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濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」

  岩波新書(2009年7月)

多様化した労働社会に対応する新しい日本の雇用システムとは

ここ数年、新聞・テレビ上で「偽装請負」、「フリーター」、「派遣切り」、「ハローワーク」、「正規労働者と非正規労働者」、「製造業派遣」、「名ばかり管理職」、「残業代ゼロ」、「過労死問題」が話題にならない日は無いぐらいだ。またそういった労働問題と格差社会を取り上げた書は多い。下にこれまで取り上げた関連書を示す。
@ 朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」 朝日新書
A 門倉貴史著 「派遣の実態」 宝島社新書
B 中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」 岩波新書
C 橘木俊詔 「格差社会」  岩波新書
これらの問題の本質を新自由主義による企業側の労働規制緩和要求ととらえ、それに反対して労働規制強化の昔に戻そうという図式はそれで理論的には完結する闘争である。自民党から民主党に政権が交代すればある程度はゆり戻しでバランスが傾くことはあるだろう。しかしアメリカで共和党から民主党に政権が移ったからといって、全部「ご破算で願いましては」という風にリセットされることはないだろう。オバマ大統領はまだイラクやアフガニスタンから撤退するということにはならない。また上記の労働問題は一人日本だけの現象ではなく、EUでも「派遣」問題は存在するのである。むしろ欧州の方が派遣問題の歴史は長い。小泉元首相の規制緩和路線によって、富の分配は大きく企業側に傾いていることは確かである。労働側の格差や中流社会の崩壊、若年労働者の貧困化は目に見えて顕著である。また労働問題は企業と労働の賃金問題だけではなく、政府の福祉政策とペアーで考えなければならない。さらに職業教育(キャリアー)という点では厚生労働省だけの問題ではなく、これまで職業教育に全く無関心であった文部省の政策も長期的に関係している。これまで政府は健康保険・失業保険・年金などの福祉政策や職業教育、扶養家族手当てや子育て・教育費などの生活賃金、さらに源泉徴収など税制面などを企業側に押し付けてきた。企業と政府の負担のバランスは日本的に歪んでいたといえる。そこでグローバル競争の激化から企業側からの負担返上の要求が、「経済財政諮問会議」において労働側の代表がいないまま企業側が一方的に内閣に提出された。

