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田中克彦著 「ノモンハン戦争ーモンゴルと満州国」

  岩波新書(2009年6月)

ソ連、日本に翻弄されたモンゴル民族の悲劇

1939年に起きたノモンハン事件(戦争)を知っている人は少ない。という私も「満州国とモンゴルの国境線でおきた日本とソ連の戦いで、圧倒的なソ連の戦車軍の前で日本軍は多大の損害を出して撤退し、戦前戦後その事件は隠されたままであった」という教科書通りの1行の知識のみであった。大体日本国は戦前から北のシベリア方面は鬼門であった。明治維新後日清戦争から日露戦争でロシアの南下を防ぐ目的で英国の憲兵役を演じたが、日本海海戦で勝ったものの、大連の地上戦では膨大な戦死者を出してどちらが勝ったのか不明なまま講和を結んだ。1917年ロシア革命に便乗して火事場泥棒的にシベリア出兵をしたが、目的の不明な出兵は何も獲得できず撤退した。そして日中戦争に突入し、1932年清の末裔愛親覚羅をかついで満州国を樹立し、中国東北部に傀儡国家をつくりソ連と対峙するに至った。そのことが本書の描く「国境紛争:ノモンハン事件(戦争)」となった。この事件後ソ連は停戦協定を結ぶと電光石火の如く、兵を欧州へ向けポーランドへ出兵してドイツ軍と対峙した。この事件はなかったかのように日本軍は南方進出と戦略を変えた。こうして日本、ソ連は極東の中国東北部から兵を引き上げ第2次世界大戦(太平洋戦争、欧州対独戦争)の邁進したのである。両者が満州の地で再度まみえるのは、日本の敗戦がほぼ決まりかけた1945年8月10日のソ連参戦後の数日間に過ぎない。この時には戦闘は無く、関東軍は民間人を満州に置いたまま朝鮮を経由して日本へ逃げ帰った後である。満州から朝鮮にいた日本民間人が塗炭の苦しみを味わった。

日本、ソ連がにらみ合ったノモンハン戦争とは一体何だったのか。この戦争で日本は4万人ほど、ソ連は2万人ほどが戦死し、あの戦争が目的とした国境線は結局、モンゴル側の主張通リに日本・満州軍が認め、ハルハ側東側の東西20km、南北80kmほどの地帯はモンゴル人民共和国のものになったのだ。これは今でいう強大国の代理戦争で、ソ連のマリオネット(傀儡国)であるモンゴル人民共和国と、日本の傀儡国である満州国の二つの国で引き起こされたが、ただちに背後にいた日本軍(関東軍)とソ連軍の全面衝突となった。著者はこの戦争の背景をなすのはソ連、中国、日本に分断されたモンゴル部族の汎モンゴル主義にあるという。本書の眼目はノモンハン戦争の戦史や軍史ではなく、モンゴル民族の統一の悲願と悲劇を描くことにあるようだ。日本人にとって残念なことに、いまなおモンゴルへの関心は薄い。相撲の朝正龍、白鵬などで関心があるに過ぎない。モンゴル問題に詳しい著者のプロフィールを紹介する。田中 克彦(1934年 生まれ)氏は、兵庫県生まれの言語学者。専門は社会言語学。モンゴル研究も行う。言語と国家の関係を研究。1957年東京外国語大学外国語学部第六部第二類(モンゴル語学)卒業。同年東京外国語大学言語学研究室副手就任。1963年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。1963年東京外国語大学外国語学部モンゴル語学科専任講師。1964年から1966年にかけてフンボルト財団研究員としてボン大学中央アジア言語文化研究所に留学。1967年東京外大助教授、1972年岡山大学法文学部助教授、1976年一橋大学社会学部助教授、1978年同教授、1996年同大大学院言語社会研究科教授。1998年一橋大学を定年退官し同大名誉教授の称号を受ける。はじめモンゴルの社会主義革命を支持する立場からの著述を行っていたが、その後左翼的立場からする言語論を多く執筆、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」が、実はもともとドイツ語文化圏の話であり、フランス・ナショナリズムの作品であることを広く知らしめた。主な著書には、『モンゴル革命史』(未來社 1971年) 、『草原の革命家たち――モンゴル独立への道』(中公新書 1973年)、 『ことばと国家』(岩波新書 1981年) 、『モンゴル――民族と自由』(岩波同時代ライブラリー 1992年) 、『言語学とは何か』(岩波新書 1993年) 、『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫 2000年) 、『エスペラント−異端の言語』(岩波新書 2007年) などがある。著者田中克彦氏は1989年崩壊前のソ連から招かれてモスクワで開かれた「ハルハ河円卓会議」に出席し、ソ、モ、日のノモンハン事件への視点が異なる事に驚き、1992年東京で「ノモンハン戦争国際シンポジューム」を開催した。

