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石井淳蔵著 「ビジネス・インサイトー創造の知とは何か」

  岩波新書(2009年4月)

新しいビジネスモデルが生まれるとき、創造的知が働く、これをビジネス・インサイトという

私は会社の管理者であったとしても、経営者であったことは一度もない。だから本書のような経営学上の学説には疎い。経営学は経済学部の一分野であって、商学部の一分野でもある。しかし長年会社勤めをしていると、経営学的な研修を何度も受けているので、特にケーススタディは色々な機会でやってきたようだ。そこでの印象は、経営学とは結果論であって、成功例を学んでその理由を探すことだろうぐらいに考えていた。しかし同じ柳の下に2匹目のどじょうがいるわけではない。経営理論を振りかざして成功した例は見た事がないからだ。そして会社には管理者はたくさんいるが、経営者と呼べる人は社長とその周辺(専務クラス)の数人で、常務会や取締役会は事後承認会で経営には蚊帳の外に過ぎなかった。会社が技術系の製造会企業で、最終製品を出す川下の企業ではなく、材料を加工して売る中流企業では顧客は一般消費者ではなく、同業者に近い企業を相手にする。管理者の仕事は川下企業が買ってくれる製品開発をすることである。ということで私がいかに経営や市場調査などをしたことがない分類の人間である事を白状しておく。ではなぜ本書を手にしたのかというと、「ビジネスインサイトとは、新しいビジネスモデルが生まれるときにはたらく創造的知をいう」という言葉に引かれたからである。経営とは泥臭い実践であって創造とは縁遠い存在で、そこに「知」があるとは知らなかった。「知」とは「知恵」のことかと定義すると、「成功の秘訣」という神秘論のことかと誤解してしまう。どうもひらめき的な知恵ではなく、伝統的知的体系(経営に関す知識の蓄積)では説明しきれないビジネス的決意のことであろうが、しかしいまひとつしっくり来ないので、まず本書を読んでから考えようということにした。

松下電工会長であった三好敏夫氏は著者との会話で「強み伝いの経営はジリ貧に追い込まれていずれ破綻する。経営者は跳ばなければならない」といった。経営者は組織を成長させる責任者である。自社の強みをいかして市場拡大・維持をはかる「実証方経営」のマネジメントは現代資本主義を支える最も重要な力である。しかしそこに問題と限界が潜んでいる。経営の神様といわれる松下幸之助氏、ホンダの創業者本田宗一郎氏、ダイエーの創始者中内功氏らは事業経営の傍ら学校へ通ったという。管理者が学校や研修に通うことはざらにあるが、ものになったためしはない。経営者が学ぶ事が即会社の経営に生かされるから大切な事なのだ。経営者は経営の手法や技術、学説を学びながら経営に生かしてきた。それほど知識に飢えていたのである。経営実践者と経営研究者は別種の人間であって、入れ替えは出来ない。経営学者の顧客は同業者の学者であり、顧客(クライアント)が経営者であるのはコンサルタントという。別々のシステムで動いている。研究者が明らかにした経営上の命題(法則)が実務者にどこかで利用されればよいので、そういう両者の関係が経営学の目的でもある。これまでの経営学の「知の伝統(論理実証主義)」に対する、新しいビジネスモデルを創造する知をビジネスインサイトと呼び、その力を明らかにすることが本書の課題である。

本書に入る前に著者のプロフィールを本書末尾より紹介する。石井淳蔵(1947年9月 大阪府生まれ )は、日本の経営学者。神戸大学経営学部教授、同志社大学商学部教授を経て現在、流通科学大学学長。専攻はマーケティング、マーケティングマネジメント、ブランド論、流通システム論など。日本のマーケティング研究におけるパイオニアの一人。広義のマーケティング論から、ブランド、営業、インターネット・マーケティングなど幅広い研究分野を持つ。 研究者で言えば経営戦略論研究の加護野忠男、組織論研究の坂下昭宣が同期にあたり、3人は神戸大学の学部生時代からの朋友かつ現在も同大学で研究活動を行っている。2000年の広告批評上で行われた糸井重里との対談「インターネット的、偶発的そして人間的」では、インターネットの未来への方向性を示し、その研究活動への先鞭を付けた。また、ビジネスの現場に則した研究成果には実務界からの評価も高く、日本全国で多数の講演活動も行っている。神戸大学経営学部MBAコースを創設し、機関紙「ビジネス・インサイト」を発行した。ビジネスインサイトという概念の重要さを著者に気ずかせたのが神戸大学の加賀野氏であった。本書は、研究仲間である西川英彦氏(立命館大学経営学部教授)、栗木契(神戸大学経営学部助教授)、水越康介(首都大学経営学准教授)にドラフト討議をしてもらい、大きな影響を受けたという。

