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日本戦没学生記念会編 「きけわだつみのこえ」 

  岩波文庫(1982年年7月)

日本戦没学生の手記 日中戦争・太平洋戦争で逝った動員学徒の魂の叫び

ワダツミの像

「わだつみの像」(立命館大学衣笠キャンパス国際平和ミュージアム)

上の写真は「わだつみの像」である。「わだつみ」は「わた(海)のかみ」と同義で「海をつかさどる神」を意味する。万葉いらいの言葉である。わだつみ像は、戦没学生の悲痛な戦争体験を後の世に伝えようと彫刻家の本郷新によって制作された彫像である。1952年全国の戦没学生が遺した手記を集めて編集した「きけ わだつみのこえ」が刊行された時に、日本戦没学生記念会(わだつみ会)は、刊行収入を基金として、本郷新に依頼しこの戦没学生記念像を制作した。初めわだつみ会は事務局のおかれていた東京大学に寄附を申し出ていたが大学当局が拒否したためここでの建立は実現せず、完成した像は宙に浮いた形になっていた。これを惜しんだ当時の末川博立命館大学総長は1953年に同大学での受け入れを決定し、当時の広小路キャンパスに建立することとなった。この際、立命大でのわだつみ像歓迎集会に合流しようとしていた京都大学の学生デモ隊が荒神橋上で機動隊と衝突し、多数が鴨川に転落・負傷した荒神橋事件を起きた。私は学生時代に立命館大学本部のある広小路キャンパス(広小路通河原町西入る)の前庭でこの青銅色から黒ずんだわたつみ像を何回も見てきた。風雨にさらされた像にこそ感慨が起きたものだが、この写真の像はなんと芸術作品宜しくきれいでいまいち不満足である。なぜなら1969年 立命館大学全共闘によって、像が破壊されるという「わだつみ像」破壊事件が発生した。 そして1976年 わだつみ像は再建立され、立命館大学衣笠キャンパスの図書館で展示され、1992年立命館大学国際平和ミュージアムの開館に伴い展示場を移動され、現在に至っているのである。オールドレフトに対するニューレフトの暴力行為で古い像は破壊された、その後再建造された像は室内に建てられていたのだ。これでは風雪に耐えるという像のイメージが損なわれ、温室育ちのひ弱な悩める青年にしか見えない。 こうして本来「きけわだつみのこえ」は東京大学系であったのが、その伝統が京都に根付いた。その像には当時の立命館総長末川博氏の「未来を信じ未来に生きる」という碑文が彫られている。

「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ」

本書の「きけわだつみのこえ」の由来を述べておこう。一般公募で集まった2000通の題名から、京都の藤谷多喜男さんの短歌「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ」があり、中村克郎氏(岩波文庫本出版の頃の日本戦没学生記念会わだつみ会理事長)の一声で「きけわだつみのこえ」と決まったという。本書のあとがきに中村氏は「本書が戦死者たちの精神の納骨堂であることはもちろんであるが、またわれわれの青春の営為の記念碑でもある」と述べていた。1947年東大戦没学生の手記「はるかなる山河に」が東大協同組合出版部から出された。出版後の本の評価は高く、20万部売れた時点で、東大だけではつまらない、全国戦没学生の手記を出そうという小田切秀雄、野口肇氏らの意見によって、編集が始まったのは1948年春であったという。1949年10月「きけわだつみのこえ」の第1版が完成し世に出たが、評判はすこぶる良かった。そこで1952年2月東京大学出版会から東大新書として発行され、また1959年光文社からカッパブックスとして刊行された。そしてその過程で1950年4月、日本戦没者学生記念会(わだつみ会)が設立された。「きけわだつみのこえ」の第1版の編集過程では多くの議論が重ねられ、本書の内容が一部の現象しか表していないのではないか公平性を欠くというフランス文学者渡辺一美の意見や、戦争讃美や聖戦を信じていた人の声が全く消されているとか、声にならなかった人の苦しみはどうなるのかなどという意見も出た。これにたいして中村克郎氏は当時のGHQ・CIEの軍国主義文書検閲制度のため、「八紘一宇」、「万世一系」、「七世報国」、「天皇陛下万歳」、「九段の社頭で会おう」というような言葉は削除されたという。1949年の編集段階での議論を公平論者の渡辺一美氏は「きけわだつみのこえ」の第1版前書きに相当する「感想」で次のように納得されていた。「公平性を求めたところでかえって、公正を欠くこともある。あの愚劣な戦争とあの極めて残忍暗黒な国家組織と軍隊組織が日本主義と戦争讃美を書かしめた張本人であったことを思えば、これらの痛ましい記録は追い詰められ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に他ならないと考えた。 国家権力に強いられたこの人間の弱さ、この恥ずべき弱さを人間に強いるのが戦争であり、一切の暴力運動である。このような苦しみの上にようやく打ち立てられた平和は、なんとしても守らなければならない。これらの手記は白い墓標であり、このような十字架は二度と立ててはならないはずである」 そして「きけわだつみのこえ」の第1版の「解説」において「ここには日本軍隊とその侵略戦争という死の家に投げ込まれ、やり場のない苦悩で傷ついている若い魂が生々しく裸身を曝している。・・・・・流された血はふたたびそれが決して流されぬようにすること以外によっては償われぬものなのである」とフランス文学者渡辺一美氏はいう。 1982年に岩波文庫版として出版された。1992年「新版きけわだつみのこえ」岩波文庫として出版されたが、私は1991年に買った「1982年岩波文庫版第23刷」を読んだ。今回18年ぶりに再読して叉感銘を新たにした。今日「きけわだつみのこえ」に対しての批判があると云う。立花隆は「天皇と東大」(文藝春秋)でこれを左側からの「歴史の改竄」であると批判した。右側からの批判は、憲法問題と同じでこれを押し付けと感じるか、公平の名のもとに右の見解も入れろという。当時性の失われた今日、歴史をどう切り取るか(編集するか)はその人のかってと判断され、大東亜戦争肯定論もでる始末である。こりない日本人もいることだし、そうならないように注意しなければいけない。なお蛇足ながら本書で二人の戦没学生が「ドイツ戦歿学生の手紙 」のことを書いていた。是非読みたい本である。さらに渡辺一美氏推薦の書 エラスムスの「平和の訴え」も読んでおきたい本である。

