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ダーウイン著 八杉龍一訳 「種の起源」

  岩波文庫 上・下(1990年2月)

生物の変異が生存闘争を通じて自然淘汰され遺伝されて優勢な種となる原理

今年はダーウイン生誕200年にあたることから、なにかとダーウインの事が話題になる。ダーウインの思想の全体像は本コーナーの内井惣七著 「ダーウィンの思想」 岩波新書(2009年)を紹介したので、おおまかにダーウインの全体像を知って見通しを得るためには、前書を参考にして欲しい。したがって、ダーウインの生涯や「種の起源」にいたるいきさつについては繰り返さない。いきなり「種の起源」の本論に入る。本書「種の起源」岩波文庫本は初版(1859年)の訳である。訳者は八杉龍一氏である。八杉 龍一(1911年 - 1997年)氏は生物学史家で、東京帝国大学理学部動物学科卒、実験動物学から生物学史研究に進み、多くの著述を行い、1962年東京工業大学教授、1972年早稲田大学教授を務めた。氏は進化論、生物学史を中心に多くの啓蒙的著作、翻訳を残した。生物学の研究者から生物学史に進んだ人に、柳澤桂子氏がおられる。「種の起源」が生まれたいきさつは、内井惣七著 「ダーウィンの思想」に詳しいが、ウォーレスの論文がすでにダーウインが「スケッチ」や「エッセイ」で明らかにした考察とぴったり一致していることを知り、恩師ライエルとフーカー博士の取り成しで両者共同論文の形で「種が変種を形成する傾向について、ならびに自然選択によって永久化されることについて」が1858年7月にリンネ学会例会に提出された。これにより二人が「自然選択(淘汰)説」の発見者として歴史に刻まれた。1856年からダーウインは大著に取り組んでいたが、これを変更して急いでこれまでの仕事をまとめて「抄本」(アブストラクト)という形で1859年11月に出版した。これが「種の起源」第1版であった。ダーウインは誤解を恐れて「進化論」とは一度も言っていない、「自然選択説」がこの本で確立された。この本を「アブストラクト」というのは、観察記録や実験記録、個個の生物への詳細な考察をオミットし、専門家の論文という形ではなく、広く知ってもらうために概要だけを記す意図からあえてこの書をアブストラクトと呼んだのである。ダーウインは亡くなるまでに第6版まで改定したが、第2版が初版の完本といわれる。本書はあえて第1版の本文を採用したという。

私はいつも思うのだが、「種の起源」とか「進化論」というのが、科学なのか偉大な観察者による世界の見方なのか判断が付きかねるのだ。反証は可能だが、検証不能であるからだ。私は本書が限りなく科学的であり、後代の科学はこの見解を裏付けていることを承認するものであるが、別に科学的手法を用いて実証しているわけではなく、無数の反論が容易に起きることは予測される。当時の(産業革命の19世紀中頃、日本でいうと明治維新前後)学会で、ガリレオのように宗教裁判で拷問に会うことはなかったが、これだけで世の中を納得させる事は不可能であったに違いない。ダーウインは反論が巻き起こる事を予期し、期待している。偉大な博物学者ダーウインはこの反論に答える形で現れた。現在では殆ど無意味であるが、創造主つまり神が生物を創造し設計したしたという「自然神学」に対する生物及び人間の解放が出発点にある事も重要である。人は生物の延長線上にあって特別な者ではないということだ。この見解は今では当たり前かもしれないが、当時では神の否定にも繋がる危険思想であった。生物学だけに限定しても、種はどれも個個に創造されたものではなく、変種と同じように他の種に由来するという結論である。そして種は不変なものではなくて、一般には絶滅した種に由来する子孫である。今では常識となっている。

本書を読んで痛感したのだが、本書には図表が1枚しかないことである。当時の出版会社にはスタッフが十分いなかったのだろうか、著者の手を煩わさせずに専門の植物画家や図鑑画家を使って、読者の理解に有効な図説の挿入を入れてゆく事ができたらどれだけ楽しくそして確実にダーウインの説の妥当性を理解できたのにと思うと残念極まりない。そうすると本書は膨大な量となり、今で言えば総カラー図の生物学書豪華本になったであろう。そうすると私のような貧乏人には買えなかったかもしれない。調べてみると「図説種の起源 新版 」 東京書籍 著 者 チャールズ・ロバート・ダーウィン 編集リチャード・アースキン・フレア・リーキー 訳吉岡晶子 (5,040円) があった。 岩波文庫本上下では1800円なので、それほど高くはない。内容はまだ見ていない。また本書を読んで、ダーウインの時代性というか、関連する科学の未発達のため、舌足らずというか、つっこみ不足というか、変な表現で誤魔化しているところが多々ある。遺伝学、遺伝子系統分類学、生化学、発生学などの成果をいれて、この「種の起源」という本を書き直したらどうなるか。変異と生殖器官の問題は堂々巡りしているだけである。ダーウインの学説というものの時代性ということを言ったが、当時の科学者は今でいうと超天才的というか、普遍性というか、巨人というところがある。ニュートンが「古典力学」はその影響は現在の工学のすべての分野におよんでいるのに較べて、ダーウインの「種の起源・進化論」は生物学の基礎というか、生物の考え方、捉え方の根本原則のようなものとなっている。ここの事実は科学の進歩で色々の面を見せてくれるが、ダーウインの考え方は全く変更する必要がない。

