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上原 和著 「法隆寺を歩く」

  岩波新書(2009年年12月)

聖徳太子の遺徳がしのばれる美術品のかずかずを観る旅

近畿には厩戸皇子(諡名は聖徳太子)にいわれの深い寺院が七つある。奈良の斑鳩の里(古くは鵤という)に「法隆寺(鵤寺)」、「法起寺」、「中宮寺」、明日香の里に「橘寺」、橿原市の「葛木寺」、大阪難波の里に「四天王寺」、京都太秦の里に「広隆寺」がある。法隆寺は聖徳太子建立の筆頭にあげられる寺で、創建は607年鵤寺といわれた。法隆寺の夢殿の東隣に妃橘大郎女の創建といわれる中宮寺がある。尼寺としては日本最古で、菩薩半跏像で有名な寺である。法起寺は池後尼寺または岡本寺とも呼ばれ、太子の息子山背大兄王が遺願によって、太子が法華経を講説した岡本の地に創建したといわれる。橘寺は太子が生まれたとされる父用明天皇の離宮を推古天皇の命により創建された。葛木寺は今は廃寺で田圃となっている(和田廃寺)。大阪の四天王寺は蘇我・物部戦争に時に太子が四天王に戦勝祈願して、勝利して創建したといわれる。太子信仰の盛んな寺である。京都の広隆寺は太秦の新羅系渡来人秦河勝が太子から頂いた仏像を本尊として創建した。弥勒菩薩半跏像で有名な寺である

私は法隆寺には少なくとも5回は行っている。従ってこの本に書いてることぐらいは知っているつもりでいた。ところがこの本を読んでみると、なかなか奥が深いことが分り赤面の至りである。著者上原和氏は美学者である。考古学者や、建築家、歴史学者ではない。著者のプロフィールを紹介する。1924年日本領台湾台中市生まれ。九州大学法文学部哲学科美学美術史専攻卒業。宮崎大学学芸学部専任講師をへて、成城大学文芸学部専任講師・助教授・教授・文芸学部長・大学院文学研究科長となり1995年70歳で定年退任、名誉教授。玉虫厨子研究をライフワークとし、この創作を飛鳥時代とし、法隆寺金堂はその基礎の上に建てられたとの説を唱え村田治郎らと論争を行った。また西域からギリシアまでの建築に関心を寄せ、詩人的な筆致による文章を書く。1975年「斑鳩の白い道の上でー聖徳太子論」で亀井勝一郎賞受賞。1992年「玉虫厨子-飛鳥・白鳳美術様式史論」で九大文学博士。主な著書は「玉虫厨子の研究」日本学術振興会、「トロイア幻想」PHP新書、「聖徳太子」講談社核術文庫、「大和古寺幻想 飛鳥・白鳳篇」講談社、「世界史上の聖徳太子」NHK出版などがある。そして本書はなんと85歳のお歳で過去50年にわたる法隆寺研究の集大成のつもりで書いたという。ただ頭が下がる思いです。

法隆寺配置図

上の法隆寺案内のパンフを見ながら、法隆寺の概観と著者の研究の概要をたどってゆこう。法隆寺については、天平19年747年に記された資料「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」によると、西伽藍が完成したの和銅4年711年のことと記されている。平城京への遷都が710年(今年は平城遷都1300年祭で奈良は賑わっている)であるので、その翌年のことである。今の南大門は1031年に建てられ、旧南大門の位置はもっと中門の近くであった。今の南大門から旧南大門跡(中門の前)まで100メートルほどを歩いてゆくと、左右に築地掘りが続き、西大門と東大門を結ぶ大通リにでる。この大通りに面して旧南大門は中門の前に立っていた。その距離は10メートルほどしか離れていなかった。旧南大門と東大門の間には寺僧たちが生活する僧房や食堂が並んでいたと推定される。今は大通りの南には個人の僧侶が住居する塔頭が軒を並べているが、昔の宗教は小乗仏教で僧侶は集団生活をして修行をするのであった。その様子はいまも西院伽藍の東回廊の外にある東室や妻室に見ることが出来る。そこには平安時代1121年に聖徳太子の御霊を祭る聖霊院が建てられた。ところで斑鳩(いかるが)という地名の由来はどこにあるのだろう。法隆寺より前には鵤宮という太子の住居があり、それが太子の死後に鵤寺になったので、鵤(いかるが)という地名の方が先である。もともとこの地には「イカル」というとりが生息していた。嘴が円錐状に大きく尖り鮮やかな黄色をしており、体色は淡紅色で頭と羽は黒色で、黒い羽の上に鮮やかな班点がみられたそうだ。そこから鵤という国字が生まれたという。ではなぜ日本書紀では、いかるがの地名に「斑鳩」という表記がなされたのだろうか。著者の推論では山東省済南市の西南に「斑鳩店鎮」という交通の要所があり、ハトの1種で斑点のある「斑鳩」というハトにちなんだ地名である。日本から派遣された小野妹子ら遣隋使らに一行がこの地で声のよく似た鳥「斑鳩」を自国の「鵤」に模擬して、漢風を尊ぶ時代の流れで、「鵤」を「斑鳩」と書いたのではないかという。

