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宇野重規著 「'私'時代のデモクラシー」

 岩波新書(2010年4月)

個人主義の'私'の時代に、私たちの問題を話し合うデモクラシー

私にとって宇野重規氏は始めてである。氏は1967年東京都生まれ、1996年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。その後千葉大学法経学部助教授を経て、現在、東京大学社会科学研究所准教授。若い新進気鋭の東大系学者とお見受けした。専攻はフランス政治思想史・政治学史である。父、宇野重昭氏は島根県立大学学長で中国政治・東アジア地域の研究者だそうだ。親子そろって政治学者である。宇野重規氏の出発点はフランスの政治哲学者トクヴィル(1805−1859年)の政治思想研究に始まる。主な著書には、
『デモクラシーを生きる――トクヴィルにおける政治の再発見』(創文社, 1998年)
『政治哲学へ――現代フランスとの対話』(東京大学出版会, 2004年)
『トクヴィル――平等と不平等の理論家』(講談社[講談社選書メチエ], 2007年) この著書に対して2007年サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した。
『 希望学1,4』(東京大学出版会)
氏のプロフィールは東京大学社会科学研究所のホームページ(2010年4月)にあるので参照ください。また氏のブログ「Shigekiの日記」も併せて御覧ください。本書は著者のテキスト読みから成り立っているような書き方である。4章と各3節から構成され、各節は3つほどのテキストからテーマや問題提起を行なうというやり方で進める。人の意見を断りなしに拝借してくるより、いちいちテキストを出してくるところが好感が持てる。

デモクラシーという政治用語は本来「民主主義」や「市民」、「国民」というような文脈で用いられてきた。そこに本書は「私」との関連でデモクラシーを語るのである。とはいうものの本書は政治学というよりはむしろ社会学に重点を置いて語っている。やわらかい政治学へのアプローチといってもいい。デモクラシーのみならず、およそ現代社会の特徴を捉えるには、「私」という視点が欠かせない時代になった。政治用語では政治を支えるのは「市民」だといいますが、はて「市民」とは誰ですか。しかし「私」はたしかにいます。社会学者の上野千鶴子氏は1991年「私探しゲームー欲望市民社会論」を書いた。{私」が「私」であること、「私らしく」ある事は、現代においてとても魅力的なことであると同時に多少つらい面もある。「近代」は個人の自由を重視し、個人の選択を基本原理として、社会の仕組みを変えてきたのであろう。その結果共同体、氏族、家族は解体した。むき出しの個人が国家に対応せざるを得なくなった。だからつらいのだ。ジーグムント・バウマンは近代化を2段階に捉え、初期の近代化は「公平で平和な社会」をめざしたが、現在では「個人の差異」や「個人の選択」ばかりが強調される「後期近代」とか「再帰的近代」となったという。「成熟社会」といってもいい。「個人」は高らかに掲げる理念という時代を過ぎて、いまや唯一の価値基準とみなされている。この一人ひとりの個人に社会の激しい変化が襲い掛かっているのである。地域や企業や組合や業界という利益集団が稀薄になって、それらの矛盾や変化が直接個人に対立するのだ。人々が集まって「私たち」を形成し、「私たち」の意志で「私たち」の問題を解決してゆくにはどうしたらいいのでしょうかというのが、「後期近代」を生きる私たちの課題である。現代において「改革」と呼ばれるものはすべて、問題を個人の選択に還元することでやってきた。「市場化」、「民営化」、「自己責任」などなどです。しかしその方向が行き過ぎて、社会は徒に喧騒に満ち、共有された意味が不在という点で、空疎な空間となった。人は無力感に襲われ、無責任になり、社会に牙はむくものの社会を良くするにはどうしたらいいのかという共同の意志も生まれてこない。