本書「種の起源」の重要な概念の各論に入る前に、迷子にならないように最終章で著者がまとめた「要約と結論」に従って、本書アブストラクトの概要をみておこう。本書にはやたら「命題」とか「原理」とか「法則」という言葉がでてくるが、数学の定義−公理ー定理−命題にような序列関係はなしに使っている。要するがダーウインが絶対に正しいと信じるもの、疑いようがないと確信することが命題である。
1) 諸命題として「存在しあるいはかって存在したであろうと考えられる器官や本能の完成における段階的変化は、それぞれの種にとって利益がある」、「あらゆる器官及び本能は、たとえどんなに軽少の程度であれ種は変異するということ」、「構造あるいは本能に起った個々の有利な変化の保存に導く生存闘争が存在すること」から「各々が個々の所有者にとって有利な無数の軽微な変異の集積によって完成された」ということが分るという。多少堂々巡りのような議論である。「有利な変異は保存される」ということである。逆に言えば「不利な変異は保存されない」ということになる。その綿々たる変異の集積が現在の種である。そしてその変異は「自然は飛躍しない」という格言にしたがって、変異は段階的に起き、つまり気の遠くなるような時間が必要だという。
2) 「種間の不稔性と変種間の可稔性は特殊な天性ではなく、交雑した両種の生殖系統に存する体質的差異に基づく偶然的なものに過ぎない」という。また「雑種の不稔性は生殖器官の機能が能力を失っている」という見解は現在の生物学においても真なのかどうかは無学な私には分からない。現在の遺伝学ではF_1不稔性を支配する複対立遺伝子を利用する育種もあり少し勉強を必要とするので、このダーウインの見解はペンディングにしておく。
3) 「同種の個体、同属のすべての種、高次の群のすべての種さえ、共通の祖先に由来する。それゆえ世界中のどんなに遠く離れた地域で発見されるとしても、それらは世代を重ねいる間に一つの地域から他の地域へ移ったに違いない」と同属の諸種の広範囲な地理的分布には驚くことはないという。無論その間には色々の中間種も存在したであろうが、今はいないのは中間的変種は負けて絶滅したのだろう。化石遺骸をいくら収集しても生命之諸形態の漸次的差異と変化を明白に示す証拠は得られない。これを地質的記録の不完全さまたは「失われた環」という。なぜ上手い具合に化石が発見できないかというと、「厚い化石を含んだ地層は、沈下しつつある海底に多量に沈積物がたまる場合にのみであって、たとえ幸運に沈積したとしても隆起と侵食が交代する時期には記録は洗い流されてしまうのである」。だから化石が発見できることは奇跡的なことである。地層年代に化石が系統的に出現することはまず期待できないのである。
4) 飼育栽培生物が高度に短期間で変異するのは、その目的が人間の観賞と実利にあるとしても、「多くの変異体がが見られるのは、生殖系統が生活条件の変化を顕著にう受けやすいためである」。変異性は多数の複雑な法則ー器官の成長の相関、使用と廃用、生活の物理的条件の直接的作用によって支配されている。変異を起こすのは生物自然であるが、人が変異を選択し集積するために栽培飼育種は容易に確立するのである。ただし人の保護に頼っているため自然選択は作用せず、この栽培飼育種を自然に戻せば、直ぐに先祖帰りするか、絶滅する宿命にある。
5) 変異の起こしやすさは自然の生物でも同じ原理が働いている。マルサスの原理にもとづけば、自然のキャパシティは一定であるとすると、幾何級数的に増加する種の数は当然生存闘争を引き起こす。闘争は同じ生活圏をもつ同種や変種間で厳しい。この時ごく軽微な変異による利点でも有利に働いて生存闘争に勝つことが出来る。「生物にとって何らかの点で有利な変異が、極度に複雑な生活の諸関係のもとで、保存され、集積され、遺伝される」ということを「自然選択説」という。
6) 変化した種は、その習性や構造が多様化する自然のエコのうちで多数の著しく違った場所を占める事ができるので、個体数を増やす事ができる。ダーウインは「自然選択には一つの種のうちで最も分岐的な子孫を保存する傾向が常に見られる。」という命題を提出する。比較的大きな群に属する優秀な種には、新しい優秀な諸種(変種)を分岐する能力が高いのである。「種の枝分かれ」する能力がある種はもっと大きくなる。自然選択は競争によって作用するものだから、それはその地にあるほかの生物もその進化の程度と関係している。これを「共進化」という。
7) 今日の言葉で言えば「遺伝形質」についてダーウインは曖昧な概念を提出している。「変異を支配する複雑であまり良く分からない原則は、いわゆる種的形態を生じる法則と同一である」という、これは遺伝子のことである。「変種でも種でも成長の相関がきわめて重要な役割を演じる。一つの体部が変化すると他の諸体部も必然的に変化する」とは発生と成長の経過における遺伝子発現のことをいうのだろう。
8) ダーウインはミツバチの驚嘆すべき造巣本能について深い観察結果を示す。もうこれを説明するには遺伝する「本能」という概念しかない。本能は自然選択によって徐々に獲得されてきたものであると云う見解から、本能は必ずしも完全でない習性を持つこともある。
9) 「地質学的また地理的な生物分布の平行関係は、あらゆる空間における生物分布とあらゆる地質学的遷移とにこれほど顕著な平行関係を認めるのは、それらの生物は一般に同一の先祖及び初期の移住者の子孫なのだからである」地理的に隔離される期間が長ければそれらにすむ生物はひどく違ってくる(独自の進化)し、移住とそのあとの変化で、ある二つの地域でごく近縁の種が見られるのは先祖が同じだからだ。
10) そこで一個の壮大な自然的体系を構成するという事実は、絶滅や形質の分岐を結果とした自然選択から説明が出来るのである。ダーウンは大胆にも「生物は4つか5つの先祖から出発した」という自説を述べる。「自然的体系とはつまり系統的配列の事であって、生活上の重要性は軽微であってももっとも永続的な形質によって先祖を辿ることが可能だ」と宣言した。その際に「痕跡器官」は用と廃用から成熟体では器官が縮小または消失しまっていても、胎児や幼児時期にみられる痕跡器官によってその先祖を知る事が出来るのである。
11) 変種と種の本質的区別はない。変種とは最も移ろい易い形質である。

