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村山富市、佐高信著 「村山談話とは何か」

  角川oneテーマ21新書(2009年8月)

タカ派の叫ぶ大東亜戦争肯定論を排して、平和・民主・護憲を堅持しよう


「戦後50年に際しての談話」(村山談話 全文) 平成7年(1995年)8月15日
 

先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原j7から、幾多の困難を乗越えて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私達の誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表すものであります。ここにいたるまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私達はややもすればこの平和の尊さ、有り難さを忘れがちになります。私達は過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培ってゆくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史的研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つの平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は引き続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当り、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道をあやまらないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、おおくの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらめて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念をささげます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めてゆかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進してゆくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんよなると、私は信じております。「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当り、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉と致します。


まずは上の「村山談話」を読んでみて下さい。これほど易しくてとげのない文章は天皇陛下のお読みになる文章かと見間違うほどだ。官僚が書いた文章であろうが、村山氏の筆は入っていると思う。誰もが納得できる内容になっている。いまなぜ「村山談話」に関する本が出るのだろうか。それは2001年以来の小泉元首相の「靖国神社参拝問題」、2006年安倍元首相の「憲法改正のための国民投票法案と55体制との決別」、そして2001年9.11事件後のアフガニスタン支援とイラン戦争派遣など自衛隊の海外派兵がなし崩し的に行われて、戦後の平和と憲法が著しく侵されてきた危機感からであろう。そして2008年11月、時の田母神俊雄航空幕僚長が「日本は侵略国家であったのか」という懸賞論文を発表した。その主張たるや右翼イデオロギーの寄せ集めというお粗末なものであるが、現役の自衛隊幹部が歴代政府の公式見解を無視して個人の見解を平気で公表したことにある。1995年の村山元首相が戦後50周年を記念して発表した「村山談話」の趣旨を、歴代日本政府は公式見解として橋本元首相から小渕元首相、小泉元首相、安倍元首相、麻生元首相まで忠実に守ってきたからである。それを一幕僚長が制服のまま踏みにじる発言をしたことである。軍靴で政府が踏みつけられたことになりシヴィリアンコントロールとして由々しき事態であった。2000年にも栗栖統合幕僚参謀長が「日本国防軍を創設せよ」と本で天皇制軍隊の意識そのままの主張をしたことがある。その後も解任された田母神氏は度々メディアに取り上げられ、「日本も核武装せよ」とか「テポドンを必ず撃ち落とす」とか景気のいい発言でもてはやされた。これは制服組のはみ出し発言でたいしたことはないと思っていると危険である。後藤田正晴副総理も言ったように「蟻の一穴」で、戦後営々と築きあげた平和の壁を崩されることにもなりかねない。だからもう一度日本政府の公式見解「村山談話」をとりあげ警鐘を鳴らしたいという、村山富市氏と佐高信氏の想いである。

村山富市氏についてはいうまでもなく、1994年自・社・さ連合で社会党党首で内閣総理大臣となったひとであり、あまりにも有名である。また本書でも村山氏の生い立ちや経歴が自身の言葉で語られているので、プロフィール紹介は年代を追って重要な点だけを記そう。村山 富市氏(1924年3月3日 大分県生まれ)は、日本の政治家。徴兵され軍曹で終戦。戦後は明治大学を卒業後、故郷にもどり労働運動、社会党員活動を続け、大分県大分市議会議員、大分県議会議員を経て、国政へ。1972年衆議院議員、衆議院物価問題等に関する特別委員長、1991年日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長。1994年第81代内閣総理大臣に(在任1994年6月30日 - 1996年1月11日)。1996年社会民主党党首、社会民主党特別代表を歴任、2000年3月76歳で政界を引退。社会民主党名誉党首。村山氏の政治家として躍り出るのは1991年社会党国会対策委員長となってからで、1993年非自民連立政権(社会党も参画)である細川連立内閣が発足した。同年9月に行われた委員長選挙では、村山が社会党委員長に当選し、書記長には久保亘を起用した。1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明した。連立与党は、次期首班に新生党党首羽田孜を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。しかし、小沢一郎らの動きで新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表した。自社さ連合が合意して6月29日、村山氏が指名決選投票で海部氏を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。1947年に成立した片山哲以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。次に1年半の村山内閣の主な仕事をレビューしておく。
・1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。被爆者援護法の制定をこなった。
・1995年1月、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した。しかし失敗を教訓に危機管理体制 を見直した。
・3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった。オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した。
・6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。
・7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らした。
・8月15日、「『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話」(村山談話)を閣議決定した。
・1996年1月5日、首相退陣を表明した。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。 総理大臣退任後は、村山氏は党務に専念した。1996年1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。1997年の沖縄特別措置法案採決には与党ながら反対に回った。1998年6月、社民党が自民党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権は崩壊した。1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。2000年6月の衆議院解散とともに政界を引退した。桐花大綬章を受章した。

