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菅直人著 「大臣」増補版 

  岩波新書(2009年年12月)

官僚内閣制から国会内閣制へ、民主党政権が目指すもの

鳩山内閣には理科系の大臣がいる。鳩山氏は東大工学部出身、菅氏は東京工業大学理学部物理出身であり、厚労省の足立政務官は外科医出身である。だいたい文系の政治家が多い中で、理科系政治家としては時折、厚生相の医者出身大臣が見られる程度であった。文系政治家は目的第1で手法は問わない人が多かったが、理科系政治家は理論第1で泥臭さが無い。さて民主党連立政権鳩山内閣の出始めはやはり理論先行である。それを小沢らの老練政治家が軌道修正しているという形で運営されているようである。菅直人氏は2009年9月16日の新政権誕生で副総理兼国家戦略担当大臣さらに特命大臣として内閣府科学技術政策と経済財政政策担当となった。まさに鳩山内閣の重鎮いや中心といってもよい存在である。2010年1月早々藤井財務相の健康上の理由による辞任により、菅直人氏は財務大臣となり特命大臣「内閣府科学技術政策」は外れて文部大臣が兼務した。1998年民主党の結成以来、菅氏と鳩山氏とは盟友の仲であったので、政権奪取で二人が並び立つのは当然の結果かもしれない。菅直人氏は1996年自民・社会・さきがけ連立内閣の成立の時、第1次橋本隆三郎内閣の厚生大臣に就任した。約10ヶ月の大臣在位期間であったが、菅氏はこの時、「この国が国民主権国家ではなく、官僚主権国家である事を、深く認識した。」という。大臣になって大臣の無力振りを身にしみるほど味わった経験が言わせる言葉である。サインするだけで一言の議論もなく官僚のお膳立てした議案を素通しする「閣議」、記者会見もルビを振って官僚の書いた原稿を読むだけの大臣、政治家はすべての情報を官僚に握られ、政策の是非を判断する機会も事実上放棄していたようで、それが自民党の政治システムであった。あるいは明治以来のシステムであった。今回の政権交代は自民党から民主党へという政権のバトンタッチの問題ではなく、官僚内閣制から国会内閣制へという交代が必要であった。「大臣」は実は、1998年岩波新書で刊行されており、菅氏が厚生大臣を務めた後、民主党結成時に書かれた本であった。今回2009年において民主党が政権をとった時点で、再度菅氏(民主党)の政治の原点を確認することと、とりあえずの到達点を示す必要から本書「大臣」増補版を刊行する事になった。序章と第2部(イギリス政治制度視察報告と鳩山新政権の目標)を増補し、第1部は原点を確認するために旧書「大臣」の第1章から第4章をそのまま収録するものである。私は旧著「大臣」を1998年に読んでいた。ただ読書ノートを作っていなかったので、今回増補版でノートを作成したい。

民主党が2009年8月31日に衆議院総選挙で圧勝して、9月16日に民主党政権が生まれた。なぜ2週間以上も政治的空白が生まれたかというと、それは新政権側に特別国会召集の権利がなく、旧政権(麻生内閣)が決める事であったからだ。アメリカの大統領制では2ヶ月の新政権移行期間が設けられ、閣僚と官僚人事が行われる。イギリスでは女王から組閣命令があって3日後に新内閣がスタートする。その2週間に鳩山内閣の骨格人事は進行していた。9月14日最後の事務次官会議が行われ、明治19年(1886年)以来123年続いていた事務次官会議は終止符を打った。実質的に国の基本政策の全てをきめてきた政策決定システムの頂点に立つ会議(たとえ形式的にしろ)が無くなったのは、政治体制の転換のスタートであった。閣議は毎週火曜日と金曜日に開かれる。9月16日臨時国会で鳩山氏が内閣総理大臣に指名され、組閣人事が完了して夜には皇居で親任式が行われ、つづいて最初の閣議と閣僚懇談会を行って記念撮影となった。初閣議はまず鳩山総理の内閣の基本方針が提示されて了承した。鳩山内閣の閣議は閣僚同志の議論も活発に行われた。閣議の他にテーマごとに少人数で議論する閣僚委員会が設けられた。大臣達は頻繁の集まり会議をする内閣は前代未聞である。大臣ー副大臣ー政務官という政務三役会議が担当省ごとの縦のラインの政策決定チームとすれば、閣僚委員会は横のラインの政策協議機関である。その日の閣僚懇談会では「政と官」の関係を見直すことが話し合われ事務次官による記者会見の廃止を決定した。役所を代表して発言するのは責任者である大臣や副大臣のみでなければならない。これまで官僚が反対する時「アレは大臣の個人的見解でして省としてはこういう立場です」という大臣否定発言が官僚の口から出ることがあった。これでは大臣無用論につながる。大臣就任時の記者会見では官僚の書いた文書・資料は作成させないことになった。大臣皆が自分の言葉で就任の抱負を語った。鳩山内閣では大臣一人が官僚に取り囲まれて洗脳(レク攻め)されるのを防ぐため、政務三役がチームとして機能するようにしてある。鳩山内閣のもう一つの特徴は政策決定を内閣に一元化したことである。自民党内閣では内閣と党の両方での政策決定が必要であった。事務次官会議にあげる法案や政策は予め党の部会を経て総務会で了承されることが必要であった。そのため立案段階から官僚と族議員の活躍(根回し)がなければ何一つ動かないのである。ここに政官の癒着と官による利益誘導が行われてきた。


