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J・S・ミル著 塩尻公明・木村健康訳 「自由論」

  岩波文庫(1971年10月)

個人の自由と多様な才能が社会の発展の原動力 政府の介入の限界を例証

本書の冒頭の見開きに、J.Sミル (1806 - 1873年)が無条件に共鳴した思想家ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767−1835年)の言葉を引用している。「本書に展開されたあらゆる議論が直接に起因する重大な指導原理は、人類があたうかぎり多種多様な発展を遂げることが絶対的に必要であると云うことに帰着する」 思想史的な位置づけは後ほど行うとして、この結論はスチュアート・カウフマン著 「自己組織化と進化の論理」に述べられた進化のセオリーを極めてよく一致している。道徳哲学や社会哲学においてミルが功利主義者であることは論を待たない。ジェレミ・ベンサム(1748 - 1832年)のいう「最大多数の最大幸福」が最高の目的であった。しかしミルはこれに終わるものではなく、「ベンサム論」ではこれを批判して「我々は功利または幸福はあまりに複雑なまたは不確定な目的であって、いろいろな第2次目的の媒介を借りなくては決して狙うことは出来ない」といった。制度が最大多数の最大幸福をもたらさんが為には、何よりもまず社会の構成員の人間としての発展がなくてはならないということを「経済学原理」において述べている。それはやがて個性の重視となる理想主義になるのだ。すなわち第1原理としての功利主義に、「人間としての成長」、「諸能力の調和ある発展」という理想主義的色彩が加わる。フンボルトはドイツ人文主義を代表する思想家でプロシア文化に貢献したが、その著書「イデーン」で先の言葉を述べている。

ジョン・スチュアート・ミルは、イギリスの哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者と見なされている。ジョン・スチュアート・ミルはロンドンにてジェームズ・ミルの長男として生まれ、親のジェームズはミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした。猛烈な英才教育を施こされ幼年からラテン語を読み、語学、自然科学、ギリシャ哲学を学び、13歳の頃から彼は政治経済学を始め、アダム・スミスや リカードを父親と共に学習・研究し、彼らの古典経済学の生産要素の見方を完全に学び取ったといわれる。しかし青年期には興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。人妻であったハリエット・テイラー(1807-58)との親密な交友関係(後の妻)によってミルはこの危機を乗り切っている。この「自由論」の殆どの内容は妻ハリエットの述作であるとミルは書いている。ミルはオックスフォード大学やケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に1858年まで東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。とりわけ彼を有名にしたのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与えるている。ミルの功利主義は、ベンサムが唱えたものよりも精神的な快楽に重きを置いた。それは次のミルの有名な言葉「満足した豚よりも不満足な人間である方が、また満足した愚か者よりも不満足なソクラテスである方がよい」に表れている。ミルの経済学は、おおまかに言えばリカード以来の古典派経済学モデルのフレームワークに従っている。『経済学原理』(1848年)を著わす。基本的にミルは自由放任政策の支持者であったが、ロバート・オウエンなどのユートピア社会主義者の潮流の影響を受けて社会主義的な色合いを帯びており、後にフェビアン協会へと連なっていく英国の社会民主主義に、具体的な、正統派経済学からの理論的裏づけを与えた最初の経済学者の1人であろう。

