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東野治之著 「鑑真」

  岩波新書(2009年11月)

鑑真が日本にもたらしたもの、日本で根付かなかったもの

鑑真和上

国宝「鑑真和上像」(御影堂)

唐招提寺は奈良時代唐から来日した鑑真(688−763年)が創建した。唐招提寺に行くには京都駅から近鉄で奈良市西大寺駅で乗り換え西の京駅で降りる。駅前に薬師寺があり、歩いて北上すること約15分(約800m)で唐招提寺に着く。唐招提寺は大和古寺の雰囲気を残す数すくない寺である。しかも奈良時代に作られた金堂は、全国でもここだけで、1250年の風格が漂う。2000年より金堂の保存修理事業が始まり、2009年秋11月に「金堂平成大修理落慶法要」が行われた。本書はその落慶記念のために著わされたようだ。私は金堂の修理が始まる前と修理中の2回唐招提寺を訪れた。目的はもちろん鑑真和上像を拝謁するためと、東山魁夷の描いた御影堂の障壁画を見るためである。鑑真像が祀られている御影堂には、宸殿の間に青緑の大海原の「濤声」、鑑真像のある間には水墨画「中国の風景 揚州、桂林、黄山」、上段の間には焼き群青色の美しい「日本の風景 山雲」の障壁画がある。この作品群については東山魁夷自身の著書である東山魁夷小画集「唐招提寺全障壁画」 新潮文庫(1881)に詳しい。下の絵は上段の間の「山雲」の一部である。

東山魁夷御影堂壁画「山雪」

御影堂宸殿 上段の間 東山魁夷画「山雲」

本書の「はじめに」に著者は本書の目的を、来日に当たっての苦労話よりも、来日前に鑑真が何を身につけていたか、また来日後にどのような活動をしたのかを探ったといっている。本書の拠りどころは、淡海三船が779年に著わした「唐大和上東征伝」、唐僧思託が788年に著わした「延暦僧禄」、「続日本紀」、唐僧思託による「大唐伝戒師僧名記ー大和上鑑真伝」などであるそうだ。

1) 鑑真の唐での活動

鑑真は688年揚州で漢の時代から続く名家に生まれた。名は淳于という。唐代の楊州は大運河の起点として長江と黄河を結び、唐の都長安に通じる物資や交通の要所として栄えた港町であった。当時はもっと河口に近く上海のような位置にあったといわれ、東南アジアとの交益の中心でもあった。そのころの唐は5代目の皇帝、睿宗の時代であったが、実権は母の則天武后が握り、武氏は新しく周という国家を建て唐が中断するという革命が起きたが、武氏は熱心な仏教徒であったので、鑑真はよい時代に生まれてというべきであろう。当時の日本は持統天皇の飛鳥時代であった。鑑真は智満禅師について出家し沙弥となり楊州の大雲寺に所属したが、のちに龍興寺に移った。沙弥の守らなければならない戒めは「沙弥十戒法ならびに威儀」という仏典に記されている。唐の国家のために祈願する寺(国分寺)である大雲寺というのが唐の体制宗教となった。鑑真はそこで道岸禅師から「菩薩戒」を受け、僧見習いの沙弥から僧(在家、出家を問わない)になった。

菩薩戒は大乗仏教に特有なものだ。仏教には大きく小乗仏教と大乗仏教の流れがある。戒律は本来小乗仏教のもので、インドで自治的な僧団を作った僧達が、信仰生活を送るための規範とした戒めや規律であった。戒律には、道徳的な「戒」と、僧団生活を送る規律である「律」に分かれる。小乗仏教では個人が修行を通じて悟りを開き救われることを目的とする為、わずらわしいほどの細かな生活指導(規範)が定められる。それに対して大乗仏教では、すべての生きるものが救われることを目標とするため、他の人に尽くす行いに務め(利他行)、将来悟りを開いて仏となるひとが菩薩である。菩薩には僧俗は問われない。菩薩戒は3つからなり、@生きるための戒め(摂律儀戒)、A良い行いをすることの薦め(摂善法戒)、Bすべての生き物のために尽くすこと(摂衆生戒)という「三聚浄戒」とも呼ばれる。菩薩戒の経典「梵網経」では58の戒が立てられる。小乗仏教の戒律には「四分律」という経典がある。戒律は僧団で起った犯罪行為を罰するために、「波羅夷」(追放)から懺悔までの罪を設けている。僧団の自治を目指すことで、戒律が仏教の本質と深い関係になることは(律宗という宗派)、日本のような上からの宗教団体作りを行ったところでは理解されないかもしれない。中国唐においても、インド起源の仏教をどう受け入れてゆくかという問題があった。小乗の戒律と大乗仏教の融合、戒律の中国化という難題があった。中国における「四分律」の研究は、道宣(南山派)の注釈に始まった。道岸も道宣に学んだ。鑑真が南山派の律僧とされるのは当然である。唐代に律といえば「四分律」という考えがかたまった。