第1部 大臣とは何か (旧自民党政権における考察、旧著「大臣」に同じ)

1) 議院内閣制における大臣

1996年11月岡光序治厚生省事務次官の汚職事件の反省から、総務省の行政監察庁とは別に、政府外に行政監視調査会を作る動きがあったが、官僚は三権分律を楯に反対した。彼らの論拠は憲法65条の「行政権は内閣に属する」を国会から独立して内閣はあり、そこに行政権はあるというものであった。しかしこの論拠は戦前の統帥権と同じような論理で、行政は天皇以外には誰も触れられない領域にあると主張する時代錯誤の論理で、憲法の主権在民の趣旨を無視するものである。行政に関して国会が監督権を持たないとするならば、主権者である国民はどうやって行政をコントロールできるというのか。国会は「国の唯一の立法機関」であるが、それより先に憲法41条に「国権の最高機関」となっている。それは国会は国民の信託を受けて行政の長である内閣総理大臣を指名し、憲法66条で「内閣は行政権の行使について、国会に足して連帯して責任を負う」とある。1996年12月6日の予算委員会で菅氏の質問を受けて橋本総理は「国会の行政権の統制、行政監督権」を認めている。それが正しい憲法解釈である。「行政権は内閣に属する」ということは当然であるが、官僚は内閣ではない。つまり「行政権は官僚にある」という論理のすり替えをやっているのである。内閣とは総理と国務大臣からチームであり、官僚のいる省庁などの「国家行政組織」はあくまで内閣の補佐であり行政権を持っているわけではない。国家行政組織法によると「国家行政組織」は内閣の統括の下におかれる。大臣は省の代表ではなく、そのまえに国務大臣という内閣のメンバーである。なぜこのような官僚の論理構造が生まれるのかというと、明治維新以来の流で理解できる。明治維新はまず国家ありきから出発した。1869年二官六省制という官僚組織が発足し、1985年内閣制度が創設された。1989年の帝国憲法発布に伴い1890年帝国議会が開設されたのである。天皇の僕として内閣より議会より先に国の統治権を握ったのが官僚(明治維新の元勲たち)であった。それいらい官僚は議会に超越した存在として、そして内閣は議会や政党に超越した存在したのである。

内閣に属さない行政組織も存在する。内閣は地方自治体を除いた意味における行政権である。これまで「自治体の行政権を含めた行政権を中央が有し、一部を地方自治体に移譲している」という誤った観点を持つ官僚がいたが、これは補助金で地方自治体を縛り付けていた伝統(三割自治)である。さらに、会計監査院、人事院、国家公安員会、公正取引委員会、日本銀行も内閣に属さない行政組織である。実質はほとんどが官僚の出先機関のように成り下がっているが、ねじれ国会でそれは日銀総裁人事で問題になったように、財務官僚の特等席であった。会計監査院のように、行政監察院の創設も十分可能なのである。三権分立は司法、行政、立法が自己完結型の権限を有する独立王国ではなく、機能として分立しているのである。

