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徳永恂著 「現代思想の断層ー神なき時代の模索」

  岩波新書(2009年9月)

ニーチェ は神を殺したが、断層に直面して20世紀の思想家達の模索は続く。

「神は死んだ」ニーチェの宣告は、ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い断層をもたらした。「神の力」から解放され、戦争と物質文明の翻弄されている20世紀に、思想家たちは自らの思想をどのように模索しているのだろうか。著者はドイツ・ユダヤ系の思想家、ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノの4人をとりあげ、ハイデガーを対極において、未完のままの思想を読み解く。現代を生きるということは、過去を振り返りながらか、未来を見据えながらの二つの側面の上に成り立っている。ベンヤミンの「歴史の天使」は過去の廃墟をみながら、後ろ向きのまま進歩の強風にあおられて未来へ進んでゆくのである。歴史の中にいる私達は全体を鳥瞰できるわけでもなく、一直線上を未来に向かって進んでいるという実感はなく、縦横に走るいく筋もの断層と、先は消えて行くかもしれないいく筋もの水脈を見つけるのである。既成概念を崩壊させる時代の激変を見ながら、断層のなかに差異と共通性を見る。「本書は20世紀思想を貫いているそういう断層を、高所から見るのではなく、その内部から描き出すことである」と著者はいう。20世紀は「ポストニーチェ」の時代である。西欧の中世から近世を強く支配していたキリスト教一神教に「神は死んだ」という宣告を突きつけた後の、思想の裂け目から出発した。「神は死んだ」とは「最高価値の没落」であり、西欧的ニヒリズムの到来となった。それを克服するためにニーチェは「超人」に期待したのだ。その超人願望はナチスの暴力支配に利用された。ウェーバーは最高価値が没落した後は「多価値」という分裂に立ち向かうに「責任の倫理」を使命とした。フロイトは3つの一神教を相対化して、自然支配の止揚をめざした。ベンヤミンはユダヤ教的神秘主義を強調し、「救済無き啓示」を希求した。アドルノは救済のない哲学は空虚であるとして「偶像否定」を貫いた。これらドイツ・ユダヤ系思想家に対してハイデガーはキリスト教をこえるために、ソクラテス以前のギリシャ的存在論を尋ねた。そしてこれらの思想は全て未完の断片に終った。「歴史が未完である限り、物語もまた未完でなければならない」ということかもしれない。著者は「受け継ぐべきバトンは何も直前の走者からとは限らない。今はアウシェビッツと原子爆弾の時代からリレーしたいと思う」という。それほど20世紀中頃の断層が深いようで、思想的にはそこから何も進展していないというのだろうか。

ベルリンの壁の崩壊後、冷戦という「大きな物語」または「イデオロギー」の終焉が噂されてきた。特定の価値観点から歴史過程を一括するいわゆる「史観」が成り立たないことが指摘され、「歴史法則」という科学モデルも力がなかった。「大きな物語」の後退は開放感をもたらしたが、ある種の空白を生み出した。「ポストモダン」も「大きな物語」を前提とした大雑把な議論だったのかもしれない。歴史を時間を軸として語る「歴史記述」は錯覚である。歴史を見るとは時間の只中にいる人には断面を切り取る作業である。誰が大局に立てるであろうか。従って20世紀を縦に貫いている断層を横断的に切り取ってうかがうという方法しかない。ベンヤミンはこれを「静止状態の弁証法」といった。かれは断面から「存在と神学」が現代思想の一大活力源であるとした。ギリシャ存在論(ヘレニズム)とキリスト教神学(ヘブライズム)という異質のプレートがぶつかり合う活断層である。本書に取り上げた4名の思想家はその断層に痕跡を残した、それも廃墟かもしれない。思想史はもともと個人の思想家からなるディスクリート空間である。非連続の連続とも言える。思想史の単位は「個人」であるので、「断片と中断」を本質とする。AとBは連続してはいないが、関数関係があるとはいえる。4名の思想家の未完の断章とは、ウエーバーでは「世界宗教の経済倫理」であり、フロイトでは「モーゼと一神教」であり、ベンヤミンでは「パサージュ論」であり、アドルノでは「啓蒙の弁証法」であり、ハイデガーでは「存在と時間」であった。

