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新藤宗幸著 「司法官僚ー裁判所の権力者たち」

  岩波新書(2009年8月)

最高裁判所事務総局の司法官僚の統制と司法の消極性

著者新藤宗幸氏は政治学者で、専修大学、立教大学、千葉大学で行政学を教え研究された。現在千葉大学法経学部教授である。著書には『行政ってなんだろう』(岩波書店[岩波ジュニア新書] 2008年) 、『地方分権』(岩波書店, 1998年/第2版, 2002年) 、『技術官僚――その権力と病理』(岩波新書, 2002年) 、『政治とは、なんだろうか』(岩波書店, 2005年) 、『財政投融資』(東京大学出版会, 2006年) などがある。私は「技術官僚」 岩波新書を読んだことがある。その要旨は「技術官僚王国論ということばあるが、技術職といっても彼らは高度の科学技術的専門性をそなえたプロフェッショナルではなく、殆どの業務は外部委託をする技術の衣をかぶった行政官にすぎない。だからこそ彼らは事務官が口を挟むことを排除しつつの既存の事業の継続に固執し、業界行政に走っているのである。事務官達も技術官僚との共生関係を維持することで膨大な予算の執行とファミリー企業の繁栄によって自らのキャリアパスを安定させるとともに、省益の確保を追及しているのである。そういう意味からして日本の行政を改革するには技術官僚をどうこうというよりも、官僚制度そのものの病理現象の改革を行う必要がある。」ということであった。新藤氏にとって官僚論は先の「技術官僚」についで、7年ぶりに「司法官僚」という本を著わした。

先の「技術官僚」論では国交省の道路・ダム建設見直しや、厚労省の薬害エイズ訴訟問題などの緊急の課題があったので、新藤氏の官僚論は説得力があった。さて今回の「司法官僚」論は、まさに神秘のベールをかぶせられた伏魔殿の中のことのように、我々庶民には縁遠い存在のように感じられ、少なくとも私には何が問題なのかはっきりしていなかった。憲法解釈や基地問題・労働問題などでは政権のいうがままのサプライヤー側有利の結論を出し、やはり裁判所も政治権力のいう通りに動いているなと半ばあきらめ顔であった。そして裁判所は「法の番人」というが、裁量の匙加減で権力の護り神になっているというような一面的な見方しか出来なかった。強い問題意識があってこの本を読んだわけでもないので、私にとって司法や裁判所とはどんなところかを知るための教科書的な意味で読んだわけである。しかし立法、司法、行政の三権分立とはいうが、日本の司法にも、立法・行政の激しいやり取りや葛藤関係と同じような民主主義政治体制を支えるという認識はあるのだろうか。行政訴訟において原告の「訴えの利益」がないとして「門前払い」をし(タヌキを原告としているではなく原告の住民が環境権を争う場合にも)、憲法問題では「立法政策上の問題」では内閣や国会に責任を転嫁して判断しない。また裁判官の「自立」に関する疑問が起きている。アメリカでは異なる州で違った判決が出るが、日本では判決が「ステロタイプ」化して、裁判官の独自性が見えない。これは下級審裁判官は上級審で判決が破られることを畏れているからであろうか。上の意向を見ながら判決を書いているのではないかと思われる。判例主義という過去の判決に矛盾しないようにとすればどうしても「消極性」になってしまう。地裁で画期的な判決が出ることもあるが、必ず高裁で逆転する場合が多い。いったい裁判官は何を守ろうとしているのか。それは憲法・法で定められた国民の権利であるはずだ。国民は憲法で自立を保障された司法に問題を提起し、司法の判断を通じて政策や行政の転換を求めている。たとえ少数の意見であっても選挙では無視されて政治家が取り上げなくとも(多数決の原理)、裁判を起こして是非を問うことが出来る。しかし日米安保条約に関する係争では判決があまりに消極的なことに失望される人は多い。1983年小松基地での自衛隊と米軍機の離着率の差し止め訴訟では、「自衛機の離着陸は民法で騒音訴訟となりうるが、米軍機は日米安保条約できめられていることであり国に差止を求めることは出来ない」とした。2005年イラクへの自衛隊派遣違憲訴訟では、「差し止めは原告の利益に関らないので不適法である」と玄関払いされた。また公職選挙法の定数是正訴訟では格差5以内なら適法という政府見解を受けて、裁判所も杓子定規に問題ないとする。ただ例外は薬害エイズと薬害C型肝炎訴訟では、裁判所のイニシャティヴで和解が成立した。しかし原爆病認定や水俣病訴訟では裁判所の消極性から患者は実に長い間苦しめられた。被告人の人権について、裁判所は被疑者・被告人の勾留請求の審査が甘いというか警察のいうがままである。今年足利事件冤罪事件で明らかになった日本の刑事司法は自白中心主義であるといってよい。警察・検察と共に司法の被告人人件保障に疑問の声が上がっている。