大臣は与党から任命され、事務次官以下の官僚と「政府の一員」ではあるが、立場は異なる。しかし多くの大臣は「政」の側から「官」の側に取り込まれ、たんなる役所代表になっていた。日本の内閣はアメリカのホワイトハウスのような物理的居場所が無い。首相官邸にいるのは内閣官房という出先官僚組織に取り込まれた総理であり、大臣は各省庁の官僚に隔離された大臣室にいて、情報ツンボ桟敷に閉じ込められ、殆ど痴呆老人扱いで馬鹿にされ「大臣無用論」まで出る有様である。憲法73条に内閣の仕事が定義されている。内閣法四条に「内閣がその職務をおこなうのは、閣議によるものとする」と書いてある。すると内閣のいる場所とは閣議が有る場所といえるので、首相官邸か国会内である。イギリスでは大臣室は国会内にある。内閣が物理的組織体として存在するにはやはりホワイトハウスのように、首相官邸を増築してキャビネット(室)を設ける必要があるのではないか。そしてそこには官僚組織を必要以外は排除することである。閣議が全くの形式的なサイン会に終っているが、主催しているのは総理ではなく事務方の内閣官房副長官である。なぜなら前日の事務次官会議と閣議の両方に出席しているからだ。官房副長官は事務次官会議を主催している。事務次官会議でOKの出た議案の決定、承認、了解をおこなう大臣署名会に過ぎない。閣議についで行われる閣僚懇談会も15分くらいで、しかも発言内容は事前登録制で、話のシナリオが用意されている。閣僚懇談会には議事録はない、おしゃべり会である。現実には事務次官会議が国の行政の最高意思決定機関となっている。「政治家無用論と官僚優秀論」は官僚内閣制を守るために7後から付けた屁理屈である。事務次官会議はすべての出席官僚が拒否権を持つため、国益より省益が優先する会議で、自省に不利な議案は事前に潰すことが可能である。

2) 大臣の任期

日本の大臣の在任期間が短いことは有名である。たとえばドイツのブリューメ厚生大臣は1984年から1996年の13年間在任していたが、その間日本では16人の厚生大臣が代わった。大臣の任期はすなわち総理大臣の任期も短いということであり、日本の総理大臣の任期はドイツの1/4である。ドイツと日本は同じような政治体制)議院内閣制)でありながら、大臣の任期がこれほど違うのはなぜだろう。憲法にも内閣法にも総理大臣と国務大臣の任期についての条文は無い。しかし衆議院議員の任期は4年と定めがあるため、一応大臣の任期は最大4年と考えられる。その4年の任期を全うした内閣は戦後一つも無い。日本では自民党が戦後長期政権を続けて「政権交代」は無かったはずなのに「内閣交代」(内閣改造)は頻繁に行われた。自民党では衆議院議員の選挙で6回当選すれば誰でも大臣になれるシステムである。今まで大臣になれなかった人は浜田幸一氏だけである。大臣は誰でもなれるが、総理大臣もだれでもなれるのである。政権が長期化しないように、自民党総裁の任期は2年として二期までしか出来ない党則があり、ローテーションシステムがしかれている。自民党は理念政策で結束した政党ではなく、政権にあるを目的とした事で集団である。従って理念・政策は官僚に任せた切りであった。大臣職は一種の名誉職で、長年議員選挙で勝ってきたことへの褒章みたいなものである。誰でもが大臣を務めることが出来るように、挨拶から答弁文まで作文してサポートしてくれる官僚群がおり、その代り官僚には官僚内閣制で自由裁量を認めてきたのである。自民党の総裁選で新総裁が出現すると、前内閣は総辞職する。大臣の任期はさらに短く「内閣改造」(第ー次内閣)で殆ど1年未満である。そういう慣例からすると、舛添大臣は三代の総理大臣に渡り2年以上(752日)在任したことは異例中の異例といわなければならない。