1) これは事件か、戦争かーノモンハン戦争の概要

1939年(昭和11年)5月11日から9月15日まで4ヶ月にわたる死闘が満州国とモンゴル人民共和国の国境近くの「ノモンハン」で行われた。敵対したのは日本・満州国軍、他方はソ連・モンゴル人民共和国軍であった。日本側ではこれを「ノモンハン事件」と呼び、ソ連側は「ハルハ側の会戦」と呼び、モンゴル側は「ハルハ側の戦争」と呼ぶ。日本国側特に満州に駐留した関東軍は、東京参謀本部の「中止命令」に反して、国境から130kmも離れたモンゴル領内の空軍基地を空爆したのだから、公然と戦争と呼ぶことは出来なかった。モンゴル人とはウイグル文字を使用し、ラマ教(チベット仏教)を宗教とする民族である。日本がノモンハンと呼んだ地は「ノモンハーニー・ブルド・オボー」(法王清泉塚)という草原にある塚の地名であった。関東軍はブルド・オボーから20kmほど西に北西に流れるハルハ河を国境と考えていたのに対して、ソ連・モンゴル側はブルド・オボーを結ぶ線を国境線と考えていた。いまでいえば双方の見解の相違は、当然ブルド・オボーとハルハ河の間の20kmの幅を緩衝地帯(遊牧民の共有地)とすることで解決するはずである。両軍はそこへ入ってはいけないとすればいい。満州国とソ連の国境はアムール河と明解であったが、モンゴル人民共和国との国境はハルハ河ではなく、草原地帯の塚を結ぶ線であるという遊牧民族間の境界であったことが紛争を招きやすい要因であった。

衝突は5月11日に起きた。これは4年前のハルハ廟事件以来の日常的な小競り合いに過ぎなかった。遊牧民同士の羊や馬の奪い合いに近いレベルから始まった。どちらが先に手を出したかは戦争に付き物の宣伝合戦であるので歴史の闇の中で詮索しないことにする。そして戦闘シーンは興味がないので割愛する。軍人の名も覚えられないから最初から無視したい。5月末までの戦闘を第1次ノモンハン事件といい、5月28日からソ連の戦車に圧倒されて日本軍は敗退した。日本軍は2000人程度が参加し、1割が死傷したという。6月20日に始まった第2次ノモンハン戦争は双方100機程度の飛行機による空中戦となった。最大の出来事は6月27日、日本の戦闘機100機が国境から130km西に入ったモンゴルのタムサグ・ボラク空軍基地を爆撃したことである。東京の大本営は「自発的停止」をもとめて参謀を派遣したが、特使が到着する間に関東軍は空爆を実行した。これは関東軍参謀辻政信の冒険主義に引きずられた形であった。空爆と同時に7月始め日本軍はハルハ側を西に渡ってモンゴル領内に侵入し、山を1万人で占拠した。これに対してソ連・モンゴル軍は戦車150台と落下傘部隊で攻撃し8月20日から反撃した。8月31日モンゴル領から日本軍は撤退した。9月9日からモスクワで東郷外相と諸と不外相が停戦交渉を行い、日ソ両国は9月16日停戦協定に合意した。東の憂いを払ったソ連軍は翌日17日にポーランドに侵攻した。戦死者の数は都合のいいように粉飾されるので信頼性にかけるが、それぞれ2万人前後の死傷者と捕虜(行方不明)を出したと理解しておこう。