この本が書かれた時代を振り返ろう。1859年は日本では徳川幕府末期の動乱期にあたり、1953年にペリーが来航し欧米列強によって開国を迫られ、1860年桜田門外の変が起きた時期である。19世紀前半は、欧州ではナポレオン戦争が終結してイギリスでは自由主義的改革の時代である。ナポレオンによる大陸封鎖によって食料品は暴騰し地主階級は利益を得たが、1815年ウイーン会議でヨーロッパの平和は回復された。イギリス議会は「穀物法」により関税を課することで自国農業を保護した。製造業者らは穀物法に反対し、議会を土地所有者の独占物から解放するために「選挙法改正」を訴え、ブルジョワジーの参政権獲得に動いた。1832年に憲法改正が行われて、1846年に自由貿易が達成された。経済的自由および政治的自由の獲得の問題が次代の課題となり、思想的根拠が準備された。アダムスミスの「自然的自由の体制」、ベンサムの「功利主義哲学」があたかも自然法であるかのように受け入れられた。ベンサムによると、人間の行動はすべて利己心の発動で、快楽地球が人間の行為の動機である。利己心の衝突は望ましくなく、全ての人の調和を求める利己心を是とした。そのために利己心の衝突を避けるため国家や法律が必要だとされる。したがって国家や法律は基本的に悪であるがやむをえない必要悪とされる。こうして「最大多数の最大幸福」が達成されるという理屈である。この思想は哲学的急進主義といわれ、イギリスの改革に大いに力を発揮した。ミルの父も功利主義者であったことは先に述べた。J・S・ミルは哲学者としては論理学の帰納法を確立し、経済学者としては古典派経済学を受け継いだ。ミル自身は「功利主義」という著作を著わすほど功利主義者と見られているが、「自由論」においては妻のテイラーの意見を入れて功利主義から、調和的に人間の諸能力を可能な限り発展させることが道徳の目的となるという理想主義的個人主義へ進化した。

本書「自由論」は、ヴィクトリア朝の英語になるため文章が長くて決して読みやすい文体ではないそうだ。それを翻訳されたのは故神戸大学名誉教授の塩尻公明氏で、太平洋戦争直前のことであったという。岩波文庫版「自由論」が刊行されたいきさつは、巻末の岩波書店吉野源三郎氏の「あとがき」にくわしい。1938年ごろ岩波書店では本書の翻訳者として三木清氏らと相談して東大の河合栄治朗氏が最適任者と見て交渉したそうである。河合先生は快諾されたが、日中戦争の勃発、軍国主義の専制政治が右翼の跋扈を招いて河合先生へ圧力を加え、起訴され法廷闘争をやむなくされ、「自由論」の出版が許されるような状況ではなかった。1944年河合先生は不遇のうちになくなられた。戦後1948年河合先生門下生の塩尻公明氏が翻訳文を岩波書店に持ち込み出版を打診した。塩尻氏の文章が戦前の用字・仮名つかいであったのと文体が古風なので岩波書店では塩尻氏と協議し、塩尻氏は岩波書店に編集を一任したという。最初吉野源次郎氏がその任にあたったが、中絶を余儀なくされ、1969年には塩尻公明氏が亡くなった。吉野源次郎氏の訳文整理は1970年に終了したが、校閲を河合先生門下で塩尻氏の友人木村健康氏にお願いしたという。こうして河合先生とミルの「自由論」の翻訳を計画してから33年目に本書が世に出たわけである。

本書の主題は、哲学的必然に対する意志の自由ではなく、市民的・社会的自由に関することであり、社会権力がどこまで個人的自由に正統に介入しうるかという権力の本質と限界についてであると定義する。古来、自由と権威との闘争では、自由とは政治的支配者の圧制に対する擁護を意味していた。支配者と被治者は本来敵対するもので、外的から被治者を守るための力は同時に被地者への圧迫に向けられていたのである。それゆえに支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して制限を設ける必要があった。この制限こそが自由なのである。それは歴史的に政治的自由や権利を支配者に認めさせることであり、ある種の責任(賦役、課税など)を免除させることであった。これらは普段の反抗と闘争によって獲得されたものである。それに対して憲法によって、ある統治権の行為に対して社会の団体が同意を与えることで権力の制限を行う。自らの代弁者たる政府官吏を持つこと、選挙による選択で統治者を決める(権力を委託する)いわゆる主権在民の時代となった。主権は王候貴族ではなく被統治者側にある。だからといって自治権力は自分自身ではないので、この民主共和制の権力自体が民衆の自由を侵すことがある。人民の意志は実際には人民の最多数の部分あるいは最も活動的な部分の意思である。多数者の暴虐もありうるのである。従って個人を支配する政府の権力を予防的に制限することが欠かせない。個人の独立と社会による統制との間の適切な調整は、法律と世論によって行われる。この調整こそが時代、国によって様々に異なる。人民がもつ習慣、道徳、好み、偏見、迷信、社会的感情には様々なものがあり、道徳的感情はその時代の優勢な階級の利益や優越感から発生している。こうして社会のある有力な階級の好みや嫌悪感とは、法律や世論による刑罰をもって一般人の遵守すべき規則として定められた(イギリスは慣例を重視する傾向がある)。原理上、社会的感情よりも猛威を振るったのが宗教的感情の領域であった。宗教的寛容はいつでも期待できないのである。イギリスの政治史からみると、世論の制約は厳しいが、権力による制約には警戒心が高かった。政府と公衆はいつも対立した。新たな法律にはいつも反対する相当大きな反感が存在している。政府の統制がひとつを加えるより、むしろ不自由を選択するきらいがあった。社会が強制や統制のかたちで個人を支配する資格のあるものとして、自己防衛だけを許してきた。他の構成員に対する害の防止にある。いかなる人の行為でもそのヒトが社会に対して責をおわねばならない部分は、他人に関する部分である。自分自身にだけ関係する部分においては、彼の自由は絶対的である。