憲法69条には内閣総辞職を、「不信任案可決後一週間以内に衆議院を解散しなければ、総辞職しなければならない」と定めている。また憲法70条には「総理大臣がかけた時、または衆議院選挙後初めての国会の召集があった時は、内閣は総辞職しなければならない」としている。55体制が出来上がってからは、4年毎の内閣交代より頻繁に自民党の内部事情による内閣交代が続いてきた。総理大臣の辞任により内閣は総辞職する。そこで菅直人氏は自身の大臣就任前の政治状況を概観する。前の内閣は1994年に成立した村山内閣であった。羽田孜内閣が不信任案の動きを受けて総辞職した後に、自民党とさきがけ、社会党の連立内閣であった。村山内閣の時は阪神淡路大地震やオウム真理教事件と多難な時期で、1996年年初に村山総理が辞意を表明した。そして三党の政策協議をして第1次橋本龍三郎内閣が成立した。憲法66条に「内閣は内閣総理大臣と国務大臣で構成する」、憲法68条「内閣総理大臣は国務大臣を任命し、罷免することが出来る」となっている。自民党の場合派閥が窓口になって閣僚推薦リストを新総理に伝える仕組みで大臣が決まってゆく。そしてさきがけに属していた菅直人氏が大臣になった。国務大臣は内閣法三条にあるように「主任の大臣として、行政事務を分担管理する」として省庁の監督大臣となる。この組閣には当然ながら官僚はまったく関与しない。ところがその去就情報は本人よりも官僚には先に知れ渡っている。そして新大臣記者会見の用紙を大臣に持ってきて読めという。官僚が引いたレールの上を歩かされる第1歩なのだ。菅直人氏はこの記者会見を重要視し、官僚の作文を読まずに自分の考えを述べたのである。

3) 大臣300日で見えてきたもの

管氏が厚生大臣を務めた1996年は厚生省にとっても大きな事件が続いた。まず薬害エイズ事件の和解が成立し、事実関係の究明と責任問題の追及がおこなわれた。そして介護保険制度が法案となった。病原性大腸菌O157中毒事件(いわゆるカイワレ大根)と岡光事務次官の汚職問題である。これらの事件を通じて幾つかのことが明確になったのでテーマ別に整理する。情報公開、縦割り行政の弊害、行政の責任と謝罪の問題である。非加熱血液製剤(血液凝固因子)の中に生き残っているエイズウイルスによる血友病患者のエイズ感染事件を見てみよう。厚生省薬務課はエイズという病気や非加熱製剤の危険性にきずいていながら、加熱製剤が普及しているにもかかわらず、製薬会社の非加熱製剤の売り切りを黙認し、結果的に血友病患者のエイズ感染を大きく広げてしまった。それを問いただせば官僚は「知らせると血友病患者がパニックになる」と言い訳するが、これは情報秘匿の時の官僚の紋きり文句にすぎない。厚生省による資料隠しは、国や地方自治体が被告となる事件では、原告側に立証責任があることをいいことに、行政側は裁判に必要な資料をひた隠しにする。というように行政の2重の情報隠蔽の罪がある。行政情報の公開には情報公開法といった制度と、大臣がその判断で行政情報を公開するという方法もある。1996年10月23日「薬害エイズ問題調査プロジェクトチーム」が発足した.課長補佐クラスの11人でスタートした。薬務局のロッカーからエイズ資料が見つかったのが3日後の26日であった。そして大臣のもとに報告があったのが10日後の11月9日であった。それは「郡司ファイル」と呼ばれているエイズ研究班の36冊の資料であった。菅大臣は官僚の制止を振り切って、直ちに記者会見を開いて発表した。官僚はいつも重要資料は動きが取れない金曜日に持ってくる。金曜日の昼過ぎから政治家は地元に帰るため仕事をしないことを見越しての官僚の悪知恵である。国会の追及と東京地検の捜査が入り結果として厚生省の松村元生物製剤課長、安倍エイズ研究班長、製薬メーカ三代の社長が業務上過失致死で逮捕された。「薬害エイズ問題調査プロジェクトチーム」は2月に中間報告、4月に最終報告をだした。第1次橋本内閣の時に審議会は原則公開が決まったが、中央薬事審議会は議事録の公開どころか審議会メンバーの氏名公表さえ拒んでいた。