この戦争がどうして発生したかに対するソ連側の見解は、1927年の田中義一首相が天皇に上奉したという「田中メモランドゥム」にあるという。ノモンハン戦争はアジアからシベリアに及ぶ大規模な侵略計画の第1歩だと見るのだ。本当のところは関東軍参謀の冒険主義を抑え切れなかった大本営の現場成り行き主義にあるのだが。国境問題の根源は、辛亥革命による清朝滅亡に乗じたモンゴル民族の独立運動が起こり、まず1924年外モンゴルのハルハ族がソ連の力を借りてモンゴル人民共和国として独立を達成したが、外モンゴルのハルハ族と内モンゴルのバルガ族の境界がそのまま満州国とモンゴル人民共和国との国境線となったことにある。かって13世紀にアジア全体を支配したモンゴル帝国(元を中心とする)は衰微して、南シベリアのブリヤート、マンジュ(東北部)、モンゴルの広い一帯にモンゴル諸民族は分布していた。17世紀末1689年「ネルチンスク条約」、1727年「キャフタ条約」によって親王朝とロシアが国境を定めて、モンゴルは分割された。といってもモンゴル各部族は国境を自由に往来していた。1932年に成立した満州国は内モンゴルのバルガ族が支配する地域の東部分を組み込んだ。満州国は「蒙古特殊行政地域」を設けてバルガ族の自治地区とした。満州国は「五族協和」をスローガンとする多民族国家で、日本として始めて多民族問題を抱え込んだ。五族とは日本人、漢人、朝鮮人、満人(清王朝の出自)、モンゴル人であった。

2) 満州国の国境とホロンボイルー外モンゴルの独立と清朝時代のモンゴル民族

満州国とソ連の国境はアムール川にあると書いたが、それも清朝が1858年に結んだ「アイグン条約」と1860年の「北京条約」によってロシアの領有になったのである。満州国とソ連の国境は清朝・ロシアの伝統的な難問を引きずっている。ところがモンゴルと満州の国境問題は1924年のモンゴル人民共和国の成立によって全く新しく発生した。そして1928年ごろからソ連はモンゴルを完全に支配下に置き傀儡国家となした。満州・モンゴル国境はモンゴルとだけで決められる問題ではなく、ソ連の指示なしでは何一つ決められない国境問題となった。これは満州が日本の傀儡国家として成立し何一つ日本の指示がなければ解決しないのと同じであった。1932年満州国が成立するまでは、モンゴル人民共和国のハルハ族と中国領内モンゴルのバルガ族の部族的境界であったものが、1932年以降は満州国とモンゴル人民共和国という国境問題となった。バルガ族の居住空間はホロン湖とボイル湖周辺の「ホロンボイル」という遊牧に適した草原地帯である。「バルガ」という呼び名はハルハ族がつけたもので「未開」を表す蔑称であった。(ソ連領内のモンゴル族は「ブリヤート」とよびバイカル湖近くのバルグジン地方を原郷とするので、バルグ族はそこの出であるという説もある。) ホルンボイルを居住地とするバルグ族は辛亥革命で清朝が亡んだ時、蒙古諸族独立運動の指導的役割を果たした。1911年9月ホロンボイルの英雄ダムディンスレンはバルガ族諸侯を集めて独立を宣言した。12月にはハルハモンゴルも独立を宣言した。いずれもロシアを背景とした独立宣言であったので、1917年ロシア革命がおきて混乱が生じると、中国の徐樹錚軍によって鎮圧された。モンゴル人にとって清朝満人はまだ民族的には同盟関係にあったが、漢人に対しては歴史的に激しい恐怖感を持っている。漢人の農耕文化により牧畜民族の放牧地は次々と農地に変えられたからだ。