この所説はしかし諸々の能力が成熟して人々だけに適用される。未発達な社会状態、未開人に対しては専制政治は正当な統治方法である(この辺は植民地主義、帝国主義擁護となって今の常識では納得できないが)。そこでベンサムの功利主義を第1原理とし、個人の能力成長を第2原理とするミルの理想主義の誕生である。権力が個人を統制するときに強制を用いる害悪と同時に、不作為による害悪も存在する。すなわち社会がその個人を統制するよりも個人の自由裁量に任すときのほうが、大体において個人がよりよい行動をとる可能性があるようだ。この成熟した個人によって成り立つ社会を自由社会となずけると、自由な社会の条件として次の3つが固有の領域となる。@良心と思想の自由 A嗜好および目的追求の自由、行為する自由 B個人相互間の団結の自由、結社の自由が尊重されていない社会はその政体がなんであろうとも、自由な社会ではない。自分自身の幸福を自分自身の方法において追求できる自由である。ところが個人に対する政府の介入(権力)は最近著しく力を増している。これを予防するには、政府に権力を持たせないこと以外には考えられない。人、金、資源を制約することであろう。以下に、思想および言論の自由、個性発揮の必要性、個人を支配する権力の制約法について、法の適用について項目ごとに検討してゆこう。

1) 思想および言論の自由について

暴虐な政府に対する保障として「出版の自由」を何とか擁護しなければならないような時代ではないが、次のような理由により意見を抑圧することは依然として悪である。権威により抑圧されそうな少数意見は真理ではないとは絶対に言えない。それをいえば権威が自己の無誤謬性を宣言することになるからだ。現在一般に信じられている多くの意見が未来において拒絶される可能性はいつも確実である。我々の意見を反駁し論破する完全な自由は、我々が行動の自由を目的として我々の意見が正しいと仮定することを許されることである。人間精神の偉大な特性は「人間は誤りを正すことができる」という特性である。人は議論と経験によって自分の誤りを正すことが出来る。そのために自由な議論が保障されなければならない。それにより賢明になれることは人間知性の本性である。自ら討論を求め他人の考えを拝聴することは、自分の判断が正しいと考える権利を持つことである。自由な論議こそが現在において可能な限り真理に近づく道である。疑うことを恐れてひとつの信念を押し付ける方がよっぽど危険である。論破すべき意見が真理であるか、有用であるかとして論争を制限することは誤っている。無謬性の仮定とは、自己の反対者側からの意見を、他の人々に聞かせることなしに、他の人々のためにその問題の決定を行うことである。「官僚の無謬性」とは官僚が優秀なのではなく、間違っていることを公然と知られたくないだけの事である。このため過去には多くの悲劇が起った。神を恐れないソクラテスの処刑、社会を過つとしたマルクス・アウレニウスのキリスト教弾圧、キリスト教会の神教弾圧などである。意見の無謬性を仮定することによって起きた悲劇である。