1) 変異性

飼育栽培生物といえば、さまざまな形や毛並みを持つ愛玩用犬とか、走る機能だけがずば抜けたサラブレッドの馬、多様な色、形を誇る観賞用の花などが人間のためだけに育種されてきた。その多様性には驚かされる。飼育栽培の個体を見ると、自然の状態より相互の変異がはるかに著しい。なぜ変異するかその原因はは、雌雄の生殖要素が生活条件によって受胎前に影響を受けやすいからであろう。交雑の際の不稔性と同様な原因で変異性が生じるのである。変異のメカニズムには「成長の相関」という構造のほかの部分も共に変異する関係がある。選択を続けていけば望まなくとも構造のほかの部分が無意識的に変化させられるのだ。ダーウインの時代には遺伝学は存在しなかった。「遺伝を支配する法則は全く知られていない」とダーウインは白状している。現在の発生・遺伝学ではこれらの成長の相関は容易に説明できる。飼育栽培変種は「先祖がえり」という、野生状態では変異の脱落という特徴があり、恐らく自然状態では飼育栽培種は生きてゆけないのであろう。飼育栽培変種が変種なのか種なのかについては、区別は出来ない。それはそれらの先祖が一つなのか二つ以上なのか分らないからだ。ダーウインはイエバトの育種に興味を持っていた。したがってイエバトの品種については専門家であった。彼の結論はイエバトの先祖はカワラバトであることだ。そして人間の使用と利益のために生物の選択が行われる。選択の力は人間の能力にある。自然は変異を与え、人は有利な一定の方向へ変異を積み重ねる。自然界では何万世代が必要な生物でも優秀な育種家によれば数年で望みの生物を作るのである。雌雄の個体が別になっている動物では、交雑を避けるため隔離することが育種の重要な要素である。

自然状態での変異を述べる前に、種や変種の定義が不可能なことを白状しなければならない。同じ両親から生まれた子では「個体的変異」と呼ばれる差異がある。分類学者は重要な形質の変異を喜ばない。なぜなら変異しない形質で分類するからだ。個体的変異と並んで「多変的、多形的」属には種のためには得にもならず害にもならない自然選択を受けなかった変異が見られる。とにかく種と変種の区別はまったく曖昧で任意的である。ダーウインは個体的変異は軽微な変種への第1歩として重要視する。いくらかでも永続的で顕著な変種は亜種へそして新種へと変化する段階であるとみなす。最も普通の種は個体数が多く、広く分布し、環境分散性が高いため、最も繁栄している種や優秀な種といわれる。大きな属は繁栄している種や優秀な種を多く含み、頻繁に変種を生じているのである。

2) 生存闘争

ダーウインは生きるための闘争(Struggle for Life)と生存競争(Struggle for Existence)と区別して呼んでいる。生きるための闘争とは個体がどのような些細な変異でも生きるために有利な適応・変異は保存されることであり、生存競争とは生物が他の生物に依存する(食物とする)ことや、子孫を残すことに成功するを含ませている。マルサスの「人口論」に示唆されてダーウインは生物の数はある条件では幾何級数的(ネズミ算式)に増加するが、破壊による抑制作用も働くことを示した。抑制する要因としては、破壊、食物の量の制約、気候、天敵、競争者、伝染病などであろう。そのなかで生物間での相互作用(食物連鎖関係)や共生関係・競争関係つまり自然の経済(今日の言葉では生態系)が以下に複雑で強力な力を及ぼすかに注目しなければならない。人間が森を切払うという外乱で生態系が変ることはよく知られている。そして生存競争は同じ種の個体間で一番厳しい。それは生活圏が全く同じだからだ。属を異にした種間では餌の奪い合いがなくや生息域が異なるため競争は直接的ではない。

3) 自然選択

生存闘争が変異の自然選択に対してどのように作用するかが本章の記述である。有利な変異が保存され、有害な変異が棄てられることを「自然選択」という。ダーウインは「生活条件の変化が、特に生殖系統に作用することによって変異性を生じせしめる」というが、今日ここは多少問題がある。生活条件と生殖器官がダイレクトには結びつかない。生殖系統が変化することが遺伝学の本質(無限大の遺伝子組み換えを可能とする)であって、生活条件がそれを選択しているというべきではなかろうか。ある生物の体の構造や習性において軽微な変化でもそれがその生物にとって有利ならば他の生物より優位に立てるのである。自然選択は役にたつ変異を集積し遺伝することでその生物を変化させるのである。

生存闘争に関係するものではないが、「雌雄選択」(性選択)は強い雄を残す意味(強力な武器、雌を誘引する美的な体)で重要である。ある動物の雄と雌が一般的な生活習性は同じだが、構造、体色、装飾性において差異を示すのはこの雌雄選択によって生じたと信じられる。

動物でも植物でも違った変種間あるいは変種は同じだが祖先を異にする個体間の交雑では、強壮で多産な子孫が生じること、および近親間の同系勾配ではそれらの力が弱まることは事実である。便利さからすれば自家受精が一番であるが、子孫を残す方法として自家受精だけではなく、雌雄同体株でも他の個体との交雑は起きるのである。植物では、自然種に近接して栽培すると純粋種を維持することが不可能なくらい、交雑が起きる(違った種間では不稔であるが)。植物界でも動物界でも交雑するのが自然の法則である。

自然選択に有利な環境要因を考える。個体数が多いことは、有用な変異が起きる機会を多くするという意味で変異の成功の重要な鍵となる。そして交雑は同じ種、変種の形質を変化させずに均一に保つうえで極めて重要である。隔離(地理的局在)も自然選択の過程では変種の確立にとって重要である。多様な生活環境を与える大陸のよう大地域が、長く存続し広く分布する生物の新種の出現には最も好適である。自然選択は極度に緩慢な過程である。生物界の変異の様相と速度は緩やかに展開するのだ。

