091126

高橋昌明著 「平家の群像ー物語から史実へ」

  岩波新書(2009年10月)

平維盛と重衡の「平家物語」の描くイメージと実像を史実から考える 歴史研究の醍醐味

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 生者必衰の理をあらわす 奢れる者久しからず 唯春の夜の夢の如し・・・・・・・・・」名文ではあるが線香くさい。平家物語は平家滅亡の物語である。平家の栄華の頂点とその歴史的意義を語らず、貴族階級の目から皮肉にも平家滅亡の因果応報のみを説くのである。だから、いわれるようにこれは平家の一門とその周囲の人々の「死に様」の物語である。すべてが死に収束してゆく所こそ「平家物語」という作品の到達点であり、死の文学(タナトスの文学)と言われる所以である。日本人の好きな「滅びの美学」の情緒に訴えるところが愛読される理由の一つであろう。
「平家物語」を文藝散歩コーナーで紹介したので参照してほしい。さてこの本は「平家物語」にこだわるものではない。平安時代末期の歴史に輝いた平家一族の物語を再構成しようとすれば、「平家物語」が一番頼りやすいのであるが、かならずしも実像ではない。平家物語は優れた文学作品であるが、逆に言えば文学的に潤色されており実像と外れた部分も多いという。著者高橋昌明氏は日本中世史がご専門で、「平清盛 福原の夢」(講談社選書メチェ)を著わされ、「六波羅幕府」や「平家系新王朝」という新しい言葉を生んで話題となった人である。鎌倉幕府の先例となった武家政権の樹立を主張されている。これまで平家というと宮廷文化の中で議論されていた。しかし清盛の夢は福原を新都とする武家政権であったという。平家は深く宮廷に入り込んで、摂関家を追い出して権力を握り天皇家と同盟を結んだ。そういう意味では平家王朝の樹立といってもいいかもしれないが、活動の基盤は荘園私有制を基にした武家政権である。

平家の歴史を語るとき平清盛を中心に描くのが通例であった。これに対し本書では、二人の平家の公達を取り上げている。一人は清盛の嫡子重盛の小松家を選んでその嫡子である維盛にスポットを当てる。もう一人は清盛の5男重衡にスポットを当てる。重衡の系列は清盛の妻時子(二位の尼)の女系統の家系である。つまり平家清盛の惣領家と、傍流かもしれないが清盛を支えた女系一族という捉え方である。維盛と重衡は年格好も官職もよく似ていた。維盛は挙措優美、美男で知られ光源氏の再来と噂された人である。重衡は牡丹の花に喩えられる艶霊さをもち陽性でユーモア−のセンスがあって、戦えば勝つ常勝将軍であった。二人は平家を代表する華やかなキャラクターを持つ一門の双璧と見られていた。二人の活躍の舞台に入る前に、清盛が権力を獲得するまでの時代背景を見ておこう。

