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野中広務、辛淑玉著 「差別と日本人」

  角川oneテーマ21新書(2009年6月)

部落差別、朝鮮人差別と闘った二人の会談

本書は部落差別と闘った元自民党幹事長野中広務氏と在日朝鮮人への差別と闘っている辛淑玉女史の対談である。共通のキーワードは日本人の差別意識である。辛淑玉女史の本については、辛淑玉著 「悪あがきのすすめ」 岩波新書を読んだ。辛淑玉の名の読み方は日本の音読みでは「シン シュク ギョク」であるが、韓国の音読みでは「シン ス ゴ」であるそうだ。マそんなことはどうでもいいのだが、彼女の職業遍歴が又面白い。モデルから始まり広告代理店、司会業、研修業を転々として「香科舎」という人材育成コンサルタントが今の職業らしい。途中アメリカの大学の客員研究員、公的審議会委員などもやっている。幼年期は小学校を転々として「女の武闘派」でけんかばかりをして小学校卒業も怪しい学力であったそうだが、なんという実力であろうか。永六輔氏の著書 岩波新書「夫と妻」の中で 辛淑玉女史と対談をしているがこれも面白い話に満ちている。話題は主にジェンダー論であった。

野中広務氏については紹介することもないと思うが、一筋縄で捉える事ができない政治家で、気骨のある政治家で、凄腕の闇の総理と言われたり、ハト派政治家として弱者に涙を流したり、「ダーティなハト」といわれたり「反共で反戦」という左か右か捉えようがない人だ。だから多少私自身の復習をかねて紹介する。野中 廣務氏(1925年大正14年生まれ )は、政治家、福祉事業家。勲等は勲一等。京都府船井郡園部町町長、京都府副知事、衆議院議員(7期)、自治大臣(第48代)、国家公安委員会委員長(第56代)、内閣官房長官(第63代)、沖縄開発庁長官(第38代)、自由民主党幹事長などを歴任した。2003年議員を引退し京都に帰った。現在は社会福祉法人京都太陽の園理事長、全国土地改良事業団体連合会会長理事、平安女学院大学文化創造センター客員教授、立命館大学客員教授、日本行政書士政治連盟最高顧問、京都府剣道連盟名誉会長を務め忙しいようだ。メインは重症障害者授産施設の理事長として無給で社会福祉事業に取り組んでいる。本書に野中氏が中央政界に出るまでの地方での政治活動について述べられてるが、園部町議から初めて京都府副知事まで務めた。中央政界では田中角栄の庇護を受け、金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派(平成研究会)分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。細川内閣発足によって自民党は下野し、野党となる。野中氏は京都府議時代の長期にわたる野党経験を生かした質問を行って、党内で実力を認められるようになった。特筆すべきは昭和45年2月10日付けで国税庁長官から全国の税務署長あてに通達による『同和控除』である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追究した。1994年に自社さ連立による村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣。 1995年、オウム真理教によるテロ事件に破壊活動防止法を適用することを強硬に主張した。1996年の総選挙後は幹事長代理として加藤幹事長と組んで、新進党からの議員を引き抜いて自民単独過半数を回復させ、新進党解散の一因を作った。1998年第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕内閣で官房長官を務めた。官房長官在任中は広島県内の校長が卒業式での日の丸掲揚の対立を巡り自殺したのを機に国旗及び国歌に関する法律を策定、社民党などの猛反対や党内の慎重論を押し切り成立させるなど、ハト派らしからぬ一面も見せている。加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたこともあった。野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に臨んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗した。2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を『非情の政治』と批判を行った。また、自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新五人組)の一人とも言われている。最近朝日新聞(2009年7月31日)に問われ、『政治の最大の役割は戦争をしないこと』と答えている。野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に自らが被差別部落出身であることを話したことがあったが、地方政治家時代から部落解放同盟などとは一線を画しており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。野中は麻生太郎が過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、麻生を激しく批判した。 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間は私は絶対に許さん!」野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったという。しかし弱者に対する配慮には暖かいものがあり、、ハンセン病訴訟の元患者や弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国の責任を事実上認めた野中に、「痛みのなかに身体をおけるひと」と賛辞を惜しまないという。