聖徳太子

聖徳太子とは諡名で、豊聡厩戸皇子または上宮太子と称されていた。厩戸皇子は、上の系図に見るように574年橘豊日尊(後の用明天皇)を父とし穴穂部間人皇女を母として高市郡の橘宮(今の橘寺)に生まれた。父が天皇になられた後も厩戸皇子は橘宮の上宮に住んでいたが、601年太子28歳の時、膳(かしわで)菩岐岐美郎女を妻都とし、鵤にある妻の実家の近くに宮を興した。妻の父は膳臣傾子で、太子とは蘇我・物部戦争の時の共に戦った仲であった。叔母であった推古女帝(欽明天皇の子で用明天皇とは姉弟の関係)の摂政として、明日香の地で忙しい政務を行い鵤宮との往復は馬で駆けたという。実際は、太子には蘇我馬子の娘刀自古郎女と、橘太郎女という3人の妻があり、明日香に正妻刀自古郎女のいる宮があり、政務の間は天皇家の外祖父で一族の長の蘇我氏の近くにいる必要があり、時折個人的な妻である戦友の娘膳菩岐岐美郎女のいる鵤宮に帰ったのであろうと思う。太子の権力の基盤は蘇我氏にあったといえる。この時の政治状況を見ると、587年7月、用明天皇の死後、皇位継承を巡って、穴穂部皇子を立てようとする大連物部守屋と、炊屋姫尊(後の推古天皇)を立てようとする蘇我馬子の間に戦争が起った。蘇我馬子はすばやく穴穂部皇子を襲って殺し、厩戸皇子と膳臣傾子は信貴山西麓にある物部守屋領に攻め込んだ。この地は河内、信貴、渋川に住む西文ら朝鮮からの渡来人により開かれた地であり、膳臣や平群臣も早くから開閉的な朝鮮外交の担い手であった。5世紀には高句麗に侵略された新羅救援のために吉備臣らと膳臣は任那に出兵し、新羅に攻め込んだという日本書紀の記載がある。このことは高句麗の版図を広げた永楽太王の顕彰碑「広開土王碑」(414年)にも記されている。545年には膳臣巴提便が百済に派遣されたという記録もある。蘇我・物部戦争では太子は当然蘇我側にあり、太子14歳で戦争に参加し、四天王に戦勝祈願を立てたという。勝ったら四天王のために寺を建てるといい、難波の地に四天王寺を建立したのである。物部誅殺の論功行賞で、6年後593年に太子は皇太子となり、推古天皇の摂政になったのである。厩戸皇子の四天王寺の建立は守屋の所領没収と不可分である事を証明している。太子は物部守屋の多くの所領から、河内、志貴、渋川、讃良、和泉のほかにも摂津、播磨、備後、讃岐、伊予の国の荘園を多数没収している。そしてそれらが後の法隆寺領の荘園となる。