本書には75人の戦没学生の文が採用されている。この選択に関しては当事者ではないので何もいえない。与えられたものとして味わってゆこう。文章に改竄があったかどうか、編集されたかどうかも問うまい。ひとつのドキュメンタリー文学作品として読めばいい。趣旨を分りやすくする為にすべての文章には構成や編集が付きものであろう。そこに一定の思想が入るのは当然である。それがなければ羅列にすぎず何が言いたいのか分らなくなる。「死者の言葉をして語らしめよ、編者の出る幕ではない」と中村氏はあとがきにいう。とはいえ私が本書を再読した記念に三人の文を記して置きたい。どうぞ本書を直接お読みください。そして泣いてください。怒ってください。

1)田辺利宏氏の詩(日大卒 昭和16年華中にて戦死)
「夜の春雷」より抜粋 
悲しい護国の鬼達よ/すさまじい夜の春雷にの中に/君たちはまた銃をとり/遠ざかる俺達を呼んでいるのだろうか。/ある者は脳髄を撃ち割られ/ある者は胸部を打ち抜かれ/よろめき叫ぶ君たちの声は/どろどろと俺の胸を打ち/びたびたと冷たいものを頬に通わせる/黒い夜の貨物船上に/悲しい歴史は空から降る/明るい三月の曙のまだ来ぬ中に/夜の春雷よ、遠くへかえれ/友を拉致して遠くへかえれ。
「泥濘」より抜粋
敵を求めて/未知の地図の上を進んでゆく。/愛と美しいものに見離されて/ただひたすらに地の果てに向かい/大行軍は泥濘の中に消える。/ながい悪夢のような大行列は/誰からも忘れられたように夜の中に消えるのだ

2)鈴木実 「遺言状」 (東大法学部学生 昭和20年原爆を受けて8月28日午後9時30分陸軍病院にて死亡)
「どうか父母様、姉上様、妹達よ泣かないでください。魂となって常に皆と一緒に働き皆と一緒に食事をし皆と一緒に笑い悲しみを共にします。・・・・」驚くべきことにこの遺書を書いたが午後9時であった。恐るべき精神力である。

3)木村久夫(京大経済学部学生 昭和21年5月23日シンガポールにてBC戦犯として処刑される)
これは「私は貝になりたい」の見習士官物語である。上司の将校の虚言によって捕虜虐殺の罪をかぶせられ断頭台の露に消える。昭和21年4月22日付けの遺書である。死刑前の1ヶ月の間の感慨を述べた。本メモは当時は紙がなかったので田辺元著「哲学通論」の余白にびっしりと書き込まれていた。偶然手に入れた書が難解を持って知られる哲学書で、木村氏は何回か読んでいたが、死ぬ前にこれを読んで死に就こうとした。よく頭に入ったという。「過去の歴史に照らして、全く無意味のように思える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知する。日本は負けたのである。私は世界人類の気晴らしのひとつとして死んでゆく。これで世界が少しでも静まればよい。・・・かかる不合理は過去において日本人が他国人に強いてきたことであるから、あえて不服は言い得ないのである。日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでゆける。」と木村氏は自分の予定された死刑を客観視できるところが凄い。「今度の事件において、もっとも態度の卑しかったのは陸軍の将校連に多かった。海軍の将校連ははるかに立派であった。私の上級将校連は法廷において真実を陳述することを厳禁し、それがために命令者たる上級将校が懲役ですみ、被命者の私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。美辞麗句で全く内容のないいわゆる精神的な言辞をはきながら、内実において物欲、名誉欲、虚栄心以外の何物でもなかった軍人達は、特に南方占領後の日本軍人は商人にも劣る根性に成り下がった。このような軍人の割拠を許したのも結局は日本人全体の知能程度の浅かったことにある。天皇の名を最も濫用したのも軍人であった。」と痛烈な陸軍軍人の卑劣な根性を非難して余りある。そして死を前にして「私が死んだら、墓や仏壇の前は花で賑やかに飾って欲しい。私の死んだ日は忘れて欲しい。記憶に残るのは私の生まれた日だけであってほしい。」と家族に遺言を残した。死を前に故郷の高知の懐かしい景色が走馬灯のように駆け巡る。恩師にはきっと泣いて頂ける。学途半ばに死ぬ不幸をお許しくださいと本の余白に綴ってゆくのである。「私は高等教育を受けた日本人として何ら恥じるところのない行動をとってきたはずです。どうか私を信じてください。この頃になってようやく死というものが大して恐ろしいものではなくなった」という。処刑半時間前の辞世の歌 「おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔を抱きてゆかん」、「風も凪ぎ雨もやみたり爽やかに朝日をあびて明日は出でなん」


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