徳永恂氏のプロフィールを書末より紹介する。1929年生まれ、1951年東京大学文学部卒業、3年間ドイツに留学し、アドルノに師事する。1976年イスラエルに留学。北海道大学から大阪大学教授となる。専門は現代ドイツ哲学・社会思想史である。現大阪大学名誉教授、神戸・ユダヤ文化研究会会長。阪大在職中に収集されたユダヤ関係文献は、国内屈指の規模を誇る一大蔵書群。日本のユダヤ研究の礎を築いた。主な著著に「社会哲学の復権」 講談社学術文庫、「ヴェニスのゲットーにて」 みすず書房、、「フランクフルト学派の展開:20世紀思想の断層」 新曜社、「インド・ユダヤ人の光と闇 新曜社、「ヴェニスからアウシュヴィッツへ ― ユダヤ人殉難の地で考える 」講談社学術文庫、「アドルノ批判のプリズム 」平凡社選書、「社会哲学の復権」  講談社学術文庫、翻訳にアドルノ/ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」 岩波文庫、「マックス・ウェ−バ−と妻マリアンネ ― 結婚生活の光と影」 クリスタ・クリュ−ガ−/徳永恂 / 新曜社、「アドルノ伝」 シュテファン・ミュラ−・ド−ム/徳永恂 /作品社、「アドルノ ― 解放の弁証法」 ゲルハルト・シュベッペンホイザ−/徳永恂 作品社などがある。本書を読んでみて、業界専門用語の使用が比較的少なくて理解しやすいことが好感が持てた。独特の多義性を特徴とする哲学用語がなくて、普通の用語で語るのでなければ、私のような哲学音痴には到底寄り付けなかった。それで内容が理解できたかどうかは別であるが。本書で取り上げた思想家四人のうち三人がユダヤ人(系)である。本書はユダヤ教・キリスト教というヘブライイズム抜きには語れない。著者もユダヤ教研究者として名高い。ユダヤ教を知っておいた方が理解に役立つと思うので、「旧約聖書の世界」を紹介するので参照していただきたい。

マックス・ウェーバーと「価値の多神教」

マックス・ヴェーバー(1864年 - 1920年)は、ドイツの社会学者・経済学者である。研究分野は経済学を含む社会科学全般 、学派は歴史学派 と称せられる。ウエーバーの業績を辿っておこう。西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理を、「合理性」と仮定し、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放」と捉え、比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)であり、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。この論文は大きな反響と論争を引き起こすことになったが、特に当時のマルクス主義における、宗教は上部構造であって下部構造である経済に規定されるという唯物論への反証としての意義があった。その後、この比較宗教社会学は、「世界宗教の経済倫理」という形で研究課題として一般化され、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教などの研究へと進んだが、原始キリスト教、カトリック、イスラム教へと続き、プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究は未完に終わった。ヴェーバーのそうした一連の宗教社会学の論文と並んで、もう一つの大きな研究の流れは、「経済と社会」という形で論文集としてまとめられた。後に「社会経済学綱要」と名づけられた比較文明史・経済史的なケーススタディである。、「経済と社会」の中の「支配の社会学」における、支配の三類型、すなわち「合法的支配」、「伝統的支配」および「カリスマ的支配」は有名である。日本においては、丸山眞男、大塚久雄らに強い影響を与えた。特に第二次世界大戦における日本の敗戦を、「合理主義」が西欧にあり日本に欠けていたことによるという問題意識と、社会科学におけるマルクス主義との対置という文脈の2つの理由で受容された面が大きい。私は丸山真男氏の著作を介してマックス・ウエーバーを知ったたので、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の面しか知らなかった。本書を読んで「世界宗教の経済倫理」において、3つの一神教(へブライイズム)という思想史の面を知った。

ウエーバーの死後、妻のマリアンネが大著「マックス・ウエーバー伝」を著わし、これがウエーバー伝記の決定版となった。その伝記の冒頭にリルケの詩が引用されている。
「それはある時代が終ろうとして、あらためて
その価値を総括してみようとするときに
いつも現れてくる人間だった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただ神のみは遥かに彼の意志を超えた所にいる
だからこそその届きがたさへの壮大な敵意に燃えながら
彼は神を愛するのだ」
これはリルケの「時祷詩集」より「それはミケランジェロの生涯だった」の詩の最初の2節3節をとったものであった。「ミケランジェロと比肩する巨人ウエーバー」と妻マリアンネは規定した。一つの時代が終ろうとして、その価値を取りまとめようとする時、いつもたち現れてくる人間「時代の価値の総合者」というイメージである。「現代的文化総合」の体現者として。しかしウエーバーは「時代の価値の総合者」というイメージだけではなく、自分の意志を超えた神を敵意に燃えながら愛するというアンビヴァレント(両義性)な緊張に満ちた人間の姿である。ウエーバーは「英雄的実証主義者」といった英雄伝説で語られることもあるが、むしろ苦闘と挫折という悲劇の未完性を見て行きたいと著者はいう。ウエーバーはなぜ普遍的な合理主義が西欧でしか発展しなかったのかについて、世俗的なものへの固執と超越的なものへの倫理的緊張の二つの契機を挙げているが、ウエーバー自身の自己形成程の根幹をなすものであった。ウエーバーには貴族主義というべき「責任の倫理」を激しく貫こうとして、精神病に苦しんで大学教授の職を棄てた。歴史論理ではリッケルトにより、歴史哲学ではニーチェによりながら、知性を犠牲にして救済を説く偽神の崇拝者を激しく攻撃した。