707年鑑真は長安に入り、正式な僧になるため実際寺の弘景より「具足戒」を受けた。具足戒はまさにインド由来の小乗仏教の規範である。菩薩戒と違い正式の僧になる人だけに施される。そして俗世間から離れることになる。僧団を梵語で「サンガーラーマー」(僧伽藍)といい、そこでの生活規範が具足戒である。具足戒の数は250戒あり、20歳以上でないと受戒できないし、受戒するにふさわしい資格基準を満たしているかどうか(具足している)を問われる。この審査は厳重に行われ、10人の僧の立会いを要する。「三師七証」といって、戒実施の最高判定者を「和上」、あと二人は「羯磨師」、「教授師」が三師となった。そして七人の高僧の立会が必要であった。鑑真は長安で20代の前半の5年間を経、律、論の「三蔵」を学んだ。鑑真が学んだ第1の分野は律で、それも道宣の流れを汲む南山しゅうである。その師は弘景、道岸、融済という人々であった。第2の分野は同じ律の相部宗であった。「四分律疏」の講義を受けたという。第3の分野は天台宗である。慧思がきずいた宗派で大乗仏教の「法華経」信仰が基礎になっている。鑑真は弘景から天台宗を学んだ。さらに浄土教も学んだようだ。26歳になった鑑真はいよいよ故郷の楊州に戻り、律と注釈の講義、造寺造仏に熱心に取り組んだ。造寺は修行をする僧達の宿舎でありその生活に困らない「供養」という僧の実務能力も磨いたようだ。無論財源は戒を授けた際の喜捨であった。鑑真の活動を記す直接史料は殆どないようだ。鑑真自身の著書がないこともその理由となっている。わずか鑑真の高弟だった人がその後高僧になって居る事から鑑真の業績がしのばれる。そして鑑真が742年に日本の留学僧に会う前の、唐の仏教状況を見ておこう。武氏の「周」が亡んでから、中宗が返り咲き皇帝となったが唐の威勢は戻らず混乱していたが、玄宗皇帝は「開元・天宝の治」で唐を復興させた。玄宗皇帝が仏教だけでなく道教も重視したため、仏教界は微妙な立場に追い込まれた。

2) 来日の決意

742年楊州の大明寺で律を講じていた鑑真のもとに二人の日本人留学僧が尋ねてきた。733年遣唐使で入唐した栄叡と普照であった。日本に戒律の師を招くという使命をおびてやってきたのだ。なぜ日本の仏教に戒律が必要であったかをみてゆこう。百済から日本に仏教が伝えられたのは538年であった。それ以来200年、推古朝の終わりごろには寺院は46箇所、僧尼は1385人と数えられている(日本書紀)。唐の戒律に照らして、彼らが本当に僧であったかははなはだ疑わしい。ある時僧が祖父を斧で切り殺す事件が発生した。僧の自治組織がない時代には僧の犯罪は俗権力で処罰された。これは日本において僧団というものが成立しておらず、戒律に沿って営まれる僧の世界が自立していなかったことを意味する。この事件を契機に僧尼の統制機関が生まれ、僧正・僧都・法頭から成り立っていたが、僧正以外は俗人が任命さた。584年日本で始めて三人の尼が出家したが、11歳の子供も含まれていた。「四分律」では20歳以下の出家は禁止されている。653年藤原鎌足の長男定恵が留学僧として遣唐使に加わったのは11歳であった。645年朝廷でも気になっていたようで、十戒という僧職がおかれた。はたしてこれらの組織が機能していたかどうかはわからない。678年帰国した道光という僧が「四分律」のダイジェスト版を作った(60巻を1卷にまとめたもの)。日本においては仏教は朝廷によって選び取られた性格が強く、国策による受け入れに終始していた。こうして戒律を巡る状況はたいした改善がないまま奈良時代まで続いたと思われる。718年唐から帰国した道慈という僧は「愚志」という本に「今日本の仏法は、全く大唐の聖教の法則に異なり」といっている。

