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舛添要一著 「舛添メモ」 

  少学館(2009年年12月)

厚労官僚との闘い 752日

舛添要一氏は2009年9月12日の政権交代によって、自民党が惨敗したのを受けて厚生労働大臣を辞任した。自公連立の三代のお坊ちゃま世襲内閣(安倍、福田、麻生)の間、2年余り752日間構成労働大臣を務めた。その間に年金記録、薬害C型肝炎訴訟、医療、介護問題、原爆症認定訴訟、雇用危機、新型インフルエンザと次々に起る難問に、ひるむことなく真剣に取り組む姿はメディアを通じて国民には、自公内閣の中で一番働いている大臣と映り、かなり好感を持たれた人物であった。本書は舛添氏本人による756日の厚労省官僚との戦いの記録である。年金問題で露になったように、厚労省には大きな改革が必要である事は国民の目に明らかになった。例えば、医系技官の独善的立場にメスをいれ情報開示を徹底させること、他省庁との連携を強化すること、国際戦略を持つことなど課題が山積みしている。舛添氏の言葉によればこれらの課題に全力で取り組み、厚労省官僚の主流ではない意見を持つ官僚を「改革推進室」に採用したり、医政局長を医系技官以外の事務官に替えたという。一番の仕事は妊婦たらい回し問題をうけて、「医者は余っている」とする閣議決定を「医者は不足している」に変えたことである。厚労省は伝統的に自民党の票田である日本医師会の「都市部では開業医の乱立なので、医者の数を減らしてくれ」という要望を受けて、1980年代末より新自由主義政策による医学部定員減と、医療費の削減に取り組んできた。この結果が産科・小児科・麻酔科・緊急外来の医者が少なくなって医療崩壊という事態になった。舛添大臣の奮闘で、福田内閣のときに医学部定員を1.5倍にすることが決定した。これは凄い力である。ところが政権交代により、厚労省官僚は時計の針を逆回転させているらしい。官僚恐るべし、大臣を騙すことは日常茶飯事であるらしい。舛添氏は「l厚労省は伏魔殿」という。民主党は「官僚主導から政治主導へ」を合言葉にしているが、どの程度官僚と闘えるか、期待と懸念が合い半ばするのである。本書は厚労省大臣としての752日をメモしたものである。したがって自民党がなぜ衆議院選挙で敗れたか、自民党を再生するのどうすればいいのかなど自民党政治家としての言及は殆ど無い。また政治理念についての自説なども聞けない。

いまさら舛添氏のプロフィールの紹介でもないが、一応舛添氏の歩みを整理することは必要だ。舛添氏は1948年福岡県八幡市の生まれで、今では還暦は過ぎている。1971年東京大学法学部政治学科卒業後は、大学に残り東大法学部政治学科助手から、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員などを経て1979年に東京大学教養学部助教授(政治学)となる。フランスの政治・外交を専門とし、国際関係論などを講じていた。1980年代末より『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』などの討論番組に頻繁に出演し、テレビ映えする討論スタイルで脚光を浴びた。1989年6月に東京大学の体質を批判して退官、フリーとなってからはバラエティ番組などにも活動の場を広げ、引っ張りだこの人気者となった。舛添政治経済研究所を設立し、2001年7月、第19回参院選に比例代表区から自民党候補として立候補し、1,588,862票を獲得しトップ当選した。国会や党内では、参議院議員外交防衛委員長、参議院自民党政策審議会会長を務めた。2007年8月安倍信三内閣に厚生労働大臣として初入閣、続いて福田康夫内閣、麻生太郎内閣で引き続いて厚労大臣を務めた。母親の認知症介護体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っている。介護体験は自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つとなり、阿部首相による厚生労働大臣就任へとつながっていった。尊敬する政治家は野中広務と青木幹雄であるそうだ。

