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矢野絢也著 「黒い手帳−創価学会日本占領計画の全記録」

  講談社(2009年02月)

創価学会の公明党支配とその政治目的の全貌

矢野潤也氏は黒い手帳シリーズとして2冊の本を上刊されている。本書「黒い手帳−創価学会日本占領計画の全記録」講談社(2009年2月)と 「黒い手帳ー裁判全記録」講談社(2009年7月)である。「黒い手帳ー裁判全記録」は手帖奪取事件の経過と裁判記録を高裁判決勝訴(2009年3月27日)まで記したものであり、本書「黒い手帳−創価学会日本占領計画の全記録」より内容的には狭いが、時間的には新しい。したがって本書は手帳奪取事件については重複しているが、高裁判決結果は出ていない段階の書である。矢野氏は2005年5月の公明党OB3名による矢野宅における手帖奪取事件後、全面的に創価学会と争う事を決意され、矢野氏と家族は2008年5月創価学会を退会し全面的な訴訟に入ったのである。その意味で本書が元公明党委員長・顧問矢野潤也氏の創価学会との全面戦争の宣告書である。

創価学会というと日蓮宗の一派という認識しかなかったが、本書と最近の自公連立政権の動きから見ると、とんでもないカルト宗教団体の恐れがなきにしもあらずである。カルト宗教(フランスではセクトという)といえば、あのオーム真理教の暴挙を忘れない。怪しげな金儲け新興宗教ならよくある話だが、それが教祖個人崇拝から入信者の全生活と全財産を奪い、教団の金権体質が強化され、金の力でさまざまな施設や活動を行い、そして世直し教義のために政界に打って出ようとし、人材を集めて各権力部署への浸透をはかり(警察、自衛隊、医療、政治家への接近)、都合の悪いこと(訴訟など)がおきればもみ消しや相手を抹消する暴力行為(弁護士家族殺害、裁判官舎サリン散布)にでて、世の中を恐怖させるために無差別テロ(地下鉄サリン事件)をおこして自滅した宗教集団であった。程度の違いと規模の大きさこそあれ、創価学会のやっていることはオーム真理教のやったことをはるかに知能犯的に大規模にやっているに過ぎない。仏教というものには何かいかがわしい権力願望と癒着が付きまとう。奈良時代に始まった真言・天台密教も祈祷まじないのインチキ宗教であり、鎮護国家という国家乗っ取り計画の実行であった。それは見事に成功し貴族は頭が痛いといっては坊主の加持祈祷をうけ、荘園などを寄付して寺の財政的基盤を提供した。それが日本の闇という中世を形成したのだ。奈良時代には天皇までなろうとした坊主が輩出した。そして鎌倉時代になって宗教の対象が庶民の救済ということになって浄土真宗などの大衆宗教が誕生した。ところが日蓮という僧が鎌倉幕府という国家権力の乗っ取りを試みた。日蓮と日蓮正宗についておさらいをしておこう。日蓮も「カルト」だという人もいるのだから。

日蓮
日蓮

日蓮(にちれん)(1222年3月30日 - 1282年11月21日)は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。1222年安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生した。1240年に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至ったという。1260年に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。すなわち法華経の国法化を要求した。1261年幕府によって伊豆国伊東へ流罪となる(伊豆法難)。1271年平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ3年の流罪となる。赦免後、蒙古来襲の預言を幕府に求められる。1282年病を得て、常陸の国に療養に出かけるが、池上本門寺にて入寂する。

次に日蓮正宗のことをまとめておこう。日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派の1つ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、本迹勝劣などを教義とする富士門流(日興門流)に分類され、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山が所属する。宗祖の入滅後、六弟子の1人であった日興が七年間、久遠寺に居住した後、地頭南条時光の招きにより総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけた。日蓮正宗と正式に名乗るのは明治最初の頃で、それまでは日蓮宗興門派・日蓮本門宗という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。1900年(明治33年)に日蓮宗富士派と公称し、1912年(明治45年)に日蓮正宗と改称し現在に至る。教義の基本は、正しい本尊(本門戒壇之大御本尊)を信じて自行化他に題目を修行しさえするならば、どんな者でも必ず一生のうちに成仏できる、ということである。また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは「三大秘法の受持」の意である。よって信徒個人レベルにおける戒律の実践は、「一切の謗法を捨てること(=日蓮正宗以外の本尊を拝まないこと)」、「勤行唱題および弘教活動(=広宣流布)を実践すること」で十分だという。