平氏の起源は、桓武天皇の皇子葛原親王が臣籍におりて平姓を賜ったことに発する。葛原親王の系統は高棟と高望を祖とする二流に大別する。高棟流はそのまま宮廷貴族となり、時子の父平時信はこの系統である。これに対して高望流は上総に根を張り板東平氏の流派が生じた。上総・中村・秩父・大庭・梶原という家はその末裔である。平将門を討った貞盛の子の維衡が伊勢に方面の進出した。維衡が伊勢平氏の祖となった。維衡は国守、受領を歴任し、藤原道長らの摂関家に武力や貢物で奉仕したという。このような伊勢平氏を軍事貴族という。下級貴族とはいえ身分は「侍」に近く位階は六位程度であった。五位以上を貴族といい、殿上人・公卿はまさに雲の上の存在であった。そうしたさえない存在の伊勢平氏が飛躍を開始したのは院政期に入ってからである。院政というのは宮廷権力の二重構造で、幼少の天皇をおいて天皇の父(上皇)が政務を見るのが院庁である。天皇在位期間は短いので複数の上皇がいるのが常で、上皇が出家すれば法皇になる。何も分らない幼少の天皇が成長して青年になると退位して、上皇になって政治を行うという天皇無力化システムである。1086年白河天皇退位後の、白河・鳥羽・後白河の三院政、約100年間が院政の全盛期であった。これは天皇家が天皇の外戚である摂関家から実権を奪い返すひとつの政体であった。院に仕えるのが院の近習で、院司の最上者を別当という律令制にはない職制である。清盛の祖父平正盛は白河院に仕え、祇園女御や藤原顕季らと結んで勢力をひろげ、海賊追捕や寺院大衆の強訴阻止に力を発揮した。清盛の父平忠盛は白河院に仕えて検非違使や国守や海賊追捕使を歴任し、鳥羽院に仕えて顕季の子である藤原家成と連携した。鳥羽院の別当となり刑部卿という公卿直前まで出世した。この藤原顕季と家成の流を「善勝寺流」という。父忠盛の苦労は平家物語「殿上闇討」でこう語られている。
「平忠盛(清盛の父)は鳥羽院のために三十三間堂を寄進し、但馬の国を賜り、昇殿を許される。ここから平家の運が上向きになった。このことを嫉む人々が忠盛を御所で闇討ちしようと狙っているところ、肌身に小刀をもち、大刀を女官にあずけ、庭には家貞を待機させておいた。殿上人は「伊勢瓶子(平氏にかける)はす甕(スガメすなわち斜視にかける)なりけり」といって忠盛を嘲ったが、結局気勢をそがれて闇討ちは出来なかった。後日「刀を帯びて昇殿し兵を庭においたことは狼藉である。殿上人から抹殺すべし」と院に訴え出た。院は武士の習いとして訴えを受けず沙汰に及ばなかった。公家貴族(藤原氏)と武家との勢力が拮抗している様子が窺える。忠盛も蓄財に励んだようで御堂を院に寄進して取り入ったところは隅に置けない。」

平清盛は1118年生まれ、忠盛の嫡子であるが白河法皇の落胤といわれる。これが異常な出世の秘密かもしれない。院政期にはいると律令制は無きも同然で、恐ろしい勢いで土地の私有制である荘園が作られていった。もともと朝廷が摂関家・大寺院のために土地の支配権を認めたもので、律令の国有制度との間に大きな抗争、力づくでの占有という紛争を生み出した。土地をめぐる領有権と年貢押収紛争を有利に導くための実力行使が増え、また大寺院では朝廷への強訴が相次いだ。この辺の中世の土地所有の実態については石母田 正著  「中世的世界の形成」(岩波文庫)に詳しいので参照して欲しい。武士が存在感を増したのは、各種の衝突が社会の緊張感ウィ著しく高めたからである。貴族の用心棒としての武士が台頭し、無力な貴族を食っていったのである。出自や位階の世界から実力の世界が出現し始めたのである。王朝内部の対立に摂関家の分裂がからんで発生したのが保元・平治の乱である。室町時代の「応仁の乱」よりは分りやすいので、拮抗関係を記す。1156年に起きた保元の乱は、鳥羽院と藤原得子(美福門院)の間に出来た体仁親王(のちの近衛天皇)を即位させるために祟徳天皇を退位させたことに端を発する。それに摂関家の藤原忠道と父忠実・弟頼長の摂政を巡る争いが加わった。ところが近衛天皇が急死したたtめ、忠道は美福門院と組んで後白河天皇を即位させた(将来守人親王を天皇につける前提で)ため、祟徳天皇は子である重仁親王に天皇位を伝えることができずまた院政をしくことも出来ないため怒りが爆発した。鳥羽院が没すると、後白河天皇派は忠通を味方につけ、祟徳天皇と忠実と頼長派を挑発し武力衝突となった。後白河天皇派には平清盛と源義朝がつき、祟徳天皇派には源為義と平忠正がついて戦争になり後白河天皇派が勝利した。保元の乱後政界の主導権を握った信西入道(通憲)は美福門院と図って、後白河天皇が二条天皇に譲位した。すると藤原経宗・惟方らが天皇親政を推進しようとした。之に藤原信頼が反信西派が結集して1159年に平治の乱が 起きた。天皇親政派には源義朝がつき、後白河上皇派には平清盛が付いた。そして戦いは清盛の勝利となって、他の武家勢力とは格段の地位と勢力を得た。