1) 消えた年金記録

舛添氏はどちらと言えば年金問題は得意ではなく、むしろこの問題のきっかけは長妻氏の功績であろう。そこでこの問題の詳細は長妻昭著 「消えた年金を追って」を参照していただきたい。とはいえ舛添厚労大臣つまりは安倍内閣の時に「消えた年金記録5000万件」が勃発し、舛添氏はその対応に国会でサンドバックのように叩かれた。それをみていると舛添氏は叩かれ強く、へこたれず前向きにかつ自分の頭で考えて社会的正義の立場から(官僚の代弁者ではなく)処置される姿を見て、わたしは敬意を表したものだった。そもそも「宙に浮いた年金記録」は1997年基礎年金番号に統合する際に、統合し切れなかった記録が出てきたため、持ち主が分らなくなった記録の事である。その事実を社会保険庁の官僚どもが隠して対処しなかった問題である。技術的なコンピュータの名合わせのミスなどが積み重なって、国民の大事な年金を管理するという組織全体としての使命感が決定的に欠如していたために起きたことである。舛添氏は「年金記録を管理する社保庁はひどい組織であった」とあきれ返っている。そのほかにも社保庁の腐敗は大規模保養施設「グリーンピア」の売却問題などが有名である。また花沢武夫氏は「厚生年金保険制度回顧録}において「年金を基金として財団を作れば日銀以上の力がある事になりOBの就職先に困らない。今のうちに年金をドンドン運用して活用しよう」として、この杜撰な運用となった。このあたりのいきさつは岩瀬達哉著 「年金の悲劇」を参照してください。国民の年金を官僚共は退職後の自分の生活の資と考え、素人のくせに箱物や株に放漫で杜撰な運用を行い膨大な損失を出して、年金は虫食いだらけになっていた。恐ろしく腐敗した官僚達である。社保庁が廃止されたのは当然である。社保庁の労働組合との「覚書」で、殆ど仕事をしなくてもいいような労働条件を結んでいる。統合作業のコンピュータ入力作業は完全に外部に丸投げで、社保庁職員は恐らく入力はしていないだろう。だから問題の意味も困難さも理解していなかったようだ。2007年2月から長妻昭議員(現厚労大臣)や山井和則議員(現厚労省政務官)は連日国会で政府を追及した。

安倍総理は参議院選挙演説で「2008年度3月までに5000万件の年金記録問題を解決し、年金を支払います」と約束した。そして参議院選挙で自民党が野党になり安倍首相が辞任して福田首相に代わった、07年11月には名前の消えたデータが500万件ある事が分ったので、名寄せのため07年12月より「ねんきん特別便」を送付することになった。名寄せで持ち主を確認できる記録は2割に当たる1100万件、紙記録にあたってまでも時間をかけて解明が必要な記録が約2000万件である事が分った。紙記録の管理も全く杜撰極まり、順序がめちゃくちゃで記録照合作業も出来ない状態にある物もあった。舛添大臣は「年金記録問題作業員会」を発足させ、厚労省に批判的で官僚達が忌避していた函館大学磯村教授らをメンバーとした。08年春から「名寄せ特別便」の返信が届き始め、現役世代の6割、受給者の2割から返事が届いてなかったので、同年6月「最後の1人まで見つける」という意気込みを示した「年金記録問題今後の道筋」を発表した。そのなかで総理補佐官より「万歳宣言」をしたどうかという官邸の「意志」を舛添大臣に伝えてきた。作業に要する費用より、統合作業を打ち切って申し出した人に年金を払った方が断然安くつくという論理である。そこで舛添大臣は6月福田総理に詰め寄り、「作業を中止するなら大臣を辞任する。内閣は倒れるでしょう」といって、総理の作業中止の意志を変更させた。08年夏は「記録の改竄問題」で国会は紛糾した。社保庁の支持で、年金保険料を払えない企業が雇用者の給料査定を低く書き変える方が倒産よりはましだという浅はかな考えがなした事件であった。この問題には総務省が設立した「年金記録確認第三者委員会」に申し立てを受け付けることになった。そして09年3月段階で「ねんきん特別便」の約7割から返信があり、その内9割の確認が終った。舛添氏は本章の最後で今後年金の一元化、所得比例年金制度、最低補償年金などの年金制度設計が問題となってくるだろうと締めくくった。