一人ひとりの「私」というミクロな視点から、社会全体というマクロな動態もわかってくる。掴みどころの無い砂状化した「民意」は4年に一度巨大な砂山を築く(小泉郵政改革選挙や民主党政権交代選挙)。社会問題が「個人化」し「心理化」するなかで、本当は社会的な諸問題が個人の私的問題だというふうにへすり替えられる。平等化のグローバリゼーションが進んだ結果、人々は他者を自分と同類とみなすがゆえに、むしろ自分と他者の間の違いに敏感となっていった。平等化の時代でも決して「不平等」はなくならないが、残された不平等に対して異議申し立てをおこなうのが現代の特徴である。世界政治経済でもアメリカ中心主義から、BRICS諸国へと重心の移動が見られ、G7先進国サミットでは決められない問題がG20で議論されるようになった。日本社会でも企業、組合、業界、地域などの利益者集団的中間的仕切りが崩壊する中で、個人が急に露出し可視化して不平等と直面している。人々の不平等感はますます鋭敏化して、その不安がことさら世代間や集団間の相互不信を募らせている。そのような時代に合って政治の役割は大きくなるばかりであるが、現実の政治は社会変化を見逃している。「私たち」もメディアのアンケートで誘導された民意に集約されて流されるばかりで、主体的に社会にコミットする道筋が分らないでいる。そこで本書は次の3つを主張したいという。
@ 「私」は「私」の実現のためにも社会を必要としている。不平等の前で脆弱な個人の自意識が蛸壺のなかで悪循環を繰り返さないためにも、社会に目を向けよう。社会が自分を受け入れ尊重してくれるからこそ、自分もそのような社会を維持発展させようという気になる倫理的な義務感のよい循環を築こうではないか。
A 「私」の意識こそが社会発展を生み出す。理想はこうあるべきという近代化初期のヘーゲル流弁証法的発展の時代ではないが、人々がバラバラの疎外された存在としての達成された近代化では、グローバル資本の世界支配には都合がいいだけである。、アダムスミスがいうように私たちは共感でつながれているのである。私の意識から出発した異議申し立てが少しづつ「私たち」の社会を変えてゆく原動力となるのである。
B 「私」意識の高まりがデモクラシーの活性化を求める。「私」意識が私的利益に迷走する「エゴイズム」と「公共の利益」という対立軸で考えるのではなく、公共の利益自体が不明瞭であるからこそ、それが何なのかを共同で政治的に決定してゆくプロセスとしてデモクラシーがあったのである。手続きとしてのデモクラシーが大事である。そしてデモクラシーは常に誤る危険性があるので集団的に自己反省を行なう仕組みが必要だ。近代化の原理である「自由と平等」の内容を巡って、自由と平等な仕方で共同の自己決定を行なう、このことがデモクラシーの意義であると著者は結論する。

1) 現在の平等意識

現代における平等は「みんな同じ」ではダメで、「一人ひとり、みんな違う」こそが、「私」の平等のキャッチフレーズであり、「特別なオンリーワン」を求めているといえる。このことはアメリカのオバマ大統領外交顧問である政治学者・ブレジンスキーをして中国、インドの台頭を前にして「G8は終った」と言わしめた。世界中で政治意識の覚醒が始まったことは、現在の諸民族、組織、個人における平等意識のかってない高まりを示すものだ。アメリカで活躍するジャーナリスト・ザカリアは「アメリカ後の世界」ですべての国の台頭を指摘している。たしかに2006年以降世界の124カ国は年4%以上の経済成長が可能となり、自信を持って先進国の後塵を拒否し、彼らは一斉に欧米型先進国に対して異議申し立てをし始めた。このような世界情勢に対して、ここで著者はフランスの政治思想家アレシ・トクビル(1805−1859)の「平等論」を持ち出す。なんと産業革命の19世紀の中頃に活躍した政治思想家の論である。同時代人にはカール・マルクスらの時代である。日本ではまだ徳川幕府末期にあたり尊皇攘夷運動もおきていないころの思想家である。トクヴィルは階級闘争や民主革命の弁証法を述べるのではなく、それらが全て成就した後の成熟社会に通用する21世紀型平等論を述べているのだから面白い。「1周遅れの1位」という言葉はあるが、「2周先の2番手」という言葉は無いだろう。それほど変なめぐり合わせの思想家であり、その人に注目したのは実は、著者の大先輩である東大教授の政治学者丸山真男であった。トクヴィルがいう平等化の時代とは、人々の平等・不平等を巡る意識が活性化し、異議申し立てをした新たな勢力が政治の舞台に上がり、既存の秩序が動揺してゆく時代が「平等化」の時代というのだ。トクヴィルは社会的な構造、経済力から平等を論じるだけでなく、人々の想像力の変容を論じた点にある。階級間の平等が解決すれば次は階級内の不平等が問題になるという見方である。