清盛は1160年参議正三位となり、内大臣、太政大臣に進んだ。後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の五代の天皇の時代に院制を主導し、源頼朝から「天狗」と綽名された。清盛は後白河の室建春門院(清盛の妻時子の姉平滋子)の子である憲仁親王(後の高倉天皇)即位を図るという点で、後白河上皇と利害が一致した。清盛は大病を患い出家したが回復し、六条天皇を降ろして高倉天皇を即位させた。そして娘徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させた。清盛は摂津福原に引きこもって法衣姿で六波羅を通じて政界を操った。平家一門の惣領となった六波羅に陣取る嫡子重盛は国の軍事警察権を司った。ただ平家一門の宮廷での発言権はあまり高くはない。それは朝廷内の有職故事や伝統的行事を司れないからである。天皇家の政治とは殆ど行事・祭式化していたからだ。したがって親平家の公卿を操って院に働きかける方式であった。著者はこの時期の福原と六波羅の二拠点で構成された平家の権力を「六波羅幕府」と呼んだ。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。こうして権力を一挙に握った平家が、反平家感情の集中攻撃を受けるのは当然であったといえる。反平家の乱が次々と計画され、1177年「鹿ケ谷事件」がおき平家と後白河院との暗闘が表面化した。1180年清盛は後白河院の政権を奪取し、院を無力化するクーデターに成功した。そして同年安徳天皇を即位させ、清盛は外戚という摂関家の地位を得たが、「以仁王の乱」が起きたので、京の反平家勢力の暗躍を嫌って遷都し天皇を福原に移した。これが「平家新王朝」といわれる。1180年8月には頼朝の挙兵となり源平合戦という内乱の始まりとなった。これで大体舞台背景の解説は終わり、平家一門の没落の歴史と維盛、重衡の実像に迫る準備が出来た。

著者は平家の一族の実像に迫るというが、見てきたわけでもないので結局は実証的歴史学でいう文献の解釈となる。ただ著者が主張したい実像とは平家物語のイメージから逃れて迫りたいということである。すると文献としては文学作品「平家物語」以外の史実を猟歩することになり、なにが史実らしいかを推測することである。歴史を研究するためには同時代史料によるわけであるが、古記録、古文書という断片的な史料のお世話になる。またストーリーのある編纂された後世の歴史書も利点がある。そこで著者が引用した同時代文献を記す。
物語,文学作品
1)  「平家物語」 覚一本、延慶本、長門本
2) 「建礼門院右京太夫集」
3) 「十訓抄」
4) 「愚管抄」
5) 「安元御賀記」
6) 「平家公達草紙」
7) 「源平盛衰記」
8) 「平家花揃」
古記録・古文書
1) 「玉葉」
2) 「兵範記」
3) 「山槐記」
4) 「吉記」
5) 定家「明月記」
6) 「山丞記」
7) 「百練記」
8) 「吾妻鏡」
9) 「平安遺文」
10) 「鎌倉遺文」

1) 小松家の「賢人」重盛と「光源氏」維盛

平家一門を構成する人々を紹介する。まず清盛の兄弟から始める。長男清盛、次男家盛、三男経盛、四男教盛、五男頼盛、六男忠度であった。家盛と頼盛は同母であるが、他はみな母親が違う異母兄弟である。家盛は若死にし、忠度は薩摩の守ぐらいで出世しなかったので、清盛の権力掌握に参加したのは、経盛、教盛、頼盛であった。兄弟の出世の具合は母方の家柄地位や経済力に左右されるので、経盛は58歳で参議に上がったぐらいで清盛の評価も高くなかった。むしろかれは藤原多子に20年余仕え宮廷内の役割が多く和歌にも達者で平家歌人のひとりであった。教盛は保元・平治の乱前後に国守を歴任、憲仁親王の皇太子問題で失脚するが、高倉天皇の時蔵人頭となる。母方は藤原家隆の娘で、従2位正中納言に進んだ。家が六波羅の惣門の脇にあったので「門脇の宰相」と呼ばれた。頼盛も国守や知行国主(院政期に普及した公卿の私的な国支配のために任じられる制度)を歴任し、大宰府大弐となり従三位に進んだ。正二位権大納言に昇り、清盛の弟中一番出世であった。彼の家を「池大納言家」というのは、頼盛の母が藤原宗兼の娘宗子(池禅尼)であったからだ。宗子は藤原顕季と家成の「善勝寺流」の縁者である。頼盛は八条院の女院勢力と結んで、清盛と二大勢力を形成したが、清盛との関係は必ずしも良好ではなかった。