次に共著者佐高信氏のプロフィールを紹介する。私は以前佐高氏の歯切れのいい評論活動に引かれて、氏の著書をたくさん読んだことが懐かしく感じる。最近は殆ど読んでいないが、本屋でこの本を見つけて懐かしくて手にとって買う事にした次第である。佐高信(1945年山形県酒田市生まれ)、慶応義塾大学卒業後、高校教師、雑誌編集者を経て、1982年より独立して執筆評論活動に入る。反権力が売り物の「よらばきるぞ」式の切れ味のいい評論活動で人気を得た。権力側に立つ政治家・文化人を一刀両断に切り捨てる。別名辛口評論家。著書は多すぎて紹介できない。現在週刊「金曜日」の発行人を務める。「憲法行脚の会」呼びかけ人の1人。問題発言が多いので有名だが、意見のブレが大きく複雑な人だ。

1)「村山談話」の誕生まで

1993年8月に発足した七党一会派の細川連立内閣は、佐川急便事件が浮上して、1994年4月予算が通過しないまま崩壊した。次の羽田内閣は発足直後の小沢一郎を中心とする統一会派「改新」結成で、70議席を持つ社会党を排除したために社会党が連立を離脱し予算成立後に総辞職した。6月社会党とさきがけは政策協定に合意し、村山談話の基になる「戦後50周年と国際平和」を盛り込んだが、小沢一郎はこれを拒否し、海部俊樹元首相を自民党から引き抜いて首相候補とした。自民党の森喜朗、亀井静香、河野総裁らが動いて社会党.さきがけと連立政権合意を作成して、6月29日の首班指名で村山富一氏が首相に選ばれた。戦後片山哲以来2回目の社会党首相の誕生となった。7月8日の首相所信表明演説で村山氏は「日米安保体制を堅持しつつ、自衛隊についてはあくまで専守防衛に徹する」と従来の社会党の主張を変えた。連合政権である以上妥協はやむをえないものだが、これが国民の社会党支持層の乖離を生み、以後の社会党凋落の原因となった。とはいえ「野合政権」と揶揄された村山政権は臨時国会で、税制改革、小選挙区区割り法、年金改革法、WTO設立承認関連法、自衛隊改正法、被爆者援護法など政府提出法案がすべて通過するという完全試合となった。左と右の妥協する法案はすべて通過した。これは国民にとっていいことではないだろうか。社会党には主義があったがこれを妥協し、自民党には主義はなく当面の利しかなかったことも幸いしたのだろう。1995年1月に阪神大震災が発生し、政府のリスク管理体制のなさがクローズアップされ災害対策基本法が成立した。後藤田正晴氏は当時を振り返って、保革対立のなかでできなかった懸案の仕事(水俣病救済、被爆者援護、年金、沖縄、銀行不良処理問題など)が処理できたことで村山内閣を高く評価した。村山の政治手法は自分の意志を強く押し出すのではなく、相手の意見を粘り強く調整してゆくというもので「翁の政治」と呼ばれた。連立政権合意事項にもとづいて、1995年6月衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が、半数の議員が欠席する中で採択された。そして8月15日終戦記念日に「首相談話」としてお詫びの集大成を発表する段取りとなった。野坂官房長官らが自民党タカ派に根回しし、閣議でこれを了承し発表された。こうして「村山談話」は内閣の方針という事になり、日本のアジア外交の基本理念となったのである。この談話は橋本龍三郎内閣、小渕恵三内閣、小泉内閣、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣と踏襲されていった。

