100405

鶴見俊輔著 「思い出袋」

  岩波新書(2010年3月)

米国体験と戦争体験を出会った人々と本との思い出の中に語る

鶴見俊輔とは我々の年代ではニューレフト(新左翼)の代表みたいなところがあって、しかも組織によらない運動つまり「ベ平連」の活動者として小田実らと一線にいた評論家であった。私も若いころは、「思想の科学」という小難しい政治思想雑誌の愛読者であった。全共闘と違うところは暴力を使用しないところで反政府運動というよりは、政府への異議申し立て派というべきものと理解していた。鶴見俊輔氏のプロフィールを復習しておこう。鶴見 俊輔(1922年6月25日 東京麻布生まれ)は、評論家、哲学者、サブカルチャー研究者、政治運動家といわれる。母方の外祖父は後藤新平。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校のときから万引き、窃盗などの悪事を繰り返したという。10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられた。当時極力不良少年であろうとした。小学校以来の友人に文部大臣永井道雄がいた。俊輔の将来を心配した父の計らいで、15歳の時1938年に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス・スクールに入学。大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーヴァード大学に進学して哲学を専攻した。この頃、ハーヴァードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められ、都留は生涯の師となった。1941年12月8日に日米開戦。1942年3月末、大学の第3学年前学期が終わったとき無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、拘置所から提出した卒論が受理され、19歳のときハーバードを卒業。1942年6月、自分の意志で日米交換船グリップスホルム号と浅間丸に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。第二次世界大戦時には海軍軍属に志願し、1943年インドネシアのジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。1944年12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。戦後、『思想の科学』を創刊し、都留重人、丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。桑原武夫の推薦で京大人文科学研究所助教授となり、米国の大学に招聘されたが、思想から米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。ベトナム戦争期は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の中心的な人物として活躍した。ただしマルクス主義者ではなく、クロポトキンの無政府主義者であったという。鶴見俊輔氏の読書量と記憶力はすさまじいという噂である。大衆文化の表現形式として漫画を重視し、漫画評論の先駆けの一人となった。水木しげる氏の「河童の三平」を愛読書ナンバー5にあげる。2004年 大江健三郎や小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる 。著書をいちいち挙げると膨大になるので省略する。

参考までに鶴見俊輔氏のバックボーンをなすといわれる、「プラグマティズム」と「無政府主義」なる哲学用語を見てみよう。プラグマティズム (Pragmatism) とは実用主義、道具主義、実際主義とも訳されることのある考え方。元々は、経験不可能な事柄の真理を考えることはできないという点でイギリス経験論を引き継ぎ、物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。20世紀初頭のアメリカ思潮の主流となり、のちにアメリカ市民社会の中で通俗化され、ビジネスや政治、社会についての見方として広く一般化してきたもの。行為・実行・実験・活動を表すプラグマというギリシャ語の意が採用され、思想が行為と密接に関係する方法が強調されたといえる。プラグマティズムは功利主義的(倫理)・実証主義的(論理)・自然主義的(心理)の3つの傾向を持ち、個々のプラグマティストはこの3つの傾向を様々な割合で結合している。