病原性大腸菌O157 による食中毒が、1996年夏7月2日「児童318年、食中毒か」という記事で発生した。原因が学校給食にあり、疫学的調査によって中間的な結論は特定の農園から出荷された「カイワレダイコン」が感染源の可能性があるというものであった。可能性がかなり高いものであったので、菅大臣はこのことを記者発表した。マスコミがカイワレダイコン犯人説で騒ぎが広まり、すべてのカイワレダイコンが市場から消えるという過剰反応となった。農園の調査によっても感染源を突き止めることは出来なかったが、情報公開は早い方が類似事故を生まないために必要ではないかと菅氏は力説する。消防や警察では情報は極めて早く流れるが、厚生省情報の流れは遅く、マスコミの方が早い。O157事件だけでも、食中毒は生活衛生局の食品保健課、感染症は保健医療局のエイズ結核感染症課、医療機関の指示は健康政策局指導課ということになり、双方がにらみ合ってぴたっとも動かないこともある。そして事務連絡もちぐはぐに出されてゆく。そして保健所の情報が市町村と厚生省間の間で流れもスムーズではない。墨東病院妊婦たらい回し騒動で舛添大臣と石原東京都都知事の軋轢や、新型インフルエンザの休校問題で神奈川県知事と舛添大臣の喧嘩も有名な話である。縦割り行政ではへいじのいても無駄が多く、有事において殆ど機能麻痺に陥るのは阪神淡路大震災でも実証されている。役人のみならず、大臣も縦割りになっており、省代表根性丸出しで縄張り争いに巻き込まれているのである。省の編成や分担は基本的には戦前から引き継いでいるもので、産業構造の変化や社会経済状況の変化に対応していない面が問題が起きるたびにあらわになる。リサイクル法・地球温暖化対策などでも環境省と経産省・財務省の意見の違いで政策をめぐって対立する場合もある。

エイズ薬害事件で政策を誤った厚生省官僚の処分が必要である。官僚の判断ミスで多くの人命が失われた場合、巨額の損害賠償で税金が使われるのである。彼らが過ちを認めないのは和解訴訟で多額の税金が使われるからだという官僚の論理は何か逆立ちしている。倫理上の問題にまで遡るのである。舛添大臣も書いていたように「宙に消えた年金記録」問題で、官僚は記録の追及は莫大な費用がかかるので「バンザイ」をして、申請者には金を払ったほうが安くつくという論理が出たことがあると云う。起きてしまった政策ミスの責任問題にはふたをして、事後処理を金額だけで考えるという習性は、何度でも失敗することであり官僚の仕事のモラルの崩壊である。結局組織として保身しか眼中には無いのである。官僚の仕事のミスについては裁判所は「行政権の裁量の範囲」ということで司法判断はしない。この神経は民間企業でがありえないことで、失敗は職や給料に関る重要問題で極めて重大に対処している。官僚のこの神経のいい加減さはその職の任期の短さ(3年以下)からきており、現職の時代に露顕した事件の責任者はとうに辞めているか、他の部署に移っている。皆が他人事なのである。これでは責任を真剣に受け止める人がいないのである。菅大臣は薬害エイズ訴訟和解を受け入れるについて、まず大臣が謝罪し、財政的措置を含めて、国の責任の取り方を考えた。国家公務員の身分保障があるので、国家公務員には解雇ということが無い。だから国家公務員は雇用保険には入っていない。しかし現職の次官、局長は減俸2ヶ月、審議官、課長、室長らは訓告、厳重注意の処分とした。しかし懲戒処分は人事の記録には残らないので、叱られた程度ですんでしまう。結局官僚の処罰、責任追及は軽いもので果たしてこれでいいのかは今後の公務員改革の宿題である。最後の官僚の仕事にやりかたは「ボトムアップ」といわれ、実質的な仕事は局長、課長クラスではなく、課長補佐かその下の人間が実質的にきめている。これは日本の会社のやり方も同じで、課長クラスは責任者であるが、実質的仕事は主任クラスで動かしている。これは戦前の軍隊からの伝統である。権力は上へ行くほど空洞化しているのが日本の特徴である。