地質学が教えるところによれば、稀少化は種の絶滅の前触れである。自然選択によって新しい種が緩慢に生じてくれば多くのものが絶滅してゆくは当然である。特に近縁のものが最も激しく圧迫され絶滅するのだ。

種の起源という学説にとって最重要な概念である「形質の分岐」とは、変種間の小さな差異が、種間の大きな差異へと増大することである。いくつもの変種が世代を繰り返す間に別れてゆく。分家に様なものだ。ダーウインはこれを樹状系統で表現する。今の系統分類学に相当する概念である。一つの祖先から時代を下るに連れ、多くの種が分かれてくる。これは大陸では構造が大いに多様化することによって最大の生命が可能になるという法則で、変化する一族が繁栄するのだ。形質の分岐からさまざまな環境で生きられる機会を得るという原理は、保存する自然選択の原理及び絶滅の原理と結合して、多様な種を生み出す秘訣となる。

4) 変異の法則

変異の原因は偶然によるものという一面もあるが、飼育栽培生物では、変異は親とそれ以前の先祖が何代にもわたってさらされた生活条件の性質に負うと信じられる。子孫の変異しやすい可塑的な状態は、両親の生殖系統が機能的に擾乱されたことによる。気候や食物などの違いがどれほど直接的作用を及ぼすかには不明な点が多いが、その作用は動物よりは植物においては大きいと見られる。ダーウインは生活条件の直接作用よりは、生活条件は生殖系統に影響を及ぼし、それによって変異性を引き起こす間接作用説に傾いている。変異性を偶然で説明するか、環境影響説で説明するか今日でも微妙なところである。

ダーウインは家畜においては使用が一定の部分を強くし、大きくすること、不用は小さくすること、そしてそれらの変化が遺伝することは疑いないとする。ラマルクの用不用説である。ダーウンは一部これを認めている。いつも話題になるのがキリンの首の長さ、地下に住むモグラの目の退化などであるが、人が筋肉トレーニングして子孫に伝わるかは有り得ない話で、伝わるのはもともと筋肉質という体質であろう。用と不用を助けとした自然選択によって出来た形質が遺伝すると考えるべきであろう。

植物では開花の時期、必要な雨の量、休眠時間などの習性は遺伝的に伝わっている。これは同族のすべての種が一つの先祖から由来するものと考えられる。それぞれの種がその土地の気候に順化している。自然状態にある種は特殊な気候に対する適応と全く同じように、他の生物との競争によって分布地域を制限されている。違った気候に順化することも出来る。つまり体質の広範な可塑性を持つと考えてよい。気候に対する順化は習性によるとみるか、それぞれの体質が自然選択されると考えるか、またはその結合なのか分らない。ということでダーウインは散々迷ったあげく、用不用説よりは、生得の差異の自然選択と考えるほうに傾いている。

どこかの部分に軽微な変異が起きると、それが自然選択によって集積されると、他の部分も変化することがある。これを「成長の相関」という。相関の法則が有用性とは無関係に、従って自然選択とは無関係に、主要な構造を変化させる。これを「成長の代償」ともいう。これは遺伝学では「二つの形質は遺伝子座が近接している」と表現し、染色体の交差の時におきやすいので、2つの相関する遺伝形質から遺伝座間の距離を定義した。今日の遺伝子解析が完了した時代では遺伝子コードの隣り合ったところに相当するか、遺伝子切断配列部分がおなじ配列をしているところと解釈する。

ある種において類縁種の同一部分より異常に発達した部分は、高度に変異しやすい傾向にある。オランウータンの腕の長さ、こうもりの翼、鶏の「とさか」など第2次性徴部分は高度に変異しやすいことが認められる。つまり「発生的変異性」が高いという。種の形質が共通の祖先から分かれていらい変異し、類縁種と差異を生じるに至った部分は今直高度に変異しやすい。「雌雄選択」(性選択)において第2次性徴は交雑に有利性をもたらす武器や色、形などであるので、変異が最も高い。

異なった種が相似の変異をしたり、一つの種のある変異がしばしば近縁種のある形質を持ち、または古い祖先のある形質に復帰することがある。いわゆる「先祖帰り」である。属の種間では先祖はひとつと考えられる、時々相似の変異をすることは十分予測される。ダーウンインは薀蓄を傾けて馬の先祖は一つであると断言する。

自然選択説に対する根強い反論にひとつに、長い世代で種は変異するなら、その移行段階の変種が見られないのはなぜかという反論がある。移行過程においてはもとの種も移行的変種の一般には新しい種の形成の過程で絶滅されたと考えられる。地質学的記録が不完全なのは後で述べるように、化石を発見できることが自体が奇跡的なことで、望みの変種を発見するなどは到底期待できるものではない。中間の変種は局在した地域に生息するためその個体数はすくない。少ない個体数で存在する種類は多数で存在する優生種の前では絶滅に陥る機会にさらされる。

特殊な習性を持つ生物の起源と移行過程では、水生のものと陸生の物の間に多くの移行段階を見せるのは容易である。4本足で歩く動物から空を飛ぶこうもりの間にリスやムササビのような滑空する動物をおくことも容易である。きわめて種々の生活習性に適応した構造間の移行段階が従属的な形態を生じて発達する事はまれである。自然選択は動物をその構造を変化させることにより、変化した諸特性のうち唯一つのものだけにでも、容易に適応させることが出来る。構造が先か、習性が先かの問いには両者は殆ど同時に変化するという。この節の例示は極めて豊富で面白い記述になっているが、煩雑なのでばっさり切り捨てる。