1) 実証主義経営の検証と問題点

わが国に実証的な経営組織研究が入ってきたのは1974年野中郁次郎氏に始まるといわれている。市場と組織の相互的な関係(市場の変化が組織の再編成を促し、新しい組織が市場をどう変えてきたか)をテーマとした研究であった。著者はこの研究に啓発されて、経営学研究をスタートしたという。経営者・管理者に質問表調査を行って、それを統計分析をし、情報処理という理論パラダイムの下に「条件適合理論」という枠組みで実証研究を行うものだ。実証研究はすでに人文学(歴史・社会科学・人類学など)の分野で始まっていた。論地実証研究の枠組みは、経験からある仮説を立て、仮設を構成する概念群を定義してから、概念間の関係図式モデルを組み立て、定量化できる指標を決め、可能なデータを集めて統計分析を行い、仮説の妥当性を検証するという手順を繰り返し行って精度を高めるのである。マネジメントのPDCRプロセス(プランー実行ーチェックーレビュー)とおなじ枠組みになっている。そこで実証され積み上げられた命題は「知の伝統」(経営学という学問)を構成する。経営学の基本命題の一つに「唯一最善の組織は有り得ない」がある。経営者の課題は、組織(戦略)を環境に合わせて組み替える仕事だというのである。論理実証主義に従う限り、経営研究は決して無用の学問に陥らず、また経営者の課題だけを解決する「御用研究」にも陥らず、「知」として世の中の役に立つ集積となる。これは論理実証主義が科学的「知」と経営の実践を結びつけるのである。市場に向けての組織的な活動は「マーケティング」あるいは「市場戦略」と呼ばれる。「売れる物をつくる」というコンセプトで1950年ごろから市場戦略が重要視された。市場調査では消費者のニーズや競争相手の商品をきめ細かく分析し、問題商品のSTP(細分化、ターゲット、位置取り)を定める。市場調査によって関係する命題が導かれ、PCDRの回路に入るのである。関係命題にもとづいて市場戦略が練られ、企業は多大な成果を挙げて来た。市場戦略は万全かというと、いろいろ落とし穴がある。その一つに「前提となる条件が違えば、消費者の選択の答えは全く異なったものになりうる」ということもある。もうひとつの「消費者が現実に欲しいと思うものを作ればいいのではないか」という命題も曲者である。消費者の嗜好に忠実なものを作っていると、社としてのポロシーがなくなり、時代遅れのものとなって、業界は同質化競争に埋没する。STPのやり方ではそれまでの市場にある商品の延長線上を超えた商品は生まれにくい。新しい市場を創設するチャンスを見逃してしまうのだ。経営者は実証結果に対して常に「信じながら疑う」態度が必要である。