アナキズムまたはアナーキズム (Anarchism) は、国家を廃絶し、自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立を主張する思想。社会主義の流れを汲むものもあれば、個人主義の流れを汲むものもある。日本語では、無政府主義と訳される。自由至上社会主義、リバタリアン社会主義も同意味。政治思想としては、一般に左翼に属する。しかし、その内容は多様であり、一個の思想というより、複数の思想の共通形態と言えよう。たとえば歴史上のアナキズムの古典とされるプルードン、バクーニン、クロポトキンの三人においてさえ、思想はまったく異質である。鶴見氏が傾倒したといわれるクロポトキン主義とは、相互扶助による社会を構想したクロポトキンのアナキズム(クロポトキン主義、"無政府共産主義")は徹底して反ヘーゲル的である。彼らに共通するのは思想内容ではなく、自由を強固に求めるというアナキズム的傾向である。

本書を出版した2010年3月時点で鶴見俊輔氏は88歳であり相当の高齢である。本書は岩波書店発行の「図書」というパンフレット程度の月刊誌(年購読費1000円という安さなので私も愛読者に一人。肩のこらないエッセイなど知恵の小袋である)に「一月一話」として連載され話を集大成し「結び」を書下して岩波新書として出版された。2002年著者80歳から2009年著者87歳までの7年間にわたって綴られている。1年分で12話、全部で84話あり、1話が四百字詰め原稿用紙3枚で出来ており、相互関係もあまりなく気楽に読める随筆集となっている。したがってテーマを追い詰めるタイプの書物ではないので、記憶を辿って著者の人と書物との思い出話である。上に書いた著者のプロフィールは本書のいたるところに出てきて、また何回も繰り返し同じ話がでる(全く同じ文章で繰り返されるので、恐らく著者はカット&ペーストで書いたのであろうと推測される)のでまるで老人の繰言を聞いているようである。「図書」の連載ものでは、過去の文章を覚えている人はいないだろうが、この本のように1冊内で同じ話が寸分違わず3〜5回以上繰り返されるとちょっといやになる(微妙に文脈が違うといえないこともないが)。といって編集者が著者にカットを要求も出来なかったのだろう。そこで私は著者の人生エピソードは一切省略し、枕の話は導入に過ぎないのでこれも無視し、1話ごとに言いたかったことのエッセンスのみを凝縮させる試みをしたい。この短い話でも著者は大体3回くらいはひねって展開させる。いわゆる起承転結であるが、それほど単純ではない。結局枕の話は無視するに限る。水の流れがキラキラと違う色を見せるようなものだ。あまり連環にこだわると、何が一番言いたかったのか曖昧になるのだ。最後のきらっとひかる言葉だけを大事にしたい。

2002年「はりまぜ帖」
@記憶の中の老人:
明治国家成立以前、ジョン万次郎の存在は日本人が大きな未来を持っていたことを示す。日本人は1853年から1905年まで(日露戦争)まで創造的な道を歩んだ。
A学校という階段:
朝鮮合併に顔面で反対し続けた朴烈と鈴木ふみ子(恩赦を拒否し、死刑)は明治国家の工夫した学校教育に頼らずに、自分自身の思想を持った。
B状況から学ぶ:
満州派遣軍総司令官大山巌には世界の状況から汲み取る力を備えた人、参謀総長の児玉源太郎には勝てない日露戦争を闘う判断力が明確にあった。
C戦中の杖:
江戸川乱歩は軍国主義に潰されない作家であった。「はりまぜ帖」を作って戦争中を生きた。(永井荷風の「断腸亭日乗」に同じ)
Dミス・マーブルの方法:
アガサクリスティの書いた女流探偵ミス・マーブルは天下のことを見分ける方法を持っていた。
E途中下車:
私は自分の中の不良少年をいつまでも大切にしている。少年時代からの友達永井道男、一宮三郎君今はいない。
Fさかさ屏風:
自分の学生達は自分より優れていると感じる。この若い人たちと会うことが出来たのが、私にとって大学の持つ意味である。ハンセン氏病回復者の家を作った柴地則之、那須正尚君。
G選集の編者:
モリスン編「5種類の文章」、アーサー・クーチ編「オックスフォード英語散文選」
H映画の寿命:
女優グレタ・ガルボ「名声と欲望が私を滅ぼした」といえる人はすばらしい。無声映画の俳優は大方トーキーになって沈んだ。
Iその声が届く:
賢い者の移り行く現代日本史を書くのではなく、小沢信男「裸の大将」は知恵遅れの自然児の心を通して戦中・戦後を描いた。