601年に鵤宮をたてた太子は、605年に「斑鳩宮に居す」と記されている。これは斑鳩に隠居したようなもので、蘇我氏としては不愉快であったたに違いない。その前の年は推古12年(604年)は甲子年で「辛酉革命」とならぶ「甲子革命」にあたり、政治の変革の年でもあった。603年10月には推古天皇は豊浦宮から小墾田宮へ遷宮(たいした距離ではなく、飛鳥川の対面に移動しただけ)し、12月には「冠位12階」の制定があった。旧来の氏族制に代わって大陸の制度に倣って官位制が定められた。604年4月には官僚心得ともいうべき「憲法17条」が発布された。こうして甲子革政発足によって、推古朝はこれまでの氏族制から天皇を中心とする官僚制へ大きく転換した。605年4月に蘇我氏の私寺であった飛鳥寺を官寺にし、伽藍配置も百済系の「四天王寺式」から、高句麗式の1塔3金堂へとへと改築された。こうした政治改革の区切りをつけて、太子は605年10月鵤宮に居するのであった。そして607年亡き父用明天皇のために鵤寺の金堂が落慶した。上宮太子(厩戸皇子)は遣隋使を始めて派遣したことでも功績があり、隋の皇帝煬帝もまた仏教と深い関わりのある人物であった。697年太子は小野妹子を遣わし、親書を手渡せた。煬帝は親書に答えて、小野妹子が帰国する時使者斐世清を倭国に使わした。世に煬帝は暴虐な天子という風評があるが、これは中国の歴史は次の王朝が前の王朝の歴史を書く手前、最後の皇帝については革命を正当化するために、悪政や暴虐を書き連ねるものであって必ずしも真実とはいえない。むしろ厩戸皇子と煬帝との仏縁の深さがしのばれると著者は書いている。煬帝は高句麗遠征を3回行ったが敗北したため、国内が疲弊して騒乱が起き、617年李淵(唐の高祖)によって滅ぼされた。

鵤宮に腰を落ち着けてから、厩戸皇子にとって仏教徒としての最大の事業は、「三経義疏」(三経すなわち、法華経、勝鬘経、維摩経の解説書・注釈書)の撰述であった。懇意知のこっているの葉「法華義疏」四卷(宮内庁蔵)のみである。やや丸味を帯びた文字の行間に見られる訂正や書き入れ、上から貼り付け訂正など推敲のあとが痛々しいくらいに見られる。なかでも「玉虫厨子」の側面に描かれた「捨身飼虎図」に通じる「捨身」と「捨命」の字句の解釈など厩戸皇子の思想が伝わってくるようだ。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘によると、厩戸皇子は622年2月22日に亡くなり、前日には妃で干食王后である膳(かしわで)菩岐岐美郎女が亡くなっている。前年621年母の間人前大后が崩じた時の看病疲れから厩戸皇子が発病し、太子を看護した妃干食王后のほうが1日早く亡くなったということになる。二人は二上山東麓の磯長陵に葬られ、聖徳太子と諡名されてよばれる。この名は勝鬘経義疏の「聖徳は无量なれば」という如来の功徳を讃えた言葉から来ている。

1) 厩戸皇子創建の鵤寺(若草伽藍跡)

久しく若草伽藍の名で呼ばれてきた太子創建の鵤寺の跡が、東大門の南にある実相院と昔門院(公開されていない)という塔頭の南に広い草原がある。ここに鵤寺の塔の心礎だけが残っている。日本書紀に推古12年(606年7月)太子が天皇に法華経、勝鬘経を進講して、天皇より播磨の田を賜り、斑鳩寺に入れたとある。また法隆寺金堂の薬師如来像の光背に故用明天皇の遺詔により鵤寺とこの像が作られたという記載があるので、605年の太子が鵤宮の居を構えて、寺の建設を始め607年に金堂が落慶したらしい。太子が創建した鵤寺は670年に火災で焼失したのである。法隆寺として再建されたのは飛鳥浄御原で即位した天武天皇の679年であった。なぜか鵤寺(斑鳩寺)の記憶が次第に薄れてゆき平安時代以降にはその存在が忘れられたという。跡地は草茫茫の野原と化した。

日本書紀によると、皇極2年(643年)女帝の皇極天皇の皇位継承問題で、蘇我入鹿は欽明天皇の皇子古人大兄王を立てんとして、聖徳太子の山背大兄王ら皇子を廃嫡するため、鵤宮を急襲した。蘇我一族の血族でもある太子の王子達を目障りとばかりに攻め殺す古代の政治とは残酷なものだ。外戚と天皇家の複雑な血族で成り立っているのが朝廷であるなら、血族をえり分ける(皇統)ことは時折必要だったのであろう。鵤宮でなくなった上宮一族の遺骸は法輪寺へ行く途中の北岡の富郷陵墓(参考地)に葬られたという。法輪寺は太子の妃膳菩岐岐美郎女の生家で菩提寺であった。法起寺も太子の妃刀自古郎女がいた岡本宮の跡に山背大兄王が建てた菩提寺岡本寺の後身である。太子にはもう一人の妃である、太子の没後「天寿国繍帳」を奉納した橘太郎女がいる。