実証主義が抱える問題(限界)は、@状況依存ないしは一般化の罠、A状況の定義の問題、B見えない物を見通す力の軽視である。まず社会法則は状況しだいで、一般化するとんでもない間違いを犯すことだ。自然科学のように条件をあわせれば誰がやっても同じ結果が出ることというわけではない。社会法則は目に見えない条件の違いによって同じようなことをやっても結果が全く違うこともあるのだ。たとえば「低コスト参入者は上位企業の市場を侵食する」という命題があるが、高炉製鉄メーカと電炉製鉄メーカの関係は米国では安物市場(鉄筋、棒鋼、線材)市場から高炉メーカを追いだしたが、日本ではすでに高炉メーカーが垂直統合を成し遂げて高効率生産体制をしき、多種の鋼材市場に圧倒的な力を持っていたため、電炉メーカの方が撤退するハメとなった。この命題は市場が成長期にあれば成立するが、新規低コストメーカが市場に進出することによって、市場はコストダウンによる成熟期(停滞期)に入り込み、いわゆる共倒れの形勢でいずれのメーカも利益が出ないというジレンマになる。これを「一般化の逆説」という。次に「製品を作り始めてからの累積生産量がその企業の経験となり、経験の深さがその製品のコストを決める」という命題がある。これは半導体生産で定式化までされた。したがって競争の焦点は利益ではなくシェア争いの変わる。「戦略市場計画」に「事業ポートフォリア」という考えがある。市場の成長率とシェアーも二軸で製品の位置づけを行い、競争戦略と社内の資源配分を議論する者である。その時に問題なのが場の定義である。商品の捉え方である。ヤマハなど鍵盤楽器メーカーでピアノ事業、エレクトーン事業(電子ピアノ事業)をどう捉えるかによって、ピアノメーカーからエレクトロニクスメーカに変貌できるのである。どちらを選択するかは社内の政治問題である。また市場の定義の問題もある。米国の鉄道会社を例にして、鉄道会社と見るか運送会社と見るかによって、トラック運送、航空運送まで発展するという。日本でも私鉄会社は乗客の生活圏設計という観点で、百貨店など小売業、沿線宅地開発会社、旅行社、イベント業、美術館遊園地、環境開発、土建建設業まで幅広い市場を実現し、本来の鉄道業務は赤字でもいいという体制である。マーケットを近視眼で見るとビジネスチャンスを逃すが、間^ケットを遠視眼でみると焦点がぼやけて投資が増えすぎる。論理主義実証経営学が築いた知の伝統を「明示的な知識」と呼ぶと、先を読む目や「知の暗黙の次元」が盲点になっている。ここにスポットを当てるの経営学が、ビジネスインサイトである。

2) ビジネスインサイトと暗黙の知

あるビジネスモデルが成功した時、その成功の要因を探ると色々なことがいわれるが、最初の一点に経営者の「創造的瞬間」があった。もやもやした中での閃きであったかもしれないが、今まで自分を縛り付けていたフレームの力が弱まり、逆に内的な創造性や連想力が湧き出てくるのである。このビジネスモデルを生み出すインサイト(洞察力)がその経営者に働かなければ、そのビジネスはこの世に存在しなかったかもしれない。インサイトはそれほど遇有性(偶然性)を持つ。ヤマト運輸の小倉昌男氏は、ニューヨークのエンパイアステートビルの上から十字路の集配車の動きを見て、宅急便の損益分離点は「集配密度をあげ、車両受け持ちエリアを狭くする」というBCD流通体系にあることを閃いたという。ダイエーの中内氏は総合スーパーGMSの業態をあみだし、セルフサービス・ディスカウント・デパートメント・ストアーによって瞬く間に急成長し、1972年には三越の売上を抜いた。仲内氏は流通の革命児と呼ばれた由縁である。セブンイレブンの鈴木敏久氏は多頻度小ロット高精度の流通を目指すコンビニ革命を起こした。セブンイレブンの「小分け配送とエリア集中出店」はどこかクロネコ大和の宅急便のアイデアに似ている。消費者の行動を分析しストレスリリースというコンセプトでネスレのイギリス生まれの洋菓子「キットカット」の売込みを開始した。「きっと勝つ」という語呂合わせにちかい受験生宿泊ホテルとの共生価値方式でクチコミで成長した。これは消費者の生活経験で生まれる価値であり、消費者は合理的ではなく感情的な存在である事をコンセプトとし、、双方向のコミュニケーションで消費者と広告媒体とやり取りすることから成功した例である。何に気が付くかがビジネスの分かれ目である。それに気が付く事がビジネスインサイトである。