清盛の嫡子重盛は平治の乱で功を挙げ伊予守となった。28歳で従三位、参議となった。権中納言、海賊追捕使と国家軍政の総責任者の地位についた。そして清盛の太政大臣辞任に伴い、重盛は氏の長者を継承した。清盛が福原へ退去すると重盛は六波羅幕府を継いだ。権大納言、内大臣兼左大将となったので、彼の家を「小松内大臣家」と呼ぶ。重盛は善勝寺流の家成の3男で後白河近臣筆頭の成親の妹経子を妻にした。この経子との間に清経、有盛、師盛、忠房の四人の子供ができた。重盛は善勝寺流の藤原成親だけでなく、左大臣大炊御門家藤原経宗とも親交が厚く、有識の知識を得ていた。複雑な閨閥関係を結んで有力な藤原貴族を味方にしていた。重盛の「賢人」ぶりを描いた場面には平家物語の「殿下乗合」事件がある。
殿下乗合
後白河上皇がご出家され法皇となって政治を支配した。後白河法皇は内心は清盛が余りに天下をほしいままにしていることに、天皇家の威信をきずかわれているようだった。清盛も別に天皇家を恨む事もなかったのであるが、嘉応二年小松殿(重盛卿)の次男資盛の摂関家(藤原基房)への乱暴家狼藉事件が発生して世の乱れ始める兆しとなった。摂関家(藤原基房)が御所へ参内する道で、狩を終えて六波羅に帰る13歳の資盛一行30人の騎馬に遭遇した。摂関家の車に下馬の礼を取らなかったとして、基房は資盛一行に恥辱を与えた。これを聞いた清盛はいかに摂関家といえど清盛への侮辱であるといきり立ったが、重盛卿はわが息子に非があるとした。それでも清盛は納まらず、無骨者60余名に命じて基房卿の車を襲って舎人の髷を切って仕返しをした。鎌足以来の藤原摂関家への恥辱でもあった。重盛卿はこれを聞いて驚き、資盛を伊勢の国に追放して謝罪した。この話は藤原摂関家と武家の棟梁平清盛の勢力の争いで、清盛は摂関家を叩くことができたが、天皇家(藤原家とほぼイコール)の不興を買い、後白河法皇と敵対関係になってゆく。重盛卿はいつも清盛を諌める役を演じているが、重盛卿が平家一門と後白河法皇の折衝に当っていたことが分る。バランス役の政治家であった。
ところが愚管抄には全く逆に「深く妬み給いて」とある。事実は仕返しは資盛の父重盛の仕業であると云う。清盛を悪者に、重盛を賢人に描くことが平家物語のストーリーである。重盛には長男維盛、次男資盛、三男清経、四男有盛、五男師盛、六男忠房がいた。

重盛の嫡子は維盛である。当時の宮廷の重鎮右大臣九条兼実の日記「玉葉」は当事者の日記として信憑性の高い第1級の史料である。それによると9歳で従五位からスタートし従三位になったのが23歳であった。順調な昇進であるがやはり重盛の嫡子であることによるのであろう。維盛は例のない美貌をもつと「建礼門院右京太夫集」、「玉葉」にも書かれており、後白河法皇50歳を祝う宴で、「青海波の舞い」を踊った維盛の晴れ姿が「安元後賀記」に記され、光源氏の再来かと評価された。維盛の才能は管弦、朗詠、舞踊など音楽系にあったといわれ、自身は和歌は得意でないという。維重は武の点では臆病であったといわれる。南都春日大社の堂衆との対決では引き返してしまう。1177年の鹿ケ谷事件は藤原成親、西光、俊寛らが平家打倒のために会合しただけのことであるが密告によって事は露顕し、清盛は怒って藤原成親を配流する。重盛は妻経子の実家の謀反であり大いに苦悩し、近衛大将と内大臣を辞任した。「平家物語」は重盛の信仰への没入を描くが、これは成親の謀反によって父清盛との溝が深まり、一族の中で孤立を深めつつあった彼の内面を描いているようだ。小松家の中では経子の子清経が後退し、1179年重盛が亡くなると嫡子維盛の位置も後退し、次第に後白河との位置関係から資盛が重要視され彼が小松家の惣領となった。平家物語では重盛ー維盛ー六代という系統で小松家の流と見ていたが、それはどうも史実ではないようだ。「皇代暦」では資盛が小松家を相伝したとなっている。