本書の対談はぼけ役が野中氏でつっこみ役が辛淑玉女史という設定である。話の筋は在るようでない。それほど時間をかけて練られた対談ではないからだ。そして本書には辛淑玉女史による解説というか、肉付けというかサマリーが要所に挿入されており、多少はテーマがあるのかなという具合である。一応読みやすいように章分けをしておくが、題名にはそれほど意味はない。本書は結局両者の力関係から、辛淑玉女史が司会役として野中氏に質問をして、政治家野中広務氏の人生を聞き出すという形式になっている。対等な対談ではない。本書のテーマが在日朝鮮人への差別よりは、部落民に対する日本人の差別意識にあるもはやむをえないし。それでもいいのである。

1) 差別は何を生むか

私は戦前は体験していないので、戦前の天皇制日本社会の差別意識がどれほど峻烈であったかは実感として知らない。野中氏は大正4年生まれで戦前の昭和期に幼年時代と青春時代をおくっているので被差別の記憶が鮮明であっる。部落民(被差別民)は江戸時代の「穢汰・非人」の流れに位置付けられ、明治時代の四民平等令は目的が国民皆兵にあったから、差別の実態は置き去りにされた。住所、職業、結婚など今でいう徹底したいじめ構造のなかにあった。島崎藤村の「夜明け前」という小説は被差別青年の自立を描いた。野中氏は京都園部町議をスタートとして一貫してもめごと処理役をつとめ、他の人が嫌がるダーティな側面の処理で自民党幹事長までのし上がった。田中角栄氏が越後の土建屋から総理大臣まで出世し「今太閤」と呼ばれたのに対して、野中氏は決して表舞台に出ることなく自民党の裏で揉め事処理班として影の総理と呼ばれた。あの高度経済成長の時代は自民党にも活気が溢れ、出自・学歴を問わない梁山泊の様な雰囲気があったようだ。戦前の差別の中での最大の事件は「関東大震災」であったが、在日朝鮮人と部落民に対する虐殺と攻撃に対する清算がなされていないことである。暴動のデマで戒厳令がしかれ、数千人の朝鮮人が虐殺された。朝鮮人と部落民が虐殺された千葉県柏市福田村事件を知る人は少ない。虐殺に加わった8名の自警団員は有罪であったが直ぐに赦免され英雄扱いされた。部落差別というものが単に共同体の伝統的因習に起因するのではなく、近代天皇制の支配構造に深く根ざした差別政策にあったというべきである。支配者はその支配が直接的であればあるほど、民衆の不満が支配者に向けられないように分断策をとる。民衆の内部でも目くそ鼻くそのいがみ合いの種を播いておく事だ。それが差別の本質であり、差別の理由など何でもよいのである。

