗北に漬け込んだ火事場泥棒みたいな真似はよろしくないと天皇は洩らしたという。そんなことはお構いなしに日本軍はフランス領インドシナに進駐し、対米英開戦は近づいた。1941年に病で辞任した伏見宮にかわって、朝香宮鳩彦親王と東久邇宮稔彦王が陸軍大将となって、朝香宮は日米開戦を12月始めとすると軍事参事官会議で述べている。ところが奇怪なことにこの戦争の目的と大義名分については、現在研究中という。目的もなしになし崩し的に既成事実を積み上げた結果が戦争だというわけである。理由は後で考えるという。この時首相として軍部や右翼の受けがよかった東久邇宮稔彦王を押す動きがあったが、こうして開戦前の10月17日木戸幸一と天皇は、東久邇宮稔彦王が火中の栗を拾うことを回避するため、東条英機を首相に組閣を命じた。皇族軍人として主導的立場にいた閑院宮載仁親王、東久邇宮稔彦王、賀陽宮恒憲、伏見宮博恭らは漸次軍の第1線から退き、若い世代の閑院宮春仁、竹田宮恒徳、三笠宮、久邇宮朝融らが主力となった。

1941年10月第3次近衛文麿内閣が総辞職して、東条英機内閣が組閣した。戦争の調子がよかったのは半年くらいで、1942年6月にはミッドウエー海戦で日本の主力空母四隻が撃沈され、中国では傀儡汪兆銘政権に対して民衆の不信が広がり、1943年には太平洋における制空権をアメリカに完全に支配された。4月には連合艦隊長官山本五十六が撃墜されて死亡、5月にはアッツ島守備隊が玉砕した。7月には三国同盟の一角イタリアのムッソリーニが失脚して同盟から離れ、1943年10月頃より、外交官吉田茂、細川護貞らは近衛、原田を動かして国体護持のための早期和平の動きを開始した。事態打開の方策なしとして1944年3月東条内閣は倒れた。これには東久邇宮稔彦王、高松宮、朝香宮の上奏が天皇を動かしたようだ。三笠宮は名を隠し天皇名代として1942年12月より中国に派遣されたが、対支処理根本方針と、中国における日本軍の振る舞いが目を覆うものがあるとして憤慨に堪えなかった。もはや合理的な収拾がなされる状況には無かった。東条英機打倒に動いた高松宮は天皇の立場を理解しながら、皇族の意見を聴こうとしない天皇の態度には不満が募ったという。サイパン島が陥落し、東條が倒れて初めて天皇はようやく皇族や重臣の意見を聴くようになった。1945年2月近衛が上奏して国体維持のために早期和平が必要である事を説いた。高松宮は近衛、岡田、若槻、平沼の四重臣の意見を取り入れること、東條の後は皇族内閣を組閣することを求めた。しかし時すでに遅しで、1月には伊勢神宮が空襲され、3月に東京大空襲、5月には殆どすべての宮家に空襲があり、宮城も焼けた。7月にはポッツダム宣言の受諾をめぐって、条件受諾派と国体維持を条件とした全面受諾派が争い8月14日の御前会議で全面受諾が決定された。早期和平派の高松宮はポッツダム宣言を歓迎した。条件派の大西滝治朗軍令部長や阿南陸相らの戦争継続の懇願を高松宮は退けた。天皇は8月17日東久邇宮稔彦王に敗戦処理内閣の組閣を命じた。そして外地の日本軍に終戦を告げるために、支那派遣軍の南京に朝香宮鳩彦親王を、南方派遣軍のサイゴンに閑院宮春仁王を、関東軍の長春に竹田宮恒徳王を派遣した。1945年11月に皇室会議が開かれ、皇室諸制度の改廃を決議した。皇室令は1947年5月に廃止された。進駐軍が日比谷に本部を置いて、戦犯を拘束したが、皇族では高齢の梨本宮守正王を呼んだだけで(すぐ釈放)、皇族が戦犯指名を受けることは無かった。その理由は日米開戦時の東条内閣を最重視していたこと、マッカーサーらが天皇免責に傾いていたことが挙げられる。結局天皇を初め皇族は戦争責任を追及されることは無かった。