日蓮正宗とその分派である創価学会の関係をまとめておこう。1930年に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させた教義を奉ずる教育団体として創価教育学会が設立され、初代会長には牧口が就任したが、日蓮正宗では信徒団体として認めなかった。太平洋戦争終結後、第2代会長に就任した戸田は、創価教育学会の名称を創価学会と改称し、以後、日蓮正宗も格段に発展することとなった。とりわけ、1960年の第3代会長池田大作(現・名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会信者の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長らく双方の間には蜜月状態が続いた。1970年代後期の昭和52年路線の教義逸脱問題を経て、1991年11月28日に、日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕の名前で創価学会を破門処分にした。しかし宗務院録事にも創価学会の組織結成を許可した事実が記載されていないため、日蓮正宗と創価学会は一致派日蓮宗と立正佼成会の関係と同じで、正規の信徒団体とはいえないとも指摘されている。一方、正信会、創価学会との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。1970年代以降「下からの近代化」を目指す動きの中で試行錯誤しながら教団体質の民主化を進めてきたのと対照的に、日蓮正宗は伝統的に管長一人に権力をより集中させており中央集権制を維持していることが挙げられる。創価学会は、1990年(平成2年。正式な破門は翌1991年)に日蓮正宗に破門されて以来、日蓮正宗からの攻撃に多くの時間と労力を費やしており、「仏敵を責めること」が重要であるという立場から、聖教新聞などの機関誌では連日のように日蓮正宗への誹謗中傷を繰り返しており、特に前法主日顕を含む高僧に対しては、とりわけ激しい中傷が繰り返されている。日蓮正宗も創価学会も戦闘的なことは教祖由来で、口での攻撃以外にも放火、暴力沙汰の訴訟が絶えない。外国での評価では、フランスでは、1980年代に「日蓮正宗(創価学会)」の名称でセクトとする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、1996年の新しい報告書において該当部分は創価学会インターナショナルフランス支部(SGIフランス)と書き改められており、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下しているが、一部の民間団体では創価学会と同様のセクトと主張する団体も存在する。 つまり創価学会も日蓮正宗もカルトセクトだという。1995年にフランス下院が「ギャール報告」の中で、創価学会インターナショナル「SGIフランス」をカルト集団に指定し、報告書の中でカルト集団かどうか判断する基準として次の10項目を挙げている。
@ 精神の不安定を与える
A 法外な金銭を要求する
B 従来の生活環境からの隔絶
C 肉体的損傷を与える
D 子供の勧誘および教化
E 反社会的な教え
F 公共秩序の撹乱
G 訴訟沙汰に持ち込み脅迫する 
H 不法労働や詐欺、脱税など逸脱した経済活動
I 公権力への浸透を企てる

創価学会は過去に何度も大きなターニングポイントを迎えたが、特筆すべきは次の3点である。第1は1970年の学会による言論出版妨害事件である。世間から大きな非難を浴び池田会長は謝罪して政経分離を誓約した。第二の曲がり角は1979年と1991年の2度にわたる日蓮正宗総本山大石山寺との紛争で、日蓮正宗から破門された。これによって創価学会は組織的にも自立せざるをえなくなり、寄付財務行為の強化と信徒拡大に狂奔することになった。そして第3の転換期は1994年の小選挙区比例代表並立制の施行であった。落ち目の自民党が確実な票田である創価学会票をが必要として、交換条件として政権を牛じることも可能となったことである。1999年自自公連立政権が誕生した。前の二つの転換点が宗教次元での転換点だとすれば、連立政権参画は政治次元での転換期であった。しかし2009年8月の衆議院選挙では自公政権は少数野党に転落する可能性もあり、第4の転換期を迎えようとしている。