2) 医療改革

2007年8月29日奈良県で「妊婦たらい回し事件」が起きて、11件目の受け入れ先の高槻市へ搬送の時、救急車が事故を起こして妊婦は流産した。この間3時間であった。医療は国民の安心の根幹であると舛添氏はいう。問題の根本は「医師不足」にある。病院勤務医の数はこの10年で14%ほど減少している。今日本の医師のそ総数は約26万人で、人口10万人あたりの医師の数は200人で、OECD加盟国の平均310人を下回っている。医師不足からいわゆる病院勤務医には過重労働となって病院をやめる医師が増え、高度医療の中枢である病院の「医療崩壊」となった。現場の医師の声はJMM編集 「現場からの医療改革レポート」に詳しいので参照してください。日本の医療問題の骨格が見えてきます。そして最近は新型インフルエンザ対応での厚労省医系技官の迷走振りと国内医薬品業界との癒着ぶりが良く見えます。医療改革の背景となる厚労省の伝統的政策と医師会、病院の現状などについて本書は紹介しているが、それは省略して、ここでは舛添大臣の医療改革について述べる。医師不足が始まったのは1997年橋本龍太郎内閣の時、財政構造改革の一環として「医学部の定員削減」を閣議決定した。舛添大臣は08年1月に医政局に指示して「安心と希望のビジョン委員会」を設置した。ところがこの医政局が曲者だった。医政局は医系技官の巣窟で「医療行政のトップは医師でなければならない」という思想が生まれ、事務官を排除して医系技官(医師免許を持っているが臨床経験が乏しいか全く無いいわゆるペーパードクター)で占めて、独善的、特権意識に引きずられ、国民の目線から乖離した政策が進められてきた諸悪の根源である。医師不足問題が表面化してからも、医政局は「問題は不足ではなく、地域や診療科の医師の偏在である」という屁理屈をこねていた。08年6月舛添大臣は「安心と希望の医療確保ビジョン」を発表し、97年の閣議決定を変更する医師を表明した。そして医師不足の解消は、福田内閣において「2008年骨太の方針」に明記された。6月27日骨太の方針が閣議決定されたので、97年の閣議決定は消え去った。

舛添大臣はビジョン委員会を通じて、医系技官の抵抗を目のあたりにして、「医療改革とは医系技官改革である」との思いを強くしたという。そこで「ビジョン具体化検討会」を設置し、そのメンバーを官僚が選ぶのではなく、大臣自らが知った有識者に電話をかけ11名を選んだ。そのメンバーとは、以下の人たちである。
山形大学医学部長 嘉山孝正 (脳神経外科医、大学のガンセンター設立者)
早稲田大学教授 和田仁孝 (医療事故コンフリクトマネージメント提唱 法律家)
北里大学産婦人科教授 海野信也
昭和大学医学部産婦人科教授 岡井祟
ホームケアクリニック院長 川越厚 (産婦人科医、末期がん患者在宅ホスピス)
自治医大大学学長 高久史麿 (日本医学界会長 座長)
順天堂大学理事長 小川秀興
国立がんセンター中央病院長 土屋了介
北里大学元医学部長 吉村博邦
元朝日新聞論説委員 国際医療福祉大学教授 大熊由紀子 (医療・福祉ジャーナル専門)
県立柏原病院の小児科を守る会代表 丹生祐子
具体化検討会は08年9月22日に「中間取りまとめ」を発表した。医学部定員を現在の1.5倍に増加させることをめざす結論を得た。ビジョン具体化検討会と平行して、厚労省内に「改革準備室」を設置し、厚労省の主流とは異色の医系技官村重直子氏、政務秘書官福嶋輝彦氏、国立循環器病センター首藤健治氏を抜擢した。その矢先08年10月4日また悲劇が起った。「周産期母子医療センター」に指定されてした都立墨東病院で妊婦が脳内出血で死亡した。たらい回しのあと11件目に運び込まれ手術したが3日後に死亡した。医療崩壊は医療サービスの低下を招き、その結果患者のアクセスが著しく制約される悲しい出来事である。