第3部 昭和後期時代 新憲法と新皇室典範 開かれた皇室と戦後和解問題

1945年11月GHQは皇族の資産調査を命じた。当時の金で総額5000万円で、各宮家の資産は100万円から800万円くらいで、一番多いのは伏見宮家であった。そしてGHQは天皇の直系(天皇と3兄弟の皇族)を除く、日本皇族男女より免税を含むあらゆる特権を剥奪すると命じた。これで税金でもって皇族を扶養することは廃止された。11月月には東久邇宮念彦は自ら臣籍降下を願い出た。1946年11月日本国憲法が公布され、天皇は自ら11宮家を召集し、皇籍離脱を申し渡した。こうして1947年10月11宮家51名が皇族としての地位や身分を失った。離脱した皇族には一時金が公布されたが、軍人皇族は受け取ることは出来なかった。宮家によっては百万円から800万円ほどであった。皇族の邸宅は売却されたが、西部の堤康次郎がプリンスホテルの用地としたところが多い。その他聖心女子大、議員会館、千鳥が淵戦没者墓地、庭園美術館などに変身した。宮様のその後は切り売り生活から商売失敗まで色々あるが、それは週刊誌的興味になるので割愛する。天皇はGHQより戦争責任を追及されることもなく、むしろ天皇は戦争終結に力があったとみなし、戦争責任は挙げて軍部にあり天皇は利用されたに過ぎないという、日本伝来の権力不在の虚構がまかり通った。

戦後皇族のあり方を大きく変えたのは1947年5月3日の新憲法と、新皇室典範の施行である。新憲法では天皇について次のような条項を定めた。天皇は日本国の象徴であり、一切の権力からは排除された。天皇の地位は世襲とし、国会が定める皇室典範に従って継承する。天皇が行なう国事行為には内閣の助言と承認を必要とするということで、戦前の主客関係は逆転した。国政に関する権限を有しない。国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する。天皇が内閣の助言と承認に基づいて行なう国事行為とは、憲法改正、法律、条約を公布する。国会を召集する。衆議院を解散する、総選挙の施行を公示する。大臣、官吏の任免、大使公使の信任状を認証する。大赦、特赦を認証する。外交文書を認証する。外国の大使公使を接受する。儀式を行なう。そして皇室財産は国会の承認なしには授受贈与はできない。と定められた。新皇室典範においては、皇統に属する男子が天皇を継承することが確認された。皇位の順序は皇長男、皇長孫、皇長子の子孫、皇次子及びその子孫、その他の皇子孫、皇兄弟及びその子孫、皇叔父及びその子孫、最近親の系統の皇族という順である。皇族とは、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王をいう。嫡出の皇子・皇孫では男を親王といい、女を内親王とし、三世以下の子孫は男を王、女を女王という。皇継たる皇子を皇太子という。天皇は養子をすることは出来ない。15歳以上の内親王、女王は皇室会議の議により皇族を離脱する。皇族女子は天皇及び皇族意外と結婚した時は皇族を離脱する。皇族以外の男子は皇族となる事はできない。皇室とは天皇及び皇族の総称である。皇族は皇統譜に身分を記し、戸籍は無いので参政権はない。皇室財産は国に属し、皇室費用は予算に計上して国会の議決を経る。皇室費63億6000万円(2003年)には私的な生活費である内廷費、公的な活動費である宮廷費、それ以外の私的な費用である皇族費に分別される。内廷費は3億2400万円で皇室が私的に使用する職員の人件費を含む。宮廷費は63億6193万円、その70%は修繕費など土木工事費であった。皇族費2億8000万円で各宮家の私的費用である。皇太子の家族は天皇の勘定に入り、秋篠宮以下高円宮、三笠宮、常陸宮、桂宮らの費用は凡そ5000万円である。紀宮内親王の皇籍離脱一時金は1億5000万円であった。1090名の宮内庁費114億6100万円、961人の皇室警察費は88億3600億円ということで、皇室費、宮内庁費、皇室警察費を合算すると272億8100万円となる。最も多い費用は宮内庁費が42%を占めている。国有財産法は「皇室用財産」を設定した。皇居、赤坂離宮、那須御用邸、京都御所、桂離宮、墓所など15箇所ある。