では裁判官とはどういう人達なのか。簡単にキャリアーをいうと、大学の法学部を卒業し(在学中)司法試験に合格して、1年半の司法研修を受け、弁護士・検事・判事の道のひとつである判事を選んだ人達である。日本の裁判官の数は先進国では極めて少ない。10万人当たりの裁判官数は、ドイツが24人、アメリカ10人、イギリス7人であるのに対して日本は2人である。日本の判事は3500人いる。そして常時300件の事件を担当している超多忙な職種である。一週間に3日法廷を開いている。そして「転勤族」で3または5年で転勤を繰り返すので、自宅を持つ人はいない。地域の人と付き合わないことや繁華街には出かけない一般交通機関を利用しないという隔離された人種である。職業倫理意識の高い人で、権威を強く意識する人である。裁判官は司法研修所をおえて「判事補」として任官し、殆どの人は10年後に判事に昇格する。ここで一人前である。判事の任期は10年で、再任のための裁判官評価が行われる。判事の俸給は1号から8号の8段階で上がってゆく。再任制度と俸給号制度が判事のサラリーマン化であり、心理的に種々の統制を受けるようである。戦後日本の司法は、戦前の司法省という行政支配を脱し、最高裁判所を頂点とする独立した組織である。独立した組織である以上、強大な権限を持つ司法行政機構である最高裁事務総局を持っている。本書は@裁判官を統制する「司法官僚」の存在を明らかにし、Aその「司法官僚」のキャリアーパスを見て「エリート選別方式」を明らかにし、Bそして人事政策と裁判の実質である裁判内容に司法官僚の統制の実態を見て、C最後に「市民参加」のために必要な司法改革を考えようとする。

1) 司法官僚とは

1947年8月最高裁判所が発足した。行政権から完全に独立し、最高裁は刑事・民事・行政訴訟の裁判権を与えられ、違憲立法審査権も付与された。日本の司法の大改革を成し遂げたのは皮肉にも占領軍のGHQであった。日本国憲法第六章「司法」第76条ー第82条は、GHQと日本のやり取りがあって成立した。そして同年「裁判所法」が成立し司法制度・司法行政の細部がきめられた。最高裁を頂点として、下級裁判所として高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所をおき、軽微な事件に対応する簡易裁判所をおいた。最高裁長官は内閣の指名に基づき天皇が任命、最高裁判事については内閣が任命し天皇が認証、下級裁判審判事については最高裁判所の指名した名簿にもとづいて内閣が任命するとされた。トップ人事にたいする内閣の指名・任命権は強大であり、司法への政治介入も可能である。これに対して最高裁は内部体制を強化しガードを堅くしてゆくわけであるが、これが司法の官僚化の強い要因となった。裁判所法の制度的特徴には三点ある。
@ 司法行政事務の責任が「裁判官会議」にあることである。戦前の司法省支配から隔絶する根拠がこの裁判官会議に求められる。裁判官は「自立」と「対等」を保障され、誰かの指示・命令を受ける者ではない。そして裁判官会議は合議制の機関である。
A 判事補制度を導入したことである。そして10年の任期制を設定した。判事補は見習いの10年が過ぎると判事に任用される。ただ5年以上の判事補であって判事なみの訴訟実務を担当できる「特例判事捕」となることが出来る。
B 裁判所の経費は、独立して国の予算に計上することである。殆どが人件費である予算が行政府の裁量を経ずして独立して要求することが出来る。司法の独立を象徴する権限である。