極度に完成し複雑化した器官として感覚器官の目を取り上げた。感覚神経の束が光を感じるようになったり、音の振動を感受するようになったりすることで器官が有用性を持ち選択によって高度化してきたと考えられる。同一の器官が複数の機能を持つ移行型の器官も存在する。ドジョウの消化器は呼吸も行える。魚の鰾(ふえ)はもともと浮袋の目的であったが、呼吸器系に高度に変身した由来は陸生動物を生んだ。この節も魚の発電器官や発光期間など面白い話で満ちているが割愛する。

外観的にはあまり重要でない器官がなぜあるのかという問いも面白い例が一杯ある。自然選択は有利な変異をもつ個体を存続させ、構造が不利な変異の個体を滅ぼすように働くのに、全く無用にみえる器官がなぜあるのかは不思議である。大多数の魚にとって尾は重要な運動器官である。サルでも尾は枝を掴む機能を持っている。しかし殆どの陸上哺乳類にとって尾が運動器官とは見なせない。体のすべての器官はその所有者の利益になるように作られたいう功利主義者の弁であるが、自然の成長の相関では、ある重要な役割を演じる有用な変化は、他の役に立たない変化をもたらすものである。魚が上陸した時に体の根幹たる尾は退化したものもあるが、生命にとって危険でなければそのまま残った種もあると考えられる。

自然選択は、ただ他の種の利益になるというだけで、ある種に変化を起こさせることは有り得ない。それ自身にとって害となる変異は保存されない。個体にとって不利な習性でも種全体の生存に有利であればそれは保存される。これも自然選択の原理なのである。

5) 本能

まずダーウインは本能は定義できないといって、いくつかの異なった心理作用をくくって本能といい、3つの例を挙げて解説する。ある動物の子供が経験なしにある行為をしたり、多数の個体が一様に同じ行動をするときその行動を本能的という。多くの習性的行動を意志では説明できないので、本能と習性の区別も難しい。ダーウインは本能にも自然選択が働いているという。そして本能の偶発的な変異というべき自然選択の及ぼす影響に較べれば、習性のえいきょうは従属的である。そして複雑な本能に導く諸段階が見られる。アリマキとアリの依存関係、野生動物の人に対する恐怖心、牧羊犬、狩猟犬ポインター、狼などの本能には色々な段階が見有られる例を挙げる。家畜的本能がいかに遺伝するかは掛け合わせてみればよく分るそうだ。家畜的本能は自然的本能のようだ。家畜的本能は獲得され、自然的本能は失われた。

カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けるという奇妙な本能がある。カッコウは2,3日おきに卵を産むため抱いている暇がないので、他の鳥の親に育てさせるのが目的だ。親を知らないカッコウの小鳥も成長すれば同じことをする。オス鳥が卵を抱く場合や、他の鳥の巣の卵を産むのはうずら、鶏目では珍しいことではないそうだ。ハチにも寄生性がいて、ほかの蜂の巣に卵を産む。だから自身は子育てのための花粉集め器官を持っていない。

ヤマアリの一種のは奴隷を作る本能がある。奴隷がいないとこのアリは直ちに滅亡する。働き蜂つまり生殖不能の雌アリは奴隷狩りに出かける。餌をとることも食べることも奴隷の助けでする。巣の移住も奴隷アリがおこない自身の体を奴隷に運んでもらう。アカヤマアリも少ない数だが奴隷を作る。奴隷アリ(クロヤマアリ)は黒くて小さい。彼らは家事奴隷であって一歩も外に出ることはない。アカヤマアリ自身は外で餌をとり、巣を奴隷と協力して作る。本来は食物としてのアリのさなぎ取りの習性が自然選択によって奴隷を飼育するという全く異なった目的に固定化されたと考えられる。

六角形の特徴的な巣を作るミツバチの造房本能にも段階が認められる。マルハナバチは球状の連絡された房室に蜜を蓄える。ミツバチは見事なハニカムコアーを造る。蝋で作られた薄い壁でありながら最も強度の高い構造で、蜜を蓄える効率の高い巣である。蜜を蓄えるだけであれば格子状でもいいのだが、マッチ箱を潰すことで分るように変形に対する強度は弱い。どう計算してハニカムコアーに到達したのか理解に苦しむほど見事な造房本能である。それを部分分担しながら共同作業で作る。造房本能と同時に、多くの社会性昆虫で見られるように、同種でありながら生殖可能の雌と生殖不能の雌とのあいだに膨大な差異を生じるのは自然選択による社会形成(アダムスミスのいう分業という効率性が種全体の利益につながる)に至ったのであろう。中性アリには3つの階級(カースト)が存在するそうだ。自分の腹を蜜貯蔵庫にしている蜂もいる。

6) 雑種

博物学者は「種は交雑すると特に不稔の性質をあたえられるものであり、それはすべての種が交わってしまうのを防ぐためなのである」と尤もらしい事をいう。これは自然選択にとって重要問題である。ダーウインはf「不稔性が特別に獲得され、或いは付与された性質ではなく、獲得された他の差異にもとづく偶然的なものである」という。100%不稔性ではなく、0から100までのさまざまな値を持つという不完全な性質である。ところが変種の間での交雑で子が生まれることや、またその子が稔性を持つことは明らかなので、稔性は変種と種を分かつポイントにもなる。この章では交雑したときの種の不稔性と、その雑種の子の不稔性について論じている。若し100%種が不稔性であるなら、雑種は生じないのだから「雑種の不稔性」を議論するということはすなわち種間では100%不稔ではなく、子がうまれることもある事を認めているのである。そして人類間は100%稔性があるので、黒人、白人、黄色人種とかいう言葉は種を現すものではない。逆説になるが「100%交雑可能であるなら、同一種内にある」ということだ。いろいろの種を交雑させた時の不稔性の程度はさまざまであり、かならずしも不稔性と稔性が種と変種を厳密に区別できるわけではないとダーウインは前に自分が言ったことを修正する。園芸家が「雑種の不稔性」をいうとき、大体2,3世代で稔性は失われるが、これは実験上近縁の同系交配を繰り返すことが原因である。はっきり違った変種または個体と交雑させると稔性は高まる。園芸植物よりも動物の方が容易に交雑されると推論してもよい。しかし雑種は生殖器官に異常があり、植物より稔性は低い。家畜の場合は大部分が二つ以上の土着種に由来し交配を行ってきたので、生殖能力の大きな雑種を選択してきたといえる。しかし一般的には雑種はある程度生殖不能性があると云うのが結論だ。

