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熊野純彦著 「和辻哲郎ー文人哲学者の軌跡」

  岩波新書(2009年9月)

「日本語で思索する哲学者」和辻哲郎の最良の部分は流麗な日本語による日本文化論にある

和辻哲郎(1989-1960)に関しては、私は岩波文庫で「古寺巡礼」、「風土」、「日本精神史研究」を読んだが、和辻哲郎の「倫理学」に代表される哲学書は読んだことはなかった。無論これは私が哲学や倫理学というものに興味を持たなかったせいによるもので、読んでもいない倫理学への不満とかいうものではない。一般の人と同じように、流麗な日本語の使い手である和辻哲郎の一面しか知らない。本書は熊野純彦氏という哲学者による、生涯の軌跡を辿りながら和辻倫理学を紹介しようというものであるので、トンチンカンプンな哲学用語に苦しめられることなく読めそうだ。とはいうもののやはり倫理学の展開についてゆけないところもあって、その面では消化不良である。抽象論には弱い自分の体質を改めて再認識した。文章がくるくると頭の中を廻るだけで少しも分ったという気がしない。情けないが性に合わないことは白状しておく。従って本書の半分の「倫理学」は適当にしておいて、半分の「文化論」についてまとめてゆく。

和辻哲郎はなによりも流麗な日本語の使い手であり、一人の文人哲学者であった。このことは和辻哲郎の本質的な部分であったようだ。その代表的な書「古寺巡礼」の中宮寺弥勒菩薩像の件の文章は多くの読書人をひきつけて止まない。「あの肌の黒いつやは実に不思議である」というくだりは、耽美派谷崎の系譜に繋がっている。和辻哲郎の「日本精神史研究」を和辻氏の初期の傑作だと評価する加藤周一氏は「日本文学史序説」で日本文化の特徴に一つに「第1の特徴は、抽象的な思弁哲学は育たなかったが、具体的な文学作品のなかで日本文化は展開してきた。鎌倉仏教哲学と江戸時代の儒教だけが例外として、日本の文化は抽象的・体系的・合理的な秩序追求よりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊場面に即した言語が特徴であった。日本文化は音楽的様式や哲学的思弁はまったく不得意であるが、仏教彫刻や絵巻物といった造形美術に才能が発揮された。すなわち日本文化の中心は文学と美術があった。西欧や中国の体系的学問を解体して実践的用途に還元するのが「日本化」の本質である。」という。この甘い多義性の日本語では哲学は出来ないという。おそらく明治以来の日本哲学者の流れ、西周、西田幾太郎、田辺元、三木清、和辻哲郎氏らの位置づけは文献学的哲学では評価されるが、独自の哲学として世界的に評価されることは皆無であろう。そもそも日本語で哲学すること自体が不可能であった。とらえどころの無い言葉で同義反復のような文章を読んでいると、分らないというより腹が立つ。こんな文章をひねくり回す人の頭はどうかしている。結局日本語はだらだらと副詞や形容詞を並べてゆく、感情的、妙に具体的な叙述に本領があるのだと思う。宮廷関係者にしか分らない暗語だらけの「源氏物語」の文章、魑魅魍魎の跋扈する江戸ナンセンス・グロテスク小説(上田秋成ら)に日本語は向いていた。これでは普遍的な論理を展開することは難しい。「古寺巡礼」は日本の美の発見の書であり、日本近代文学の主題であった。それは「日本精神史研究」においてもおなじである。和辻氏の「倫理学」は人の経験の細部に関する優れた詩人的な直感と、体系的な志功を目指す哲学者の論理とが交錯していると熊野純彦氏は指摘している。日本の近代的思考の可能性と限界の殆どすべてがあるという。現在の日本の倫理学者からすると和辻氏の倫理学をよしとする人は少ない。しかし和辻氏の最良の部分である文化評論についてその業績を否定する人はいないだろう。

本書の著者熊野純彦氏のプロフィールを紹介する。1958年神奈川県生まれで、東大人文科学大学院卒業後、1990年北海道大学文学部倫理学講座助教授、1996年東北大学助教授、2000年東京大学人文社会系研究科助教授、2007年教授となって現在に至る。東大のサイトで氏の自公紹介を貼り付ける。「専門は倫理学。他者、身体、所有、言語といった諸概念をめぐる倫理学的研究、ならびに近現代ドイツ・フランス倫理学にかかわる研究に従事している。すべての問題を人と人の〈あいだ〉で生起することがらとして哲学的に捉えかえす立場から、倫理学原理論的な探究をすすめる一方、カント、ヘーゲルといった古典的な哲学者、ハイデガー、レヴィナスのような現在的な思索者の思考を跡づけている。学部・大学院における講義・演習でも、そうした問題群、思想家に関連するテクストをとりあげることが多い。これまで、『カント 世界の限界を経験することは可能か』、『ヘーゲル〈他なるもの〉をめぐる思考』、『レヴィナス入門』、『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』等の著書を出版してきたが、現在では、第一の問題関心である倫理学原理論的な探究にかかわる研究をまとめている途上である。」 主な著書(専門書以外の)には岩波新書に「西洋哲学史」二冊、ちくま新書に「レビナス入門」、NHK出版「カント」などがある。