裁判所の組織は、最高裁から下級裁判所にいたるまで裁判部門と司法行政部門から構成されている。最高裁は長官が裁判長とする15名の判事からなる「大法廷」と、5名の判事で構成される3つの「小法廷」を裁判部門としている。大法廷は憲法に関する判断や小法廷で意見が二つに分裂した時、裁判官の分限や弾劾問題、人身保護事件などを扱うとされている。最高裁の司法行政部門は「最高裁裁判官会議」によって担われているが、それを補助するものとして1948年「最高裁事務総局」がおかれた。事務総局は事務総長の下に、総務課・広報課・情報政策課、総務局・人事局・経理局の3課3局が官房組織といわれ事務総局の中心で、さらに民事・刑事・行政・家庭の4現局が置かれ、そのほかに司法研修所、書近総合研修所、最高裁図書館がある。最高裁事務局の職員数は約760名で、幹部は職業裁判官が占め、それ以外は事務官である。1950年裁判法特例によって「最高裁判所において指定する職は、判事または判事補をもって充てる」とされた。つまり職業裁判官が事務職につけるということで、これは行政における技術官僚と同じく他の介入を許さない絶大な権限を有するエリート官僚集団を構成する源になった。事務と専門職を同時に帯びるとそこに専断的権力が生まれる。最高裁事務総局の機能を以下に6つにまとめる。
@ 最高裁の規則・規約の作成である。
A 法律・政令の制定に関する法務省との交渉・調整である。
B 裁判官の指名、任命、報酬の決定や裁判官以外の事務官の任命給与などをきめる人事の機能である。
C 予算編成機能である。
D 裁判官会同・協議会の実施である。制度運用や法令解釈を裁判官に徹底する会議である。
E 調査研究、資料の収集である。

では司法官僚とは誰だろうか。それは次の4つのカテゴリーの職にある人々であろう。@最高裁判所事務総局の官房組織といわれる秘書課・総務局・人事局・経理局にいる職業裁判官、A高裁長官、高裁事務局長、地裁・家裁所長、B最高裁判所調査官、C最高裁判所事務総局の「局付」といわれる判事捕の幹部候補生である。その数は、@が26名、Aが108名、Bが約30名、Cが20−23名の合計約190名ほどである。事務総局の事務官約760名に較べても小数である。Aの人々は所在地を最高裁とは異にするので、最高裁事務総局の中のエリート職業裁判官は極めて少数で分り難い。

2) 司法官僚の選別とキャリアーパス

これらの司法官僚はどのようにして選別され養成され、どのようなルートで最高裁判所判事というトップに上り詰めて行くのであろうか。最高裁判所が実施する司法研修所での1年半の教育期間中に、研修所教官らによってまず判事補候補生がリクルートされる。2007年の司法研修修了者は1376名、進路は判事が118名、検事が113名、弁護士が2043名であった。判事や検事の採用数は限られているので、そこで研修所での成績などに基づいて本人の希望を聞きつつ成績超優秀者がリクルートされる。そして判事捕に任用されると、本人の適正や人的ルートや成績から「特例判事捕」と「局付」の一本釣りが行われる。こうした「入口選別」方式で採用された彼らは司法官僚の幹部候補生である。判事補時代の入り口で、司法官僚幹部候補生と、各地の裁判所で裁判官となるグループに分かれる。といっても圧倒的に幹部候補生の数は少ない。出世するのは最高裁の事務総局に勤めている職業裁判官である。本書は歴代の最高裁判所長官、事務総長、最高裁判事、事務総局局長、外部キャリアー、局付、調査官、エリートコースの東京地裁・大阪地裁判事らのキャリアパスを調べて、そのあまりのキャリアーの相似に唖然とするのである。判事補から最高裁判所長官までのルートが予め埋設されているようだ(もちろん誰でもなれるわけではない)。ひとつのキャリアパスを紹介すると、判事捕(東京地裁)→地裁各地→司法研修所付き→東京地裁判事→総務局課長→東京高裁事務局長→東京高裁判事→経理局長→最高裁事務次長→事務総長→名古屋高裁長官→東京高裁長官→最高裁長官というように、絵に描いたような出世コースを辿っている。すべての共通点は局付からスタートする点である。そして最高裁事務総局の官房畑課長を歩んで、東京高裁の判事となり、また事務総局の局長として戻り、事務総長になればまず大出世コースに乗ったことになる。そのあとは東京高裁長官を経て最高裁判事から最高裁長官へ上り詰めて上がりである。

エリート裁判官の人事のしかたをまとめると、まず東京地裁判事補から事務総局付の経歴がスタート点である。この司法官僚候補生はその後事務総局の官房系部局の課長に就任し、そして最高裁長官の直轄組織である3課(秘書・公報・情報)の課長に就任する。とりわけ人事局課長の昇進は確実である。事務総長は例外なく官房系局長から任用され、4現局の局長からの任用はない。事務総長経験者はほぼ全員が最高裁判事になっている。最高裁判所長官には昔、田中耕太郎氏や横田喜三郎氏といった学者がなったことがあるが、いまや最高裁判所長官は職業裁判官の常任ポストになっている。