2) 差別といかに闘うか

野中氏の軍隊内での部落民差別の話から、戦後の政治家としてのスタートの話へ移ってゆく。国鉄で出世をした野中氏は就職から生活の世話をしてやった後輩に、自分が部落民である事で裏切られた事を機会に、昭和25年国鉄を辞めて故郷の町で町議になった。差別という実態は部落民という空間の事ではなく、自分が他者より優位に立つという「享楽」にあると辛淑玉女史はまとめる。少年がホームレスを襲撃する事件もこの差別の構造である。大体出来の悪い少年がより弱い人間を攻撃することで楽しみを味わうということだ。差別は享楽だ。町議になった野中氏は町費を交際費で使う町長に義憤を感じてリコール運動を起こした。そして町議会議長に、33歳の若さで町長になった。京都は部落解放運動の中心地であった。1922年水平社が京都で創立され、1951年京都で行政闘争が開始された。部落解放運動は生活闘争でもあった。仕事を、住む場所をという要求を行政にぶつけて生活改善を図ったのである。野中氏の部落解放運動に対するスタンスは、差別を売り物にするな利権の手段にするな、まじめに働いてもなお差別されたら闘えというものであった。部落解放運動が抱えていた問題は、行政の同和対策が「モノ」、「金」という部落民の要求の対応に汲々としたことにある。これを「服従型行政」という。それによって運動団体側のモラル崩壊となり「エセ同和」という利権行為が蔓延った。この同和行政の弊害については、寺園敦史著 「同和中毒都市」(同和と手を切れない京都市の病根) 講談社+α文庫(2006年3月)に詳しく書かれているので参照して欲しい。2002年3月をもって国の同和対策事業特別法が終焉し、1997年ごろより各自治体の同和対策事業は年年大幅に縮小され事業は終結した。そして全国部落解放同盟は2004年4月全国地域人権運動総連合と改組し、「社会的な差別問題である部落問題は基本的に解決した」との宣言が出された。多くの自治体は同和問題から立ち直ることが出来たが、京都市だけは部落解放運動の発祥の地(知恩院に故末川博立命館総長の書による解放運動の碑がある)であることから、部落解放同盟との因縁が深くいまだに部落問題から解放されていない。腐れ縁が陰に続いている。具体的には1) 京都市職員(環境局の同和職員)の暴力等不祥事、2) 同和奨学金返済不要問題と同和住宅家賃滞納 、3) カラ事業と慰安旅行水増し請求による公金濫費 、4) 同和施設建設バブル、同和住宅、持ち家分譲など優遇政策の継続 、5) 違法企業や同和融資制度をつかった暴力団の詐欺事件に見る同和腐敗 、6) 同和補助金の裏金つくり、京都市と同和幹部の癒着 などの問題を指摘されている。野中氏は京都府議や副知事を勤めた時期に、多くのエセ同和問題につくづく嫌気をさして、かえって身内の部落出身者に対して厳しく当った。部落民の全員がモラル崩壊とはいえないが、自民党の野中氏のところには実に怪しげな利権団体がうろついていたのであろう。野中氏にとって、共産党と解放同盟は敵であり、敵が手を組めば共に叩くべき対象となったようだ。野中氏の出世の秘密はこの反共闘争と内の揉め事処理能力にあった。

3) 国政と差別

1995年(平成7年)1月17日に起きた阪神淡路大震災は、長田地区の被害が最も深刻であった。これは2005年9月1日の米国メキシコ湾のハリケーン・カトリーナ災害がそうであったように、差別災害であった。社会的に最も弱い人々が最も災害に弱いということを日本中に知らしめた。米国ではニューオリンズの海岸地に住む黒人が最大の被害を受け、阪神淡路大震災では長田地区の在日朝鮮人が最も被害を受けた。耐震構造など全くない古い住宅の密集地が地震による倒壊と火災発生の中心となった。高級住宅地の芦屋地区のタイル張りの立派な建物はびくともしなかった。長田地区といえば関西人ならピンと来るように、朝鮮人部落で皮なめし業から靴製造業へそしてケミカルシューズ製造業の中心地であった。災害は最も弱い人に襲いかかるのだ。しかし阪神淡路大震災は助け合いの精神が救ってくれた。行政よりボランティアの力も発揮された。当時野中氏は自治大臣、国家公安委員長であった。国松警察庁長官に「関東大震災の二の舞に絶対にしてはいかん」といい、兵庫県警に徹底したという。