「真理はいつも勝つ」という格言は甘い虚偽である。真理はいつも負けていたのが歴史であろう。今日意見が違うといって処刑されることは無い時代となったが、法律的迫害は常にある。裁判において神の前に嘘をつかないと誓うことは、逆にいえばキリスト教徒以外は嘘をつくということである。無神論者は虚言を吐くのだろうか。迫害の残滓はイギリス社会においてなお「不寛容」という形で残っている。法律上の刑罰は人に社会的汚名を与えるが、世論は手を汚さないで相手を黙らせる手法を用意している。迎合主義、ご都合主義で精神を眠らせるのである。異端的意見にイギリス人は不寛容であると云う伝統は根強い。しかし異端的意見に対する論議がなくなると精神は停滞し堕落するのである。思想家としてはそれがどのような結論を導こうとも、あくまでおのれの知性に従って行くことこそ第1の責務である。西欧の歴史において社会に衝撃を与えた3つの時代があった。第1は宗教改革の直後の時代である。第2は18世紀前半のフランス・ドイツの啓蒙思想であり、第3はドイツ人文主義の時代であった。真理はいつも公然と議論され批判されることで生き生きとした学説になる。議論されなければ死せる独断に過ぎない。自由な論議は知性を磨いてきた。自然科学の本質的な条件は、常に反証可能であると云うことである。異論が出て進歩したのだ。自分の意見を相対化して反対者の意見を聞いて議論しなければ、問題のありかさえ不確かになる。国家という権威や専門家にお任せにしておいては、我々は提起された問題さえ気がつかないのである。自由な論議が許されないことの弊害は意見の根拠や意味さえ曖昧になり信条が形骸化されることである。(今日においても、何のために誰のために実施する政策なのか、どこに問題があるのかなど十分な議論無しに国会を通過する法案のあまりに多いことか。)

普遍的真理とみなされているキリスト教の教義は、初期キリスト教時代には迫害に耐えて十分に議論されて、砂漠の水のように吸収され広まった。ところが戦場に一人の敵もいなくなるとその教義の上に居眠りを始めた。思考停止状態である。キリスト教の倫理的箴言は人類にとっての最高のギリシャ時代の美徳を一歩も出ていない。それは中世以降にキリスト教が偏狭なユダヤ教的倫理から全人類的倫理であるギリシャローマの欧州的倫理感に変容したからである。それからキリスト教は深い眠りについたのだ。反動、受動、利己的、不寛容、服従のキリスト教説となるのに時間は必要なかった。
自己の経験によって痛感するまではその意味さえ十分に体得できない真理がある。対立する意見が無いと正しい知識が得られない。意見の多様性が人間知性の絶対条件である。反対の意見にもそれなりの真理がふくまれており、両者が真理を含む場合には、真理の妥協というか、真理の追加や置き換えが絶えず行われる。政治においても二つの価値観の対立が必要である。保守と革新がせめぎ合わなければならない。人生の重要な問題においては、真理とは実に反対意見と融和しつつ結合させる問題であるといってもよい。人々が双方の意見に傾聴することを強いられるときには、常に希望がある、一方の意見のみに傾くときには、誤謬は偏見となり、虚偽となる。ということで思想および言論の自由の4つの根拠をまとめると、@相手にも真理があるかもしれないし、自分も間違っているかもしれない。A真理は相反する意見の衝突によってのみ与えられる。B自分の意見が正しいときでも議論を行わないと、問題の意味・根拠さえわからなくなる。C議論が無いとその人の行為に生き生きとした影響がなくなり、形骸化した信条となる。意見の自由な討論には遠慮や手加減、良識は不要、まして権力が議論に介入することは最悪である。たいがい権威ある意見の方があくどい手や虚偽を行う場合が多いので、攻撃する側は不愉快・無礼などの不当行為を気にすることは無い。勢力ある側の罵詈雑言を抑制する方が、反対意見側の罵詈雑言を抑制することより重要である。とはいえ冷静沈着、正直、誇張せず、いかなる事項も隠蔽しない、敬意を表するなどの公の議論に関する道徳はあったほうがいい。