最初の交雑および雑種の不稔性を支配する法則は、最初の交雑においても雑種においてもともに、稔性はゼロから完全な稔せいまで漸次的に異なるものだ。交雑することが非常に困難であり、稀にしか子を作らないような2つの種の雑種は一般に極めて不稔であるといえる。種間における構造及び体質(生理学的)の類似を有することを分類学的類縁というが、この分類学的類縁が稔性を大きく支配している。2つの種の間の相反交雑(雄、雌を交換)の容易さも大きな差がある。それを支配する生殖系統の差異については分らない。要するにダーウインは稔性、不稔性の問題を種の問題というよりは生殖器官の問題とするのであるが、生理学者ではないダーウインには詳細は分らないのである。

動植物は自然条件が著しく変化したとき、変異しやすくなり、特に生殖系統に重大な傷害を受けるという。変種の間の交雑はかならず稔性をもつかというと、少数の例では一定の不稔性が存在する。瓢箪の3変種について事例を述べ、この不燃性は特別に賦与されたのではなく、徐々に獲得された変化、ことに生殖系統に起きる変化にもとづく偶然的なものだと結論した。しかしこれではダーウインが何を言っているのかわからない。

7) 地質学的記録

自然選択の原理にもとづけば、無数の中間的な環が今自然界のどこにも見られないという主な原因は、新しい種が次々とその親の種に取って代り、それを滅ぼしてゆくからである。進化の過程でさまざまな中間種が地質学的岩層や地層にも見られないのは、地質学的記録が極度に不完全なためである。結論からいうと化石として残ること自体が奇跡的なことで、それが類縁的な連環を説明できるほどに豊富に中間種の化石が残っていることはありえないくらい蓋然性は低い。自然選択説によれば、あらゆる原生の種はおのおのの種の祖先種と、今日の変種間の差異よりは大きくない差異でつながっている。この章は地質学的記録が極度に不完全な理由を考えてゆこう。

地質学的時間がとてつもなく遠大である事はダーウインの師ライエルの「地質学原理」に述べられている通りだが、今私達はその書をみることは難しいので、手ごろな本として、丸山茂徳・磯崎行雄著 「生命と地球の歴史」 岩波新書(1998年)を参考にして欲しい。現代科学が解き明かした地球の生成の歴史と生命の歴史が総合して解説されている。化石が埋もれている地層の成長速度は極めて遅いことは、地殻がそれぞれの地で受けた崩壊作用の結果水成岩の沈積速度によれば、10万年に180bと計算した人がいた。330bの地層を崩壊作用による地層の削剥に要する時間は3億年と計算した人がいた。計算が正確でなくとも地質学的時間の感覚を知っておくことは種の進化速度を知る上でも重要である。

古生物学的募集標本が極めて不完全な理由を知るには、化石のできる過程を考える必要がある。全体的に柔らかい生物は保存されない。貝殻や骨でも地表や沈積物でカバーされない海底に置かれれば分解してなくなる。古生代の化石遺骸の資料が断片的であるのは、それら遺骸の固定(保存)がいかに偶然的でまれであるかがわかる。生物遺骸の布団である沈積物は沿岸近くの地殻の崩壊が海に流れ込むことで供給される。最もありうる過程は生物死骸が豊富な浅い海底がゆっくり沈下するとき、その上に沈積物がある厚さにたまっって行く場合である。沈下の速度と沈積物の供給速度が等しいとき(均衡しているとき)に化石ができやすい。化石に富む古い岩層はこのようにして沈下の間に出来たものであると考えられる。生物の大量の存在と分解されにくいこと、沈下の速度、沈積物の供給の3つの要因が上手く重なった時に化石が出来るので、地質学的記録は殆ど必然的偶然的・断続的なものである。そして大まかにいうと、岩層の形成継続時間は種の継続年数の2、3倍である。岩層の形成時間が十分に長ければ、数代の種の変遷が同時に残される可能性もあるのだが、種の形成時間が長いため、一つの地層に1代の種があるかないか程度と計算される。そして化石が偶然見つかったとしても、博物学者は種と変種の区別の定義を持っていないため、これまで全て新種として登録されてきた。したがって中間種の連絡が付かなかった。

ある岩層に種の全部が突然に現れたような様相を呈する場合もあるが、これはそれ以前の先祖の種が全く見つからないだけで、新種が突然現れたということではない。哺乳類が第3紀層から突然現れたのではなく、第2紀半ばから哺乳類の化石が出始めている。最下層から近縁の種の群が突然現れたことも、「カンブリア紀の大爆発」もそれ以前の長い歴史を示す化石が見つからないだけだ。生物の地質学的変遷を注意深く見ると、種が先祖と自然選択によって緩慢に漸次的に変化する様子が明らかになる。異なった属や綱に属している種は、同じ速度で或いは同じ程度に変化してきてはいない。陸上生物は海中生物より変異する速度は速いようだ。変化の過程は極めて緩徐ではあるが、変異が他のものに較べて有利なものだけが自然選択される。したがって変化しないものは滅亡にいたる。そしていったん滅亡した種は、ふたたび甦ることはない。