1) 二つの風景

和辻哲郎はその晩年、1957年に「自叙伝の試み」を掲載し始めた。1960年病のために中絶するまで続けられて、幼年時代から旧制高校生時代までの自分を回顧した。幼年期の記憶を辿ることに多大な紙面を割いている。第1章「二つの風景」とは幼年時代の農村風景と、旧制第一高等学校に上京した都会(東京)の風景をいう。最晩年に和辻が自伝的な作品をかいたのは、或る村の記録を、和辻が生まれ育った村の記憶をとどめておきたいという衝動であったに違いない。自分の「風土」と「歴史」という、自らの基本問題に立ち返ったのである。和辻は1889年(明治22年)に兵庫県の仁豊野という村の医者の次男として生まれた。村人はすべて農民で、畑に入らないのは寺の住職と医者の家の2家のみであった。父の瑞太郎は丹波篠山の私学で西洋医学を勉強した医師で、典型的な「医は仁術」を理想とする医者であった。和辻倫理学の規範的イメージの原型は幼年期の農村の家族のありようにある。人間関係がしだいに高度化し、それに応じてあいだがらの筋道がより具体的な形を取ってゆくすがたを「人倫的組織」として論じ、家族、親族、地縁共同体、経済的組織、分化共同体、国からなるのである。生命の再生産を共同する家族が和辻の家族論の原像である。家の基本的構造の中枢部をまず「共同の竃」にもとめて、「同じかまの飯を食う」ことに家族の特徴を見る。ともあれ和辻が哲学を志すには、自身がいくつも意味でその故郷を離れなければならなかった。和辻が10歳の頃高等小学校に通うため家を出て叔母の手に預けられた。楽園のような田舎の生活は終わりとなり、多感な青春の入り口にあった。村は土地に関る地縁共同体で「水や農機などの技術を共同し、労働を共同する」もので、家から離れて人間存在の経済社会となるのである。そして共同の過去、記憶を共有するのだと和辻倫理学はいう。「われわれは皆昔は桃源に住んでいた。すなわちわれわれはかって子供であった」

1906年和辻は姫路中学校を卒業し、上京して第1高等学校に入学した。東京でソメイヨシノの桜を見て豪華絢爛だが吉野の山桜のような典雅さが無いという。和辻と同年に一高に入学した者には、天野貞祐、九鬼周造、児島喜久雄、大貫雪之助、岩下壮一、戸田貞三らがいた。兄の紹介で知った魚住折蘆によって文学開眼し、谷崎、木村荘太らと「第二思潮」創刊に加わり、「スバル」や「三田文学」にも寄稿した。都会の光景に驚きの目を瞠っていたが、和辻の心には村の風景と都会の風景が等しく影を落とす頃となった。都会という空間で人と人を結ぶコミュニケーション手段の発展を和辻は「交通」と呼んだ。そこから人間関係の動的な構造を表現しようとした。1909年和辻は東京帝国大学文化哲学科に入学した。「スバル」や「三田文学」の周辺にいたことが、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎らの耽美派の系譜に連なり、和辻の文章の流麗さに磨きをかけた。1912年和辻は東大を卒業し、卒業論文であった「ニーチェ研究」を24歳で出版した。そして2年後に「キェルケゴオル」を出版した。