3) 司法官僚の支配の実態

キャリアーパスはどこの組織にでもある事だし、民間会社においても社長への道は一番功績の大きい部門が長く続いていれば自ずと定まってくる。景気変動で社内力学が変動した時にキャリアパスが揺らぐ。そんなことはある特殊な組織の密室での決め事であり、我々の生活には何の関係もないことであるが、こと裁判所となると税金で仕事を行う国権の最高機関のひとつでもあるので、無関心でいてはいけない。この司法官僚という超エリート集団が国民の目から隔離されたところで権力を自己増殖することが一番危険である。それがどのような弊害を生むのか、司法改革の弊害になってはいないかを検証しよう。裁判所が訴訟を受けて始まるという意味で受動的であるから、司法官僚機構の及ぶ範囲も基本的には裁判所内部の事に過ぎない。つまり司法官僚機構は働きかけの対象としているのは、憲法上つよく「自立」を保障された高度の専門職である職業裁判官である。最高裁判所事務局には下級審の判決について指揮できる権限はない。しかし憲法上、最高裁を除く下級裁判所の裁判官は最高裁が指名する名簿にもとづいて内閣が任命するのであるから、最高裁は人事異動案を作成し、人事を総括している。国会の裁判官訴追委員会の送った青法協メンバーリストに従って、1971年最高裁は宮本氏の判事任用を拒否した。この例はいわば「赤狩り」に手を貸した最高裁判所の任用拒否はこれ1件しかない。判事補から判事へのスクリーニングは法曹の質を高めると期待されていたのだが、判事補から弁護士に転身する人はいても、その逆はなかった。職業裁判官の供給源は自ずと判事補しかいないことになった。

戦後第1回目の判事任命の時期1956年ごろに事務総局は裁判官に対する人事評価をスタートした。この時期に合わせて事務総局が基礎を固めたと理解される。毎年事務総局は裁判官指名名簿には、約100人の判事補任官者に加えて、10年区切りの再任者をいれて総計300名ほどの名簿を作る。一方裁判官の移動転勤は判事補が3年毎、それ以降は4年または5年での移動とされている。この移動には報酬の号棒引き上げ(昇給)が伴う。移動計画は本人の希望を入れて作られ、本人の同意を必要とする。1998年まで人事評価は「考課調査表」に上級者が記入する仕組みであるが、当たり障りのないことが記入されているのみで、事務総局も信頼を置いていなかったようだ。どうも情報は高裁長官など別のルートを参照していた。2000年度司法制度改革審議会の意見書を受けて最高裁は2004年「裁判官の人事評価に関する規則」を定めた。自己評価書の提出を受け面接を行い、長官や所長を評価者として新たな人事評価をおこなうことになったが、自由記載の評価書もまた当たり障りのないことしか記入されておらず「透明性・客観性のある人物評価」とは到底いえない代物であるそうだ。人事評価とは民間会社でも同じようなシステムでやっているが、昇給やボーナス査定に参考として一瞥されるだけのもので、結局は成功報酬的な側面が強い。裁判所の人事は成績評価が不明なので余計に人事評価は客観性を欠くのは宿命であろうか。

2003年最高裁は、司法制度改革審議会一般規則制定諮問委員会の答申を受けて「下級裁判所裁判官指名諮問委員会規則」をつくった。最高裁の密室作業にルールを導入せよというものである。指名諮問委員会には中央委員会と地域委員会の2本立てにして中央作業部会を中央委員会の補佐に当たるということである。作業部会はリストから重点審議者をきめ審議する。最高裁は指名候補者(任官希望者)と経歴書を白紙で送る(コメントをつけない)と、法曹と非法曹委員の中央委員会メンバーが適任かどうかを決定する。最高裁名簿と異なる場合は本人に理由を開示する。さてどこまで中央・地域委員会が実質審議が出来るかどうかにかかっている。

最高裁事務総局は1983年12月全国の地裁高裁の水害訴訟担当裁判官を集めて「裁判官協議会」を開催した。これは水害訴訟最高裁判決の直前であったために判決内容の統一であったのではないかと見られる。その内容は「堤には安全上改善の余地はあったが、直ちに工事を行わないと災害が具体的に予測される状況にはなかった。従って建設大臣による河川管理に瑕疵はなく国家賠償責任はない」というものだ。最高裁事務総局は人事だけでなく、法律の解釈や判決内容についてコントロールしているのではないかという心配が生じた。裁判官会同や協議会は法令解釈や訴訟制度運用について裁判官が協議する場で「あくまで裁判官の研鑽の場」であると言い切るか、「裁判官統制の場」であるのか議論の余地があるようだ。裁判官会同や協議会は事務総局が実施し、議長には最高裁判所判事がなる。公害事件については1969年から1984年までに11回の会同・協議会が開かれており、1974年から1982年には労働事件に関して地位保全仮処分の会同・協議会が開かれた。その結果は「整理解雇等関係事件執務資料」に次のように述べてある。「本来、企業には経営の自由があり、経営上のリスクを負担する以上企業が自己責任において経営上の倫理に基づく判断をするについては、著しい裁量権の逸脱ないし濫用がなければ企業の判断を尊重すべきである」という。判決のステロタイプ化が起きたのはこの時期である。決まり文句のように繰り返された。裁判官会同や協議会開催のニュースは掲載されることはなく、執務資料も取り扱い注意や部外秘の印がおされる。最高裁内部の動向をうかがい知る事が非常に難しくなった。民事・刑事・行政などの事件局が主導する法令解釈についての裁判官会同や協議会に関するニュースはこの13年間「裁判所時報」に一遍も掲載されていない。世の中の動きに合わせて「裁判所情報公開法」の制定が強く望まれる。

