100407

清水徹 著 「ヴァレリー」

  岩波新書(2010年3月)

ヴァレリーの愛した四人の女性遍歴にみる知性と感性の相剋

第1次世界大戦が終ってから第2次世界大戦が始まる前の約20年は、近代フランス文学の黄金期であった。19世紀末の「デカダン」派マラルメ、ランボウ、アラン・ポーらの影響を色濃く受けたフランス印象派は、「繻子の靴」の劇作家ポール・クローデル、「贋金つかい」の小説家アンドレ・ジッド、「失われた時を求めて」の小説家マルセル・ブルースト、そして「若きパルク」の詩人であり「精神の危機」の文明評論家でもあったポール・ヴァレリーらが活躍した時代であった。19世紀的な自然主義やリアリズムからまったく離なれた、内面性と精神性の深い作品を創造し20世紀文学が花開いた時期であった。この輝かしい時代に活躍したポール・ヴァレリー(1971年−1945年)は20世紀前半の「フランスの最高の知性」と謳われた。フランスの輝かしい文化関係の公職につき、その鋭敏にして繊細、機知に富む分析、明晰な文体は批評家の最高峰ともてはやされた。ポール・ヴァレリーの生涯をざっと眺めておこう。1871年、地中海沿岸の港町セットに生まれる。母ファニーはトリエステ生まれのイタリア人。1884年、モンペリエに移住。この頃から文学に関心を持ち始め詩を書き始める。1887年3月、父バルテレミー死去。1888年、モンペリエ大学法学部入学。少年時代はポーやボードレール、ランボーの詩に熱中していたようである。1889年頃、ユイスマンスの『さかしま』を耽読し、そこに引用されていたマラルメの未完の詩『エロディヤード』の断片に魅せられる。アンドレ・ジッドと知り合い、終生その友情関係を結ぶ。1891年頃、詩作が活発になり、ルイス主宰の同人誌『ラ・コンク』創刊号に『ナルシス語る』を投稿する。1892年9月から11月、母方の親戚の住むジェノヴァに滞在し、この頃詩人としての才能を疑い、ヴァレリーは次第に文学から遠ざかった。そして知性のみを崇拝することを決意した。この決意はジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時期とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。そして1894年から『カイエ』と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量となった。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『ムッシュー・テストと劇場で』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。1917年4月、ジッドの勧めにより創作していた『若きパルク』をNRF誌上で発表し、一躍名声を勝ち得る。数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われ、第三共和政の詩人としてその名を確固たるものしていく。日本では、小林秀雄訳「テスト氏」が早くから読まれ、詩は堀口大學が訳している。戦前から佐藤正彰等により訳され、『全集』は筑摩書房で刊行された。