2) 回帰する倫理

和辻は「ニーチェ研究」と「キェルケゴオル」で一躍哲学研究の徒となった。「ニーチェ研究」でディオニソス的情熱を、「キェルケゴオル」では感受性をわが身に置き換えてて語っていた。和辻は1912年卒業前に結婚した。和辻倫理学にとって日常の事実と規範がほとんど同じレベルで語られる。哲学なのか私小説なのか疑わしいところだ。夫婦を「二人共同体」といい信頼こそが基本的な倫理であった。1917年(28歳)に友人と奈良の古寺を訪ねたことが、1919年に「古寺巡礼」を生み、1920年「日本古代文化」という日本回帰の書となった。この年和辻は東洋大学教授になった。この書では和辻は日本民族が「混合民族」である事を強調した。戦後の単一民族神話形成とは無縁であった。そして古代人の思想「清明心」、「上代歌謡」を論じた。1921年岩波書店から雑誌「思想」が刊行され、和辻は谷川徹三、林達男と編集に加わった。1925年京都大学の西田幾多郎から招かれて京都帝国大学講師、助教授となり、倫理学を担当した。そして1926年岩波書店から「日本精神史研究」と「原始キリスト教の文化史的意義」を出版した。「日本精神史研究」の論文「沙門道元」は注目された。和辻は「一切衆生、悉有仏性」に「自然的態度」を見た。1927年京都大学の博士論文となった「原始仏教の実践哲学」が岩波から出版された。感受するという主観的態度でこそ「愛」とよぶ受容性の次元となる。感覚的次元をめぐるすぐれて現象学的な分析であった。

1927年和辻は文部省から3年間ドイツ留学を命じられる。欧州の文化との接触が1935年「風土」を生むことになった。和辻は経験の哲学者として、文化の哲学者としての広がりを見せる。風土とはたんなる自然現象ではなく、文化的に色づけらた社会的あらわれにほかならない。京都のマルクス主義者戸坂潤は和辻の「人間の学としての倫理学」を批判して「文献学的哲学であり、ハイデッガーから現象学的残滓を取り払った解釈学である」と。1935年「カント実践理性批判」をあらわした。カント解釈については私には全く理解できなかったのでオミットしたい。ドイツから帰朝後、和辻は1931年京都大学教授になった。1935年「続日本精神史」を著わし、言語と哲学の存在の理解について、「純粋の日本語をもってかかれた文藝、歴史書が誇るに足りるものであるにもかかわらず、同じく純粋の日本語で叙述された学問的思想の書が極めて乏しい」という事実である。「認識」、「知識」という言葉が文明開化で輸入されるまで、日本語にはそれに対応する言葉は「道を知る」という表現にすぎなかった。和辻倫理学では、存在という哲学一般の基礎的問題が人間の「所有」という論点に収斂し、理論哲学が実践哲学的な問いに変化してゆく。和辻は「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ」と叫ぶのであるが、日本語で思考された倫理それ自体が、日本の倫理へと回帰していったのである。普遍的な哲学が日本的問題へ回帰したのだ。

1934年和辻は東京大学文学部倫理学教授となり、「京都の新緑の美しさに較べて、東京の樹の緑が実にきたなく感じられて閉口した」といいながら東京へ移った。この頃、共産党弾圧、美濃部達吉「天皇機関説」、矢内原忠雄筆禍事件、大内兵衛人民戦線事件、津田左右吉起訴事件など言論界とアカデミズムの言論弾圧が著しかった。西田幾多郎や三木清は急速にマルクスに接近していったが、和辻はマルクスの理解において、マルクスの存在は間柄という人間関係であるという我田引水で終った。「人間の学としての倫理学」において、人間存在の二重構造を分析した。人間という存在の根底には「行為的連環の動的統一」がある。これが倫理である。行為する個人は人間の全体性を否定してのみ成立し、人間の全体性は個別性を否定してのみ成立する。この二つの否定が人間の二重構造性を構成するのである。人間を個と個の関係として捉えるのではなく、個と全体、個と社会の関係として和辻は捉えた。そして和辻は全の優先性と、信頼関係は人間関係の上に立っているとするのである。それは直ちに民族としての本来的自己への回帰を主張する「民族哲学」と見なすことができる。だから和辻はデカルトの命題「我は考える、故に我は在る」を「近代の誤謬」と批判するのだ。和辻には個はなくて最初から人間関係しか見ないのである。

3) 時代のなかで

1936年(昭和11年)日中戦争が勃発した。時代は軍国主義の戦争一色に塗られつつあった。いまの北朝鮮を見ているようだ。1937年和辻は「倫理学」上を岩波から出版した。西田幾多郎は「歴史的現実の世界は日常性的世界である」という観点に同意するという。その前年1936年西田は「論理と生命」を連載した。「我々の身体は生物学的機能を有するのみならず、ロゴス的機能をもつのである」といっている。これはマルクスの思想を受け継いでいる。和辻は上から下へ下降し、西田は下から上に思考するのである。この時代の京都学派(西田、田邊、三木)の思考の中心をなす論文である。1941年太平洋戦争が始まった。この大戦において和辻は一貫して反政府の視点を貫いた。津田左右吉の「神代史の研究」によって起訴されると、和辻は津田を弁護して法廷に立った。和辻は続「日本精神史研究」において、日本的特性として取り上げたのは外国崇拝である。これは加藤周一氏の「日本文学史序説」の構成も外国文化の輸入による日本文化の変容というテーマでまとめられているのと同じである。和辻は「現代日本と町人根性」という論文で、日本資本主義の侵略性を曝露している。「日本は明治維新後大きく飛躍した。日清日露両大戦に置ける日本の飛躍の歴史的意義は大きいが、第1次世界大戦後の日本の進出は欧米と同じ原料を得るために資本輸出と経済的領域の拡大という植民地主義である」 町人根性=資本主義という捉え方である。営利が絶対的目的となった経済構造を和辻倫理学は「このような経済時代が、経済社会の人倫的意義を見失った時代であるにとどまらず、更に人倫的意義を逆倒した時代である」と非難する。労働価値と贈与関係の理想的な人倫社会モデルである未開人社会を紹介したマリノウスキーの報告を引用して、和辻は人倫社会と経済社会の逆倒を論じた。未開人社会の方が道徳的に高い人倫社会を構成しており、殺人技術に長けた西欧の経済社会は人の道に外れているという。