4) 大臣の仕事

管氏は在任中の厚生大臣の仕事の権限の幾つかの問題を述べる。政務次官が出席する省議を含めた全庁的な会議が年に4回以上ある省庁は全体の半分くらいで、厚生省では局長と官房長、事務次官と大臣が出席するような会議は一つも無かった。大臣に出席を求める会議がないのである。ここでも大臣は情報ツンボ桟敷に置かれている。大臣が分刻みに忙しいスケジュールになっているのはセレモニーで埋め尽くされているからだ。大臣に仕事を邪魔されないための官僚の差し回しかもしれない。判断を求めるような決済文書はなく、既決事項ですといってサインだけを求めてくる。大臣の印を押すことも一度も無かったそうだ。では大臣にはどんな仕事があるのだろうか。制度的には大臣には人事権があり、予算の執行権もあるはずだが、その権力は殆ど行使されたことは無い。大臣は実質的権限はないのに責任だけが追求されるため、謝罪するための大臣が存在するようになっている。大臣が仕事をするためには、高級官僚を政治任用するアメリカのようなシステムが必要である。最終的な政策判断は全て大臣と副大臣、政務官チームが行うイギリスのようなシステムが日本に向いているようだ。国会において官僚達が政府委員として出席し大臣に代わって答弁する、日本の政府印制度は廃止し、国会では与野党の政治家が政策論争をする場に変えてゆかなければならないよいう。

大臣が最も拘束されるのは役所の中ではなく、国会である。本会議と委員会が衆参両院にあるので、これが大臣の殆どの仕事である。各種委員会における議員の質問取りから始まって官僚は3時間ほどで答弁を作成する。その答弁書が気に食わないとやり直しを命じると、官僚は抵抗するが質問前日の夜遅くか当日の朝に出来上がる。国会での答弁をしていると、議員と大臣の2項対立で考えてしまいがちで、「大臣は行政府の人間です」という官僚の術中におちいる。大臣は大臣である前に国会議員であったのだ。国会に対して責任を負う意識が必要である。大臣1人で厚生省に乗り込んでも何も出来ない。大臣についているはずの政務次官、政務秘書官との連絡が全く取れていない。これは自民党が長年政務次官の仕事をないがしろにして形骸化したポストにしてしまったことに起因する。官僚から政務次官は「盲腸」と揶揄されていた。自民党は政務次官を特定の役所と業界に向かっての族議員政治家の養成ポストとしてしか見ていなかった。大臣秘書官には政務と事務の二人の体制となっている。秘書官というのは短く極めて不安定な仕事である。民間からスタッフを雇い入れるというよりは、自分の議員秘書とか息子などを秘書官にすることが多い。「鞄持ち」といわれるが、スケジュールややばい資金面の管理をする汚れ役である。本当に政策を担当する政務秘書官はまれで、むしろ事務秘書官のほうがキャリア官僚から出向してくるので政策面は明るい。大臣を補佐する政策スタッフの充実が望まれるのである。菅氏の大臣経験の結論は「大臣は根源的に国民によって選ばれ、各役所を国民に代わって監督するものである。国民主権とは国民自身が自らを統治することである。官僚に統治を任せるのではなく、自分達が選んだ代表に統治を委託するーそれが代表制民主主義である」ということであった。


第2部 政治主導への転換(民主党政権の課題)