絶対公正な公益代表の意見などありはしないのだから、本書のスタンスを明確にしておかないといけない。そのためには著者のプロフィールを見ておこう。濱口氏は東京大学法学部卒業後、1983年労働省に入省した。2005年政策研究大学大学院教授を経て、2008年厚生労働省のシンクタンク独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILT)の労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員となった。20年以上にわたる労働省在任中は労政局、労働基準局などを歴任され、1995年欧州連合日本政府代表部に在席されたという。現職の労働政策研究・研修機構は、2003年10月に日本労働研究機構と労働研修所(厚生労働省)が統合して設立された、厚生労働省所管の独立行政法人で、内外の労働に関する事情及び労働政策についての総合的な調査及び研究等並びにその成果の普及を行うとともに、その成果を活用して厚生労働省の労働に関する事務を担当する職員その他の関係者に対する研修を行うことを目的にして設立されたという、厚生労働省直轄の研究機関である。濱口氏は学者というよりは一貫して厚生労働省キャリアー官僚である。濱口氏は欧州EU労働事情の専門家で自身のブログ「EU労働法政策雑記帳」に得意な分野の薀蓄を傾けているし、ホームページ「hamachanの労働法政策研究室」に氏の論文が掲載されているので、関係者が考察される時には利用価値はありそうだ。本書はEUの労働事情と日本の労働事情の比較の上で論議をするので、分かりやすいというよりも、歴史が違うので「だからどうだ」と言いたくなるように分りにくい内容になった。もっと立場を明確にして、すっきりした論点を示したほうがわかりやすいのではないか。先進国欧州の労働事情が正しい路を歩んでいるわけでもなく、日本の労働事情だけが混迷を続けているわけではない。むしろ1990年代の新自由主義による規制緩和政策(小さな政府路線、サッチャー・レーガン主義)が日本の労働事情を破壊し、混乱に貶めるまで、日本の経済や生産力は日本独自の労働事情が支えていたのだという世界的な評価もあった。「多様化する労働事情」という言葉は働いたことがない学者たちが好んで使う言葉である。少なくとも当事者(利益関係者)の使う言葉ではない。当事者は事情は単純なほうを好むものである。多様性を喜んでいるの部外者である。複雑で混乱している方が部外者が口を挟みやすいのであろうし、それが自分の立場を誇示することにもなるのだろう。日本では労働情勢は「三者構成原則」というもので運営されてきた。政府の審議会などの政策審議は、政府・使用者・労働者の三者の合意で諮られてきたのが、小泉元首相の「経済財政審議会」がこの伝統を破壊した。「失われた15年」で失われたのは日本の労働社会システムではないだろうか。そして到来したのが西欧流新自由主義の格差社会であり金融資本の詐欺商法であった。その金融資本も倒れた今日、日本を再建するために知恵を出し合って考えてゆく一つのきっかけになればいい。著者が得意とするEUの労働事情が本書のあちこちで比較のために紹介されているが、ダーウインの進化論が説くように隔離された独自の進化を遂げた日本の労働状況にEUの事例を持ち出しても(EUに見習えといっているのか、日本は後れているといっているのか)、文化社会背景を抜きにしては語り難いので、かえってどうしろといっているのか混乱を招きやすい。著者は欧州並の多様な労働社会を提案したいのか、多様な労働状況は文化的に好ましいのか、経営側の利益にかなっているのか、労働者側は辛抱しろといっているのだろうか、どうも著者の本音が不明である。このことが本書の理解を困難にしている。そこで本書の紹介に当っては、EU労働事情はオミットして考えてゆきたい。

ここで日本型雇用システムの点検を行う。日本型雇用システムとはよく言われるように、長期雇用制度(雇用)、年功賃金制度(報酬)、企業別組合(労使関係)の3種の神器からなる。しかし日本型雇用システムの本質はその雇用契約にある。雇用契約とは世界的には職種(ジョブ)を明確に決めて使用者と労働者が契約するものであると云うのが常識になっている。ところが日本型雇用システムの特徴は「職務」という概念が稀薄なことである。如何なる職務にも従事するという意味では、日本の雇用契約は一種の「地位設定契約」あるいは「メンバーシップ」ともいうべき契約である。日本型雇用システムの特徴とされる長期雇用制度(雇用)、年功賃金制度(報酬)、企業別組合(労使関係)は、すべてこの「職務をさだめない雇用契約」という本質から論理t的帰結として導き出される。欧米では発生したジョブに対応する必要な労働力という形で雇用されるため、必要がなくなれば雇用契約は解除されるのが常識である。日本型雇用システムではある職務で雇用な減少すれば、別の職務への移動、グループ企業への転籍、出向など雇用を維持する方向で解決される。また欧米では賃金はジョブによって決定され、同一労働同一賃金原則が産業間で決定される。日本型雇用システムでは賃金は職務とは切りはして決められ、勤続年数、経験など年功賃金制度+忠誠度を測る人事査定に基づいている。また労働条件については欧米では職務に基づいて産業別レベルで決められるが、日本では企業内でしか通用しないので企業別組合が使用者と交渉するのが原則である。