本書を紹介するに当って、本書「黒い手帳−創価学会日本占領計画の全記録」と「黒い手帳ー裁判全記録」は重複する分が多い。重複を省くため本書の第1章から第3章を省略し、第4章から始めることにしたい。

池田独裁体制のカルト集団「創価学会」

2008年12月11日、民主党の石井副代表は講演会で公明党の政教一致を批判してこう語った。「公明党なんて政党は無い。あるのは創価学会である。党の人事から予算まで、全部後ろのカルト集団の命令下でやっている。・・・自民党は公明党の票で生き延びている。創価学会が政権を振り回してきている。」
創価学会のカルト性を検証してゆこう。まず「A 法外な金銭を要求する」である。
確かに昔は創価学会は金のかからない宗教の代表であった。戸田城聖二代会長は「お布施を出せというのは邪宗教である」と言っていた時代もあったのだ。創価学会が会員に狂ったように寄付を要求しだしたのは、池田第3代会長の時代に1979年に宗門から破門された時からである。2桁から3桁の「財務」(寄付)が要求された。信徒の生活を破綻させるに十分な額である。今の北朝鮮が北系在日朝鮮人に朝銀を通じて送金を要求するのに似ている。そうだ北朝鮮も創価学会も独裁者が支配する組織である。公明党の議員の場合かなり高額な議員党費を納入している。これをプレジデント献金(P献金)というらしい。議員が第1庶務室という池田秘書室に差し出すのである。そこから先の金の流れは分らない。宗教団体は非課税であり、税務署も査察できないのである。

つぎに「D 子供の勧誘および教化」についてである。宗教団体が教育機関つまり学校法人を作る例は多い。PL学園、天理大学、ミッション系は有名であるが、京都のお寺も宗派別に教育機関を持っている。花園、大谷、龍谷、仏教、光華、華頂など数多い。創価大学もそのひとつである。だから特別に非難するに値しない。問題はその中で行われている洗脳と池田崇拝教育である。池田氏の「御真影」を教室ごとに掲げているのは戦前の天皇制教育と同じである。

次に「G 訴訟沙汰に持ち込み脅迫する」についてである。創価学会の裁判沙汰の多さはもはや知れ渡っている。常時複数の裁判を抱えている。裁判を支えているのはやはり財源(寄付)の豊富さであり、顧問弁護団の存在である。訴訟を前提としている業界、保険業界、先物取引業界などと同じである。それほどきわどい橋を渡っていると考えられる。古くは宮本顕治共産党委員長宅の盗聴事件、「フォーラム21」編集長乙骨氏の携帯電話記録盗み出し事件と名誉毀損訴訟など、そして最近は矢野氏の手帖奪取事件にたいする矢野氏と講談社への名誉毀損訴訟である。

次に「I 公権力への浸透を企てる」については、矢野氏も「月刊ペン事件」で関与した。1976年池田氏の「女性スキャンダル」記事を掲載した「月刊ペン」を名誉毀損で訴え、異例の速さで月刊ペン社長隈部氏の逮捕をおこなった。名誉毀損訴訟で相手方の逮捕とは異例の処置であった。その裏に検察や警察への圧力があったのだ。矢野氏らは東京都議員を連れて、法務省、検察、警視庁に押しかけ綿密な打ち合わせをして圧力をかけたのである。当時東京都議会のキャステイングボードをにぎる公明党都議団の力を無視できなかったからだ。この「月刊ペン」事件にはとんでもないおまけまでついている。創価学会はこの名誉毀損裁判の裏で被告人と和解の交渉を行っていた。顧問弁護士山崎氏に3000万円を渡し、被告人には2000万円を届けた。名誉毀損で訴えておきながらなぜこんなことをするかといえば、公判で池田氏は法廷に呼ばれる可能性があるのでこれを避けたかったようだ。その時山崎顧問弁護士は学会から3億円を自分の会社に拠出させており、さらに2億円を要求して、1981年5億円の恐喝で逮捕された。創価学会は放送化、警察、官庁に学会員をくまなく浸透させている。学生を指導して就職や資格指導を行う「法学委員会」なる組織がある。ここが指導して「総体革命」の戦略を練っているのだ。各界に学会人脈を拡大し、公権力の中へ浸透を図っている事は確かである。