夢断たれたホロンボイルが次に画策したのは、1924年に成立したモンゴル人民共和国との合併であった。その中心がバルガモンゴル人民革命党の富民泰で、汎モンゴル主義と呼ばれた。1928年ダグール族のメルセーは「反漢蜂起」を計ったが、日本との連携が疑われ1930年ソ連に連行され獄死したといわれる。中国はもちろん、ソ連もハルハとバルガの統合を極めて危険な思想とみなして弾圧した。ノモンハン戦争直前までに約1000人の内モンゴルバルガ族人民党員がソ連によって銃殺されたという。反漢蜂起後、ソ連によって激しい弾圧を加えられたバルガ族は1932年に成立した満州国興安四省特別自治区におけるバルガ族の自治に期待を寄せた。1934年よりソ連は外モンゴル(モンゴル人民共和国)の社会主義国化に向けた施策を次々と実施し、1936年にはソ連モンゴル相互援助条約を締結した。すると満州国と日本に友好的・好意的な人は反ソ分子として摘発され、日本と「タウラン事件」の外交交渉を担当したサンボー外務次官、後任ダリザブは1937年相次いで処刑された。

3) ハルハ廟事件からマンチューリ会議までー国境確定会議

関東軍の「満ソ国境紛争処理要綱」は「国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定しこれを第一線部隊に明示し・・・」というような乱暴極まる命令を出し、国境紛争になるのがあたりまえの状態であった。そもそも軍隊は外交官ではないから、紛争を起こして軍事的に解決する事が任務の部隊である。それをコントロールするのが大本営であるが、大本営は関東軍の冒険主義に引きずられて追認を下すのみであった。複雑なモンゴル人の民族的構成を理解して国境問題としてのノモンハン戦争を考える事ができる。ノモンハン事件は1939年に突如起きたのではない。1934年ごろから国境近くで小競り合いは起きていた。この小紛争の処理に当っていたのが、満州国興安北省警備隊のウルジン将軍であった。穿った見方をすると小競り合いはバルガ族とハルハ族のモンゴル人同士の情報交換会に過ぎなかったのではないだろうか。もともと紛争を大きくするつもりはなかった。これを捉えて大きくしたかったのが関東軍だった。またソ連は杓子定規に日本のシベリア侵略の第1歩と捉えて対応したのではないか。1935年1月19日、日満両軍はボイル湖東沿岸のハルハ廟を占領し外モンゴル軍と交戦した。満州国は国境交渉を行いたい旨を蒙古側に伝えたという。ハルハ廟とはラマ教の寺で、ソ連は宗教を麻薬とみなして排撃し1939年までに1万4000人のラマ僧を死刑にし4000人ほどを獄に下したという。日本外務省は満州国に紛争解決のためモンゴルと国境策定会議を行うように指示した。それに基づいて興安北省長陵陞(リョンヨン)は1935年2月モンゴル側に国境会議を提唱した。翌年1936年6月国境マンチューリーで第1回「マンチューリー会議」が始まった。たびたび関東軍の策略で決裂し、1939年のノモンハン戦争で大きな中断を見ながら、1939年末に「国境確定会議」として再開された。そして1941年10月に同意を得たが、その同意とは日満両国がモンゴル人民共和国の主張どおりの国境線を認めたことである。

第1回マンチューリー会議の満州国代表は陵陞とウルジン隊長、モンゴル側はサンボー総司令副官とダンバ兵団長である。日本側としては外交部を双方に設置し情報交換を行うことが最大目標であったが、ソ連側はモンゴル人民共和国の内部を知られたくない(鉄のカーテン)ために断固提案を拒否した。1939年の関東軍の「蒙古人指導方針要綱草案」において「外モンゴル人に対しては、満州国との接触を図り平和的文化工作を施し相互の修好関係を樹立しソ連との羈絆を脱しめるとともに親満の傾向に転ぜしめる」と述べており、ソ連は日本の工作を感じてどのような外交関係の樹立にも反対した。満州国参与の斉藤はモンゴル代表部のサンボーを訪れて代表部設置の提案をおこなったが、サンボーはソ連の指示通リ断った。ハルハ廟事件の持つ大きな意義はモンゴル人のハルハ族とバルガ族が情報交換を行って互いの位置関係を問い、統合への方策を探りあったことであろう。国境確定などは二の次の問題で、二つのモンゴル族が統合すれば消えて亡くなる問題であった。そのたくらみを感じた日本、ソ連の情報局は厳しく対処した。1935年11月交渉は決裂し、1936年10月末に再開した時には両代表部はすっかり入れ替わっていた。なぜならソ連は1936年3月ゲンデンモンゴル首相を処刑し、1937年サンボー代表を処刑した。日本は1936年4月陵陞を処刑した。陵陞はモンゴルのダグール族の頂点に立つ名家であり彼の親族も多数処刑された。それを指示したのが関東軍憲兵隊長東条英機だったという。日本を滅ぼした東條や辻という人材が当時関東軍にいたということから、日本の敗戦の元凶が関東軍の軍事謀略主義にあったといえる。当然副代表のウルジン将軍も処分を免れないだろうと思われたのだが、これを救ったが寺田満州国顧問の尽力であったという。新たな会議の代表は満州国がウルジン将軍、モンゴル代表がダリザブであった。ダリザブも1937年10月日本の手先の反革命分子として処刑された。こうしてノモンハン事件勃発の1939年5月までに反ソ、反革命、日本の手先として2万5000人のモンゴル人民共和国の人材が処刑された。さらにノモンハン戦争が起こる前年1938年にスターリンの大粛清によって多くのソ連の要人が満州国に亡命してきた。ビンバー大尉、フロント少佐、リュシコーフ大将などであった。