ここでもうすこし詳細に日本型雇用システムの特徴を見てゆこう。日本型雇用システムにおいてはメンバーシップの維持に最重要点がおかれているため、雇用管理(労務管理)の特徴は入り口と出口が制度化されている。つまり新規学卒者採用制と定年制である。欧米では採用は必要が生じた場合に随時に行うが、日本では毎年計画的に採用を行っている。その権限は人事部にあり、現場にはない。労務管理では普通解雇よりも整理解雇のほうを厳しく制限し、いわゆる整理解雇4条件という基準が求まれる。入り口と出口の間には「定期人事異動」というローテーションがあってさまざまな職務を経験することになる。欧米の労働者は熟練を疎外する定期移動というものはありえないが、日本では移動によって出世(昇進・昇給)してゆくのである。官僚において最も甚だしい。日本の賃金制度の最大の特徴は、工場の生産労働者(ブルーカラー)にも月給制が適用されていることだ。欧米ではホワイトカラーには月給制や年俸制が適用されているが、ブルーカラー労働者の賃金は時給制が基本である。日本の月給制には残業割増手当ても付くという特殊な制度である。月給制に時給制を加味したような制度である。年功賃金制度を生み出している仕組みは定期昇給制度である。ブルーカラー労働者に対しても人事査定を行い、職務に関係なく年度ごとに賃金が上昇する制度である。人事査定とは極めて主観的なもので、結果だけでなく人材育成の期待もこめて原資を配分するのである。役職の地位の昇進と同時に昇格という待遇の位がある。取締役、事業所長、部長、課長、主任という職務上の地位とは別に副参事、参事,参与などのまるで宮廷の身分的な地位も設定される。こんな人事異動は海外の企業では信じられないであろう。そして年2回支給される業績連動型のボーナス(約5か月分の月給相当)も日本の賃金制度の特徴である。ブルーカラーにもボーナスが支給される。そして極めつけの日本型賃金制度は多額の退職金である。また住宅・寮、食堂、娯楽、職場懇親会など極め細やかな従業員対策が総務部の仕事である。今では大分手を抜いているようであるが。労使関係の特徴は企業別組合である。労働者代表として労使協議を行う機能をもつ。賃金など労働条件の向上のために経営者と団体交渉することが重要な役割である。労働組合が団体交渉で決めるのは個々の労働者の賃金ではなく、総人件費を労働者の数で割った平均賃金の増加分(ベースアップ)である。個々の労働者の賃金額は人事査定で決定される。賃金はその企業の支払い能力によって制約されるので、日本の企業別労働組合は産業別連合を結成して、企業ごとに団体交渉を同時期に行って(春闘)ベースアップを勝ち取るのである。交渉が決裂すればストライキとなるのが一般的であったが、1970年以降では賃上げ交渉が労働争議に発展する事はなくなった。今まで述べた日本型雇用システムはあくまで大企業の正規採用従業員のことである。正社員以外の非正規労働者の雇用管理は全くこれと異なる。そして日本全体の労働人口に対する労働組合組織率は第二次世界大戦の直後は全労働者中に占める労働組合員の比率(組織率)も60%以上を占めていたが、年々組織率は低下し、2005年末現在においては18.7%まで下落するに至った。また、従業員が100人にも満たない小企業における労働組合の組織率は3%にも満たないと言われている。非正規労働者の賃金制度は殆どが時給である。非正規労働者の大量出現は1990年代後半の就職氷河期に始まり、若年労働者が正規に採用されずに、派遣労働(日雇い派遣も含めて)、フリーター、アルバイトという劣悪な労働条件を強いられてきた。つぎにこれまで述べてきたことは大企業の製造業をイメージしています。ところが日本の企業は中小企業の数が圧倒的に多く、企業規模が小さくなるに連れて、勤続年数は短くなり、賃金は上がらず、労働組合も存在しなくなる。企業規模が小さくなるほど雇用はジョブ型(欧米型)に近づくわけだ。小さな会社の正規労働者では非正規労働者とあまり変わらなくなるのである。ということで、日本型雇用システムの特徴が成立する正社員の数はある意味では500万人から700万人にしか適用されない恵まれた少数例に過ぎないといえる。その10倍以上の労働者は日本型雇用システムとは縁のない労働環境にある。

