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中村桂子著 「自己創出する生命」

  ちくま学芸文庫(2006年7月)

生命の普遍性と多様性の源としてのゲノム論

一寸恥ずかしい話であるが、私はこの本を読むまで中村桂子氏を同じ三菱生命科学研究所で生命科学者であった柳澤桂子氏と同一人物と誤解していた。生命誌(生命科学史)の中村桂子氏は遺伝学者、難病に苦しんだ柳澤桂子氏は発生学者、同じ年代であれば間違うわけだ。そこで中村桂子氏のプロフィールを確認しておこう。中村 桂子氏(1936年東京生まれ )は、1959年東京大学理学部化学科卒 、渡邊挌教授の指導下で1964年東京大学大学院生物化学を修了 して国立予防衛生研究所に入所(7年間在席)、1971年三菱化成生命科学研究所社会生命科学研究所に移籍(18年間在席)、 1989年早稲田大学人間科学部教授 となる。1991年日本たばこ産業に入社、1993年に設立されたJT生命誌研究館の副館長となる。 それから東京大学先端科学技術研究センター客員教授 や大阪大学連携大学院教授 を経て2002年JT生命誌研究館館長 に就任した。専攻は遺伝学であったが1980年代半頃からしだいに科学史に転向したようだ。生命誌とは生命科学史ともいうべき内容であろう。本書が生まれたいきさつは、丁度1993年に大阪高槻市にJT生命誌研究館が設立され、幅広い研究者(同好の士)のためのサロンを作ることから、基調報告となるテキストが求められたために執筆されたようだ。つまりJT生命誌の「こと挙げ」(旗揚げ、設立趣意書)みたいなものであるから、本書の内容はえらく荒っぽいところがあり、キーワードの羅列で内容は空疎といえば身も蓋も無いことになるが、これから埋めてゆくことばかりである。学としてサイエンスなのか哲学なのか、それも曖昧である。

本書の「はじめに」に「スーパーコンセプト」としての生命を考えたいという。「スーパーコンセプト」とは「時代を支える基本概念」あるいは「次代を貫く知の体系」という意味で用いられている言葉である。氏の興味は1980年代中頃から科学から生命誌に変わったことは先に述べた。時の分子生物学は遺伝子組み換えの時代からゲノム研究に移ってきていた。微細にゲノム構造を解析してゆくことが生命の理解に近づくのか疑問に思う頃であったという。遺伝子DNAの示す普遍的構造から直線的に生命の多様性に行くことはできないのではないかという疑問である。「科学」が不変、分析、還元、客観、論理を旨とするなら、それに多様性、全体、主観、直感、関係、歴史性などを付加したものが「生命誌」である。多様性や全体、関係は科学で究明できるとして、主観、直感、歴史性は科学とは異質なものである。中村氏が生命誌家として本書を書くことを導いた人に、1970年度のノーベル賞受賞者J・モノーがいる。1970年に書いたJ・モノーの「偶然と必然」という本が、本書の出発点である。モノーは「生物学研究から生物圏以外に通用する一般法則が見出せることは無いだろうからその意味では生物学は周辺的である。しかし科学が人間と宇宙の関係を究極の目標とするなら、生物学は中心的な位置を占める。生物学は人間の本性に迫るものであり、現代思想の形成に寄与するものである。」、「科学者が自分の仕事に哲学(自然哲学)という言葉を使うことは軽率といわれそうだが、自分はこれを正しいと考える。なぜなら科学者は現代文明の中で自分の学問を考え、科学から生まれる思想によって現代文明を豊かにしなければならないからだ。」という。モノーの時代は「大腸菌での真実は、象でも真実だ」という分子生物学の哲学の果たした役割は偉大であった。モノーは普遍性の基盤はDNAのセントラルドグマにあり、合目的性の基礎は蛋白質であると確信した。生命は合目的的であり、よりよいもの、より高次なものに向かって進むという前提がある。最近DNAで生命を語る上で一寸気になることがある。ドーキンスの「利己的遺伝子」という考えで、「生命はDNAの乗り物」というのだ。ドーキンスは動物行動学者で遺伝学者ではない。マクロ生物論で擬人的に多少ひねったものの言い方をする。彼のいう遺伝子とはメンデル時代の遺伝的因子(皺のある豆とそうでない豆)のことで、DNA遺伝子ではないが、DNAとゲノムの間の間隙を縫って面白いものの言い方をして時代の注目を浴びた。