グローバル化によってもたらされた「平等化」の波こそが、現代における「私」の平等意識の覚醒の基盤である。現在日本では不平等意識が爆発している。「格差社会」、「若者の貧困化」、「世代間格差」などの言葉が日常化しているが、雇用、賃金、年金、社会保障などでいまだに政治化していないことが日本的大問題である。社会教育学者の苅谷剛彦は教育における不平等が、実は社会・経済的階層に基づく不平等からきていることを正しく認識しないで、子供の「努力平等主義」や「結果平等主義」で迷走していることが問題なのだと指摘した。アメリカの医療格差の問題が裕福層と貧困層の断裂にある事と同じことである。裕福な階層の子供ほど成績が良くて一流大学に入学でき、裕福な生活を送ることができるということと、裕福な階層の人ほど長寿で健康な生活を送ることができるということの根っこは同じことである。苅谷氏は「閉じられた共同体的空間」内での競争だけに心を奪われているが、階層間の差という不平等に気付いていないので、「自分は頭が悪いから生活レベルが低いのは仕方が無いのかな」という変な納得をしているという。政治学者の宮本太郎氏は「生活保障ー排除しない社会へ」において、日本社会の「仕切られた生活保障」が崩壊し、日本が「小さな福祉国家」に過ぎなかったことを再認識させられたという。企業ごと、業界ごとの雇用制度、社会保障制度(健康保険組合、厚生年金制度など)が組み合わさって出来上がったのが「仕切られた生活保障」である。政府国家はこの制度に依拠して個別的裁量的補助金などの政策しか行っていないので、この精度が崩壊し始めると、全体的に社会保障制度が構築されてこなかったことが曝露された。会社という機能組織が擬似共同体化していたことに基盤があった。

日本型年功序列(その恩恵に与った部分は本当は少ないのだが)は生涯賃金といわれ、若いうちの賃金は少なくとも、生活年代に応じて賃金が上昇するという暗黙の了解に立っていた。それが崩れつつある現在では世代間格差にしわ寄せが行くのである。社会学者の佐藤俊樹は「爆発する不平等感」において、戦後の日本社会は機会の平等をあまり感じさせない仕組みを持つ社会であったという。「自分は高等教育を受けていないから貧乏なのは仕方ないが、子供だけは大学へやりたい」という親の気持ちはまさにこの「不平等感の消失」である。これが不平等を世代で解決するという気がなくなり、あくまで個人単位になると、より短期間的な不平等是正を求める声につながってゆく。年功序列のなくなった中高年齢層は自分の賃金や地位にしがみつき、若者の機会を奪っても恥としない既得権意識が濃厚である。中高年の生活を維持するために、新規採用をしないことを決めるのは中高年層の幹部である。今で言えば団塊の世代がその決定権を持っている。日本では、この不平等感が階級意識と結びつかず、共同体から放り出された「私」の平等意識として、未来に期待を持てず、短期の不平等感是正を求める「私」の平等意識を形作っっている。他者との連帯が希薄化するなかで、自分のかけがえのなさにこだわろうとして、その中の一人に過ぎない自分を痛いほど自覚している「私」。このような「私」の平等意識こそが現代の平等意識なのである。