著者はこの「ビジネスインサイト」という洞察力には、「科学的な暗黙の知」とのアナロジーが成立するのではないかという。この考えが本書を生んだ。科学的な知を論じたマイケル・ボランニーという化学者・科学哲学者の「知の暗黙の次元」という概念を援用しながら、著者はビジネスインサイトの存在を証明しようと涙ぐましい努力をしている。ボランニーの暗黙の知とは「私達は言語という形式知以外でも、認識することが出来る。それには対象に棲み込むことである」の一言に要約される。50年前ではビジネスインサイトという言葉もなかったので、ポランニーは経営については言及してはいない。著者がこのポランニーの考えを経営学のビジネスインサイトに適用しようとしているのだ。論理実証主義経営はこれまで、職人の技や技術をマニュアルやレシピという目に見える形式知に変換することが必要であるといってきた。ポランニーは「それと知らないうち知ってしまう暗黙の認識力、これが科学研究において不可欠の力である」と考えた。科学の知には検証のプロセスよりももっと大事なプロセスがあるという。それは@問題を適切に認識する、Aその解決に迫りつつある事を感じながら問題を追及する、B発見された命題からいまだ定かならぬ含意を妥当に予期するとい3つのプロセスである。このプロセスは科学論文では当たり前の、序、本論、討論という枠組みである。ただ科学論文では含意を根拠なく言い過ぎてはいけないという縛りがある。新しい世界を切り開く成功の鍵となる構図を発見する能力が企業成長には不可欠である。ビジネスインサイトにもこの3つのプロセスが成り立つかもしれない。

ポランニーは「暗黙の認識には、対象に棲み込む契機が不可欠である」という。部分を見て全体を知るプロセスはまず部分(対象)に自分(認識主体)が棲み込むことが必要だという。ここからは知るという認識論の分野であり、かつ現代は脳科学分野でその解明が進みつつあるようだ。デルタイという哲学者は解釈学として「ある人の精神はその活動を追体験することによってしか理解できない」という。この姿勢は評論家小林秀雄の姿勢である。「さかしらな意見より、相手の心まで入り込まなければ、その人の仕事の評価は出来ない」と直観派小林氏はいうのである。これは「共感的理解」といって文化人類学ではよく用いる手法である。人の著作を読む時、何回か読んで本を閉じてその著者が言いたかったことを思い考える。そして次に著作の要点を自分なりに書いてみることで「掴み」から「落ち」までが理解できるのだ。これは私の「読書ノート」の手法でもある。この時点で言説を理解した時、その言説は著者のものなのか自分のものなのか判定できず、読み手が読み手の責任において理解したという。対象が物質であっても、観察された事物は実在の一側面であるが、そこには如何なる概念でも尽くしきれない意義を持っているはずだとポランニーはいう。個個の諸要素が統一されて、意味を持った存在へと対象を見る目は移動する。これを対象に棲み込むという。デカルト的二元論では対象に住み込むことは実証主義世界では禁じ手になる。ビジネスインサイトではその禁じ手は解かれて、対象に棲み込むことが最優先となるのである。ということで、閃きのインサイトは存在するし、科学的知の世界にも通じるものであり、対象に棲み込むことが必要であると云う結論を著者は出してくる。どうだろう、これで証明したつもりなのか私には疑問符がつく。強引にアナロジーで接着した積もりだけかもしれない。別にビジネス界で成功することを科学的知にこじつけなくてもいいじゃないかと思う。

3) ケース・スタディ 教育とその可能性

言葉で表現できないビジネスインサイトを教えることが出来るのかという教育上の問題を考える。語りえなない知の働きを育てるという大学やビジネススクールの使命は、教科書によるのではなく、ケーススタディによって学ぶものと教えるものの協同討論で成し遂げられるというのが結論である。ポランニーは「教師の説明を理解しようとする生徒らの知的な協力が期待できて、はじめてそれは可能である」という。ハーバード大学ビジネススクールはケーススタディで有名である。いわば法学の判例による学習と似ている。資料を提供して「さて社長はどうしたらいいのでしょうか」という設問を与える。ここで現時点からの視点や、上から目線は避けねばならないし、経営者のよしあしは論じても仕方がない。ここで学ぶのは正解ではなく、問題解決のパターンである。現状の整理・分析をおこない→戦略の類型化→戦略の特徴比較(複眼)→戦略選択の要因の探索→戦略選択による具体的施策の提案よいうパターンに沿って論理的に議論が進むことが大事なのである。「知識伝達型」ではなく議論を進めながら理解を深める「対話重視」、「学習経験重視」をモットーとする。ケース教育は次の五つの狙いを持つ。
@ 当事者の視点に立つ。当事者に棲み込むことが必要。
A 問題を構成する力をつける。問題と答えが1対1ではない学習で、現実の問題解決に近い。
B 学ぶ姿勢を育てる。知識に対するみずみずしい感受性をもって臨む。
C 視点の大事さを教える。見方は複数ある事を学ぶ。それによって見る世界は異なってくる。
D セオリーや経験の使い方を教える。定説(低石)をまずフォローし、そこに棲み込んで使いこなし、最後にその定説を相対化するまでになることが必要だ。