2) 牡丹の花の武将 重衡

平治の乱前後は平家を清盛と頼盛が二分していたが、清盛の覇権が確立すると全盛期の平家一門では先行する重盛を次第に圧倒してゆくのが、清盛の正妻時子(二位の尼)とその子および一族である。母系の一族が平家の惣領となってゆく。平の時子の父平時信は高棟の系統の平氏である。母系の一族が覇権を取るのは鎌倉時代の北条時子でも同じで、頼朝の死後源氏の子を次々に滅ぼして北条家が鎌倉幕府を乗っ取った。しかも北条家は坂東平氏の流れである。源平の戦いとは文学作品のストーリーとしては面白いが、実態は御家人の土地を巡る熾烈な争いと考えられる。清盛との間には宗盛、知盛、重盛、徳子(安徳天皇の母、高倉天皇の正妻建礼門院)が生まれた。平時信の娘滋子(時子の姉、建春門院)は美貌を持って後白河院の室となり高倉天皇を生んだ。清盛は妻時子を介して後白河院と関係が強まるのである。時子の兄時忠は政治力に優れ、検非違使庁別当、弁官局の事務官僚を勤めた実務派政治家であり、憲仁(後の高倉天皇)の即位を焦って失脚したが、清盛が後白河院と同盟を結ぶと復権して、三事兼帯となって政治の実務に精通した人物となった。徳子が高倉天皇の中宮に立つと、時忠は正二位権大納言になった。平家物語では暗愚な大将と描かれる時子の長男宗盛は異母長男の重盛が没すると平家の嫡子となり、清盛も没すると時子の力を背景に平家一門の総師となり内大臣になった。また宗盛は滋子(建春門院)の妹清子を妻にしている。院政期には院が天皇の中宮を差配することによって皇太子誕生の過程に関与し、さらに皇位の行方も決定するという皇位継承システムが出来上がった。中宮・後宮への女を提供してきた藤原摂関家の外戚としての権力を院政で奪い返した形であるが、それも平家によって実質的に牛耳られるようになった後白河院の苛立ちは如何ばかりであったろうか。

時子の次男知盛は世間からは「入道相国最愛の息子」と見られていたので、1177年三位中将になり、武蔵の知行国主となり高倉院の御厨別当となった。彼の御家人には後に頼朝の有力な武将になる熊谷直実がいる。時子の三男重衡は本三位中将になり、天皇や後宮の関係が極めて深い。二条天皇中宮藤原育子や滋子の「御給」で官を得て来た。徳子が入内すると言仁親王(後の安徳天皇)の東宮亮となった。1180年重衡は高倉天皇の蔵人頭となり、安徳天皇が即位するとその蔵人頭となり、高倉院の別当も務めた。清盛は重衡と維盛を安徳天皇の近習として世間に認知させたかったようだ。重衡の妻は藤原邦綱の娘輔子で、言仁親王の乳母となった。邦綱家は歴代天皇の乳母を出す家柄で裕福な家であった。右京太夫集や平家公達草子では重衡をユーモアのある陽気な公達として描かれ「牡丹の花」と喩えられ、維盛は「樺桜」と喩えられる。「玉葉」には重衡を「武勇に堪える器量」と称賛しており将師の器であった。平家物語では知盛を平家の軍事指導者と描いているが、これには重衡の軍功が重なっているようである。その分重衡は明るく優なる公達となった。平家知行国は全て清盛が差配していたが、清盛なきあとは実権は妻時子に移った。知盛は優れた軍事指導者であったが、1180年近江美濃の追討戦において、病(てんかん様)に倒れ、重衡が総大将となった。平家物語は清盛を驕れる暴君とし、宗盛を暗愚で不甲斐ない一門の総師、知盛を必死に運命と戦う将軍、重盛を清盛を諌める賢人という対立項で描いている。たしかに宗盛の決断のまずさと行動の逡巡は平家には不利に働いたようだ。