自然選択説では、古い種の絶滅と新しい種の産出とは密接に緊密に結合している。種の滅亡は一つの地点からはじまり漸次的に全世界で滅亡する。稀少から絶滅への推移は緩慢であるが、確実である。一例としてアンモナイトの絶滅は劇的であった。自然選択説は新種は競争相手に対してなんらの意味で有利な変異を遂げたものであり、広範囲に個体数を増やすことで不利な種の絶滅が不可避的に起きることを主張する。古代の地層で生物の種類が殆ど世界中で同時変化したかのような平行関係が認められる。もちろん同時的といっても地層の地質学的時間は数千万年から数億年の幅を持っている。新しい種は優勢な種が変異しつつ広範囲に拡散し分布して作られてきたものであり、親の生物種にたいして何らかの利点を持っていたのである。改良された群が世界中に広がり、地殻変動で一つの大陸が分かれて海ができて隔離された状態になることもある。すると祖先を同じくする種の群が世界の離れた地域で同じような変異をしても何の不思議もない。一斉にとか同時にという言葉は化石岩層には空白の間隙期があるために、中間の変異は保存されないためにあたかも一斉に変化したというふうに見えるのであろう。

絶滅種と現生種は本来関連つけられるものである。あらゆる化石は現生の群か、或いはその中間に分類することが出来る。反芻類と厚皮類(象など)は哺乳類の明確な2目として分類されているが、むしろ亜目に分類できるほど似ている。ブタとラクダなど今日かけ離れた群に分類されているが古生代の昔は似たような仲間であった。現生類は古代の種から漸次変化してきたものであり、その地質学的遷移は胚発生と平行関係にある。

8) 地理的分布

地球表面上における生物の分布を見る時、それらの種の差異や類似は到底気候や物理的条件で説明は付かないほど多様である。そこには3つの事実が観察される。@地理的分布の最も基本的な区分は旧世界(ユーラシア)と新世界(アメリカ)とで顕著である。ところが気候などの条件では平行関係があるのにすんでいる生物には大きな差異が存在する。A離れた大陸への自由な移住への障害が、生物の差異に密接で重要な関係がある。さらにB同じ大陸や海洋においては、生物の種は類縁関係が濃厚に見られるということである。変異と同時に相互に似たような生物を生じる最大の要因は遺伝である。生物は環境が変化すると移住するが、障壁は移住を阻止するというよりは、自然選択を通じ時間をかけて種が緩慢に変化するためにも重要なのである。生物は必然的に発展するという考えは絶対者神の存在を必要とするため、ダーウインはこの「創造説」を拒否することから「種の起源」が書かれたのだ。同属の多くの種は世界の離れた地域に住んでいるとしても、もともとその祖先の原産地は一つである。種が世界に広がったのは移住による。東アフリカ高原のイヴが世界中に移動してヒトが存在するのである。欧州とオーストラリアとアメリカに共通の哺乳類が一つもいないのは、海洋を挟んだ4足動物の移住が極めて難しかったからである。同じ属の種同士が極めて緊密な関係を持って局在するため、それぞれの種はひとつの地域で発生し、時間をかけて生存を賭けた移住により遠くまで到達したと考えられる。移住に必要な輸送手段は種によって異なり、そして偶然的な条件で行われた。

生物の移動の要因である拡布の方法を考える。ダーウインは生き生きした想像力で色々な輸送手段を提案している。これらは証明の問題ではなく空白を生める想像の力である。移住を余儀なくさせた原因としては、気候変動、陸地の準位(水位)変化、大陸分断による隔離であろう。大陸分断説は最も容易な推察である。これは移動ではなく隔離である。しかしダーウインは生物の陸から陸への偶然的移動手段に思いをめぐらせる。植物の場合、広い範囲への風による種子散布は困難だが、海に浮遊したり、流木に付着して海流に乗って海を渡ること、鳥の足に付着して、鳥の胃袋内の種子が糞となって他の大陸に渡りうると想像する。大陸における長距離輸送には氷河時代の氷河の流れに乗ることをあげている。寒冷と温暖期の繰り返しによって、極地植物から熱帯植物の移動が北から南へ、南から来たへ、高地から低地へ、低地から高地へブランコのように移動した。この地球規模での寒冷と温暖の作用が種を広範囲に拡布したことは想像に難くない。ヒトでもアジアのモンゴル系民族がベーリング海を渡って南アメリカまで達したではないか。

大陸間では同一種の淡水魚はないが、同じ大陸では種は気まぐれな分布をしている。大陸の淡水生物の広範囲の移動に関しては陸地の準位変動と洪水の作用で十分説明できる。淡水貝類が極めて広い分布をしているのはカモや鷺によって運ばれたのであろう。渉鳥類は淡水植物を広範囲に運んだ。大洋島に生息する在来種の数は大陸の同面積の地に較べてごくわずかである。全然違った種類の帰化生物によって在来種が全滅したことがある。大洋島では生物の種は少ないけれど固有種(どこにもない)の数の割合は極度に大である。このことに関してはダーウインのガラパゴス島生物調査やウオ−レスのマレー諸島生物調査が特に有名で、ここから両者が同時に独立して「自然淘汰の原理」を発見した。大洋島ではときにある綱の生物が欠けていて他の生物が占めている。大洋島では両棲類(蛙、イモリなど)がぜんぜん見られない。そして陸生哺乳類は住んでいない。大陸に近い島では小さな哺乳類は良く見られる。これらの違いは移住手段の有無が決定するのだろう。空を飛ぶ鳥には差はなく繁殖している。島の生物に関して重要な点は、近い本土の生物と近縁であるが、同一種ではないことである。本土から移った種が長い時間の中で島という隔離された環境で独特の適応と変異をしたのであろう。ガラパゴス諸島にはアメリカ大陸と近縁だが、独特な種が多いのはそのためである。