わずか数年間の大学での講壇活動の後、10数年間重い精神神経疾患に悩まされた。プロテスタンティズムの倫理観からくる「職業への義務感」が彼の病状を重くしてきた。そこでハイデルブルグ大学教授の職を辞任し療養に専念した。大学教授の重責から脱したウエーバーは、病状が良くなり「社会科学及び社会政策雑誌」の編集に従事して社会科学の理念と方法に進んだ。1904年「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の執筆を中断して、セントルイスで行われる国際学術講演会に招待されて渡米した。「ドイツの農業事情」という公講演をそれなりに成功させ、ヤンキーの東海岸から南部への旅行に出た。そこで「奴隷黒人問題」から「ユダヤ人問題」を観察し、アメリカに移住したセファルディ系の西欧ユダヤ人とアシュケナージ系の東方ユダヤ人の「賎民バーリア」の金融業者としての黒人搾取を目の当たりにした。ウエーバーの代表作「社会科学的認識の客観性」は社会政策と社会科学の差異を明確化することにあり、「価値からの自由」を旗印に社会科学の独立をめざしたが、社会哲学とは重なり合うことが多かった。アメリカから戻って「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が完成した。ウエーバーはドイツの歴史学派の申し子であったが、歴史から経済史、文化史そして普遍史へと変遷を遂げる。渡米前は経済史から文化史へ、帰国後は文化史を超えて普遍史へ向かう方向が予見された。論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はむろん「資本主義の起源」論争で提起されたものである。ゾンバルトは「人間の利益追求ー商業活動ー富の集積」という形で資本主義成立史を描いたが、ウエーバーは利己心や物欲ではなく、理念や倫理という意味で精神に独自の意味を与えた。ウエーバーは「カルビニズムー世俗的禁欲ー職業への献身ー合理的生活ー経営行為ー資本主義」というスキームを描いた。世俗生活としての職業活動に宗教的使命ミッションという意味を与えたのはルターであった。もう一人のプロテスタントであるカルビンは不安定な状況の中でなお「救いの確実性」のわずかな保証を世俗的な職業生活の勤勉に求めた。そして救済という価値のための手段であったはずの職業的勤勉は、それ自体が目的化して,利潤の効率的増大が倫理的目標となったとするプロセスである。アメリカで見た「ユダヤ人問題」は悪玉資本主義の起源を悪玉ユダヤ人に押し付ける左右の「反ユダヤ主義」に対する反証となった。アメリカ訪問の成果は「宗教社会学論集」に収められた「プロテスタントの倫理」に、欧州では失われた清冽なプロテスタントの活力がアメリカで今なお生きていることを発見した。それは同時に「アメリカの欧州化」という末路を予見するものであった。文化史から普遍史へのウエーバーの思考が読み取れる。

「宗教社会学論集」の「世界宗教の経済倫理」には、アメリカ東部の大都会に欧州近代の初めと終わりを含む縮図を見て取ったウエーバーは、「資本主義は初期にはプロテスタンティズムの倫理から生まれたが、晩期にはその消失の上に発展した」という「普遍的合理化」で定式化した。初期は「脱呪術化」から、晩期は「脱精神化」ということが出来る。そしてなぜ西欧においてのみ普遍的合理化が進展しえたのかがウエーバーの興味となった。東洋の道教や仏教、儒教は二つの契機を欠いていたために合理主義が発展しなかったという。これには多少の異論はあるが、次にウエーバーは普遍的合理化とヘブライイズムとの関連に進んだ。旧約聖書の聖典「モーゼ五書」とキリスト教との関係を云々するのが神学であるが、ここでは省略する。詳細は「旧約聖書の世界」を参照して欲しい。ウエーバーのグランドセオリー(大きな物語)は世界の脱呪術化=合理化という普遍史的過程である。それはヘーゲルのように一つの価値に統合されるのではなく、「人類史の運命」であり「価値の多神教」である。「神の死」から「価値の多神教」とは、価値相対論でも文化多元主義でもない、ニーチェの「最高価値の没落」から論理的に帰結する時代の診断である。ドストエフスキーはあらゆる倫理的規範の喪失、ニーチェは形而上学的根拠の喪失という「ニヒリズム」という呼称を与えた。ウエーバーの目もその断裂の深淵に注がれている。ウエーバーはその状況を背負おうという責任の倫理、知性を犠牲にすることなく現状を見ようとする意志を示す「宗教的無神論」という「空白のアクチュアリティ」が活力源となる姿勢を崩さない偉大な人物であった。しかし結果は未完である。