J小さな新聞:
日本が戦争をやめてから、海軍武官のなかにインドネシア独立戦争を手助けした動きがあった。前田精、吉住留五郎
K集まったものの行方:
柳宗悦「募集物語」自分の中には様々な要素が組み合わさっている、ひとつの装い。
2003年「ぼんやりした記憶」
@駆けくらべ:
自分にとってしっかりした思想というものはあると思う。この戦争で日本は負けることは分っていた。
Aつたわる・つたわらない:
定義にこだわると難渋する。新渡戸稲造の自分流の定義でする学問の楽しさ。
Bあふれ出るもの:
自由闊達な頭脳は定義からあふれ出る。人と物の境界を取り掃払うアニミズム。
Cピンでとめられるか:
原爆投下が今では、東京戦争裁判のうしろにアメリカの文明に反する行為がはっきり見える。
Dわかれ道のあるままに:
夏目漱石が「文学論」で示した課題は、半世紀後にリチャールズの「意味の意味」論につながっている。
Eオール・タイム・ベスト:
片岡義男「オール・タイム・ベスト」とは自分のこれまで読んだ本のベストを挙げよということだ。ベストテンは@水木しげる「河童の三平」A岩明均「寄生獣」B宮沢賢治「春と修羅」Cオーエン「ソングオブソング」D魯迅「故事新編」E司馬遷「史記」F夏目漱石「行人」Gトルストイ「神父セルゲイ」Hドストエフスキー「カラマンゾフの兄弟」Iマーク・トウエン「ハックスベリー・フィン」なおこれは正気の逆順であるという。
Fかわらぬものさし:
「何とかはもう古い」という、流行を追うように文明は階段状に上ってゆくという考えが日本人知識人には強い。ところが文明人の帝国主義が滅ぼした先住民の立場から文明批判を続けるクローバー家もいる。
Gゆっくりからはじまる:
2001年同時テロの後アメリカは全体主義に傾いた。すこしづつ軍国主義に回帰する今、ゆっくりと歩くことが文明批判を確実に準備する。
H政治史の文脈:
人を殺したくないという感情は、「良心的兵役拒否」、「反日分子」という言葉よりも前にある。
Iはみだしについて:
作田啓一は太宰治の文学の本質は東京人と田舎人の間にある「恥じらい」であるという。「甘え」も日本文化の視点になる。
J犀のように歩め:
釈迦の言葉に「犀のように歩め」があるが、灯台となるような道を照らす人になれということである。編集者もそうだ、目利きが少なくなった。
Kポーの逆まわし:
ただでくの坊としての自分があるという感覚が年取った自分の前にある。
2004年「自分用の索引」
@記憶を編みなおす:
記憶を失う恐怖は年を取れば誰にでもある。何から忘れてゆくのかはその人の考えの根本にある。柳田国男は地名が命だ、鶴見俊輔は人の名が命だ。索引を作って忘れないように勤めよう。
Aあだ名からはじめて:
あだ名は人間認識を蒸留して煮詰めるようなものだ。記憶にしっかりと固定される。
B弔辞:
吉本隆明「追悼私記」に三島由紀夫の「知行一致」を烈しく非難した。鶴見俊輔はまだ迷っている。
Cしられない努力:
小学校の校長先生はジョン・デューイのプラグマティズムが生きていた。日本のプラグマティズムは夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦に深い影響を与えた。
Dあだ名:
小学校のクラス42人のあだ名を唱えることは私なりの葬式の儀式である。
E反動の思想:
戦争中ジャワでは自分を死んだものとして玉砕ばかりを考えていた。これを丸山真男は「反動的人間」という。
F先祖さがし:
ハーバード・リード「緑の子」には自分以外の何かを見つめて細々と生きる人がいる。自分を何かに移すことでどのような境遇でも生きられる。
G親しくなる友人:
遺稿「中井英夫戦中日記」はただ戦争を呪う言葉で埋められている。戦争中と戦後できれいに転向して軍国主義と民主主義を生きてきた国民の意見に抵抗する力がある。
H夏休みが終って:
日本人は明治以来先生の期待する答案を書くことを是とし、いまや米国を師としている。無着成恭は点数によらない教育運動を続けて、教育界を去った。
I自著自注:
草野比佐男「老いて蹌踉」で自分を失う恐怖を滑稽に歌っている。若い頃は自分に立脚することを信念としたが、いまや自分がはっきりしない。他人と交じって、野の隅に立つ日がくる。
J内部に住みつく外部:
どうして大本営発表の虚報が現れたのか。虚報を作ろうとして作ったからだ。
K悲しい結果:
童話には悲しい末路に満ちている。悲しい結果は見たくないけれどあるんだよ。
2005年「使わなかった言葉」