5) イギリスと日本の「政と官」

菅氏は2009年6月「民主党英国政権運営調査団」の代表として英国政界を視察し議論し、イギリスの議院内閣制を学んできたようだ。それが民主党政権のマニフェストに「政と官」のあるべき姿として描かれている。明治政府はフランスとドイツを参考にして行政機構を構築した。天皇制中央集権官僚組織が出来上がったのである。それが軍部と組んで日中・太平洋戦争をひき起こして敗北した。戦後は国民主権の憲法がつくられ、制度上は国会民主主義(議院内閣制)となったものの、官僚制は戦前の意識のまま今日まで来ている。なぜならドイツのように一度完璧なまでに解体されることもなく、日本では官僚組織と人材は温存されて戦後の社会復興に利用されたのである。日本を占領した主体はアメリカ占領軍であるし、憲法草案を書いてにほんいつきつけたのもアメリカ占領軍であったにもかかわらず、なぜ日本は大統領制にならなかったのか、いまもって私には良く分からない。アメリカが占領したアジア諸国のうち韓国やフィリッピン、インドネシアなども大統領制である。イギリスでは内閣の下に、立法、司法、行政の三権が集中している。日本のような独立王国式三権分立とはなっていない。内閣のコントロール下に三権が損存在する。アメリカの大統領制は大統領の行政権と議会の立法権はかなり独立しているが、どちらかといえば大統領独裁制に近い。イギリスでは内閣はそのまま政党の役員会である。政策決定の一元化という意味ではこの方がすっきりしている。内閣を構成するのは日本では「与党」というが、イギリスでは「政権党」という。イギリスの閣議では最重要課題の決定、立法法案の決定、省間の調整、所轄事務の分担などを議論している。そして議会の主導権は内閣が持つ。閣議の下に閣僚懇談会が設けられ、少人数で関係閣僚がテーマごとに議論する閣僚委員会が実質的な議論の場である。鳩山内閣でも麻生政権の補正予算の見直しを行ったのは、総理と菅氏、仙谷氏、藤井大臣、平野官房長官であった。閣僚委員会で詰められ合意された内容が閣議にかけられ決定される流れが民主党政権では多くなってゆくだろう。

日本もイギリスも内閣や大臣のシステムに大きな違いは無い。ただ根本的に違うのが。政治家と官僚の関係である。イギリスには内閣法や国家行政組織法がなく、あるのは「大臣行動規範」、「公務員行動規範」のみである。そして「公務員の政治的中立性」が貫かれる。官僚は政党の会合に出ることは出来ない。日本で自民党の部会に官僚が出向いて説明したり協力することはイギリスでは有り得ない。そしてイギリスの官僚は大臣.副大臣・政務官以外の政権党の議員との面会も出来ない。日本の官僚組織は、立案した政策を官僚自ら与野党の議員、自治体、企業までに説明しまわり、与党の予算や法案を国会で成立させた。その局面で官僚と一緒に動くのが族議員であった。自民党の政策決定システムは、内閣と党の二元制と呼ばれた。自民党の政調会のしたに問題ごとの部会がおかれ、法案がここで了承されると総務会にあげられ、全会一致で了承される。党が了承しない限り閣議決定は出来ないので、部会−総務会ルートでの政治のコントロールがあった。官僚と族議員は協力して互いの利益実現に動いており、ある意味では内閣も党も官僚によってコントロールされていると言える。鳩山内閣の前原国交省大臣は2009年10月1日、道路建設促進などを目的とした会合に、官僚が出席することを禁止する指示を出した。

イギリスには大臣の特別顧問(スーパーアドバイザー)制度が確立し、大臣は二人までの特別顧問を任命することが出来る。政党よりの政策専門家から人材を任命するようだ。鳩山内閣では行政刷新会議のメンバーに民主党を指示した稲盛京セラ名誉会長(2010年1月日航CEO候補にあげられた)と茂木友三郎キッコーマン会長を迎えた。イギリスでは副大臣や政務次官は事務官の上にいるわけではない。官僚機構のラインからは外れている。副大臣は大臣業務を代行できるが閣議メンバーではない。日本では2001年から副大臣、政務官制度が導入され、政治家のチームが役所を監督できるようになったが、自民党政権ではチームとして機能してこなかったようである。それは派閥の順送り人事で決定され、大臣の意向に関係なく構成されたためである。またイギリスでは官僚が議員に接触することが禁じられているので、国会質問の「質問とり」自体がありえなかった。大臣は自らの諜報組織で質問内容を察知しなければならない。官僚を通じずや党の質問内容を予め知るためのシステムはこれからの課題である。日本での「党首討論」に相当するのが、イギリスの「クエスッチョンタイム」であり、総理大臣は毎週1回と大臣は毎月1回ぐらい出席しなければならない。この「クエスッチョンタイム」だけが国会に拘束される時間である。日本のように大臣が長く国会に拘束されることは無い。日本では2001年までは「政府委員制度」といって官僚が大臣に代わって、国会で答弁してきたが、いまは大臣や副大臣、政務官という政治家が答弁するようになったが、それでも「政府参考人」制度で事実上の官僚答弁は残っている。政治主導を貫くためには、官僚が役所の代表として答弁し既成事実化することは止めさせなければいけない。それには官僚が国会に出て答弁することを禁止する法律改正が必要だ。鳩山内閣では政務三役会議が従来の局長会議に機能をもつので、大臣達の仕事量は一段と増えるため、毎日大臣が国会に詰めるシステムは変えなければなない。総理大臣の補佐システムも重要である。イギリスでは首相官邸の強化が図られ、政治任用スタッフが30人近くいる。政務室、制作室、報道官室、外交政策室の4つの室があり、特別顧問と官僚が一定の比率で構成される。もちろん官僚は首相に直接アクセスすることは出来ない。首席補佐官や首席秘書官を介することになる。イギリスでは国会を含めて政と官は峻別されており、官僚は専門スタッフとしての能力だけが問われる。国会対策という政の分野の仕事はない。