フロイトと「偶像禁止」

ジークムント・フロイト(1856 - 1939年)は、オーストリアの精神分析学者。オーストリアのロシア系ユダヤ人アシュケナジーの毛織物商人の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。1886年(30歳)シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。最終的にたどりついたのが「自由連想法」であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を「精神分析」と名づけた。1895年(39歳)ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う心的外傷やPTSDの概念に通じるものである。やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして「夢判断」を著わし、自我・エス・超自我からなる構造論と神経症論が確立した。フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。1910年「国際精神分析学会創立時、フロイトはユングを初代会長に就任させたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになり、1912年には訣別し、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退した。1938年アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがアシュケナジーユダヤ人を学会から追放した時、フロイトはロンドンに亡命した。長年の顎骨ガンに苦しみ、1939年(83歳)フロイトはモルヒネによる安楽死を選択してロンドンで生涯を終えた。

19世紀末よりフロイトはヘルツホルム学派の物理学的生理学という神経生理学者として立った。20世紀になってフロイトの関心は神経症の病因と心理学的治療から一般文化問題へと拡大した。方法論的にも夢の解釈から「深層解釈学」へと深化したようだ。治療法(カウンセリング)が睡眠療法から自由連想法へ転換するが、医師と患者の言語コミュニケーションが中心である。しだいに治療法は自己分析へ向かう。自己分析の方法は「図像解釈学」(イコロジジー)が主である。フロイトは18回もイタリアに旅行するが、ルネッサンス美術の中に「異教徒的古代」、すなわち偶像崇拝の無意識からの発生根拠を探っていたのではないかと考えられる。1910年「レオナルドダヴィンチ」論でモナリザなど女性像をマザコンから解釈していたが、1914年「ミケランジェロとモーゼ」においてモーゼの図像解釈に没頭し、モーゼからの自己解放をとげ、1940年絶筆となった「人間モーゼと一神教」を著わした。オイデップスコンプレックス(父親殺害)からモーゼを解体したのだ。ここに「モーセの十戒」を復習しておこう。
@他の神を持ってはいけない
A偶像を作ってはいけない
B安息日には神を祝福し、働いてはならない
C父と母を敬え
D殺してはいけない
E姦淫してはいけない
F盗んではいけない
G隣人を偽ってはいけない
H隣人の家を欲しがってはいけない
I隣人のすべての物(羊・奴隷など)を欲しがってはいけない
第1と第2の戒めは補足的関係にあり、何でもかんでも見えるものを神としてはいけないし、神を形で表してはいけない、名前で唱えてもいけないということである。人間世界を超えた超越性の神をユダヤ教は強調している。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教はアブラハムを祖先とする同祖信仰である。ユダヤ教は旧約聖書の「モーゼ五書」のみを聖典とし。イエスやマホメットを真の預言者とは認めていない。しかしユダヤ教とイスラム教はこの「図像化禁止」の戒律を厳格に守っている。キリスト教は三位一体説と預言者による救済を根本とする宗教で新約聖書のみが聖典で、旧約聖書は副次的テキストにすぎない。1914年「ミケランジェロとモーゼ」において、モーゼ像を怒りの爆発ではなく、怒りの抑圧という方向で解釈した。モーゼの自己抑制は欲望の断念から昇華へ、禁欲倫理から精神性へという変貌を指し示す。これまでフロイトの「心の構造」は自我は欲望の「エス」と禁止・抑制の「超自我」の間を揺れ動いていたが、それを精神的な力に昇華させることが出来るなら、精神性の進歩がもたらされる。自己処罰を要求するモーゼコンプレックスからの解放である。