1) 命と健康を守る視点から労働時間規制

2009年3月過労死したマクドナルドの支店長の「名ばかり管理職」の残業手当を支給せよという判決が出て和解が成立した。使用者側のもくろみは管理職と称する事で労働時間の規制と残業代の支払いを免れることにある。労働基準法にいう「管理監督者」とは「事業経営の管理的立場のある者とこれと一体をなす者」というのであり、「名ばかり管理職」は経営とは縁遠い末端正規社員で,労働者はアルバイト店員ばかりという状態であった。しかしこの判決で残業時間という賃金問題の影に欠落しているのは、「過労死」という労働者の命と健康を守る労働時間規制問題であった。同じような使用者側の願望は、スタッフ管理職ばかりでなくもっと多くの労働者を残業代から除外したい事であった。政府の規制緩和・民活推進会議は2005年12月「ホワイトカラーエグゼンプション」という「裁量労働制で自由度の高い働き方」を提案し、ホワイトカラーの労働時間規制と残業代を適用除外したいという願望を露にした。いつもの事であるが政府(官僚)が英語の名前と美名の下で悪辣なこと(嘘)を覆い隠すのは常套手段である。英語ときれいごとが出てきたらご用心である。これに対して労働側は「労働時間規制がなければ過労死・過労自殺に拍車がかかることは明らかだ」として猛反対し、2008年12月これを廃案にした。

労働基準法では1日8時間労働制は、健康問題に言及せず「余暇を確保して文化生活を保障するため」という官僚作文となっている。そのため労使協定で(36協定)さえ結べば無制限に労働時間を延長できる。これを経営側は日本の経済を支えた制度で「日本人は働き者であるから、Japan as No1になれたのだ」と自画自賛する始末である。本音は半分の人間を2倍働かせることであらたな人間を雇用せずに済むというメリットを経営側はしっかり考えていたのだ。労働側も低い賃金ベースで給料を増やすには残業に期待するところが大であった。むしろ生活賃金に当然のことのように残業が組み込まれていた。過重労働に対する制限は労働基準法ではなく、労災補償や安全衛生の分野で行われてきた。裁判所の「脳・心臓疾患労災認定」は発症前1−6ヶ月にわたり月当たり45時間を越える残業時間、または発症1ヶ月間の残業100時間を業務と発症の相関が強いとした。また2005年「過重労働による健康障害防止」改正において、月あたり100時間を越える残業については医師の指導が義務付けられた。EUでは労働者の健康と安全の保護のため全労働時間の上限は週48時間とされている。日本では1990年代労働時間短縮の動きは法定労働時間を週48時間から40時間へ短縮されたが、残業時間規制は見送られた。短縮分が残業労働時間に移行したに過ぎないし、労働側も割増率35%を以って満足し、政労使の三者も労働時間を本質的には賃金問題にすり替え、命と健康問題がすっかり脱落したままであった。景気後退などによって雇用を縮小する必要がでる場合、整理解雇が当然スケジュールに上がってくる。その時人員削減の必要性、解雇回避努力義務、被解雇者選定の相当性、労働組合との協議の四要件が求められる。そして解雇回避努力義務のなかに配転・出向・残業時間の削減がある。正規労働者を裁判で争ってまでも解雇しないために、有期労働者、派遣労働者など非正規社員を抱えておく必要性が高い。日本型解雇の特徴は、整理解雇については労働組合との協議や裁判での係争など壁が高いが、個別解雇は経営側の裁量でおこなえるので比較的緩やかの事である。