鵤寺の塔の心礎は数奇な運命を辿り、明治に北畠治房男爵邸の庭石になり、神戸の久原房之助手の手に渡り、昭和には証券王野村徳七のものとなり、礎石の上にあった多宝塔は京都岡崎の別荘にうつり、礎石は住吉の本邸に移った。昭和13年ごろから明治以来の法隆寺再建・非再建論争が高まって、発掘調査が行われることになった。調査に先立って塔の心礎の返還(寄付)に野村氏が応じて、昭和14年10月22日に無事若草伽藍内に搬入された。発掘調査は京都大学末永雅雄氏と考古学者の石田茂作氏が取り仕切った。その結果仏龕、南に塔を置き、その北に金堂を置く飛鳥時代の百済系四天王寺伽藍配置形式である事が分った。四天王寺伽藍配置とは典型的には、南門、中門、塔、金堂、講堂が南北の直線軸上に並ぶことである。法隆寺は塔と金堂が軸の左右に並ぶ高句麗形式である。ただその軸が現在の法隆寺よりは東に20度回転しているのである。出土瓦は素弁の九弁か八弁蓮華文であり、法隆寺は統一新羅の唐様式を濃密に受けた複葉の八弁蓮華文である。これらから現法隆寺金堂はやはり670年の鵤寺全焼の後に再建された白鳳時代の建築といえる。

2) 玉虫厨子

玉虫厨子は昭和の初めまでは金堂の須弥壇に置かれていたが、解体修理の際に移され今は大宝物殿におわします。古くより推古女帝の御物といわれていた。玉虫厨子は上より宮殿部、須弥座、台座よりなり、宮殿部の扉を開けると仏像が置かれている。いわば小さな仏壇であり、移動可能、携帯可能であったようだ。文献によれば宮殿部には釈迦三尊がおかれていたが盗難にあい、今は阿弥陀仏がおわします。宮殿部の屋根をみると、大棟の両端に鴟尾(シャチ 火避け)をおき、切り妻造りの母屋の周りに庇をめぐらして、錣葺の入母屋造りである。この屋根構造は敦煌莫高窟の西魏285窟や北周296窟の図にも見られる。中国ではこれを「歇山頂」と呼ぶ。厨子とは女人が敬拝する仏像をいれる「仏龕」(ぶつがん)であり、有名な厨子にはこの玉虫厨子と橘夫人厨子がある。玉虫厨子の名の由来は、唐草模様の透彫飾金具の下に、金属的な光沢を持つ緑色と藍色の模様が美しい玉虫の翅が収められているところからいう。玉虫の翅飾は法隆寺金堂の四天王像多聞天の戟の環飾りにも用いられた。材料は壁面が檜で、須弥座の彫刻的な板には硬い楠木が用いられている伝統的な日本の用材使用法である。

玉虫厨子に描かれている図をみよう。宮殿背面には「霊山会図」、須弥座の正面には「舎利供養図」、須弥座背面には「須弥山図」、須弥座右側面には「捨身飼虎図」、須弥座左側面には「施身問偈図」の合計5枚の図である。正面に見る絵「舎利供養図」は宮殿内の本尊にたいする供養図であり、左右対称に飛天2、僧2、霊獣2が描かれ、中央には上から散華、焚香、供え物の3種の供養形式を表している。「霊山会図」には霊鷲山の山頂で釈迦が説教をする図で、山頂には3つの仏龕で釈迦が3通りに説法する様子を描いている。「須弥山図」には中国神仙思想に基づく鳳凰、天馬、飛行仙人などの天上世界の瑞祥が描かれている。須弥座左右側面に描かれている図は、釈迦の前世物語に依拠している。「捨身飼虎図」は「摩訶薩た本生」から話をとり、「施身問偈図」は「波羅門本生」に依拠している。「摩訶薩た本生」に依拠する図は敦煌莫高窟の北魏254窟、北周428窟にも見られる。そこで面白いのが、釈迦を食う子虎の数がまちまちであることだ。7、5、6、4、3頭など色々で、出拠経典によって違うのである。玉虫厨子では子虎の数は7頭である。チベット経典では数が書いてないため、絵師が適当に描いたのであろうか。

3) 西伽藍を巡る(金堂・五重塔)
  