同じファッシズム国家で侵略戦争(後発植民地争奪戦争)を遂行し米英と戦ったドイツも日本とおなじ十字架を背負っている。ドイツは第2次世界大戦後東西の2つの国家に分割され、1989年のビロード革命によって国家は統一された。日本とドイツの違うところは戦争の後始末をドイツはきちっとしたところだ。1985年終戦40周年記念演説で西ドイツのワイツゼッカー首相が「過去に目を閉じるものは現在がみえなくなる」といい「罪の有無、老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去の帰結として現在に関りあっており、過去に対する責任を負わされているのです。過去を変えたり起らなかったことにするわけにはまいりません。」と語った。なんと日本と違う事であろう。日本では過去の罪を問われることは絶対に嫌がり、「南京事件はなかった。アレは中国政府の捏造だ」といった石原慎太郎のような右翼政治家が元気がよいともてはやされる風潮は、戦前の軍部の慣習と全く同じである。参謀本部が「敗退」を「転進」と強弁するところは、今の官僚が決して施策上の過ちを認めず「法改定」といってこっそり是正するようなことに引き継がれている。歴史認識があいまいで戦争責任もうやむやにされてA級戦犯は釈放された。冷戦が終って東西の緊張で隠されてきた戦後処理の問題として従軍慰安婦や強制労働の問題が戦後50周年あたりから浮上してきた。国内的にもけじめをつけていない問題として水俣病、被爆者問題があった。そういう時期に村山内閣が誕生し、自民党が弱くなっている時期に政策協定(自社さ3党合意)を結んで一連の問題にけじめをつけようとしたのが村山内閣であった。村山首相は就任後1994年8月にフィリッピン、ベトナム、マレーシア、シンガポールと東南アジアを歴訪した。ASEAN諸国は日本の政府開発援助ODAに感謝しており、その信頼関係構築が大変重要であると村山氏は認識した。自社さ3党合意で自民党側を取りまとめたのが河野洋平総裁であり、梶山静六、後藤田正晴氏、野中広務氏らと交友は信頼関係を作ったという。こうして隣国としての中国・韓国・東南アジアとの信頼関係が出来上がったのであるが、それをぶち壊したのが2001年以降5年間連続した小泉首相の靖国神社参拝であった。小泉氏は口では「村山談話」を尊重するといいながら、日本遺族会の支持を取り付けるために靖国神社参拝を強行し、中国・韓国の猛反発を招き、正常な会話も出来なくなった。

憲法99条に「天皇または摂政、及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と書いてある。閣僚や議員は間違っても憲法を変えるといってはいけないはずであるが、小泉流の過激な意見にメディアが喜び、何でも壊してもいいと錯覚している。小泉氏の忠実な弟子である安倍元首相も一歩進んで憲法改正のための国民投票法案という地ならしを行った。小泉首相以来国政が目茶目茶になって、更に悪いことには2005年郵政選挙で与党衆議院議員数が2/3以上になるという歴史的な「勝利」によって、どのような法案も議会を通過した。小泉流進自由主義(新保守主義・市場原理主義)は2001年9.11事件いらい、米国の要請に答えて自衛隊の海外派兵に道を開いた。「テロ対策特別措置法」、「イラク復興特別措置法」など時限つきながら毎年更新されている。日本には憲法九条があるから戦争に巻き込まれずに済んだ。それが日本を経済大国にしたことを忘れてはいけない。小泉以来日本は全く地に足がついていない、言葉だけが躍る、実のない政治をやっている。これでは東アジアの信頼を得る事はできない。アメリカからも日本は何でも飲む国とばかにされているようだ。