分子生物学研究は大きく3つの段階に分けられる。第1期は1960年代でDNAコドン(遺伝暗号)で何でも分るという時代であった。モノーはまさにこの時代に生きた。第2期は1970年代で組み替えDNA技術(遺伝子工学)でヒトの蛋白が大腸菌で生産されるという何でもできる技術開発の時代であった。第3期は1980年代中頃からゲノムの時代となった。ヒトゲノムの全構造解析などがスタートした。研究がおそろしく大がかりとなり物量作戦時代の幕開けである。どうも著者はこの辺から生命科学のやり方に違和感を覚え始めたようだ。そして90年代を踏まえて未来を見ようとすれば、DNAや遺伝子ではなく、ゲノムで考える必要があるというのが「生命誌」からの提案である。ゲノムの中に発生分化や進化の仕組みが隠されている。それが普遍性から多様性へアプローチするということだ。本書の題名「自己創出する生命」という言葉は、細胞の中のゲノムの働きを解明するということである。受精卵細胞は進化の名残を持っており、1個の細胞から多細胞となり、DNA発現型の異なる組織細胞を形成しながら、成体にまで創生される。これは人類発生のドラマである。ゲノムにその仕組みが埋め込まれているはずである。「知の体系」として生命を見ると、全体として生命は理性の力で分解され、物質化され還元されて今日の生命科学が出来上がっている。これを再度全体、創出(自己組織化)、多様性で捉えなおそうという。その中心にゲノムがあるというのが本書のミソである。なお自己創出(自己組織化)という言葉は、発生分化という個の創出という意味に限定されている。複雑系の科学から見たスチュアート・カウフマン著「自己組織化と進化の論理」とは違うのである。なお本書は1993年に哲学書房から刊行された。第1章から第4章までは1993年のままで改定されていない。それに第5章のヒトゲノム解析後を追加して、2006年にちくま学芸文庫本として刊行されたものである。

1) DNA分子遺伝学の進歩

第1章はDNAを暗号として、物質として、全体として理解しようとした第1期(1960年代)、第2期(1970年代)、第3期(1980年代中頃)を手短に総覧している。とはいえ分らない人にはやはり分らないし、分っている人にとってはつまらない。科学の経過を概説することは難しいのである。そこでDNAの二重ラセン構造の発見者ワトソン氏の著書「DNA」を読んでいただくことにしよう。メンデルの遺伝法則からヒトゲノム解析終了までのDNA研究の歴史がレビューされている。多少分厚い本であるが読みやすい。本書は1952年のワトソン・クリックのDNA二重ラセン構造発見から分子生物学が始まったとしている。DNAの3塩基暗号から蛋白質のアミノ酸が指定され、モノーのオペロン説などの蛋白翻訳調節機構をへて遺伝子が指定する蛋白質が必要な時に生合成される機構が解明された。DNAセントラルドグマの誕生である。ウイルスの細胞侵入機構を利用してヒト遺伝子断片を大腸菌の遺伝子に組み込む遺伝子組み換え技術が各種制限酵素の発見によって自由自在に出来るようになった。ここから「遺伝子工学」という思い上がった言葉が出来た。ヒト遺伝子ライブラリ(断片のよせあつめ)が大腸菌で増殖できるようになって、ヒトゲノムを全体で構造解析する「ゲノム解析」がスタートした。同時に稲や、酵母などのゲノム解析プロジェクトが立ち上がった。その結果ゲノム全体の構造は、意外とスカスカで意味ある遺伝子は全ゲノム(30億塩基配列)の1−2%に過ぎなかった。スぺーサー、イントロン、偽遺伝子φ、繰り返し配列、トランスポゾン、ファミリーの遺伝子構造の共有関係などがわかって、かえってゲノムの謎が深まった。ゲノム構造が一番面白いのはノーベル受賞者の利根川進氏が解明した抗体可変部分の遺伝子メカニズムであろう。2003年米国のクリントン大統領が「ヒトゲノム解析終了宣言」を出してから、次は蛋白質の世界へという流れが生まれた。ところが構造配列が分ったといってもゲノム調節のメカニズムと、膨大な無意味な配列の意味(恐らく進化のための予備軍)なぞ謎は深まるばかりである。

2) 生命という自己創出系(発生)