1940年の遺稿「人間モーゼと一神教」はきわめてユニークなモーゼ像を提案した。「モーゼはエジプト人である、モーゼはユダヤ人に殺された」という奇妙な説である。聖書は記述者によって加工され歪曲された虚構の作品だというのがフロイトの基本的姿勢である。聖書の解体を、「出エジプト記」の再構成を試みたのであろう。これはユダヤ教の自己解体で、ユダヤ人はなかったとする説であり、当時の反ユダヤ主義の剣先をかわすものであったというのが著者の見解である。キリスト教徒はユダヤ教の「選民」意識と「キリスト殺し」を非難しているのであり、それがなかったとすればユダヤ教徒対キリスト教徒の対立もなくなるからだ。そういう政治的意図があったかどうかはフロイトは答えない。「イエスを売ったのはユダヤ人」という先に立つユダヤ宗教を殺すのも「父親殺し」であるとすれば、フロイトはオイディプスコンプレックスの普遍性を,個人からついに宗教(国家)にまで拡大したのだ。キリスト教には「三位一体説」などによって父神と子の関係をあいまいにして、聖母マリア崇拝、偶像崇拝など多神教的要素を復活させたといわれる。しかしキリスト教は幸福をもたらす現世利益をとくユダヤ人選民思想から、解放を与える救済思想への転化をもたらしたのである。これがキリスト教の普遍性となった。ユダヤ教では世界を征服しない限り絶対に普遍化しなかったと思われる。フロイトはキリスト教とユダヤ教の宥和のために相対化を図った。「偶像」が社会集団の持つ固定観念と解釈しイデオロギーや対立・民族紛争を生み出すなら、「偶像否定」は融和をもたらすものと解釈される。(ただ現在の「パレスチナ紛争」は基本的には土地争いであって、神観念を巡る宗教的対立ではないだろう ) モーゼという中心的な創造者を解体すれば、ユダヤ人の閉鎖的なアイデンティティを解放できるとフロイトは考えたのかもしれない。

ベンヤミンと「歴史の天使」

ヴァルター・ベンヤミン(1892年 - 1940年)は、ドイツの文芸評論家。思想家、エッセイスト、翻訳家、哲学者としても知られる。文化社会学者として、史的唯物論とユダヤ的神秘主義を結びつけた。エッセイの形を採った自由闊達なエスプリの豊かさと文化史、精神史に通暁した思索の深さ、20、21世紀の都市と人々の有り様を冷徹に予見したような分析には定評がある。またベルトルト・ブレヒトを高く評価し、フランクフルト学派の1人に数えられる。第二次世界大戦中、アドルノのアメリカ亡命を勧める誘いによって ナチスドイツから逃亡中、追っ手に捕まりピレネーの山中で服毒自殺を遂げた。ベンヤミンの遺稿「パサージュ論」が有名である。「パサージュ論」は長らく準備していながらも未完に終わった大部の著作のためのノートを中心とした草稿群である。内容としては数ページにわたる当時の著書からの引用や随想が項目ごとに分類されているだけである。一つの著作としてのまとまりには欠けるが、19世紀から20世紀におけるパリの町並みの変遷や歴史についての考察が網羅的に記述されている。

ベンヤミンの文藝評論の方法論は良く理解されているとはいえない。ベンヤミンにとって方法とは失われた過去を回想し取り戻す言語行為、歴史の物語り作法その物であったという。追想というユダヤ教の律法に基づく独特の時間論はやはり晦渋であったようだ。著者はベンヤミンの1928年に出版された「ドイツ悲劇の根源」と1940年の「歴史の概念について」という二つのテキストを重ね合わせてベンヤミンの基本姿勢をうかがうという、ベンヤミンの方法そのもので迫る。「ドイツ悲劇の根源」において、ベンヤミンはプラトンの「イデア」やライプニッツの「モナド」をメタファー(陰喩)として援用しながらキリスト教的存在論を描くのではなく、ユダヤ教神秘主義な時間論であり、半異教徒的な星座論の視線であった。ヴァールブルグ学派のルネッサンス美術史研究「神は細部に宿る」という普遍と個別との論理的形式論に近い論である。「普遍的真理は多数の個別者(星座)を通じて、人間の経験に対して具体的に現象する」という「コンステラチオン」(星座)論を展開した。断絶した連続をつなぎ、空白を埋めるものとして、あるいは重なり合ったイメージを透視する者として、「アレゴリー(喩え、寓意)解釈」がベンヤミンの方法論的キー概念である。ユダヤ教の神は抽象的絶対者として「陰喩」でしか語らなかったが、キリスト教はそれを直喩化してキリストという人格(存在論化)で語るのである。ベンヤミンは哲学的著作の表現形式として「トラクタート」(断章)をあげる。体系や概念的総括に反発する彼の姿勢を示すだけでなく、それらの断章がアレゴリー解釈を通じて連関が見えてくるのである。「モザイク」というよりは星座配置「コンステラチオン」と呼ぶにふさわしい方法である。歴史哲学としては解体と再編という構造だけでなく、連続する流れを中断して過去と未来を現在の視点から見直すのである。この「中断」という手法がベンヤミンの歴史哲学の方法の第1概念である。過去を現在に引用する手がかりはアレゴリー的な表現と解釈である。一貫した時系列の意図を拒否し、自動的に進む論理の暴力(推論)を嫌うベンヤミンの「中断」は「静止状態における弁証法」と名づけられた。