2)村山富市の政治人生

村山富市氏のプロフィールと首相としての1年半の仕事については既にまとめた。この本では一番多くのページをこの章に割いている。戦前のことも軍隊時代のことも本質的でないので割愛する。また村山氏は東京での学生時代の恩師について感慨を述べられているが、もはや亡くなられており、第三者は誰も知らないしことでもあるので恩師の事は全て割愛させていただく。戦後大分県の漁業組合の民主化からスタートした村山氏の政治家人生であった。漁村青年同盟活動の中、社会党に入党したという。1945年11月に安倍磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦の呼びかけで結党された。綱領には「民主主義、社会主義、平和主義」という三本柱を掲げた。そして1947年新憲法下で片山哲を首相とするわが国初の社会党内閣が誕生した。8ヶ月で科茶間轍内閣は潰れ、続いた芦田均連立内閣も昭和疑獄事件で7ヶ月と持たなかった。1949年より漁業組合運動は終わり、社会党左派活動家として、県職員労組書記となった。1950年に朝鮮戦争が始まり、1951年10月対日講和と日米安保条約の国会批准をめぐって左右社会党は分裂した。右派は木下一家で、村山氏は左派の五人の侍といわれ、県本部青年部長として数々の労働争議を指導した。この1950年代が日本の労働運動の最盛期で「政治の季節」であったといえる。1955年には社会党は鈴木茂三郎を委員長にして左右の統一がなった。そして保守側も自由党と民主党が統一して自民党となった。これが55体制のスタートである。この年に大分市市議会選挙で当選した。1958年岸内閣は警職法改正案を出し、猛烈な反対運動で廃案となったが、1959年より安保改定問題が浮上した。安保阻止国民会議が反対闘争を指導し、社会党の浅沼書記長は「アメリカ帝国主義は日中協同の敵」といって運動を盛り上げた。しかし1960年1月社会党の右派である西尾末廣氏は分裂し「民社党」を結成し、大分県社会党も木下一家は民社党に流れた。安保闘争は国会周辺をデモ隊が取り巻いたが、浅沼書記長が右翼の少年に刺されるという悲劇となって終結した。1963年県議員選挙に出馬し当選した。村山氏は県議として福祉問題に取り組み肢体不自由児童養護学校の設立運動は成功した。この頃から高度経済成長期にはいるい大分県は新産業都市指定を受け、臨海コンビナートが建設され、公害問題も表面化した。公害防止運動を始め大分県は「革新の牙城」といわれた。1972年衆議院選挙に立候補し大分1区で当選し、そして国政へ乗り出すことになった。

国会議員になって村山氏は70歳ぐらいまで雇用、医療、年金、福祉、所得といった大衆のための仕事を専門にやろうと決意されたそうだ。念願の社会労働委員会(今は厚生労働委員会)にはいった。そこで自民党の橋本龍三郎、社会党の田邊誠氏等から教わりながら、水道法、塵肺法などに取り組んだ。毎週地元に帰り国政報告会を開いたことが、長い当選暦に繋がっているという。1980年に一度落選したが、1983年に復活当選した。予算委員会理事となって社会党の上田哲氏と一緒に勤めた。各党理事との折衝では信義を第一とし、委員会の運営に当ったという。1991年社会党医委員長には土井たか子氏にかわり田辺誠氏が選ばれ、その時村山氏は社会党国対委員長となった。「密室の国対政治はやめる。会議はできるだけ昼間に院内で行う」ことをモットーとした。当時は社公民の共闘があり、与党の梶山静六氏を相手にPKO,佐川急便事件を折衝した。自民党政権は1992年竹下派の分裂から始まった。宮沢内閣不信任案が小沢グループから出され可決された。7月の総選挙で新生党とさきがけが自民党から離党したため自民党は過半数を割って下野した。1993年非自民連立政権(社会党も参画)である細川連立内閣が発足した。同年9月に行われた委員長選挙では、村山が社会党委員長に当選し、書記長には久保亘を起用した。1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明した。連立与党は、次期首班に新生党党首羽田孜を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。しかし、小沢一郎らの動きで新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表した。「踏まれても付いてゆく下駄の石」と揶揄された村山氏は激怒し政権離脱を決めた。自民党河野洋平氏の呼びかけの応じて、6月29日自社さ連合が合意して小沢氏が担いだ海部俊樹氏を破って、村山氏が首相に選ばれた。1年半の村山首相の業績は上に年譜の形でまとめた。これが村山氏の政治家の活動暦である。