2) 非正規労働者の派遣問題

2006年7月朝日新聞は「偽装請負追求」を始め、キャノン、松下電器産業の大量の派遣請負労働者を雇っている事を糾弾した。1947年の職業安定法によって「沖仲仕」などすべての労働供給業を禁止した。これは請負と称しても実態が労働者供給であれば禁止するということであった。ところが労働ビックバンの規制緩和の大合唱によって、労働派遣業が特殊業務(1985年)から原則自由な業務について認められる「労働者派遣法改正」(1999年)が行われ、ついに2003年には製造業を対象に含めて完結した。その派遣業者が請負を偽装したのである。労働者派遣とは「自己の雇用する労働者を、当該雇用関係の下に、他人の指揮命令を受けて、当該他人のために労働に従事させること」である。派遣には常用型派遣事業(殆どない)と登録型派遣事業(派遣されている間だけ派遣元が派遣労働者を雇用するタイプ)がある。登録型派遣事業とは使用者責任を派遣元が負ってくれるというサービスつきの職業紹介事業である。派遣先と派遣者の間に雇用関係はないとする「法的仮構」にすぎない。派遣先企業にとって、雇用関係はなく必要な部門に必要な労働者を入れ、実質的な指揮命令系統下におけて、不必要になればいつでも契約を解除(雇い止め)出来るという極めて便利でかつ安価な労働力として渇望された労働力需給システムであった。このシステムによって2008年秋からの世界金融大不況がもたらした景気縮小に「派遣」を切って労働需給に対応できたと言える。しわ寄せは全て弱者の若年派遣労働者であった。今回の偽装請負とは派遣事業者が実質存在しない請負業者に派遣労働者を派遣し、派遣先企業は請負業者と契約を結んで作業を委託するという虚構である。労働者への指揮命令は請負業者にあるはずが、派遣先企業が実質指揮命令をしているから偽装請負だというのだ。派遣法では労働安全衛生は派遣先企業にあると言いながら、保障責任を派遣事業会社に押し付けているのも虚構である。

2008年秋から年末にかけて大量の派遣切りが発生し、年末には住宅を追われて年を越せない派遣労働者のために日比谷公園に「派遣村」キャンプが急設された。2009年初頭から舛添大臣らは製造業派遣を見直すと約束したが、自民党政府ではなんら手を打っていない。昔から日本には有期労働(出稼ぎ、季節工、臨時工など)が多く、有期労働の雇い止めが殆ど規制なしに行えるのが現状である。本来雇う企業が存立する限り労働契約に有期はありえない、解雇規制を切り抜けるためわざと有期契約にしておき、必要なら更新を繰り返してイザという時には期間満了を装って実質的に解雇したいのが使用者側の論理である。今は派遣期間を3年から1年と縮小する案が出されているが、これは使用者側にとって現時点では不利には働かない。結局派遣法を原則廃案にするか、雇い止めの金銭解決制度の導入、非正規労働者の低賃金を改める賃金制度改革が必要である。派遣労働者の生活の不安定さは身分の不安定と同時に、生活できないほど低賃金に押し込められている事であル事からきている。非正規労働と低賃金のこの二つは車の両輪の関係で使用者側のメリットとなっているのである。