1940年ナチから逃れアメリカにわたろうとしたベンヤミンはスペイン国境のピレネーの山で検門に捕まり自殺した。アメリカのアドルノに届けられた草稿が「歴史の概念について」であり、ベンヤミンの遺稿となった。アドルノへの手紙によると、ベンヤミンは「19世紀のパリ(パサージュ論)」を「社会研究」誌に連載することを要望したが、編集部はあまりの大著であるため、まず見通しを与える方法の提示を求めた。それに応じて書いたのが「歴史の概念について」である。つまり「パサージュ論」の序章という位置づけであった。「歴史の概念について」は18+付録A・Bの20の断章から構成されている。一見無造作な断章の配列には、彼の秘められた構成的意図があった。ユニークな断章は第1テーゼ「チェスをさす人形」と第9テーゼ「新しい天使」にあり、その中に第2−8テーゼは史的唯物論による過去の救済、第10−18テーゼは社会民主主義的進歩主義としての歴史主義批判、そして付録A・Bでは「そこを通ってメシアが現れるかもしれない小さな門」というメシアニズムが配置されている。第1テーゼ「チェスをさす人形」には、小人が「史的唯物論」という人形を操る構図が描かれている。小人とはユダヤ神学である。史的唯物論が社会民主主義の進歩史観に勝つにはユダヤ神学の助けが必要である。進歩史観へと自公崩壊を遂げた史的唯物論はもはや神学の助けがなければ歴史観として再生できないというのがベンヤミンの基本認識だった。当時の歴史意識は進歩信仰であったが、かれは歴史における連続性の打破、飛躍、瞬間の強調を信じていた。第9テーゼは「過去は廃墟の残骸がうず高く積まれている。歴史の天使は前に廃墟を見ながら未来には背を向けたまま、なお過去の楽園から吹きつける強風が天使を未来へ運んでゆく」ということである。「守るべきものはヨーロッパにある」といったベンヤミンはクレーの描いた「新しい天使」の絵をピレネーの山まで持ってきた。それほどの楽園がかってヨーロッパにあった。クレーの「新しい天使」がベンヤミンの「歴史の天使」に変身する時、若いヨーロッパは老いた頽廃のヨーロッパになっていた。ベンヤミンはカフカに「伝承された神秘的体験」と「現代の大都市の人間の経験」の二つを感じて、クレーの絵との対応を見たとショーレムへの手紙(1938年)に書いている。第1テーゼ「チェスをさす人形」の比喩はたしかにマルクス主義とユダヤイズム神学との緊張関係と共生という問題が、ベンヤミンにとって歴史哲学の中心主題であると云う理解が一般化した。ベンヤミンは意味を問う先に時間性を求める。連続をきる瞬間性の強調は歴史記述の方法になった。連続的時間を破壊して、過去と現在の瞬間を黙契によって貼り付けられる「瞬間のコラージュ」が彼の時間論の中心課題である。そして未来はメシアが現れるかもしれない小さな可能性の純白の空白である。

アドルノと「故郷」

テオドール・ルートヴィヒ・ヴィーゼングルント=アドルノ(1903年 - 1969年)はドイツのユダヤ系の哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家である。1930年からフランクフルト大学に新設された社会研究研究所の社会哲学の教授だったが、第二次世界大戦中は アメリカに亡命。戦後、再びこの研究所が、再スタートを切ったときに、マックス・ホルクハイマーと共に研究所の所長に就任、亡くなるまでここに籍を置いた。フランクフルト学派を代表する思想家であり、その影響は現在でもなお大きい。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者として有名であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。作曲家としても作品を残し、アルバン・ベルクに師事した。シェーンベルクをはじめとした新ヴィーン楽派を賞賛する一方、ストラヴィンスキーやヒンデミットなどの新古典主義的傾向をもつ音楽や、シベリウス、リヒャルト・シュトラウス、ヨーゼフ・マルクスといった、20世紀において後期ロマン主義のスタイルをとり続ける作曲家には否定的であった。また大のジャズ嫌いであったことは有名である。