3)「村山談話」の今後

村山氏は戦前、アジア留学生の父と仰ぐ穂積五一氏が主催する無料の下宿「至軒寮」に入っていた。これは戦後アジア・アフリカ人留学生や研修生の施設アジア文化会館へと発展した。穂積五一氏はどちらかといえば右の方の人とみなされるが、村山氏は穂積氏から拭き掃除という行を習った。戦前も戦後もアジア人の駆け込み寺という面倒見のいい人であった。アジアの人達の日本人評は「日本人は頭もよくて金儲けも上手いけれど、どうも人生観は何もないようだ。宗教心もないから、長く付き合うと飽きてくる。」という。アジア人にとって日本人は魅力のないように映るようだ。村山氏は日本人はアジアで犯した罪に対して謙虚であるべきだという。そう考える姿勢が「村山談話」を生んだ。連立政権には欠点も多いが、利点もある。細川内閣は新生党小沢一郎と公明党市川雄一の「一一ライン」の独断専行によって破れた。小沢氏は連立の妙味を生かせず運営を誤った。連立政権は複数の党が集まって政権を作るので秘密が出来ない、つまり透明性が高まるという利点がある。そして国民の多様な価値を背景として議論して合意点を見出すので、一党独裁では出来なかったバランスのよい政策が始めて可能となる。多数決よりも議論をする、これが民主主義の基本ではないかと村屋氏はいう。その典型的な政策が、被爆者援護法の制定と水俣病患者救済問題であった。社会党が16回も提案して出来なかった法律ができた。環境庁事務次官の嫌がるのを振り切って、水俣病解決の方向を示したのも成功であった。内閣が方針として決めたら、官僚の抵抗を押さえつけることが出来るのだ。村山氏は従来の社会党の主張である「安保反対」を「防衛に金を使わず、今日の経済大国を築くことが出来、安保があることで日本が軍事大国なる危険性を近隣諸国から払拭できた」という安保容認論を展開した。しかし今後は後藤田氏もいうように、軍事条約から日米友好条約にもってゆきたい。21世紀になってイラク戦争などを見ても、アメリカにべったりで、軍事条約としてより強化し、兵器・軍事行動を一体化する傾向は極めて危険である。そして北朝鮮が核を持つ問題に対するアメリカの立場と日本の立場はことなることをクリントン大統領に「日本はどこの国が核兵器を持つことにも反対である。北朝鮮と日本はまだ国交回復もしていないし友好条約も結んでいない。朝鮮半島全体の平和と安定こそが日本の懸念である」といったそうだ。沖縄の米兵の犯罪が多発していた状況で、日米地位協定を改定し、凶悪犯罪の場合は容疑者の起訴前の身柄引き渡しが可能となったのは一歩前進である。村山内閣としてはアメリカの沖縄基地の「整理・統合・縮小」を米国政府に要求していくことに決めた。これには外務省は「日本政府の方針は安保条約堅持なのだから、基地縮小というな」とクレームをつけてきたが、官僚は自分達が政府だと思って、現内閣を政府だと思っていない。日米行政協定の見直しが必要である。どんな状況でもアメリカ政府を支持し、いうがままの負担を受けることでは、アメリカは「日本はどんな無茶を言っても付いてくる」と思うだろう。「思いやり予算」はその典型でアジアの笑いものとなっている。アメリカ軍は基地移転費用まで要求してくる始末である。


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