6) 国民主権への道

民主党は2009年夏の総選挙を「国民主権」と「地方分権」を掲げて闘い、具体的政策を「マニフェスト」にして自民政権に圧勝した。現在の日本は官僚主権であるだけでなく、中央集権国家である。地方分権の最大の障害物は官僚主導政治にある。新政権の最大の政策決定システムは「国家戦略局」にある。国家戦略局は予算編成の骨格をきめる、省間の調整をする、国家の中長期目標を立案することが期待されているが、最大の目的は官僚主導、官僚内閣性となっていた内閣と政府を、国民主導に改めることである。鳩山内閣は内閣に「国家戦略局」と「行政刷新会議」という二つのエンジンを設けた。従来内閣官房長官の政策調整機能は戦略局に、それ以外の広報や危機管理・情報管理は従前通リとなった。国家戦略室は内閣官房にあり、行政刷新会議は「内閣府」にある。又内閣府には特命担当大臣がおかれ、菅氏は「経済財政政策」と「科学技術政策」を担当した。行政刷新会議は鳩山首相を議長とし、仙谷氏が副議長で、予算や行政制度の在り方を刷新するとともに、地方自治体や民間の役割のあり方の見直しをすることである。国家戦略局のあり方も時限性にするかどうかが問題となる。時限を設けないと官僚の侵食を許して、巨大な国家戦略を牛耳るモンスター組織になる恐れが残るからである。自民党政権下で官邸機能強化を言いながら、官邸が官僚に占領された経緯もあるので慎重にならざるを得ない。

国家戦略室の体制は、菅副総理・国家戦略担当大臣、内閣府古川元久副大臣、内閣府津村啓介政務官、荒井聡総理大臣補佐官でスタートしたが今後政治家民間人の拡充をするようである。国家戦略室の仕事は予算の骨格を作ることである。自民党小泉元首相時代からの経済財政諮問会議は近く閉鎖するらしい。小泉後の「骨太の方針」はすっかり官僚色の濃いものに萎縮した。国家戦略室を内閣府ではなく内閣官房に置いたのは、内閣及び政府全体に対して権限を持つからである。予算編成権は当然内閣にある。自民党時代小さな政府を目指す小泉元首相以来予算削減が常識となって、毎年の予算要求水準シーリングで厚生省の予算は必要なものまで削られてきた。省庁間にまたがる予算の組み替えは自民党時代は不可能であった。各省庁の大枠は聖域として指を入れることは出来なかった。このシーリングを鳩山政権は打ち破った。すべての予算を組み替え新たな財源を生み出す方針であるという。「予算のあり方についての検討会」を9月28日から4回開催した。メンバーは菅、古川、津村、野田、慶応大学片山氏、一橋大学田中秀明氏、慶応大学土井丈朗氏である。その結果を10月19日の閣議で「予算編成などのあり方の改革について」をきめた。その趣旨は@複数年度を視野にいれたトップダウン型の予算編成、A予算編成執行プロセスの透明化、B年度末の使いきりなど無駄な予算執行の排除、C政策達成目標明示制度の導入であった。民主党政権では総理大臣・大臣・政権党の一体化による国会内閣制の大改革を目指す。最後に菅直人氏の憲法解釈の基本は松下圭一「市民自治の憲法解釈」(岩波新書1975年)からきていることを付記しておく。


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