本書はアドルノ(1903-1969)とハイデガー(1889-1976)を対比させながら20世紀前半のドイツ哲学の争点を明確にしようとするつもりらしい。著者はドイツ留学の時アドルノに師事した思い入れもあって、ここでアドルノを介してドイツ哲学をレビューする意図が明確である。従って本書に占めるこの章の比率が高いのはやむをえないが、これまでの社会学、文化評論から急に哲学用語が多くなって私には理解が困難となるのが悔しい。1933年ナチスが政権をとった当時、ハイデガーはフライブルグ大学総長としてドイツ国民尾精神的指導に乗り出す大御所とすれば、アドルノは初めて教授資格論文「キルケゴール論」を書いたは言え、全く無名のフランクフルト大学の講師になったばかりで、翌年には反ユダヤ法によって休講させられ教授資格も奪われてイギリスに亡命留学せざるを得ない状況であった。1960年代にはアドルノは新左翼世代に担がれた新進批評家で、ハイデガーは隠棲した伝統的な大物哲学者という立場であった。とにかく実生活では接点がない者同士を著者は哲学的意味において対照し対決させるのである。注目する時期はアドルノが「キルケゴール論」を執筆中で、ハイデガーが「存在と時間」を著わした1930年前後と、アドルノが「啓蒙の弁証法」を著わし、ハイデガーが故郷に帰りニーチェ・ヘルダーリン研究に没頭した1940年前後の2つの時期を対象とする。

その前にハイデガーについて簡単にまとめておこう。マルティン・ハイデッガー(1889年- 1976年)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも。現象学の手法を用い、存在論を展開した。また、後の実存主義などに大きな影響を与えた。その中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い」を新しく打ち立てる事に向けられた。その多岐に渡る成果は、ドイツだけではなく20世紀の世界の哲学・人文諸科学にもっとも重大な影響力を及ぼすものとなった。また、1930年代に一時的にせよナチスに協力したことも、ハイデガー哲学を緊迫した論争の主題たらしめている。1927年に未完の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。初期においては、九鬼周造・三木清・和辻哲郎らの哲学者がハイデガーの思想から影響を受けた。戦後サルトルらに代表される実存主義との関連で読まれることもあった。

アドルノの処女論文「キエルケゴール論ー美的なものの構成」は1930年に書かれた。ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源」の圧倒的影響下で書かれているため、用いられた用語はベンヤミンから拝借した韜晦なヴォキャブラリーである。誰も理解できなかったらしくナチス政権下でも書店にあったという。この本の目的はキエルケゴールの再解釈を通じてハイデガーの実存的存在論を批判するためであっという。アドルノがキルケゴールと共有する前提は、「仮象としての現実」という認識であった。アドルノからするとキエルケゴールは「社会的に必然的な仮象というイデオロギーの深淵の上に浮かぶ実存という仮象の内部を見ることなく信仰への決断に逃避した」という。1920年代ハイデガーへのキエルケゴールの影響は見逃しようがない。後の実存主義にもつながる実存論的傾向からハイデガーは存在論的傾向を強めてゆく。キエルケゴールの特徴は、美的・倫理的・宗教的という階層構造的価値にあるといわれる。キエルケゴールの「美」とは倫理的・理性的に対する「感性論」と訳すべき言葉である。客観性に対する思想の態度である。アドルノはこの階層構造を逆に捉え、「客観への突破」を「感性的美的なものの構成」に求めたのだと著者は考えている。アドルノはハイデガーの存在論を現存在の存在了解から始まる観念論であるという。弁証法に関してはヘーゲルは矛盾の融和に焦ったが、アドルノはキルケゴールと同じくヘーゲル的統合に反発し、同一化を断念した。矛盾は矛盾のまま放置される。1940年にかけてアドルノとハイデガーは挫折と失意を迎えた。ハイデガーはナチスの力を借りて、ギリシャ的学問理念によるドイツの大学の精神改革の試みに失敗し、アドルノは作曲家の道を断念し、マルクス主義的言語表現にも幻滅した時期であった。ハイデガーは故郷に帰りニーチェ・ヘルダーリン研究に専念し、アドルノは「主体性の哲学原史」を辿ることで、二人は共通の課題を抱えた。