2) 新しい個人主義

平等化は他者との関係で個人主義の問題と連動し、その葛藤が社会や政治のダイナミズムを生み出すというのがトクヴィルの論点であった。しかし現代が近代のいわば折り返し点を過ぎた「後期近代」において、個人主義はかっての輝きを失ってどうしても否定的な意味合いで語られることが多くなった。個人であることはすなわち脆弱であること、無力であることという意味である。その象徴的な事件が2008年6月秋葉原で起きた。派遣労働に端的に現れた格差社会がもたらした悲劇であるが、何か個人のあまりにも壊れやすさを露呈した事件であった。社会的事件を犯罪者の心理に還元する見方を「社会問題の心理学化」という。このことは斉藤環著「心理学化する社会」(河出文庫)にも詳しく書かれている。本来社会的な問題として公共的に対策しなければならない事柄を。もっぱら個人の処理すべき課題として受容され、個人的な負担を強いるという結果になっている。この社会的なものの個人化をフランスの政治学者ロザンヴァロンは「連帯の新たなる哲学ー福祉国家論再考」において、集団・階層から個人の状況や人生へ持ってゆく変化を「社会学の崩壊」と呼んでいる。集団的な社会行動に出ることもなく個人の問題として沈着させれば、政府支配層は随分気が楽でしょう。「ニート」など現代において排除された個人は社会の機能不全によって登場した存在であるといえる。不安定で脆弱な階層はプロレタリアートを形成できずに「プレカリアート」となる。このリスク社会をドイツの社会学者ベックは「リスク社会ー新しい近代への道」において「社会的不平等の個人化」と呼ぶ。近代化の成果である福祉国家を前提としながら、リスクの個人化が生じている。近代学校システムや雇用保険など社会保障制度が戦後著しく発展したが、いまや福祉国家は機能不全に陥り、約束された生活のエリート選抜制度となった一流大学入学試験は「個人化された針の穴」を通す難関を突破することが条件となった。しかも裕福な階層の子弟が断然有利な環境にある。否定的な意味での個人主義とはこういうことである。

「自分自身である」権利とは、他人とは違う自分の個性を、他人との優劣をつけないで承認されることであろう。外的な基準によって評価されることを拒否する視点から、現代の個人主義を論じたフランスの哲学者リポヴェツキーは「空虚の時代ー現代個人主義論考」において、近代個人主義の新たな段階を「パーソナリティ・個性化」として捉えている。近代初期において個人の自律を重視すればするほど、「規律的」、「普遍主義」、「強制的」、「巨大化」、「中央集権的」、「原理的イデオロギー」がもとめられた。第2の個人主義革命ではこれらの普遍的価値が破壊され、「パーソナリティ・個性化」が強く意識された。人々は健康、エコ、カウンセリングを指向する文化となり、この時代の個人主義をリポヴェツキーは「ポスト・モダンのナルシズム」と呼ぶ。この「自分自身に忠実であれ」という理想の道徳的価値を擁護したのがカナダの政治哲学者テイラーである。「ほんものという倫理ー近代とその不安」において、テイラーは「自分自身に忠実であれ」という理想を大事にする。これはジャン・ジャック・ルソーの「真の道徳性とは各個人が自分の内にある自然の声をとりもどすこにある」という考えを継承したからだ。人は自分と他人の違いのうち、何が自分にとって本当に大事なのかを問い続ける「問いの地平」があってはじめて人間らしさの追及が社会の問い直しにまで展開するのである。このような状況をドイツの社会学者ベックは「政治の再創造ー再帰的近代化理論に向けて」において、集団に固有な意味供給源の崩壊を「確信の指標の解体」とか「世界の脱魔術化」と呼んだ。それが近代の民主主義革命であった。では魔法を解かれた次の時代の個人主義はさ迷うだけの浮遊物なのだろうか。自己と他者に対する新しい確実性をいかに共同で構築できるのか、このことがデモクラシーの課題となる。