戦後皇太子明仁に大きな影響をあたえた教育に、ヴァイニング婦人によるアメリカ式教育が有名である。民間人との結婚、天皇と家族の同居、皇后の家事などを特徴とする平成流皇室となってゆくのである。現皇后である美智子妃の選考に対する風当りは強く、学習院女子卒業生からなる常陸会や前皇后良子の反対があったと聞く。かっての明治天王の内親王らは全て皇族に嫁いだ。昭和天皇の第1皇女の成子は1943年東久邇宮の長男盛厚と結婚していた。第2皇女の孝宮和子は1950年旧公爵鷹司平通に嫁いだ。第3皇女の順宮厚子も旧公爵池田隆政に嫁いだ。第4皇女の清宮貴子は1960年旧伯爵の島津久永と結婚した。現在に日本人は皇室をどう思っているかというアンケートでは好意を持つという層と無関心の層が40%づつを占めている。昭和天皇の男兄弟である高松宮、三笠宮、秩父宮らは天皇に対して一定の距離を置いてきた。オリエント学者で紀元節反対で注目された三笠宮から寛仁親王家、桂宮、高円家が独立した。平成天皇の兄弟である正仁常陸宮は旧伯爵家の津軽華子と結婚したが、昭和天皇が崩御され平成天皇が即位されてからは皇室から離れていく傾向にある。この津軽華子の皇族入りを最後に今日まで、旧皇族・旧華族の女性から皇室に嫁ぐ人はいない。平成天皇の次男で文仁親王は1990年学者官僚の家系である川嶋紀子と結婚し、2女1男を儲けた。そしてついに41年ぶりに男子皇位継承者になる悠仁親王を生み皇室の系統が変化する可能性が生じた。皇太子徳仁親王は1993年、外交官の大和田雅子と結婚し、雅子妃は愛子内親王を生んだが男系親王が生まれず、宮内省からの期待のストレスを受けて「適応障害」となり、皇太子の「人格を傷つけられた」発言もあって、週刊誌では雅子パッシングが始まった。悠仁親王が生まれ流れが秋篠宮にゆくにつれ、皇太子家族への世間、メディアの風当たりも強くなった。

戦後の皇室の公務とは法的には存在しない。義務としては天皇の国事行為しかないが、天皇や雅子さんのように体を壊してまでも行なうべき公務は無いはずである。拡大解釈や慣行化された公務が多すぎるのである。なかでも天皇の外国公使の接待以外は国事行為ではないが、いつまにか皇室外交という言葉が当たり前のようになってしまった。こうした皇室外交の礎をきずいたのは皇太子時代の明仁親王と美智子妃であった。実に47年間に103カ国を訪問した。目的は国際親善なのであるが、外交官がなすべき職務を代行している有様である。もうひとつ戦後の皇室が担ったのは「戦後和解」である。天皇の名で行なわれた戦争で内外に多くの戦争犠牲者をだしたことは、権力の中心にいた者たちの責任は免れるものではない。昭和天皇は戦後すぐさま国内の巡察を多く行い、地方の回復に一定の効果があったが、外国への戦争被害者への謝罪訪問は一度も行なわなかった。1982年中曽根首相は沖縄、韓国、中国訪問の是非を昭和天皇に伺いを立てたが、様々な配慮の結果?何一つ実行されなかった。戦後和解の重責は皇太子(平成天皇)が負うことになった。親の責任を息子が取ることになった。恒例記者会見で沖縄、長崎、広島の記念日について「痛惜の念を禁じません」と侘びたのである。1992年10月天皇と皇后の中国訪問が実現したが、韓国への訪問は実現していない。1993年4月沖縄の土を踏み、1994年硫黄島を、1995年には広島、長崎、沖縄を訪問した。2005年サイパン島の「バンザイクリフ」を慰霊した。2004年秋の遊園会で米長東京都教育委員が国旗掲揚の義務化を述べた事、天皇は「強制は望ましくない」と述べたことは話題となった。これらの平成天皇の平和和解外交には美智子皇后の力添えも大きいといわれる。戦後の愛される皇室像を作りあげてきたのは、民間出身后妃たちのイメージがよい方向へ働いてきたからである。そういう戦略をとった平成天皇と宮内省の努力は評価されてよい。しかし皇太子の男子誕生を期待することから、雅子妃への人格否定的な反動的態度が出てきたことは今後の皇室像を巡って暗雲を投げかけた。


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