生命の三代要素とは、@一定空間を占有すること、Aエネルギーと物質を代謝すること(開放非平衡系)、B自己増殖(複写)することが挙げられ、C進化すること、そして中村氏のように自己創出(個体発生と系統発生)することを挙げる学者もいる。1個の受精卵細胞は分裂を繰り返して多細胞となり、しだいに組織を形成し細胞の役割分担が決まる。こうして個体が出来上がってくることを生物学では「発生」という。この仮定を支配するのがゲノムである。個体細胞の染色体は2倍体(ディプロイド)であり、生殖細胞は1倍体(ハプロイド)である。二つのオ雌雄の生殖細胞が組み替えしてディプロイドとなることが進化の可能性(他の形質を入れる)の源である。単細胞の増殖では遺伝子の変異だけに頼っているため飛躍的な進化が望めない。性分化こそが生命進化の原動力となったといわれる由縁であろう。単細胞の自己複製系に対して、多細胞系では発生は自己創出系という。従って生命の基本は遺伝というよりはむしろ発生にあるといってもいい。ゲノムが正しく継がれるためにはまず個体を作ることが先決である。分裂し続ける細胞は「分化」する。神経、皮膚、内臓、血液などへ細胞が専門化することだ。そして種が保たれるのでこれをヘッケルは「系統発生」と呼んだ。当然発生は進化という概念と共通項を持ってくる。遺伝と進化という生きるものの基本がゲノムに置かれているのだ。生命誌では生命を「細胞内におかれたゲノムの働きで自己創出する系」と定義するのは、発生に基礎を置くためである。時間と空間が重要な要素である。ダーウインの進化論「種の起源」にはメンデルの「遺伝子」の考えは無い。ましてゲノムは知らなかったが、形態と機能の関係で生存効率を評価するものである。DNAの比較によって進化を考える分子進化学という学問分野がある。比較的変異の少ないリボソームの5SrRNAの変異箇所を調べて系統樹をつくる方法である。細菌の系統的分岐を作る作業が行われた。生命誌では環境との関係でそのような変化がゲノムにどのようにして残ったのかを調べ、ゲノムの中に生物の歴史を追いかけることである。

マトゥラーナらは「オートポイエーシス」いう概念を提出し、生命システムを単位体として特徴つけるために、「円環的有機構成」とか「自己言及的システム」といった。ゲノムを基本にした自己創出系としてみると、遺伝子は2次的となる。産出することが1次的なプロセスのネットワークという理解が適当であろう。生命体の設計や情報プログラムという概念ではなく、プロセスが主題となる。多田富雄氏の「免疫の意味論」では「自己と非自己」という視点で見ると免疫システムは自己をも破壊するのである。多田氏は「変容する自己に言及しながら自己組織化してゆくような動的システムをスーパーシステム」と呼ぶ。スチュアート・カウフマン著「自己組織化と進化の論理」でも議論された自己組織化の論理にも通じるものがある。自己を創出するシステムが第1で、DNAも手段であると考える。細胞生物学と遺伝生物学は本来根っこが違うのである。ここではドーキンスがいうような「細胞はDNAの乗り物」というような利己的擬人化は不要である。自己創出系は生命に関する基本的問いである。それは多様で普遍を内在するシステムである。多田氏のいう「多様な要素(細胞)がそれぞれ役割分担して相互の関係を認識し、調節して自己言及的に要素を補充してゆく」ために、細胞間の情報伝達が必須となる。それ司るのが、情報伝達物質と受容体、細胞間ギャップ結合である。情報伝達物質とは内分泌系ホルモンや神経伝達物質をさし、受容体は細胞膜で伝達物質を結合すると細胞内に伝達物質を発生する機構である。

3) 生命と進化

生命誌では発生分化(development)を「個体発生」、進化(evolution)を「系統発生」と区別する。生命誌では進化という言葉を使わないで「生命の歴史」と捉える。38億年の生命の歴史をゲノムの変化としてみると、遺伝子は本質的に保守的である。それは命に関るような変異は直ちに死に結びつくため、そのような変異は保存されない。生き残っている生物の中にある変異は殆どが「中立」(命にはかかわらない程度)であるのが当然である。生命の歴史は丸山茂徳・磯崎行雄 著 「生命と地球の歴史」にもまとめられているように、中村氏は原核細胞、真核細胞、多細胞、中枢神経系の成立の4段階が重要であると指摘している。生命の起源の詳しいことは分らないが、化学進化としてみる見解が趨勢であろう。生命体の誕生後にDNAが先かRNAが先でホットな議論がある。その他、光合成能、陸上への進出、カンブリア紀の種の大爆発、大絶滅など興味ある話題が一杯である。だから生物学は面白い。細胞生物学としては、内膜系、細胞骨格、物質代謝でエンドサイトーシス、エキソサイトーシス、性の分化と減数分裂、細胞死などの話題も豊富であるが、詳細は省略したい。遺伝子量は大体ヒトの30億塩基数が限界の量であるが、植物には36倍体などのハプロイドでは数兆塩基数もある。約5億年前に遺伝子の臨界点に達したカンブリア紀の種の大爆発が起って、恐らく現在の生物から想像もつかないようなへんてこな生物が生まれたらしい。それらは全て絶滅して今日の数千万種くらいに落ち着いている。ゲノムのダイナミズムとは、ファミリーの重複構造、組み合わせ選択方式などで多様性が生み出されてきたらしい。