733年の遣唐使の派遣において戒律の師を招く企画が具体化したのは、養老から神亀年間(717−728年)に盛んになった行基集団の布教活動に起因があるらしい。日本書紀には717年行基が民衆の間で布教し托鉢して廻っていることは令に反するとして禁止された。当時は僧尼令があり、勝手に出家する者が増え、正業を棄てる人々が広がってくると、租税負担が減り国家としても放置することが出来ないという趣旨であった。しかし行基集団の大衆動員力が無視できないことが分ると、朝廷は妥協策して、「男は61歳以上、女は55歳以上は出家することを許す、托鉢は禁止する」という詔勅を出した。こうして行基を体制内に取り込んだ。そして朝廷は僧尼集団の修行や資格について勉強と規制に乗り出した。隆尊という僧が舎人親王に、戒律を伝える人を唐から招く要請をしたといわれる。それに興福寺の道慈の主導があって聖武天皇を動かした。このような使命を帯びて栄叡と普照が渡唐した。彼らは長安に入り大福先寺の定賓を和上として始めて具足戒を受けた。二人は742年楊州の鑑真に面会して渡日を懇願した。時に鑑真55歳、日本にわたる決意と21人の僧の同行を約束した。鑑真和上の渡日の苦労については、淡海三船の「唐大和上東征伝」を下書きにして書かれた井上靖の名作「天平の甍」の方がロマンがあって面白い。本書は渡日の苦労談は省略する。6回のトライがあったが、密告と裏切りで事が露顕して、投獄されたり、河口で座礁して大洋に出る前に失敗した第2次渡航、海で遭難して海南島まで流れついた第5回渡航を経て、ようやく第6回目は、遣唐使藤原清河らが帰る時に同船し、玄宗皇帝の許可が得られないまま密出国して成功した。その間留学僧栄叡の病没、鑑真の愛弟子祥彦の死去、鑑真の目が見えなくなったことなど不幸が襲った。

3) 授戒の和上

753年一行は難波津に着いた。僧が14名、尼3人、優婆塞ら計24名であった。朝廷から迎えの使いが現れ、東大寺に入った。歓迎役の良弁は東大寺の大仏を自慢げに鑑真に案内したという。そして同時に帰国した遣唐使の吉備真備が勅使として「今より以後、受戒と伝律は、一に大徳に任す」と伝えた。勅命による「大徳」とは鑑真を始め、法進、曇静、思祐、義静、普照、延慶(藤原仲麻呂の長男)を含めた7人の受戒有資格者である。来日してまず鑑真は良弁に日本にある「華厳経」、「大涅槃経」、「大集経」、「大品経」を一そろい借り出しを申請した。この4つの経は天台大師智顕が究極の大乗経典と呼んだ根本の経であり、日本ではこれらに「法華経」を加えた5つを「五部大乗経」といって尊重してきた。鑑真は日本にある経の内容をチェックしたのであろう。まず日本に仏教がどう伝わっているかを調べたのであろうか。そして藤原仲麻呂の援助を得て、「華厳経」、「大集経」、「大品経」の写経事業を開始した。そうして大仏殿の前に戒壇が築かれ、聖武天皇と娘の孝謙天皇が菩薩戒を受戒した。続いて440余名の沙弥が具足戒を受けて僧となった。755年東大寺に講堂や僧房を備えた戒壇院が勅命で造営された。鑑真が説く受戒と戒律が急速に普及していったかといえば、必ずしもそうではなかったようだ。普照伝には「聖朝に至れるより、合国の僧、伏さず。無戒にして伝戒の由来を知らず、僧数足らず」という状況であった。その中で756年聖武天皇の崩御があり、18種の僧具を羯磨する作法について議論する会があったが、興福寺の法寂という一人の僧が鑑真の考えに大声を上げて反対し憤死するという事件が発生した。これには鑑真の近くにいて受戒の機会が与えられた者に対する、多くの不満の僧が妬んでいたことを示している。