@言葉は使いよう:
言葉はもう覚えられないが、使い方が大切だ。韓国の死刑囚の詩人金芝河を励ます運動は彼を救えなかったが、彼に励まされた。
A人語を越える夢:
英国の作家ハドソンの自伝は戦前古在由重氏と寿岳文章夫婦の反戦文学を結びつけた。「緑の館」は人間の種を超えた生物の付き合いで有名になったがいまや忘れられている。
B誇りという言葉:
鶴見俊輔が誇りに思える人は永井道男、松本サリン事件で一時容疑者と疑われた被害者河野義行氏である。国家の身勝手な行為に毅然とした態度に共感するからだ。
C金鶴泳「凍える口」と日本:
日本政府の朝鮮人差別は戦中戦後も長く残った。金鶴泳「凍える口」は差別される者から日本語と日本社会を映し出す。
D夢で出会う言葉:
「一寸ぜいたくなんですが」とか「もったいない」という優しい日本語が外国で語られている。
E言葉のうしろにある言葉:
小学校の校長先生の訓示が短いことで歓迎されたが、これはデューイのプログマティズム教育論の影響からきている。デューイは平和論者であった。
F「もし」が禁じられたるとき:
日露戦争の国家戦略を検討した京都岡崎「無隣庵」会議は、もし日本が負けたらという条件命題から始まった。日露戦争が終って国論の中から「もし」がなくなっていった。日本政府は日露戦争までは賢人であったが、それ以降は太平洋戦争に向かって実は火事場泥棒に過ぎなかったのだけれど「不敗」の考えに侵された。
G自分の中の知らない言葉:
アメリカ先住民の失われた言葉が呪文のように、意味の分らない言葉が自分を元気つけることがある。
H翻訳のすきま:
アイデアリズムを「観念論」と訳すか、「理想主義」と訳すか。哲学用語辞典から自分勝手に採用した結果の失敗である。
I言葉にあらわれる洞察:
鶴見良行氏の見聞録を読んで、見聞に洞察力を加える「アキューメン」という言葉を思い出した。
J耳順:
60歳を「耳順」というが、その人のいうことをよく聞いて、さらに自分に適切な意味を引き出すことである。
K不在のままはたらく言葉:
今の日本のあり方には望みを託することは出来ない。日露戦争までの日本国家形成の力を秘めた時代そして日本文学に眼を凝らしてゆきたい。明治は偉かった。
2006年「そのとき」
@彼は足をふみだした:
北アメリカの先住民族ヤヒ族を描いたアルフレッド・クローバとその一家の物語は、日中戦争に反対した寿岳文章一家に似ているという。他の民族を抑圧し殺しつくしたアメリカ人、先住民族の尊敬すべき知恵を比較する。
Aふたつの事件:
断じて国家を絶対化しない立場を選ぼう。 B大きくつかむ力:
日米開戦にいたる日本の政治指導者の愚かさ
C1904年の非戦論:
1904年日露戦争開始のときの非戦運動は、内村鑑三、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、石川三四郎、与謝野晶子らの立場の異なる人々によって唱えられた。
Dはじまりの一滴:
戦後、中井正一、武谷三男、久野収、新村猛、真下信一らは「人民戦線」運動の流れをくむものである。いかなる政党にも属さない運動、それは京都の人民戦線は独自の運動であった。鶴見もその流れにいた。
E雑談の役割:
鶴見には友人は少ないが、敬意を持てる友人に丸山真男氏がいる。しかし今では友人より隣人という感覚が大事だと分った。
F内面の劇場:
自分は平和を守る側に立って生きたいと思うが、言葉にならない内面のせめぎあいは生きている限り続く。それが言葉で表現される思想を持続させているのだろう。
Gできなかった問題:
出来なかった問題こそが心に残る。問題を抱えている限り考えて居る事になるのだから。
H日本教育史外伝:
無着成恭市の教育には先生と生徒が互いの知恵を出しあう場所がある。試験の点数を廃止し、生徒の自問自答を育てる道があった。今の教育にはそれがない。
I米国とぎれとぎれ:
米国の世界唯一の軍事力はもはや内部からそれに抵抗することはよほどの精神力を持たねばならない。
J見えない募集:
目に見えない事物を見ることは、永遠の一部分となる。
K自分を保つ道:
川上弘美の文体は、本の中に入って自他がわからなくなる状態から来ている。それは自意識の喪失ではなく、自己を保つ道である。
2007年「戦中の日々」
@うわさの中で育つ:
私は85歳の生涯を戦争の噂の中で暮らした。自分が属する日本国が常に正しいと感じる考えはない。
A途中点:
アメリカで日米開戦を巡って、都留重人は日米の良識を信じて開戦はないといったが、私は政治家が知恵のある人には見えなかったので、戦争になるだろうと予感した。