3) 源平の戦いの中の二人 大将軍として

源平の内乱に入る前に平家の御家人制を見てゆこう。平家は平治の乱以降国家を守護する役目を負い、諸国の御家人を国単位で輪番で都に上がらせ、内裏の警護に当たらせた。源氏・平家という武士は紛れもなく身分は低かったが軍事貴族である。貴族の中から武士が生まれ台頭して、天皇・摂関家より政治の実権を奪ったのである。平家こそ史上初の幕府(六波羅幕府)であったと著者はいう。平家は貴族化し宮廷に埋没したため、御家人の支持を失い源氏によって滅ぼされたという見解は、貴族対武士の対立項でみている。もともと平家は武士貴族であった。武家の棟梁たる平家の政治的・経済的基盤は、六波羅幕府の御家人に対する軍事警察権の付与と人事権にあり、宮廷への距離を置いた統治方式は鎌倉幕府に受け継がれたというべきであろう。鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」にも「地頭と称する者は平家の家人なり、朝恩にあらず 国司領家、荘園に定め補す」という平家時代の地頭制を書いている。家人は主従の強固な関係に結ばれ「譜代相伝の家人」であった。平家の家人には二つの型があった。
1)初めから従者であった 侍大将クラス:伊藤(藤原)景綱 [景綱の子] 忠直、忠清、景家の兄弟  [忠清の子] 上総忠綱、忠光、景清、忠経 [景家の子] 飛騨景高、景経  [瀬尾兼康]、[難波経遠]
2)伊勢平氏の子孫:筑後守家貞、家継、貞能、家実の兄弟、薩摩入道家季、家資、主目判官盛国の3兄弟盛俊、盛信、盛久、盛綱、盛次、盛澄
平家の家人は清盛に直結するのではなく、平家一門の各家と個別的に主従関係を結んでいる。各家の侍所によって御家人を統制した。各家の御家人を見てゆこう。
小松家の御家人:重盛は清盛の御家人を多くを引き継いだ。伊藤忠清、筑後家貞で乳母子の関係であった。
宗盛の御家人:伊藤景家
知盛の御家人:源為長、武蔵左衛門有国、監物太郎、伊賀家長
重衡の御家人:後頭兵衛盛長、平重国
頼盛の御家人:弥平兵衛宗清

1180年から1185年の平家の滅亡まで足かけ6年にわたって戦われた源平の内乱は、単に源平の戦いだけではなく石母田正が指摘するように、「源平の争いと関係なしに地方でも国衙を攻撃して土地台帳を破棄する反乱が広がった」大きな歴史的変革期であったという。国衙・荘園の支配への反抗によるこの内乱を「治承・寿永の内乱」と呼んだ。平家は政権掌握と知行国・荘園の大量集積によって、当時進行しつつあった中央と地方の土地所有制の矛盾を一手に引き受けてしまった。1180年以仁王が平家打倒の挙兵を呼びかけると、反乱は全国に広がった。伊豆で頼朝が、信濃では義仲が、甲斐では武田信義が挙兵した。駿河の富士川では平家は敗れたが、近江・美濃では反平家の討伐戦を続け、南都の寺院勢力を焼き討ちした。翌年2月清盛がなくなって宗盛が惣官の職に任じられ戦線の立て直しを図り、飢饉でしばらく戦線は膠着した。1183年からふたたび大規模な戦闘が起った。北陸の掃討戦で義仲に破れた平家は京都を追われ、安徳天皇を奉じて西海に逃れた。平家は四国中国で一時勢力を盛り返したが、1184年一の谷、讃岐の屋島、長門の壇ノ浦で破れて平家は滅亡した。