私はヴァレリーの作品「テスト氏」は「小林秀雄全作品」第六巻の翻訳で読んだ。小林氏は「テスト氏の方法」において「日ごろ接している論文を良く注意して読むと、明快と言われているものも、実は雑多な言語の習慣上の意味に関する曖昧極まる暗黙な妥協によって、僅かに外観上の論理的厳正を保ってるに過ぎないことが分かる。ヴァレリィはこの種の曖昧さを極度にきらった。使用する語彙から伝統や習慣を取り除き、純粋な論理的運動のみを担うように強制されている。従って表現の曖昧さから来る難解さはない。扱う問題自体の難解さに由来する。」という。小林氏はさらに「ヴァレリィは哲学に関しては無関心を装ったが、ただデカルトの『方法論叙説』は唯一激賞する作品である。デカルトは明晰な著者、ヴァレリィは晦渋な著者という定評であるが、ヴァレリーは正確という激しい病に悩んでいた。理解したいという狂気じみた欲望の極限をめがけていたので表現がそうなっただけのことであろう。そこでヴァレリィが読んだものは「方法論叙説の序曲にあるデカルトの探求の最初においてデカルトが眼前にいることが見えた。自我という言葉に僕らのデカルトがいるのであった。そして『テスト氏』ではなぜにテスト氏は存在し得ないのか。この疑問が諸君をテスト氏にしてしまうのである。彼こそ可能性の魔自体に他ならない。」つまり人間がそのまま純化して「精神」になることに不思議はない。疑う力が唯一疑えないものというところまで、精神の力を行使する人、それがテスト氏なのだがそういう人は稀だ。テスト氏はデカルトの「我考える」に相当すると小林氏は考えるようだ。 とにかくヴァレリーにしても小林秀雄氏にしても文章が難渋なことで有名である。これを向こうを唸らせる機知というのか、商売上のテクニックというのか一筋縄では理解できないという特徴を持つ。常識を一度ひっくり返えすことが目的だからだ。ヴェレリーは文藝批評においては常識が持つ作者感、表面上の作者像、些事を取り上げる「伝記批評」を徹底的に排除した。「知性」を自らの偶像としているとヴァレリー自身が繰り返したことに惑わされて、ヴァレリーを「知性の作家」としか見ない常識が成立してきた。しかし南フランスの地中海育ちのヴァレリーには夢見る感性が備わっていた。ポール・クローデルは「ヴァレリーは官能性の詩人」だと断言している。本書はヴァレリーの生涯における4回以上の熱烈な恋愛事件を重視して、舞い上がる官能と揺れ動く感性の波瀾のなかから、それに抗して彼の知性が作品を生み出し、そのことによって感性の危機を超えてきた一連の姿を描くのである。そして極めて即物的な「伝記批評」を試みた。惚れやすい男が何度も恋に落ちて、狂おしい精神の安定を求めるために「知性的作品」を生み出す過程を辿ろうというのだ。本書は作品論ではなく、作者の伝記論であるので、前に書いたヴァレリー氏のプロフィールを知っておくことは本書の見通しを与えてくれるだろう。

ロヴィラ夫人への思慕と知性の確立 「ダヴィンチの方法論序説」・「テスト氏」

1889年ヴァレリー17歳の頃南フランスのモンペリエ市の海岸パラヴァスで、20歳ほども違うロヴィラ男爵夫人を遠くで見かけて、恋をした。この恋はおそらく声も掛けられず遠くで憧れるだけの、一方的な片思いに過ぎなかった。にきび盛りの少年によくある話だ。ロヴィラ夫人はその事に気付きもしなかったであろう。しかし当のヴェレリーは狂おしいほどに恋焦がれ、恋文を書いては机の引き出しに入れるだけであった。ヴァレリーは12,3歳の頃から詩作をしていたが、マラルメの精妙で難解な詩に憧れ、ランボーの詩のあまりに及びがたい完成ぶりに詩を書くという生き方への自信をなくしていった。しかしマラルメのサロン「火曜会」には欠かさず参加し、マラルメはヴァレリーの才能を愛していた。1891年から1894年のころからヴァレリーはいわゆる青春の危機を迎え、ロヴィア夫人への想いと自身の才能に関して苦闘が始まった。そして1892年10月母方の親戚がいるイタリアのジェノヴァに夏休みを利用して滞在した夜、大嵐に会い精神に変調をきたした。その苦闘から立ち直るために、ヴァレリーは知性の人たらんと志し、科学書や数学に熱中し始めた。1984年には大学ノートの毎朝自らの様々な考察の断章をメモする習慣を課した。様々な心象を考察し、分析し分類することである。それを「カイエ」(ノート)と名づけた。この習慣は生涯続きそのメモの量は膨大となった。万能の人レオナルド・ダ・ヴィンチの知的な方法論を自らの心象から再構築する「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」を1895年に著わした。翌年1896年にはダ・ヴィンチの人となりを具体化した小説「ムッシュ・テストと劇場で」を著わし、目立たない知的な巨人を造形した。この2作を書くことで、感性の危機を乗越え、辛うじて精神の平穏を手に入れたヴァレリーは知未知な職業に憧れて、1895年陸軍省編集官となり、1900年にマラルメの紹介でジャニーと結婚した。うんざりするほど退屈な陸軍省の役人生活を辞めて、実業家ルぺーの私設秘書になり地道な勤め人のプチブル的生活の中で、毎朝の詩作の断章を「カイエ」に書き留める生活が続いた。そうした坦々たる生活が1894年から20年ほど続くのである。1894年ロンドンに滞在して世界を見た。その時の経験でドイツの発展を目の当たりに見て、1897年「ドイツの制覇」という論文を書いた。ひとつの国が発展するには天才はいらない、理性という方法論が規律ある集団を成す国民を作るという考えである。知的であろうとするとは方法論的に生きることだという。1902−3年ごろはヴァレリーは全く文学から離れた心境にさ迷っていた。