アドルノは父がユダヤ教徒であった「1/2ユダヤ人」であるが、ユダヤ教徒の女と結婚して「3/4ユダヤ人」となり、ドイツでは生存をゆるさない(人種)になった。ロンドンからドイツにもどることは不可能になり、先にアメリカに亡命していたフランクフルト学派のホルクマイヤーの勧めで1938年ニューヨークに移住した。アドルノのアメリカに対する態度は拒絶・反発に近い。文化を数量で図るアメリカ流社会調査の方法についてゆけなかった。アメリカにわたった欧州人の態度は、新世界と見るか、アメリカに欧州的価値を見るか、大衆化・物質文明の頽廃を見るかの3通りがある。アドルノは最後の態度であった。ホルクマイヤーと共にニューヨークからカルフォニアに移ったアドルノは「カルフォニアドイツ人」としか付き合わなかったといわれる。現実の政治問題にも全く反応せず「マルクス」だの「唯物論」だのという言葉も口にしなかった。マスメディア(テレビ・映画)を前にして「啓蒙」の発達した姿に西欧文明=人類史の由来を考え、西欧文明の大きな物語を書こうとした。それが「啓蒙の弁証法」である。

「啓蒙の弁証法」はホルクマイヤーとの共著でであり、第1章「啓蒙の概念」、第2章「オデュセウス神話と啓蒙」、第3章「ジュリエットまたは啓蒙と道徳」から第6章までと最後に「手記と草稿」を置いている。ここに「啓蒙」とは狭くはフランス啓蒙運動をさすのではなく、ウエーバーが「世界の脱呪術化」と呼んだ「普遍的合理化の過程」を示している。野蛮から文明へという流れで特徴付けられる。この啓蒙=合理主義は18世紀に花開いたが、19世紀にはロマン派が楽天的な合理主義に対してアンチテーゼをたて、社会主義運動からは産業社会の不合理不平等を言い立てられたのである。ロマン派に由来する非合理主義からナチスが人種主義を激化させアウシェヴィッツの惨劇を生んだ。これが文明の野蛮への、啓蒙の神話への逆転でなくてなんだろうか。反対への転化が弁証法の基本論理ならまさに「啓蒙の弁証法」といえる。本書では第2章のオデュセウス神話についてながなが話は続くが、トロイ戦争のヒーロであるオデュセウスがギリシャ的合理主義の権化とすれば、オデュセウスが帰郷せずに地中海沿岸を放浪する英雄譚の挿話は無内容で、帰郷した後復讐者として暴力支配になってしまう。この筋書きをどう解釈するのか。アドルノはオデュセウスにではなく作者ホーマーに立場を置いて、悲惨さを語る芸術の言葉や沈黙について語るのである。つまりギリシャ悲劇にもどろうとする。知的啓蒙を本務とするはずの啓蒙が、マスコミによる大衆文化操作にいって大衆の愚昧化に奉仕している現状や、大衆の画一化が新しい全体主義の温床となった政治的憂慮を見逃してはならない。最後の「手記と草稿」はホルクマイヤーの手になる文である。「弁証法的人間をめざす」とはホルクマイヤーの「社会研究所」の理念である「マルクス経済学とフロイト心理学の統合した形での現代社会の全体的発展」の理論と考えられる。アドルノはフロイトの悲観論的な社会批判の現実性を感じていた。

第2次世界大戦後アドルノは11年年間滞在したアメリカからドイツに帰郷する。そしてアウシュビッツの残虐行為の検証と、アメリカの大衆文化の欺瞞性を語るために戻ったのである。ドイツ人文主義やロマン派にとってギリシャ憧憬は抜きがたいものがある。ニーチェの「悲劇の誕生」を先行きとして、ソクラテス以前が重要視される。智と正義と幸福が一致するかのような楽観主義からギリシャ悲劇の深淵を救うには、デイオニソス的意志が必要だとニーチェは考えた。ハイデガーは戦後ニーチェとヘンダーリンの再読に集中した。ハイデガーはニーチェをニヒリズムによるニヒリズムの克服という循環に過ぎないと,いわばニーチェ克服による自己批判をした。故郷とはソクラテス以前の悲劇時代のギリシャへの憧れであった。室生犀星の歌は「故郷は遠くにありて想うもの・・・・・・よしや乞食となるまでも帰る所にあるまじや」という。ヘンダーリンの「帰郷」はギリシャ志向とドイツ民族とが結びつくところである。アドルノは因習と束縛の故郷の宗教化に決別し、「哲学とは真理への郷愁である」としたのだ。


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