3) 賃金と社会保障の連環

2006年7月NHKが放映した「ワーキングプアー働いても働いても豊かになれない」は世間へのインパクトが大きかった。小泉政権時の「構造改革・規制緩和路線」の是正がにわかに社会的要求となった。非正規労働者は1990年代後半の就職氷河期によって大量に生み出されたのである。この世代の若者はもう中年期を迎えており、この世代が生活できないことが未婚となり少子化が加速した由縁である。少子化問題は「生めよ増やせよ」ということではなく、生活できる世の中の実現がなければどうにもならないのだ。日本の地域別最低賃金、産業別最低賃金は生活保護の給付水準を下回っていた。つまり健康で文化的な生活を営めない水準であった。2007年11月安倍内閣は改正最低賃金方を成立させたが、このねじれ現象を解消するには至っていない。戦後労働運動は生活できる賃金を目指しての闘争であった。1960年以降職能給と呼ばれる「人基準の賃金制度」(労働基準ではなく)が確立した。所得倍増の高度経済成長に支えられて、生活できる「生活給」を企業が支払えたので、政府はその費用を福祉対策に支出しなくて済んできた。企業が労働者の子育て、教育、住宅など福利厚生に及ぶ賃金をまかなった。これらが労働者の忠誠心の源泉となって企業のメリットに繋がった時代があった。その超過勤務の残業代を生活費の折込済みの長時間労働を常態化したデメリットも発生した。労働組合も残業時間規制に動き出したのはバブルがはじけた1990年代以降のことである。このころ使用者側は「成果主義」を打ち出し、あまり成果を伴わない長時間残業に対しては報酬を支払わないという「フレックス」(裁量制)を打ち出した。「同じ成果を出すなら労働時間は自由ですよ」という甘い言葉の裏には、ホワイトカラーの残業代を支払わないという趣旨が含まれていた。それは「ホワイトカラーエグゼンプション」にも繋がってゆく。労働量と成果に正比例関係があるのは単純労働のブルーカラーのみで、ホワイトカラーにはその関係は殆ど見られない。残業手当が基本給に比例するので、これらの制度は中高年の報酬低下に直接響いた。

労働行政では職能訓練を1957年「職業訓練法」に定めた。職業訓練には教育界は冷たく反応し、高校において工業科、商業科、美術工芸科、家政科などの専門学科を設けたが、大学では全く無視した。企業内で高校大学進学率が高くない時代に、養成工制度など教育訓練体制を整えて高度経済成長時代に対応した。科学技術が高度に専門化すると、高校も大学もその教育内容が企業にとって意味がなくなった。さらに2008年12月行政の減量化のため「雇用・能力開発機構」が廃止された。これまでの賃金には、生活給という子供の教育から住宅までの福利厚生が含まれていたが、企業が生活給制度を廃止するなら政府はその社会的コストを負担する必要がでてくるのは当然である。現実に日本型雇用システムにはいらない、家計を維持する非正規労働者が増えている以上は、彼らに家族の生計を維持できる収入を確保する必要がある。それには公的な給付である、「子供手当て」、「高校費用無料化」などの施策がなされなければならない。給料と福祉のトータルでセーフティネットが必要なのである。雇用保険(失業保険)は拠出型社会保険であるので給付日数には制限があり、また一定年月間納めないと給付されない。派遣切りを頻発されていたりすると2009年3月までは1年の雇用が必要であったのでハードルが高い(現在は6ヶ月以上の雇用と短縮されている)。1974年の雇用保険法では季節労働者と日雇い失業者に対しては失業給付の代わりに一時金が支給されるようになった。それにしても、多くの長期失業者や若年失業者が雇用保険制度と生活保護制度の狭間で無収入状態になっている。生活保護はすべての能力がない場合のみになっているので極めてハードルが高いし、再起のチャンスも自分で摘むことになりかねないモラルハザードにおちいる。登録型派遣事業というのは、失業保険をもらえる期間を最大化することによって、賃金コストを雇用保険財政に払わせるという企業行動を合理化している。実にあざとい行為ではないか。

4) 労働組合と産業民主主義

賃金や労働条件のあり方は労使が集団交渉できめるのが産業民主主義の基本原則である。労働者の代表は労働組合であるが、現在の労働組合はそのメンバーシップを正社員に限定し、非正規労働者は労働組合からも排除されている。対応としては、正社員労働組後は別にすべての非正規労働者が参加するあらたな企業レベルの労働組合組織を立ち上げて正社員労働組合との利害調整に当るか、または現在の企業別労働組合に正社員から非正規も含めたすべての参加する労働組合に改編してゆくかどちらかであろう。企業労働組合が少数派(管理職など)の労働条件をどう調整できるかが問題となる。現在の労働組合は過半数組合が職場の労働者利益代表である。サービス業のように非正規労働者の方が多い職場では正社員だけでは到底過半数組合になれない場合が出てくる。いまや企業労働組合の組織が存立の見直し時期にあるといえる。


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