2) 幸福の要素としての個性について

人の能力と個性の多様性は人類の進歩と文化発展の原動力となる。人は自分自身の責任とリスクにおいて自由を実現しなければならないことはいうまでもないが、他人に害を与える行為は制圧される。個性の自由な発展が幸福の主要な要素である。個性を育てる目的は、能力と活力のある個性をもつことであり、そのためには自由と状況が多様である事が必要である。個人の独創力を生む根源である。従来の経験を自己独自の方法でもって利用することは、能力の成熟期に到達した人間の特権である。自分の計画を自ら選択することが、能力を発揮する前提である。それは人間そのものであり自己の知性を発展させることにつながる。精力的に活動する天性は、進歩の原動力である。独自の欲望と衝動を持つ人こそ個性的な人間であるといえる。しかしいまや社j会の力は個性を征服しているが、それは個人の活力の欠乏なのである。新教徒の偏狭な人生観と禁欲主義は萎縮した人間性を作り出した。人間の天性は抑圧されるためにあるのではなく、他の目的のために活躍するためにある。個性の発展は社会発展と同一である。ただ個性だけによって人は発展する。天才の本当の意味である思想と行動における独創性こそが人類の発展の要である。ところが凡庸な精神(世論)が世を支配していると、凡庸な民主制(大衆政治)となる。「英雄待望論」を是認するわけではないが、思想的に卓越した立場にある人のはっきりし示された個性がその傾向を訂正できる。それには不寛容を排して、慣習とはちがう事柄に対して可能な限りの自由の余地を与えることが肝要である。

3) 個人を支配する社会の権威の制限について

この章では、個人の領域と社会の領域の調整に関する一般的・抽象的原則を述べるもので、具体的な法規制論については次章に譲る。ルソーの「社会契約説」は、互いに契約して共同の支配権力の下に人為的結合を形成することにより国家が成立し、国家による法の拘束を受けるという社会契約と服従契約の2種類の合意をいう。J・S・ミルはまずこの社会契約を否定し、そもそも社会形成において社会の中に生きる人々は他人との関係において一定の拘束関係を守らなければならないという歴史性を主張する。第1は相互の利益・権利を害しないという暗黙・法の了解がある。第2に社会またはその構成員を危害と干渉から守るために生じた責務と犠牲について各人が自分の分担を負うことである。人は本来自他の関係において利益を追求しているので、他人を害さないという自由は当然であるが(法律的社会的自由)、自分のみに関する自己配慮の道徳は存在する。人に自己配慮を促すことは専ら確信と説得に頼るしかないのである。軽蔑や嫌悪の的になる迷惑、愚劣な言行には非難、注意、警告やその人との交際を避けるなどの方法がある。残忍な気質、冷酷、悪意と邪険、激情、憤激、支配心、貪欲、高慢、自己中心主義など道徳的な欠陥のことである。社会は幼児や未成年の自身の生活から来る害に対する保護の権利を持っている。酒、煙草、賭博、不潔、ふしだらは進歩の障害物になるので彼らを保護する必要がある。教育期間を終えた成人については、自己配慮に属する行為によって、公衆のための果たすべき配慮さえ出来ないようならば、彼の行為は社会に対する犯罪となりうるのである。公衆に対して明確に損害が存在するなら、問題は個人の自由の領域から外れて、道徳や法律の領域に移されてしかるべきである。

しかしここで問題とする行為は、他人に対して何らの害悪をもなさず、行為者自身に対してのみ害悪を及ぼす行為である。不行跡、不名誉な行為には非難するだけでよい。社会は純粋に個人的な行為には干渉してはならない。もし干渉が行われるなら社会のおせっかいである。これについては宗教的禁忌を遵守しない人への干渉問題は誤る場合が必然である。イスラム教徒がブタを食わないことは非難に当たらない。宗派間の礼拝形式に異を唱えても意味の無いことであろう。同じことが近代の政治形態についてもいえる。民主的な政治制度へ向かう態勢が顕著であるが、公衆が悪とみなす習慣を法で禁じることは愚行である。例えば禁酒法、安息日厳守主義の立法化、モルモン教徒の一夫多妻制の禁止法、そしていかなる社会であっても他の社会に対して文明的であれと強制する権利は持ち合わせていない。アメリカの人権外交は内政干渉との中国政府の反発を招くだけである。