野中氏の国政での動きには不可解の一語である。反共の政治家野中氏と、弱い者への味方という意味で野中氏を理解できない人が多い。だからこの章は野中氏を讃えるための章にはしたくない。事実だけ断片的に述べるに留め、真の狙いは本人は絶対に口にしないだろうから憶測に過ぎない。まず「アジア女性基金」である。日本画戦争中に植民地であった朝鮮、台湾の女性と占領地であった中国の女性を性奴隷として軍用慰安婦としたことに対する国際世論への対応である。日本軍の反道徳的犯罪的行為である従軍慰安婦問題については、吉見義明著 「従軍慰安婦」 岩波新書を参照してください。この問題については「南京虐殺事件」とあわせて、日本人政治家は記憶喪失を装うか、なかったことにしたがる。ドイツ人のようにアウシェビッツのユダヤ人虐殺にしっかり向き合う事をする勇気がないのである。従軍慰安婦問題に対する韓国政府への謝罪は、1993年8月4日河野洋平官房長官は次のような談話を発表した。これがいつも日本政府の公式謝罪とされる河野談話である。
1)慰安所の設置、管理、慰安婦の移送に日本軍が直接間接に関与した。
2)慰安婦の募集には官憲が直接加担して甘言、強圧など本人の意思に反しした例が数多くあった。
3)慰安所での生活は強制的な状況下での痛ましいものであった。
4)朝鮮半島でも2)の募集を行った。
5)従軍慰安婦問題は当時の軍の関与の下に、多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけた。
6)元慰安婦の方々には心からお詫びと反省の気持ちを申上げる。
野中氏は自治大臣としてアジア女性基金設立に尽力したとされる。女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)は、元「慰安婦」に対する補償(償い事業)、および女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題の解決を目的として設立された。自社さ連立政権の村山内閣成立後の1995年(平成7年)7月に発足し、同年12月に総理府と外務省の共管法人として設立許可。すべての償い事業が終了したため、2007年3月31日をもって解散した。まだ解決していない戦後処理問題として、植民地時代の人々に対する軍人恩給問題、戦傷者戦没者救護法の障害年金、原爆病認定問題と援助問題など国籍を理由に裁判所はいまだに玄関払いをしている。日本人以外は最初から切り捨てられている。問い詰められれば「日韓条約で解決済み」と逃げ回っている。では台湾では、東南アジアではどうなんだ。日本人以外は人と見なさない差別思想である。

1999年国旗国家法案が可決された。それを推進したのが野中氏である。強制ではないと言い訳しながら可決した法案は錦の御旗宜しく教育界では強制のばねなって、起立しない教師に対する制裁、嫌がらせ、将棋師上がりの教育審議会委員長による国旗掲揚推進運動という名の赤狩りが進行した。野中氏本人は「国旗国家法案は触発的にやった。そのあと住民基本台帳とか、周辺事態法とか恐ろしい法案が次々出てきて自分でも反省しています」という反省なのか居直りなのかさっぱり分らない。国家国旗法案は広島の解放同盟の重鎮小森龍邦氏を叩くためであったと噂されているが、意図は不明である。昔から天皇制は部落民を死体処理用として徴用したようだ。昭和天皇の葬儀で棺桶を担いだのは京都八瀬の部落民である。部落民を政治的に利用したのが、武家政権である足利尊氏に対抗した南朝の後醍醐天皇であった。利用されただけなのに変に天皇家との関係を自慢する部落民が生まれた。被差別者でありながらアイデンティティを天皇と結び付けたがるのが、任侠、右翼、そして部落民である。右翼は現実の仕事は恐喝を道具としたしがない町のダニであるにも関らず、変に誇りを持って天皇のために命をささげることを建前とする。妙な二重構造である。自民党内部でも部落出身者に対する嫌がらせは深刻である。1998年証券スキャンダルで自殺したといわれる自民党の新井将敬衆議院議員が、1983年石原慎太郎氏と衆議院選挙を争った時、石原陣営から選挙ポスターに部落出身者という黒シールを貼られる事件があった。麻生太朗氏による野中氏への嫌がらせも有名である。彼の一族である麻生鉱業という麻生財閥を構成する企業の一つは強制連行された朝鮮人を強制労働させて消耗品のようにこき使った企業である。そのため命を落とした朝鮮人に対して戦後補償を何一つやっていない。1945年までに麻生鉱業に連行された朝鮮人は1万人を越えた。また麻生炭鉱は部落民を専用長屋に入れて監視つきで奴隷のように搾取した。2007年2月アメリカ議会で日本軍用従軍慰安婦問題での決議案採択に際して、麻生氏は「客観的な事実にもとずいていない」と批判して、お粗末な歴史認識を示して米議会の顰蹙を買っている。麻生一族は天皇家と親戚関係を持ち、炭鉱セメント鉱業で地方財閥を形成し、植民地支配を背景に資本を蓄積した。その財閥勢力はいまも北九州の土建産業として、関係しない公共工事はないくらいである。今夏の水害でもしこたま儲けようとしている。 野中は麻生太郎が過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、麻生を激しく批判した。 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間は私は絶対に許さん!」野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついたそうである。