この内乱時の平家の軍制をみてゆこう。平家のもっとも精鋭部隊は追討使に先立って使わされた先制攻撃隊で、伊藤忠清・景家らである。以仁王の乱の時清盛はこの二人の精鋭部隊で反乱を平定した。侍大将の誰が動いたかによって大将軍がきまる。伊藤忠清が侍大将なら大将軍は自動的に維盛であった。富士川の戦いで清盛は大将軍維盛に「いくさをば忠清にまかせさせ給へ」と命令した。宗家は総大将なのでそのような御家人との関係はない。実質の総大将は知盛と重衡であった。重衡には伊藤景家が侍大将となった。源義経と梶原の関係も同じである。富士川の戦いの大将維盛の軍事的無能振りが平家物語のストーリーである。藤原定長の日記「山丞記」には、近江・美濃の掃討戦で平家は活躍するが,その東国追討使に知盛が任じられたと記されている。藤原定家の日記「明月記」には知盛が率いた一族郎党には、清経、通盛、経正、忠度、知度、清房らの名を挙げている。知盛は自らの御家人と宗盛の御家人を率いたのである。南都興福寺との対決には瀬尾兼康以下500騎を派遣したが破れたので、重衡を大将軍とする軍が派遣され、興福寺・東大寺を焼き払った。翌年2月清盛が死ぬと宗盛が惣官となって、東国撃滅に平家軍が総動員された。重衡は1万3000騎を率いて東下し、伊藤景高を侍大将として、源行家らの源氏を破り美濃墨俣で大勝した。吉田経房の日記「吉記」が墨俣合戦記を書いている。著者は墨俣で平家が勝利したことを富士川の惨めな敗戦とくらべて、将軍重衡の参戦を重要なファクターと見ている。内乱が大きく動き出すは、1183年木曾義仲が北陸に進出してからである。

1183年4月、木曾義仲を討つために「4万人」の追討軍が派遣されたが、大将軍は維盛で、知盛や重衡の名は見えない。人材が払底していたところに養和の大飢饉の真っ最中に大動員が掛けられた。要するにこのにわか大遠征軍の兵站は整っておらず、飢饉で現地調達もままならぬ状態で、最初から戦闘能力が低かったのではなかろうか。調達隊がおもむいても「人民こらえずして,山野に逃散す」(平家覚一本北国下向)状態であった。決戦は5−6月に行われ平家は礪波山で大敗した。その敗因は「玉葉」では盛俊・景家・忠経の三人の平家の侍大将の主導権争いであったらしいと書いている。若武者維盛ではこの内紛を収め切れなかったことが敗因である。

4) 平家都落ち 追われる一門

7月義仲の軍は近江に進み、都の周辺は丹波に足利判官矢田義清、伊賀に源行家、大和に源信親、摂津に多田行綱が現れた。都落ちを推進したのは宗盛と重衡であった。しかし大事なところで後白河法皇と摂政基通に逃げられた。平家は資盛と平貞能が近江の敵を討つために出陣して宇治に宿営した。知盛・重衡・頼盛らは山科に陣を取った。平忠度は矢田義清に押されて丹波道の大江山に退いた。平行盛は北の高野川に陣を取った。これが平家の都の防衛軍であったが、都は攻めるのは容易で守るに難しかった。後白河法皇は比叡山に逃れたので、7月25日安徳天皇と建礼門院を奉じて平家一族は淀から西へ都落ちとなった。平時忠は神器を擁して、六波羅と西六条の邸宅に火をかけた。平家以外の貴族で都落ちした人は数えるほどしかいなかった。都に妻子を残した資盛や維盛の未練は平家物語で涙を誘う話となっている。伊藤忠清、貞頼は同行せずに出家して都にとどまった。頼朝の助命に尽力した池禅尼の子である頼盛は都落ちにも誘われなかった。一行を追った資盛は途中で引き返して都にとどまり命は助かった。伊勢平氏の平信兼は源義経に合流した。平家の歌人の筆頭である薩摩の守忠度は引き返して藤原俊成をたずね和歌百首を託したという。その内1首が読み人知らずとして「千載和歌集」に収録された話は平家物語に有名である。経盛・経正・行盛らの歌も読み人氏ら図の措置が取られた。都では3種の神器(神璽)の喪失を巡って、大きな矛盾にさらされた。8月高倉天皇の4男が後鳥羽天皇になったが、「百練抄」は天皇不在期間26日と三種の神器不在での践祖を皮肉っている。このことが後鳥羽天皇のトラウマとなったことは定家の「明月記」に詳しいので参照してください。