9) 生物の相互類縁・形態学・発生学・痕跡器官

「種の起源」の最後に、生物学で一番面白くなくて、厄介で、衒学的な問題である、分類学、形態学についてダーウンの意見を聞く。今日古い意味での分類学とか形態学が残っているのかどうかは最近の大学での生物学を知らないのでわからない。科学の分野の再編成が著しい勢いで進行しているので、こんな博物学的テーマが残っているのだろうか。ダーウインは分類学が任意的だと不満を洩らしている。現在の分類学はつぎの4つに分けられる。伝統的な進化分類学 (系統分類学) 、分岐分類学(進化的系統分類) 、表形分類学(数量分類学)、分子系統学 (遺伝子配列)である。昔私達が大学で学んだ生物学の最初の講義はラテン名による分類学であった。私はこれで生物学がいやになり、興味は生化学から分子生物学へ移った。自然的分類体系は下から種ー属ー亜科ー科ー目ー網へ進む。しかしこの体系はどういう意味があるのかとダーウインは疑問を呈する。最もよく似た生物を集め配列し、最も違った生物を引き離すための工夫に過ぎない人為的手段であるという。自然的体系にはもっと別の意味があるのではないか、それは共通の先祖から今日の種にいたるまでの変遷を語るべきではないかという提案である。由来の近接性が種を結びつけ紐である。そして分類のさいの諸規則について考察する。生物の生活習性や占める場所といったことで分類するのは間違いである。それではクジラと魚の区別が付かない。限りなくクジラは魚の外観に似ているが、魚になりきっているクジラは実は哺乳類で肺呼吸で胎生である。適応から来る相似的形質にすぎない。生物の本質は子供を生む生殖器官であって、生命を支える栄養器官ではない。部分的に高度に相似している器官はあてにならない。むしろ痕跡の退縮した器官にその先祖を示す重要ないみが含まれている場合がある。生理学的にはとるにたりないほどの重要性しか持たない体部の形質が、全体を定義するためには高度に重要な場合は、それらの形質が他の重要な形質と相関を持っている。なぜ成体の形質に対すると同等の「重要性が胚について見られる形質にもあるのかといえば、分類は種の発生的段階(由来)を含まなければならないからだ。種の間の真の類縁を示すものと考えられる形質は共通の祖先から遺伝されたものであり、分類は従って系統的分類でなければならない。分類が自然的であるためには厳格に系統を示すものでなければならない。変異が起きたとしても遺伝の原則は、大多数の形質が遺伝されるのことを示している。密接に由来を共通にする場合には密接な類似または類縁が存在することが確実である。だから体部の形態や地理的生活圏の類似よりも、発生学的形質の吟味が高い分類学的重要性を持つのである。異なる網の成員が同様な環境で適応するため軽少な変化を繰り返していたため、異なる網の間に数的平行性があるのは当然である。継起する変異は形質の分岐を生んできたが、祖先種の形質が中間的、偏奇的であるのは絶滅に至った祖先と今の種の間には無限の連鎖(ミッシングリング)があるということだ。優勢な種の圧倒的な個体数から見れば、絶滅種や偶然取り残された種の形質が偏奇なのは当然である。ダーウインは分類の規則を次のように定義する。「共通の祖先に由来する諸種において増殖がおこりまた漸次的に形質が分岐してゆくという原則、そしてそれらの種は遺伝によって若干の形質を共通に保持するという原則に基づいて、同一の科あるいは高次の群の全成員を互いに結合させている」

いろいろな種の諸体部及び器官は相似であると云う前提がいわゆる「形態学」である。変異はそれぞれの種にとって有利な変異であるが、成長の相関によって体制のほかの部分に影響を与えることがある。ある器官が他の器官によって変形される可能性を示す。4肢の骨の構造位置関係は変わらないが、幅広くなってひれになったり、水かきになったりする。パンダの6本目の親指は有名な骨の変形である。昆虫の口器が基本的には上唇、大顎、2対の小顎からなっておりそれだけで無数の変形を生むのである。脊椎動物では脊椎の系列がみられ、関節動物の体節の系列と付属物は多くの変形を生む。頭蓋骨は脊椎の変態であるとか、カニの顎は足の変態であるとか面白い知見に満ちている。だから生物学は面白い。

生物は子の胚から成熟状態の成体になれば著しく異なった体になる。また違った目的を持つ若干の器官が、胚では全く良く似ている場合がある。昆虫の変態は実に面白い。ガ、蠅、カブトムシの幼虫は似ているのに成体は著しく異なる。同じ網に属して著しく異なる動物の胚が相互に類似する構造は、それらの生存条件と直接の関係を持たない。胚と成体の間に広く見られる著しく違う構造上の差異を時間を追って検証するのが「発生学」である。飼育動物がどのような長所や体型を持つかは、成体になるまでわからない。継起的変化はかなり遅い年齢でおこること、そしてそれに該当する遅い年齢に遺伝される。またごく早い年齢から親によく似ている原因は、胚の初期から早く自立しなければならない生活の習性から来ている。胚の構造は分類のためには成体の構造より重要である。胚の構造の共通点は由来の共通性をしめすからだ。

無用となった痕跡器官が分類上でキーポイントになる場合がある。反芻動物で必要な奥歯がヒトでは歯茎を破って出てこない場合もある。痕跡器官は固体において発達の過程で極めて変異しやすい。廃用は世代を重ねるうちにさまざまな器官を漸次に萎縮させ、ついには痕跡になってしまったものである。しかし痕跡となっても遺伝によって残されるので、祖先を知るよすがとなるのだ。


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