聖武天皇の崩御の直後に、鑑真は良弁と並んで大僧都、法進は律師に任じられ、僧綱(僧組織の元締め)の役職を務めることになった。7人の僧綱のうち3人が唐僧で、やはり唐僧に対する反発も強かったようだ。761年には天下三戒壇として、東大寺戒壇院、下野薬師寺、大宰府観世音寺が整った。鑑真を支えた人々には、聖武天皇、光明皇太后、藤原仲麻呂らがいた。756年藤原仲麻呂が「恵美の押勝の乱」を起こして敗死する前に鑑真がなくなったのは幸いだったのかもしれない。この前の年に唐では安禄山の乱が勃発した。戒壇の構造については道宣が「関中創立戒壇図経」を著わした。壇は三重で、上壇には仏舎利を納めるとなっていた。東大寺戒壇院は上壇に多宝塔が置かれ、中に釈迦像と多宝の二仏がある。その戒壇上で受戒が行われ、上壇に三師七証の10人の高僧が居並び受戒を授ける。13難と10遮が確認されて有資格事項が問われる。受戒後の教育は三千威儀という作法が教えられる。こうして制度が整備されてゆく中で、758年鑑真は大僧都の職を解かれ「大和上」の称号を与えられた。これは名誉職で事実上の引退であった。東大寺の和上を引き継いだのは鑑真の一番弟子の法進であった。

4) 唐招提寺
唐招提寺金堂

鑑真は引退後平城京の西京に土地を与えられ、759年に唐招提寺が建立された。この地は新田部親王の邸宅があったところである。新田部親王の息子氷上真人塩焼が橘仲麻呂の乱に連座して失脚し、皇室を追われて臣下にくだった。屋敷は「没官」で没収された土地を、鑑真が拝領したしたものであろう。私的な隠居寺であったと思われるが、孝謙天皇の書といわれる「官額」を貰っているところから官寺ということも出来る。唐招提寺の由来については「唐招提寺流記」(835年)に詳しい。羂索堂と仏像は藤原清河家から寄進され、食堂は藤原仲麻呂家からの寄進され、講堂は平城宮の東朝集殿が移築された。金堂は鑑真の死後だいぶ経ってから完成されたようだ。柱の年輪の年代鑑定の結果では781年の材料が用いられている。鑑真の高弟である唐僧思託は鑑真と一緒に唐招提寺に移ったが、思託の書いた「延暦僧禄」には「後に真和上、唐寺に移住するに、人の謗りを被る」とある。何か内紛か、日本の仏教界から確執が生じたようだ。トラブルの原因を財政問題から説明する人も入る。唐招提寺を造営するにあたり、757年備前国の田百町を天皇より与えられた。その名目が「東大寺唐禅院の十万衆僧供養料」(続日本紀)とある。鑑真の唐招提寺に与えられたものではなく、東大寺のものであると云う見解も出てくるというのだ。鑑真・思託としては寺の維持、戒律研修の僧の生活のためにも寺院領が必要であった。唐招提寺が東大寺の機能分離による付属寺なのかが争点になるのは当然かもしれない。

では唐招提寺で学ぶ戒律について考えてゆこう。戒律とは仏陀の教えではなく、独立した僧団を運営して行くためのものであった。実践してまなび集団生活の中で身につける訓練である。「四分律」は受戒後5年間の研修を義務づけている。ところが当時の日本では正式な具足戒さえなく、このような研修が行われているはずもなかった。唐招提寺が始めてその研修の場となった。しかし詔勅では「戒律を学ばんと欲するものは、皆属して学ばしめよ」となっており、希望者だけでいいことになる。まことに見事な日本的骨抜きである。唐招提寺の本尊は盧舎那仏であることから、東大寺の配置を習って建立したものと考えられる。東大寺にあって唐招提寺にないものは、西塔、南中門だけであり、唐招提寺は省略し小さくした東大寺といってもよい。唐招提寺にとって、戒壇で行う授戒は眼目というものではなく、僧の集団生活の場が絶対的必要なのであって、規律を守れなかった僧に対する合議制裁判の場としての戒壇が必要であったというべきであろう。授戒は東大寺の専有事項で、引退した鑑真には僧の教育だけが任されたというべきだろう。鑑真は763年5月6日76歳で生涯を閉じる。鑑真は思託に遺言をして、生前に像を作り、御影堂を設けて像を安置せよといったというが、どうもうそ臭い後日の作り話であろう。この肖像が、国宝「鑑真和上像」である。乾漆作りの写実的な表現である。肖像彫刻の傑作であろうことは論を待たない。