「若きバルク」 詩人としての成功とカトリーヌとの愛欲の葛藤

1912年友人アンドレ・ジッドがNRF誌を創刊し、ヴァレリ−の詩扁をまとめる計画を持ちかけた。何気なくその話に乗ったヴァレリーが旧作の詩篇を見ているうちに、旧作の弱点に築いて改善したい欲望を持つようになった。ヴァレリーの中で旧作の書き直しと新しい詩作が同時に進行していったのである。それは1912年から始まり5年の歳月を要して長編詩「若きバルク」として結実するのだが、その間に1914年第1次世界大戦となり、若くはないヴァレリーは(43歳)は戦線に参加できなかった愛国精神から精神的な混乱に落ち入りこれを詩作で乗越えようと決意した。「若きバルク」は512行の長詩となる作品であるが、その核心に「蛇のイメージ」があり、女が蛇なのだという詩的造型がこの作品の象徴性を高めている。ヴァレリーは、詩法にのっとった細やかな諧調と厳密な韻律と精密な統辞法、細密に選び抜かれた象徴性を形成する語彙群、変化する詩的物語の精妙な展開に美をつくした。1916年連合軍はヴェルダンの激戦でドイツ軍に勝利を収め、ヴァレリーは詩の最終局面を「海から昇る太陽」に取り替えたという。「至高のブナの樹」は「フランスの最高価値」と同じ意味でこれが守られたという喜びを前面に表した。「若きバルク」は1917年4月に刊行され、難解な象徴詩であるが社交界と青年の間に朗読会が生まれ歓迎され受け入れられた。無名のポール・ヴァレリーは一躍して当代きっての大詩人としての評判を獲得した。1921年には現代七大詩人の第1位に選ばれた。この詩の大成功とともにほとばしり出たヴァレリーの詩の泉は、1917年「曙」、1918年「篠懸の樹に」、1920年「海辺の墓地」、「オード集」、1922年「魅惑」を次々に発表してフランスきっての象徴詩人ともてはやされた。又1919年「精神の危機」で第1次世界大戦後の近代の混乱と精神上の危機を描き、1920年「純粋詩」論争を提起し批評家として地位も確立した。

こうして一気に売れっ子となった49歳の詩人は文学界とフランス社交界にもてはやされ、多くの夫人達と交際する機会が多くなった。その中の1人にカトリーヌ・ポッジという貴婦人と知り合った。彼女は自己流に語学、自然科学を学び、大学入学資格を37歳で取得するほどの勉強家であった。意志が強く人並み優れて知的な女性であったが、すでに結核をわずらって夫とは別居中であった。ヴァレリーは彼の「カイエ」を渡してその整理と分類などを頼めるほど、知的レベルの高い女性であった。知的に深い対話が出来るこの二人は出会って直ぐに燃え上がった。ふたりにとって知性と性愛の溶け合った満足を与えたし、ヴァレリーにとってカトリーヌがいるだけで創造的思索が溢れてくるのであった。1920年に二人が出会い、1928年に訣別するまで順風で続いたわけではなく、ご他聞に漏れず二人の性格が軋みをあげて対立するまでに時間はかからなかった。ヴァレリーが政治的陰謀が渦巻く貴婦人のサロンに出入りすることに彼女の潔癖性が許さなかった。彼女の敬虔な宗教心とヴァレリーの無信仰懐疑主義は日常生活の違和感を伴った。ヴァエリーの知的パターナリズムの下で彼女は我慢ならなかったようで、些細な食い違いから二人の愛は親密な出会いととげとげしい諍いが交互に繰り返され、激しい傷つけあいと愛欲の日々が交錯する日々が続いた。その愛と争いの内的混乱の中で、ヴァレリーは困難な仕事に没頭することで精神の平和を得ようとした。1920年プラトンとパイドロスの対話集「エウパリノス」を著し、建築家の作るという夢想と知性の関係を論じた。1921年プラトンとエリュクシマコスとの対話「魂と舞踏」を著わし、愛を表す踊りについて語った。対話形式は思索の過程を表現するには適した形式であったといえる。1928年カトリーヌとの決定的な訣別が訪れたが、女を見ると恋心が起きてひたすら手紙を書いて口説くという習性は生涯なくならなかった。