大学研究者のケース研究による経営研究や市場戦略研究は、経営実践とどのような関係に立つのかを考える。ケース研究をいくら積み重ねてもそれは社会科学と認められるのだろうかと著者は自問している。危い世界を生きている者の謙虚な態度である。米国の医療業務改善運動で、組織のマネジメントとガヴァナンスの問題を日本で検証する研究に著者らが携わった時の経験を述べている。プラトンの「メソン」が語る逆説として「問題が分れば答えは自ずから姿を現す。答えが分れば問題は存在しない」という。一体自分は何をやっているのだろうかという自問自答のジレンマの表現である。結局研究とは「何を分ったら、分った事になるのか」を最初から設定しておくことである。"I study about X in Y"のYが重要である。Yという視点がなければ際限ないXの世界に埋没する。際限ないケーススタディに埋没しないために、自分の研究にあらかじめYという視点、まとめを用意しておく。逆に言えばYという結果を得るための材料がXであったともいえる。本書ではケーススタディとしてカルビーのポテトチップスの戦略を述べている。著者は多くのページを割いているが、これは将に遇有性(経営者のやりたいという棲み込み、選択と意志)の問題で、それを実現するために創造的適応が必要であったという例である。新しいケーススタディは現実の姿を因果関係に還元しないで、むしろ多様な要素の関る過程を解析することであった。伝統的なケースステディは記述の目的が原因と結果の関係であい、分析の対象が構造で、記述の方法は客観的に必然の論理でとくことにあり、狙いは汎用性普遍性にあった。新しいケーススタディの目的は動的なプロセスを記述することで、分析はプロセス中心に記述し、方法は対象に棲み込んで遇有で読み解くことにあり、狙いは特定的な利用を目指すものだ。

4) 経営における遇有性(セレンディピティ)

現実の経営は斯くあらねばならぬという必然性はなく、ほかでも有り得た現実・世界つまり遇有性の様相をどう扱うのかということを問題とする。別の答えもあって人生は知恵比べというのが答えである。振動を吸収する「制振鋼板」は自動車ボディを狙いとして開発されたが、複数の鋼板を接着する技術と信頼性に問題があり、より環境がマイルドな静音型洗濯機に採用された。そこで成功して次は住宅用の屋根やフロアーに採用された。これは市場を実験室と見る戦略である。何かと何かが出合って予測し難い一つの価値が生まれたのである。場があってそこに意図と解釈が生まれたともいう。ここにコミュニケーションとしてのマーケッティングプロセスが提案された。市場では供給側の思惑とは別のことが起るのである。価値の押し付けではなく、使用者と供給者が市場で出合って価値が生まれるというコミュニケーションである。コピーライターが書く駄洒落のような言葉で新たな価値が生まれることもしばしばある。クリステンセンは「イノベーションのジレンマ」においてハードディスクドライブHDDの記憶密度向上のたびにリーダー企業が入れ替わる様子を描いている。新技術の登場に見合った新市場を探す事がいかに困難かということである。いくら考えても未来の市場は見えてこない。16インチはメインフレームコンピュータ市場、8インチはミニコン市場、5インチはデスクトップパソコン市場、3.5インチはノートブックパソコン市場、1.8インチはカーナビ市場であった。ではどうしたらHDDトップ企業は次の時代のトップたりうるのかは分らない。著者はネット資本主義の市場に興味を持っていることを付け加えて本書の紹介を終わりにしたい。


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