アメリカのプラグマティズム心理学者ジェームスがいう「行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる」という自己コントロール能力が求められているというのも現代社会の特徴である。卑近な例では「ダイエットできなければ管理職には登用しない」という類である。書店には「自己啓発書」が並び、企業では「自己啓発セミナー」の大流行である。文化人類学者の春日春樹は「遅れの思考ーポスト近代を生きる」において、「オーディット文化」と呼ぶ。自己を管理し評価し報告する説明責任の様式である。企業においても、ISO環境監査・品質管理監査事業所や、ミッション管理・自己評価書が個人業績査定と連動するようなこともある。いまや独法である研究所や大学も短期の評価にこの「オーディット文化」が広まっている。そして個人の心の問題の解決を求めて、セラピストやカウンセラーを訪れる人が増え、学校で何か問題があればカウンセラーの介入を求めることが習慣となった。アメリカの宗教社会学者ベラーは「心の習慣ーアメリカ個人主義のゆくえ」において、セラピーはアメリカ中産階級のイデオロギーであるという。感情を管理することが強く求められている。いわばセラピー文化とは、個人が社会で暮らしていく中での困難を、全て自分の心の問題として受け止め、自己コントロールしてゆくことを求めるのである。このような状況でさらに短期的に処理しなければならない。アメリカの社会学者セネットは「それでも新資本主義についていくかーアメリカ的経営と個人の衝突」において、「ノーロングターム」で人格が危機にさらされるという。より短期的に結果を出すことを求められる社会において、現代人は細切れの対応に追われる。これを哲学者の鷲田清一は「前のめりの姿勢」とか「待つことが出来ない社会」と呼ぶ。未来はあくまで予測される範囲でしかない。またそれ以上のことは考えていないのだ。ギデンズは「モダニティと自己アイデンティティー後期近代における自己と社会」において、この余裕のなさは「後期近代」とか「再帰的近代」の宿命かもしれないという。個人に選択の時間的余地も与えない、なんとせわしない刹那社会になったというのだ。

3) 「私」と政治

「私」の不安や不満はどこへ向かうのだろうか。現代の不満は私事化し、社会の共通問題として政治の場で焦点化されにくくなっている。そしてそれが更に不安を高める結果になる。国民の不安・不満を解決するのが政治の領域であるなら、政治は民意を手中の砂のように掴み取れないでいる。さらさらの砂のように流動化した「私」の民意は幻のように現れ消えるのだ。多数者の最大幸福というプラグマテイズム的デモクラシーはますます難しくなっている。2007年の参議院選挙で、阿部内閣は情緒的「美しい日本」に流されて「憲法問題」を争点にしようとしたが、「消えた年金」問題で足元をすくわれて敗北し、民主党は格差問題を争点にして勝利した。といっても格差問題が争点になったわけではない。2006年以来小沢代表の「生活第1」が強調されたに過ぎない。バウマンは「政治の発見」において、公的な問題と私的な問題の間に適切な架け橋が無いことを問題にしている。問題が明確化され、明白な方法で対策がなされないと社会は無気力が支配するという。バウマンは公的領域と私的領域の交差する場として古代ギリシャ的広場「アゴラ」の存在を主張する。