上の写真の左は法隆寺金堂で、右の写真は金堂内にある釈迦三尊である。天智2年(663年)8月百済救援のために出兵した水軍が白村江で唐・新羅連合軍に敗れ、近江朝は朝鮮から撤兵して、近江遷都から壬申の乱まで10年近く政情不安が続いた。百済難民の日本への亡命と唐水軍への備えで逼迫していた中、670年鵤寺(斑鳩寺)が焼失した。大海人皇子(後の天武天皇)によって百済派の近江朝を転覆するクーデターが672年に起き、近江朝の大友皇子(弘文天皇)を滅ぼして、天武天皇は明日香の浄御原で即位した。そして天武の明日香朝は新羅との交流を復活する。新羅の文武王の時代は唐の高宗が新羅を支配し楽浪郡を置いて、新羅では初唐文化が盛んだった時代である。恐らく天武天皇は前近江朝を倒すことによって唐・新羅に対して和を乞い許されて、唐の文化が新羅を経由してどっと流入した時代であった。鵤寺は679年詔勅により、法隆寺という漢風の法名で呼ばれるようになった。天武天皇から「天寿国繍帳」が奉納され玉虫厨子と同じくして金堂に収められた。金堂の正面の天蓋の下に釈迦三尊像が祀られ、その右に毘沙門天、薬師如来、四天王持国天、左には吉祥天、阿弥陀如来、四天王増長天が勢ぞろいして置かれている。この釈迦三尊像は太子没後翌年623年に止利仏師が作ったとされている。670年の鵤寺焼失で釈迦三尊が無事であったとは思い難いので、光背銘からして王后王子らが施主となっているので、恐らくは膳王后の生家である法輪寺(鵤寺の北10町)の本尊として祀られて、後法隆寺に入れられたと考えられる。今も法輪寺には釈迦三尊のコピーと見られる薬師如来像(木造)があるのはそのためであろうか。釈迦三尊像を差し出すにあたってコピーをとったのだろう。光背銘文の文体からも釈迦三尊像のは46駢儷体のきちっとした文字であるが、薬師如来像のそれは初唐の文体であり時期が違うことが分る。釈迦三尊の台座の内側に走り書きされた文字や図そして木材から、この台座は鵤寺の廃材を利用していることがわかった。

金堂の写真を見てみよう。金堂の屋根の軒は相当出張っており、この重力を支えるため、まず1階では板葺屋根に覆われた裳階が4面に張り巡らされている。これで1階の軒を支えている。2階の軒の隅では斜めに突き出している尾垂木の重みを支えるため柱が4つのコーナーに立っている。多少みっともないのでこれを装飾するため龍の彫刻が捲きついている。これと同じ構造の柱は京都の東福寺南大門(国宝)にも見られる。よほど屋根が重いのだろう。玉虫厨子の宮殿部は屋根の錣葺を除いては、金堂のミニ模型である。とくに尾垂木の部分や雲形斗?は全く同じ構成である。玉虫厨子の屋根の構造は入母屋造りの原形というべき錣葺で、母屋と庇の間には明瞭な段落があり、屋根の勾配カーブははっきり2段階に折れている。入母屋造りは共通なので形式は同じであるが、玉虫厨子の錣葺は南北朝・百済・明日香様式というなら、法隆寺金堂は唐・新羅様式を擬した天武白鳳様式である。
金堂の西の大壁には「阿弥陀浄土図」の再現壁画がある。創建当時の壁画は昭和24年(1949年)の明け方の火事で焼けてしまった。壁画を摸写していた画家の電気座布団から出火したらしい。痛ましい焼けた壁画や柱などは宝蔵院の倉庫に保管されている。この「阿弥陀浄土図」や内陣小壁の「飛天図」は明らかに初唐様式を伝えており、敦煌莫高窟初唐57窟「仏説法図」に酷似している。金堂の仏様の上には東間、中間、西間の上に箱型天蓋がある。忍び返しのような「吹き返し板付き箱型天蓋」は初唐様式である。持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王の足下に奇獣が支えているが、これは獣であって邪鬼ではない。正真正銘の邪鬼が登場するのは、天平時代からで、東大寺の法華堂や戒壇院の四天王像に見られる。