4) 「普遍と多様・スーパーコンセプト」という知の体系

1960年代から始まった生命科学の発展と歩調を同じくして、日本の高度経済成長が目覚しかった。それも1980年代には”Japan as No.1”といううのぼれとバブル経済となって崩壊した。そうして反省が始まった。反科学・技術という動きがカウンターカルチャーとなり、現代文明批判にもつながっていわゆる「ニューサイエンス」と呼ばれる動きもあった。DNA研究は組み替えDNAを開発し、バイオテクノロジーという産業が雨後の筍のようにに出ては潰れた。過剰な期待と不安をもたれたのだ。これらは技術革新であるが、科学の本質の革命はなされていない。生命倫理は二元論対立を生み、機械論敵自然観はサイボーグの方向を目指しているのではないか。科学技術と現代の価値観は硬く結びついている。それは進歩であり能率である。それらの価値観に対して生命誌は進化、プロセスの価値観を目指したいという。質の変換、多様性の関係が主軸となる価値観である。ギリシャ文明から始まる理性の時代に先行していたのは生命の時代である。養老孟司著「唯脳論」において「我々はいまや人工物で埋め尽くされた脳の産物の中で生活している。これを脳化社会という。進化の過程で脊椎動物は脳化と呼ばれる大きな脳を持つ方向に進化した。脳は身体を統御し支配する器官である。さらに身体の延長として環境を統御し支配しようとする。」といい、中村氏は「環境問題は脳とDNAの相克である」といった。この章で中村氏はかなりのページを使って形而上学(哲学)をレビューしているが、突込みが残念ながら浅い。自然哲学から神を追い出したのがダーウインの功績である。中村氏は「生命に関して自然哲学を突き詰めていった結果、自ずと自然誌的な視点が生まれた」というが、本当に自然哲学の流れの後に生命理解が生まれようとするのだろうか疑問に思われる。

5) ヒトゲノム解析から見えてきたこと

2003年に「ヒトゲノム塩基配列解読」が終了した時点で、再度本書を読み返したが改定するところが無いのでそのままにして、この章を追加したと中村氏はいう。よっぽど堅牢な思想があったというよりも、内容がなさ過ぎて誰も反論を述べなかっただけではないか。ヒトゲノム解析で分ったことをまとめている。全配列を100%とすると、反復配列が53%、特有の配列が47%であった。反復配列とは、LINE21%、SINE13%、レトロウイルス型要素8%、トランスポゾン3%、領域重複配列が3%、単純配列反復が5%である。特有の配列のなかには、遺伝子領域が27%、ヘテロクロマチンが8%であった。遺伝子領域にはイントロンが25%、蛋白コード領域が僅か1.5%である。遺伝子といっても蛋白質をコードしている配列は全ゲノムの1.2−1.5%にすぎない。「なんだこれは!」という唖然とする結果であった。遺伝子決定論は幻想であって、DNAの働きといってもゲノム全体がいかに制御されているかが重要である。遺伝子数は22000個である。このコード領域が組み合わさって10万種以上の蛋白質が生産されるようだ。ゲノムを単なる遺伝子の集合体としてみることが間違っていたのである。ゲノムを解読しても生命像は出てこなかった。ゲノム解析プロジェクトのように多額の国家予算を投入して片っ端から解析して行こうという研究プロジェクトを「オーム主義」といい、遺伝子コード蛋白質を片っ端から調べようとするのが「プロテオーム」、生理活性物質を全て解析しようとするのが「フィジオローム」という。物量投入方式は「スーパーコンピュータ」にも見られる。日本の自然科学研究が知的行為ではなくなって、産業経済のための行為と位置づけられるようになった。「総合科学技術会議」で議論され予算がつくのは技術なのである。

ゲノム研究で役立つ分野は当然医療分野である。遺伝病といわれる遺伝子欠損がある病気は僅かで、殆どの病気は遺伝子多型で関っている。糖尿病など生活習慣病には多数の遺伝子が関っており、別に欠損があるのではなく機能不全に過ぎない。発現が少ないか抑制されているかどうかが問題なのである。DNAプローブという手法は何万という遺伝子のプローブをマイクロチップに固着して、患者の発現遺伝子の型を図形で認識する方法である。それで遺伝子発現のパターンから病気を診断することが出来ることを目指している。「人間とは何か」をゲノム比較からヒトの特徴が調べられている。ヒトとチンパンジーの比較でゲノム全体で1.2%の違いがあり、同じ蛋白質は20%しかなかった。ヒトとチンパンジーの違いは遺伝子にあるというよりは、少しずつ違うたんぱく質をつくる遺伝子全体の働きかたにあるのではないだろうか。


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