阿部首相は「美しい日本」という個人的な情緒で喫緊の課題でもない「憲法改正」を急に唱えだし、小泉首相は中国・韓国の政治感情を平気で逆撫でをした靖国神社参拝問題を「これは心の問題である」とすり替えた。小泉首相の政治手法はポピュリズム劇場型といわれる。メデァも拍手喝采の有様は確かに正常な精神ではなかった。既存の法的・政治的制度を迂回して、「私」と「公」を無媒体に接続手法は、突如として「愛国心」へと短絡した。香山リカは「私の愛国心」で、様々な歴史的葛藤から切り離された新しい型のナショナリズムだという。流動化する現代社会の不確実性や不安にさらされた個人は、内面へ逃避するだけでなく、その生き辛さを自分を排除した社会のせいだと思い込めば秋葉原の事件となり、何らかの他者による脅威によるものと見なせば、より弱い人間を排除する差別やいじめとなり、その他者が外国人や移民だと思い込めばナショナリズムになるだ。社会学者の小熊英二が「癒しのナショナリズムー草の根保守運動の実証研究」のなかで、「新しい歴史教科書を作る会」を調査して、「都市型のポピュリズム」がこの運動の本質であると規定し、束の間の解放感を求めて怪しげな歴史や日本という居場所に群れ集う市民の姿を見ている。自己を表現すべき言葉の訓練をしていない人々、孤立感に悩んでいた者がナショナリズム運動に束の間の希望をみいだしたのであろうか。オーストラリアの文化人類学者であるハージは、「希望の分配メカニズムーパラノイヤナショナリズム批判」において新しいナショナリズムを「偏執狂パラノイヤナショナリズム」と呼んでいる。「憂慮する市民」が自分の不公平や不満の原因を、外国人移民であったり、マイノリティであったり、同性愛者などから受ける脅威と見なすところから来ている。「憂慮する市民」もその社会の中で周縁化され疎外されているわけなのであるが、社会から受ける希望の分け前を要求するところで初めて国とのかかわりを持ち、排外思想やパッシングに走るのであろう。「私」の不満や不安を脅威とされる他者の排除へと結びつけないためには、「私」の問題を「私たちの問題」へと媒介するデモクラシーの回路「政治システム」の機能改善が急務である。

政党や政治家は、「私」の問題を「私たちの問題」へつなぐ、一貫した政治的理念や展望を伴ったアピールが必要である。事態は深刻である。政治の脈絡のなさと行き場のない不満がコインの表裏の関係となり、人々が無力感に陥ることは日本社会にとって危機的状況となるだろう。サブプライムローンに端を発した世界経済危機と、日本の派遣切りに象徴される雇用問題の深刻さは「新自由主義・市場原理主義」への失望(市民は誰も期待していなかった)となった。そのなかでアメリカでは2008年オバマ大統領が就任し、日本では2009年民主党が政権交代を果たして鳩山内閣が成立した。いずれもまだ現状変革の成果は現れていないが、このままの状況が続けば再度政治不信が高まり、ニヒリズム、ナショナリズムが台頭する心配がある。日本政治の現在の最大の機能不全は生活保障問題である。ながらく「小さな福祉国家」でサプライヤー優先政策に徹してきた保守政治と官僚政治は、企業や業界、組合といった機能に雇用や生活保障を任せていた。日本的社会構造が1990年以来崩壊の一途をたどり、社会保障制度の脆弱性や不備により個人の生活保障問題が急に露になった。日本政治は社会集団間の分裂が可視化し、財政悪化によりもはや裁量や補助金つけの経済的余裕はなくなった。政治学者の大獄秀夫は「日本政治の対立軸ー93年以降の政治再編成の中で」において、政策対立軸が冷戦の終焉と政界再編製のなかで消滅したという。55体制の主軸は「安保問題」であったが、ソ連がなくなってみると自民党の求心力はなくなり、実にさまざまな政界再編成が起きた。1980年代末から欧米では「新自由主義」を導入して経済の建て直しを行い、金融ビックバンへ大きく舵を切った。バブル崩壊後の日本の対策は後手後手にまわり、「失われた10年」という時代を取り返すべく、21世紀より始まった小泉流「新自由主義改革」は、本来日本社会が「擬似的社会民主主義国家」であった経済的構造を破壊し、医療や生活セーフティネットまでも切り崩した。日本において擬似的社会民主主義機能をはたし、不平等を一定の範囲に抑えていた社会構造が最終的に崩壊した。