金堂の西には五重塔がある。鵤寺は飛鳥時代の四天王寺式伽藍配置であったが、天武朝の法隆寺では、金堂と五重塔が中門と講堂の間に左右に並んで建てられる高句麗形式である。五重塔の1階部分には裳階がめぐらされ、その上に雲形斗?が出ているが、金堂のような白鳳時代の沸きあがるような雲形が姿を消して実用的である。五重塔とは釈迦の骨を入れる舎利を心柱の下に置くもので、インドではストゥーパ(卒塔婆)と呼ばれた仏塔であった。1階の内陣には四面に龕塑像が作られ、「涅槃像」、「卒塔婆」、「浄土」、「維摩居士」の塑像群がおどろおどろしく存在する。なぜ維摩居士が存在するかというと、五重塔の建立に貢献した藤原不比等が維摩居士の信奉者であったからだといわれる。711年平城京遷都の翌年に五重塔と中門が完成した(金堂の落慶後30年も経過していた)が、これには女帝元明天皇と右大臣藤原不比等の力が与っている。なぜ不比等が法隆寺の完成に力を貸したかというと、不比等の夫人橘三千代の先夫美努王が聖徳太子と従兄弟であったので、美千代が聖徳太子を敬慕していたからだ。金堂の須弥壇の東西に玉虫厨子と橘夫人厨子が安置されていた。橘夫人厨子は天平時代の作風をしめし、龕の中には白鳳時代の阿弥陀三尊が祀られている。

4) 東伽藍に佇む(夢殿・大宝蔵院)

法隆寺のパンフレットにある伽藍配置と道路を見れば直ぐに分ることですが、東大門の東にある律学院伽藍や道路が東大門を軸点として20度ほど曲がっていることである。これが昔の若草伽藍(鵤寺)の軸と今の法隆寺の軸と異なっており、法隆寺再建論説を裏付けると著者はいう。蘇我入鹿の軍勢によって焼き打ちされた鵤寺は聖徳太子一族の自決と共に打ち捨てられていたが、西伽藍の金堂は天武朝により679年に建立され、五重塔と中門は藤原不比等によって711年に建立された。東伽藍の夢殿は天平9年(737年)大僧正行信によって建立された。「法隆寺東院資材帳」(761年)によると、光明皇后の持物が奉納され、八角仏殿(夢殿)の落慶供養が行われた。

救世観音          百済観音

上の写真は左が救世観音、右が百済観音です。まず救世観音から見て行こう。救世観音菩薩像はいつもは漆塗りの大きな厨子に納められいる。春4月と秋10月に各1ヶ月間厨子の扉が開いて公開される。平安時代後期には救世観音菩薩像には宝帳が張られて拝見することは出来ない状態であったと、大江親通が「七大寺巡礼私記」に書いている。そして鎌倉時代には秘仏として厨子内に封じ込められたようだ。それを再度開いたのが明治のお雇い教師フェノロサと文部省係りの岡倉天心であった。法隆寺調査のこなわれた1886年5月のことであった。フェノロサは日本仏教美術を朝鮮美術の流れで捉えており、比較文化財としての調査であった。救世観音像は完全に左右対称に作られており、裳裾の流れるような線が印象的な流麗な像であるが、顔がなんとも複雑である。分厚い唇、変な笑い顔のアーケイックスマイル、やたらでかい鼻、しかめた眉、やはりこの像は仏像の形をしているが太子の実像を模したのではないかといわれている。梅原猛の「封じ込められた法隆寺論」でも、太子の霊をまつる寺として、滅ぼされた太子一族の怨霊を静める梅原氏得意の怨霊の歴史で有名である。この像の左右対称性を破るのは胸に置かれた摩尼宝珠を支える両手の形である。摩尼(マニ)とは水晶系の宝石で、珠とは真珠のことである。摩尼(マニ)は敦煌莫高窟の絵にも多く見られる。インドから中央アジアの宝である。

法隆寺の菩薩像の双璧をなすのが、大宝蔵院にある百済観音像である。上の右の写真に示した。この大宝蔵院は百済観音の安住の殿堂として1998年秋に完成した。いまは乾漆が剥離して痛ましいとはいえ、いかにも女性的な優しいなで肩、静かな美しいお顔、華麗な指先でつまむ水差しなどひそやかな美に満ちている。この像は昔「虚空蔵尊」といわれていたが、金銅透かし彫りの宝冠が1911年に蔵から発見され、現在のように百済観音菩薩と呼ばれれている。痩身の明日香(百済系)、豊満の白鳳時代(初唐・新羅系)といわれるように、この百済観音八頭身美人は明日香時代末期の作品といわれている。なお「明日香」という字は万葉集の字で、「飛鳥」は漢風の字であるため、著者は本書では一貫して「明日香」という字で書き記す。


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