5) 一の谷から壇ノ浦 平家一門の終焉

1183年9月後白河法皇は木曾義仲に平家追討を命じた。源行家を追討使に加えるように義仲に命じたが、義仲はライバルを入れたくないので断り、また北陸宮(以仁王の遺児)の即位を院に迫るなど院と義仲の間は険悪になった。院は頼朝の東海道・東山道の行政権掌握を追認する宣旨をだした。重盛・通盛は義仲を備中水島で破り、播摩室山で源行家を破るなど平家は盛り返した。義仲は院と決定的に対立し、院の法住寺を焼き討ちし院を幽閉した。短期間ながら義仲の専制となった。軍事的に劣勢となり、西は平家、東は頼朝から挟撃されて苦境に立った義仲は、平家との間に和平や共同戦線を求めたようだがご破算となった。1184年1月後白河法皇から義仲追討の命を受けた源範頼と義経軍が近江と宇治から侵攻し、義仲は琵琶湖粟津の浜で家人今井四郎兼平と共に討ち死にした。平家はこのころ福原にいたが、義仲を討ち取った範頼は海岸沿いに大手の生田の森にせまり、義経は丹波路を取って三草山に陣を取り、本隊は一の谷の搦め手にまわり、別働隊が鵯越から福原の背後を突いた。院の和平提案のそぶりに騙された平家は油断していたのであろうか、2月17日決定的な敗北を喫す。重衡は生け捕りされ、通盛、忠度、経俊らは範頼軍に討たれ、経正、師盛、教盛らは甲斐安田義定軍に討ち取られ、敦盛、知章、業盛、盛俊らは義経軍に討ち取られ、首を切られた者は千人余であった。宗盛、知盛、経盛らは安徳天皇,建礼門院と神璽と共に海に逃れた。

院側は生け捕った重衡と神璽の交換を打診したが、平家側は拒否したと平家物語は書いているが、これは完全な虚構であると著者は主張する。「玉葉」では宗盛の返事は和親が趣旨で、源平の平和共存を願っているという。院は鎌倉殿が承知しないだろうと苦渋したという。重衡の身柄は梶原景時が鎌倉に連行した。南都焼き討ちの恨みを買った重衡は南都に送られ、南都に着く前に斬首された。そして平家追討は梶原景時と土肥実平が赴いた。鎌倉の方針は範頼が梶原景時と土肥実平を率いて西国の平家を討ち、義経は都の守護と近畿の平家残党征伐ということであった。ところが範頼が苦戦しているのを見て義経は独断で四国に渡り、讃岐屋島の平家を攻めて瀬戸内海に平家を追い出した。ここで梶原景時と義経の間に決定的な亀裂が生まれた。平家物語で梶原は「功を焦る義経は将の器にあらず」と断定した。そうこうするうちに維盛は平家の戦列を脱走し、熊野入水自殺したという悲劇の貴公子という筋書きである。範頼は山陽道を長門まで下り、義経軍は海路で平家を追った。義経軍は熊野水軍の湛増の援軍を得て増強し、壇ノ浦決戦に臨んだ。3月24日激しい海戦が開始され、平家は文字通り海の藻屑と消えた。安徳天皇は二位尼に抱かれて入水、知盛、教盛、経盛、資盛、有盛、行盛らは討ち死にもしくは入水した。建礼門院、宗盛、清宗親子は入水したものの救助され生け捕りとなった。それにしても平家物語では宗盛は怯懦の極みと描かれている。平家物語の人物把握はまさに周到であり、それが史実であるかどうかより、史実とは別のリアリティを構築しているから不思議である。優れた文学作品である。神器のうち、神鏡は無事、神璽は海中より回収されたが、宝剣は行方不明となった。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system