4) 「私」時代のデモクラシー

「社会」という言葉が一般化したのは19世紀になってからである。経営学者ドラッガーは「産業人の未来」において、人間には空気と同じように社会が必要なのだという。社会とは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、社会としても基本的枠組み、目的と意味を規定するものだという。そのドラッガーが60年後日本に対して「日本に必要なのは経済ではなく社会である。製造業で築いた雇用の安定が崩壊しつつある現状とどう向き合うのか」と檄を飛ばすのだ。フランスの社会学者ブルデューは「パスカル的省察」において、社会とはまず何よりも人生の意味を創出するメカニズムだという。人間が自らの生を意味あるもの、価値あるものとする上で社会が持つ力は神のようだ。オーストラリアの人類学者ハージは人間を「希望する主体」として、社会を希望と社会的機会を生み出し分配するメカニズムとする。「生きるための希望」という言葉で、人々を社会的現実へ向かわせるような希望を考えようという。希望を配分されなかった人の絶望感は深い。人に自己実現の希望を配分することは社会の能力なのである。グローバル時代において、社会が衰退してきた。グローバル企業は国家を利用するが、国民は必要としないのである。国家はグローバル企業の資金を呼び込もうと、環境を整備するが社会に希望を与えようとはしない。いわば社会を衰退に任せている。国家と社会は本来区別し難いものであったが、敢えて政治学者らは区別してきたことに意味がある。軍事力や警察力など国家だけに許される権力があれが統治上都合がよかったからだ。大きな権限と機能を有した国家の暴走に歯止めを掛けるのが社会である。国家は代表性デモクラシーによって社会の意志を読み取り、また自己の行動の正当化に務めてきた。

では「人生の意味を創造するメカニズム」であり「希望の分配のメカニズム」であるはずの社会を、どのようにして回復発展させてゆけばいいのだろう。トクヴィルは自己利益の追求を認めたうえで、「正しく理解された自己利益」をより長期的に公共的な視点から捉えることを、民主的社会に生きる個人のためのモラルとしてゆこうという。トクヴィルは「個人主義論」で民主社会の個人は、きわめて他者から影響を受けやすい存在である事を見抜いている。「自尊心」は自分を傷つけやすいし、評価や敬意を社会にもとめる。自分を評価してくれない社会に対して復讐を心に秘める場合もある。評価・尊敬はやはり平等という概念と結びつかなければならない。「人間の尊厳」は普遍主義的・平等に基づいているが、尊厳こそが民主社会と両立しうる唯一の概念ではないかという。自分が他の人間と平等であるからこそ果たさなければならない義務、それが平等社会のモラル問題である。「私」の尊重が他者を顧みないエゴではなく、他者の尊重にもつながること。他者や社会から自分が受け入れられた異説に思われていると実感できれば、他者を尊重し社会を発展させてゆくのだと思える。アダムスミス「道徳感情論」において、共感の理論を述べ、人の心の中にいる公平な観察者の判断の下に自らの行動や感情を律することが出来るという。自己反省と自己修正のもとで利己心と共感が一致できるである。

冷戦時の「リベラリズム」は社会主義に対抗するため、大きな政府によって福祉国家の実現を行なってきた。冷戦終了後規制撤廃の「新自由主義」の台頭によりグローバリズムが進み、資本の論理の前に社会や国家は解体され、個人はむき出しの弱い羊とされた。民主社会はいまなお5里夢中をさ迷っているのである。まだ「答えのない時代」である。政治学者のカストリアディスは「意味を見失った時代」の中で、デモクラシーの本質を自己批判能力であると規定した。デモクラシーのダイナミズムは自由と平等の内容を、自由と平等な仕方で決定してゆく、そのプロセスから生まれてきたのだという。そのプロセスは一度の選挙だけではない。デモクラシーの本質は異議申し立てや論争に開かれている点にある。自己批判と自己変革を目指すことに、そのために必要な他者の存在を尊重し議論し続けることが、「私」時代のデモクラシーの課題である。これが「結論」というか「方法」である。


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