3) 薬害C型肝炎

世間では、小沢と福田の「大連立」構想や衆参「ねじれ国会」による、福田総理の人気が急低落した08年秋、さらに浮上したのが「C型肝炎薬害訴訟」を巡る厚労省の「命のリスト」情報隠蔽問題である。薬害エイズと全く同じ非加熱血液製剤である「血液凝固第9因子・フィブリノーゲン製剤」によるC型肝炎感染であった。薬害エイズでは血友病患者が救済されたが、なぜその時に同じ製剤による肝炎感染に気がつかなかったのか、医学関係者に厳しく問い正したい。エイズのようにマスメディアで大きく取り上げられなかったためなのか(現在マスメディはエイズ感染の事をほとんど取り上げていないが、患者数は現在もなお増え続けている)、肝炎は静かに進行するので気がつくのが遅くなるという特性のためか、お産後の止血のために産婦人科でフィブリノーゲン製剤が使用されてきたことは分っていたはずで、検査体制をエイズ騒動の時に立ち上げておくべきであった。厚労省は02年当時、製薬メーカーからリストを提出させていた。07年11月7日大阪高裁は原告と国、製薬メーカの和解を勧告した。10月16日国会でこの「命のリスト」の存在に応じて薬剤の使用を患者に知らせたのかという議論が起きた。官僚は舛添大臣に「指名はイニシャルに過ぎず特定できない」といって突っぱねた。そのリストは厚労地下室に眠っており、よく見れば医療機関と投与日月とイニシャルから患者名は医療機関に問い合わせればすぐ分る代物であった。このような事件で責任を取りたくない官僚の欺瞞(情報隠蔽)である事は明白だった。菅直人民主党議員の質問を受けて舛添大臣は418名の特定に全力挙げ、薬害C型肝炎訴訟の年内和解を目指す方針を明らかにした。調査の結果418名のうち57名はすでに死亡しておられ、官僚の不作為が事態をここまで悪化させたことに暗然たる思いにかかられたという。ところが和解案作りを厚労省に命じたが、また官僚の悪知恵が問題の解決を紛糾させた。いつもの手であるが原告団を分裂させるために患者の「線引き」を始めて年内解決が危ぶまれた。原告らは一律救済を求めた。そこで議員立法で「薬害肝炎被害者救済特別措置法」が08年1月11日に衆議院で、15日には参議院で可決され全面解決となった。1月17日舛添大臣は当時の責任者であり医薬局長で独立行政法人「医薬品医療機器総合機構」理事長に天下りしていた人物の責任を追及して更迭させた。すると驚くべきことに厚労省のある幹部が舛添大臣の脅しをかけてきた。「防衛省の守屋氏の例を見るまでもなく、そこまでやるなら大臣や先生方に迷惑がかかりますよ」という内容の、政治家氏名曝露のおどしである。舛添大臣には曝露されるようなスキャンダルは何も無く、その時「腐った官僚根性をいつかは叩きのめしてやる」と誓ったという。

08年1月にはさらに「中国毒餃子事件」が起き、残留農薬問題と合わせ日本中に中国食品は怖いという印象を撒き散らした。福田総理が「消費者庁」の創設に強い意欲を示したのはこの事件がきっかけであったという。中国は絶対に自分側の問題を認めず、日本側の問題だろうと逆襲し、しらを切り通したが天洋食品の毒餃子が中国国内でも問題を起こした。日本の流通過程の問題ではないことがはっきりしたが、今でも公式には中国は見解を発表していない。

4) 新型インフルエンザ

厚生省にいる250人の医系技官のトップが医政局長である。そして大臣は官僚の人事には口出しをしないという不文律がある。小泉第1次内閣の時田中真紀子外務大臣が外務省幹部人事に拒否権を出して、逆に首が飛んだのは田中大臣のほうであった。舛添不大臣は何とか医政局長人事に風穴を開けるつもりであった。次の年の人事にやるつもりで、まず手がけたのは08年3月に設置した「改革準備室」であった。そして7月11日これを「改革推進室」に改組して厚労省改革の大臣キャビネットとした。準備室の3名に加えて6名を任命し9名のキャビネットが出来た。さらに岩田神戸大学教授らの外部メンバーをいれて09年6月には16名となった。ところが洞爺湖サミットでも人気の衰えが止まらなかった福田総理は9月1日突然の辞任会見を行った。悪夢の再現である。自民党総裁選の渦中9月20日「後期高齢者医療制度」を見直すという基本的態度を舛添大臣は表明した。