B記憶の中で育つ:
推理小説家中井正一氏は鶴見の同級生である。彼の戦中日記「彼方より」は戦争を呪う言葉で満ちている。
Cなぜ交換船にのったのか:
日米捕虜交換船に乗ったのは、戦争をしている日本政府に反対であろうと、自分の国に戻る気持ちに変わりはないからだ。
D私の求めるもの:
シンガポールの軍港の中で見た夢は、戦争の外に出たいということである。
E脱走の夢:
ジャワで敵側放送を受信し新聞を作る仕事を軍嘱としてやっている間、脱走が夢であった。
F戦記を読む:
古川高麗氏の戦記を読むと、中国大陸を引きずり回され、戦争が終ると戦犯として収容所におかれる記録である。
G「トゥーランドット姫」:
ジャワで二度胸部カリエスで手術したときの看護婦の思い出。
H「大東亜戦争」はどこにあったのか:
吉住留五郎は武官府の職員だったが、戦争が終るとインドネシア義勇軍に参加した。インドネシアの独立に加担した日本兵は何人かいた。
I歴史の影:
2008年3月横浜事件再審請求を最高裁は拒絶した。特高がでっちあげた共産党再建計画であった。公下千時忠の判決の不当性を日本人は背負って生きなければならない。
Jおたがい:
シンガポール軍港の船底で一緒だった人々は束の間の同行者だった。彼らは物に執着がない明るい人々の一群だった。
K私のドイツ語:
ドイツ語は人生で2度しか使っていない。アウシェヴィッツ収容所見学にポーランド人運転手が連れて行ってくれた時である。この悲惨な場所に来てともに考えてくれた日本人への感謝なのだろう。
2008年「アメリカ 内と外から」
@暴風の夜:
アメリカに留学した当時、私は全く英語は出来なかった。予備校に通ってはいたが英語はいつも白紙で出した。これでは入学共通試験は覚束ない状態だ。
A火星からの侵入:
どっと熱が出て1週間ほどして正常に戻った時、英語が分った。その代り日本語が出なかった。そして誰でも無試験で入れるハーヴァード大学夏季学校に入学した。
Bマイ・アメリカン・ファミリー:
留学中お世話になったのが、チャールズ・ヤングの一家に人々である。いまでもマイ・アメリカン・ファミリーとして敬愛している。
C日米開戦:
日米開戦を迎え、チャールズ・ヤングは戦争を超えて付き合いたいと申し出たが、私には彼には懐かしい思い出だけで、憎しみ会うことはなかった。
D体験から読み直す:
米国史を読んで1865年の南北戦争後黒人に選挙権が与えられたというのはうそである事が分った。実質選挙することは不可能であった。それはつい最近まで市民権運動の黒人指導者が相継いで暗殺されたことでも明らかだ。
E岩の上の読みきかせ:
アイスランド共和国の誕生は930年。岩の上での憲法承認会議の後である。
F子のたまわく:
分らなくても読むという日本人の習慣は論語からきている。それで明治以降の西洋化が進んだのであろう。
Gメキシコから米国を見る:
米国がメキシコから騙して領土を奪って以来、メキシコで英語を話すと白眼視される。
H古代の王国:
水木しげる「河童の三平」に描かれた水底にある河童の王国は、世界中の様々な生活風景とどこか共通点がある。
I対話をかわす場所:
私は亡くなった河合隼雄氏と繰り返し話をしたい。人々が人に出会う大きな場所をリンボといおう。
J国家群としての世界の中で:
カナダ東部にある先住民トーホーク族は言語を復活し、子弟を大学へ送り今なお民族独立の夢を持っている。カナダにはアメリカの迫害や日本での差別から遁れ住む人がいる。
Kもてあそばれた人間:
広島で被爆し長崎で二重被爆した人がいる。運命に「もてあそばれた」ようだ。スノウ「科学と政府」では科学が国家と組んで人間をもてあそぶ時代を突いた。
2009年「書ききれなかったこと−結びにかえて」
日米戦争が終って以来、鶴見氏はアメリカに足を踏み入れたことはない。しかしアメリカは若い国で、マシーンは「アメリカの文芸復興期」に、19世紀中頃コンコード近郊で欧州から独立した4人の小説家が誕生したことを述べている。日本には大岡昇平の「俘虜記」や「レイテ戦記」という戦後文学が生まれたが、アメリカには戦後文学はあったのだろうか。先住民の殺戮の上に作られた歴史のない国アメリカは、自分の富の増大と地位の向上は無制限に讃美される社会である。日本社会には身分が付き合いの底にあるが、アメリカでは身分を越えた友人の付き合いがあった。私の戦争嫌いは今も私の中にある無政府主義によるもので、ベ平連は非暴力運動であった。


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