4) 法の適用について

この章は規制や法律の適用の問題を論じる。したがって18世紀前半とはいえ、刑法、民法、商法などなど実に多岐にわたる問題を取り扱っている。今の法の概念で見ると的を得ない議論や古くておかしな議論も多々あるので詳細は記さない。原則を繰り返すと、@個人は彼自身の行為が他人の利害と無関係であれば、社会に対して責任を負わないが、A他人の利益を害する行為には、社会は社会的刑罰または法律的刑罰を必要とするということである。他人の利益を害すといっても、正統な競争は当然許される。自由経済や市場競争、自由貿易などは個人の自由とは関係が無い。だが消費者の自由に対する権利侵害は独占禁止法などで禁じられる。ところが麻薬、農薬の取り締まりにかんするミルの見解(自分を危険にさらす行為は阻止すべきではなく警告に留める)は明らかに時代遅れである。麻薬を吸うのも自己責任にしているからである。反対に酒に関して酩酊者を拘束できるとするミルの見解は正しくない。怠惰による親権放棄、教育放棄、わいせつ罪、売春防止法、暴力団等反社会的行為、個人の賭博は許すが公開賭博場は許さない、禁酒法、煙草禁止と税収入の問題、奴隷労働の禁止、契約解除の自由など「自由を棄てることは自由でない」、結婚の破棄(離婚の自由)と子供の保護、家族への支配権の制限、教育の義務、国家教育の廃止、国家試験の廃止制限、厚生問題では産児制限、生活力の無い若者への結婚制限、国家による産業育成の撤廃、株式会社と地方自治へ国家の干渉を排除など、ある意味ではおかしな議論と斬新な議論、いまでも議論の余地がある議論など面白い話が満載である。日本では当たり前と思われる法規制がミルの目には干渉してはならない事項となっている。日本は自由社会ではないようだ。

そして一番面白い話は、権力を持ちすぎた大きな政府による弊害についてである。政府の干渉を制限すべきであると云う最も重大な理由は、不必要に政府の権力が増大しているからである。様々なる分野の事業が政府が国営で行い、従業員を公務員として雇用し給料を支給するならば、もはや自由な国とはいえない。そして行政機関が能率的に科学的に構成され、官吏の手腕と頭脳が巧妙になるにつれその弊害はいよいよ大きくなっている。国家の終身官僚の地位と給料が潤沢で、最高級の人材を誘引する(アメリカのスポーツ界のように)仕組みが有効に機能するならば、これら官僚はすべての事業に対する支配権を求め始める。膨大な官僚群が養われ、すべての事業に介入してくるなら、社会の人は何もかも官僚群に期待するだけの哀れな羊になってしまう。皇帝制が存在する時にはこれらの官僚群の育成に努め、国家権力の維持に利用した。その内に実施能力に長けた官僚は王権さえ手中の玉に替えた。皇帝といえど官僚なくしては何一つ出来なくなったからだ。そして単なる生殖器官に堕した。その残滓というべき官僚群が民主国家を蝕んでいる。政体、政権を超えて官僚は存在する。まるで皇帝のように。革命によって主権者に上った民衆が官僚に向かって命令を出して、以前と同じような行政が万事滞りなく進行する。民衆が弱ければ弱いほど官僚は強いのである。フランスでは政府がなくなっても軍事組織はどこでも生まれるほど指揮官がいる、アメリカでは中央政府がなくても即座に地方政府が機能し取って代る能力を持つ。万事官僚を通じてなされるところでは、官僚が真に反対することは決してやり遂げることが出来ない。(平成の日本においてしかりである) 官僚組織は奴隷組織であるから、官僚が国を牛耳ると全国民の奴隷化が出来る。(戦前の日本のように) 官僚役人は怠惰な慣例のなかに埋没しようとする絶えざる誘惑の下にある。裁判所の判例主義、役所の前例主義がその典型である。官僚制を克服するには、ひとつには統治者が統治者以外の人々から絶えず厳しい批評を受けることである。二つには官僚に政治的統治に必要な能力を形成する職務に就けてはいけないことである。(事務次官会議の廃止、事務次官・審議官・局長らの権限剥奪) 3つには国民の活力に関する事業のあまりに多くを官僚機構へ持ち込まないことである。第4に官僚の地位給料を下げることである。優雅な天下りを廃止することである。第5に政府機能を散在させることである。統制された地方自治ではなく、税と権力の分散である。ミルの論点は今でも十分に生きている日本はよほど後れた国である。それは民衆の力が弱いことで、民力の未成熟な東洋国の典型である。


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