ルネ・ヴォーティエへの片想いと「固定観念」

1931年1月若い女流彫刻家ルネ・ヴォーティーエから胸像を作らせて欲しいという申し出を受けた。胸像を製作する過程で彼女の手が自分の像に触れるたびに性的興奮を覚えるという変な感情の中でヴァレリーは彼女に恋情を抱いたが、なにせヴァレリーは60歳で彼女とは30歳ほど離れており、しかも彼女には熟愛中の若い恋人がいた。ヴァレリーの手紙は全く無視され、彼女の気持ちは微動だにしなかった。ヴァレリーの老いらくの恋は報われることがない完敗であったのである。彼は苦しみの中にまたしても救いを作品に求めた。1932年「固定観念」を書いた。内面の苦しみからの脱却という製作動機が前半の1/3を占め、後半2/3は冗談や洒落や暗示に満ちた高速度の対話である。満たされぬままヴァレリーは雑誌に掲載された「ヴァレリー論」の著書エミリー・にヌーレという女性と知り合う。それはヴァレリーに対する敬愛に過ぎない心の隙間の癒しであってつくづく孤独感に苛まれたヴァレリーは、1938年ヌーレが上梓しようとしたヴァレリー論に「1詩篇の思い出断章」というエッセーを書いて巻頭に置いた。

ジャンヌ・ロヴィトンとの恋の天秤と最後の詩集

1937年「詩学序説第一講」の講演会でジャンヌ・ロヴィトンという女性と知り合った。当時33歳の「現代最後のロマネスクな女性」と評される古風な顔を持つ貴婦人であった。ヴァレリーは66歳になっていたが、彼にとって最後の恋人となった人である。彼女の父は出版社を経営し、彼女は結婚したが直ぐ離婚をしパリ16区のアソプション街に美しいしだれ柳のある庭を持つ邸宅に住んでいた。ジャンヌは作家になりたいという希望と結婚をしたいという希望をもって、同時に何人もの男と愛情関係にあり、しかも男同士には気をつかないように付き合う術に長けた夫人であったという。いわゆる複雑な女にヴァレリーは恋をしたのだ。夫人がヴァレリーに近づいたのは前者の目論見からであり、ヴァレリーは当然結婚相手ではなかった。毎日ヴァレリーはジャンヌに手紙を書いた。ヴァレリーにとってそれはそれで幸せな老いらくの恋であったのだろう。恋が続く限り創作意欲が湧くという構図は、永井荷風の場合と同じである。或いは生きるということは恋をするということと同意味であったのかもしれない。彼はジャンヌへの愛に創造意欲を掻き立てられ3度目の詩の季節を迎えた。1938年から1945年まで総計約百数十扁の詩を書いた。愛を詠う詩「コロナ」、軽やかな「折節の詩」、二つをまとめた詩集「コロニラ」を生んだ。「ナルシス」、「しだれ柳」は有名である。こうした愛の日々は第2次世界大戦のドイツ軍のフランス占領中も続いたが、ついに1945年4月ジャンヌは結婚をするというで破局を告げた。そして同時にヴァレリー自身も病の床に臥して7月20日になくなった。恋が明日への希望を掻き立て、それで生きてきたヴァレリーにとって、恋の終わりは74歳の年老いた身にとって死と同じになってしまったようだ。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system