創価学会に支配される公明党

2008年9月国民新党の亀井静香氏は講演会でこう語った。「麻生政権は解散や国会招集日まで創価学会の言いなりだ。公明党は政教分離問題について矢野元公明党委員長の国会喚問をやめるなら国民新党に選挙票を廻すという取引を持ちかけてきた」という。公明党にすれば政教分離問題で池田名誉会長が喚問されることを最も嫌がるので、喚問阻止のためには常に国会多数派=与党側にいる必要があり、1999年より政権与党についてきた。公明党がいかに創価学会の支配を受けてきたかは、選挙候補者の決定は学会が専ら行っており、公明党側はリストを受け取るだけである事から残念ながら明確に分る。公明党の人事(代表、幹事長)も池田氏の意向で決定される。公明党議員は学会にはまるで頭が上がらない。選挙で当選すれば金銭を庶務室に納入し、池田氏に面罵され直立不動の姿勢をとらされた公明党幹部も多い。池田氏に叱られるたびに「お詫びと決意の書」を提出する。世にいう「始末書」である。公明党議員はいわば池田氏の奴僕の如く振舞ってしまうのである。これが宗教団体なのである。「信心がない」といわれればひれ伏して侘びを乞うのだ。公明党議員=学会員の行動原理は、宗教の価値観によって形作られている。創価学会の会則では、池田氏は「永遠の指導者」と規定されているのだから。政党は常に相対的価値観で行動するのだが、宗教的な絶対的価値観とぶつかった場合どうしても絶対的価値のほうに振れざるをえない。学会本部と池田氏の私邸がある新宿信濃町近辺は「静穏地区」に指定されている。つまり国会周辺と同じように右翼街宣車や政党宣伝車が拡声器で怒鳴ることが出来ない地域である。これは1988年の竹下内閣の税制価格法案に審議拒否と引き換えに公明党が勝ち取った指定である。矢野氏がこの静穏保持法改正を取引にしたのであった。1970年の言論出版妨害事件で池田会長は公明党の政教分離を宣言したはずなのに、形だけのことだったのである。創価学会は公明党の中に秘書会、職員会という創価学会組織を組織して議員の監視を行っている。議員や公明党を雇用者とすれば、秘書会、職員会は横の組織で組合みたいな圧力団体となる。その組織の指導原理が創価学会なのである。

宗教政治の罪悪

戦後創価学会の復興を行ったのは第二代会長戸田城聖氏であった。経営手腕に優れた指導者で現世利益をといては組織拡大に努めた。創価学会が政治活動を始めたのは、1954年学会に文化部が創設され「仏法を根底にした文化国家建設を目的に、政治経済文化教育などあらゆる分野での活動を推進する」と宣言したことに始まる。そもそも日蓮宗は「立正安国」の教義に見られるように、政界進出と国教化を目指す集団なのであった。鎌倉時代北条執権家はこれを嫌い日蓮を政治に近づけなかった。創価学会は1955年4月の統一地方選挙で初戦を飾ったが、当初政党化は念頭に無く、政治の姿勢を正すチェック役に徹するつもりであった。池田第3代会長は枠をはずして、1961年「公明政治連盟」を設立した。そして1964年公明党が結成された。公明党の指導原理は日蓮上人の哲理「王仏冥合論」である。「政治と個人の幸福とは一致しなければならない」という至極もっともそうなスローガンである。政治に対して「国立戒壇」の建立を目的とするのが日蓮の至上命令であるというのである。恐ろしい国教化宣言である。日蓮色に国を染め上げるという。幸い1970年の言論出版妨害事件がきっかけになって、政教分離が宣言され、1972年の大石寺の正本堂の建立をもって国立戒壇が建立されたとする解釈に変更された。ところが公明党竹入委員長も知らないところで、1974年10月松本清張氏の仲介で創価学会と共産党の相互不可侵友好同盟「創共協定」が結ばれ、公明党の方針であった「社公民による中道路線」はピンチに落ちいった。そこで矢野氏らの工作で「創共協定」を単なる文化協定程度に骨抜きにし、社会党の江田氏、民社党の佐々木良作氏と公明党の矢野氏で「新しい日本を作る会」を結成し、社公民連合政権構想の第1歩を踏み出したという。