「男女協同参画社会基本法」は2000年に野中氏が橋本内閣の官房長官の時に出来た法案である。社会弱者である女性の地位向上のためと野中氏はいうが、表向きとは違い、賃金は抑えられたままで労働戦力活用のため女性を無制限に使うだけの法案ではないかという。明治初期の四民平等と同じである。また野中氏は橋本内閣で「沖縄駐留軍用地特別措置法改正案(特措法)の委員長に就任し、1997年に切れた沖縄米軍基地をそのまま使用できることにしたもので、殆ど審議もなく委員会を通過したことに驚いた野中氏は、もう少し沖縄県民のことを考えたらどうかと意見したという。ここにも日本人にとって沖縄は琉球であり植民地であったのだ。何一つ沖縄の身になって考えようとせず、沖縄県民にとって屈辱的な法案をそのままに認めてしまうのである。これを沖縄差別(琉球人差別)と言わずして何というのか。その法案を野中氏が主催して可決しておいて、あとで大政翼賛会だったと反省のポーズをしておくとは不可解な人物である。国旗国歌法案と同じ態度で到底理解できない行動だ。2007年沖縄の辺野古基地の再編問題で住民が反対運動を行っている時に。自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が辺野古沖に現れた。これは収賄の守屋事務次官の時の自衛隊の行動で、黒船の威圧行為と同じような無神経な行動と非難された。何時も沖縄基地問題では日本人は沖縄人を無視し続けている。これでは沖縄が独立運動を起こしても文句は言えない。これは少数民族への差別である。

4) これからの政治と差別

前近代的な「ライ病予防法」は多くの人権無視問題を引き起こし、戦後抗生物質の普及で簡単に治癒する弱い伝染病とになされたが、この前近代的な法律だけは長く行き続けた。それは当事者らが社会的に遮断され、あまりに弱い位置に貶められ、反対運動を組織することも訴える事もなかったからである。1996 年当時の菅直人厚生大臣の決定により、らい予防法を廃止し、同時に廃止措置の遅れを謝罪した。 そして世間に出られた元患者達によるライ病予防法国家賠償請求訴訟が各地で起こされた。それは小渕内閣の時で野中氏は「官房長官でいたが、2001年5月当時の小泉純一郎総理大臣・坂口力厚生労働大臣は訴訟の控訴を取りやめて、国家の過失を認める判決は確定した。ところが沖縄と在日のハンセン氏病患者は切り捨てられた。戦後沖縄はアメリカの占領下にあり、日本の領土ではなかったという変な理屈で沖縄を切り捨てようとした。そのあと沖縄を入れた後も、戦前日本の占領下にあった朝鮮や台湾、インドネシアなどの患者も切り捨てられたままであった。この問題は2006年に日本の統治下にあった朝鮮、台湾、南沙諸島も入れて収容されたハンセン氏病患者への補償がされるようになった。日本政府は強力な運動がなければ、沖縄、朝鮮、台湾の人々への償い(戦後処理を含めて)を無視するのが通例である。これは少数民族への差別である。

野中氏は結果平等主義とも言える。アメリカの新保守主義者は機会の平等をいうが、結果極端な格差が拡大しても個人の責任に解消する。弱者切り捨て、市場原理主義などには野中氏は付いてゆけないという。そういう意味で野中氏は小泉元首相を「非人情」と批判して、常に反小泉派であった。そのため歯科医師会献金事件では小泉氏の国策捜査によって政界を追われた。小泉氏は国策捜査という策略好きで多くの政敵を葬った冷酷な男だと野中氏は非難する。オバマ大統領は演説で平和を作ろうとするが、野中氏は談合で平和を作ろうとする政治家だ。かなりトゲのある危なげな平和であるが。野中氏は今後の政治活動は戦後未処理問題をやろうという。中国、北朝鮮、原爆被災者救済問題、中国遺棄化学兵器処理問題(2007年までに処理する約束、最大5年延長可能)、アメリカとの安保条約の解消、EUに匹敵する東アジア経済圏の確立などまだまだ遣り残した仕事は多いということだ。


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