4) 司法改革

これまで司法はどちらかといえば議論の対象にならず「孤高の存在」であるばかりか、「密室」でもあった。司法制度改革審議会は「国民の司法参加」を市民裁判官制度のみではなく、裁判所への市民参加の観点で広く議論が必要である。ここで司法改革の歴史を見てみよう。1999年小渕内閣は「司法制度審議会」を設置した。これまで法曹三者(裁判官・検査官・弁護士)の対立から利害調整が出来ずに司法行政改革は実をなさなかった。これに対して「司法制度審議会」には現役の裁判官と検事、政治家を入れずに13名の委員でスタートした。審議会は2001年6月意見書をまとめ、「制度的基盤の整備」、「人的基盤の整備」、「国民の司法参加」を三本の柱に設定した。「制度的基盤の整備」では刑事裁判の時間短縮、法テラスの設置以外は大きな成果は見られない。「人的基盤の整備」では法曹一元化(弁護士から人的供給)は進んでいない。法科大学院の設置だけが「成果」といえるのか。「国民の司法参加」では問題の多い「裁判員制度」、「被害者法廷参加制度」が実現した。2001年12月小泉内閣のもとで「司法制度改革推進本部」が設置され制度設計が始まった。司法行政改革では2003年「下級裁判所裁判官指名諮問委員会」の設置がひとつの成果ではある。しかしまだ閉鎖性、情報公開が進んでいるとはいえない。

著者は司法制度改革の原点として、事務総局に実権を奪われて形骸化した裁判官会議の復活を提唱する。裁判所法によれば各裁判所の司法行政事務はそれぞれの対等な立場の判事による裁判所会議において決定される。行政組織はどこでもピラミッド型の中央集権組織であり権力化しやすいものであるが、裁判所会議はフラットな決定機関である。この「裁判官平等原理」は司法行政の官僚制を打破する上での画期的組織であったはずだ。実態は事務総局で取りまとめた原案を承認するだけの会議でしかない。裁判官人事システムは最高裁事務総局が実質的に強大な権限を持っているのは、「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する」という名簿作成機能にあり、そして裁判官会議に名簿原案を提出するのが事務総局であるからだ。裁判官会議は寄り合いの臨時機能であるので、だから権力はいつも事務総局に落ちることになっている。それをシステム的に改革するには、分権化することである。高裁区域ごとに裁判官名簿をつくるとすれば、一元的名簿作成の機運は生じないはずである。地域裁判官人事諮問委員会の設置で公開すれば、統一的管理はできなくなる。そこには弁護士、検察の利害関係者は排除する。そして官僚的指導・助言の源である研修・研究の統一的開催を廃止することである。また裁判所情報公開法の制定と市民参加が必要である。今ある「司法行政文書開示要綱」は官僚裁判官の裁量に過ぎず、市民が要求してなされる性格ではなく、第三者機関による審査制度もない。2003年にスタートした地裁・家裁の裁判所委員会は裁判所運営に意見を述べることが出来る。しかしその東京地裁委員会構成は所長を委員長とし、14名の内地裁判事が4名も参加するもので、市民参加というよりは地裁主催の懇談会形式にちかく「市民の監視」というには程遠い。どのような組織を作っても官僚は自分の都合のいいように運営する。それは委員の任命をするのも官僚側にあるからだ。各省の「審議会」委員の任命と同じことで、賛成派しか集めてこないからである。市民にとっての司法改革とは、なによりも裁判官と裁判所の自立の制度的条件を整えることである。裁判官の人事システムや各裁判所の「自治と分権」を基本とした司法機構の改革が重要であろう。それによって、市民に理解できる判決が出される素地をつくるのであるから。


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