こうして9月24日麻生内閣が誕生した。麻生内閣を襲ったのは9月のリーマンショックに続く、世界同時代大不況であった。輸出企業を中心に「派遣きり」「雇い止め」という非正規社員のリストラがはじまり、12月までには新たに24万人の失業者が放り出された。合計失業者300万人に迫る勢いであったので、11月に「緊急雇用対策本部」を設置したが、08年大晦日には日比谷公園内に「年越し派遣村」がNPOや労組の支援で出来、宿舎を追い出された失業者約500人を収容した。臨時ハローワークを各所に設け就職斡旋を行った。麻生内閣は補正予算で4000億円の基金を創設し雇用促進策とし、09年度予算でも5000億円規模の雇用対策を盛り込んだ。しかし莫大な国債発行で予算を組んでも景気の回復は目に見えてこなかった。そうこうしている時、08年4月WHO は「新型インフルエンザ」の流行に警告を発した。ここからの事実関係と厚労省のドタバタはJMM編集 「現場からの医療改革レポート」に詳しいので参照して欲しい。4月28日に「新型新フルエンザ対策本部」を設置した。舛添大臣がポイントにおいていたのは検疫や水際対策ではなく、「即座に必要な情報を提供する」ことであったという。5月9日最初の外国からの帰国患者が発生したので、兵庫と大阪府に休校措置を取るよう要請した。5月16日には最初の国内感染患者が確認された。舛添大臣はこの時期「情報の重要性」に意を用いて、厚労省の役人のブリーフィングから情報を得るだけの受け身の態度から、自らがインフルンザ専門家を招いて情報を得るように心がけたという。神戸大学岩田健太郎教授らをヒアリングした。そしてこの時期から感染源探しではなく、国内患者蔓延対策と治療方針に移った。「空港検疫体制は無意味で中止すべきだ」という厚労省官僚なら聞きたくない意見も聞いた。新型インフルエンザ対策は空港検疫なら国交省が絡み。休校や集団接種なら文部省が絡む。危機管理といえば官邸も絡んでくる。これを官僚レベルに任せておくと、縦割り行政の弊害から対応に潤滑さと総合性が欠けるし、話が一向に進まない。ワクチン製造についても一刻を争う時だけに輸入もやむをえないが、厚労省官僚は老舗の国内メーカーとつながりが深いので、相変わらず護送船団方式の官民一体路線で行こうとし、海外ワクチンには何かと難癖をつけて輸入を妨害してくるのである。アジュバントの副作用なんて専門家に聞いたら証拠文献は無いというが、医学の専門家でない大臣なら簡単に騙せると思っているのである。

5) 解散総選挙と政権交代

厚労省では「医政局長」と「健康局長」の役職は専門性が高いとの理由から戦後60年間は医系技官が独占してきた。明治の森鴎外のそのトップになった医者である。なにせ年間34兆円の医療界の頂点である。補正予算と景気対策のなかで麻生内閣は小泉内閣以来の経費削減策を放棄し、積極財政(放漫財政)に移行したので、長年の医療費削減も09年予算では2200億円削減傾向から削減を撤退させた。そして6月26日記者会見を行い、「現職の医系技官トップの医政局長外口祟氏を保険局長(次期事務次官候補)とし、現社会援護局長阿曽沼慎二氏(事務官僚)を医政局長とする」という人事を発表した。こうしてたすきがけ人事で医政局長を事務官とすることが出来た。

麻生総理は09年7月21日衆議院の解散を宣言したが、どうしょうもなくタイミングを失した総選挙で、世論は政権交代の一色になっていた。2月14日中川昭一財務大臣がG7後の記者会見で酩酊状態になっていたことは、麻生内閣の致命傷であった。東国原宮崎県知事の擁立問題では古賀選挙対策委員長の失態が追い討ちした。こうして8月30日の衆議院選挙は自民党の歴史的惨敗で終り、自民と民主党の当選者数が全く逆転し、民主党単独で308議席を超え、自民党は119議席に終った。こうして9月16日舛添氏は労働大臣を辞任し、長妻昭氏に席を譲った。実に三代の内閣で厚労大臣を752日務めたことになる。誰が見ても舛添厚労大臣は内閣の中で一番働く大臣として好評であった。


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