4 )汎モンゴル運動と殉難者たち

本書は題名のように「ノモンハン戦争」の歴史を書いているのが、前半の3章で上にその概要は記した。ところが後半の半分は7章からなるが、いずれも短いエピソードからなり、モンゴル独立運動受難者へのレクイエム、墓銘碑となっている。
1:ソ連の支配に抵抗したモンゴルの指導者 ゲンデン首相とデミド国務相
ソ連は1934年11月ソ・モ相互援助条約をモンゴル側に示したが、ゲンデン首相は紳士協定に留めて条文化に抵抗した。スターリンはデンゲンに@ラマ僧を一掃し牧畜の集団化を進める、A日本帝国主義と戦うため相互条約を成文化して批准することであったといわれる。ゲンデンはスターリンと喧嘩してこの要求を拒否したが、1936年1月職をとかれてソ連で休養するように命じられた。そして逮捕・拷問の上、ゲンデン・デミド陰謀事件を自白させられ、115人の反革命モンゴル人のリストに署名させられた。1937年11月死刑判決を受け処刑された。デミド国防省は1937年7月末にソ連に招かれ、列車の中で変死した(毒殺)。
2:受難のブリヤート人 ルンべの汎モンゴル主義
ルンベはモンゴル人民革命党の首脳であったが、1933年に逮捕され「日本軍参謀メルセーの指揮下で反ソ活動をした」として処刑された。メルセーもダグール族でホロンボイルで独立運動の指導者であった。ソ連にとってブリヤート人の危険性は、その汎モンゴル主義にあった。ブリヤート人は17世紀帝政ロシアの臣民となって一番早く近代化したモンゴル部族であるが、ロシア革命を逃れてハルハモンゴルに移り住んだ。ソヴィエト政権は彼らを反革命勢力と恐れた。汎モンゴル運動は20世紀に発生した。伝統的な民族地帯が中国とソ連によって分断されたモンゴル民族としての統合を求める運動である。それは中国、ソ連、日本から時には利用され、時には激しく弾圧される運命にあった。ブリヤートの分離主義者とか反ソ、日本の手先、反革命を企てる者として当局から毛嫌いされた。西欧人の黄色人種に対する恐怖を利用して、ブリヤート人に適用し彼らのモンゴル統合思想を禁止したのだ。
3:ソ連によって殺されなかった唯一のモンゴル首相チョイバルサンの夢
スターリンの命令に従って多くのモンゴル人を反革命の下に銃殺した首相は「モンゴルのスターリン」と呼ばれた。1920年中国からの独立を求めて外モンゴル人がソ連に行ったメンバーである「最初の7人」の一人としていわばモンゴル人民共和国の元勲である事にもよるが、1939年から1952年まで首相を務めた。結果から見ると満州国からの誘惑に応じそうな分子を摘み取ったチョイバルサンの選択は正しかったことを認めないわけには行かない。それは東欧の指導者達についても言えることであり。どんな屈辱にも耐えて民族国家の形を守り抜くのはそれは複雑にならざるを得ない。結果的に1991年ソ連の崩壊によって名実ともに独立国家としてモンゴル人民共和国は残ったのだから。


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