1937年日中戦争勃発により近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」と宣言して全面戦争に入り、「国民精神総動員運動」を開始した。和辻は「東西文化の総合」を「一つの世界の形成運動」のために唱えた。本人の意図とは別にこの言葉は近代化が破局を迎える前兆を示すものであった。戦時体制に対して和辻は西田、田邊とともに文部省教学局参与となり、海軍思想懇談会参与、大政翼賛会事務局参与となった。和辻は木戸首相が辞任すると軍部からの攻撃迫害を受けた。1941年日米の太平洋戦争の幕があけた。1942年「倫理学」中卷が刊行された。国防は人倫の護持といって英米の原理主義を非難しその支配を呪詛しているところは誠に時流に乗っている。歴史の暴力に蹂躙された諸々の文明にたいする和辻の思いが文脈であろうが、「国家至上主義・戦争美化」の哲学と家永三郎氏から非難された。和辻倫理学において国家の位置づけは、地縁共同体から文化共同体、「土地と言語の共有」民族へ進み、国家と国家の対立という段階を経るのである。したがって国家にとって戦争は不可避である。このあたりからあの優しい風土論者が好戦的な国家主義者の姿を見せるのである。マルクスは国家を「幻想共同体」といい、吉本隆明は「共同幻想」といい、柄谷行人は「国家は共同体内部からは生じない。国家は共同体と共同体との関係で生じる」という。和辻は国家は人倫組織の最高の人倫組織といっている。そして法という強制力と権威がある事が国家を国家としているという。殆ど同義反復のような定義である。そして歴史的時間は抽象的時間として捉えられる。公共的な時間というのだ。権力を握ったものが書く「物語として歴史」である。時間に普遍性を拒み、記憶と経験に普遍性を持たせるわ辻独特の思考法である。そして「記年は国家の統一に置いて可能となった。しかるにこの記年なしには歴史は成立しない」といって、日本を天皇中心の歴史と見て、戦前の皇国史観歴史学を支持したといえる。

戦後の和辻哲郎が天皇象徴性を擁護したことは有名である。1943年和辻は「尊王思想とその伝統」を出版した。1944年「日本の臣道・アメリカの国民性」を出版したが、戦後丸山真男、佐々木惣一らに激しく批判されることになる。前書において和辻は現人神としての天皇を「祀る神」として、祭祀を政治的手続きとみなす考えであるが、これは戦前の美濃部達吉の「天皇機関説」であった。和辻にとって当時の官僚と軍による日本の一元的支配に抵抗する拠りどころにした。「王はむしろ集団的意志の奴隷であって、国家人民の全体意思に主権がある事に豪も変わりはない」といって、天皇は最終的には政治的支配者ではなく。文化的主宰者であると云う主張である。文化の普遍的なものは言語であると和辻はいう。そして言語活動は相互了解性を表現する。いう前に内容は了解しているという考えであるが、これは言語の一面をいうに過ぎない。和辻は語らずとも分る言葉が通じる世界を「文化共同体」と呼ぶが、妙に限定された「等質性」を前提とする言語論を展開したが、晩年自分が最も愛した世界、とくに文化と芸術の世界へと回帰することになった。語らずとも分る等質な文化観を考えることは、天皇制論とすなおに親和してゆく。1949年和辻は東大を定年退官する。学習院大学の安倍能成の誘いを断って、執筆に専念する生活を選んだ。1949年「倫理学」下巻を公刊し、1952年「日本倫理思想史」上下を公刊した。晩年の和辻は何物にもとらわれず、恐らく倫理学にもとらわれず芸術そのものに向かったようだ。1955年「日本芸術史研究」を著した。そして1960年71歳で逝去した。


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