池田名誉会長の野望

「天下を取る」、「創価王国を作る」という池田名誉会長の政治的野望は、自公政権の成立以来10年でようやく実現しつつあるようだ。公明党だけでは国会議員の数は限界があり単独政権は望むべくも無いが、学会の組織票を餌に自民党を自在に操る実力を付けつつある。2008年の自民党の「福田おろし」には公明党の動きは無視できなかった。民主党小沢氏との「大連立構想」に失敗した福田首相に対して、公明党は連立離脱をほのめかす発言を繰り返して揺さぶりをかけ、国会会期と招致日をめぐって自民党に圧力をかけ、招致日を9月12日、会期75日、首相所信表明演説を9月29日とするという横槍を入れた。これは公明党政教分離問題にかんする矢野喚問を避けるためできるだけ会期を少なくする方針であった。この公明党の無理難題が福田氏の突然の辞任の引き金になったと言われている。麻生首相に対しても、公明党は国会より都議会を重視する戦術より、7月の都議選はどうしても避け、衆議院早期解散を要求した。結局麻生首相は「ぐずぐず太郎」と言われるように何事も決断できないたちなので、衆議院解散を7月21日、選挙告示8月12日、投票日8月30日と逆に後ろへもって行った。創価学会は都政に重要な位置を占めていた。亀井静香氏がいみじくも「自民党の支持母体はいまや創価学会だ」と指摘した。旧来の支援団体が弱体化している自民党は依然にもまして学会票を当てにしている。小選挙区は自民党、比例区は公明党という相互依存関係を築いてきた。「学会票は麻薬だ」といわれながらも、自民党はかなり創価学会依存症になっている。自民党候補が基礎票を減らす要因は幾つかあるが、選挙戦が楽になるという誘惑に勝てず、公明党の政策に大幅譲歩して(2009年不況対策の給付金など)、自民党本来の支持層の反発を買い、ますます学会票に依存するという悪循環スパイラルに陥った。2009年夏の衆議院選挙は政権交代が確実視される中で、政治的関心が深まって投票率が増えると、従来の組織票では足らなくなって自民党はますます苦しくなる。これを浮動票(都会票)といえば野党はこれの恩恵を受けることは当然である。そうすると公明党の中でも「民主党との連立」が噂されるようになった。創価学会も公明党も政権喪失恐怖症候群に侵されている。結局自民党は創価学会や公明党に捨てられる公算が高い。

元公明党古参議員らが明らかにしたが、1975年ごろ創価学会による合法的な日本占領計画が練り上げられたという。三段階による政権奪取プログラムである。園筋書きは以下である。
第1段階:自民党との連合政権(1980年ごろ)
第2段階:大臣ポストを3つ取る(法務、厚生、文部)
第3段階:総理大臣ポストをとって政権を掌握する
1980年代は矢野氏らが目指した公明党の戦略「中道革新連合政権構想」は、池田氏からすると政権を奪取する過程にすぎず、「国民向けポーズ」であって、池田氏の連立構想は最初から自公連立であったらしい。1994年9月14日池田氏は新聞記者と懇談会を開いた席で「もともと私の理想は自公政権です。中道はポーズに過ぎません」と公言した。それを「フォーカス」がすっぱ抜いた。池田氏の口癖は「最後の敵は共産党だ」であった。自衛隊に勢力を伸ばしている創価学会青年部のクーデター計画も漫画であれいいが、オーム真理教の暴発もあり「日本ハイジャック」は決して無視はできない。近年池田氏は息子を創価学会最高ポストにつけ世襲制を狙っているという噂もあり、北朝鮮のキムジョンイル王朝ばかりを笑っていられない。


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