5) 鑑真が伝えたもの

鑑真は来日に際して、多くの文物文化も請来した。淡海三船の書いた「鑑真大和上東征伝」によると、鑑真が請来したものには、@食糧その他の日常品 A経典・典籍 B仏像 C仏具・調度品 D香料・薬だといわれる。経典には「華厳経」、「大涅槃経」、「大集経」、「大品経」、「四分律」、「律大三部」、天台宗関係の三大部、「摩訶止観」、「法華玄義」、「法華文句」、そして書には王義之、王献之の直筆などがあった。これらの文物から鑑真が抱いていた目論見は、日本に大乗仏教と律・天台の宗論を請来しようとする方針があったようだ。来日後暫くすると鑑真は東大寺の写経所において仏典の校正や校訂という「勘経」を盛んに行った。ただあるだけの経典が日本において内容に深く踏み込んだ研究が行われる契機となった。鑑真がもたらした天台宗の三経典は平安時代に最澄が日本の天台宗を開く機会を与えたという意味で大きな功績であるといえる。最澄に具足戒を授けたといわれる鑑真の高弟法進は、「沙弥十戒ならびに威儀経疏」において、天台大師智顕の書が手元にあるから学びたい人は写経してもよいと呼びかけている。鑑真と一緒に盛唐の仏教美術関係職人も多く来日して、天平末期から平安時代初期の仏像製作に携わったと考えられる。高価な輸入白檀から日本特産の檜の木造彫刻が主流になっていったのも鑑真の功績だといわれる。西大寺の造営に鑑真の愛弟子の思託がかかわり、西大寺を統べる大鎮にはあの普照が任じられたのも鑑真の影響力が思われる。

鑑真がもたらした文物・文化は比較的順調に受け入れられていったと思われるが、肝腎の「戒律」は日本の仏教界にどう受け入れられたのだろうか。「沙弥十戒ならびに威儀経疏」という注釈書を著わした法進は僧や沙弥の振る舞い・風俗が国や土地によって全く違うことを指摘している。インドの風俗は中国の風俗とは異なるし、日本においても違う。夏のすごし方「安居」や、中国では歌舞音曲を禁じているのに日本では歌を詠じるし、博打やスポーツについても風俗が異なる。中国でも儒教の親孝行が絶対的に尊ばれているので、わざわざ偽経「父母恩重経」を作っている。法進は「梵網経註」において、出家者が皇帝に拝礼すべきかどうかという問題について、建前として「国王は僧に礼すべし」といっている。絶対権力を持つ皇帝や天皇が仏教を統制下に入れている現実は同じであろうから、あえて宗教の原則を述べて、日本に仏教を興隆させようとした意気込みは感じられる。では鑑真がなくなって100年後の日本では、鑑真が日本仏教に植えつけようとした「戒律」はどうなったのだろうか。研修の場としての唐招招提寺でさえ希望者を受け入れたに過ぎない。とうぜん授戒は官僧に対する資格授与の手続きになっていった。日本の仏教は多分に上からの奨励で広まったという性格を持っている。律令国家が鑑真に求めたのは、つまるところ僧侶に対する資格審査を厳重にすることにあったようだ。それ以上の僧団の自治的世界は国家としてはありがた迷惑であったというべきだろう。865年入唐僧であった慧運は、「授戒自体が全く形骸化し、にわか僧や14歳以下でも外見だけの授戒をやっている」と朝廷に訴えた。しかも授戒の席で席順を巡って争い、十師に殴りかかる者もいる有様であった。これが鑑真来日後100年の状況であった。こうして鑑真が苦労してもたらした戒律「具足戒」は全くに日本に根付かなかった。しかし鑑真の教えは別のところで受け継がれた。それは最澄の「大乗戒」である天台宗であった。比叡山に戒壇を設け「大乗戒」を授けた後12年間比叡山で修行することを義務づけたのである。天台宗は日本の仏教の原点であり、法然、親鸞、道元、日蓮に代表される、浄土宗、禅宗、法華教が派生した。その源に鑑真がいた。日本の仏教は本当の意味での戒律をもたない仏教になってしまった。日本ではほとんどが妻帯の仏教者であるのは、世界の仏教界では奇妙に映るらしい。無戒が公認されている仏教は世界に類がない。


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